新雑記(1999年11月)

12月の新雑記/ 10月9月8月7月6月5月4月3月の新雑記 / 一年前ホーム好きな日記とよく行くサイトヨガ的に地上
更新 1999/11/30 19:33

現在、研究室のサーバーにはアクセスできません。


認知言語学フォーラム発表資料は現在ミラー(dvi版 (LaTeX2E)、gif画像版)にあります。

11/30

悪い予感は的中するもので

というか予感なんてものは大体すぐに忘れてしまうのだが、的中した瞬間に「あ!」と思い出したり

(つまり、実際には的中していない予感が大半なんだけれどもそれらはただ単に思い出されないだけだったり)

、あるいは予感なんてものは大体日時を特定しないものだから、これまでのところ的中していない予感に関しても「外れた」ということにはならず、ず〜っと昔の予感であってもとにかく当たってくれればその瞬間に「予感が当たった!」ということになってくれたりするわけだが。まあそんなことはいいとして。

とにかく、ず〜っと前から抱いていた悪い予感が一つ、ついに的中してしまった。某学生と話していて、そう思った。詳細はここには書けない。(←書けないんだったら最初から黙ってればいいのに、という話もあるけど。)

 

 

「動機は本人にも語れない」

「ことばで語れるくらいに自分の中で考えてることを整理できてたら、この事件は起こらなかった」というテレビの見方に今のところ賛成。

「本当の動機」は、これからゆっくりと、構築されていくのだろうと思う。解明されるのでもなく、発見されるのでもなく。

 

 

それから、早期教育の是非と受験の是非は

分けて考えたいと思う。

たとえば高校生の場合、「大学受験」という重しを外せばそれで高校での学習が充実したものになると単純に言えるのだろうか。この辺、高校で教えている人に聞いてみないとほんとのところは分からないのだけれども。

 

 

履歴書用写真

遅れ馳せながら、やっと今日撮影に行きました。写真屋さんに入って「履歴書の大きさの写真お願いします」

(「履歴書の大きさの写真」って言ったって、B4版に引き伸ばしたでかい写真のことではない。念のため。)

と言うと、主人が開口一番、「前撮ったのは?」

そう、履歴書書かなければならなくなるたびにあそこで撮っていて、しかも最後に撮ったのはわずか一年前。

今の非常勤先に出すのを撮ったのだった。その時何枚かまとめて撮ったのだが、お馬鹿なことに履歴書と一緒に写真も全部その大学の人に送ってしまった。いまさら返せ、というのもあれなので結局返してもらってない。

そんな説明をするのも鬱陶しいので、「どこかに無くしちゃいました」ということにする。

スタジオに入ると、「髪整えて、びしっと」とのお言葉。その他にもいろいろあって、でも多分無事に撮影終了。

それにしても、あの主人はぼくのことをどう思っているのでしょう。彼がもっている、ぼくについての情報および印象を勝手に推測すると

  1. 毎年のように、履歴書用の写真を撮りに来る。

  2. 平日の昼間にぷらぷらしていられる時間がある。

  3. 前撮ったやつは、(本当に無くしたのかどうかは別として)もうない。 使い果たしたのだとすると、そんなに履歴書がいるのか? 「無くした」というのが本当だとすると、それもいい加減な話だ。

  4. いつまで経ってもびしっとできないやつだ。

となる。そこで結論:

「何年間もチャレンジしているにもかかわらず、いまだに定職がない人。あるいは、一つのところに落ち着けない人。しかも、「これぢゃ職に就けなくても/続かなくてもしようがないな」という雰囲気をたたえた人」

以上、自意識過剰モードでした。

 

 

でもまあ

「前とったのは?」とか「びしっと」とか言ってくるというのは良心的にやっているということのしるしだったりもするので、だからついあそこばっかり行ってしまうのであった。

 

 

というわけで

非常勤、増えるかも。

 

 

面白い文章見つけた。

11/30。このサイトには前にもリンクはったっけ。あの時の問題意識と今日の問題意識は重なるところとずれるところと両方ある。


11/28

来年度の演習の話

本務校の方。

全体の説明会では、次のような話をした。

  1. これは英語と日本語を較べて検討する対照言語学の授業である。やることは、「英語について、英語で書かれた文章を読みながら考える」「論理的な文章を読みながら、論理的な思考の訓練をする」の二つである。
  2. これは「英語について考える」授業であって、「英語の運用能力を伸ばす」ことを直接の目的としたものではない。
  3. しかしながら、テキストとしては地の文が英語のものを使う。したがって、英語の運用能力(注)にある程度の自信があることが必要となる。
  4. 論理的な文章を読むので、理屈っぽい人が来ること希望する。
(注:「英語の運用能力」というと「聞く・話すの能力」を指すことが多いように思えるのだけれども、ここではもちろん違う。)

その結果、志願者は対昨年度比8割減の3人。少なくて落ち込んでいるかというと全然そうではなくて、実は狙い通り。(減るのが嫌だったらそもそもこういうこと↑は言わない。)学生の方は「ぎぇ、3人じゃ大変かも」と思ってるかもしれないけど。

で、3人ともぼくのよく知っている人ばかりで、で、どういうひとびとかというと、「英語がとっても好き(←自己申告 and/or ぼくの目から見て)」「英語の力がすごくある(←ぼくの目から見て)」という人ばかり。素晴らしいでしょう。


11/27

律儀なひとびと

非常勤。教室に入るといたのは4年生1人。「予定通りの教材/今日だけのための別の教材/休講」から選ぶようにといったら「ぼくの立場で「休講」とは言えませんからお任せします」と。おいおい、ぼくの立場でも「休講」とは言えないのだよ。だってやる気ないみたいに見えるじゃん。

とりあえず1人だったら予定通りの教材をやるのがいいかな、今週と来週と同じ話を二回聞くのは退屈かもしれないけどでも理解は深まるだろうしな、などと判断し、「来週も同じ話するけど」ということで彼の了解を取って予定通りの教材を始める。これが後で後悔することになる。

教壇で喋るのは馬鹿みたいなので、その学生のそばの席に座って話す。そのうち少しずつ人が増えて来て、いつのまにか5人くらいになっていた。来た学生一人一人に学年を聞いたのだが、中に3年生も約2名。君たち大丈夫なのか。まあ、ぼくが心配してもしようがないんだけど。

……………………

終了20分前くらいから10分前くらいにかけて、また少し人が入ってきた。就職対策の催しに出た3年生の一部が来たのだった。まったくもって律儀なひとびとだ。ぼくだったら速攻で帰るのに。

終了5分前にきりのいいところまで行ったので、「今日の話はまた来週します」といって終わりにする。「二回同じ話を聞く人が5人もいるのはやっぱりまずいなあ。やっぱり今週限りの一発ネタやればよかったなあ」とか思いながら、帰る。

う〜ん、瞬時の判断力というか、見通しというか。

 

 

もう一つのくりしん本

これ。面白い。ただ、学生には薦めづらい。だって同じシリーズ(何ちゃら文庫)に『女×師×貞狩り』みたいなのが入ってるんだもん。


11/26

5/24のリンクの再掲

これ。コメントは、今はしても構わない(それほど無責任ということにはならない)のかもしれない。でもやっぱやめとこう。

それにしても、私をあの委員会の委員にしたことに関して、(委員でない)関係者の人々は今どう思っているのだろう。あるいは、将来的にどう思うことになるのだろう(ちょっと い・み・し・ん・っ !?)。

 

 

明日は久しぶりに土曜日の授業

何か二週続けて休講だと、そのあと今何かとっても変な感じ。思わず「何か」を二回繰り返しちゃうくらい変な感じ。

(細かい自己突っ込み、サダノブ氏風:「繰り返す」という行為は一度しかやっていないのに、「二回繰り返す」というのはなぜなのでしょう。)

ちなみに27日は就職対策の行事があるため、就職希望の三年生は授業に出れない。この話は学生から聞いた。何でこういうことを事務局は教えてくれないのか。3、4年生対象の授業で3年生が出られないというのは大変なことなのに。親切な学生が教えてくれなかったらぼくは知らないままだった。それとも、非常勤の教員も掲示板をチェックしなければいけないのか。自分に関係ない情報がほとんどの(というか、そもそも自分に関係ある情報が掲示されることがあるかどうかさえはっきりしない)掲示板を。

授業以外の大学の公的な催しが授業時間と重なる場合、その催しに出席することで授業に関して不利な状況が生じるようなことになるのは問題がある。

(たとえば出席をとってそれを成績評価に反映させる方針の授業の場合、公的な催しのために欠席が増えて不利になるのはおかしいし、内容を積み重ねていく形で進めていく授業の場合、公的な催しに出席したために内容が理解しづらくなるのはおかしいし…)

そのような不合理なことを避けるのも、学生に対する大学当局の責任のうちだと思う。具体的には、授業担当教員に連絡をして休講にするよう要請するなり、出席や授業内容に関して配慮を要請するなり、とにかく学生にとって不利にならないようにするべきだと思う。これを「学生の自己責任」とか「学生の方で連絡しろ」とかいう形で処理する、あるいはそもそも何の処理もしない、というのは無責任だと思う。大学の公的な催しなのだから。サークル活動の集まりとは違うのだ。

ぼくみたいな考えをする教員がどのくらいいるのかは分からない。小数派なのか、多数派なのか。あるいは今まで気づかなかったけど言われてみればそうか、と思う人もいるかもしれない。あるいは「そういったってあんた…」と思う人もいるかもしれない。でもぼく自身は、わがままを言っているとも学生に迎合しているとも思わない。

ということで、やっぱりあの大学は好きになれないのであった。

 

 

こちらのページ

の、たとえば「991126/例の事件」のような時事的なトピックについての日記リンク集、資料的な価値はかなり大きいと思う。

収録範囲が猿人日記(の一部)に限られているというのは難点かもしれないけど、それはやむをえないこと。その難点(?)を認識した上での使い道というのは十分あるだろうと思う。

ということで、一週間で消えてしまうのがとっても残念。

 

 

そいえば来年度の演習の話

今日はまた遅いので、明日以降気が向いたら書きます。


11/24

今日もまたとっても鬱な一日でした。

何が鬱の原因だったのかもう忘れかけてるんだけれども、とにかく鬱でした。原因を一つ一つ思い出すのも嫌。

でも夕方以降は回復基調。

 

 

鬱とくりしん

鬱に対処しようとして頭の中でいろいろと理屈をこねていると、一つメタな自分がそれを見て、「あ、今ぼくはこうやって不協和解消しようとしてるんだ!」とか言い出して、それでまた沈滞したりする。

 

 

申し訳ない…

最近一月くらい、毎週水曜日の夕方に某学生が研究室に英語の勉強に来ている。最初のうちはフルパワーモードで対応していたのだが…う〜ん、なんか自分の仕事(学生からの提出物の整理とか、散乱しがちな郵便物の整理とか、そういったほんとに「雑」の部類の仕事)が進まないような気がする。

で、最近は基本的に自習時間になってしまって、質問があるときだけ対応するようになってしまった。

そして今日。ついに完全な自習室になっていて、つまり場所を提供しただけで、質問もほとんど出なかった。う〜ん、申し訳ない。

ちなみにオフィスアワーは月曜の午後なのだが、その時間は 1)ぼくに興味を持つような人は授業が入っている 2)時間が空いてる人はぼくなんぞには興味を持たない ということで、ほとんど学生は来ない。来ないのをいいことにその時間も「雑」な仕事をやってるんだけど、でも水曜日は水曜日でまた書類や提出物が増えるのであった。

つまり、ぼくの要領が悪いということなんだろうけど。

 

 

ふっふっふ

メディアセンターで、うちの大学の公開講座のビデオ発見。同僚諸先生方の講義、いつか見てやるぜ。誰からいこうかな。

てゆうかそんな暇あるのか?

 

 

「天敵」

昔は「不倶戴天の敵」と言いました。「天敵」というと昔は「猫はネズミの天敵だ」みたいな感じで使ってたようです。昔は。でも今ではぼくと同世代の言語学者(というか向こうの方が二つくらい上)が昔の「不倶戴天の敵」の意味で「天敵」を使っています。まあそれはいいとして。

思うに、一つには、「自分はあんなやつに心を乱されるようなつまらない人間ではない」と思いたがる、ということかしら。もう一つは、「人を嫌うことはよくないことである」「人と仲が悪いのはよくないことである」という幼少の頃にぶち込まれる価値観かしら。

 

 

来年度の演習の話

今日はもう遅いので、明日以降気が向いたら書きます。


11/23

「構文」ばあさす「単語」と国民性論争

Construction Grammarのイントロの話を聞くと、必ず、次のような例が出る。

……………………

たとえば英語の動詞load(「積む/載せる」みたいな感じぃ)の例文として、次の二つみたいなやつを挙げることができる。

  1. John loaded hay onto the truck. (hay: 「干し草」)
  2. John loaded the truck with hay.

一見似たような意味の文にみえるが(とゆうか似ているのは確かなのだが)、実はこの二つは意味が違う。強引に訳し分けると、それぞれ

  1. 「ジョンはトラックに干し草を載せた」
  2. 「ジョンはトラックが一杯になるまで干し草を載せた」

のようになる。つまり、前者は「干し草の移動」を記述した文である。それに対して後者は「トラックの変化」を記述した文である。

「なんだか細かい違いだなあ」と思ってはいけない。上の二つの文の意味の違いは、次の二つの文の意味の違いに(完全ではないにしても)ほぼ対応する。

  1. John poured water into the glass. 「ジョンはグラスに水を注いだ」
  2. John filled the glass with water. 「ジョンはグラスを水で一杯にした」

このpourfillを「意味が似ている」と思う人はそんなにいないだろう。「意味が同じ」と思う人はもっといないだろう。loadを使った上の二つの文の違いは、一見「微妙」と思われるかもしれないが、実はpourの文とfillの文との意味の違いと同じ性格のものなのだ。

……………………

そして、次のような問題設定がなされる。

……………………

それじゃあ、load hay onto the truckとload the truck with hayの意味の違いは、どこから来るのか?

……………………

そして、解答案として、次のような選択肢が提示される。ポイントは、「動詞の意味は一定」か、「動詞の意味が変わる」か、というところ。

……………………

  1. loadの意味はどちらの場合でも一定。そして、現れる構文の意味が違う。(つまり「動詞+移動物+onto/into+入れ物」と「動詞+入れ物+with+移動物」がそれぞれ固有の意味を持っている。)

  2. 二つの場合で、loadの意味が違っている。それじゃあ構文の意味はどうなるかというと、構文の意味は動詞の意味を実現したものでしかない。つまり、動詞の意味に完全に従属して決まるものである。だから、取りたてて検討する必要もない。

  3. 二つの場合で、loadの意味も構文の意味も、どちらも違う。そもそも動詞というものは実際の言語表現で使われる場合は常に何らかの構文の中で使われるのだし、構文は常にある動詞を中に含んだ形で使われるのだから、動詞の意味と独立に存在する構文の意味を考えるのは意味がないし、構文の意味と独立に存在する動詞の意味を考えるのも意味がない。でも構文に意味があるのは確かで、また動詞にも現れる構文の違いに応じたそれぞれの意味があるのは確かで、で、動詞の意味と構文の意味のマッチングを考えることにも意味はある。

……………………

どれを採用するかは人によって違うが、いわゆる「認知言語学」の人々は1か3をとることが多い。1はGoldbergとかの考え、3はLangackerとかの考え。どちらも「構文」というものに固有の意味を認める点で共通していて、その点で2と対立する、というかたちで理解されている。

(1、2、3の紹介の長さが同じでない、というところにぼく(本多)のバイアスが現れてますなあ。まあそれはどうでもいいことだろうけど。)

で、何が言いたいかというと、「動詞の意味」を「人間集団の思考・行動様式」に置き換えて、「構文の意味」を「歴史的・社会的な状況」に置き換えてみると、「動詞の意味が一定かどうか」は「人間集団の思考・行動様式が一定かどうか」という問題に変わる。となるとこの話は北山ばあさす高野の国民性論争の話に似てくる。ということは、あちらの学問でもこちらの学問でもなんかおんなじようなことをやってるみたいだ、ってことになる。ということは、構文論争に関係している人々を心理学の帰属理論の観点から見直したら何か面白いことが出てくるのかしら、ってことにもなる。そんなことをちらっと思った。ただそれだけ。

 

 

報道から判断すると

あの二人は入間基地に戻ろうとしたけれども戻りきれず、最後は命を捨てて住宅地に墜落するのを回避したわけね。合掌。

停電に関して言えば、バックアップ線を本線と同じところに設置していたのだとしたら、こうなるのは目に見えていたのではないかな(←後知恵バイアス要注意!)。

一般にあの種の飛行機に関して言えば、「うるさい(1998-04-18)」の一言である。今回みたいに「落ちる」のは例外中の例外だ(と信じたい)から、「飛ぶたびに落ちる」ということはないのだろうけど、でも「飛ぶたびにうるさい」のは確か。

 

 

そうか

最近増えた某仕事について、ネットでいろいろ調べてまわった方がいいかもしれない、と、ふと思った。


11/22

さるネタ

日記猿人の維持費が高いのにびっくり。オーナーの方は、コストに見合うだけの何かしら「やっててよかった」的な気持ちになれる経験をなさっているのでしょうか。というか、これは利用者の問題なのだけれども。

更新報告を9ヵ月もサボっている(←じつは登録していて、ランキングに参加してたこともあるって、ご存知ない方もいらっしゃるのかな)私は、きっとあまりよいユーザーではないのだと思う。そんなに悪いユーザーでもないとも思うけど。

 

 

締め切りというか納期というか

先日、ちょっとしたきっかけがあって、某ぢょきょ〜ぢゅ(仮名を考えるのがしんどくなった)にこんな話をした。

翻訳学校では、
締め切りがない代わりに、一発だけ馬鹿でかいヒットを飛ばす(そして、しばしば、あとは鳴かず飛ばず)というのが趣味人(素人)、
締め切りを守りながら及第点を維持し続けるのがプロ
と教えているらしいです。

そうしたらそのぢょきょ〜ぢゅのおっしゃることには

うちらの場合は、でも、
及第点を維持しながら、ほどほどに締め切りを守る、
ぢゃないかな。

きゃ〜。

いずれにせよ、「締切り守りながら及第点を維持って、何て志が低いんだろう」と若い頃(翻訳家になりたいなんて思っていた頃)のぼくは思っていたのだけれども、いざ半文筆業(てゆうか「半」まで行ってないって!)の生活を始めてみると、「締切り守って及第点維持をずうっと続ける」ってのは実はなかなかしんどいことだと分かったし(てゆうかぼくの場合すでに破綻している)、それができるということは立派なことだと思うのです。

納期を気にする責任感というのはプロ意識の重要な一部だとも思うし。

この件、もしかしたらあとで改訂するかも。(でもしないかも。)


11/20

ゼロがつく日はサイト発見の日らしい。

ある方の裏日記を発見。最近日記が縮退(?)していると思ったら、あんなところで続けてたのね。

とりあえずマイニッキエンジンに登録。

 

 

同一人物なのか同姓同名なのか

こちらこちら

 

 

こんなページも発見

う〜ん(←意味不明なため息)。

 

 

そいえば今日はTOEFLの日

うちの大学からも受けている人がいるはず。500点目指して頑張りましょう(なにげに激まぢ)。


11/17

夢の中までsubjectification

けんきう的非?日常日記。こんな夢を見た。

ぼくは某認知言語学者2人と語り合いながら、道を歩いている。そこはなぜか小学校のときの通学路。話題はsubjectification。
subjectificationについての某一部の人々の誤解をすっきりと論理的に整理し、なおかつぼく自身の意見を述べながら歩く。あるところまできてふと思い立ったぼくは
「今まで話してきたこと、紙に書いてまとめておこうか」
と言って、紙とシャーペンを取り出す。気がつくと、連れの一人がいなくなっている。喋ったことを一通り書きとめる。

ここで、ぼくの意識が割り込みモードで登場して、ふと思う。「あれ、これだけだっけ。さっきはもうちょっといいことを考えたはずなんだけどなあ。」そして、自分の記憶力の弱さに怒り悲しみながら、目覚めたのであった。

 

 

3年生の演習

秋学期の始め(9月末)から11月末まで約2ヵ月かけて卒論形式でレポートを作成するという壮大なプロジェクトを実行中。テーマは自由。授業に関係あることでもいいが、関係なくてもいい。授業に関係ないものの場合、来年度に書く卒論のテーマを意識しながら選ぶように、と言ってある。

最初のうちはぼくの不手際で、というか見通しの甘さのために、というか要するに放任しておいたら全然進まなくってテーマの選択すらやってくれない人々ばかりだったのだが、ある時期から「それではやっぱりいかんらしい」と気づいたぼくは方針転換して、毎週毎週こまめに指示を出して1段階ずつステップを踏んで仕事を進めて、それをそのつどぼくに報告してもらう、というやり方に変えた。それで今、何とか進行中。今日は「本論」に当たる部分を出してもらいました。

11月末の締め切りには間に合わないんじゃないかと思わせる学生がいる一方で、「この人たちはこんなに頑張れる人たちだったのか」と感心させてくれた学生もいる(まだ中身を読んでいないのだけれども、とにかく量は相当なもの)。

ちなみに締め切りを11月末にしたのは、いったん提出してもらった完成稿にぼくがコメントをつけて、それを参考に改めて書いたものを学年末に出してもらう、ということをするため。

(結構しんどいかもね。>ぼく自身)

3年生の時点で卒論を意識したテーマで卒論形式のレポートを書いてしまうと本番を書くときにそれに縛られてしまう(出来の悪い盆栽みたいに変な形に小さくまとまってしまう)恐れもあるんだけれども、その辺の指導は4年の演習の教員に任せる、ということで行ってしまうつもりでいる私であった。

もちろん、学年末バージョンのレポートは4年の演習の教員への申し送り事項にするつもりでいます。

 

 

んでもって

11/9に書いた、「参考文献は受講者が自分で探す」ってやつ、実質的にはぼくのところでもやってもらっちゃってるのであった。「人形の歴史」とか「映画」とかそういうのって、ぼくにはなかなか紹介できないし。

本当はゼミのメンバーを引き連れて図書館実習もできればよかったんだけど、諸般の事情により(←便利な言葉だ)、できなかったのであった。


11/16

絶望の記憶、あるいは、「分からないことばかり」の幸せ

高校生の頃だったか。英語学習のナンタラカンタラとかいうような文章を読んでいて、次のような趣旨の文章に出会った(ような記憶がある)。

英語ってのは、勉強すればするほど分からないことが増える。
英語って、とっても奥が深い。

当時のぼくは、これを読んでなんだか絶望的な気分になった。

英語は自分の母国語(←おそらくは「母国語」が当時のぼくの認識←この注の説明は略。)ではない。だから意識的に勉強しないと身につけることはできない。それなのに、勉強すればするほど分からないことが増えるんじゃ、なんだかお先真っ暗って感じじゃないの。う〜ん。

でもまあ、これで英語の勉強をやめたわけではない。高校時代のぼくにとって(学校で、だけど)勉強することは当たり前の日常的な事柄だったのが一つと(家では試験前をのぞき予習復習一切やってなかったけど)、それから、勉強すればそのたびに新しい知識が増えるので、「勉強すればするほど分からないことが増える」ということは実感としては理解できなかったのが一つ。

ちょっとだけ時が経って、というか流れて、というか過ぎて、というか…、とにかくその後、英語以外に関しても同じようなことを言っている人がいるということに気がついた。「やればやるほど分からんことが出てくる」とか「やればやるほど自分の未熟さが分かる」とか。この時はもう絶望するほどの新鮮なショックはなくて、ただ「ふ〜ん、そんなもんか」と思った。ただ「英語ナンタラの人と同じだなあ」とは思った(という記憶があるような気がする)が。

さらにちょっとだけ時が経って(以下「とにかくその後」まで同文)、また気がついた。何かに関して、「次から次へと分からんことが出てくる」と嘆く人は、そのことについて実はものすごくよく分かっている人であるらしい、と。そして逆に(こういう人は実際にはあまりいないが)何かについて「自分はよく分かっている」という顔をする人は、実はそれについてよく分かっていないらしい、ということも。もちろんどちらにも例外はあるけど。

……(断絶)……

これ↑に、今の立場からコメントすると、次のようになる。

「ここが分からない」ということを自分の力で発見できるということは、幸せなことだ。しかもそういうことがたくさんあるということは、とっても幸せなことなのだ。

高校時代に読んでその英語ナンタラの人が「分からなさを自覚すること」に関して、「それは幸せなことなのだ」ということを強調するような書き方をしていたかどうかは、記憶がない。「一見簡単そうに見えるからといって、なめてはいけない」という形のお説教調だった可能性もある、と思っている。まあ、かりに「幸せ」を強調した文章だったとしても、当時のぼくがそれをきちんと受け止められたかどうかに関しては大いに疑問があるのだけれども。

 

 

それにしても

「問題を見つける能力」が「問題に答える能力」と少なくとも同じ程度に重要なのだということを知ったのは、つまり、「すべての問題が全部解決されて、もう解決されていない問題なんて残っていない、という状態が理想」という価値観をすてたのは、いつのことだったろう。

 

 

いもづる式に、かな

「あなたのおかげでとってもよく状況が分かった」といわれると、とっても不安になることがある。

そしてその不安は、しばしば予想を越えた嫌な形で的中する。うぎゃ〜。

 

 

データ

「この人はいいデータをこんなにたくさん持ってるのに、どうしてこんなつまらないことしか言えないんだろう」という不遜な感想を持ったことが、昔はよくあった。

最近そういう感想を持たなくなったのは、謙虚になったからではなくって、学会とか研究会とかに行かなくなったから。

 

 

mediaってさあ、もともと複数形なんだよ

Mediasって使い方、あるの? それともラテン語のつもり? (何格だったっけ?)

って、某事件を起こした愛情あふれる人々がつくった、ぼくにはよく分からないことを言ってるページをみて、思った。

あのページ、ぼにくは気持ち悪くてちょっとまともには読めない。得体の知れない用字法を使うことで「自分は賢い」と自分自身を錯覚させる手法を使っているところは、中学生の頃のぼくに似ていなくもない。似ているのはそこだけだと信じたいが。

 

 

「が」

「息詰まる〜」は(大抵は?)緊張感。「息が詰まるような〜」は(ほとんどの場合)閉塞感。「ような」の有無は無視。


11/15

問題:閉塞感と緊張感の違いを指摘せよ。

正解:「が」。

 

 

絶望の記憶、あるいは、「分からないことばかり」の幸せ

今日は眠いので、タイトルだけ。大げさなタイトルですが、別に深刻な話題ではありません。


11/12

「何もしなかった一日」

「ぜったいだな! 息もしなかったんだな! ご飯も食べなかったんだな!」と突っ込みを入れる(つまりへ理屈を言う)のは小学生レベル。

「その突っ込みがなぜ小学生レベルなのか」を考える(つまりへ理屈のへ理屈たるゆえんを問う)のは… どのレベルだろ。くりしんのレベルか、意味論のレベルか(この選択はどっちが上とか下とかいうことではなくて、方向の問題なんだけど。)。

 

 

偶然見つけたこのページになぜリンクをはるのか

あらためて説明しなくても分かってくれる人とそうでない人がいるんだろうけど、今回は諸般の事情により(←便利な言葉だ)説明しないことにします。

 

 

(いもづる式に?)けんきう室のサーバー

復活のための動きをいつから始めたものか、今迷っているところ。

 

 

教師のお仕事

学校の教師(とか企業の管理職とか)っていうのは、「自分でやった方がずっと楽だわん」というようなことを人にやってもらえるようにしなければいけない。だから本当は、「自分ができることは自分でやってしまう会」(10/15)に入ってはいけなかったりする。

でもその一方で(特に大学院生など、自分の研究の手伝いができるレベルの能力がある人を相手にしている場合などには)、「自分がやるべきことを人にやらせる会」を勝手に作ってそこの会長さんにおさまってしまったりする人も現れるわけで。場合によっては「金を取ってくるのが唯一の仕事」になったりする人もいるかもしれないわけで(←ただの推測)。

職人さん的な傾向の強い人は前者の問題で悩み、管理職的な傾向の強い人は後者の問題で人に迷惑をかける、のかしら(←なぜか職人さん的な傾向の強い人に対して甘い私)。


11/10

長いことこっそりと探していた某サイトをさっきようやく発見

したんだけど、そこのテクストを読もうという気になっていない自分を発見。それはぼくの育ちの貧しさがなせることなのか、それとも「見つけ出す」ということが自己目的化していたからなのか、あるいは両方か。それとも今日(9日、以下同じ)は鬱だったからか。

 

 

来年度の講義要項

本務校分、書いた。依頼はまだ来てないんだけど、でも近日中に来るのは確実なのであった。で、今日は鬱だったので、現実逃避も兼ねて書いていた。久しぶりにWORDなんぞ解凍して、「何でこんな重たいもんにこんなディスクスペースをくわれなあかんの」とか怒ったりして。(てゆうかディスクスペース食うようなシロモノだからこそ重たい、ってのが多分真相。)

微細な修正で済む科目と、扱う教科書を変更して、それに合わせて要項も全面リニューアルする科目と。リニューアル科目の方はちょっと苦労するかなと思ったけど、わりとすらっとできた。

2000年度のシラバスは、公開しないかも。

 

 

生成文法の隆盛を願っていた頃

てゆうか今でも願ってるんだけど。

博士課程の院生の頃、生成文法をやっていた某氏 に、

「ぼくは実は生成文法の隆盛を願っている」

といって怪訝そうな顔をされたことがある。でもこれは本心で言ったことだった。どういうことかというと…


「自分の指導教授が信奉している理論だけ知っていればいいや」という姿勢の人には、「認知言語学者」を名乗ってほしくない、とぼくは思っている。あるいは「認知言語学」しか知らない「認知言語学者」は信用できない、とぼくは思っている。こういうことは認知言語学に限らず一般に理論的な研究をやりたいとまじめに思っている人であれば誰でも思うのかもしれない。だがぼくの場合、それに加えて認知言語学の性格(とぼくが考えるもの)からいって、「枠をはみ出す姿勢」が絶対必要だ、と思っているのだ。

んでもって、生成文法が「唯一のメインストリーム」として大きな力を持っている状況であれば、大学で理論言語学を教える人の大部分は生成文法の人ということになるだろうし、だから「自分の指導教授が信奉している理論だけ知っていればいいや」という姿勢の人は生成文法の方で吸収してくれることになって、認知言語学には来ないことになる。だから、「認知言語学をやりたい」と考える人間はメインストリームの理論として与えられる生成文法に飽き足らないひとびと、つまり、複数の理論に接した上で自分の判断で認知言語学を選んだ人々ということに、ほぼ自動的になる。これは、認知言語学という学問にとっては非常に好ましい状況だと思う。

一方、生成文法が「唯一のメインストリーム」としての地位を失って、大学で理論言語学を教える人のなかで認知言語学をやる人が増えると、「自分の指導教授が信奉している理論だけ知っていればいいや」という姿勢の人の中に占める認知言語学者の割合が増えることになる。これは困るのである。

もちろん、生成文法が隆盛であるということが認知言語学にとって不利に働くという面もある。自分の研究をまともに評価してもらえない状況である、とか、政治的な事柄に関しての弱さとか。ぼくらよりずう〜っと上の偉い先生方にはその頃の記憶があるようで、その人たちが「今では認知言語学に関心を持つひとびとがこんなに増えました」と素直に喜んでいる背景にはそのような時代の記憶があるのだろうと思う。

でも、「認知言語学者」を自称する人間が増えるということと、認知言語学的な研究を正当に評価できる人間が増えるということは別である。政治的な事柄に関しては、たしかにあまり人数が少ないとやりづらいのだが、でもある程度の数がいて、研究上迫害を受けたりしないで済むとか、就職に関して不利にならずに済むとか、その辺のことがクリアーされていればいいのではないか、とぼくは思っている。

このような発言はあるいは排他的・エリート主義的なのかもしれない。そう、理想を言えば、生成文法が「唯一のメインストリーム」としての力を失って、認知言語学がもう一つの正統としての地位を確立してどわっと人が流れ込んで来た後も研究のレベルを維持していける(すそ野が広がっても全体のレベルを落とさず、少なくとも「平均値」は昔も今もあまり変わらないという状態を保つ)という状況にするべきなのだろうと思う。でもそれは難しいのではないか、という認識が一部の認知言語学者にはあって、ぼくもその認識を共有している。


というような趣旨のことを、その生成文法の人に話したのであった。

(といっても以上の記述には実は当時のぼくの状況認識と現時点でのぼくの状況認識が区別なく混ざっている。まあ想起というのはそういうものだ。ただここに書いたことには当時の認識と矛盾する部分はないと思う。)

その時、とっても嫌な顔をされたことは言うまでもありません。


11/9

ふめいにっき。

某所で某大学の某学科の某学位論文の指導の実態の話を聞き、驚き呆れ、絶望す。

(「驚き呆れ」はいいとしてなぜ「絶望」する必要があるの? それはですねえ…ってこれ言っちゃったらふめいにっき。にならないのよ。)

管理教育というのは管理する側に相応の実力がないと悲惨なことになるのだわん。(←ネカマ口調のつもり。バカ犬口調を目指したわけではありません。)

 

 

某大学(↑とは全然関係なし)の講義要項を借りて見ていたら

某演習の説明で、「参考文献」のところに「受講者が自分で探す。」とあるのを発見。う〜ん、大胆。というか4年生の卒論指導の演習だから、ほんとはこれがあるべき姿なんだろうけど。

その担当教員は私の知り合いの人で、その人の顔を思い浮かべながら何となく納得している私なのであった。

 

 

昨日の話の続き

ほいでもってsedとかawkとかまでいけば立派な魚〜怪人(?)だったのだが、そこまではいきませんでした。

 

 

何かまた年食ったような気がする。

別に今日(9日)が誕生日というわけではありません。もう過ぎたということにさっき気がついた。


11/8

『ファインマン物理学』

なんと、ぼくの本棚に全巻揃っています。うちの親(理系の人、元ヘンクツエンジニア)が若い頃に買ったらしい。(でも読まなかったらしい。)

学部の頃のぼくは無謀にも「せっかくあるんだから読もう」とか思って読みはじめたのですが、第1巻のはじめで挫折。まあ、読もうと思っただけですごいでしょ。どういう意味ですごいんだかよく分からないけど。

 

 

ファインマンといえば『ご冗談でしょう』

原本を修論用のコーパスに使いました。電子化されたデータがあったわけではなかった(仮にあったとしても当時のぼくには使いこなせなかった)ので、ポストイットをはさみながら読んで、読み終わったあとで見つけたデータを全部手作業で入力して。

実はコーパスに使ったのはこの一冊だけではなくて、3冊か4冊くらい読んでチェックして入力した。合計で500件くらい。今思うと、よ〜やったわ、って感じ。そのあと一生懸命分類して…。

指導教官から「必ずやりなさい」と言われてやったこと。最初の一冊読みはじめてから分類終わるまで丸まる一月かかったのであった。しんどかった。でもやって良かった。

 

 

KWIC、grep

IPAに入ってからはKWIC検索とかgrepとか使うようになった。自分で入力しないで済むのはとっても楽でよかったけど、困ったこともあって。

その1:前後の文脈が分からないこと。まあ、文レベルの研究だったからなくてもものすごく困るというわけではなかったけど。

その2:大量のごみ。文字列で機械的にデータを取ってくるので、たとえば「前(まえ)」のデータがほしいと思って検索すると「前身」とか「(公衆の)面前」とかそういうのまで平気で入ってくる。これは正規表現とgrepを組み合わせたごみ処理プログラムを自作して(というか、他の人が他の目的で作ったプログラムを適当にぱくって、つまり(たぶん)精神としてはこちらに近いことをして)対応していました。Nemacsでこちょこちょ書いてchmod +xしただけの簡単なものだったけど、でもあのプログラムを今もう一回作れと言われても無理だなあ。

 

 

データ集め

IPAの仕事でデータ集めを人に頼んでいた人もいたけど、ぼくは自分でやらないと気が済まなかった。せっかく生データにアクセスできるのに好き好んで他の人の目で編集されたデータ使うことないじゃん、という感じで。

それに、ちょっと努力すれば自分で簡単にできるようになることを人にやらせるのもどうかと思った(cf. 10/15)し。てゆうかやらされて苦労している人を見ていたし。

でも、教わっていないことを試してマシントラブル起こしたりもしたけど。

 

 

それにしても

なんでファインマン物理学の話がマシントラブルの話になるのか、不思議といえば不思議。

 

 

「便りがないのは良い知らせ」なのかなあ

某件。問い合わせてみようか。


11/7

「腹筋」

院生の頃、「腹筋(運動)をする」って英語で何て言うんだろう、という話になった。そこで研究室にあったでっかい和英辞典を引いたら

strenghen one's abdominal muscles

みたいなことが書いてあって。思わず「田分! そんなことが知りたいんじゃいないわい!」という気分になったことがあった。「sit-upとか使うんじゃないかなあ」とか言ってみたのだが、その時は確認するすべはなかった。

6日に買ったこの本によると、やっぱりsit-upを使うらしい。do sit-upsだそうだ。

なかなかおもしろい本かも。

 

 

debt

この本の「不良債権」のところを見ると、bad debtと出ている。「あれ、debtって「債権」じゃなくて「債務」じゃなかったっけ?」と思って英和辞典を引くと、語としてのdebtの訳語としては「借金/借り/負債/借金状態」のように<借りた側>から見た言い方が載っているのだが、用例のところにあるa bad debtには「貸し倒れ」という、<貸した側>から見た言い方が訳として載っている。う〜ん。

そこでCOBUILD on CD-ROM でdebtを引く。するとただのdebtとbad debtは別立てになっている。それぞれ

A debt is a sum of money that you owe someone. EXAMPLE : You must spend less until your debts are paid off.

A bad debt is a debt that is owed to you but is not likely to be paid. EXAMPLE : I wrote off six thousand dollars worth of bad debts.

となっている。やっぱりdebtは<借りた側>から見たもので、bad debtは<貸した側>から見たものになっている。

何でこんなふうに(簡単に?)視点が変わってしまうのだろう。不思議。

 

 

というわけで

自分がずっと前から抱えていてなかなか進まない仕事を「不良債権」と言わないで「不良債務」と言ってきたのはぼくなりに工夫してきたつもりだったのだけれども、この「工夫」ってもしかしたら全然意味ないのかも、とか思いはじめているぼく。

(英語の単語についての話をそのまま日本語にもってくるのもほんとは乱暴なやり方なんだけど。)

11/6

英語学会一日目

行きません。非常勤の授業やります。進度および今後のスケジュールの関係で、休みたくないのです。

ちなみに大学院の授業ではないので、学会当日に授業をやっても顰蹙ではないはず。


11/5

『国語のできる子どもを育てる』

こちらで言及されている点に関してはたしかに面白そうだと思う。

だが、全体としては、この本は読んでいて異様に疲れる。それはなぜなのだろう。

ぼくにとってのlast strawは

対等な人間として対話する姿勢で目の前に座らせるのです。 (p. 98)

この一文を見て何も感じなかった人は、たとえば(問題意識が完全に同じかどうかは分からないけど)こちらを見ましょう。あるいは、次のように自問してみましょう。

自分は、自分と対等の関係にある人に関して「座らせる」という言い方をするだろうか。

これはあくまでもlast strawであって、ということはここに至るまでにいろいろ疲れるところがあって、だからぼくはこの本に関してはこの本の95ページに挙げられている「10の権利」の中の2か3か8を行使する可能性が大きいのであった。

 

 

「自分は学習者の立場に立ってものを見ている」

という自己欺瞞は教師の典型性条件みたいなものだという気がする。

そしてこの自己欺瞞は非常に強固で、だから「学習者の立場に立とうという姿勢なんか、本当は皆無である」という場合であってもそのことを本人に指摘して気づいてもらう(気づかせる)のは非常に大変。

かつてNiftyの某フォーラムの某会議室(教育に(も)からむとこ)でそのような指摘をして大騒動を巻き起こした苦い経験がある私なのであった。ただしフォーラム名、ハンドルネーム、IDは全て内緒。

 

 

ちなみに

教師にとって「学習者の立場に立ってものを見る」ということが本当にいいことなのかどうかはまた別の問題。

ここ↑で言いたいのは、そのつもりになっている人を端で見ているととっても疲れる、ということ。

 

 

ちなみにちなみに

ぼくも一応教員なので、以上の発言が全部自分に返ってくる可能性があることは自覚しています。(←防御。)


トップへ
All Rights Reserved. COPYRIGHT(C) 1999, HONDA Akira
Faculty of Contemporary Cultures, Surugadai University.
E-mail: ahonda@surugadai.ac.jp