「3月18日以外の私は馬鹿ではない」ということではありません。(←そんな誤解する人いないって。)
こちら (8/31)、いつもながら、おもしろい。
関係各位のご尽力により、このたび、オンライン版が公開されました。無償配布です。
(ハードコピー版は以前から他の人との共同論文集というかたちで有償配布されていた。)
ただし、中に入っているファイルを取り出すにはtar.gzを解凍できるソフトウエアが必要です。(UNIXな人は問題ないでしょうが。)それから、中に入っているデータはテキスト形式ですが、論文はpsファイルを扱える環境でないと読めません。(やっぱ工学系(自然言語処理のひとびと)向き。)
読んでやってもいいけど環境が整ってないから何とかしてくれという方は、担当者か私(といっても、コメントつけて担当者に転送するだけだけど)まで。何かあれば、何か起こるかも。何もなければ、何も起こらないです。
餌やれ日記で知った心理テスト。オリジナルをどこからとってきたのかがわからないようになっているのは問題。それはいいとして… (つうか、ほんとはつながってるんだが)
真面目に考えはじめるとまた迷走しそうなので、つうか、このテストでいったい何がわかるのか、頭の整理が全然できていないので、一つだけ。(体の良い思考停止モード。)
心理テストでレイプネタを使うあたり、いかにも、って感じ。日本人が作ったテストではレイプネタってあまりなさそうな気がする。調べたわけじゃないけど。
彼に、「こうなったのは他の誰でもない、君自身の責任だ!」と言うことはできる。
あの種のおくすりに興味を持っている人に対して「やるんだったら自己責任でやれ」とか「どうせ自己責任なんだから勝手にすれば」とかは、言えない私。
少なくともそういうことに興味を示す学生がいたとしたら、「絶対やるな」と言います。そう言うのも仕事のうち、ということだけではなくて。
そういうものに手を出してひどい目にあった人を実際に知っているとかいうことではないんだけれど。
ジオって、ファイルのないページにアクセスしてもクッキーだけは欲しがるらしい。
「3月18日の私も…」じゃないの? というのはありがちな言いがかり。
ぼくの授業でちゃんと話を聞いてた人(んな人このページの読者にはいないって)はこれがどういう意味で「言いがかり」なのかわかるはず。
実はすごくまじめなドラマだったのね。
大体、見始めたのが途中からで、それも「一月以内」のかけのところからだったもんで、そちらにばっかり気を取られていた(と、言い訳)。
以上。
というわけで、リンク集作った。好きな日記とよく行くサイト。
IPAではやたら迷惑をかけていたような気がする。もちろん#*と*~の始末は抜かりなくやっていたのだけれども、それとは別に、編集済みのデータファイルをやたらため込んでいた。
馬鹿でかいコーパスに文字列で検索かけて取ってきたデータをファイルにして保存し、grepで大きなごみを削ぎ落としてそのあとNemacsで細かく見ながら要らないものを消していく。コーパスから取ってきたデータに関しては他の人に編集を任せるわけには行かず(基本的に自分で編集したデータしか信用できなかった)、しかも(あとで見直す必要が出て来たときに)同じ作業を繰り返すのは嫌だったので、使ったデータは要らなくなった後も保存していた。
あと、届いたメールをmhで管理していたのだが、削除というものをほとんどしなかったので、どんどん溜まるばかり。
というわけで、あのプロジェクトの非常勤研究員の中で一番たくさんディスクスペースを食っていたのはぼくだったと思う。
データはある時期からcompressして*.Zにしていたが、焼け石に水だった。
口では「ぎゃ」とか「済みません」とか言いながら全然行動を起こそうとしなった私は、大ひんしゅく者でした。
Windows 95/98 マシンを共用にすると、無防備な素人のあやしい足跡でマシンがぺたぺたになってしまうこともあります。Macは使ったことないからわかんない。
人が3分の1の話で盛り上がっているときにオシボリの話をするマイペースな私。
オシボリ会に入っているけんきう系の人って、少ないですね(ぼくが見たかぎりでは、一人かな? 1999/8/28 4:42 訂正、二人?)。
けんきう系のひとびとって…
ぼくは「あるかな」かな?
決して台拭きで顔を拭いてはいけないということをふとしたきっかけから学んでしまった酔っ払いの会の方が似合ってそう。
会員募集はしません。ごめんなさい。
非常勤先ではこの話はしない方がいいということに気がついた。そういうところなんだ、あそこは。
本社は何のために彼を呼び戻したんだろう。
餌ちゃうねん(←ニセ関西弁)。
念頭にあったのは、現代文化学部ホームページの、公開前に闇から闇へ葬られた幻の教員紹介のページなのでした。
「闇から闇」についての詳しい話はよう書かんのです(勇気がない上に記憶力も弱い私?)、てゆうか書けへんのです(状況判断能力のある私?)。
人が何気なく言ったことを「それもしかして私のこと?」と思う姿勢、行き過ぎると「被害妄想→逆恨み」に発展しかねないのだけれども、でも度を過ごさなければ、結構いいかも。
というかぼくの中には「そういう姿勢が欠落している人=ものを考えるセンスがない人」という価値観ができあがってしまっているのであった。
授業中に割と頻繁に(ニセ)関西弁を使ってしまう私。大学院時代にまわりに関西出身者が多かったせいか。
去年、今年と二年続けてぼくの授業に出ている京都出身の某学生、最近はぼくが(ニセ)関西弁を発するたびに笑っている。
そんなに毎回笑わなくったっていいじゃん。
かつて言語明瞭意味不明瞭でならした現在入院中のさるお方の全盛期のお姿のまねのつもり。党内調整とは別に、一般人に対する対応の仕方に関して、そういうイメージがあるのです。
いつも思うのだが、『ブンとフン』という小説は、スキーマの話をするのにいい素材だと思う。
この作品は何も考えなくても(つまり中学生でも)楽しく読めるのだけれども、これが書かれたときの日本の状況についての知識を動員して読むと、全然読み方が変わってくる。
んでもってそれが単なる深読みではなくて、実はあれを書いたときの井上ひさし自身がそのようなことを意識していた思われるのだ。
それをはっきり分からせてくれるのが続編の「それからのブンとフン」。戯曲集(書名忘れた)に入っている。おそろしく暗い話です。
ぼくはあの時代を体感した世代の人間ではない(ちいちゃかったのよ)。そんな人間がへたな書き方であの時代に関わることを書くと当時をちゃんと知っている人々のトラウマを土足で踏んづけることになりかねないのではないか、そんな気がずっとしていたので、ここに書くのはずううっと控えていた。でもスキーマのことを考えるたびにあれを思い出すわけで、今日はついに書いてしまった。
ちなみにぼくが『ブンとフン』と「それからのブンとフン」を読んだのは高2のとき。井上ひさしについて共同研究みたいなのをやったときに読んだ。実はその後は読み直していない。(読み直さずに書くのが一番無神経なのかも。)
新潮文庫の100冊に入っている。が、さっきも書いたように、中学生(高校生でも)があの一冊だけを読んだのでは楽しい物語で終わる可能性が高いように思う。ま、それも悪くはないんだろうけど。
あの本を読んだ人のうち、どのくらいの割合の人がスキーマの獲得による読みの変化を経験するのだろう。また、そのスキーマの獲得は、何をきっかけにして起こるのだろう。
「リンク集なんてつまらん!」とか「このページはある意味コメントつきのリンク集なんだから、それでいいじゃん」とか思ってたのだが、好きな日記とかよくいくサイトとかをリストにして並べたら、それはそれでネット者向けの自己紹介の一つのあり方になるかもしれないと気がついた。
ただし、リストにはコメントはつけない予定。コメントつけると、いろいろな意味で「むら」が出てしまいそうなので。
なお、今「予定」と書いたが、まだ作ると決めたわけではない。
さっき「このページは意味コメントつきのリンク集なんだ」と 書いたが、実際ある時期雑記のページをもとにリンク集を作ろうかと思ったこともあった。が、恐ろしく手間がかかりそうだったので、思っただけでやめてしまった。
思いっきり「むら」が出た方がぼくの個性がはっきり出ていいじゃん、という人もいるかもしれないけど、その意見はありがたく拝聴させていただいたあと、ただちに問答無用でごみ箱行き。
大学のネットワークが一時停止するので、下記の期間、メールの受け取りができません。研究室のサーバーにもアクセスできません。
停止期間:8月27日(金) 10:00 〜 8月30日(月) 10:00
主節と従属節にneedとallowが入った英文の日本語訳を見てうなったり。
「〜〜であるかぎり、−−だ。」と「〜〜であるかぎりにおいて、−−なのだ。」って、全然逆だったり。
「ーー to the extent that 〜〜」はどっちだ?
今日のぼくは、後者説。つまり「〜〜でなければーーでないのだ」という解釈。
ifのばあい、onlyがつくときとつかないときで解釈が逆になる。だから if and only if 〜〜 で必要十分条件(必要かつ十分な条件、というよりこの場合は十分かつ必要な条件)を表す。だが、to the extent that 〜〜は文末/焦点の位置におかれた場合onlyがなくても必要条件という気がする。
でも、ほんとのところは調べてみないとあれなんだけど。
昔:「最近の若い連中は何でも電話で済ませようとする。手紙の一つも書けないとは、情けない限りである。」
今:「最近の若い連中は何でもメールで済ませようとする。電話の一本もかけられないとは、情けない限りである。」
(これだけみると、)ほとんど、アアイエバジョウユウ(←近過去的でもあり、かつ近未来的でもある問題。もうすぐ出てくるんでしょ)の世界である。
ただし、「昔」と「今」を言った人は別人。「昔」は中学か高校生のときにどっかのエッセイで読んだ。「今」は去年だか今年だかに誰かがいうのを耳にした。
そのうちここに書くかも。ここっていうのはリンクでない文字通りここ。その時はスクロールして読んでね。
1999/8/31 思うところあって、公開しないことにします。ごめんなさい。
実は理解するのにかなり苦労した記憶がある。argueというのはdiscussと違ってある主張ないし結論をぱ〜んと相手にぶつけることらしいということが分かってはじめて理解できた。
その反動か、argueを「議論する」と訳してあると発作的に「主張する」に変えたくなるぼく。まあ実際はケースバイケースで、「議論」で構わないところもあるのだけれど。
留学しても、だめなやつはだめ。(←こう言い切る根拠は言えない。)
教授会から独立した組織に入試を任せるということにどのようなメリットがあるのだろう。
以下建て前論、というかスジ論ないし理念論(のつもり)、というか形式論。
入試というのは、ある学生がある大学で教育を受けるにふさわしい資質を備えているかどうかを判定する手続きだと思う。だとすると、その判定に携わるのは、その大学で教育に携わっており、したがってその大学での教育に対して責任を持つ人間の集団であるべきだと思う。で、そのような人間の集団を大学の中に捜し求めたら、それは教授会なわけ。
入試委員会が出した合格者案を教授会が審議の上承認するというプロセスは、ある学生の入学後の教育に関わる可能性のある専任教員全員が、その学生の入学に対する意思決定に関わる(つまり責任を持つ)ということになるわけで、だから合否判定を教授会の審議事項とし、それに対する責任を教授会が持つということにはそれなりの意味があるわけです。
あくまでも建て前論、というか形式論だけれども。
たとえば、専任教員は自分の学部に所属する学生に関して
「どうしてこいつらこんなに出来が悪いんだ!」
などと文句をたれてはいけないのである。というか、文句をたれてもいいかもしれないけど、とにもかくにもそういう出来の悪いやつらにとって意味のある教育をしなければならないのである。それが、入学許可をめぐる意思決定に関わった(合否判定を審議・承認した教授会のメンバーである)者としての責任なのである。
また、専任教員が他学部に所属する学生に関して
「どうしてこいつらこんなに出来が悪んだ!」
と文句をたれた場合、それはそういう出来の悪いやつらの入学を許可したその学部の教授会(及びそのなかで働いている入試委員会)を批判したことになるのかもしれない。これは、その人に批判する「つもり」があったかかどうかとはたぶん独立の問題である。
ふふっふ、どうだね高山くん(仮名)。キミの言動はこういうことを意識した上での確信犯的行動なのかね。
某大学某学部の高山ぢょきょうぢゅ(仮名。実は実在を保証できない人だったりする)の話を書こうと思ったのだが、もう1999/8/23 5:4朝だから書くのやめる(といって逃げる私)。
研究ないしお仕事関連。二つ。う〜。その気になればすぐなんだろうけど、なんか疲れちゃって。う〜。
ドラマもワイドショーもクレヨンしんちゃんもやってなくてとっても静かな夜中に某お仕事をやっているからなのだ。てゆうかワイドショーは見ながらやってる(ワイドショー従、お仕事主)。ドラマはやりながら見てる(ドラマ主、お仕事従…きゃ!)。
ちなみにこれはメールとは別だけど。これでもいろいろ仕事があるらしい。(というかサボってきたつけなのだけれども。)
この夏に予定していたぼくの仕事はまだ終わっていない。(←ジコチュ〜)
「好き/好きじゃない」という次元は「許す/許さない」とは別なのかも。「好きだけど信じられない(→許せない)」「信じられない(→許せない)けど好き」という地獄のような日々が続いた挙げ句、最後には別れるのでしょう。(←冷たい言い方。)鍋島健は別れないみたいだけど。(←唐突。)
それにしてもあの紳介の番組、過去に出てきたカップルの例を見るとああなることは目に見えているのに、どうして出るかなあ。よほど自信があるのか、自分たちの関係の強さを試してみたいのか、それとも本当は別れたくて、きっかけが欲しくて出るのか。(←こういうことを思いついちゃうぼくって…)
ぎく。
だめ、できない。ここじゃだめ。いろんな人が見てるし。ここじゃなくても今日はだめ。気持ちの準備ができてない。
モウスコシマタレロ(←何の脈絡もないパクリ)
なにげにサイタマ方面の話とつながっているかも。
ぼくの場合、頭痛も痛いが、それよりももっと腰痛は痛い。
頭痛より腰痛が痛いという人と、腰痛より頭痛が痛いという人では、どちらが多いのだろう。
言い方、変?
今まさに頭痛に苦しんでいるというときに「頭痛が痛い」というのはよく言われるように変なのだけれど、そうじゃなくて、頭痛で苦しんだあのときと腰痛で苦しんだあのときとを思い出して較べて、どっちが痛かったかなあと考えるようなときの話。
たとえば原文が
It is clear that he is hogehoge.
だとする。これをそのまま
やつがホゲホゲなのは明らかだ。
とするのは芸がないと思う。ひとひねりしたいと思う。それでこんな具合に訳す。
明らかに、やつはホゲホゲだ。
しばらく進んでいくと、こんな文がでてきたとする。
Clearly, he is hogehoge.
これをそのまま
明らかに、やつはホゲホゲだ。
とするのは芸がないと思う。ひとひねりしたいと思う。それでこんな具合に訳す。
やつがホゲホゲなのは明らかだ。
なんだ結局構文入れ替えただけじゃん。
原文から遠く離れれば離れるほどいい訳になると思って張り切りすぎると、たまにこういうことになる。
やっぱ消す。1999/8/24 5:18
どこまで本気でどこまで嘘かよく分からない。(「だまし」がメタのレベルに入っている。)
なんて書くと、まるで本多さんみたいだ、と平井ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)だったら言うに違いない。
「自信の無さが客に伝わってしまう」
別に客は「こいつ自信なさそうだから、やめとこうか」と反省的に考えるわけではないだろう。が、この言葉は正しいように思える。
「自信の無さが相手に伝わってしまう」のはぼくらの仕事も同じかも。
IPAではNemacs(Muleの前身みたいなもの?)を使っていた。viは文字入力のモードと編集のモードをいったりきたりするのがめんどくさくて、好きになれなかった。
でも、(N)emacs/Muleが入ってないUNIXマシンはあってもviがないところはない。だからviを覚えようかと思ったこともあった。
周りにはviユーザーも結構いたから教えてもらう機会もあった。でも一度Nemacsになれてしまった人間にとってviに変えることはとてもしんどいということを体感しただけで終わった。
WZのVer 3を使っている。
現在のキー割り当ては
となっている。
秀丸を正規ユーザーとしてを使っていた。WZに乗り換える決め手となったのは…
秀丸では「Ctr-X Ctr-F」みたいなコントロールキー2連発ができないのだが、WZではできる。その一点だった。
いつかまたUNIXに戻ることがあったら、その時はまたviではなくてMuleを使うだろうと思う。実はメモリ食うという話もあったような気がするけど、そんなことはぼくは知らない。
「99.08.18(水)「玄倉キャンプ事故」と「集団の力学」」。今回の場合に関してこれが当たっているかどうかは分からないけど、一般論としては面白い。
こういう集団はまず、狭い。だから、息苦しい。だが一方で、この集団は、自分の生活の経済的基盤を提供している集団でもある。だからそう簡単には逃げ出せない。下手すると(?デフォールトでは?)、一生いつづけることになる。
息苦しいわりに逃げ出しづらい集団。その中で生きていかなければならないと思ったとき、その息苦しさをできるだけ小さく抑えるために、どう行動するか。たとえば、「いじめられる/無視される/…」からくるストレスと「顔色をうかがう/言うことを聞く/…」からくるストレスの、どちらを選ぶか…
なんか違う話になりそう。
「かわいい!」とか「こいつらがかわいいのは、一方の親が死んだせいではないぞ。一人行方不明になってるせいでもないぞ」とか「これを俺にみせて、一体どうしようというのだ」とか「こいつらこれから大変だぞ」とか「でもとりあえずかわいい」とか、ごちゃごちゃ思ったりする。
先日のTBSの森田さんの解説をぼくが解釈した限りでは、「熱帯低気圧」は「台風」と「弱い熱帯低気圧」に分類され、その違いは風の違いである。
この解釈が気象用語の用法を正しく捉えているとすると
ということになる。
この語に解説なしではじめてであった人が語形成の知識と気象現象についての日常的な知識から意味を考えると、次のようになると思う。
熱帯低気圧は「低気圧」の一種である。「熱帯低気圧」とは「熱帯で発生した低気圧」のことであり、台風もその一種である。ただ、「弱い」ということだからこの低気圧は弱いのである。だから、人間生活に与える影響も小さいに違いない。ちなみに、低気圧とは「雨を降らせたり風を起こしたりするもの」である。
要するに、「弱い熱帯低気圧」とは、「熱帯で発生した低気圧で、ちょっとばかし雨や風を起こすもの」である。
「その1」と「その2」の間にこのような落差がある限り、これからも事故は発生しつづけるだろうと思う。
こちら。ぼくはまだ一部しか見ていません。
あれだけの数の死者・行方不明者が出たこととか、助かった人々はずっとトラウマ抱えて生きていくのかなとか、救助および捜索に携わっている人々はどんな気持ちでいるんだろうとか、そんなことを考えると、「自業自得」と言い放つのは、やっぱりとっても冷たい反応なんだろうなと思う。
んでもってぼくはやっぱりとっても冷たい人間なのだと、改めて確認したりもする。
小学校以来、鳴るのを耳にしたことは数え切れないくらいあるけど、それで逃げたことは一度もないような。いつものこと、とか思って。
あれとまったく一緒、というわけではもちろんないけれども。
どうやら本当にやってくださった人がいたようで。
「高畑(←本多註:変えてあります。以下同じ)」という名前を見て 「たかはたさん」と呼びかけてみたところ、 「たかばたけです。めったに読まれないんです けどね。ははは。」ということになりました。
とのことでした。
んで、そもそもぼくがなぜあんなことを思いついたのかというと
そういうことがあったからです。
て、それは立場を変えてみれば…
ま、いいや。
大学内外にぼくのをことを「アッキー」と呼ぶ人がいるのですが、ぼくは以下のお二人とは別人です。
その1:やってることの是非は別として混同されるのは困る。(だれも混同しないって!?)
その2:学内での元祖はこちら。
表示件数をデフォールトの「10件」のままで使っている人が多いようなのだが、それだと見つかった件数が多い場合に結果を見るときにページからページへと移らなくてはいけなくなる。不便ではないのかしら。
ぼくはいつも「100件」とか、とにかくそのサーチエンジンで許される最大値にしています。
タクシーに乗ったときに、運転手さんに「運転手さん」でなく「○○さん」と固有名詞で呼びかけて、それに対する反応を(バックミラー等を駆使して)観察する。
「一度だけだったら変なやつだと思われてもいい」という人、いません? 世の中に14人に一人の割合でいてくれればそれで何とかなりそうなんですが。
結果が出たらメールください(←どうやら本気らしい)。
当分タクシー使う予定がないのであった。
インターネットのデファクトスタンダードはどんどん変化していくわけだけれども、でも古い機械に古いソフト入れたまま使っている人もいるわけで、だから、「自分のメッセージをすべての人に確実に見てほしい」という場合にはそれなりの配慮が必要なのでした。これはメールよりもWWWの方に言えることかもしれないけど。
このページではできるだけ基本的なタグしか使わないようにしているのですが、その背後には上のような発想の他に、「HTMLは本来ファイル内容の論理構造をマークアップするものだ」という、いわゆる原理主義的な発想(あるいはLaTeX的理想主義)があるのでした。
最近スペーサーとして <p>□</p><p>□</p> (□は全角スペース)を使いはじめたのですが、これは妥協。
一度も見たことないのだが、TBSでそういうタイトルの番組をやっている。
で、興味があるのが、この「ガチンコ」という語の意味をTBSがどう説明しているか、ということ。
分かりやすく書く、それだけだったらそんなに難しくない。
関係団体から抗議が来ないように書く、これも、それだけだったらそんなに難しくない。
でも分かりやすく、なおかつ関係団体から抗議がくることもないような説明は、けっこう難しい。
分かりやすく書くには「八百長」のフレームに言及することが必要なのだが、でも八百長が行われているということを前提としていることが明らかな記述では、抗議が来ることは必至。
それじゃあ全く打つ手はないのかというと、実はそうでもない。関係団体自身に定義を書いてもらえばいい。でも断られたら? あるいは断られなかったとしても、わけの分からない説明になってたら?
実際の手順は分かりませんが、最終的な結果だけでよろしければここで見られます。
『ドラえもん』の大人バージョンだということに気がついた。
「慣習として定着しているから、わざわざ改めて法制化する必要はない。だから、法制化反対」
と
「慣習として定着しているから、法制化しても問題はない。だから、法制化賛成」
と。
ある問題に関しては前者の「必要ないからやるな」というロジックを使って、別の問題では後者の「やっても構わないからやれ」というロジックを使う人もいそうな気がする。ま、他にもいろいろ考えなければいけないことがあって、そうなるんだろうけど。
大学生の学力低下についての議論の中で
「一斉授業は受け身の勉強になるからいかん。少人数学級を実現しろ」
という主張が唐突に出てくることがある(たとえば先日の某新聞)のはどういうこと?
大学生の学力低下ってのはつまり、「昔の大学生に較べて今の大学生は学力が低くなっている」ということだ。そういう話の中で「一斉授業がどうたらこうたら」と言い出す、ということは
「昔(といっても大して昔ではないのだけど)の日本の学校教育は少人数で行われていた。そこでは一斉授業は行われていなくて、勉強も受け身の勉強ではなかった。それが変わってしまったのが学力低下の一因だ」
と言いたいのかしらん。違うよね、きっと。
もちろん、ぼくは一斉授業がいいと言いたいわけではない。
(いいかどうか---あるいは本当に悪いかどうか---については、判断を保留します。要するに分からないということ。)
また、一斉授業が学力低下にまったく関係していないと言いたいわけでもない。一斉授業を変えることが、学力低下に対する対策になる可能性はあると思う。
でも、一斉授業が学力低下の原因であるとは今のところ思えない。昔の大学生だって、一斉授業で育てられてたわけだから。
その辺りのつながり方をはっきりさせずに唐突に一斉授業がどうたらこうたらと言い出すのは、日本の教育についてのだれも公然とは反論したがらない問題点の指摘に議論をすりかえることによって自らを思考停止モードにもっていき、なおかつ自分が思考停止モードに入っていることを自覚していない、ということなのではないか、と思ってしまったりもする。(暴言多謝。)
ちなみに、ぼくは一斉授業が学力低下の原因の一つである可能性がゼロであると言いたいわけでもない。今のところこの可能性が低いと思っていることは確かだが、でも「一斉授業が学力低下の原因の一つである」ということをきちんと論証した議論に出会うことがあれば、考えが変わるかもしれない。探せば今すぐにでも見つかるのかなあ。あるいはもう出会ってるんだけど忘れてるだけなのかも。
要するに唐突でなければいいという話でした。
某お茶会社の有名なキャッチコピーについて、今書いておかなければいけないことに気がついた。というか実際にはすでに手遅れなのだが、このまま書かずに済ませるわけにはいかないので、とにかく今書いておく。ただし、いきさつを調べ直したわけではないので、以下の記述にはうろ覚えと推測に基づく部分がかなりあることをあらかじめお断りしておかなければならない。
かつて「お〜い、お茶」というせりふは、今とはずいぶん違う場面設定で使われていた。もともとどういう設定だったかというと、
ふと「お茶が飲みたいなあ」と思ったおじいさんが、おばあさんに向かって「お〜い、お茶」と声をかける。それを聞いたおばあさんがお茶を入れておじいさんのところにもっていく。おじいさんがそれを飲む。
というようなものだった。
これに対して当時のぼくは特に何を思うでもなく、とにかくそういうコマーシャルなのだと受け止めていた。だが、世の中そういう人ばかりではなかった。
「お〜い、お茶」というせりふは、女性差別的である。
という主張が出てきたのだ。
お茶会社としては、当然対応を迫られることになる。あの会社があの当時女性差別の問題をどれほど真剣に考えたかはわからない。ただ、それとは別に、おそらくは次のようなことを考えたと思われる。
「女性差別的である」というレッテルを放置しておけば、企業イメージに悪影響を及ぼすことになる。そうなったら、当然お茶の売り上げにも響くだろう。それじゃあ一体何のためのコマーシャルなんだ。
というわけで、何らかの形で対応を迫られるわけなのである。
で、具体的にどういう対応が取られたかというと、「お〜い、お茶」というせりふそれ自体は生き残った。ただし、それが使われる場面が変わった。たとえば、次のように。
ふと「お茶が飲みたいなあ」と思ったおじいさんが、自分でお茶を入れる。入ったお茶を一緒に飲みたいと思い、孫(内山君?)を呼ぶ。そのときに孫に向かって「お〜い、お茶」と声をかける。
実はこういう場合に「お〜い、お茶」と言うのはあまり自然ではないと、日本語の母語話者であるぼくは感じる。が、とにかくあのコマーシャルはこのような形に変わったのである。
その後、コマーシャルの登場人物も変わった。が、入ったお茶を一緒に飲もうと誘っているという意味付けを与えられた「お〜い、お茶」というせりふは、今も生き延びている。生き延びているどころか、あのお茶会社はむしろ以前より積極的にこのせりふをアピールするようになっている(と、缶とかペットボトルとかを見るたびにぼくは感じる)。
ただし、現在強くアピールしているのは「お〜い、お茶」というせりふそれ自体だけである。そのせりふが出てくる場面の変更は、見方によっては唐突に、そして見方によってはさりげなく、行われた。要するに(ぼくが覚えている限り)そのせりふが出てくる場面を変更した理由が説明されていないだけでなく、「変更した」という告知自体なされていないのである。
(ただしコマーシャルの意匠変えをいちいち告知しなければならないというものでもないということも、重々承知している。)
ところで、「女性差別的だ」という批判に対応するに当たって、このお茶会社の中で(あるいは広告会社で)どのような議論が行われたのだろうか。それを知ることはぼくには出来ないが、しかしこれはぼくにとっては非常に興味ある問題である。どう興味があるのかをもうちょっと具体的に書くと、ぼくは
あの当時、「お〜い、お茶」というせりふを使うのをすぱっとやめて、たとえば関根勤が「おっちゃん、お茶が入ったんだんよお〜ん」と言う、みたいなのに替えてしまうという選択肢もあったはずなのだが、それをしなかったのはなぜか。
という問題に、(実は内山君(?)がこのコマーシャルに出だした当初からずっと)興味をひかれているのである。そして、以下にぼくの推測を書く。
かりに「お〜い、お茶」というせりふを使うのをすぱっとやめていたとしたら、それはあのお茶会社にとってどういう意味を持つことになっていたろうか、と考えてみる。すると、おそらくは…
ということになるだろう。そしてあの会社は、これを嫌ったのだろうとぼくは思う。
要するに、
「駄目といわれたからやめる」というのではこちらに非があったことを認めることになる。そんなことをするわけにはいかない。
と会社は考えたのではないかな、とぼくは思うわけだ。これはあくまでも推測でしかないのだけれども。
それに対して、場面設定を変えながらも「お〜い、お茶」を積極的に使いつづけることは、
というメリットを持ちうるわけだ。
以上、「お〜い、お茶」の話でした。
これと関連して、
「「おっちゃん、お茶が入ったんだんよお〜ん」なんて馬鹿丸出しのおやじギャグは許せない。「お〜い、お茶」というのはおいしそうだからこれを残せばいいのではないか」
という議論があると思うのだけれども、それについてはどう評価されますか?
ぼくは日本という国が法律で正式に定められた国旗や国歌をもつことそれ自体には反対ではありません。
早朝、地震で目が覚めて気がついたこと。夢のつくりかた。
同じ場面を、何度も繰り返して作っていた。
話の展開がいまいち自分の気に入ったものにならないため、元に戻って作り直そうとするのだが、結局大して変わり映えのしない話になってしまう。これの繰り返し。
だったのか、それとも、
話が展開していくうちに前の部分の内容を忘れてしまうので、そのたびに元に戻って確認していた。
ということだったのか、いずれにせよ、なにやら「意図」ないし「目的」のようなものの存在を感知していたような気がする。
寝ているときに地震がきた場合、目が覚める場合はP波(?:最初に来るやつ)の段階で目が覚める。ぐらぐらというやつが来る頃にはすでに起き上がっている。
ただし、これまで、(目が覚めていれば「あ、地震だ」と気づく程度の大きさの)地震がきた場合に必ず目が覚めているという保証はない。何も気づかないうちにすべてが終わってしまったこともあるかもしれない。ないのかもしれないけど、あるかもしれない。
まず一点。この会社の略称に不気味なものを感じてしまう私。20年くらい前に読んだ本多勝一の毒がいまだに抜けていないということか。
(↑でも英語教員としては当然の反応だという説もあるけど。)
それからもう一点。以前、一部のエンジニアに対する評価と会社全体に対する評価の関係について考えるきっかけを作ってくれたのが、この会社だった。
(↑ぼくにしてはずいぶん控えめないい方だこと。)
学生の顔覚えるの、とっても苦労します。鈴木あみと浜崎あゆみの区別もつきません。
(名前も似てる。鈴木あゆみ と 浜崎あみ じゃないよね。)
でもこれはないと思うよこれは。いくらなんでも馬鹿にし過ぎじゃないか?
(ちなみに正面玄関はこちら。)
(追記:現在1999/8/7 16:0はちゃんとなっています。ファイルの最終更新日時は「08/07/99 13:13:24 地方標準時」となっています。)
このサイトのアドレスに含まれる``shunpeinoheya''は「俊平の部屋」ということですが、さいもん(←漢字わからないので平仮名に逃げる)ふみとは一切関係ありません。
この「俊平」は現代文化学部ホームページで門番兼案内役を務めているネコ(もともとは牛飼いとアイコンの部屋にいたもの。今はもういないかもしれない。)の名前です。
んで、そのホームページのネコの名前をつけたのはぼくなのですが、その由来はというと…
右近ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)の言葉を借りると
「まえ聞いたような気がするけど、忘れちゃった。忘れるくらいだから、どうせ大した由来じゃなかったのに違いない。」
という程度のもの。
ということなので、現在のぼくの公式見解は
次のうちからお好きな答えを御自由にお選びください。
- シニフィアンとシニフィエの間に必然的なつながりはないのだ。(一見だれも反論できない正論モード)
- ネコといったら「俊平」に決まっているのだ。(思考停止モード)
- その他(判断保留モード)
ということになっています。
こういうルートでいらっしゃる方がいる一方で、こんな雲をつかむようなあやしいところから来る人や、 こんないかがわしいところから来やがる輩もいる。
とくに、最後のひとへ。お役に立てなくてごめんなさい。今後ともお役に立つつもりはありませんので、よろしくご了解ください。
それから、最後のひとを連れて来たサーチエンジンへ。アクセス制限かけたろか。
(追記1999/8/7 16:0:最後のやつ、いかがわしいサイトへのリンク集を提供するのは嫌なので、データを改変してあります。)
(追記1999/8/9 11:33:最後のやつ、リンク外しました。)
メールをいただきました。(やましなさん、ありがとうございました。)反転しているのは『OL進化論』だけではなく、英訳マンガはみんな反転しているとのこと。反転させてある理由は、日本のマンガは右から左に読むように作られてるけど英語版では左から右に読むことになるので、反転させた方が読みやすくなるからではないか、ということでした。
今1999/8/6 3:3マイニッキエンジンにアクセスしたら、「選択した23日記のうち15日記が表示されました」と表示された。差は昨日より小さくなって、8。
この差、だんだん増えていくわけではないらしい。ということは、ぼくが日記を愛読している人々の中に日記から遠ざかる人が増えているわけではないということだ。
でも、「自動更新分はリストに載らない」「手動更新報告しないと、いずれリストから消える」ということは、マイニッキエンジンはブックマークとしては使いづらいかも。日記の更新はしてるんだけど手動では報告してない、という人は消えてしまうわけだから。
「選択した日記はつねに全部表示され、それが更新報告順に並ぶ」というのができると嬉しいんだけど。
(ちなみに、それやった場合のサーバーの負担とか、一切何も考えてないです、はい。)
以前、佐倉ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)と一緒にお昼を食べていて、こんな話になった。
人の文章にはそれぞれ独特の雰囲気というものがある。たとえば真理亜ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)が書く文章は、「真理亜」という署名がなくても、すぐにそれとわかる。
まず真理亜さんに固有の語彙があるし、それに真理亜さんに固有の文体がある。
真理亜さんに固有の文体というのはつまり、文章の内容を考えるときに決して手抜きをしているわけではなくて、むしろものすごく真剣に考えているんだけれども、でもそんな真剣さをそのままぶつけるのではなくて、自分をいったん突き放してみて、その真剣さを軽く受け流して書いている、というような文体。
…
知覚は(←我ながら何と唐突な!?)、知覚される環境についての情報と、知覚する知覚者自身についての情報とを、同時に提供してくれる。同じように(←とうさんくさいことを言い続けて早5年。)、何かについての誰かの文章は、その「何か」についての情報と、それを認識・表現するその「誰か」についての情報とを、同時に提供してくれる。
ただし、文章の中に埋め込まれている発言者自身についての情報をどれだけ的確にピックアップできるかには、学習の余地がある。だから実際、「誰だれさんの文章だ!」という推測が当たるかどうかには、いろいろな条件が関わってくる。だが、<直接話をしたことがある><その人が書いたとわかっている文章を読んだ経験がかなりある>という二つの条件を満たす場合は、結構わかる(気がする)。
言うまでもなく、これは裏日記論のつもり。
たとえば、オフ(ミ)に参加したことのない(これからも参加の意向はない)ぼくみたいな人と、しょっちゅういろんなところに参加していていろんな人を知っている人とでは、裏日記の判別能力(「この日記は別のところに表がある日記、つまり裏日記である」ということをまず看破し、なおかつ「この裏日記作者の書いている表日記はこれである」と正しく対応させる能力)に有意な差はあるのだろうか、ということ。
あるような気がするんだぼくは。
index.htmlでの更新報告はやめます。なんか、めんどくさいので。
大分弁の「めんどしい」を共通語の「めんどくさい」と同じような意味だと思っていた時期があった。それで、普通に「(そんなの)めんどくさい」と共通語で言えば正しく通じるところを変な色気を出して「(そんなの)めんどしい」と言ってしまったことがあった。
今こうして思い出すと……やっぱりはずかしい。
今1999/8/5 2:45マイ日記猿人にアクセスしたら「選択した23日記のうち14日記が表示されました」と表示された。何なんだこの23と14の差は。
この差、だんだん増えていくような気がしている今日このごろ。
英語版を見たあとオリジナルの日本語版を見ていて、「なにか変だ」と思った。念のため較べてみると、英語版の方はすべての絵が左右反転している(裏焼き状態になっている)のであった。
何でこういうことになっちゃってるんだろう。何か意図があるのかしら。
謎といえば最後は『新解さんの謎』に落ち着くのが筋なのだろうけど、実はそれとは別に新解さんを研究する上で絶対に欠かすことの出来ない文献がある(←展開の仕方が強引だぞ)。それが、これ。スタイル的には軽薄を装っているので一見トンデモ本風だけれども、内容はものすごく真剣かつまとも。辞書つくりに関わる人は一度は読んでおきましょう、という感じ。新解さん御自身はあの世に旅立たれてしまったからバトルの続きはもうないのだろうけど。
(本来)「先立つ不幸」ではないと知ったのは、いつだったろう。要するに、「親より先に死ぬのは親不孝」ということなんだろう。
KogoLab みんなの掲示板でみつけた明日の「みつを」は君だ、面白い。
相田みつを自身の生涯とお言葉を直結させるのはどうかと思うが、それとは別に、このアプローチ、パロディ百人一首的なパロディの面白さではなくて、似顔絵的な面白さ(←これ、ちゃんと説明しないと伝わらないような気がするが)がある。
そいえば現代文化学部の三田・野原両ぢょきょ〜ぢゅ(両方とも仮名)も相田みつをが嫌いだった。あの二人はこれを見たらどう反応するんだろう。
相田みつをのうさんくささって、一部で言われている「「癒し」のうさんくささ」と関係しているような気がする。
ところで、私はどなたに対してお返事しているんでしたっけ。
「おいしくなければラーメンじゃない」みたいな言い方をすると必ず現れるのが、「ぢゃあ、おいしければラーメンなのかよ」みたいなことを詰問口調で言ってくる人。「おいしいスパゲティはラーメンなんだな!」とか「おいしいかしわ餅もラーメンなんだな!」なんてたたみかけてきちゃったりして。だれもそんなこと言ってないのに。
「おいしくなればラーメンじゃない」という発言は、「おいしければどうなのか」については何も言っていない。だが「おいしくなければラーメンじゃない」という発言に対して「それではおいしければ…」と返すことそれ自体は必ずしも非論理的な反応とはいえない。話を発展させているわけだから。
でもそれを詰問口調で言うということは、背後に
おいしくてもラーメンでないものはある。だから「おいしくなければラーメンではない」というのは誤りである。
という考え方があるのだろうと思う。これは形式論理的には正しくない考え方である。
をこんなふうに混同する人は、意外と多い。
実はあの『クリティカル進化論』も、この区別が甘い。日常的な推論を問題にするためにわざとああいう書き方をしたのか、それともそうではないのか、ぼくにはわからない。だが、とにかく甘い。
理論言語学のように、形式論理的に考える能力があることが前提とされているような世界でも、この区別ができてない人がいる。たとえば英語の中間構文を論じた某紀要論文には、
Jackendoffは「AでなければBでない」と言っている。ところが実際にはAであるのにBでない例がある。これはJackendoffの議論に対する反例である。
みたいな議論をしているところがある。Jackendoffが必要条件とか十分条件とかを知らないはずはないから、彼が「AでなければBでない」と言った場合にはそれは「AはBであるための必要条件である」と自覚的に言っているのである。それがわからないのはかなり問題。
そしてもちろんネットの世界にも、そういう人たちはいる。
「値段が安いんだからまずくても許して」とお願いすることは、「値段が安いんだからまずくても文句を言うな」と開き直ることとは違う。
「値段が安いんだからまずくても許して」とお願いすることは、「うちのはまずいかもしれない」という可能性を積極的に認めるということであり、それは「うちのはおいしい」と勝手に思い込んでいる一人よがりな同業者に対して問題提起をするということでもある。そしてそれはひいては、「おいしいかどうか」の決定を他者の判断に委ねるという姿勢の表明でもある。
自分の行動が社会的な意味を持つものであることに誇りと喜びを感じ、それを次の行動のためのエネルギーとする、という姿勢を、ぼくはあえて積極的に棄却したいと思う。
努力主義・意図主義・結果無責任主義の風土においては、自分の行動のもつ社会的な意義の評価が結果(他者がそれをどのように受け止めるか)ではなく努力(「こんなに一生懸命やってるんだから…」)ないし意図(「せっかくやってるんだから…」)に基づいてなされる可能性が高い。そこから出てくる評価は恣意的で一人よがりなものになる可能性が高い。
そしてそのような行動は、結果という観点から見たら、すなわち行為を受ける側の立場から見たら、「ありがた迷惑」になる可能性がある。が、その「ありがた迷惑」という見方が、行動した方にとっては「せっかくやったのに、あの人にはありがたみが分からない」と捉えられる可能性もある。行動した方が努力主義・意図主義でものを考える人だったらきっとそうなる。
思い出すのは何年か前の奥尻島。あのとき、古着を送った人がたくさんいたらしい。でも、その「善意」は、島の人にとっては別に嬉しくも何ともなかったらしい。特に、洗濯もせず汚いまま送ったりしたものは、思いっきり迷惑がられたらしい。(ここまでは当時の報道内容のうろ覚えの再現。)でも、送った方は「いいことをした」と思ってたのではないかな。(これは推測。)
こういうことを考えると、自分の(一人よがりであるかもしれない)行動に対して、「自分はこれを社会的に意味があるからやってるんだ」という自己欺瞞的に偽善的な意味付けをするよりは、「自分がこれをやってるのは、結局自分がこれを楽しいと思ってるからじゃないのか」と問うてみる姿勢の方が健全なのではないかという気がするのだ。
そして「楽しいからやる」というのはそれ自体悪いことではないと思う。その行動の社会的な意味合いについての評価を他者に委ね、かつその他者の評価を尊重するという姿勢があれば。
ちょっと気になっていることがある。気になっている内容を具体的に書くことはできない(書けない理由もこれまた書けない)のだが、気になっているということだけはここに書いておく。
今感じているもやもやが晴れる可能性は限りなくゼロに近いとも思うのだが、とにかく書いておく。