1979年
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早稲田大学第一文学部哲学科卒。卒論は現代国家論。学生時代から環境問題に取り組み、日本化学工業六価クロム職業ガン訴訟原告団の事務局専従となる。
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1981年
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六価クロム訴訟は歴史的勝訴。環境ガンと公害・職業病対策に多大な影響を与える。
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1983年
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中村哲参議院議員(元法政大総長、社会党)の第一秘書となる。
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1985年
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小田急線高架反対・地下化推進運動を事務局として支え始める。
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1990年
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小田急線高架事業等のため設立された「東京鉄道立体整備」への行政支出取り消しを求める住民訴訟原告となり、運動を支える。
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1991年
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世田谷区議選に初挑戦し、43票差で惜敗。
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1994年
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小田急線の高架連立事業の見直しを求め、事業認可取り消し訴訟原告となり、事務局を支える。
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1995年
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世田谷区議に初当選。
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1996年
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一人会派「無党派市民」を旗揚げ。
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1998年
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小田急線の在来線騒音の責任裁定を不服として、損害賠償訴訟を組織し、事務局を担当。
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1999年
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無所属で世田谷区議に再選。
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2000年
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「街づくり協議会」役員の違法行為を指摘したことに対し、議会で問責決議を受け、後に当事者より名誉毀損で訴えられる。
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2001年
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原告として参加する事業認可取消訴訟東京地裁判決で、梅丘・成城間の高架違法・認可取消の歴史的勝訴を勝ち取る。
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2002年
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2000年の議会に端を発する名誉毀損訴訟、最高裁で勝利。「議会での質問権はプライバシーに優先する」との高裁判決を確定。議会質問の自由を勝ち取る。
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2003年
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世田谷区議3選を果たす。
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2004年
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「Save the 下北沢」を発足させる。
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2005年
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最高裁、小田急線事業認可取り消し訴訟大法廷判決。都市計画法を環境法と位置づけ、環境影響の及ぶ範囲に原告適格を拡大。
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2006年
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下北沢の補助54号線等の事業差し止めを求める「まもれ!シモキタ行政訴訟」提訴。自らも原告の一人。
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2007年
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世田谷区議4選を果たす。
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2008年
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5月の臨時議会での議長たらいまわし選挙で、事務局の関与を見抜き、選挙をやり直させる。テレビ朝日で全国放映され、地方議会形骸化告発の一石を投じた。
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2009年
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京王線でも行政が連続立体交差事業で高架計画(在来線を高架、特急は地下化で素案計画中)を進めようとしているのに対し、沿線住民とともに、地下化推進と周辺環境を守る運動を展開し現在に至る。
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2010年
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小田急線騒音訴訟東京地裁判決。在来線の騒音に初めて損害賠償を命じる歴史的判決を勝ち取る。
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2011年
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・東日本大震災・福島原発事故をきっかけに、公共事業見直しの市民運動の仲間とともに保坂区長擁立に動き、勝利させる。
・区議選では5選を果たす。
・保坂新区長が公約の「公共事業の見直し」を反故にし、放射線量の高い地域で実施の小学生の「川場移動教室」を止めさせないことから、批判的な立場をとるに至る。
・「反原発自治体議員連盟」に参加。
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2012年
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・毎年5000名を超える小学生が参加する「川場村移動教室」実施地域での土壌調査を実施・発表させ、土壌に内部被爆にとってより危険なプルトニウムやストロンチウムが存在することを明らかにさせた。(にもかかわらず、区長と教育委員会は安全だとして同教室の実施を強行したままでいる。)
・「緑の党グリーンズジャパン」の発足に参加。会派名を「緑の党グリーンズジャパン世田谷」に変更。
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2013年
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・保坂区長が主催した町会連合会、商店街連合会、医師会、歯科医師会等各種団体丸抱えの政治パーテイーを徹底批判。
・秘密保護法制定といった政権の右傾化の中で、戦前の「隣組」の「復権」につながる保坂区政の「町会・自治会加入促進条例」制定に反対し論陣を張る。区長は後に撤回
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2014年
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・都知事選では原発廃止を全面に掲げ都知事選を戦った細川元首相を鎌田慧さんたちとともに応援。「原発ゼロを実現する会・東京」に参加。
・免責の違憲性を問い原発推進の根を絶つべく「原発メーカー訴訟」の原告となる。
・地域からの緑の勢力の再構築を目指すべく、会派名を「無党派・緑」に変更。
・「緑の党グリーンズジャパン」では東京都本部運営委員となる。
・集団的自衛権の解釈改憲に反対し「自治体議員立憲ネットワーク」に参加
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