新雑記(1999年12月)

2000年1月の きざし / 11月10月9月8月7月6月5月4月3月の新雑記 / 一年前ホーム好きな日記とよく行くサイトヨガ的に地上
更新 1999/12/31 1:21

現在、研究室のサーバーにはアクセスできません。


認知言語学フォーラム発表資料は現在ミラー(dvi版 (LaTeX2E)、gif画像版)にあります。

12/30

マインドレスな一日の成果

URL占いなどやってみました。結果。


<URLによる判断>

※あまり深刻にならないで下さい。

http://www.ne.jp/asahi/shunpeinoheya/honda/zakkinew.html

このサイトの持つ性格は、情(なさけ)という言葉で象徴されます。
あつかう情報として不向きな分野といったものはあまりありませんが、特に男女交際やその方面の情報をあつかうのに向いています。

このURLの総合的な吉凶は以下の通りです。

安定したツキに恵まれる意味があり大吉です。着実な発展が期待できます。


だそうで。ひょっとして、こちらとかこちらとかと勘違いしていませんか?

次に同じサイトのE-mailアドレス占い。結果は…

まず公開しているアドレスから。


<E-mailアドレスによる判断>

※あまり深刻にならないで下さい。

ahonda@surugadai.ac.jp

このE-mailアドレスにおけるあなたの性格は

質実剛健です。
コツコツとやりぬくタイプです。他人からの信用は絶大ですが、執念深く思われがちです。

このE-mailアドレスの総合的な吉凶は以下の通りです。

温和さに恵まれる意味がありです。積極性に欠けますが温和で、文化・芸術の才能があります。


<12月30日の運勢>

気力の充実度: 1

徐々に気力が戻ってきます。

本日の傾向

友人を作るのに適した一日です。


つまり私(ahonda)は温和なのである。

お次は某Niftyの私のアドレス。


<E-mailアドレスによる判断>

※あまり深刻にならないで下さい。

xxx99999@nifty.ne.jp

このE-mailアドレスにおけるあなたの性格は

堅実ですが、やや消極的です。
他人からの信用はありますが、もう一歩の踏み込みが足りません。

このE-mailアドレスの総合的な吉凶は以下の通りです。

智恵と力に恵まれる意味がありです。優れた企画力と実行力の両方を持っています。物事のツメさえ間違えなければ成功間違いなしです。


<12月30日の運勢>

気力の充実度: -1

そろそろ一休みして鋭気を養いましょう。

本日の傾向

周囲があなたを助けてくれる一日です。


さらに調子に乗って両者の相性など。


<E-mailアドレスによる相性判断>

※あまり深刻にならないで下さい。

あなた:ahonda@surugadai.ac.jp
相 手:xxx99999@nifty.ne.jp

この2つのE-mailアドレスの相性は

あなたの繊細さが相手にとっては脅威です。辛辣な批評は控えておいた方がいいでしょう。

2人が一緒に仕事をする場合の総合的な吉凶は以下の通りです。

長期間の逆境の意味がありです。


同じ相性を反対から見ると…


<E-mailアドレスによる相性判断>

※あまり深刻にならないで下さい。

あなた:xxx99999@nifty.ne.jp
相 手:ahonda@surugadai.ac.jp

この2つのE-mailアドレスの相性は

相手の鋭さが、あなたを傷つけてしまう関係です。あまり近寄らない方がいいでしょう。

2人が一緒に仕事をする場合の総合的な吉凶は以下の通りです。

長期間の逆境の意味がありです。


つまり私(ahonda)は鋭さのあまり相手を傷つけてしまうのである。

っていうかさあ、アドレスを個別に見たときの結果と、相性診断にかけたときの結果がなんでこんなに違っちゃうわけ?

ということで、今日の成果:人間関係は一筋縄では行かない。同じ人間の別アドレスでさえこうなのだ。まして別人の二人が…

う〜ん、深い。

 

 

それでは

しばらく消えます。


12/29

気合い

思いっきり足りなかったらしくて、ちょっと残った。続きは来年(←来週とも言う)。

 

 

ばかばかばか

ある日の新聞のテレビ欄に、現在使用中のビデオが2000年以降も使えるかどうかをチェックするには、日付を2000年1月1日にしてみればよい、と書いてありました。曜日が「土」と出れば年明け以降も問題なく使える、そうでなければ駄目、だそうで。で、私もさっそくやってみました。その結果は…

何と、日付設定の画面にすると、「1999年」の下二桁しか点滅していないではありませんか。つまり「19」を「20」に変更することはできないのです。これじゃあチェックできない?

いやいや、そんなことはありません。カシコイ私はすぐさま解決法を思いつきました。「1999年12月31日午後11時59分に設定すればいい。そうすればものの1分も経たないうちに2000年1月1日午前0時0分になるではないか」

さっそくやってみたところ、間もなくビデオの日付は2000年1月1日になり、曜日は無事「土」と出ました。ばんざ〜い。

とりあえずほっとした私は、次のステップに行こうとします。そう、日付を元に戻すのです。そして、再び日付設定の画面を開いた私は、愕然となりました。

何と、日付設定の画面にすると、「2000年」の下二桁しか点滅していないではありませんか。つまり「20」を「19」に変更することはできないのです。ぎゃ〜、なんとカシコイ私。これじゃあ元に戻せない?

いやいや、そんなことはありません。カシコイ私はすぐさま解決法を思いつきました。「出荷時の設定に戻すボタンがどこかにあるはずだ。そこを押せばいい」

さっそくやろうと思ったのですが、たちまち疑問が湧いてきました。それってどこにあるの?それが分からなきゃ戻せない。

しかし相変わらずカシコイ私、それくらいのことだったら簡単に解決策が分かります。取扱説明書を見ればいいのです。きっと書いてあるはず。

さっそくやろうと思ったのですが、ふたたび疑問が湧いてきました。それってどこにあるの?

とほほ。

 

 

そこで対策その1

1月1日になり次第、もう一度日付と時刻を合わせる。

そのつもりだったんですけど、なんと31日の午前中から4日くらいまでうちにいないことに、急遽なってしまったのです。うみゅ〜。

 

 

そこで対策その2

行った先で見るなり録るなりする。

そうするしかないですね。まあ、顰蹙ということはあまりないだろうと思う。でも、場所が場所だから番組が違う恐れがある。

 

 

ということで

生きた大分弁に触れてくる予定。その間このページの更新はありません。

 

 

ぷっぷっぷっぷっぷらす思考

テレビなんか見てないでお仕事あんどお勉強すればいいのだ。

 

 

マツモトキヨシ

最近気づいたこと。あのコマーシャル、主人公はマミちゃん(何でも欲しがる…)とエミちゃん(とってもしっかり…)なんですね。

何か「ぱらりんりりかるぱらぽらまじかるう」とか聞こえてきたりしません?

しないか、別に。


12/28

last (12/26)

COBUILD edictをひいてみたのですが、分かりませんでした。それで『ジーニアス英和辞典』でお茶を濁すことにしました。(どっちにしても入力しないで済むから楽。)

2 [限定] この前の,昨…,去る…,先…(←→next)《◆「現在にいちばん近い」が本義.「last+名詞」は前置詞・冠詞なしで副詞句にもなる》
(略)
〜 week [month] 先週[月]《◆the 〜 week [month]は「ここ7日[30,31日]」の意. →6》/〜 year 去年/
(略)
〜 Wednesday =on Wednesday 〜 この前の水曜日に. ◇[語法] (1) 前者は「曜日」に,後者は「この前の」の意に重点がある. (2) 発話された曜日により「今週の」と「先週の」の2意にとれる.「先週の」を明確にしたいときはon Wednesday last week,「今週の」を明確にしたいときはon Wednesday this weekとする. ただし,last Fridayは「先週の金曜日」に限る. (3) 季節については通例「昨年の」:last summer 昨年の夏.

う〜ん、ややこし。

last Christmasは聞いてみないと分からないけど、週の終わりの方の曜日であるFridayにlastがつくと必ず「先週」らしいということは、一年の終わりの方のChristmasにlastがついた場合も必ず「去年の」になるのではないかしら(←ただの予想)。

 

 

あやふやな予想をもとに、さらにスペキュレーションに走る私

以下、上の予想が正しいと勝手に想定して話を進めます。

上の予想によれば、今日、すなわち1999年12月28日に発話された``last Christmas''は「1998年のクリスマス」を指すことになります。ここで、問題。

(たとえば)2000年1月1日に発話された``last Christmas''はいつのクリスマスを指すのでしょうか。

ここまで冷静に読んでこられた方々は、おそらく次のようにお考えになることでしょう。

「1999年のクリスマスに決まってるんじゃないの」

でもぼくの予想は違うのです。ぼくの予想は、

「1998年のクリスマスもあり、かも」

なのです。

「そんな馬鹿な」とお思いの方は、こちらなんぞ読んでやってくださいませ。そこで述べたようなことが英語の世界でも起こっている可能性があるならば、話はそれほど簡単ではないということになるはずなのです。

 

 

ちなみに上の問題

ネイティブの人を捕まえて

(たとえば)2000年1月1日に発話された``last Christmas''はいつのクリスマスを指すのでしょうか。

と聞いて答えてもらってもたぶん無駄です。

私は昔日本語のネイティブスピーカーを相手に「今年の紅白歌合戦」でチェックしてみたのですが、聞くたびに「1年は12月31日までに決まってるのに。あんた馬鹿じゃないの?」みたいな反応をされたのでした。

 

 

もういくつ寝ると…

子どもの頃はこの時期、父親が作った凧を近所の空き地で揚げていた。

そういえば昔は洋凧の宣伝をテレビのコマーシャルでやっていた。「ゲイラカイト」とか「き〜みも仲間だエスフォ〜軍団はばたけエスフォ〜軍団!」とか。今では信じられないことだけど(なんて、いくらテレビゲーム機全盛の時代だからって、小学生向けの番組をぜんぜん見ない人間が言いきっちゃっていいの?)

 

 

本日は

気合いが勝負の某お仕事。脳みそぐるぐる。ぐったり。明日も続き。


12/27

『英語アナログ上達法』

読書と日々の記録で好意的に紹介されていたので、さっそく買って読んでみました。

う〜ん、一言で言うと、筋のいい素人さんが書いた本、という感じ。

この本が目指しているのは、たぶん二つ。「多義構造の解明」と「情報構造から見た構文論」。つまり、方向性としては認知意味論的であり、かつ機能言語学的でもある。だからぼくには「筋がいい」と見える。

実際の説明はすごくいい話とどうしようもない話とが混在している。ということで、失礼ながら「素人さん」と言ってしまいたくなるのであった。

「お前にあのレベルの本が書けるのか?」と言われたら「無理です」と答えるけど。でも「あの本の例文自由に使っていいから、好きなように何でも書け」と言われたらやるかも。

 

 

NHK人間講座

1月から始まる福井勝義氏の「東アフリカ・色と模様の世界」は面白そう。バーリンとケイの基本色彩用語の話では説明がつかないデータが紹介されるみたいです。

テキストはすでに書店に並んでいます。

 

 

個人ページだから何書こうと書くまいとぼくの勝手なんだろうけど

「宿題」として予告したことが両方とも中途半端なままであることがずっと気にかかってる私。う〜ん。

 

 

Last Christmasって

「去年のクリスマス」だと思う。


12/26

Last Christmas I gave you my heart ...

この歌を知っている学生は多いが、「Last Christmasっていつのクリスマス?」と質問してちゃんと答えられる人は少ない。

「最後のクリスマス」じゃ変だと思うんだけど。

 

 

おっ

石川氏ほめられている(12/27)。彼は非常に優れた研究者です。

 

 

25日分の差別の話

一部字句の修正などしてあります。趣旨に変更はありませんが。


12/25

寒い夜だから…

trfのあの歌、実はクリスマスソングだったという話を聞いた記憶がある。

それはいいとして、24日はなかなか充実した夜でした。

17時から大学で某会議。どのくらい重要かというと、毎年24日前後に予定だけは入るこの会議、例年は中止になるのに今年は中止にならなかったというすごい状況。で、中止にされず予定表通りに開かれたこの会議でどういう話し合いがなされたかというと、議長が「今日は中止にするのを忘れてました」「今日この会議があるんだということを一昨日思い出しました」。おいおい。

で、某予算申請の話などして、審議の結果、原案が一部修正されました。(やっぱり重要?)

その後、17時30分くらいから21世紀の現代文化学部のあり方について話し合うまじで重要な会議。どのくらい重要かというと、ぼくもちらっと発言しました。英語教員の代表として。(てゆうか、発言しなきゃいけないということがあらかじめ分かってたから、「知りませんでした」ということでさぼるわけにも行かなかったのだ。)んでもって、超重要な会議の割には某事情により終わるのが早くて、18時30分頃解散。

つまり1時間半のために行って帰ってきたわけ。まあ、自分の仕事もあることはあったんだけれども。

 

 

鞄の中から大発見

非常勤時代から6年間使い続けた鞄がぼろぼろになったので、ついに捨てることになりました。辞書二冊と3コマ分の授業資料入れてもまだ余裕のある超でかいバッグ。これからは英語のネイティブスピーカーの先生から「ひゅ〜ぢべあ〜ぐ!」といぢめられることもなくなるでしょう。

捨てるときに大事なものを一緒に捨ててしまってはいけないので、一応中身を空にします。んで、何が出てきたかと言うと…

東レのトレシー(6月くらいから見つからなくなっていたもの、こんなとこにあったの)、東レのトレシー(同じく。なぜか2枚め)、リップクリーム、リップクリーム、リップクリーム(なんで3つもあるの?)、5年前にもらったまま使ってなかったデパートの商品券…

てゆうか、何でそんなものがこんなとこに入ってたの?って感じです。

 

 

んでもって

今はリュック背負って通勤してます。背負うものは楽。電車とかバスとか乗るたびに降ろさないと顰蹙なのが玉に傷だけど。

 

 

23日の記述について

メールをくださった方々、ありがとうございました。以下、お返事になるかどうかは分かりませんが、その後考えたことを書きます。(メールの中で紹介された文献はまだ読んでいません。現在書店に手配中です。)

その1:意味観について。

差別的な表現というものが存在するかどうか、という問いに対する答えは、言語表現の意味についてどのような考え方を採用するかによって変わってくる。

言語の表現の意味を指示対象の記述ないし真理条件と考えるならば、価値中立的な記述が存在しうると考える限りにおいて、「差別的な表現は原理上存在しない」か、または「差別的な表現が存在するとしても、それを意味論の問題として取り上げることはできない」ということになる。

一方、言語表現の意味に概念体系、ないしは、指示対象に対する認識・表現主体の捉え方、が関わってくるという概念主義的な意味観を採用した場合には、概念体系が差別を内に含みこんだ形で成立する可能性が存在する限りにおいて、差別的な表現というものが存在しうることになり、しかもそれは意味論の問題でもある、ということになる。これは、差別というものをどう定義するかには影響されない---すくなくとも、差別というものが「概念体系」ないし「対象に対する捉え方」に関わりうるものである限りは。

そして認知意味論は概念主義の意味論である。

その2:行為と意図の問題について。

誰かに、「あなたの差別的な言動のせいで傷ついた」と言われた場合、本当に傷つけたり差別したりする 意図 がなかったのだったら、「差別したり傷つけたりする意図はなかった」と言うことはお互いのためになる。「故意にやったことかどうか」は重要なことであるから、その点を明確にすることには意味がある。

しかし、「差別したり傷つけたりする意図はなかった」と言うことによって「相手が傷ついた」という過去の事実が消滅するとは限らないし、その事実に対する責任が(減じられる可能性は高いが)ゼロになるとも限らない。故意にやったことでなければ責任は生じないというのは「わざとじゃないもん」で全てが許されると考える小学生と同じレベルの発想である、というのが私の考え。

また、一度(相手を傷つけようという意図を持たずに)何かをやって、その結果相手が傷ついた場合、次の機会にその同じことをする際には、慎重な態度が必要であると思う。「慎重な態度」という言い方は適切でないかもしれないが、要するに、「これをやったら相手が傷つく可能性が高い」ということがあらかじめ予測できる場合には避けた方がいいと思う、ということ。

ただしこれは最終的には個人の選択の問題かもしれない。「私はあえて誰かを傷つけることも辞さない」というのも、場合によっては一つの選択肢としてありうる。

(ちなみに、この項に述べたことは差別だけではなくて(環境型の)セクハラにも当てはまることだと思う。)
(追記1999/12/26 17:33:
「傷つく」ということに関しては、「傷つけた側」ではなくて「傷ついた側」に原因がある場合ももちろんある。この辺りのことに関しては、『クリティカルシンキング』の原因帰属についての議論(第何章だったかなあ、現物が今見つからない)を参照のこと。)

その3:異なる概念体系をもっている人とのコミュニケーション

前項とも関係することだが、ちょっと別という気がするので、別立てにする。それは、発言者と受信者が異なる概念体系を持っている場合である。異文化間コミュニケーションがこれに当たる。

発言者の概念体系(甲)のもとでは差別に当たらない言動が、受信者の概念体系(乙)のもとでは差別的なものになる場合があるかもしれない。その場合、発言者が「自分の文化ではこれは差別的なものではない」ということで押し切れば、それは発言者が受信者に対して自分の文化の概念体系を押し付ける(あるいは受け入れるように求める)ことになる。一方、発言者が受信者の「傷ついた」という気持ちにより沿って自分の言動を変化させれば、今度は逆に受信者が発言者に対して自分の文化の概念体系を押し付けたことになる。いずれにしてもこの場合、甲と乙の間に力の不均衡が生じることになる。

このような場合にどうしたらいいのかについては、一般的なことは今の私には言えない。「第3の道はあるのだろうか」とか「そいえばエンパワーメントって何でしたっけ」とか思ったりもするが、要するに分からない。

その4:いわゆる「言葉狩り」について

ある人がある表現について検討し、その結果「その表現は差別的である」という結論が出た場合に、その人がその結論を公にする、ということに問題があるとは思わない。ただし、その議論を他の人が受け入れるかどうかは受け入れる側の問題であり、またその議論を受け入れた場合に自分の言葉使いを変更するかどうかもその人の問題。

私自身に関しては受け入れることができない議論はいくつかある。たとえば

というようなもの。

とりあえず今日はこの辺で。

 

 

なんだかなあ

なんか、パンドラの箱全開モードって感じ。収拾つかなくなると嫌だな。


12/23

差別について〜ちらっとこちら(12/23)を見て思ったこと〜

「寝た子を起こすな」的な議論の問題点を指摘することは認知言語学者が社会に対して果たすことができる(数少ない?)直接的な貢献である、とぼくは考えているので、今日はその件についてちらっと考えてみたい。

「寝た子を起こすな」論には、「誰かを差別しようとする気持ちがなければ、差別は発生しない」という前提がある。ここで言う「誰かを差別しようとする気持ち」とは、「××なんてろくなもんじゃない/…」のような形の、自覚的というか反省的というか意識的というか、そのような気持ちのことである。

ところが、認知言語学(など)が明らかにしてきたことは、「言語の使い手は、自分が世界に対してどのような捉え方をしているかを、必ずしも(というか、滅多に)自覚していない」ということなのだ。

(あるいは「メタ認知は認知を正確には反映しない」と言ってもいいかも。)

たとえばメタファー。「春が来た」と言った場合、その人は<時間>の構造を<空間>の構造になぞらえて捉えていることになる。でも、普通はその人は「私は時間の構造を空間の構造になぞらえて捉えているのだ!」と自覚してはいない。あるいはフレーム意味論。「人妻」(「またかよ」とか言わないで)という語は、既婚女性を<恋愛>および<結婚>についての文化的に規定される背景知識との関係で捉えた語である。そしてその<恋愛>および<結婚>についての背景知識は、それぞれ内部構造を持ったものである。だけど、「人妻」という言葉をつかうときに、「そのような背景知識との関連で捉えている」と自覚しているとは限らない。「既婚女性である同僚を「人妻」と言うのは何か変だね」というようなことを指摘されて、はじめて気がつくものだろうと思う。

言い替えると、「春が来た」と言った人は、それについての自覚の有無に関わらず、時間を空間になぞらえて捉えたことになるのだし、ある人を「人妻」と言ってしまった人は、自覚の有無によらず、その人を<恋愛>および<結婚>のフレームの中に位置づけて捉えたことになるのだ。

そして差別の問題。

メタファーに関して言えば、ある人々を社会的に「価値がない」とされているものになぞらえた表現を使えば、本人の自覚の有無によらず、その人々を価値がないものとして(つまり(場合によっては)差別的に)捉えたことになる。またフレーム意味論に関して言えば、フレーム(背景知識)が差別を埋め込んだ構造を持っている場合、そのフレームとの関連で意味が規定される言語表現は差別的な意味を持ちうる。したがって、そのような言語表現を使った人は、本人の自覚の有無によらず、誰かを差別しているという可能性が生じることになる。

ということなので、認知言語学的な観点から言うと、「私は誰かを差別しているつもりはない」から「だから私は誰かを差別しているわけではない」は導かれない。だから「差別しているつもり」を生じさせるようなことをしなければ差別は生じない、という議論(=「寝た子を起こすな」的な議論)は成立しない。

以上、言語表現について述べてきたわけだが、同じようなことは行動全般にも言えるだろうと思う。

人の行動のもつ社会的な意味は、その人の自覚(のみ)によって決定されるわけではない。人は自分の行動のもつ意味を(事前にも事後的にも)全面的に自分で判断できるとは限らないし、ましてや自分で決められるものでもない。

(誰かを助けるつもりでやったことが、逆にその人を追いつめることになった、とかいうことはありうることだ。)

だから、差別するつもりがなくても差別的な行動をしてしまうことは十分にありうる。あるいは、他人がしている差別ないし抑圧を糾弾しているその本人が、別の事柄に関しては差別ないし抑圧する側になってしまうことだってあるわけで。

つもりがなくてもやってしまう、というところがこの問題の恐いところであり、ややこしいところでもあるのだ。

以上、行動全般についての議論はまだ不十分だと思うけど、とりあえずここまで。

 

 

追記1999/12/23 21:12

上の議論は、「差別について何も知らなければ、差別をせずに済む」という発想に対する反論にもなっているはず(と思う)。


12/22

サバティカルの過ごし方

実は私、サバティカルの申請資格があるんです。申請する資格があることといざ申請したときにそれが通ることとは別なんだけど、とにかく勤続年数上、申請資格だけはあるはずなのです。

そこで、こんなん考えてみましたのん。

  1. 研究実施機関:駿河台大学現代文化学部
  2. 身分:科目等履修生(?)
  3. 研究題目:Faculty Developmentのための基礎的研究---フィールドワークを中心に---
  4. やることその1:
    現代文化学部開講の授業(主に専任教員担当のもの。演習科目は除くが、外国語科目は含む)に出る、出る、出る、出る、とにかく出まくる。
    ただしお邪魔はしないように、道端に転がる石のように、教室の隅にいる。
    そして、授業の内容や進め方を拝見する。
  5. やることその2:報告書を書く?

現代文化学部には「この人の授業に出てみたい」と思わせてくれる人が何人かいる。そのひとびとの授業に何の遠慮もなく出れる学生が羨ましいのん。

 

 

ふと思い付いたことば

信じたくないことを理解して認める勇気。

それをもつことが、くりしん。

 

 

「三鷹」の「鷹」が書けない私

某封筒の宛名書き。

とりあえず電源が入っていたパソコンでエディターを立ち上げて「三鷹」と入力する。ところが、画面上では下の方が潰れていてよく見えない。そこで次のようなファイルを作る。

\documentclass[12pt]{jarticle}
\begin{document}
{\Huge 三鷹}
\end{document}

そしてコンパイルしてdvioutに流し込む。そして拡大表示。

お、見える見える見える。

なんか、ばかみたい。


12/21

授業アンケートに思う

「家庭(というか、教室以外の場での、授業時間外の)学習時間」と「授業に対する満足度」との間に相関関係はあるのだろうか。

もしあるとしたら、「一生懸命頑張ればそれなりに得られるものがあるのだよ」というお説教のネタに使えるのだが、実は今言いたいのはそれではなくて、 授業に対する満足度は、認知的な不協和の低減の結果として上がる場合がある のではないかということ。

どれだけのものが身についたかとかいうようなこととは関係なく、とにかく一生懸命やった分強引にでも何かを得たことにしないと気が収まらない、気が収まるようにするために強引に何かを得たことにするという操作を自覚せずにやる、ということで。

 

 

セクハラについて、まとまりもなく、思う

セクハラの「被害者」(←いちおう括弧つき)の申し立てを供述分析の対象としてみたら、どのようなことになるのだろうか。まあ、ほとんどの場合は問題にならないだろうし、それに現在の社会状況からするとこのての問題を提起するのは時期尚早なんだろうけどれども、でも、いつかきっとそういう問題が出てくるだろうと思う。

対話の中で構築される偽りの記憶の問題とか、出来事を繰り返し想起する中で生じる記憶のゆがみとかの問題。

被疑者と捜査官の対話(共同想起)から冤罪が発生する(事件が構築されてしまう)のと同じようなことが、セクハラの場合にも起こりうるのではないかということ。つまり、セクハラの「被害者」とその人に共感的な周りの人との対話から事件が構築されてしまうということが、100件に1件か、あるいは10000件に1件か、とにかく割合としては少ないのだろうけど、あるのではないか、ということ。


12/20

某係争中のページがプロバイダーの方針によって削除された模様

推定無罪の原則との関係はどうなるのだろう。

 

 

動物の歌

多次元掲示板(12/17〜12/18)を見ていたら急に懐かしくなったので、別に意味もなく書く。

動物園に行きました

お池にアザラシ泳いでた

背中に何かついているよ

どうやらあれは…
(さすがに恥ずかしいので後略)

それにしてもあの人は50歳なのか。時がぁ経つのぉはなぜっ…(なぜかここだけ大黒まき)ただあの人が好きだったというよりは、ラジアメという番組が好きだった。鶴間さんの存在感とか。だから『みんな正気です』という本が本棚の奥にあるはずだけど、短波は聞いたことはありません。

 

 

これ↑

ふんだ、分かる人だけ分かってくれればいいのさ。

 

 

へろへろ

授業終了。

実は、ひ弱な教師はやめようかと思っている。「見捨てモード」とか「君は自分の立場を分かってるのかな?」とか、そういうあからさまな暴言を吐いて「本多というやつは自分たちを「どうせ馬鹿」だと思ってる許しがたい奴だ」みたいに思われていたクラスが、授業アンケートの結果(学生の家庭学習時間やら授業に対する「知的満足感」やら)が良かったみたいなのだ。

ただし、そこまで暴言を吐いても学生たちとの関係が悪くならなかったのは、「ひ弱」時代のぼくの授業に出ていた人々が再履修やら何やらの形で紛れ込んでいていろいろな形でフォローしてくれていたからだという可能性もあるので、問題はそう簡単ではないのだけれども。

あるいは、自助努力しない人の面倒はみないということをはっきりさせることが肝心、ということだったのかしら。

 

 

テキスト庵

経由でいらっしゃる方、すごく多いようです。


12/19

社会が求める英語力

うちの大学を卒業した人で、現在仕事で英語を使う機会のある人はどれくらいいるのだろう。割合として。あるいは、「もうちょっと英語力があったら…」「大学時代、もう少しちゃんと英語と勉強していたら…」という気持ちの人は、どれくらいいるのだろう。割合として。

「英語を使う」といった場合、「どのような形で」「どれくらい」というのがもちろん問題になるわけだけれども。

「どうせそんなにいないだろう」と言いたいわけではない。でも、「社会に出てから絶対に必要になる!」と言われると、「もうちょっと具体的な言い方で言ってほしいかな〜」とか思うのであった。

 

 

暴言?

ぼくの場合、教員デビューは英語教師としてであった。でも英語教育を専攻したわけではないせいか、教員としてのアイデンティティの中核に英語教育があるわけではない。

だから…

やっぱり書くのやめよ。まあそんなところです。ただ、英語学の授業は受講学生の方にそれなりの英語力がないと成り立たないのですが。


12/18

おしらせ

学内のサーバーの停止により、 12月21日(火) 9:00 〜 18:00 の間、メールの送受信ができません。

 

 

問題

次のパラグラフを読んで、下の問題に答えましょう。

ヘッドフォンを耳に当ててやや早口の英語を聞きはじめた私は、あることに気がついた。街は音の洪水なのだ。ふだん何も考えずにぼけ〜っと歩いているときには全く気がつかなかったのだが、英語を聞きながらだとすごくよく分かる。電車が走り出せばエンジンの音や女子高生の話声。止まれば駅のアナウンス。大通りでは行き交う車のエンジン音。デパートに入ればBGM。パチンコ屋の前を通ればちんちんじゃらじゃら。そのたびにCDの英語が聞きづらくなるのだ。これは盲点だったなあ。せっかく通勤時間を有効利用できると思ったのだが。

このパラグラフは何について書かれたものですか。次のうちから選んでください。

  1. 私の英語学習法について。
  2. 私が気づいたことについて。
  3. 街が音の洪水であることについて。
  4. その他。

このパラグラフはそのことについて、どのような内容が書かれたものですか。40字以内でまとめてください。

このパラグラフに小見出しをつける としたら、あなたはどのようなタイトルが最もふさわしいと思いますか。次のうちから選んでください。

  1. 私の英語学習法。
  2. 私が気づいたこと。
  3. 街は音の洪水。
  4. その他。

 

 

根回しの技法

「別に××してほしいって根回ししに来たわけじゃないんだけどね」

 

 

圧力のかけ方その1

「別に××するように圧力をかけてるつもりはないんだけど」

 

 

圧力のかけ方その2

「もちろん、最後は○○さん自身の判断で決めていただいていいのですが。」

 

 

でも、これは催促とは違いますよね。

「○○さんまだ講義要項出してないんですか。あ、でも大丈夫。ぼくもまだ出してませんから。当分出せそうにないわ。」

 

 

You are drinking and driving.

「運転しているのは今、でも酒を飲んだのは5分前まで」という場合でも言えるのかしら。なんか言えそう。でもその場合、You are driving.はOKだけれどもYou are drinking.はおかしそう。


12/17

本日も金曜出勤

とにかく玄関を出るまでが辛いのであった。出てしまったら、あとは何とか体が動く。

 

 

不快である。

口内炎。

 

 

東田ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)と大絹きょ〜ぢゅ(仮名)に断固抗議するぞ。

何で学部懇親会の締めのことばをぼくにやらせるかなあ。しかも打ち合わせも何もなしで、突然。

ぱんち!ぱんち!ぱんち!

今度そういうことしたら研究室の机に「フェイクなおみ命」って彫るぞ。りべんじ!りべんじ!りべんじ!


12/15

ご解任

になっていただけると嬉しい、とか思ったりすることがある。誰が、とかいうようなことはまああれとして。

 

 

そういえば

先日の一年生のための集まりで某きょ〜ぢゅが言及していたサイトは「大学ランキング」。うちの大学の学生の投稿が載っているぺーじは「埼玉」

【人気のある教授名】に挙げられているのは 吉田邦久 小林 長谷川 河上 瓜生。敬称略。順序は変更してあります。コメント略。

 

 

予告

上のリンク、都合が悪くなったらすぐに外します。悪くならないことを祈る、というか努力するけど。

 

 

うそ!

いま上のページで来年からの新規非常勤の大学を見ていて、衝撃の書き込み発見。

「夏はクーラーがないことが非常に厳しい。」

私の行く学科はどんな感じなのだろう。心配。

 

 

不明な予感。

某事。書かれていることだけだったら、ほとんど賛成。というか、うちらはもうちょっとだけ先に行ってるかも。

問題は、書かれていることの実現の仕方。そして、書かれていないこと。

悪い予感、あり。


12/14

つづき

そして、状況は変わった。というか、教員になってみると、学部生として英語教育を受けていた時分とはずいぶん状況が違うということが分かった。

たとえば、出版社から送られてくる新刊目録に載ってる新刊。「文学臭強い」「実践的でないっぽい」「読むだけでおしまい」という教材は少ない。大学によっては今でも読むものを「フィクション」と「ノンフィクション」に分けて両方をやらなければならない、としているところもあるようだが

(脱線:「フィクション」と「ノンフィクション」という区別から小学校の図書室を連想してしまう私は何者?)

そういうところはきっと少数派で

(もちろん短大の英語の授業でChomskyの原文を読むなんてのもきっと少数派で)

いまリーディングの授業のための教科書として出されているものは今日的な話題についての文学色の薄いエッセイを集めたものが多い(ような気がする)。ということで、古典的な教養主義が弱まる、という形の変化がまずあったわけだ。

そして次に、学生の学力の変化。

という状況の中での時事英語とやらについて、以下うねうねと考えてみる。どういう教材を使うかによって話が違ってくるので、一応分けて考える。

 

以下、次回。(書き始めたのだが、迷走ぎみなので仕切り直しすることにした。)


12/13

人それぞれのものの見方考え方

「世の中にこんなつまらない大学英文法の教科書があったのか!」と去年の今ごろぼくが驚き呆れた教科書を持ち歩いている教員(非常勤)を、本日発見。

 

 

よれよれ

先日の夕刻、某出版社の営業担当者が研究室に来訪。英語教育とも言語学とも心理学とも…とにかく教育にも研究にも関係ない筋の人。幸いなことにその時部屋に学生がいたので、その人はそのままお帰りになられた。

そして今日。恐ろしいことに午後の授業の前にまた来訪。ぎゃ〜。幸いなことに鐘が鳴った直後で、ぼくは授業があったので、とりあえずおひきとり願った。その時のその方のお言葉:「この授業は何時頃に終わられるのですか?」悪い予感。だが、とっさのことだったので正直に答えてしまう:「3時前くらいです」。

だが、3時以降は自分の仕事をするのだ。大した仕事ではないが、それでも邪魔されては困る。それに、今日はよれよれに疲れているから、営業の相手をしてられる気分ではないのだ。ということで、教室に向かいながら対策を考える私。そして…

3時前、部屋に戻る。一応オフィスアワーの時間だったのだが、ドアにはってあった案内を外す。そして「帰宅」表示にする。以前にも書いたようにこの時間には実際には学生は来ない。だからこうやっても何ら支障はない。そして、中にこもってお仕事開始。

しばらくすると、ノックの音。無視。無視。それで、無事、何事も起こらず。やったね。

 

 

ちなみに

この時の「帰宅」の表示に関して言えば、「事実に反している」「事実に反しているということを、ぼくが認識している」「ぼくの方に、人をだまそうという意図がある」の3点を満たしている。つまり、ぼくは立派な嘘つきだあ。

 

 

慣性何ちゃら

バスの乗客として、座席に座っているとする。

「乗客が自分一人しかいない場合」と「満員の場合」を視覚情報にも聴覚情報にもよらずに体感だけで区別することはできるのだろうか。

ぼくは「きっとできる」と思っている。でも、確認のしようがない。満員の状態で走っているスクールバスは「重い」という感じが確かにあるのだが、でも、視覚情報(「人がたくさんいる」)と聴覚情報(「わいわいごそごそ」)から「満員だ」という知識が得られてしまって、それが干渉している可能性があるから、本当に体感だけで「重い」と感じているという保証がないのだ。

運転する立場になればまたずいぶん違うのだろうな。

 

 

時事英語の件

続きは明日にでも。


12/12

「時事英語」とやらについてうねうねと考えてみる

私の本務校での担当科目に、「時事英語」というのがある。その科目のカリキュラム内での位置づけに関してはここで論評するわけにはいかない(学内のしかるべきところで言わないといけない)のだが、「個人の立場で書く!」と開き直れる範囲で、ここにうねうねと思ったことを書き連ねようと思う。

てゆうか、「時事英語」って何? いったい何を目指しているの?

時事英語というのが大学の英語のカリキュラムの中に入るようになったのはいつごろだろう。実はぼくにはよく分からない。調べてないから分からないだけかもしれないけど。以下、事実と記憶と想像とを区別しないでブレインストーミングっぽいかたちでごちゃごちゃ書いてみます。(←自己ハンディキャップ行動。)

昔の大学の英語の授業というのは、文学好きのひとびとの嗜好にあったものだったということなのか、とにかく昔の英米人が書いたわけの分からない文学作品とか文学的な随筆とかを読まされていた。教科書はどこを見てもひたすら英語の文章がず〜っと続いていて、しかも編集者/注釈者の書いた部分というのはなくて原文のテクストばかりがず〜っと続いていて、しかも絵も写真もなくず〜っと文字ばっかりが続いていて、そして最後の方にちょこっと、単語についての注釈がついている、しかもその注釈は、けっこう間違いが多いという噂、そんな感じだった。授業の進め方は学生に当てて音読させて日本語に訳させて教師が適当に補足してそれでおしまい。

それがいわゆる「教養主義」というやつだった。この「教養」とは何らかの意味で「古典」と結びつけられたものであり、それは「実際的な英語運用能力」と対比されて理解されていた。「それでは喋れるようにならないではないか」というそれなりにもっともな批判に対しては、「そもそも喋れるようになることなんか目指していないのだ」というそれなりにもっともな反論ができた。

そんな状況の中で「時事英語」という科目が登場したわけだ、きっと。そしてそれは当初、「教養英語」と対比された意味での「実用英語」の匂いをぷんぷんさせていたものだったろうと思う。「古典ではなく、現代」「教養ではなく、実際的な英語の運用」という二点において。「時事英語」の名のもとに実際どのような授業が行われたのかは、これも調べてないから分からない。英字新聞を読んでいたのか、何かしら聞き取りでもやってたのか。

ところがその後、状況が変わった。(以下次回。)


12/11

工藤さんへ

長嶋さんの監督としての手腕とか、過去にFAで巨人に行ったひとびとのその後とか、あるいは落合ひろみつ(←字が分からない)の最後とか、全部知ってて行くんですよね。

一つだけお願いがあります。阪神戦には登板しないでください。好投してくれても嬉しくないけど、自滅してくれてもやっぱり嬉しくないんで。(←プロはgovernされてはいけないという話に似てるかも。)パリーグにいてくれたら、利害関係(?要するに阪神との関係だ)なしに純粋に応援できたのだけれども。


12/10

タクシーで出勤する私

運転手さんはご子息がうちの大学に受かったんだけど実際には別の大学に行った、という方。ということでずっと大学談義。利用距離が長いと「ぼ〜っとしていたい」という願いは叶わないみたいです。

個人の立場でぼこぼこ本音を語っちゃっても構わないんだろうとは思うんだけど、でも何となく弱みを見せたくないかなあ、なんて思ったりもする私。弱みといってもうちの大学に固有の弱みではなくて、今の大学が共通して抱えている弱み。

でもずうっといい加減な返事をしているわけにも行かず、最後の方はそれなりに答える。


12/9

唐突に

小学校のとき以来「反省する」ということはいいことだという価値観を何となく持ち続けてきたのだが、それが鬱の一つの原因だということに、今気がついた。

世の中には問題のないものはないわけだから、どんな行動にも必ず至らない面があるのだ。そして、「反省」というのは後知恵モードの行動だ。だからいたらないところを見つけようと思えば何かしら必ず見つかる。ということは、一生懸命やって、しかもそれなりに成果が挙がったときであっても、「反省」したために鬱になることがありうる、ということなのだ。

だからうだうだと反省し続けてる暇があったら、手と口とアタマ動かして、その問題点とやらをさくっと解決する方向で動くべきなのだなあ。それが頭を切り替えるということ。

でもさ、大場さんと加門ちゃんが自分の名前も分からない状態で人を振り回し続けて、それを全然反省してない(大場さんと加門ちゃんの場合、名前が分からないということは、反省できないということと同じなのだ)のを見ると、「ああはなりたくないなあ」とも思うし。う〜ん。


12/8

宿題

トピックセンテンスの話/時事英語の話

 

 

書こうかなあと思ったんだけど時間がないことども

及ばざるは及ばざるなりという話/日々の気持ち/卵かけご飯


12/7

コンビニの年齢チェック

餌やれ日記(12/7)からたどったこちら (12/4)の情報。な〜んだ、12/17/29/49/50だったのね。ということはぼくはきっと「29」を押されているに違いない。何年も前からぼくの顔を見ている店主はともかく、バイトの人は迷わず「29」だろうと思う。

てゆうか、49歳の人と一緒にしても意味ないでしょ!

てゆうか、49歳の人と一緒にしないで!

(ぼくがいつも行くところはセブンイレブンではないんだけれども、まあいいか。)

ちなみに、学生から年を聞かれたときには、以前はこんなふうに対応していた。今年度はちゃんと答えたり、はぐらかしたり、その時々の気分で変わっている模様。

ネット上では…某所で簡単に調べられるのでした。だからここでは教えてあげない。

 

 

リンク集ネタ

リンク集の改訂がこんなに話題になるのも珍しいと思う。自分の好きな人が自分のことをどう思っているか、というのはきっとみんな気になるのでしょう。

ちなみに「その1その2えとせとらは「格」の違いではなくてキャラクターの違い」というのが99/08/25(の正確にはちょっと後かな?)以来のぼくの理解です。

「いもむし踏み」は笑いました。リロードは下品と分かっているので普通はやらないのですが、あそこは特別。あの大胆に感覚に訴えかける刺激的なコメントを見ると、平常心ではいられなくなってしまうのでした。

 

 

ずっと不思議に思っていること

(ほかのページでもきっと前に取り上げられていることなのだろうけど。)

「単位」の本来の(?)趣旨から言うと、演習科目や(2000/8/8 23:31)外国語科目よりも講義科目の方が宿題が多くていいはずなのではないかしら。

 

 

某サイト

infoseekにキーワードぶち込んで発見。

(gooでは見つからなかった。なぜだろう。)

日記ページ、どうしても特定の曜日だけに注目してしまいます。


12/5

こんな本読んじゃったりして

指名の仕方、穴埋めの話、文の整序の話、段落内容の整序の話、多読の話など、参考になることが多かった。

ただし、トピックセンテンスという発想はぼくには理解できなかった。問題点は二つ。

つづき。)

それからマニュアル化を拒否する姿勢、つまり

「教育というのは本質的に創造的な行為なのであるから、教員一人一人がそれぞれに工夫することが必要。だから私が言ったことを何の工夫もせずにそのままやってそれで成果が上げられるなんてことを期待するのは筋違い」(←引用ではなく本多の要約)

という発想は問題あると思う。こういう発想を見ると、教育学(の一部)は経験科学になることを積極的に拒否しているのだな、と思う。

経験科学になることがいいことがどうかはまた別の問題だけれども、でもぼくは教育方法論というのは「最低限の資質を備えた人であれば誰がやっても(言われた通りのままやっても)それなりの成果があがる方法」というのを開発すべきだと思っていて、だから「同一条件の下での再現可能性」を目指さないようなのはいいと思わない。(問題は「同一条件」をどのように設定するかなのかもしれないけど。)

以上、良いところは項目だけ挙げて具体的なことは全然書かず、問題ありそなところだけ詳しく書いてしまった(教員としてはあまり良い姿勢ではないかも)のですが、全体としては良い本でした。書かれていることの一部は授業に取り入れる予定。

 

 

懸案

ようやく喪中の葉書の宛名書きなど。これに関しては現代化 (12/4)してないのでうねうねにょろにょろへろへろと手書きで。

実は、去年年賀状を頂いたり差し上げたりした方のリストがどさくさで行方不明なのである。一昨年のリストは去年のと一緒にしてあったので、当然こちらも見当たらない。ということで、その前の年のをもとに書く。だから漏れてる人もいるかもしれない。恐縮。

どういう性質のどさくさだったかということは喪中の葉書きが届いた方には察していただけると思うのですが…(というような性質のどさくさなのです、要するに、って書いても分かる人にしか分からないのだろうけど。)

 

 

ボーナスは0.4か月分弱

非常勤でボーナスが出たのは今のところがはじめて。


12/3

Croft祭り

興味あるんだけど、日程的に行きづらい気配。

 

 

唐突に思う。

中小企業の経営者というのは、しょせん、企業を自分の自己実現の場としか考えないものなのだろうか。

経営者が「ほら、どうです、うちはすごいでしょう!!!」と言わんばかりに広報の前面に出て浮かれるのは、自己実現という観点からすれば気持ちも分からないことはないんだけれども、広報上の効果としては、いかがなものかと思うのだ。

実際は検証してみないと分からないことだし、しかも、どうやって検証したらいいのかもぼくには分からなかったりするのだけれども。

 

 

唐突と言っても

考えたきっかけを書かないから唐突に見えるだけなんだけど。

 

 

商売

学生のために、プリンターの用紙を5枚単位で売ってくれる商売はないものか。図書館で検索した結果を打ち出すときとか、100枚単位じゃないと手に入らないってのは、不便。

 

 

構築など

「構築」に関してはぼくはどちらかというと容疑者自身の想起の問題(あるいは容疑者と捜査官の共同想起の問題)として考えていたのですが、ほかのみんなの話としても成り立つのは確かだと思います。

受験の問題に関しては、一人で考えたことではないのですが、情報源は書かない方がいいと思いますので、書きません。

 

 

新しい教養主義英語教育としての時事英語の授業

今日はタイトルだけ。


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