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六章 発展の大正時代
1 新潟市と沼垂町
駅の争奪戦/新潟と沼垂の合併
2 教育の進展
小学校教育の充実/整備される高等教育
3 産業都市への胎動
大戦景気と産業の活況/米騒動の勃発/
新潟港の修築と北洋漁業/急速な交通の近代化 |
1 新潟市と沼垂町 top
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駅の争奪戦
新潟県内の鉄道敷設は、太平洋側の地域にくらべて、非常に遅れており、明治二〇年代には、新潟県と長野・群馬県とを結ぶ官鉄(官営鉄道。現在の国鉄にあたる)が、ようやく直江津(現、上越市)まで達していたにすぎなかった(現在の信越楾)。
ところが、一八九六(明治二九)年二月に、直江津と新潟とを結ぶ目的で北越鉄道株式会社が設立されたが、事業着手の段になって問題となったのは、新潟市内における路線と停車場の位置決定であった。
平和な町を乱されては困ると鉄道をきらう町もあれば、駅獲得のため、はでな争奪戦を演じた町もあった。
後者の例としての最大のドラマが、新潟市と沼垂町の演じた駅の争奪戦であった。
北越鉄道の計画は、新潟市に駅を設置すれば、信濃川を渡るために約一〇〇〇メートルにおよぶ長い鉄橋が必要なので、経費の面から、一時、万代橋付近に駅を設け、後日、新潟まで線路をのばすというものであった。しかし、沼垂竜ヶ島に駅を設ける運動が沼垂側に起き、この結果、会社側も計画を変更することとなった。
信濃川をはさんであい対する新潟市と沼垂町は、港争いで三〇〇年来対立を続けてきた宿命の関係にあったので、鉄道誘致をめぐる両者の対立もしだいに険悪になっていった。
情勢不利となった新潟市では、国への陳情はもとより、市民大会が各所に開かれた。
しかし結局、竜ケ島に駅設置ときまり、営業開始を半月後にひかえた一八九七(明治三〇)年一一月一一日未明、新潟側は非常手段に訴えたのであった。
これが、いわゆる栗ノ木川鉄橋爆破事件である。
この犯人のなかには、のちに新潟市長としてその名をうたわれた桜井市作もいた。
この停車場問題も、その後、一九〇〇(明治三三)年の北越鉄道総会で、新潟駅設置(新潟府弁天町)がきまり、一応の結着をみた。 |

大正期の新潟駅
(新潟日報事業社『新潟の街歴史散歩』より)
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事件後八年目、○四(明治三七)年、レールを「く」の字に曲げて作られたのが新潟駅であった。
信越線開通の結果、沼垂町は活気を見、各種の産業が発達することになる。
新潟と沼垂(ぬったり)の合併
新潟と沼垂とは、成立の歴史こそ異なっているが、信濃川をはさんで、新潟港の上下の唇(くちびる)ような関係を続けてきた。
ことに万代橋が架設されてからは、年一年と一つ町としての性格があらわれてきていた。
両者の合併を促進させる契機となったのが、一九〇七(明治四〇)年二月二日、沼垂入舟町にあった新益社工場からの出火であった。
おりから冬の烈風に火勢は猛烈をざわめ、全町をなめつくしそうな勢いとなり、沼垂町消防隊の力では、到底消火がおぼつかないとみえたので、ただちに新潟警察署に応援を求め、かろうじて要八堀以北で火をくい止めることができた。
この時、沼垂町民は、はじめて新潟市の蒸気ポンプの威力をみておどろいた。
沼垂の安倍町長は、新潟の吉田市長と高野警察署長とを訪問し、親しく謝辞を述べた。
なごやかな気に満ちたこの席上、東西合併して大都市を造成する議が話題にのぼり、時機をみて懇談会を開催することが約束された。
翌年六月、吉田市長の主催で、第一回合同懇談会が鍋茶屋で催された。
一九一一(明治四四)年の第三回懇談会には、課税問題を主題として意見を交換し、たがいに委員を設けて調査を行ない、成案を得ることを申しあわせるまでに運んだ。
しかし、調査の結果、利害を異にする点がいくつかあって、せっかくの合併も雲行きがあやしくなってきた。時の清褄知事は、合併促進の必要をみとめ、中蒲原郡長に命じて、両市町に合併の条件を示して、賛否の回答を求めるまでになった。
その後、しばらくは、合併話は消滅するかにみえたが、一三(大正二)年二月に着任した新しい知事、安藤謙介は、意欲的に合併問題を推進していった。
合併反対の町民は、合併が実現しそうになってくると、劇場や寺院などで町民大会を開催して合併反対の決議をしたり、議員を訪問したりして、町中が騒然となった。
一方、世論が熟するまで待つ方がいいという延期論者や、合併促進論者もあなどりがたい勢力であった。
合併促進に意欲的な安藤知事は、各方面に働きかけ、合併は進行した。
一九一四(大正三)年一月、安藤知事は、合併条件をつけて再び町の答申を求めたので、二月二八日、警察分署の厳重な警戒のうちに町会を開き、合併諮問案を附議し、満場一致可決された。
合併に際してつけられていた条件というのは、一〇か条からなり、それに三つの請願事項が加わえられているが、その内容は、大体沼垂側の利益や既得権を守る見地からつけられた条項で、沼垂の小学校授業料のすえおき、新しい市の助役一名を沼垂から出すこと、沼垂町への上水道の延長、そのほかいずれの条項にも、沼垂町民が、合併によって不利益や不便をうけるような印象をぬぐい去るうとする配慮が見られる。
ただ、おもしろいことには、請願事項三項のひとつに、「沼垂町地内ニ遊廓ヲ新設スルコ卜」というのがあった。
ここに多年の懸案が解決して合併が決定し、沼垂町会は一九一四(大正三)年二月二八日午前九時より、新潟市会は同日午後一時より開会されて、いずれも満場一致可決し、安藤県知事をとおして内務省に合併申請をし、四月一日より実施されることになった。
合併の結果、新潟市の人口は七万二九五八人に増加した。
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合併当時の沼垂町の戸数は二八一五戸、人口一万三三四二人、面積二九八万〇三三二坪、小学校二、実業学校二があった。
産業では宝田製油所・新潟鉄工所のほか、清洒・人造肥料等の生産があり、国税営業者二四二名、県税営業者六九三名、金融機関は沼垂銀行・鍵三銀行支店・大正金融合資会社があった。この合併によって沼垂町東竜ヶ島の信濃川べりに、さっそく築港が建設されることになったのは特記すべきことであった。
2 教育の進展 top
当時の校旗は、雛形として右図のような規格が示された。
図にあるように、その大きさはほぼ畳一枚くらいのものであり、これが五間(約九メートル)の高竿に掲げられるのであるから、当時としては衆目を集めたことと思われる。
一八七三(明治六)年の区内五校の沿革史に記録されている生徒数は、鏡淵校一〇五名、西堀校一八六名、四番堀校一五二名、洲崎校四五名、豊照校五六名、五校合計五四四名であった。
当時の一年生は、たいてい男は一〇歳前後で、女は一一、一二歳が多数であり、また成績順に並べておいたり、男生徒と女生徒を区別していなかった。
一八八六(明治一九)年には、小学校令が発布され、翌年から実施された。
小学校を尋常と高等の二段階とした。
さらに小学校令は、一九〇〇(明治三三)年に改正されたが、新潟市では、○二(明治三五)年四月より実施された。 この時の小学校は右上の表のようであった。 |

小学校校旗の雛形
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これ以後、明治年間に新設された小学校としては、湊校・女子高等小学校・礎校・西堀校などがあり、一九〇三(明治三六)年における学齢児童は、九〇〇〇人をこえ、就学率は九〇パーセント以上であった。
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○七(明治四〇)年には、義務教育年限は六年に延長され、翌年には春秋二度の大火によって市内小学校に大移動が生じた。
一九一四(大正三)年の新潟市と沼垂町の合併に伴って、沼垂校・山ノ下校が編入された。
以後、大正年間には、人口増加に伴って入舟校・二葉校・万代校が新設された。
それでは、明治・大正のころの小学校の授業のようすをみてみよう。
始業・終業の合図は、明治のはじめ学校創設の時には、“げきせき”といって拍子木をカチカチと鳴らして知らせたが、まもなく鐘となった。
鉛筆とノートは授業には不可欠のものだが、鉛筆が一般に普及したのは大正年代で、それまではロウ石で作った石筆を使用した。
明治期の児童は石板と石筆を使って勉強していた。石板は頁岩(けつがん、水成岩の一種。固くて表面がなめらか)の薄い板に木の枠がはまっていて、タテ三〇センチ、ヨコ四〇センチくらいの大きさであった。
算術・書取りなどなんでも石板に書いては、すぐまた消した。
その後、紙石板と呼ぶボール紙製の折りたたみ式が普及し、重宝がられた。
教科といえば、修身・読本・作文・習字・算術・体操・唱歌などで、ヘルバルト教育論などを勉強して教育にうちこむ教師が多かった。
整備される高等教育
上下をあげて教育熱の高まっていた大正時代には、新潟市でも進学希望者は増し、発展しつつあった産業界でも教育ある人材を必要としていたが、中等学校以上の各種の高等教育機関の新設や充実が進められた。
中学校は、すでに一八七二(明治五)年、新潟町の石附五條が、本町通六番町に建てた洋学校が新潟県における中学校の始りであったが、翌年には白山神社地内の備荒倉(びこうそう)に移り、新潟学校と改称した。
八七(明治二〇)年には、私立北越学館、九二(明治二五)年には新潟県尋常中学校(現在の県立新潟高校の前身)が創立された。 |

新潟中学校 明治末期の写真。(『青山八十年』より)
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高等女学校では、八七(明治二〇)年の私立新潟女学校を覇者として、一九〇〇(明治三三)年に新潟県高等女学校(現在の県立新潟中央高校の前身)、二一(大正一〇)年に新潟市立高等女学校、二七(昭和二)年に私立財団法人聖友高等女学校などが設立され、いよいよ中学校教育はその実をあげていった。
第一次世界大戦前後、臨時教育会議の答申にもあるように、高等教育機関の拡充が切望され、新潟市でも一九一九(大正八)年に、官立新潟高等学校が設立された。
開校当時のようすを『県民聞き書き帳』(新潟日報社編)より引用してみよう。
開校は決まったものの、もちろん西大畑の校舎はまだ影も形もありません。
入学試験は七月の暑いさなかに近くの新潟師範の校舎を借りてやりました。
現在の高校と違って学区制などありませんから全国から秀才らしいのが押しかけて競争率は約五倍。
結果的には県外勢が三分の二程度占めたようです。 |
翌年になると、西大畑に新校舎が建てられ、八田三喜校長が着任した。
一九二二(大正一一)年三月に、第一回卒業生文科五九名、理科五一名、計一一〇名を送り出している。
一八七四(明治七)年に、新潟町に官立新潟師範学校が設置され、指導的教員を養成することとなったが、これは七七(明治一〇)年に廃止され、すべてが県に移譲された。別に七五(明治八)年から設立された乙組小学講習所が、七七(明治一〇)年、新潟県師範学校と改称し、さらに同年県立新潟学校と合併して新潟学校となり、その一部門として師範学科となった。
八六(明治一九)年に師範学校令が公布されると、この師範学科は独立して新潟県尋常師範学校となった。
九七(明治三〇)年に師範教育令が発布され、それによって新潟県師範学校と改称。
九九(明治三二)年に高田に第二師範学校が設置されると共に、新潟県第一師範学校となり、一九〇一(明治三四)年には、新潟県新潟師範学校と改称した。
明治の教育制度は、改革につぐ改革に、年を迎え送ってきた時代であった。
そして、大正は――内容充実の時代ともいうべき時であった。
大正年間、このころを人呼んで「新潟師範のルネッサンス」といっているが、陸上競技王国であり、文化活動も盛んであった。
混乱の昭和期に入っても、この良き伝統が継承されていった。
四三(昭和一八)年には戦時政策の一環として官立専門学校となり、新潟第一師範学校となった。
官立新潟医学専門学校は、一九一〇(明治四二)年に設立されたが、さらに二二(大正一一)年四月に、新潟医科大学に昇格した。
二六(大正一五)年三月には、第一回卒業生一八名を送り出している。新潟医科大学は、金沢・千葉・岡山・長崎の四医科大学と共に発足したが、以来、北信越における名門医科大学として、基礎医学の面で多くの実績をあげ、さらにつつが虫病やくる病など地方病の研究に名声を博した。
図書館の開館もまた、大正時代のことである。
一九一五(大正四)年四月、明治記念新潟県立図書館が創立され、八月から各郡部と県立学校長巡回文庫を開始した。
翌年になると、図書一万三〇〇〇余冊と図書購入費一万五〇〇〇円を新潟市が寄付した。
一二月に入って、本館は木造二階建一六〇坪の館舎が寄居町(現、日本銀行新潟支店の敷地)に竣工した。
児童室・新聞雑誌閲覧室と普通・特別・婦人の各閲覧室があったが、当時の閲覧状況は右の表のとおりである。 |

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3 産業都市への胎動 top
大戦景気と産業の活況
一九一四(大正三)年七月、ヨーロッパで勃発した第一次大戦は、明治末年来の不況にあえいでいた日本経済に、まさに春風来たるの感を与えた。
交戦国は軍需品その他を日本から求め、ヨーロッパの有していたアジア市場は、労せずして日本のものとなった。
大戦の好況に乗り、市内の近代工業も家内工業の域を脱して発展の端緒をつかむことができた。
とりわけ、化学・傚械工業部門の伸びは著しかった。
また、会社数・資本金額も増加し、会社数では一七(大正六)年末には一二(大正元)年末の一・八倍、資本金額で二・一倍、二六(昭和元)年末には会社数は二・五倍、資本金額は七倍に伸長した。
国立第四銀行の後身である新潟銀行は、一九一七(大正六)年、行名をもとの第四銀行と改称、大戦後の不況を契機とした銀行の統廃合でも中心行のひとつとされ、中小銀行を吸収合併していった。 |

銀行の窓口 明治30年代の新潟銀行の内部。
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一四(大正三)年には日本銀行新潟支店が上大川前通七番町に設置され、県下金融界に多大の貢献をした。
相互信用無尽合資会社が一二(大正元)年、市内初の無尽(むじん)会社として設立されたのを手はじめに、一六(大正四)年に新潟無尽株式会社、二〇(大正九)年に株式会社大森無尽銀行なども設立を見た。
製油業は、県産石油の減少と産業の発展による需要増に応じて、外油への依存度を高めると共に、個人経営から会社経営への転換が進んだ。
また、日石・宝田の大手二社も、外油に対抗すべく、一九二一(大正一〇)年、対等合併して日本石油株式会社として新発足し、二三(大正一二)年には、新潟製油所で外国産原油の精製をはじめた。新津恒吉も、新津から新潟へ進出し、関屋地区で製油を行なった。
化学工業では、一九一七(大正六)年に酢酸と食用酢製造の新潟酢酸株式会社が、翌一八(大正七)年には米ヌカからヌカ油・二硫化炭素などを製造する東洋化学製油株式会社が、地元資本により設立された。
また、一四(大正三)年に北越板紙株式会社が北越製紙によって設立され、周辺農村からのワラを原料にして板紙の抄造(しょうぞう)を開始したが、一七(大正六)年には親会社の新潟工場になった。
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さらに一八(大正七)年には、新潟製紙会社が設立され、新潟にも製紙工業の発達をみた。
その他、一九一六(大正五)年には、県下初の製氷業、新潟製氷会社が漁業関係者らによって設立され、翌一七(大正六)年には、新潟紡績株式会社(のちの日東紡績新潟工場)が設立された。
鉄工関係では、島本鉄工所が一九(大正八)年に東入船町で事業を開始した。
大戦による船腹不足から、造船業も活況を呈し、大戦前四か所だった造船所は、一七(大正六)年末には一〇か所に増加した。
漆器・家具製造も、この時期に家庭工業から工場形態に転換し、卸し商・問屋の発展もみた。
一九一六(大正五)年には、合資会社近江屋商店が洋家具製造をはじめた。
一八九八(明治三一)年、火力によって市内に電力を供給した新潟電燈株式会社が開始した電気事業は、その後、一九〇七(明治四〇)年の新潟水力電気株式会社と新潟水電株式会社の発足におよんで水力発電に重点が移り、大正年間はこの二社が顧客の争奪をめぐって激しい競争を展開した。
一九一一(明治四四)年、市内九六〇戸に初のガス供給をした新潟瓦斯会社は、一三(大正二)年、千葉瓦斯株式会社と合併し、合同瓦斯株式会社の営業所となったが、一七(大正六)年、新潟瓦斯株式会社として再発足した。
米騒動の勃発
大正初年は豊作続きであった上に、一九一三(大正二)年には朝鮮米が移入税撤廃によって大量に流入したため、米価が下落し、農民を窮乏におとしいれた。
そこで一五(大正四)年、政府は米価調節令を公布して米価の下落をおさえようとしたが、大戦の好況に乗って米価も一転して高騰を続け、庶民の生活を苦しめた。
政府は物価騰貴、とくに米価暴騰に対し、暴利取締令や外米管理令を布告するなどの施策を講したが、ますます米買占めが全国的にひろがるばかりだった。
一八(大正七)年、富山県下で発生した米騒動は、時を移さず全国に波及した。
市では、こうした情勢に対処すべく、外米の廉売(れんばい)を行なうこととし、同年八月一五日から、一般需要者に一升二〇銭、貧民には一升一五銭で売った。
この廉売に要する資金は、銀行より借りいれ、返済には貧民救済の目的で組織された互救会(ごきゅうかい)を主体に篤志家(とくしか)よりの寄付金をあてることとした。
県外の外米の買付けが容易でないことが判明すると、内地米も買付けることとし、一六日、市内の米穀業者に協力を求めたが、一石あたり三七〜八円以上で買付けた内地米を、たとえ貧民救済のためとはいえ、一升あたり二五銭以下では小売りできない、として拒絶された。
互救会では、一九日から、外米を一般に一八銭、貧民に一三銭で販売することを一七日に議決したが、同夜、盆踊りのため白山公園に集まった群衆四〇〇人のうち三〇〇人が、公園を出て上大川前通へ向かい、鍵富三作・藤田九二宅に投石暴行をした。瞥察の制止と本雨で解散はしたが、一一人が検挙され、有罪判決を受けた。
新潟の米騒動がこれ以上の大事にいたらなかったのは、市当局と互救会の適切な活動によるところ大であった。
互救会では、その後右一〇月一万日まで廉売を続けた。
新潟港の修築と北洋漁業
幕末の開港後、漁港と食料集散地として終始してきた新潟港も、第一次大戦を境いに、ようやく本来意図してきた貿易港としての性格を現すようになってきた。
大戦前の輸移出入品は、主として食料品で占められていたが、大戦後の輸移出では、漸減する内国米を石油類が追いあげ、輸移入では石炭・木材・セメントなどが激増した。
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貨物取扱量の増大につれて、明治以来の懸案だった新潟港の築港は、沼垂町との合併を機に、一九一六(大正五)年、着工の運びとなった。
はじめ市営事業としてスタートしたが、市の財政規模からみて到底無理であったため、二一(大正一〇)年から県営移管となり、二六(大正一五)年には第一期工事を完了し、港湾施設の使用を開始した。
市では、この年、新潟築港記念博覧会を開催した。
この工事の結果、今まで水深がきわめて浅く、加えて突堤が唯一の港湾施設で接岸施設も全くなかったのが、西突堤の先端に灯台を構築し、栗ノ木川と新川の間を埋立て、物揚げ場、中央・北埠頭などが建設され、おりから大河津分水の通水もあって、浚渫も順調にすすみ、港湾の面目を一新した。
このような築港工事と並行して、山ノ下にあった牧畜牛乳販売業の新潟健康舎は、一九二〇(大正九)年、新潟臨港株式会社と改称して鉄道敷設と築港工事への基礎を固め、二四(大正一三)年一二月には、上沼垂〜山ノ下間の臨港鉄道が開通し、翌二五(大正一四)年四月には、臨港第一埠頭に第八平安丸がセメントを積んで接岸係留、これが新潟港における岸壁荷役の創始となった。
このような築港や鉄道引込線工事の進展につれ、一九二四(大正一三)年に入船倉庫会社、二六(大正一五)年に新潟港湾倉庫会社などの倉庫業、二三(大正一二)年には新潟運送艀株式会社、二四(大正一三)年には新潟海陸運送株式会社、二六(大正一五)年には新潟運輸株式会社・新潟荷役株式会社などの港湾関係会社の設立をみた。
この時期は、まさに新潟港の基礎固めの時期であって、昭和に入ってからの日本の大陸侵略と共に、いよいよ貿易港としての飛躍的発展がみられることとなる。
一八八五(明治一八)年開始された新潟港を基地とした北洋漁業は、大正年間に入ると、帆船から汽船に、小型船から大型船への転換が進んだ。
一九二二(大正二)年には、出漁船のうち帆船は九七隻、汽船は一四隻で、平均トン数は帆船一三四トン、汽船九六五トンであって、一八八八(明治二〇)年頃の沿海州やサハリンへの出漁船が帆船のみで、しかも平均一〇〇トン以下であったのとくらべて隔世の感がある。
明治末年から大正初年にかけての時期が、新潟港を基地とする北洋漁業の最盛期で、その後は中小漁業家が大企業に圧倒されて衰退に向った。
当時、新潟港を根拠とした漁業家には堤清六があり、一九一六(大正五)年には四〇〇万尾をこえる漁獲高をあげ、彼の製造したサケ・マス缶詰が市場に出まわった。
北洋から新潟にもたらされるサケ・マスは、一三(大正二)年に早くも一〇〇〇万尾をこえ、金額にして一五二万円余、県内沿岸漁業の総収入額に匹敵し、県内の米の生産収入の三〇分の一に達する有様で、まさに新潟はサケ・マスの一大集散地に成長した。
北洋漁場の開発には、堤のほか、田代三吉・片桐寅吉・浅井惣十郎・鈴木佐平、さらに東洋物産株式会社らが大きく貢献した。 |

新潟の漁業家たち 1910 (明治43)年1月13日、露領沿海州水産組合新潟支部総会の出席者。前列左から4人目が田代三吉、中列左から3人目が関矢儀八郎、5人目が片桐寅吉。(『新潟開港百年史』より)
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急速な交通の近代化
先にも述べたように、北越鉄道が敷かれて、一九〇四(明治三七)年に沼垂に新潟駅が設けられたが`当時はまだ現在の上越線はなく、東京へは、私鉄と官鉄とを乗りついで、直江津・長野まわりで連絡していた。
しかし大正時代に入って、第一次大戦による好況のもと、交通機関が急速に発達し、とくに鉄道網がよりいっそう整備された。
一九一四(大正二)年一一月、新津〜郡山間の岩越鉄道(現在の磐越西線)が開通したのに伴い、上野〜新潟間の直通運転が開始された。
また、私鉄越後鉄道は、一二(大正元)年八月、白山〜西吉田間が開通、翌年には白山〜柏崎間全通した。
また、県民の悲願であった上越線は、一八(大正七)年起工、三一(昭和六)年開通を見、上野ど新潟間を最短コースで結んだ。
また新潟で最初の乗合自動車業(バス)は、一九二〇(大正九)年、黒崎商会により新潟〜大野間で始められた。
二二年(大正一一)年には、寺尾芳男らにより新潟市街自動車株式会社が設立されて、赤塗りのフォード三両、いわゆる“赤バス”が、まず新潟駅前〜白山神社間を料金五銭で結んだが、なかなかの好評で、その年のうちに車両を増強し、路線をひろげた。
翌一九三二(大正一二)年には、高杉石蔵らにより新潟タクシー自動車株式会社が創立され、沼垂に本社があったため「沼垂タクシー」と通称された。
翌二四(大正一三)、黒崎商会を買収して新潟〜大野〜白根間の乗合部門を開設したが、二八(昭和二)年、新潟乗合自動車株式会社と改称して本格的に郊外線の乗合事業に進出した。 |

乗合自動車 白山駅の前に並んだ大正期新潟のバス。
(新潟日報事業社『新潟の街歴史散歩』より)
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一九二五夭正一四)年には、等々力(とどろき)治藤太らにより新潟自動車商会が設立され、翌年、新潟〜酒屋間の運行を開始し、以後、各地の自動車業者を買収して路線の拡充に努めたが、新潟乗合自動車らとの競合が激化し、経営は苦しかった。
同商会の車は、シボレー一種で“青バス”と通称された。
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タクシーの営業は、先の新潟タクシーより早く、一九一九(大正八)年に等々力治藤太によって開始され、会社組織のものとしては、二二(大正一一)年の株式会社北進組が最初であった。
新潟〜佐渡間の定期航路を一八八五(明治一八)年以来独占してきた越佐汽船に対抗して、佐渡島内で組織された佐渡商業組合は、古川長四郎らに委託して、夷(えびす、現両津市)と新潟間の貨物輸送を行なったが、やがて合資会社佐渡商船商会と改称、さらに一九一三(大正二)年には、郡の補助を受けて佐渡商船株式会社へと発展した。
しかし越佐汽船との間で、実質上のダンピングを行なうなどして激しい競争をしたため、両社とも減収に苦しみ、ついに一六(大正五)年、知事の仲介で、両社の使用船舶で得たいっさいの収入を合せて佐渡商船六、越佐汽船四の比率で配分することとなった。
さらに両社は、三一(昭和六)年に合併し、佐渡汽船株式会社となって現在にいたっている。
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