ぼくの研究室はエレベーターを降りたすぐ右側にある。エレベーター前(ということはぼくの部屋の前)は少し広くなっていて、椅子が並べてある。教員に用事があって研究室に来てみたけどその教員はいなかった、でもたぶんもうすぐ帰ってくるだろう、という学生が、そこで待てるようになっている。壁には「静粛」と書いた紙が貼ってある。
授業が終わった後、その椅子で、ぼくは一人の学生と話していた。教科書だのプリントだのが入った袋やら科研費の書類が入った封筒やらを研究室に入れずに、椅子の上において話していた。
すぐ目の前にある自分の研究室に彼女を連れ込まなかったのは、研究室内で女子学生と二人きりになってはいけないという規則があるということでもなく、研究室が異様に散らかっているのを見られるのが嫌だったわけでもなく、実はその学生はそこで別の教員が戻ってくるのを待っていたのだった。小人数の授業を研究室でやっている教員がいて、その教員が戻り次第彼女のその日の最後の授業が始まる予定になっていたのだ。そんな彼女を部屋に連れ込んではいけない。肝心のその教員が戻ってきたときに気がつかないと困るでしょう。授業なんだから。
ちなみにぼくとその学生はそこで世間話をしていたわけではなく、英和辞典がほにゃららぷ〜というような話をしていた。研究室に入ろうとしているぼくを彼女が捕まえて、相談してきたわけ。つまり、一種の指導みたいなものです。
でも、事情を知らない人が見たら、そのときのぼくは
不届きな奴、と思われても仕方ない状態だったわけなのですな、これが。
そして、案の定、そのお喋りの真っ最中に他学部の某えらい教授がそこを通りかかった。その人は別の階の住人なので普段はそんなところに来る人ではないのだが、こういうときに限っていらっしゃるのである。そして、ぼくらのそばを通り過ぎるとき、その人は、放り出してあるぼくの荷物を「ぎろ!」と睨んでいったわけなのであった。
その学生もそれに気づき、ちょっと申し訳なさそうな表情になっていたが、でもまあ気にしないことにした。で、ぼくらの話自体はすぐに終わったのであった。
5月よりひどかった。へとへと。30日朝は登校拒否気味だったが、辛うじて起き出して出勤。でも一日調子悪かった。
このページの更新をしないと、達成感を感じる。
月曜日、昼前の授業の後に研究室に戻ると、ドアのメッセージ入れに入っていた。朝出勤時にあったかどうか、実ははっきりしない。小さいものなので、あったとしても見落としていた可能性がある。
ということで、いつだれが入れてくれたものかは全く分からない。
とにかく取り出して、なくならないようにセロテープで固定。
と、ふと思った。というか、思ったのか思い出したのかもよく分からないのだけれども。
(リンクがつながるのはおそらくは26日以降。)
3人の共著者のうちの、少なくとも一人はかなりの自己陶酔系。トランス状態にはいった時点で、論理の糸がぶちぶちに切れまくって、とても読んでられる状態ではなくなってしまう(というふうに、すくなくともぼくには見える)。
は〜
「解釈共同体」について文学の人と話した。何を聞いたかすでに忘れかけている自分が怖いのだが、とにかく文学の人の受け取り方とぼくの受け取り方は違うらしい、ということが分かった。まあ、ぼくは批評理論の流れについてはまっとうな知識はほとんどなくて、フィッシュの本も自分のコンテクストに引き付けて読んでる(自分のスキーマに組み込んでいるともいう…つまり、いつものつまみ食いだぁ)わけだから、ちゃんと批評理論やってる人からみたら誤解だらけなのは当たり前といえば当たり前なのだが。
んでもって、ぼくがフィッシュを読むときの「コンテクスト」とはどういうものなのだろうか。そもそもぼくは何で「解釈共同体」概念に惹かれるようになったのか。
フィッシュの議論は、読者反応批評の流れに属する。すなわち、テクストの意味は作者とその周辺(作者の意図、生育歴、…)によって決まるわけではなく、またテクストそれ自体が意味を担っているわけでもない、テクストの意味は読むという経験の中に立ち現れてくるものだ、という立場。あるいは、テクストをテクストたらしめるのは読者である、という立場。
それに対しては当然、次のような疑問が出てくる。「100人の読み手がいれば、100通りの読み方がある。要するにテクストの解釈は「何でもあり」ということになってしまうのではないか?」
「解釈共同体」という概念はそのような批判に対する回答として提示された概念である。それは、川口喬一・岡本靖正 (1998) 『最新文学批評用語辞典』 (研究社出版)では、次のように解説されている。
S. フィッシュの用語。意味に関する前提を共有し、共通の戦略に基づいて読みの行為を行う解釈集団。フィッシュに言わせれば、そのような共同体の中においてのみ読みと理解が成立し、テクストの「客観的」特性、テクストの意図、話者、作者などは、そのような共同体が主張し読者が採用した前提によってはじめて作り出される。あらゆる読みは特定の共同体内において機能し、読者の解釈戦略のもとになる共同体のさまざまな原理によって決まるのであるから、普遍的な正しい読みというものは存在しないことになる。
テクストの解釈が人によって違うとは言っても、実際にはその異なり方にはある一定のパターンがある。また、同じ人でも場合によって解釈が異なることがある。このようなことは、複数の解釈共同体が存在しうること、そしてひとりの人が複数の解釈共同体に属することがありうるということ、を想定することによって解決できる、したがって、「何でもあり」ということにはならない。以上が、ぼくの理解する限りでのフィッシュの論点なのである。
で、フィッシュの言う「解釈戦略」の内実。ぼくが話をした文学の人によると、これは読みのスキルということであり、それは「素養ある読者」が持つものということになる。この理解が正しいとするならば、「解釈共同体」とは結局「テクストの意味の決定に預かる権威者集団」ということでしかないということになりかねない。それじゃああまり面白くない。
そんなわけで、ぼくは「解釈共同体」という用語を使うのはやめて、「意味を作り出す共同体」という用語を使うことにする。その上で、以下にぼくの勝手な理解をうねうねと書き連ねることにする。
「意味を作り出す共同体」とは、フィッシュの「解釈共同体」概念が持つ、次のような積極面に着目したものである。
フィッシュの発想は解釈という行為の主体を個人に還元することを拒否している。
つまり、認識の社会的構成ということだ。
さて問題は「解釈戦略」ないしは「解釈戦略のもとになる共同体のさまざまな原理」である。さっきはここで引っかかったのだ。これに当たるものをどう考えるか。
それが、スキーマでありフレームでありステレオタイプであり理想認知モデルであり…というふうに考えたいのだ。実際、フィッシュが「テクスト」という語の解説をしているところなど、まさにフレームセマンティクスそのものなのである。
そして次に問題となるのが、そのような「解釈戦略」のリアリティ。そんなもの、実在するのか。しかも公共的なものとして。
という質問はそのまま受け取られると認知心理学そのものに対する挑戦と取られかねないのだが、もちろんこれは議論を進めるための問題設定で、答えとしては当然イエスを考えている。そしてここで登場するのがバートレットなわけ。あの人の「反復再生法」による実験?の結果は個人の頭の中におけるスキーマの実在性を示唆するものだし、「系列再生法」による実験?結果はそのようなスキーマが集団の中で共有されていることを示すものである。
んな感じで、批評理論が認知心理学に出会ってしまうわけだ。
(それ以前に哲学のプラグマティズムとか何とかいうところで出会っているという話もあるけど、そんなぼくにとって都合の悪い話(ぼくの無知不勉強をさらけ出してしまう話)は当然パス。)
そのようなスキーマなどを共有する文化的な共同体の集合的な産物としてのテクストの典型が、赤頭巾の原形たる「おばあちゃんの話」などのようなお伽話だろうと思うわけなのであった。
ところで、このように考えた、スキーマなどを共有する集団としての「意味を作り出す共同体」概念は、実はテクストの解釈だけに関わる話ではない。分かる人にはすでにお分かりと思うが、これは語ないし形態素の意味にも関わる話である(何しろフレームセマンティクスなのだから)。つまり、テクストに対する解釈の変容は、語の意味の変化と並行的に考えられる部分もあるのではないかと言いたいわけである。
というわけで、批評理論はフィッシュの「解釈共同体」を契機としてテクストの認知言語学にまで転化しうるわけなのであった。
おわり。
授業でこの話をするのは、秋になるかもしれない。
三歳くらいの女の子が上機嫌で店員のおねえさんとお話をしているのだが、見ると人差し指をぐいっと鼻の穴に突っ込んで思いっきりほじくっている。
こういうところを写真に撮ってあげて、20数年後に見せてあげたりすると、楽しいかも。こんな時もあったんだよ、って。きゃ〜かわいい。
他人がやったらただの変質者だけど。
50人足らずの授業でも始まりのときはざわざわしていることがある。そういう時、「静かに!」と声を張り上げてみてもろくなことにはならない(そもそも声が通らない)ので、黒板の方を向いておもむろに上のように書く。
教員が黒板に何か書き出すとそれだけで一部の学生は「板書→ノート取り」の態勢か、さもなくば「授業開始時の板書は事務連絡→とりあえず注目」の態勢になる。つまりいちおう黒板に注目し、その時点で私語が少し減る。
(黒板を見て「何だ」と思うに違いないのだけれども、でも書いてあることは聞いてくれる模様。その後私語を再開する悪質な人は今の授業にはいない。)
あとはこちらの前半部分に書かれていること(喋りつづけてると目立つ)との相乗効果。人数が少ないので、一度静かになったら最後まで持続するようです。
(ただしカタカナで「くそんとん」とか書いたりすると一瞬「ざわ!」となるけど。)
「静かになったら授業を始めます」は、「このままの状態が続けば授業ができないわけですが、そうなった場合その責任はぼくだけではなく君たちにも負ってもらうべきだと考えます」というメッセージだったりもします。
怒って研究室に帰ってしまって後で学生が謝りに来るのを待つ、という人もいるようですが、その人を見習う予定はなし。
学生についての愚痴をこぼしあってストレス解消の一助とするためではなく、また漠然とした感想を述べ合うためでもなくて、ピンポイント的な情報交換のつもり。学生のことをできるだけ固有名詞でreferしたり、場合によっては「それ、だれですか?」と聞きあったりするのも、そのため。
だと、少なくともぼくは思っているのだが、これは、あの曜日にしばしばあの場に集まる人々の間の共通認識になっていると思っていいのだろうか。
19日の非常勤の授業の直後、学生同士の会話が聞こえてきた:「これ、言えるよねえ」。
え、データおかしい? 前取ったアンケートの結果では英文科の学生が多いようで…ぎゃお〜、英語のデータに関して怪しいことを言うとすぐにばれる。
どこで引っかかったのか、来週聞いてみようか。
そして、後期から教室を変更してもらえるようにお願いしよう。収容定員が受講学生の10倍以上って、しんどすぎる。
「これ、言えるよねえ」という言葉が出るということは、ちゃんと話を聞いてくれているということでもあるのだろうけど。
(つうか土曜の午後の文学部共通科目(学科関係なし。ということは多分卒業エトセトラにもあまり関係ないのでしょう。確認してないけど。)の授業だから、来る人はそれぞれそれなりにやる気があって来てるんだろうけど。)
ふと思い立って調べてみた。そうか「同態復習讐(2000/8/9 16:39)法」ね。この用語も高校のときに聞いた。ずっと忘れてたけど。で、これが「ここまでやっていい」という意味ではなくて「ここまでしかやっちゃだめ」という意味だということは、どこで調べよう。大学受験のために買った世界史事典には書いてないぞ。法学部の刑法の教員に聞く?でもどなただったっけ。
「言語文化論」ってつくづくとんでもない授業だ。
T/O。つうかタイトルがすべてを言い尽くしている。
非常勤先の図書館で二時間にわたって苦闘し、挙げ句の果てに三省堂でことわざ事典の電子ブックエトセトラまで買ったのだが、はかばかしい成果なし。
ことわざの解釈の変容の例として挙げようと思っていたが、実は今ちょっと迷っている。
「人に情けをかけておけば,やがてそれが巡り巡って自分に返ってくる」から「人に情けをかけるのはその人のためにはかえってよくない」への解釈の変化は、「ならず」の分析の仕方の変化に解消できてしまう。つまり、
文語助動詞「なり」の未然形+打消しの助動詞「ず」(「人のためではない、自分のためだ」)
↓
動詞「なる」の未然形+打ち消しの助動詞「ず」(「人のためにならない」)
こういう、純粋に言語的な知識に還元できてしまう例は、あまり嬉しくないのである。
同じく、「棒に当たる」の解釈の違いでしかない。
ハンムラビ法典では上限規定であったというのは使える話。実はこの話は高校の世界史の授業で聞いたのだが、当然のことながらその教師がどうやってその知識を得たかはわからない。K先生呼び出して典拠聞くか?
てってって典拠。「だれやらさんのホームページに書いてありました」で済ますのはちょっと問題。
某名言辞典とやらを引いたら、とっても感動的なお話が書いてありました。どこかの校長先生が式典のときのお話に使ったらいいのではないかという感じの話。
ぼくがほしいのはそんなざ〜とらしい話ではなくて、「あの言葉は、別れを惜しんで落ち込んでる学生たちに「君たち何もそんなに落ち込まなくても。もっと元気だしなよ」というつもりで言ったものだった」といううろ覚えの話の裏付け。
今思い出した。ううん。「暗くて見えないから部屋を明るくしてくれ」ということだったという、これも出所不明のあまり感動的でない話。
非常勤二週分の給料に匹敵する。授業で話したらほんの数分で終わってしまうはずなわけで。大赤字。非常勤やるのは金のためではないとはいえ、これはちょっとねえ。科研費で落とすけど。
(レシートとっとかないと。それから、忘れないようにしないと。)
なにげにすごいと思う。ほか弁やのバイトがお馬鹿に見える。
って前からおっしゃってたっけ…
そんなに緊張できるゼミって、とってもいいかも。
発表前/発表時の緊張って、ぼくは好きです。
遅れっぱなし。恐縮。それにしても、あっという間に一週間経ってしまった。あるいは、あっという間に20日になってしまった。
急に気温が下がる。体温調節の効かない変温動物にはつらい一日。
たまたまのぞいた。授業風景の写真が載ってる。
教員がマイク使って喋ってる。大学院の授業でそれはないだろ、って感じ。
文学批評の理論をやってる人々はstrategyを素直に「戦略」と訳すらしい。「修辞戦略」とか「解釈戦略」とか。
言語学の人間は「方略」というと思う。あるいはそのまま「ストラテジー」。「戦」などという物騒な文字は使わない。
今年は「縞飼育ネコの知覚世界」だの「わけわかんない話(としか言えないのだ)」だの「クリティカル本つまみ食い」だの「クリティカル格言論」じゃなくて「ことわざ、格言の解釈の変容」だの「解釈共同体」だの「某女性に「松*優作を目指してるんですか?」聞いて不興を買った不運な人の話だの「バートレット」だの「赤頭巾」だのをやる。
以上のうち、「わけわかんない話」以外は全部、今年度はじめて使うのである。んでもって問題は、去年まで使った素材とどうつなげるか、ということ。木に竹を継ぐようなことはしないようにしなければ。
バートレット絡みで記憶認知の重要研究集をぱらぱらっと見たところ…
おいおいそんなにたくさんフォローできないぞ。
ちょっと欲張りすぎという気配あり。もうすぐ前期も終わりだというのに、実際にやってるのはずっと前のところ。この調子だとテクストの話ができるかどうかさえ怪しい。
のだけれども、やっぱりやる。というか、非常勤は通年なので、秋にずれ込んでもやる。本務校では、今年は無理かな。
先週の授業の後半から今週(今日)の授業の前半にかけて、色彩用語の話をした。その際、
ダニ族の言語には、色彩用語は2つしかありません。
という、認知言語学の世界では当たり前のように言われていることを、ぼくも言った。
今、ほんとのところはどうなってるんだろう。
つか、「英語の意味」という意味深なサブタイトルに興味をひかれて、購入した。いろいろな意味ですごい本だが、コメントは後日ということで。
ぼくの説明の仕方(内容の組み立て方)を真似しようとする人と、そうでない人といる。
体温調節の効かない変温動物にはつらい季節。脱げばいいったって、限界というものがある。
ノートパソコンも熱くなるので、夏場は冷蔵庫から保冷剤(夕食用の食材の宅配サービスの入れ物に入ってたやつを拝借…窃盗かも)を持ち出して、キーボードの上(ディスプレイのふもと?)においている。いつもはティッシュをまいて使うのだが、今日はなぜか見つからない(単に探すのがめんどくさいだけ)ので裸で置いておいたら、周りの湿度が高いもんだから…
気がつくと保冷剤まで汗びっしょり、というかキーボードの上の方が水浸しである。スピーカーだか何だかの穴から機械の内部にも入った模様。ぎゃ〜。ということであわててティッシュを探して(まじめに探したら3秒で見つかった)まきつけ、キーボードも拭いた。
ノートパソコン、今はまだ不具合は発見されていない。
「宇多田ヒカルの日記で多用されている」と書いたが、4月以降の分をファイルに落として文字列検索したら1つしか見つからなかった。「多用している」と感じたのはなぜなのだろう。
3月以前の分で結構使われていたという可能性はもちろん残っているのだが。
読んだ。つまりあの人の議論はお絵書き意味論と鏡像関係にあるわけだ。詳しくはそのうちメール書く予定。
あったらしい。
首位だってよ。
…
と思ったら巨人に負けたらしい。11日の試合が終わった時点での順位は知らない。
正直に言って、野村監督は好きではない。監督としての実力は認めるけれども、それでも好きにはなれない。
授業の話。「人妻」やった。「奥さん」も、本務校でやった。非常勤でももうすぐやる。そして非常勤では、そのうちtoplessの話もやる予定。topless districtとか。
retarded classroomやればいいじゃないかって? はい、そちらも一緒にやります。
思うところあって、amazon.comでスウェーデン語文法の本を買った。英語話者用の、結構分厚いの。で、関連するところをぱらぱらっとみたのだが、ぎょえ〜、私が求めている記述はなかった。
でも、しようがないのかな。工藤真由美氏が現代日本語を見ていて気がつかなかったことを、謎のスウェーデン人がスウェーデン語を見ていて気づけるはずがない?
でも日本人が日本人向けに書いたスウェーデン語文法の本の中には、それ載せてるのがあるのだ。でもその本の著者は例文作るときに致命的なへまをやらかしているので、その記述は実際には使い物にならないのだ。
Platzackの論文でも見直してみるかな。でも、発掘するのしんどいな。
学生にからかわれている現場を同僚に目撃されたらしい。
マスターコピーの管理、ついに破綻。授業中喋りながら、あ、ここ資料がない、というのが2箇所。「今日は死んでます」などと言いわけにならない言いわけをして、その2箇所は来週補足することにした。その後、研究室でマスターコピー発見。
それから、つうかその前に、同義語、つうか類義語の説明で詰まる。ひとさまの著作コピー切り貼りモードの資料を使っての説明だったのだが、喋ってるうちに問題発見。苦しんでるのが学生にもばればれという悲惨さだった。ということでここでも「今日は死んでます」。来年は他の資料探さなきゃ。
認知言語学の立場から見て妥当な類義語の解説って、ないかしら。以前は某教科書を使って失敗した。実はその章だけ異様に評価が低いのであった。やっぱりあの人はああいう人だったか、って感じ。今年は別の教科書のコピーを使って、こういうことになった。自分で書けるだけの実力があればいいのだが、そんなものあるわけないのであった。
9日の最後の授業が終わった後、ひとりの学生と話していたら、別の学生が来て黒板に何か書いている:「先生は何才ですか?」。
そろそろこの質問にも飽きてきた。いつものパターンで返す:「何才に見える?」。
その人の答えは「30才」。なんかきりのいい数字を言ったっぽい雰囲気。
というか、頭がどんどん悪くなってきていて、やらないうちからどんどん忘れていく。9日も、危うくバートレット関連の資料のコピー取りを忘れるところだった。
源氏のコピーとらなきゃ、と思ったときには図書館は閉館間際。とりあえず諦める。
どうもぼくは「統一」というものが嫌いらしい。特に、内容の違いをないがしろにしてまで(というか内容の違いに気づかずに?)形式の統一を図ろうとする人を見ると、水槽にぶち込んだナトリウムの塊のようになる。
(すぐに消えておとなしくなる、という意味ではない。激しく反応する、ということ。)
紀要論文に関して言えば、ぼくの論文の書式は、他の人々に較べて、明らかに違う。
紀要に執筆を申し込むと、やがて「執筆要領」というのが来る。そこには「文献の記述の仕方など、できるだけ統一したい」とかと書いてあり、その他にもいろいろと細かいことが書いてあるが、それがほとんど文学の論文用であって、言語学の論文にはとても使えない。あの書式で言語学の論文を書いたら、素人扱いされかねない。
だから、編集委員会が決めた書式の指定はほとんど無視している。今までそのことで、面と向かって何か言われたことはない。
(もし何か言われることがあったら所属学会のスタイルシートを持っていって「これを参考にして紀要の指定の方を変えてください」と要求するつもりでいたのだが、その必要はないようだ。)
ぼくらの紀要はいろんな専門の人が寄り集まって作ってるものである。ところで、専門が違えば学会誌の書式も違う。だから、ぼくらの紀要の場合、形式を統一すると、専門によって有利不利の差が生じる。
また、紀要を最初から最後まで通して見る人は編集委員以外はほとんどいないと思われる。(実は編集委員だって全体に目を通しているとは思えない。)だから、ばらばらであっても不都合が生じるとは思えない。
このようなことを考えると、形式を統一するのは益よりも害の方が多いことになると思うのである。
曖昧、というか、多義的、というか。「野原で」が「鬼ごっこをし」だけにかかるという解釈も不可能ではないと思う。
というか、日本語を母語として育って大学レベルの教育を受けてきた大人が書いた文章でも、あまり気合いを入れないで書いた文の場合、「<野原で鬼ごっこをし>たり<水泳をし>たりして遊んだ」的な文はたくさん出てきそうな気がする。
この場合、「焼肉定食」は誤答とされるが、その根拠は一体何なんだろう。出題者の一人よがりな「常識」?
もちろんこれは指示文の書き方にもよる。だが少なくとも、「空欄を適当な漢字で埋めなさい」という漠然とした指示文だったら、「焼肉定食」を誤答にすることはできないと思う。
受験産業では、「出題者の意図を正しく読み取れ」と言われることが多いような気がする。
でも「出題者の意図」って、実は結構(悪い意味で)恣意的なことが多いような気がする。
「紀要は、ゴミの宝庫(?)である」というのはうちらの業界の常識みたいなものだ。
が、考えてみると、入試の作問をしたり、採点をしたり、小「論文」の出題や採点をしたり、というような仕事をする人々の集合と、「論文」と称したゴミを紀要というかたちでばらまく人々の集合は、相当程度重なっているわけで。
きゃ〜
だから受験産業で「出題者の意図を正しく読み取れ」と言われることが多いのは、
そういうお馬鹿で恣意的な出題者が作った問題であっても、「これはお馬鹿で恣意的だ」と本当のことを言ったのでは通してもらえないから、受験生の方が出題者に合わせてあげないとだめなんだよ。
というメッセージだったのではないかと、今になって思うぼくなのであった。
この「私」って何物なんだろう。
小学生くらいの子だったりすると、「あたし今日先生が太郎のこと怒ってたの」みたいな言い方をしそうな気がする(調べたわけではないのだけれども)。
つまり、二重主語構文とか形容詞述語文とかに限らず、ということだが。
これ、ちょっと、興味ある。
あと興味があるのが、一つは宇多田ヒカルの日記で多用されている「奥さんっ」。それからこれは方言なんだか個人語なんだか分からないんだけれども、一部の人(具体的に言うと、大分県のくそど田舎に住んでるぼくの祖母の近くに住んでるおばあさん)が話の途中に入れる「あんた」。「そらあんたこっちの方が…」みたいに使う。
あと、これは多分個人語なんだろうけど、同じような「お前」。「そりゃお前こっちの方がずっといいに決まってるよ」みたいに使う。
二人称表現が、言語行為の相互行為性に支えられて、聞き手目当てのモダリティ表現に転化しつつあるような気がする。これも一種の文法化かも。
すでに控え室に山のように積んであって目を通してもいる学生運動対策の書類をわざわざ郵便で送ってくる暇があったら、受講者名簿送れ、っつうの。
高校三年になると、数学の授業に「チカン積分」だの「ヘン微分」だのというのが出てきた。
(文系クラスだったんだけど、なぜか数IIIまでやらされた。嫌ではなかったけど。)
同音異義をもてあそびながら「なんか変だよねえ」とクラスメートに言ったら、「品性下劣」と言われた。
多義性の話続き。
まず前回の知覚システム論の復習。そして打検士の話なども。
(打検士とは、缶詰工場で、棒で缶を叩いて、その音を聞いて中身の腐敗度や重量の誤差をチェックするという、すごい仕事をする人。)
そしてその後、擬態語の類像性の話。「ぴかぴか」とか「つんつん」とかはそれぞれ視覚、触覚に関わる語であって、言語記号の構成要素である音声(聴覚に関わるもの)とはモダリティが違う。それにも関わらず擬態語は、(聴覚に関わるものを指示対象とする擬音語と同様に)恣意的とは感じられず、むしろ類像的に感じられる。それはなぜか、という問題設定。
要するにここまでは、一昨年の紀要論文に書いたことを言っただけ。
そしてメトニミーとシネクドキー。用語の混乱についても、ちらっとコメントする。
そしてアフォーダンス。これは昔言語処理学会発表/論文及びIPA論文で言ったことの繰り返し。
そして<一次元性を持つ連続体の形><複数個体の配列><移動する単一個体の軌跡>のイメージスキーマ変換。といってもこの場合、ぼくは「イメージスキーマ変換」という術語にはフォーマライゼイション以上の積極的な意味を見出していないので、「イメージスキーマ」自体については説明せず。
<一次元性を持つ連続体の形><複数個体の配列><移動する単一個体の軌跡>に関しては、日本語にも結構例がある。とりあえず、板書(お絵書き)なども交えながら、だらっと喋る。このあたりも、言語処理学会発表/論文及びIPA論文で言ったことの繰り返し。
この話は「すんげえ細かい話してるなあ」という印象を与えたに違いないので、「なぜ指示対象がこれだけ違っているのに「細かい!」という印象を与えるのか」についても一言だけコメント。
イメージスキーマ変換については、英語の例も少々。例のWFDTの例など。
未配布のハンドアウトを持ち帰ってまた来週持参するのも馬鹿らしいので、部屋の片隅に強引にスペースを見つけておいておく。その袋に、諸先生方のジョークのセンスに期待つつ、一言:「わたしをすてないで」。書いてから後悔。「本多啓」なんて書かなきゃよかった。「言語文化論」の授業の資料であることは一目瞭然だから、名前書く必要なかった。
やっぱりちょっと恥ずかしいかも。来週にも手を打つ予定。「ぜったいすててやる!」と書き添えるのだ。いつもの一人漫才風。
変容よりも「おばあちゃんの話」の成立のところでつながるのではないかな、という気がしてきた。変容は意図があってのことだったらしいから、バートレットにはつなげられない。
「ホーム、ホーマー、ホーメスト」というのはやめてほしい、と10数年間思いつづけている私。『ジーニアス英和辞典』でhomeをひくと、形容詞も副詞も「比較なし」って書いてある。
非常勤の「言語文化論」の授業内容は本務校の「言語文化論入門」とほぼ同じ。ほぼ同じ、ということは、違うところもある、ということ。
配布プリントのうち、完全自作分(TeXで作ってる)は、ファイルのコピーとか文字列のコピーアンドペーストとかを使いながら、別ディレクトリの別ファイルとして管理。これの管理はまあ楽。
問題その1は、ひとさまの著作物の切り貼りで作った配布物のマスターコピー。
の三種類が混在。この管理に、非常に苦労している。
問題その2:非常勤は通年、本務校の「入門」は半期。では非常勤の後期はどうするのかというと、今度は本務校の「言語文化論A」と合流させる予定。(非常勤の講義要項はそれを念頭において書いた。)後期になったらそちらとの関係で苦労すること必至のぼく。でも一コマ減るんだからいいか。
毎年少しずつ内容を充実させている。ということは、毎年少しずつ時間が足りなくなるということ。来年は少し削る方向で考えよう。
初年度の授業の内容はほんとに浅かった。でも浅い分、広くできたのでバランスは取れていたかも。
そして初年度はそれでも、一度も休講しなかった上に補講までした。
2年目(つまり去年)以降は、ある事情により(大した事情ではないのだが)授業回数が一週分少ない上に、同じ事情により補講ができない。
(半期科目で試験をやってしまった後に補講したって出てくる学生なんかいるわけないし、補講の時間に試験をやるという裏技は(教務に確認したわけではないが)普通はやらないだろう。)
というわけで、来年度受講者数が増えない限り、「精選」は避けられない。あと数名なんだけどな。
(そう、7月は「(通常の)授業期間」→「補講期間」→「定期試験期間」というスケジュールなのだが、登録者が一定数に満たない授業は「授業期間」内に試験をやらなければならないのであった。だからその後にやってくる「補講期間」も「定期試験期間」も(普通は)縁がない。それがさっき言った「ある事情」。)
通年だからといって油断してると時間が足りなくなるんだよな。特に後期は休まなければならないことが出てくるだろうし。
古文を入力するのはとっても面倒くさい。漢字難しいし歴史的かなづかひだし。ということで、尼ヶ崎本からそのままコピー。
前も書いたが、授業で使う。非常勤の方は英文科の学生がほとんどだし、講義要項にも「現代日本語と現代英語」と書いてしまったのだが…
そういえばその前にやる「縁語」も、古典の話だ。
許せ君たち。わたしは自分の関心の広さをひけらかしたいのだ。
登録者名簿はいつ貰えるのだろう。
虚数の話で思い出した、10数年前の某歌の歌詞。
(つぶやきその1:
皆さんがまじめに議論してる中、またまた一人あほなことを書いてるぼく。)
(つぶやきその2:
ファンだったわけではない。念のため。あの頃は、知らない人の方が珍しかったと思う。)
高校二年以降でやる微積と一年でやる二次関数を一緒くたにするとは、この作詞者、よほど高校数学の知識がないに違いない、と、当時のぼくは思った。
でも、後になって、ぼくは意見を変えた。これは作詞者に知識がないのではなくて、微積も二次関数も一緒くたにしてしまう数学の分からない高校生を歌ったものなのだ、と解釈することにしたのだ。
でも、後になってまたまた疑問が出てきた。そういう人のいる高校で、はたして微積なんて授業でやるんだろうか。当時の学習指導要領によると…
要は、ただの考え過ぎ。
紀要論文の二校が来た。初校で見つけたでっち上げ部分、ちゃんと直っていない。余計なアスタリスクが一つ、ついている。なにげに致命的。
聞くところによると、あの印刷業者、他学部の紀要でも相当ひどいことをやったらしい。
赤頭巾とかの民話の時代的な変容をバートレットの想起の話とつなげた研究って、あるんだろうか。池上先生の書かれたものを漁ってみる? まず連合軍とちゃんと取り組むことが先決?
赤頭巾に関してはこんな楽ちんな本もある。これにはバートレットへの言及はない。ちなみにこの本はレベル的には授業で使える。さっとやってさっと終わらせられる。
某氏のメールを見てふと思い出して、後半だけ読み返してみた。
認知心理学の言葉で読み替えたら面白いかも。
とりあえず、いくつかぱくって授業で使う。『源氏』とか、定家とか、連歌とか。
ほんとは佐藤信夫も見直した方がいいんだろうけど。
授業で使う。
なぞなぞ論としてはこちらの方がはるかにいいのだが、ひたすら具体例ばかりというのもそれはそれで使い道があってよろしい。
皆さんがまじめに議論してる中、一人で意味不明なあほなこと書いてるぼく。
今のところリンク禁止にしたいサイトはないんだけど、refererを参照して「ここ経由では見れない」という設定ができたらいいと思うことはある。
(このshunpeinoheyaではアクセス制限はできない。そもそもログも取れない。研究室のコンピュータで使ってるサーバーソフトでは、refererによるアクセス制限はできない。)
refererって何?という質問にはお答えしません。分からない方には関係ない話なのでした。
意味もなく?一日何度もそちらに出入りしてるのは私です、なんてことはいいとして。
『101回目のプロポーズ』は放送当時としては(基本的には)純愛称賛のドラマだったのだけれども今放送したらストーカー行為礼讃ドラマと解釈される可能性があって、それは制作者の意図とは別なんだろうけど、だからといってそういう解釈をしてはいけない、といえるかどうか疑問。
という話を授業ですることがあるのだが、あのドラマをリアルタイムで知ってる学生はすぐにいなくなる、と思うと、ちょっと寂しい。
intertextualityの例としてオフコースだったか小田和正だったかの歌を出そうと思ったのだけれども知らない人が多いのではないかと思って断念したのは一昨年の、現代文化学部一年目の話。
「自分は、誰にとっても意味がないことを言える」と思うほどのうぬぼれ屋さんではないつもり。
「自分は、誰にとっても意味があることを言える」と思うほどのお馬鹿さんでもないつもり。
あくまでも、つもり。
一番感じるのは、コンピュータ関係。同じ画面から得られる情報が人によってこれほどまで違いうるものかと、びっくりすることがある。
これはUNIXマシンのコマンド画面のメッセージが読める読めないというようなレベルの話ばかりではなく、たとえばWindows 95/98とかMacとかのGUI環境でも同じ。
火曜日に書きます。とにかく眠たい。今1999/6/1 1:28この時間になぜ起きてるのか不思議なのだが。