雑記

目次あやしい認知科学の世界ひ弱な大学教師の遠吠え

4月の雑記、5月の雑記、ホーム
最終更新 1998/3/31 14:53  

3/31


3/30


3/27

英作文の授業

気がつくとまた悪口モードになっているので、軌道修正。

1997年度に限って言えば、一番評判がよかった授業は、ほぼ毎週課題を出した授業(英作文)だったようだ。ほぼ2週に一度の割合で短いエッセイを書いてもらい(「書かせる」という言い方は嫌い)、その合間にはその都度配布したプリントを試験範囲とする短文(この「文」はsentence)の小テストをやった。

エッセイの宿題は添削して評価をつけた。ただし文法は評価の対象外とし、内容に関してよくできているものに大きく丸をつけ、「たいへんよくできました」のはんこを押す。春学期は長さも評価の対象外としたが、秋学期は長さを評価に入れた。小テストは点数をつける。どちらも、提出された翌週には返却することを原則とする。小テストに関しては、返却した後すぐに正解と採点基準を公表する。毎週自宅で勉強しなければならない学生も大変だが、毎週提出者全員分の答案をチェックしなければならないこちらは、実はもっとつらい。

英作文の授業は、手抜きをしようと思えばいくらでも手抜きが出来るが、逆にまじめにやろうと思えばいくらでもまじめに出来る。どちらにしても、その姿勢はすぐに学生に見抜かれてしまう。手抜きをすればなめられるが、真面目にやればやる気のある学生が歓迎してくれる。(必修なので、課題が多いと受講者が減る、ということはない。)1997年度は、真面目にやった年だった。

真面目にやるときに一つ注意していたのは、押し付けがましい態度を取らないということ。「私がこんなに一生懸命にやってるんだから、君たちもちゃんとやるように」というようなことは言わず、いつものように ふにゃふにゃあっっとした態度でやっていた。いい印象で迎えてくれているのだから、高圧的になる必要はない。空回りする情熱は虚しいし、恩着せがましい態度はせっかくできかけた関係をぶち壊してくれる。

ちなみに、私の場合手抜きモードのときは(こちらにコンプレックスがあるせいで)高圧的になりがちだが、その場合、「後ろめたい気持ちをごまかすために偉そうにしているんだ」ということは学生に伝わってしまっていると思う。

ところで、課題と自宅学習の話はさておき、肝心の授業時間中は一体何をしていたのか、という話になるが、実は授業はほとんどリーディングの場と化していた。教科書の形式が、「幸せ」「恐怖」「友情」「怒り」「厚意」などなどといったかなり抽象的な事柄をテーマとする英語のエッセイを読んで、そこに提示された見解に対して自分の経験を踏まえて英語でコメントする、というものだったのだ。そういえば、最終試験の英作文に「友情なんて、この授業で考えるまでまともに考えてみたことなんてなかった」と書いた学生もいた。

1998年度も英作文は同じやり方でやる予定。英作文のコマ数は減るから、かなり楽になるはずだ。ちなみに駿河台大学の英語の授業は、一クラスが多くて30人程度。少ない方だろうと思うが、それでも基本的に怠け者である私には、真面目モードで作文の授業ができるのはこの人数が限界。


3/26

製品名としての「ネットスケープ」

「ネットスケープ」は製品の名前ではないから、製品を指すのにこの語を使ってはいけない、と言う人々がいる。そういう人々は、きっと「IBMを使ってみた」とか「トヨタに乗った」などとは言わないに違いない。

「ネットスケープ」だけはこだわるけど他のことはどうでもいい、という人々がもしいたとしたら、それは専門家を気取る人々の排他主義的な思いあがり、ということになると思う。

自転車のライト

小学生の頃、はじめて自転車に乗れるようになって、まず物足りなく感じたのがライトだった。どんな風に向きを変えても、いくら速く走っても、ぜんぜん前が明るくならない。「まだ昼間で周りが明るいから見えないんだ」と誰かに言われ、夜まで待って試したことがあるが、その時も同じ。なんて貧弱なんだろう。こんなんでいいのだろうか。車のライトほどではなくても、せめてもう少し明るくならないと、役に立たないではないか。

自転車のライトは前を照らすためにあるのではなく、前から来る人に自分の存在を知らせるためにあるのだ、ということに突然気づいたのは、中学3年生の夏か秋だった(そのころ、週一回の塾通いで帰りが夜10時とか11時とかになることがあった)。つまり、自分の利便のためではなく、他者の利便のためにあるというわけだ。(そしてそれが、同時に自分の安全にもつながる。)

個人的には、会議にはお茶が不可欠だと思う。事務職員が出る正式な会議ではぼくらが何もしなくてもほうじ茶を用意してくれることになっているが、教員だけの会議では誰かが気を利かせないと何もでない。会議の場所がぼくの研究室に近くて、しかも結構長引きそうなしんどい会議の場合は、ぼくが自分の部屋のポットを持ち込むことがある。それから、紙コップをたくさんと、各種ティーバッグも持っていって、全部テーブルの真ん中にどかんと置く。そして、言う。「自分が飲みたいから持ってきただけです」。妙に何度も繰り返す。これで分かってくれる人も、いる。

宴会の席で、誰やら一号さんが、ひそかに嫌っている誰やら二号さんに、こんなことを言っている。「あちらが上座ですから、どうぞ」。おいおい、そんなにまでして彼を遠ざけたいか。

昨日、久しぶりに出勤すると


3/24

カメラを振り返るネコ

(あれは社会的参照?)

小さい子どもは、新奇なものにはじめて手を触れようとするとき、一瞬そばにいる養育者の顔を見る(ことがある)のだそうだ。その時養育者がにこにこと微笑んでいれば、子どもはそれを「OK」のメッセージと解釈して安心してさわりに行くのだが、養育者がこわい顔をしていると、子どもは触るのをやめる、という話だ。

これは「社会的参照」と呼ばれる。<子ども>と<環境>の相互作用が二項的なものとしてではなく、<他者>を介在させた三項的な関係として成立するものであり、また子どもの認知発達には他者が関わる、ということを示す例の一つとされる。

「さんまのスーパーからくりテレビ」などのような投稿ビデオを集めたテレビ番組を見ていると、ペットの振舞いを記録したビデオが必ず取り上げられる。そんな中に、家の中で飼われているネコがいたずらをする場面を撮ったものがたまにある。じっと見ていると、いたずらをしようとしてターゲットに向かっていくネコが、途中何度かこちら、つまりカメラの方を振り返ることがある。あれは正確には、カメラの方を振り返っているのではなく、カメラを構えている飼い主を見ているのだと思う。そしてもしかしするとあれは、ヒトの赤ちゃんがやる社会的参照と同じ性格の行動なのではないか、と思う。ただ、私はネコを飼っていないので、あくまでも「思う」というだけの話だ。

ネコを飼っている人だったら、実験らしきものができるかもしれない。何かネコの気を引けそうなものをおいておいて、ネコがそれに近づこうとしたとき、にこにこしたり、にらみつけたりする。それでネコの行動が変わればめでたしめでたし。けっこう面白い結果が出るのではないかという気がする。

ぼくのかわりに君が!!

昨日書いた件、今日起きてからもう一度考えた。中学生の頃の解釈の方が正しかったのではないかという気がしてきた。混乱気味。

最近

ネットスケープがよくフリーズする。原因は不明。


3/23

出した手紙はポストに舞い戻る?

私の家族は、誰も「郵便受け」という語を使わない。意味は知っているはずだが使うのを聞いたことはない。かわりに何と言うかというと、「ポスト」という。「郵便来てるかどうか、ちょっとポストみてきて」みたいに。もちろん手紙を受け取るところだけではなく、出すところも「ポスト」である。

うちの家族が特別にお馬鹿なのかというと、どうやらそうではないらしいということが去年分かった。ルクプル(正しい表記は知らない)の「ひだまりの詩」(同じく)という歌を聞いて、正直ちょっとほっとした。

ぼくのかわりに君が?

歌の話をもう一発。

オフコースの「さよなら」が流行ったのは私が中学生のときだった。この歌の最後の部分から、当時の私は次のような結論を引き出していた。

この歌に出てくる「ぼく」はとんでもない浮気者だ。

そして歌全体から受ける印象とのギャップが説明できず、ひそかに悩んでいた。

あの歌の最後は「愛は、悲しいね。ぼくのかわりに君が、今日は誰かの胸で眠るかもしれない」である。これを私は、次のように解釈したのだった。

いつもはぼくが、他の誰かの胸で眠っている。でも今日は、ぼくのかわりに君が、他の誰かの胸で眠るかもしれない。

「ぼくのかわりに君が」ではなく、「ぼく(の胸)のかわりに誰か(の胸)」だと分かったのは、学部生のときだったか、院生のときだったか。どこまでお馬鹿なこの私。


3/21

「あの人誰か知ってる?」「知ってるよ」「教えてよ」「…???」

(メタ記憶と「度忘れ」)

「あそこに立っている人が誰か、ご存知ですか」という質問文と「あそこに立っている人は誰ですか」という質問文は、見方によれば同じことを聞いているといえる。というのは、どちらも「あそこに立っている人の名前を教えてください」という要請を伝えるという語用論的な効果を持ちうるからだ。しかし、別の見方では、この二つは全く違うことを聞いているということもできる。

「あそこに立っている人は誰ですか」という質問に答えるためには、聞き手は<その人の名前についての自分の知識>を活性化しなければならない。一方、「あそこに立っている人が誰か、ご存知ですか」という質問に答えるときには、<<その人の名前についての自分の知識>についての自分の知識>が活性化される。これは、知識についての知識、つまりメタ知識が活性化されるということである。この場合の「知識」は「記憶」と言い換えてもいい。つまり、この質問に答える際には、メタ記憶が活性化されるといえる。

<<ある人の名前についての自分の記憶(甲)>についての自分の記憶(乙)>つまりメタ記憶(乙)が活性化されるときに、名前についての記憶(甲)が同時に活性化されることもあるかもしれない。が、記憶(甲)が活性化されないまま記憶(乙)だけが活性化される場合もある。その場合記憶(乙)が正しいという保証、つまり「自分がその人の名前を本当に記憶している」という保証はないことになる。だから、記憶(乙)は正しくない、ということもありうる。たとえば小学校低学年の子どもあたりだと、次のような会話が起こることがあるという話である。

小学校低学年あたりではまだメタ記憶の能力が十分に発達していないという話をどこかで読んだ記憶がある(どこで読んだかは忘れてしまった)。

「度忘れ」というものがちゃんとした心理学の世界でどのように考えられているのか、実は私はまだ調べていない。ただ次のことは言えるような気がする。

ということは、小学校低学年の子のような、メタ記憶の能力が十分に発達していない人たちは、「度忘れ」という経験をしないのではないか、という気がする。あくまでも「気がする」というレベルの話だけれども。


3/20

suspended clause

井口さんの論文をようやく読んだ (Functional Variety in the Japanese Conjunctive Particle Kara 'Because'、大堀さん編の本、pp. 99-128)。データがきれいにまとまっていて、非常に参考になる。ぼく的には(という言い方を嫌う人もいるようですが…)suspended clauseには前々から興味があった。ということで、非常に面白かった。

suspended clauseに関しては、いつか論文を書きたいと思っている。(実は『英語青年』1997年3月号の原稿を依頼されたとき、「世界の知覚と自己知覚」の話にしょうかsuspended clauseの話にしようか迷ったのだが、思うところあって知覚の話にしたのだった。ということで、suspended clauseに関してはある程度形になりかけているものがある。)


3/19


3/18

言いたいことの立ち現れ

人を批判するのにも飽きてきたので、今日はある同僚に感謝の気持ちを込めて…

学内の会議の席で、たまに自分の意見を述べることがある。こちらの議論を理解した上での「反対です」に対してはあっさりと引き下がることも多いが、誤解に基づく反対に対しては、とりあえず話が通じるまで食い下がることが多い。ところがやっかいなことに、こちらがいくら言葉を尽くして説明しても皆には全く通じないことがある。そんな時、それまで黙って聞いていた某さんに「これこれこういうことなんですね」のように言われて、「それそれ、私はそれが言いたかったのです。よくぞ言ってくれました」みたいな気持ちになることがしばしばある。

某さんが言ってくれたことは、確かに私が言いたかったことである。しかし同時に、某さんが言ったことはあくまでも某さんが言ったことであって、私が言ったことではない。某さんがが言ってくれるまでは、私自身にも言えなかったことなのである。かといって、それは純粋に某さんの意見というわけでもない。それまでの私の発言、というか苦闘がなかったら、某さんのその発言は出てこなかったはずである。これをいささか乱暴に言い換えると、次のようになる。

前者についてコメントしておくと、同じことが<行為>全般に関して言える(私以外にも、そのような見方をする人はいる)。つまり、「自分は何がやりたいのか」ということは、そのことをやってからでないと正確には分からない、ということである。実は、「何がやりたいのか」がその行為に先立って明確に存在するという発想は、意図を持つ<こころ>を行為を実行する<からだ>から独立に存在するものとして措定し、前者が後者をコントロールすると考える、という発想に基づいている。つまり、心身二元論。「何がやりたいかなんてことは、それを実際にやってみるまでは分からない」という一見突飛な発想は、意図と行為を分離することをやめる発想にたてば、つまり二元論を捨てる発想にたてば、結構自然なものなのだ。そしてこれは、スキーのときの「左に曲がろうと思い、そのために右に体重をかけようと思ったがうまく行かず、逆に身体はどんどん右に行ってしまう」「環境から入ってくる情報に自分の身体/行為を同調させることができれば、運動制御がうまくいっている」という経験にもつながる気がする。

後者は思考および言語活動が共同行為として行われるということ。言語活動が他者との共同行為として行われるということはいろいろなレベルで言われていることだが、ここで一つだけ例を挙げることにする。誰かに独演会みたいな形式で自由に話をしてもらうことにする。ただし、その人は自分の言うことを聞くことができない(モニターできない)ようにする。そうすると、言うことが支離滅裂になる。もちろん、自分の言うことが普通に聞こえる状態で話せば立派な話ができる人の場合でも、そうなってしまう。自分の言うことを自分で聞く(モニターする)ということは、自分の発話に対して他者として接するということである。まとまりのある発言を行うには、発言を行う主体としての自分の他に、自己の発言に対して他者として接するもう一人の自分が必要である、ということ。

最後にその某さんのことについてコメントしておくと、その人はとっても能力のある人である。そういう人と一緒に仕事ができるということはとっても幸せなことであり、私はその人に密かに感謝している。(「いつも感謝している」と口にしたこともあるが、本気にしてくれていないらしい。)だが、その一方で、私の場合その人がいてくれないと仕事にならない。これは私にとっては結構深刻な問題だったりする。4月になったら、その人のいないところでいろいろとやらなければならなくなるのだ。


3/17

「理想の母親像」をめぐるアンケート

昨年の秋、ある大学(大学名は伏せる。念のため言っておくと、駿河台大学ではない。)の心理学か何かの授業のアンケート調査に答えるよう依頼されたことがある。テーマは理想の母親像。「子どもにお弁当を作る」とか「家の掃除をする」とか、そういう項目がずらっと数十並んでいて、それぞれについて「自分の母親にそうあってほしいかどうか」ということを5段階評価くらいで記入するというもの。ざあっと最後まで目を通した私は、そのアンケートには答えずにコメントだけを言って終わりにすることにした。

どうして「休日に子どもとキャッチボールをする」とか「休日に子どもをドライブに連れて行く」とか「壊れた電気製品を直す」とか、そういうのがないんでしょう。このアンケートは伝統的に受け入れられてきたステレオタイプとしての母親像を前提としているという点で、すでにバイアスがかかっている。そういうのではなくて、一般に母親らしい性質とされてきたものと一般に父親らしい性質とされてきたものとをごちゃごちゃに混ぜて聞いた方が、おもしろい結果が出るのではないでしょうか。

こういうことを言うから私は嫌われるのだ。ちなみに、私にこのアンケートを依頼してきた人はこのアンケートを実施した本人ではなく、実施者に頼まれて回答者を探していた人だった。私のコメントが実施者に伝わったかどうかは、不明。

女性の権利と学生の権利

昨年の夏、ある大学(同じく大学名は伏せる)のフェミニズム関連の授業で受講学生を対象に行なわれたアンケートを見る機会があった。最初に「次の質問に答えなさい」とあり、その下に、学生の実家の主たる家計維持者が誰であるかとか、同じく学生の実家で炊事などの家事を担当しているのが誰であるかとかいう質問項目が並んでいた。念のため付け加えておくと、このアンケートは匿名で行われたらしい。

私が受講学生だったら、このアンケートには回答を拒否しただろうと思う。主たる家計維持者が誰であるかとか、家事を担当しているのが誰であるかとかは、各自のプライバシーに属する事項である。それは人に教えてはいけない、というものでもないが、しかし人に教えることを強制されるべき事柄でもない。公表するかどうかは、あくまでも回答者の意思というか判断に任されるべきである。その際、質問者が授業を担当する教員であるとか回答が匿名であるとかというようなことは、判断材料に含まれるものではあるが、回答を強制するための根拠にはなりえない。ということを踏まえてもう一度アンケート用紙を見ると、いきなり「答えなさい」なのだ。「差し支えなければ答えてくださるようお願いいたします」みたいな書き方で書いてあったら少しは考えてあげてもいいのだが、プライバシーを公開し「なさい」などと命令される筋合いはないと思う。だから私だったら回答を拒否するだろうと思うのです。

この教員は女性の(対男性的な)権利には敏感だけれども、それ以外の権利、特に学生の(対教師的な)権利には鈍感、ということなのかもしれない。断筆時代の筒井康隆が言っていたことを思い出す。差別を糾弾する人は、自分が糾弾したい差別だけを糾弾し、それ以外の点に関しては仮に自分が差別する側に立っていたとしても何も気にしない(引用ではなく、うろ覚え)。差別を糾弾する人のすべてがそういう人だとは思いたくないが、この教員がそういう人に該当するということは確かだ。

この教員は、おそらくが自分が学生の権利を侵害していることに気づいていないだろうと思う。でもこれは言い訳にはならない。「女性を故意に差別をする人がいたらそれは相当の確信犯だが、実際にはそういう人よりも、知らず知らずのうちに女性を差別してしまう人の方が圧倒的に多い」ということを、フェミニズムの人が言っている。ここに出てくる「女性に対する差別」を「学生の権利の侵害」といいかえれば、この言葉はそのまま問題の教員に向かっていく。

この話をある人にしたところ、「その先生は男性に対しては「女性」だけれども、学生に対しては「先生」になってしまうんですね」と言われた。世の中には、大学教員が教育の名のもとに学生の権利を侵害するという事例が多いように思う。これよりはるかにひどい事例もある。でも、私は普段は黙っていることが多い。いちいち怒っていると疲れるし、関係者に話をする機会がないことが多いし、一生懸命手を尽くして関係者と連絡を取った挙げ句、逆恨みされることになったりしてはたまらないし。それに自分だってそういうことをしていないわけではないから、人を糾弾する言葉がそのまま自分の首を絞めることになってしまいかねない。新井将敬状態。でもその一方で「お馬鹿な教員のお間抜けな要求には律義に抵抗する」という姿勢がありうることを教えるのも大学教師の仕事の一つではないかと思うこともある。とにかく、教師の独り善がりというか、偽善というか、そういうのはとっても悲しいし、腹立たしい。本人たちはいいことをしているつもりでいるから、厄介なのだ。

こんな事

を書いている私、なんて閑人なんだろう。(実は仕事があることさえ忘れてしまうほど記憶力が弱まっているだけ、という話もある。)

3/16

わかりにくい地図の話

出張とか私用とかでホテルに泊まると、部屋の入り口に必ず非常口の案内図がある。そういう地図の中には比較的わかりやすいものもあるが、異様に分かりづらいものもある。何が違うかというと、地図表現の中の「上」と、それを見ている現実の私にとっての「前」が一致している場合は、どう行けば非常口にたどり着けるのかすぐに分かるのだが、「上」と「前」がずれると、その度合いに応じて地図は分かりづらいものになる。これを心理学では「整列性効果 (alignment effect)」と呼ぶらしい。

「上」と「前」がずれた地図から情報を得るためには、地図の画像を頭の中でぐるっと回転させて、頭の中で「上」と「前」が一致するようにしなければならない。この操作を心理学では「心的回転 (mental roration)」という。「p」と「q」(あるいは「d」と「b」)が斜めに書かれていたり逆さまに書かれていたりする場合にそれらを判別するする際にも、同じ操作が行われる。そういえばLakoffが1987年のWFDTで「イメージスキーマの運動感覚的なんたらかんたら」の根拠として言及している研究も、この心的回転についての研究である。

実験室の中で行う文字の判別のような単純な課題の場合であれば、それほど苦労しなくて済むだろう。だが、地図に書かれているような複雑な図形をそのトポロジカルな構造を保持したまま回転させるのは、私などにとってはかなりしんどい。ということはつまり、非常に分かりづらい、ということになる。

ちなみに心的回転が出来るためには、「上」と「前」がどれくらいずれているかが分かっている必要がある。また、非常口への経路を知るためには、自分が地図の中のどこから出発すれば(あるいは、今自分が地図のなかでどこにいるか)が分かる必要がある。そのためには、地図上に「現在位置」の表示があった方がいい。言い換えると、わかりやすい案内図を作るためには、同じ図をあちこちで使いまわすことはしない方がいい、ということでもある。

そういう目で世の中を見直してみると、分かりづらい地図がけっこう多い。まずデパートの中の売り場案内。きれいに仕上がっているだけに、虚しい。この手の案内はたいていエレベータやエスカレータの近所にあるのだが、そういうところは壁の向きも複雑に変化するので、ちょっと位置をずらすとすぐに向きが変わる。だから、とっても微妙ではあるのだが。もっとも、これは現在位置の表示があるから、まだ何とか使える。

ひどいのは、駅の近くの商店街のあたりを歩いていて見かける、地元の人が木の板に手書きで書いた案内図。大抵の場合、方向はめちゃくちゃ。「上」と「前」がずれているばかりではない。「北」と「上」も一致していないことがある。しかも、現在位置が書かれていることもほとんどない。だから、そのあたりのことを知らないよそ者には、何の役にも立たない。ちなみに、そのあたりのことを知っている地元の人にとっては、そもそも地図など必要ないはずだ。つまり、誰にとっても嬉しくない地図なのである。

うちの近くの某郵便局の局内には、手書きの駐車場の案内図がかかっているが、これがすごいことに「上」が「後ろ」、「下」が「前」になっている。一瞬、「何でこんな恐ろしい地図を平気で出しているんだろう」と思ったが、理由はすぐに分かった。この地図は局員が書いたものである。局員は、私たちと対面する方向に座って仕事をしている。彼らが何も意識せずに書く地図は、彼らにとっての「上」が「前」になる。それを私たちに見える方向で掲示すると、私たちにとっては「上」が「後ろ」になるのだ。

このような困難を感じるのは、私だけではない(下記参考文献)。だが、そのことは意外に知られていない。つまり、(ぼくらにとって)分かりづらい地図を書いている本人たちは、(誰にとっても)分かりやすい地図を書いたつもりでいるのだと思うそれがいちばんの問題だと思う。なお、このような地図のわかりにくさを認識した作成者が、その上でなお「心的回転の苦手な人は火災のときに非常口が分からなくて死んでもかまわない」とか「売り場案内づくりなんて所詮は雑用だから、出来あがった地図がどんなにわかりにくかろうと私の知ったことじゃない」という態度を取るとしたら、それはそれでまた別の問題である。

最後に一つだけ誉めておくと、東京の営団地下鉄の駅周辺の案内は、分かりやすくて好きである。

文献
天ヶ瀬 正博 1994 「環境・地図・遠近法・定位」 imago 5-2, pp. 143-153 (青土社)

3/13

スキーの話の続き。忘れないうちに。

3/12


3/11


3/10


3/9

昨日、生まれて初めてスキーをやった。小学1年生のときから大学2年のときまで常に体育の成績がクラスでびりだったぼくが楽しげな表情で帰ってこられたのは、体育の先生にマンツーマンで教えてもらえたため。スキーをして、分かったこと。 要するに、生態心理学の授業で言われそうなことを、自分の身でもって実感してしまったのであった。

3/1


2/22

今年の英語学会は入試とぶつからないことが確定。もっとも学園祭と重なるのだけれど、その関係の委員は多分避けられるだろうから、まあ大丈夫だろう。

2/21

大学新聞に寄稿するように言われた。「私の学生時代」欄。何と無謀な。タイトルはやっぱり「『東京ラブストーリー』の頃」しかない。再放送も終わったしね。はてさて、どうなることやら。

2/18

翻訳の初校が送られてきた。編集者さんの仕事って大変だなぁと思う。感謝。

2/13

現代文化学部営業部長(なんだそりゃ)からせっつかれていた学部の公式ホームページがようやく完成し、この日公開された。ぼくを含めた4人の教員の共同制作。多少バグあり。機会を見て直す。

2/11

川岸克己氏あてのメールをようやく書いた。手紙としてはかなり素っ気ないものになってしまった。この場を借りて反省。
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