午後、現代文化学部の学部企画、というのは分かりやすく言うと、「任意参加の遠足」。雨が心配されていたのだが、嬉しいことに非常に天気がよかった。
まずスクールバスで大学から川越市立博物館へ。指導主事の人が説明してくれる。なかなかよい。元々教員で話し慣れしているためか、それとも生まれ持った資質か、それとも両方か。自分の言いたいことをいうだけでなく、学生が小声で言う「〜じゃない」みたいなのにもタイミングよく反応していたり。
博物館を出ると道をはさんですぐ横に高校がある。そこであからさまに挙動不審になるぼく。一人で道をわたって、中のテニスコートやその向こうに見えるグランドの方を覗き込む。目ざとく見つけた右院きょ〜ぢゅ(仮名)が、「母校?」。はいそうです。ちなみに男子校なので、覗き行為が問題になることは多分ないと思う。
川越城の本丸跡が、今、本丸御殿あと(展示あり)として残っている。その近くに初雁球場と川越高校と市立博物館がある。本丸御殿あとは昔から知っていたが、市立博物館は新しくて、高校時代には見た記憶がなかった。「いつできたんだろう、その前は何があったんだっけ?」という疑問は説明を聞いて氷解。できたのは10年前。そうそう昔は市営グランドだった。
その後、まっすぐ「札の辻」まで歩く。ここは城の入り口みたいなものだったところ。「札」は「高札」のことで、要するに掲示板。ここは、武家と商家のインターフェースでもあるところで、つまり例の蔵造りの町並みの起点でもある。
まっすぐ札の辻まで来てしまったということは、「時の鐘」を見なかったということ。先頭を歩いていたきょ〜ぢゅは川越に詳しい人だったので何も考えずに後をついていってしまったのだが、札の辻まできた時点で「時の鐘、見なかったなあ」とおっしゃる。ぼくはやっぱり、「あっちの道から行って、時の鐘見ませんか」というべき立場だったのかしら。
本日の企画者のお目当ては蔵造りそれ自体ではなくて、そのちょっと裏の菓子屋横丁という、お菓子屋さんが並んでいるところ。マスコミに取り上げられることもあるらしい。芋ソフトクリームなど食う。
ずっとここにいても面白くないなあと思った私は、「時の鐘見に行きませんか」と声をかける。学生教員合わせて数人で、行く。「いもコーヒーも飲まなきゃいけないし、だから…」とか何とかいっていた海老原ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)が、ふと気づくと一緒に来ていた。なんのこっちゃ。
時の鐘は、今でも一日4回、時を告げている。ただし電動。博物館の指導主事さんが「電動ですけど」と言ったときに一部学生から笑いが漏れたが、そのあとの「でも鐘当番だから行きなさいと言われて行きますか? 大変なんですよ」という言葉に納得していたっけ。どういう音がするかについては、ぼくは忘れました。10何年聞いてないはず。
時の鐘の奥の「薬師神社」というのを見て、宗教学の教員が激怒、というか呆れていた。どうして薬師如来をまつったところが神社になるのだ、と。もちろん明治の廃仏棄釈対策だったのだが。
その後、菓子屋横丁に戻る。お土産を買わなければいけない人がいたのだ。
蔵造りの町並み。ぼくらの高校時代には「観光スポット」という認識はなかったような気がする。古い町並みだということは認識していたけど。人が暮らしていて、生活を営んでいるところ、という認識。大体あの当時は電柱がちゃんと(?)地上にあって電線が空に架かっていた。ぼくが高校を出て何年か経った頃に電線を地下に埋める工事をしたのだった。積極的な観光路線に転じたのはいつだったっけ。川越市長が変わったのはいつだったかなあ。
蔵造りというのは、耐火構造。明治時代の大火であの辺一帯は焼けてしまったのだが、一部に焼け残った建物があった。それが蔵造り。それを周りの家の人々が一斉に真似たので、蔵造り一色の町並みになったわけ。一軒作るのに大工と壁塗りと鳶の職人を専属状態で雇って3年かかったという話。
蔵造りにも問題があって、一つは、今の時代にああいう家に住んでああいう建物で商売をするのはしんどいということ。もう一つは、メンテナンス。職人さんいないし。
その後、学生と教員とでいもビールといも釜飯の店に行く。「since 1996」だそうだ。つまり、新しい。あのビールはぼくの口には合わない。グラス一杯のみ切れなかった。
その後、学生たちと駅まで歩く。といっても先日書いたように、駅といっても一つではない。教員のほとんどは西武の本川越に行ったのだが、学生の中にはJRの川越まで行きたいけど道が分からない、という人がいる。ということで、本川越から川越まで案内する。といっても大したことはなくて、信号一つわたって小さい道に入って突き当たりを右に曲がってあとはひたすらまあ〜〜〜〜っすぐ歩くだけ。でもいちおう駅までついて行きました。池袋まで埼京線で行きたいという学生には、東武東上線をすすめる。
まあまあの気分で帰宅して、疲れてたので2時間くらい寝て、22時半に起きてテレビをつけたら大変なことになっていた。げろげろ。
理系日記の記述は参考になるけど、でもパニックも恐い、とか思ったり。
内閣改造を断念した人、他には何かしたか、とか思ったり。こういう時に存在感あると一気に評価が変わるのに、とか思ったり。
10年くらい前、ある人がこんなことを言っていた。
「このまま化石燃料を燃やし続けるわけにはいかないから、生活レベルを昔に戻したくなければ、原子力は推進するしかない」
当時のぼくはこれに対して内心感情的に反発したが、でも有効な反論はできなかった。
今回のことで「やっぱり原子力は嫌」と思ったが、でも化石燃料に戻ればいいということでもないだろうし。う〜む。
核反応を起こさせて核廃棄物を人工的に無害にするためのハイパワーな加速器を開発する、というプロジェクトがどこかにあるらしい。でもそのプロジェクトは今年度いっぱいで打ち切りなのだそうだ。
とりあえず一人でした。
もう一人というのは、台拭きでは顔を拭かない会関連組織(?)のメンバー? あるいはその周辺のひと?
誰やらさん
「本多君、ウツって漢字で書ける?」
わたし
「もちろん書けますよ、「打つ」」
誰やらさん
「違うよヨクウツのウツだよ」
わたし
「だから「よく打つ」で…あれ、違うか、これぢゃ漢字よりひらがなの方が多いや」
疲れてる。
いもむしを踏みに行ったら「7999」でした。「え!」と思ってリロードしたら「8001」。今1999/9/28 14:56。あまりにむかついたので投票をくらわしてやりました。
某駅近くの某書店が消えてしまった。「移転のため閉店」とあるが移転先は書いてなくて、かわりに本店の電話番号が書いてある。要するに、撤退なのだな。
ぼくの高校時代には専門書もたくさん置いてある堅い書店だったのだが、やがてその専門書のスペースはマンガとゲーム本と学習参考書に占拠されるようになり、さらに駅周辺の再開発後すっかり影が薄くなってしまって、密かに心配していたら、この結果。
今よりはるかにたくさん本を読んでいた高校時代によく行っていた店だけに、寂しい。
その店と同じ市内の別の駅のそばにあった、こちらもぼくの高校時代いい書店として定評があった別の某書店も、そちらの駅の周辺の再開発のときに消えたのだった。
再開発が終わった後あの辺を歩いてみて、その書店がなくなっていることを知ったときはショックだった。もう一度往復して「ない」ということを確認したほどだった。
今の書店は、昔の書店に較べると、店内がずいぶんとゆったりしている。言い替えると、昔の書店は店の中に本がたくさんあった。先に消滅した上記「別の某書店」なんて、通路に人がいると後ろを通りぬけるのも一苦労という感じだった。
ああいう書店は、もうやっていけないのだろうな。
敗北主義? 現実主義?
情報は、予想通りの経路を経て目標まで到達した模様。
それにしても、あのサイトはあんな思いをしてまで紹介する価値があるところだとも思えないのだが。まあ、すでにリンクはしないことにしたようだけど。
なんて今日はこんなにたくさん書いてしまったのだろう。そもそも今日は書くつもりすらなかったのに。
スキキライで語ってしまうぼくは、一体何を気にしているんだろうか。それをこの場で気にすることに、本当に意味があるのだろうか。(少なくとも最後の結論のところでは)イイワルイではなくてスキキライの方に話の仕方をもっていくことは、「気にしていること」を達成する上で本当に効果があるのか。かりに効果が出ているとして、でもその効果を相殺して余りあることをあわせてやってはいないか。
自分でも実はよく分かっていない。
今1999/9/28 1:57、「7926」踏みました。「8000を踏んだ人は朝起きると顔が緑と白のまだら模様」だそうなのだが、何十回もリロード繰り返すのも下品だし、かといって明日まで待ってたら8050くらいはいっちゃいそうだし。ということで、「まだら模様」は諦めた方がいいかも。
本務校秋学期初授業。顔と名前が一致しているひとびととの濃いめの日々の始まり。
朝一から続けて三コマ。本当は行きの電車で眠れるといいのだが、乗り換えが多くて落ち着けないのと気が張ってるのとでほとんど眠れない。休み明けは結構しんどい。
某学生の置き手紙。悲しい知らせ。
こちらともつながるが、授業中ないし授業の後に「説明に納得が行かないんですが」といわれると嬉しい。納得行かないところを言葉で表現してもらうところからソクラテス風の対話法が始まる、と言っていいのかどうか分からないが(←結論出すのを回避するぼく)。
「納得行かない」と言われた場合、こちらの説明に本質的な欠陥があることはほとんどない。学生の言ってくれたことに応えていくと、それはそれまでの説明を踏まえた上で更に深く進んでいく、という形になるのが普通(特に外国語科目としての英語の場合)。こういうのは結構楽しい。
また、学生の方で別解をもっている場合もある。その別解にその学生は自信をもっているのだけれども、ぼくの説明ではその別解が正しいかどうかが分からない、という場合。その場合は、その別解に即した形で説明をする。
振動型のケイタイを使ってる人は注意しましょう。たまに、ケイタイの振動音が響いておならの音のように聞こえることがあります。「くだらん」と思われるかもしれませんが、実際そうなってみると、けっこう恥ずかしいです。
新しくできたメディアセンターに行く。図書館と視聴覚センターと情報科学センターを統合したもの。
某書類を運ぶのがぼくの仕事。行った先で、某事務職員とひと波乱。てゆうかいぢめられる。てゆうかぢゃれあう。
事務局と某教員との間でコウモリ状態のぼく。どちらの気持ちもそれなりに分かる。ただ、その職員とその教員とで事実認識が全然逆というのが気になるなあ。
不明編でした。全然大した話じゃないんだけど、一応不明化処理しました。
寄り道して(あれは寄り道なのか?)帰宅は22時半。疲れた。
非常勤、後期初授業。非常に疲れた。
自宅最寄り駅の前でタクシーに乗って、5つめの駅の名前を言って運転手さんにいぶかられる私。いくらぼくが変わっているからと言って、好きでそんなことするほどおかしくはないつもり。電車動かないんだもん。タクシー降りたところからいつもとは別の路線で行く。一月分の交通費使い果たした。
というわけで、授業開始一時間前につくはずだったのが、10分遅れで荷物もったまま教室へ。昼食も抜き。しんど。汗拭き拭き喋る。
今日は前期試験の解説と前期のやり残しのところ。試験の解説は問題を持って来てない人のためにコピー配るつもりだったのだが、そんな時間はなし。終了の鐘が鳴るのと同時に内容的にも区切りのよいところにきた。奇跡。
次回からは新しいところで、テキスト論。それが終わったら会話の話。それが終わったらアスペクトの話(正確には進行と完了と受動の話…ヴォイスもからむ)。内容は、このページでちょろちょろ書いてきた通り。
書店によっていろいろ買い込む。帰りの電車は某氏にすすめられた西垣通『こころの情報学』を読みながら。最初の方は
「文章が分かりづらい。この人に添削をお願いした方がいいのではないか」
とか思いながら読んでいたが、途中から面白くなる。まだ読み終わってないけど。
認知というものをまともに考えるには、人間みてるだけでは不十分なのだ。
言語→(人間の(大人の))認知→人間以外 と、とめどなく拡散していく私。
はい、わかってます。「言語だけでもちゃんと見るのは大変」「大人の人間だけでも、ちゃんと見るのは大変」どちらもその通り。
「拡散して、どんどん薄まって、最後には自分独自のものが何もなくなってしまうかも」という可能性も分かってます。「これだけは誰にも負けない、というのを一つ見つけなさい」って最初の指導教官にも言われたし。
でも、けんきう生活では、何がどこでどういう形で役に立つか分からないから、自分の関心を狭めるようなことはしたくないのです。
自分の著作物の断りなしでの複写/再配布(など?)を積極的に許可する、ってやつ。
ただし、これは著作権を放棄することではなくて、著作権の行使の仕方の一つ。
自分が権利を持っていないものに関しては、「自由に使っていいよ」という権利さえないわけだから。
著作権と著作者人格権の話は、いつかそのうち、気が向いたら。
「書く気になったら」ではなくて、「調べる気になったら」ということ。
運命の人の氏名: T . D
運命の人の性別: 男性
運命の人の年齢: 34歳
運命の人の住所: 愛知県あたりに住んでいます.
運命の人の職業: 自称会社役員
あなたとの関係 ★ずばり,あなたの妻になる人です.
近況: ★現在,あなたのような人間を理想の相手と思いながら生活しています
ちょっと待って。ぼくは男性なのですが(ちゃんと「男」をチェックした)、ぼくって男性と結婚する運命なのかしら。「自称会社役員」ってのも、ほとんど結婚詐欺の世界だ。
いくらジョークだからって…ショック。この結果は受けとめられません。
よかった(と、ひとことで済ますぼく)。
Web日記書きの人々の(自発的に書いた)感想文も、よかった。
いいドラマにいい感想文。
やたら生徒に読書感想文書かせようとする小学校の教師の気持ちが、ちょっと分かった気がした。(←何でこういう話になるかな?)
少しずつ書いてはいたんだけど、アップロードしようという気にならなかった。アップロードしなくても生きていけるということを発見。
お約束のひとこと:同じ「認知」でも、国際認知科学会に較べたら、ずっと聞き取りやすい発表ばかりだった。
19日夜。家に帰ってちょっと休んでマイニッキエンジンにアクセス。未読の量の多さに疲労感を感じる。それぞれの日記を読んでいても、非常に疲れる。何でこんなに疲れるんだ。
結局、ただ単に疲れて帰って来た、というだけの話。今回のフォーラムは予想以上に疲れた感じがする。
うちの近くの店の場合、ぼくが見たかぎりでは、この時間はいつも店主が一人で店番をしている。バイトの確保ができないのか、採算の問題か。いずれにせよ、大変な仕事だ。
この前買い物をしたら、「毎度」とか言われてしまった。顔を覚えられているらしい。
やっぱりいろいろな人がいる。感じの悪い人の店には行きたくないぞ、とか思ってしまうのだが、そういう人の店に限って(←おっとくりしんはどこ行った?)駅とか郵便局とかの近くの便利なところにあったりする。
うちの近くの人の店は、わりといい感じ。
全体的に緊張感がなさ過ぎたかも。
最後まで喋れなかったのは予想通り。茂呂氏がらみの話と西阪氏がらみの話をすっ飛ばせば最後までいけたのだろうけど、でもそれじゃやる意味ないし。
質問、というかコメントは一件。どうもありがとうございました。
ほかの「認知言語学者」(←括弧つき)によってすでに有効性が確認されている概念を持ってきてそれを新たな言語現象に「応用する」という仕事ももちろん必要。
でも、今まで「認知言語学者」(←括弧つき)が誰も注目してこなかった概念を唐突に持ってきて、それが言語の分析に有効なのだよと言いくるめることを目標とするような、サギまがいのあやしげな仕事が、ぼくは好き。LakoffとかTalmyとかLangackerとかはそういうことをやってきたわけで、それを日本にいるぼくらがやっていけないことはない。
うまく行けばもうけもの。うまく行かなかったときは笑ってごまかしてもいいのだけれども、でも「これはうまく行かない」というのも一つの発見。「なぜうまく行かないのか」を考えるのもいいかも。
ただし、うまく行ってると自分で思える場合でもそれをちゃんと人に説明できるようにするのは大変。「誰やらさんが言ってるから」という感じでえらい人の名前を出してはいおしまい、とは行かないから。「一人よがりではない」ということを自分の力で示さなければならない。
他の学問から独自に導入したことが認められるかどうかは、説明する側の資質だけでなく、説明を聞く側の資質も関わってくる。
最初聞いたときには「なんだこんなもの」という態度だった人が、どこかのえらい先生が評価しているということを聞きつけてころっと態度を変える、ということもある。
だから、だれに聞いてもらうかも、実は重要かも。ほんとは重要であってほしくないんだけど、仕方ない。
認知言語学(←括弧なし)というものの性格上、言語学以外の人が参加してくれないと、魅力のある学会にはならないと思う。
あるいは、認知科学会とか心理学関係の学会に入っている人は会費割引するとかしてくれると、個人的にはとっても嬉しい。絶対無理な提案だけど。
こちらが大変参考になります。
今日のアップロードはこれを紹介するためといっても過言ではありません。
あ、それ、読みました。
9/14分を書いたときにも当然そのことは覚えて
(じたばたじたばた)
いなくて、すっかり忘却のかなた。う〜ん。
でも、他人を馬鹿にすることで自尊心を保とうとする姿勢って、やっぱり嫌いです。
繰り返しになるけど、自分のやりたいことをやってて気がついたら少数派になってしまったという人が、人から認められない辛さに堪えて精神の平衡を保つために少数派であることにプライドを感じようとするのなら構わないのだけれども、少数派でなければ駄目、と思い、少数派になることを目標として行動し、多数派の人を「あいつらは多数派だから駄目だ」みたいに思うのは、嫌い。
自分自身にそういう面があるということも含めて、嫌いなものは嫌い。
ぼくが「○○は嫌い」という場合、それは「○○は悪い!」とか「○○はだめ!」とかと言ってるわけではありません。もちろん「○○は素晴らしい/いい!」と言ってるわけでもないのだけれど。
ぼくの頭の中では、「好き/嫌い」と「いい/悪い」は全然別のものです。「いいと思うし、好きだとも思う」「いいと思うけど、嫌い」「いいとは思わない(悪いと思う)けど、好き」「いいとは思わない(悪いと思う)し、嫌いでもある」の4パターンが全部ある。たとえば阪神タイガースなんて、いい球団かどうかは分からないけど、でも好き。
ほいでもって、「好き/嫌い」というのは純粋にぼくの個人的な感じ方の問題です。世の中にはいろんな人がいてそれぞれいろんな感じ方をする。だから、ぼくが好きなものを別の誰かさんは嫌いかもしれないし、誰やらさんが好きなものをぼくがどうしても好きになれないかもしれない。ぼくとその人が共通に好きなものもあるかもしれないけど、共通に嫌いなものもあるかもしれない。
それに較べると、「いい/悪い」はもうちょっと公共性のある概念だと思っています。
ぼくが「○○は嫌い」というときには、そのような認識がつねに背後にあります。ぼくが「○○は嫌い」というのをみて、
「こいつは自分の主観的な感じ方をもとに世の中のことを判断しようとしている」
と思われる方もいらっしゃるかもしれません。その解釈があたっているかどうか、ぼく自身は当事者なので客観的な評価はできませんが、でも少なくともぼく自身の自覚というか意図としては、それは当たっていない。「嫌い」という言葉に込めた(つもりでいる)ぼく自身のメッセージは
「これはあくまでもぼくの個人的な感じ方に過ぎません。世の中にいるいろいろな人はそれぞれいろいろな感じ方をしているはずだし、これを読んだあなたも、ぼくと同じ感じ方をする必要はないんですよ」
ということなのです。
だから、ぼく自身の感じ方としては、「いい/悪い」という形で評価を述べるよりも「好き/嫌い」という言葉づかいをする方が、「決め付け」の度合いが低くなるのではないか、と思っています。
だから、「嫌いなものは嫌い」と平気で書いちゃうわけです。「いい悪いは別だし」とか「ぼくにはぼくの感じ方があるように、あなたにはあなたの感じ方があるんだし」あるいは「あなたにあなたの感じ方があるように、ぼくにはぼくの感じ方があるのよ」とかいうことで。
ずっと昔から考えていて、いつかこの「雑記」(「新」がつかない時代から)にも書こうと思っていて、あるいはひょっとしてすでに書いたかもしれない、と思ってさっきgrepかけてみたら、直接その話をした部分は見つかりませんでした。一番これに近いかなと思ったのは野村監督の話のところで、でもこれも直接その話を扱ったものではない。
もっと別の脈絡で書いておくべきだったな。
そうですね、なれるものなら(←後半は余計)。
実はぼく、ものを食べながら舌を噛むくせがあります。特に低血糖ぎみで運動神経がおかしくなってるときによくやります。思いっきり ぶすっ! と歯を突き刺して、出血することもあります。その成果、それとも単なる心成しか、舌の先端が割れているような気がするのです。
ちょっと気持ち悪いお話でごめんなさいでした。何でこんな話したか、もう、お分かりでしょうか。6000匹目のいもむし踏んでしまいました。1999/9/14 2:29のちょっと前の話。あそこには、とても冗談とは思えないことが書いてあります。こわいです。
「運が巡ってきたときに、実力が無いと運をつかむことは出来ない。」(六甲日件録: 9/13)
1999/10/19 22:30 追記
えっと、こちらです。
1999/12/19 23:57追記
えっと、これ↑も消滅してます。
かがたけし先生のどんでん返しは予想通り。なのだが、彼の流儀が本当に「見所のあるやつは厳しくしごくべし」だったとしたら、なぜそういう噂が出なかったんだろう。「わきさか教授は本当は君のことを高く評価してるんだよ」と中谷みきに言う人っていたかしら? いなかったとしたら、わきさか教授はやっぱり中谷のことが嫌いだったに違いない。あるいは、外科医としての中谷の腕を妬んでいたとか。やがては自分の地位を脅かすのではないかと。それではなぜ最後に彼女を助けた? 自分の命を助けてほしいから。深いですなあ。深すぎ。
裁判が真実をねじまげたって? 日本の刑事裁判は事実主義ではなくて手続き主義のはず。つまり、事実だか真実だか分からんが、とにかくそれ自体を明らかにすることは出来ない、だから適正な手続きを経て法廷に持ち込まれたものだけを根拠に判断する、ということじゃないかしらん。少なくとも建て前はね。
(実際にそれがうまく機能しているかどうかは別。日本の刑事裁判の有罪率は99.99%でしたっけ? 諸外国と較べると異様に高い。その数字を現代文化のひと(供述分析やってる心理学者)が英国だかの学会発表で言ったら、「え〜!?」という驚きの声が上がったとか。)
ちなみに『女医』でぼくらに「事実」として提示されたのは、実はほとんどが中谷みきが拘置所で弁護士に語ったことだったはず。つまり、あれはほとんどすべて、中谷みきの立場からみた事実。まあ金子賢と大路恵美にとっても事実なんだろうけど、でも検察官とか若い奥さんとかにとっての事実じゃないわけだ。「若い奥さん/検察官にとっての事実」よりも「中谷/大路/金子にとっての事実」をぼくらが優先させてしまうのはシェルダン先生の意図には適っているんだろうけど、う〜ん、現実社会での人間関係のトラブルとかの場合には、一方の当事者だけの話を聞いてそれをうのみにするのは問題おおありだよね。
旅行代理店のおぢさん、滑稽なまでに真実を歪曲してしまった例として挙げられてたけど、あれはあれで結構おもしろかった。行動のもつ意味が、当事者の意図のみによって決まるわけではないということ。置かれた文脈によって変わりうるということ。これ、言語行動も同じで、それを研究するのが語用論という分野。
あと、「安楽死だから違法性がソキャク(?)される」って主張。相当でかい問題だと思う。最高裁レベルの問題だと思う。だから中谷みきが現場復帰するまでには、実は相当長い時間がかかったに違いない。それから「殺人」「保険金殺人」「安楽死」ということばは出て来たけど、「嘱託殺人」「自殺幇助」は出てこなかったような。関係ないのかな。
いつまでもこういう感じで続けてると仲村トオルに「邪道だぁ!」とか言われて缶コーヒーをぶっかけられそうな気がするので、この辺でやめます。
「見所のあるやつは厳しくしごくべし」と「虐待の連鎖」と、なんか似てるような気がする。
実質は全然変わってないけど、一応最終版ということにします。
次のようなファイル群は、いくつの「サイト」を構成することになるのでしょう。
<html><head></head><body></body></html>要するに空白。(あるいは、どこかとんでもないところに飛ばしてしまうようにしてもいい。)
そして:
さて、ここにはいくつの「サイト」がある?
次のようなファイルを付け加えちゃったりして。
そして:
さて、index.htmlからの一連のファイルと合わせると、いくつの「サイト」がある?
「ホームページ」とか「ウェブページ」とか「ウェブサイト」とか「サイト」とかの用語の使い方をめぐってほえている人をみると、ついついこんな↑ふうに茶化してみたくなる私。やな奴です。
以上のファイルは実在しません。あしからず。
この人、音楽以外のことがらでもいつも同じ姿勢でいるのかな。それとも、音楽は特別なのかな。ま、特別であってもぜんぜん構わないわけだけれども。
ちなみに、引用された人の日記の他の日の分は、読んでません。
音楽に限らない一般論として。
世間で流行っているものを、流行っているものだから、という理由だけで拒絶する姿勢は、好きではない。なんか、流行っているものだから聞く/見る/読む/やる/…というのと、姿勢としてはあまり変わらない気がする。いちおう180度違う姿勢ではあるんだろうだけど、でも180度違うってことは同一線上にあるってことでもあるし(←メタファーで遊ぶ私)。結局、その曲/…に対する自分の姿勢の取り方を、その曲/…それ自体以外のものによって決めようとしている、ということでは同じなのだ。
でもこれだけじゃ「世間で流行っているものを、流行っているものだから、という理由だけで拒絶する姿勢」を嫌う理由になってないなあ。というか、ぼく自身の理由を述べたことになってない。ぼくがそういう姿勢を嫌う本当の理由は、その背後にエリート意識が見え隠れしているような気がすることと関係あると思う。
少数派であることにプライドを感じる、ヘンクツであることに自己陶酔する、世間の価値判断に合わない自分にかっこ良さを感じる、…そういうのが、好きになれないのだ。
(ぼく自身にそういう面があるだけに、余計に嫌いになるんでしょうね。)
やりたいようにやってたら自然に少数派/ヘンクツ/世間の価値観に合わない/…になっちゃった、というのだったらまだいいのだけれども、「少数派になることを目的として行動する」「少数派でなければ駄目だと思う」というのは嫌い。それは(繰り返しになるけど)対象の良し悪し以外のところで自分の姿勢を決める発想で、しかも「自分はあいつらとは違う」という類いのエリート意識とつながっているから。それは本末転倒。で、「個性」「主体性」を主張する人のすべてがこういう本末転倒な人たちばかりだとはいわないけれども、でもこういう形で本末転倒に走るのは、わりと簡単なことだろうと思う。
たしかに、世間でもてはやされているものが全ていいものばかりだとは限らない。背後にはいろいろな思惑があるんだろうし。でもそれは、世間でもてはやされているものの全てが駄目ということを意味してはいないし、世間でもてはやされていないものの中にどれだけいいものがあるか、というのとも別の問題。
あそこで引用されている人は、いちおうこの辺りのことは分かって言ってるんだと思うけど。
「目指せ隔日更新!」
大したこと考えているわけでもないのにだらだらと垂れ流しを続ける自分に、またちょっといらつき気味。
「箱船は作りません。別にどこかに行くわけではないから」
最初に質問: 書店で本を買ったとき、カバーをかけてくれるのと、カバーをかけずに袋に入れてくれるのとでは、どっちがいいサービスを受けたと感じられますか?
以下、「カバーをかける」の方がいいサービスである、という前提で話を進めます。ただしぼく自身は今ではカバーは要らない派だけど。
書店で本を買うとき、1冊だけ買うつもりでレジに持って行くと、必ずといっていいほど黙っていてもカバーをかけてくれる。でも、2冊以上まとめて持っていくと、「カバーはどういたしますか?」と聞かれたり、何も言われずに袋に入れられたり、する。黙っていても一つ一つにカバーをかけてもらえる、ということは極めてまれ。
これは店員の手間を考えればきわめて自然なことである。が、しかし。ここでいったん店員の手間を考えるのを止めてみませんか。そうすると、これは実はかなり不自然なことだということになると思うのだ。
本を一冊だけ買う人と、本をたくさん買う人とでは、どちらがその店の売り上げに貢献しているだろうか。
来店頻度えとせとらについては、とりあえず考えないことにします。また、「文庫本3冊」と「単行本1冊」はどちらが売り上げが大きいか、みたいなことも考えない。考えるとしたら、「文庫本3冊」と「文庫本1冊」を較べる。要するに、「他の条件が同じならば」という仮定のもとで考えることにします。
それでいくと、やっぱり一度にたくさん買う人の方が、その書店の売り上げに対する貢献度は大きいはず。一冊だけ買うという人の貢献度は、それほど大きくないはず。
ところが、さっきも書いたように、一度にたくさん買う人は、カバーをかけてもらえないことが多い。それに対してい一度に一冊だけ買う人は、カバーをかけてもらえることが多い。そして、最初の前提を繰り返すと、カバーをかけてもらえるのはよいサービスを受けることであり、カバーをかけてもらえないのは劣るサービスを受けることである。
つまりまとめると、次のようになる。
「書店の売り上げにより大きく貢献する客は、あまりよいサービスが受けられず、書店の売り上げにより少なく貢献する客は、よりよいサービスが受けられる。」
これってけっこう不自然じゃありません?
ただしさっきも書いたように、ここには「店員の手間」が関係してくる。それでは、「店員の手間」を考えるとどうなるか。次のような結論が出るはずだ。
「書店は、売り上げに対する貢献とサービスとの自然な相関関係よりも、店員の手間を優先させている。」
「だから何だっつうの?」と言われたら、「ただちょっと書いてみたかっただけ」と答えるしかないんですけどね。さっきも書いたように、ぼく自身は今ではカバーなんてどうでもいい派だし、カバーにこだわる人々の力になりたいとも思わないし。
でも昔のぼくは内心穏やかでないものがあったのでした。まあ、どうでもいいといえばどうでもいいことだ、ということもちろん分かっていたけれども。
大きい書店だと中に喫茶店があったりするのだけれども、そこに精算済みの本だけではなくて未精算の本も持ち込めるようにするという動きがあるそうで、書店の方では精算済みと未精算をカバーの有無で判断するとかいう話。
たくさん買った場合でもカバーつける方向にいくのかな、とか思ったり。じゃないと…。
非常勤言語文化論は継続の見込み。曜日決めなきゃ。さすがに二年連続で土曜日ってのは、まずいだろうな。あちら的にも、本務校的にも。
で、曜日変えるとなると本務校のスケジュールも大幅に再編しなければならない。う〜む。
一昨年の英語学会の一日目の晩、都立大の最寄り駅で二人組が歌っていたときに酔った勢いでしばらくじ〜っとそばにい続け、挙げ句の果てにジュースをおごって不審とも感謝ともつかぬ反応を呼んだ怪しい男は私です。
なんか知らんけんど自分のやりたいことを一生懸命やってるらしき人をみると応援したくなる。特に、酔っぱらってたりして「ものになりそうかどうか」が判断できない状況だったりすると、素直に応援できるのだ(←こういうこと言うやつの「素直」ってのもアヤシイものだが)。
あの二人、よくあんなところで歌う気になったよな、と今のぼくは思う。
そういう時は横に引くんですが…横に押す人っているのかな。
そういえばIPALで得た収入って、よく考えると翻訳よりずっとよかった。お役所がらみの採算度外視プロジェクトだったからなあ。あれで生活してる人もいた。
ということでちょっと訂正かな。
出版社が出してる商品としての辞書のことは知りません。
翻訳って、辞書つくりに似ていると思う。
ものすごくしんどい仕事で、でも利用者/読者の立場からすると「ちゃんとできていて当たり前」という感じで、つまり手間がかかるわりには仕事に対する評価として(ついでに金銭的にも)報われるものが少なくて、しかも見る人が見ればできの悪いところが一目瞭然で、ものすごく目立つ。そしてその目立つ部分でもって、全体の信頼度がはかられることもある(この程度のところでひっかる人だから、他にもきっとこういうミスがあるにちがいない、って感じで)。
やだ、する。
世の中には、見逃していいドラマといけないドラマがあるのだ。
『彼女たちの時代』、前半見損ねた。駅から徒歩15分の道のりをタクシー飛ばして5分660円なりで辛うじて22時20分過ぎに帰宅。
打ち合わせは13時からだからどんなに遅くても帰るのが22時を過ぎることはない、と踏んでビデオをセットしていなかった私はやっぱり馬鹿だったんだろうな。
深美さん、しんどそう。次回、どういう方向に持っていくのだろう。
ばりばり認知よりのプロジェクトになりそう。責任者がそういう方なのだ。
「 認知言語学とか何とか言いながら言語しか見てないようなやつは、駄目だ! 」
と盛んに言ってきた私の今の感想。
「 そんな偉そうなこと、言わなきゃよかった! 」
後ろ向き。でも逃げるわけにはいかない気配。晩飯おごってもらっちゃったし(←そういう問題か?)。とにかく、ちゃんとべんきょしよ。
大学のネットワークが一時停止するので、下記の期間、メールの受け取りができません。研究室のサーバーにもアクセスできません。
停止期間:9月11日(土) 17:00 〜 9月16日(木) 10:00
でも、今年は仕方がないのだ。でもちょっと嬉しくない時期なんだけど。
いつもながらの異常に詳しい(削りきれなかった)発表資料、公開します:pdf版
以下、お断り。
以上、お断りでした。
日本英語学会のホームページ、リンクはり直し。
以前コメントしたところは正式公開サイトではなかったようで、つまりあのときのぼくのコメントはかかしを倒して大喜び状態だったようです。
リンク先をトップページにしなかったのには、いちおうわけがあります。
最初に聞いたとき、『認知言語学の正体』と思いこみ、「さすが、21世紀を見据えたプロジェクトはタイトルまで違うなあ」とずれた感想をもった大馬鹿もんは私です。
たとえば、誰か失礼な人から
自分の「無口」「喋り下手」「そのわりに聞き下手」という三重苦を正当化しようとしているんでしょう
と言われても、私は決して否定いたしません。でも素直にうんと言うのも嫌なので、ちょっとだけ考える振りをして、それから
「う〜ん、そうかも」
と答えることになると思います。
中学一年のとき、同じクラスに、誕生日が同じ人がいた。
(その当時行っていた学校は大規模校で、一学年300人を超えていたはずだから、それほど不思議なことではない。)
当然のことながら性格は全然違う。そこで、
「星占いとかは当てにならないなあ」
と二人で確認し合ったのだった。
「一見全然違うように見えますが、本質は同じなのです」とかって言われるのかな。
よく、雑誌に載ってる星占いとか、みてたような気がする。
妹が毎月買ってたような気がする。
主催者と協議した結果、発表資料に関しては次のようにすることに決めました。
資料は現在作成中。出来次第URLをこのページに書きます。
なお、発表資料の公開は期限付きとする可能性があります。(論文版が公刊された時点で削除する可能性があります。)
以上お知らせでした。
理科系の人の目にどう映るかは分かりませんが、言語学の発表の仕方としては極めて異例。
一般のまじめな人々はきっと配布資料を100部ずつ持って会場に行くのでしょう。
資料を配布するというのは、聞く人にとっては非常に都合のいいやり方です。書き込みできるし、話聞きながら前みたり後ろみたりできるし。
で、聞く人はその資料を見ながら聞くので、発表者はOHPとかは普通使わない。使ってもしようがないわけなのです。それが、言語学の普通の発表の仕方。
で、その資料は予稿集がある場合にはそれに入れるのですが、予稿集がない場合には発表者が自分で用意します。
でも、OHP使う人が全くいないわけではありません。ごくまれに、います。ただ、その少数のOHP派の人々は資料を配布しない。予稿集のない小さな学会とかでも資料を配らない。だから嫌われるんです。「発表内容が記憶の中にしか残らないので困る」ということで。だから、資料は配った方が喜ばれる。
ですが、資料を用意するのは発表者にとっては大きな負担になります。重いし、でかいし。わがままな私は「100部も作ってサイタマから京都まで運ぶのは嫌じゃ」と思ったりするわけです。
それに残部の問題もあります。扱いに困るというホンネの他に、「森林資源の保護を考えよう」という立派な建て前もあって、そうするとやっぱり無駄なものは作らない方がいい。
しかも残部に関しては、あらかじめ分かることは「とにかく余ることだけは確実」(というか、「足りなくならないように、とにかく余るように作る」)ということだけであって、「実際どれくらい余るのか」(「実際どれくらい人がくるのか」)ということは分からない。(まるでコンビニ。)
ということで、資料配布方式はやっぱり嫌だ。でも、普通のOHP方式だと、あまりに不親切すぎる。そこで、中間的なやり方として、OHP+WWWにすることを決めたのでした。
これでも聞く方の便宜から見ると資料配布方式に劣るわけですが、でも、そ〜んなに悪いやり方でもないだろうと思っています。
何でイワナミが最初に見つかっちゃうかなあ。ま、いいや。
ご指摘の通りのようです。
「紐がほどけて結び目が消える」というつもりで「ヒモガトケル」的な言い方をしたっぽい気配。これはトケル前も後も関係なく存在するものが主語になってる。
あと、「氷がとけて消滅する」というつもりで「コオリガトケル」的な言い方をしたっぽい気配。この場合は、消滅してしまうものが主語。
というわけで、トケル(ていうか「とく」)は消滅しなくてもいいのでした。
部屋のあちこちに積み重なっている、二度と見る必要のない両面印刷の紙。それから、買ったことすら忘れていた雑誌。その他。
つまりはごみ。
対象の永続性だかなんだか知らんが、今のぼくはそんなもの認めたくないぞ。
これについても思うところはあるけど、やめておきます。
つまり日本は「高学歴社会」なわけです。つまり、「高学歴の人の割合が高い社会」ということ。たまにこれを「学歴社会」(学歴の高い人が優遇される社会、ないしは学歴の低い人が冷遇される社会)と混同する人もいたりして。
御意。
あのコマーシャルは人の不安に付け込んでいる。
「これ読んで思考力をきたえよう」というキャンペーンならまだしも「これが出るかも」というたちの悪い問題予想のレベルだし。
ということで、とっても下品。
そもそも、一面下のコラムに(どの新聞にせよ)あまり魅力を感じない私だったりして。
熱でとける場合は氷も鉄もmeltでいいのではないでしょうか。ま、氷はいいとして鉄もほんとにmeltなの?と思われるかもしれないけど、金属に関してmeltdownとかmelting potとかのような表現もあるし。
ただし「水にとける」はdissolve。氷はdissolveするかもしれない(雪は確実にdissolveする)けど鉄はあやしいかも。
んでもって「氷がとける」と「問題がとける」のつながりはメタファー。
んでもって氷はとけるとなくなってしまうわけですが(水は氷ではない)、問題はとけると消滅してしまうのだろうか? と、ふと思ったり。(LakoffのInvariance Hypothesis/Principleだ。)
「問題」には意味がいくつかあって、大きく分けると
という二つになる。
「問題がとける」というときの「問題」は後者なのだが、
(前者に関しては「問題が解決する」とは言えるけど「問題が解ける」とは言いづらいと思う。)
「とける=消滅する」というつながりは後者には成り立たなくて、むしろ前者の方に成り立つものであったりする。
(繰り返しになるが、前者に関しては「解決する」だけど。)
ということで、「氷がとける」と「問題がとける」は完全な並行関係にはない。これはなぜなのか、そもそもやっかい系の「問題」と遊戯系の「問題」はどうつながってるのか(なぜこの二つが同じ「問題」という語で指せるのか)は解決する/解くに値する問題(←この「問題」は?)だろうと思う。
池上嘉彦という私の指導教官だった人によると、settleと「済む」「住む」「澄む」が並行しているそうです。
で、実は認知意味論の方では、そのような個々の単語の比較ではなくて、たとえば
というようなレベルでの対応関係に関心を持っています。
たとえば、「もともと<空間>を表す表現が<時間>を表すようになる」だったら、英語では
のような例があります。
それに対応して日本語では
のような例があります。
英語ではこれとは別に
みたいなのがありますが、日本語では
(ただし、「これからもがんばっていくつもりです」の「ていく」は近いかも。)
メタファーについての一番肝心なこと(概念と概念の間の、構造の写像)をぼかしてその周りをぐるぐる回っているという感じですが、とりあえず今日のところはこの辺で。