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Home 一章 二章 三章 四章 五章 六章 七章 八章 九章 付録1 付録2
五章 明治の新潟町
1 新潟開港
眠りからさめる新潟/戊辰の内乱と新潟の位置/新潟に飛ぶ戦火/
名ばかりの開港/新らしい町の風景/行政の推移
2 文明開化の新潟
美しい街をつくる/新潟遊園を建設/異人さんの見た新潟/
河川交通の発達/万代橋/近代的コミュニケーション手段/
コレラ騒動
3 近代都市への第一歩
廻船の衰退/対岸貿易を開く/北洋漁業の基地として/
港湾設備の改善 |
1 新潟開港 top
眠りからさめる新潟
江戸幕府をおおいに驚かせたペリーの米国艦隊浦賀来航は、一八五三(嘉永六)年、まだまだ太平の世にあった新潟地方ではあったが、諸藩に沿岸警備が命ぜられたり、不意に異国船が来航したときの処置が通達されたりして、徐々に緊迫が伝わりつつあった。
アメリカは黒船の威容と圧力とによって矢つぎばやの要求で幕府を圧倒し、困惑した幕府は開港して貿易を始める方針に向ってゆく。
翌一八五四(安政元)年、日米和親条約(神奈川条約)を結びついでイギリス・ロシア・オランダなどとも調印を交した。
それと共に貿易促進のために修好通商条約を五八(安政五)年にアメリカと結んだのをはじめ、各国とも結び、これによって長い鎖国の日本は急速に海外へ門戸を開くことになった。
交渉によって適当な港湾を開港すべく、幕府側は、はじめ下田(現、静岡県下田市)・函館(現、函館市)・長崎の三港を予定して提示したが、アメリカがさらに多くの開港と開市を要求してきたため、結局、神奈川・新潟・兵庫の三港を加わえ、江戸および大坂の開市が約束された。
条文では次のように予定が立てられた。
下田 神奈川を開いたのち六か月後に閉鎖する。
箱館 イギリスは一八五九年七月一日、フランスは同年八月一五日から交易を開始する。
神奈川 アメリカおよびさフンダは一八五九年七月四日、ロシアおよびイギリスは同年七月一日、フランスは同年八月一五日から交易を開始する。
長崎 神奈川に同じ。
新潟 五か国とも一八六〇年一月一日から交易を開始する。ただし、新潟港を開くのが困難な場合は、その代わりとして近いところに一港を選ぶ。
兵庫 五か国ともに一八六三年一月一日から交易を開始する。
江戸 五か国とも一八六二年一月一日開市。
大坂 江戸と同様。 |
ということで、日本海側では唯一新潟が対外的に開かれることになった。
翌一八五九(安政六)年春になると、さっそくオランダやロシアの船が来港して、短時間ではあったが船員が上陸して市街を歩きまわっていたという。
また、イギリスも秋にやってきて港の内外を細かに視察し、測量していった。
条約による開港場であるから、幕府も外国奉行関係者や通訳官を派遣して応対の準備も整えていたこともあって、問題はなかったけれども、町民たちは、初めて見る“黒船”や“異人”の姿にずいぶんと驚いたのではないかと思われる。
現在のように報道機関などない時代のことであるから、断片的な風聞を耳にするだけの人が大部分であった |

イギリス海軍作成の海図
1859 (安政6)年から67(慶応3)年にかけての測量の結果作成された「佐渡ヶ島及新潟近傍」海図部分。(新潟県美術博物館蔵)
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はずで、こうして始めて自分の目で見て時代の波が大きくうねってゆくのを感じていったことであろう。
風聞はしかし、“黒船”や“異人”だけではなかった。
嘉永以来の対外的事件の急激な展開の裏に、国内ではまた別の問題がしだいに大きく、かつ不気味な姿を現しつつあった。
戊辰の内乱と新潟の位置
日米修好逑商条約の調印はけっしてすんなりと行なわれたわけではなく、アメリカ側の強い姿勢と幕府内部の意見調整など多くの曲折を経てきたのであるが、その間に国内では、外国討つべしとの攘夷論がしだいに盛んになってきた。
時の幕府は大老井伊(いい)掃年頭(かもんのかみ)直弼(なおすけ)の政権下で、アメリカ側の強硬に押されて勅諚を得ないまま調印を断行したうえに、攘夷を唱え、政策を批難するものたちを次々に断罪していったから(安政の大獄)、大変なことになった。
井伊の独裁的政治姿勢とその後の公武合体策は、いっそう攘夷論者を刺激することになり、尊王論と結びついていわゆる尊王攘夷運動が激しく展開されるにつれて、やがて倒幕運動に発展してきたのである。
細かなことは省くが、薩摩・長州・土佐などの西南の雄藩が旧事の仲介をすすめ、朝廷を頂点とした尊王攘夷の主導権を確立していったその最後には、戊辰戦争という倒幕新政府樹立の一大内戦が続くのである。
戊辰戦争は、西日本からだんだん東進してゆき、一八六八(慶応四)年三月一五日の江戸開城が、まずひとつの区切りとなる。
西の新政府軍に対して、越後を含む東北地方の諸藩は、奥羽越列藩同盟を組織して抵抗の色を見せた。
江戸開城で幕府の瓦解は事実となってしまったが、なお武運の好転をのぞんで各地で敗残した旧幕府や諸藩の兵たちが、越後や会津などに逃れてきた。
春さきの新潟にも、そうした連中が多く流れこんでくるようになった。
平和だった町中がにわかに騒然としてきた、苦しい戦にすさんだ兵たちの乱暴も多く、治安が悪くなったが、天領新潟奉行所の手薄な人数ではどうにもならなくなってきた。
日本海側有数の港であり、諸藩の年貢米の積みだしや物資の移入が活発であるから、当然軍事的にも重視され、列藩同盟側としてはひとつの拠点に考えて、藩兵の往来も多かった。それで港の活動はだんだん列藩同盟の麾下に入るということになるし、新潟奉行所の行政機能は逆に同盟側の勢力に押されて小さくなる一方で、とうとう最後の奉行となった田中廉太郎は、五月二日、米沢藩へ預所という名目で新潟町の支配権を譲りわたして引揚げてしまった。
結局、新潟は列藩同盟の支配下に入ったわけで、会津・庄内・仙台など諸藩の共同管理として、常駐兵の総指揮者としては、米沢藩家老職の色川長門がその任にあたることとなった。
一方、戊辰戦争の暗雲は越後にも達し、四月下旬から上越地方に新政府軍が続々と進軍して、小千谷・長岡に向っていた。
越後でもっとも長く、かつ激しい攻防戦がくりひろげられたのは、この中越地方であったが、その裏には主戦力である長岡藩への豊富な武器弾薬補給が、新潟から行なわれていたという事実があったのである。
戦線の延長につれて、武器弾薬の供給が間に合わなくなりがちとなった新政府軍とは反対に、列藩同盟軍は有利な背後を得て、戦闘はかなり長く膠着状態が続いた。
新潟への武器弾薬補給は、ほとんどスネルという商人が一手に行なっていた。
この外人については不明な点も多いが、当時長岡藩を主導していた家老の河井継之助か、かって出府した時に横浜で知合い、懇意となったのだといわれている。
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他の多くの外人が、どちらにも加担しないということで内乱を静観しているなかで、スネルは、五月一二日、突然新潟に来て「新潟開港が勅諚を得た」と称して商売を始めたのである。
そして七月下旬に新潟が新政府軍の手におちるまでの二か月間以上、列藩同盟相手におおいに売りまくったようである。

戊辰戦争死者の墓
招魂社にまつられた新政府軍戦死者の墓。
現在は、護国神社境内に移葬されている。
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加賀藩兵の預け状 1868(慶応4)年8月新政府軍に従軍して
新潟へ来た加賀藩兵の木谷伊三郎・中村宇太夫の2名が、
転戦する際に、所持品(鎗・長持・兵粮籠・琉球包など)を、
新潟の呉服商大塚屋市郎右衛門に預けていった時の覚書き。
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新潟に飛ぶ戦火
このような状態を、新政府軍とて手をこまぬいて見ていたわけではない。
戦局を一気に打開して優勢に立つための、綿密周到な計画が練られ、準備が進められた。
それは一刻も早く新潟港をおさえて列藩同盟側の補給路を断ち、当面対戦している長岡藩の背後を突くことであった。
七月二五日未明、新潟港から北へ少し離れた新発田藩兵警備受持ちの松が崎浜(現、新潟市松浜)、および太夫浜(現、新潟市太夫浜)に、突如、新政府軍兵士約一〇〇〇人が上陸を敢行した。
上陸後二手に分れて新潟方面と新発田方面にそれぞれ進軍したが、新発田藩は列藩同盟から参加を再三勧誘されながらもはっきりした返事はせず、態度を明確にしなかったので、海岸警備にも積極的ではなかったらしい。
突然の新政府軍上陸の勢いにおどろいてあっさり降り、新政府側について進軍の先導をつとめるにいたって、越後の状勢は大きく変ったのである。
さて、新潟に向った新政府軍は、沼垂を経て信濃川沿いに砲列をしいて、新潟町へどんどん攻撃をかけた。
新潟町内では色部長門(いろべながと)指揮下に、米沢・会津・仙台などの諸藩兵が各所に塁を築き、大砲を構えていたけれども、突然の対岸からの攻撃に意表をつかれた形となった。
周章(しゅうしょう=うろたえる)する藩兵、激しい砲声、狼狽する町民と、新潟の町は大混乱になった。
そのうち新政府軍は次々に川を渡って攻めこんできた。各所で激しい白兵戦となった。
列藩同盟軍も善戦したが勢いに乗じた新政府軍の前に、しだいに崩れはじめ、町内の一部に火の手があがった。
色部は、このままでは町中が火の海になり、ますます窮地に追いこまれると判断して、いったん町外へ逃れることにし、小人数で松林を西の関屋方面へ向ったのであるが、新潟を包囲する新政府軍の一隊とばったり出くわし、激しい銃撃戦の末、被弾して自害した。
時に七月二九日、新潟港は新政府軍の手に帰し、列藩同盟側は重要な拠点と頼みの綱を断たれてしまったのである。
このことはとくに長岡藩に決定的打撃を与え、これを契機に新政府側は有利な立場を得て、八月中旬には越後全域の戦闘をおわった。
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新潟港は新政府軍によって閉鎖され、滞在中だったスネルは捕えられ、かせぎまくったもうけも商品も没収されてしまった。
新政府軍の兵士は疲れをいやすまもなく会津や庄内方面へ転戦してゆき、新潟町には越後口総督府民政局が新らたにおかれて、戦後の混乱収拾にあたることになった。
それから一世紀以上の年月がたち、今では戊辰戦争も歴史のかなたと思われるようになってしまった。
白山神社境内に弾痕をとどめた老松が、皮一枚で最近まで生きていたが、それももうなくなってしまった。
各国がどのような方法をもって新潟港を調査したかは、必らずしも明らかにはなっていないけれども、さいわいイギリスが作成した「佐渡ヵ島及新潟近傍」と題するすでに示した海図があり、視察内容の一端を知ることができる。
これによれば、イギリスがずいぶん細かく調べてまわったことがわかり、避難港として佐渡を求めた様子が如実に示されている。
この図は近代的測量によるものとしては新潟港にとって初めてであるうと思われるが、注記に「海岸線は日本政府の地図を参照」とあるので、彼らはおそらく伊能忠敬の作成した沿岸図を片手に調査結果をまとめたのであろう。
そうこうしているうちに開港予定日は過ぎてしまい、また、国内事情も、攘夷運動の活発化と勢力の拡大によってその対策に苦慮していた幕府は、江戸・大坂の開市と新潟・兵庫の開港を遅らせることで、少しは攘夷の鉾先を鈍らせるつもりでいたこともあって、結局一八六七(慶応二)年一二月まで、開港はおあずけとなったのである。
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しかし、その年の夏、新潟をふくめて日本海側を巡視したイギリス公使パークスとの交渉の結果、一二月七日を期することにしたものの、また延期ということになって、翌六八(慶応四)年三月九日まで待つことになった。
だが、この期日も戊辰戦争の影響で再三延期となって、五月一二日と予定したが、今度は先に述べたように越後方面が騒然として、とても正常な形での貿易は不可能ということで、自然延期せざるをえなかった。
最終的に新潟が開港したのは、江戸幕府に代わって明治新政府が為政者としてはっきり人々の目にわかるようになった一八六八(明治元)年一一月一九日であった。
戊辰戦争の混乱もようやく収拾されつつあり、長かったかけ声の時期を脱した新潟開港は、新らしい政府の威信のひとつであったから、急速に諸方面の準備が整えられることになった。
さっそく税関事務が仮り役所で行なわれるようになり、翌年には町はずれの信濃川河畔に新らたに土地を造成して町民がびっくりするような擬西洋建築の新庁舎が建設された。
条約を結んだ各国も、騒乱が完全に収拾されたので、本腰をいれて新潟へのりこんでき、領事館をおいて対外貿易の振興をおおいに期待したのである。
その領事館の位置や領事の名は上の表のようであった。
これを見ると、イギリスやドイツは比較的長く領事館をおいたけれども、あとの諸国は他国に事務委任などの形であったし、アメリカも最初は領事をおいたが、二か月でやめてイギリスに委任するなど、各国ともあまり積極性は認められない。
というのも、当初はいくらかの外国船入港はあったのであるが、対外貿易が成立つ条件がほとんど未熟な時代にそれが長続きするはずはなく、そこへもって港湾施設の未整備、自然条件の不利などがあわさって、開港の意気ごみとはうらはらになってしまったのであった。
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それでも開港して二、三年は、年間二〇隻くらいの入港があったが、日本側の輸入品といえば、なかば好奇心で買ったようなものばかりで、新潟港の背後には米作農業以外にほとんど産業がないために、輸出もほとんどなく、それからというもの、入港数は激減して開港とは名ばかりとなってしまった。
領事館は手もち無沙汰となり、比較的長くおかれていたイギリス領事館すら、一八七九(明治一二)年には愛想をつかして引揚げてしまって、全くいなくなってしまい、結局、江戸時代の姿に逆戻りしてしまった。
新しい町の風景
そのようなわけで新潟港の実質は惨めなものであったが、町の外見には新時代の到来を思わせるにふさわしい変化が目立ってきた。
その第一番は税関庁舎であろう。
一八六九(明治二)年建設のこの建物は、全く日本人大工の力だけでなしとげた擬西洋建築で、一一六坪の建て坪に外壁は漆喰海鼠壁、窓には鎧戸がついて、屋上には小さな望楼というか、塔屋が乗っている。
建設当初はまことに美麗であった。
現在、重要文化財に指定されて復元工事がなされ、港湾や町の歴史資料を収集・展示する「新潟市郷土資料館」として公開されているので、我々はいつでも明治の姿を見ることができる。
今でこそ町のまんなかになっているが、その当時は町はずれで、周囲にはぼうぼうとした荒地が広がって人通りも少なく、ようやく家並みがポツポツあったけれども、夜陰にまぎれて時おりキツネが出没して道行く人を化かしたなどといわれる淋しさであったという。
市街地へは細々とした道が一本延びていて税関がごく最初に運上所と呼ばれたことにちなんで「運上所道」と通称された。
やがて家並みが連らなるようになると、市が催されて「運上所市」として親しまれたそうである。
今の湊町通のことである。
税関をはじめとして、官公署などがだんだん洋風建築にかわっていったのが明治時代の特徴である。
今それらのなかで残っているのは、ほかに県会議事堂だけとなってしまった。
これも一八八三(明治一六)年に、やはりすべて日本人独力で建築した記念すべき建築であり、重要文化財に指定されている。
場所は白山公園に隣接する河畔地で、二階建ての堂々とした姿は川面に栄えてなかなか絵になっていた。
というのも、議会政治の先達であるイギリスの国会議事堂になぞらえて、信濃川をテムズ川に見立ててこの場所を選んだといういきさつがあって、演出効果満点。
その頃は白山公園脇まで信濃川が湾入していて、水面はるかに弥彦・角田の両峰が眺望できたのであるが、時移り世変って、現在では埋立地が広がっていろいろな建物ができてしまい、往時ののどかな景観はすっかり失なわれてしまった。
この建物も「新潟県政記念館」として公開されている。 |

旧県会議事堂 大正初年の状態。
当時は、信濃川の川幅が広く、議事堂の近くまで迫っていた。
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現在見ることはできないけれども、新潟病院(一八七三年)・裁判所(一八七五年)・師範学校(一八七七年)・県庁(一八八〇年)・新潟警察所(同)・新潟市役所(一八八一年)なども続々と建設された。
各所におかれた小学校舎もそうであるが、木造の多くは和小屋の方式を土台にしていた。
しかしながら維新以来、そう日を経ていないにもかかわらず、日本人だけの力でこれらの建設をなしとげたことは、注目に値するのではなかろうか。
ともあれ板屋根・石屋根・萱葺(くず)屋根の低い二階建てがせいぜいで、大きな建物といえば寺院くらいしかなかった町並みの景観は、平面的にも立体的にも大きく変りつつあった。

大小区制下の新潟
1872 {明治5)年、最初の大小区制
施行時における第一大区内の小区割。
行政の推移
さて、越後での戊辰戦争が終息してからしばらくは、行政の主管とその範囲が目まぐるしく変化した。
一八六九(明治二)年に入って、下越地方は北蒲原郡水原町におかれた越後府の管轄として統一され、新潟は一時新潟県となったが、半年で越後府に合して水原県に入った。
そして翌七〇(明治二)年春、改めて下越地方全体が新潟県とされて、一時新潟から離れていた行政庁舎も新潟町へ移ってきた。 |

大小区制下の新潟 流作場新田は1876年
改正の際、第21大区小2区へ編入された。 |
しかし庁舎には江戸時代の新潟奉行所をそっくり流用、県知事の官舎には町会所をあてるなど、町が戦火をあまりこうむらなかっかことは幸いであった。
まだ樹立したばかりの新政府には、経済力が備わっていなかったからである。
ともかくも、行政機構の改革だけはどんどん進められてゆき、中央集権制は根づいてきた。
廃藩置県、地租改正など、大きな変革があいつぎ、それに伴って新潟町でも町役人の構成が改められていった。
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当初は全域を何組かに分けて、各組ごとに年寄役二人と町代役一人が選出され、そのほかに全域から検断三人が選出されるといった江戸時代からの方式が続いていたが、一八七二 萌治五)年の町会所廃止と共に、大小区制による行政区割にのっとって、戸長および書記が選出されて、町政の末端を司ることになった。
結局、伝統的な自治町政の要素は、新政府の中央集権に組みこまれながらその輝やきを失ない、選ばれてその職にあるうちは準官員扱いであった。
大小区制が改められて一八七九(明治一二)年、郡区制となると、新潟町は新潟区となり、区長一名の下に書記一〇名をおく形に変り、さらにくだって八九(明治二二)年の市町村制施行にいたって、現在のような議会システムが導入されて地方自治体の休裁が確定した。
こうして行政体の変化に伴って市街の様子も変ってきたが、それには為政者の個性の影響も見逃しがたく、ことに明治初年に赴任した県令、楠本正隆に関しては、なかなか注目すべきものが多い。これについては、のちに述べることにしよう。
ところで、新潟の町は、考えてみると終始一貫して港を中心に栄えた商業都市であるが、明治初年の兵営設置がそのまま永続していたならば、また町の性格も多少変っていたかもしれない。
一八七一(明治四)年、富国強兵策をすすめる新政府は、全国を四つの軍管区に分けて、区ごとに鎮台をおくことにし、新潟には東京鎮台の分営を設けることとし、その年内に当時の新発田・米沢・庄内・富山の各県兵二小隊ずつをさいて、新潟に集めることにした。
新潟の兵営建設がまにあわないので、とりあえず新発田城内に駐屯させて、翌年、西の町はずれの砂丘地を陸軍省用地として入手し、兵営や練兵場を整備した。
兵隊が入って機能が完成すると、これを「東京鎮台第八大隊営所」と正式に称した(現在の寄居中学校の建つあたり)。
そして町から兵営にいたる道は、だれいうとなく、「営所通」と呼ばれるようにかって、兵営がなくなった今もなお、その名は生きている。
徴兵令による該当者の入営も毎年あったかと思われるが、正確な数などは不明である。
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新潟に兵営がおかれていたのは、実は二年間でしかない。
一八七四(明治七)年の台湾出兵による組織変更に伴う兵員の異動があって、半分は新発田へ、あとの半分も高崎へ移ることになって、新潟の営所は補充がなされずに廃止となってしまった。
以前から、その理由は、兵営の建つ場所が多湿のために、脚気をわずらう兵士が多く出て、衛生上きわめて不利であったことを述べているけれども、それは二次的要因である。
それにしても日本海側唯一の開港場である新潟の町に、常駐の兵営が全くなかったのも、考えてみればおもしろいことで、陸軍の施設が普通、金沢にしても仙台にしても旧城郭内におかれていたことを考えあわせれば、新発田・高崎に分散して新潟町にないのも不自然ではない。
だから太平洋戦争までは、新潟町民は成人すると新発田の兵営へ入隊した。
2 文明開化の新潟 top
美しい街をつくる
明治はまた文明開化の世でもあった。新潟でのそれは街頭美化から始まったといってよい。
旧態依然の町並みは、そう簡単に改造できないけれども、道路や縦横の堀川をきれいにしたり、公衆道徳を奨励したりすることは可能であった。
そして何よりも開港場となって対外的に門戸を開いた街として、それにふさわしい気品・風格を求められたのも、けだし道理であった。
これを矢つぎばやに実行したのが一八七一(明治五)年に県令(現在の県知事に相当)として赴任してきた楠本正隆であった。
彼は着任早々、新潟町に対して市街修整法を発布して、治安の維持・環境整備・衛生励行を促した。
その要旨は次のようである。
一、尿桶置場を一定にすること。
二、道路上に材木などを散在させないこと。
三、信濃川や市中の堀川に汚物やゴミを捨てて汚さないこと。
このほかに「市中心得」七か条が発布され、
一、邏卒(らそつ、今の警察官)をおいて治安を守る。
二、掃除人足を雇って常に町をきれいにする。
三、玄関先・店先の小便所はすべて家裏におく。
四、道路上で立小便をしない。
五、町中を素裸で歩かない。
六、道路上に歩行の妨げとなるようなものを放置しない。
七、堀川ヘゴミを捨てない。肥船は時間を限って通行する。落書きをしない。
という内容をもって町民に励行をすすめたのである。
このことは裏返してみれば、これまでは町の環境については町民も気にしないし、為政者もかなりルーズであったことを示しているわけであって、夏など臭気紛々であったにちがいない。 |

明治期の柾谷小路
東堀通との交差点から第四国立銀行(1873年設立)の建物をのぞむ。
明治30年代の状態。
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翌一八七三(明治六)年には、市中を一等・二等・三等に分けて、家屋の建築・修理などに関する布告を出した。
これも都市美化励行促進策であるが、なかば強制のようなもので、繁華街を中心に、古くなって見苦しい家屋はもちろん萱葺(くず屋根)はやめて板葺か瓦葺にしなおせ、そして貧民は町はずれに住め、という内容であった。
これらの実行がどの程度徹底したかは、つまびらかにしがたいけれども、一八七八(明治一一)年に来港したイサベラ・バード女史の印象によれば、
町は美しいほどに清潔なので、日光のときと同じように、このよく掃ききよめられた街路を泥靴で歩くのは気がひけるほどである。
これは故国エディンバラの市当局には、よい教訓となるであろう。藁や棒切れが一本でも、紙一枚でも散れば、たちまち拾いあげられて、片づけられてしまう。
どんな屑物でも箱やバケツに入っていないときには一瞬間でも街路に捨てておくことはできない。……
街路は清潔で絵のように美しいので、町は実に魅力的である。……
町のどこへ行っても貧困の様子は見られない。(『日本奥地紀行』) |
という。お世辞半分と見ても、外来者に対して、ある程度好感をいだかせるに足りたのは、成功であった。

新潟遊園
現在の白山公園の前身で、この写真は明治30年代のもの。 |

新潟物産陳列館
1901 (明治34)年夏、一府十一県連合共進会を開催中の写真。 |
新潟遊園を建設
楠本は三年間新潟県令として新潟町に住み、一八七五(明治八)年夏、転任して去ったが、もうひとつ彼の事跡として特筆すべきことは、白山神社境内に「新潟遊園」と称する都市公園をつくったことである。
それまでの新潟町には、そのような場所はひとつもなく、白山神社境内地は米蔵が軒を連らねていた。
彼はそれらをすべて取壊して、築山を盛り、池を掘って樹木を配し、花を植えた。
ちょうどこの場所が信濃川河畔であるので眺望が開けてすこぶる佳景を得、都市美化政策としては出色のできばえであったらしく、後日、ここを訪れた旧日向国(宮崎県)高鍋藩主、秋月種樹は、この公園をオランダ式と評して絶讃している。
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秋月は諸外国の公園事情に精通した人であった。
このころ政府は、ヨーロッパ風の都市建設を夢見ていたようで、一八七三(明治六)年一月一五日付太政官布告で公園設置を呼びかけている。
しかしけっして新らたに欧米諸都市のような公園を築けというのではなく、従来の遊園を公園として認定してゆこうというものであったので、新潟のような例はきわめて珍らしいものであった。
その後、隣接して県内の産物を展示紹介する洋風の物品陳列所が設けられ(一八七七年)、さらに河畔に偕楽館という休憩所ができるなど、市民の憩いの場として長く親しまれることになったのである。
今では信濃川が埋めたてられて河岸は遠くなり、交通頻繁な道路が前後をかこむように走って、とても当時のような静寂な景色はのぞめないし、町の大きさに比して小さくなったなという印象が強いけれども、都市公園としては、全国でもっとも早く整備された記念すべき場所なのである。
楠本県令は、このほかにも市中の街灯の設置、小学校をはじめ各種学校の設置、川蒸気船会社の創立(後述)など、文明開化の推進役として縦横の活躍をした。
異人さんの見た新潟
……海上から見た新潟の景色は、とてもよかった。
その背後に、やや遠く会津の山々が左右にそびえている。前面は平野で、大部分は田圃だった。
田圃の端々に樹木が立ち並んでいる。すぐ目の前は砂浜になっていて、河口の右手は盛りあがったような砂丘になっていた。 西方には、かなり遠くに弥彦山の高い峰があり、そこで陸の眺めは尽きている。(『外交官の見た明治維新』) |
これは一八六七(慶応三)年夏、イギリス公使書記官として日本に滞在していたアーネスト・サトウが、公使パークスの日本海側巡視に同行して立寄った新潟の印象を記したもので、さながら「新潟真景」の絵図を彷彿させる。
修好通商条約以来、何度か異人や黒船が来航しているが、そのつど町民は、おどろきと不安の目で彼らを迎えたことであろう。
出会いはそのように何度か経験したけれども、異人が住みつくのは一八六九(明治二)年のイギリス領事館開設が始めてであったろう。
貿易商人も何人かいたようである。町民と異人のふれあいはどのような形だったのか今ではなかなかわからないが、年を経てしだいに異人の数も増してくると、双方から積極的に交流を求める例も見られるようになる。
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異人は領事などのほかに、英語学校の教師や病院の医師・宣教師とふえ、近郷近在からはわざわざ腰弁当で異人見物にやってくる好奇心旺盛な人も少なくなかったらしい。
……訪問客が非常に多いので、ブラウン博士(英語学校教師)が学校へ行かれたあとは門を閉ざし、正午まで閉じたままにして私たちが勉強できるようにしなければなりませんでした。
時には門の外にかなり大勢人が集まり、入るのを待っていることもありました。
午後は門が開かれ、誰でも入ることを許されました。
人々はすばらしい客人とすばらしい住まいを見物しに、何マイルも離れたところからやって来るのでした。
午後だけで五十人から百人の訪問客が訪れるのは珍しいことではありません。(『ギター書簡集』) |
宣教師メアリー・ギターの回想である。
それからだいぶあとの話になるが、たまたま巡業にきたイタリーのチャリネ曲馬団の団員の一人ピエトロ・ミオラが、けがのために一人残留を余儀なくされたけれども、官民諸方からの援助があってこの新潟町で始めて西洋料理店「イタリヤ軒」を開いて親しまれるようになったという変った例もある。
だんだん日常生活のなかにも西洋の文物がとけこんでくるに従って、異人の姿もそれほどめずらしいものではなくなってきた。
「イタリヤ軒」(現在はイタリア軒)は今でも健在である。
河川交通の発達
明治新政府は、旧来の関所とか番所といった交通上の拘束や、伝馬・助郷という労力賦課をいっさい廃正し、自由な往来を保証した。
そして一八七六(明治九)年、国道・県道・里道の種別を定めたりして道路の整備は行なったけれども、交通手段の積極的奨励策はほとんど見られなかった。
それは為政者が代わっても産業構造に大きな飛躍が見られなかったので、あいかわらず徒歩が中心にならざるをえなかったからであった。
それでも一方では、早くも七一(明治四)年には東京の新橋から横浜まで官営の鉄道が通じたし、時間はかかったが産業の発展と共に各地で民営の鉄道が伸びていった。
また、七八(明治一一)年に行なわれた明治天皇の北陸巡幸も、各地に新らしい道路を作らせたり整備させたりした効果があり、大小さまざまな影響を与えている。
陸路と共に各地へ通じていたのは川船で、大小さまざまな船が旅客や貨物を運んでいた。
とりわけ信濃川や阿賀野川にはかなり大きな船もいたが、旧支配の統制がなくなって思い思いの営業をしていた。
それらを県令楠本正隆の声がかりで、新潟町の資産家有志が出資しあって汽船会社を設立して、きちんとした形での営業が計画されたのである。
明治時代は、まだまだ川が重要な交通路であった。
会社では定期船三隻を有して魁丸と豊丸が毎日交互に新潟〜長岡間を走り、和唐丸が新潟〜三条間を走った。
それまでであると新潟〜長岡間は一泊を要したのだが、それからは一日で行けるようになった。
これは当時の人々にとって画期的なことであったので、その便利さはすぐに知れわたり、旅客も貨物もいつも満員盛況であったそうである。
一八八〇(明冶三一)年になって、競争会社として安全社が設立されたが一二年ほどで買収されて両者合体の川汽船安全社となった。
また、八三(明治一六)年にも進航社が設立されて、馬鹿々々しいほど激烈な競争を展開するが、これも力尽きて二年
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後に合併され、社名は安進社とかわって、しばらくの間、信濃川航路を独占した。信濃川を往来する安進丸は、交通上の文明開化の象徴であった。
一八九七(明治三〇)年に、白根曳船汽船株式会社の設立をみて、白根丸が運航されると、再び競争となったが、今度は料金協定を結んで共存をはかったので、鉄道や自動車の発達によって会社が解散するまで一五年間、多くの人々に親しまれたのである。
この汽船というのは、蒸気機関による外車式輪船(外輪船)で、朝のしじまを破る大きな汽笛や独特の走り方は名物であった。
今ではこれを知る世代もだんだん少なくなりつつあるようだ。
川の縦断はそのようなわけで飛躍的に便利になった。では横断の方はどうだったのだろうか。
万代橋
河川交通の頻繁な時代は橋の架設は極度に制限されて、どこでも渡し船で横断するのが普通であった。
明治に入ってからも、かなり遅くまで、架橋のなされない河川が多かったが、当時の町域内において信濃川に橋がかけられたのは一八八六(明治一九)年であった。
その名を「万代橋」という。これは内山信九郎が企画して八木朋直が出資した、全く個人企画の架橋であった。木橋で、幅二二尺(六メートル強)、長さ四三〇間(六七八メートル強)という、現在の石造橋に比して狭幅であるけれども、二倍半以上の長さを有していた。
新潟町の柾谷小路からまっすぐ大川を渡り、対岸の流作場地区にいたると、その当時はまだ青々と水田が開けていた。
橋を渡り終えて堤防上を左に折れてしばらく行くと、沼垂町に入る。 |

初代の万代橋 新潟側から見たもの。この頃は、水田がひろがっていた
対岸の流作場あたり一帯には、ほとんど建物の影は見えない。
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この時点でここに架橋しなければならない必然性は乏しいにもかかわらず、あえて八木は交通の発展と町の将来のために資金を出したのである。
橋を渡るに際しては、一人一銭の通行料を払わねばならなかった。
渡し船は時期によって変動はあったが、だいたい五厘であった。
橋がかかったからといって、人々はこぞって利用したかというとそうでもなく、長い橋を一銭でテクテク歩くよりは、五厘の渡し船に腰をおろして行った方がよいという人も結構いたようで、橋と渡し船はかなりあとまで並行してあった。
だから最初のうちは利用者の数は多いとはいえなかったけれども、沼垂町外に工場が建設され始めたり、鉄道が伸びてきて、一八九七(明治三〇)年には沼垂〜一ノ木戸(現、三条市一ノ木戸)間が開通するようになると、がぜん万代橋の存在が重要なものとして注目されるようになったとみえて、一九〇〇(明治三三)年、ついに新潟県が一万五九〇〇余円で橋を買収したのである。
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内山・八木の二人の見識の深さにただおどろくのみであるが、その後の橋の役割りは、彼らの想像をすらはるかにこえて重要性を持ち続け、現在なお変らない。
県有となってからは通行は自由となり、鉄路の終起点「新潟駅」が流作場地区に建設されたので、万代橋は文字どおり東西を結ぶ動脈となった。
大正時代になって対岸の沼垂町と新潟は合併するのであるが、それへの道程は万代橋架橋の大英断が開いたのだといえよう。

明治期の日付印と抹消印 @1872年開局〜1873。A1872〜1874年。B1873年〜1879年。C記番印、1874年〜1879年。DE1879年。
FG1879年9〜1881年。HI小ボタ、1881年4月〜9月。
JK大ボタ、1881年9月〜1888年8月31日。
L丸一型、1888年9月1日〜1905年12月31日。L1892年〜1894年。
M1894年〜1905年。N以後から、日付印・抹消印の区別がなくなり
1906 (明治39)年1月1日から、現在のような型が使われるようになった。
近代的コミニケーション手段
交通と共に語られねばならないのが通信である。
一八七一(明治四)年、東海道筋に、欧米ではすでに当り前になっていた国家による郵便制度が開業し、翌七二(明治五)年には全国に郵送の路線を拡大すべく、主要都市に郵便役所が設けられた。 |

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また、地方の有志を募って準官吏の地位を保証して郵便取扱所を設け、またたくうちに路線網が全国に敷かれた。
郵便制度以前は、よく知られているように、公営・民営の飛脚が行なわれていて、料金は距離によってちがい、かつ高額であったし、公営の方は民間人は利用できなかった。
それに日数もかさんだ。
郵便制度はそれらに基本的には似ているのであるが、国家が運営して全国を独占し、一定の比較的安い料金(当初は距離によって違ったが)で、どこへでも、きわめて短い日数で配送するというものである。
この制度の敷網(ふもう)を急いだのにほかでもない。
新政府にとって命令布達を確実に、しかも迅速に津々浦々に伝達する手段の確立を急務と考えていたからである。
そして逆に、各地の情報をすみやかに報告させる手段としても重視していたからである。
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そこへ国民がいつどこへでも自由に通信できるという「文明開化」を盛りこんだのであった。
開港場新潟には、第一等郵便役所が一八七二(明治五)年夏設置されて、本町通七番町に庁舎が建てられている。
郵便より早く日本に伝えられて、独自に実験研究する人も少なくなかったのは電信であった。
新政府はこれをすべて官営にすることとし、新潟においては、一八六九(明治二)年に税関と県庁の間に電線がわたされたのをはじめとする。
電信の架設についても、その意図は郵便とほぼ同じで、こちらの方は七四(明治七)年以降、だんだんと諸方へ通信網が広がっていった。
郵便も電信も最初は利用者の数は多いとはいえなかったと思われるが、徐々にその真価が認められてくるに従って、利用数もうなぎのぼりに増加していった。
ことに商人は業務連絡のために盛んに活用したので、商圏の拡大にも資することになったし、逆にこの分かげて旧来の廻船システムによる商業は衰退に拍車がかかったのであった。
また、全国的な風潮に乗って、新潟県内でも新聞が発行されるようになったが、その大部分は政党機関紙的な内容で、言論発表の場といったものであった。
いまのような報道紙としての新聞の発行は、明冶も遅くなってからであって、それまでは前時代からの伝統的口コミ・耳コミが、一般の人々の“新聞”であった。
コレラ騒動
県令楠本によって美化が促進された新潟の町は、いちおうきれいにはなったけれども、まだまだ衛生思想の浸透は覚束なかったし、立派な病院ができても行政体が積極的に疾病(しっぺい)予防策を講じるというところまではいっていなかったので、流行病の蔓延する素地はいくらでもあった。
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そんなところへ一八七九(明治一二)年春、愛媛県に発生したコレラがたちまち全国に猛威をふるい、悪いことには、新潟県内には夏の暑いさなかに侵入してきて、七月から延々一一月まではびこり、その結果、患者五三二九人・死亡者三三六〇人(県のまとめによる)という惨憺たる状態を呈した。
現在でもコレラには特効薬がないのであるから、ましてこの当時、一体それがどんな性格の疾病なのかは全くといってよいほど知られていなかったのではないだろうか。
それゆえ、たあいもない迷信が真顔で語り伝えられるやら、病毒をまきちらしているものがいるなどの流言が飛びかうやらで、しだいに市内はおろか県内全域に不穏な空気が生じてきた。
新潟町では、その年八月四日、願随寺(元祝町)や豊照校付近に、下町の漁民や日雇といった貧民が群集し、数百人にふくれあがった。
この日は巡査や町内の有力者らが説得していちおう平穏に解散させたが、翌日正午頃、また数百人が群集した。
そこへたまたまコレラで死んだ病人の棺を護送する巡査が通りかかると、やにわに群衆は暴徒となって火のついたように彼らに襲いかかり、荒れ狂う勢いに乗って米商人など商家数軒を打ちこわすなど、手のつけられない状態となった。
急報に驚いた警察は巡査をくり出して鎮圧につとめたが、群衆は激しく抵抗して暴れまわった。
しかし、夕方までには巡査たちの力に押しまくられてちりぢりになり、指導者と目されたもの数名が逮捕されて、さしもの騷動もおさまった。
この年は、貧民にとって騒動は必然的行動であったといえるかもしれない。というのも、六月七日および七月一日の二回、大火災があって、貧民の多くが焼けだされ、次に七月中旬になって洪水による河川交通の渋滞で、流通にたずさわる人々は仕事にあぶれ、物価がじりじり高まってくる。
そこへコレラの蔓延のために、伝染防止を理由に、果物の移出や一部魚介類の販売禁止とさては、生活のすべがない。
それと警察によるコレラ患者の扱いも、多くの人々に不満をいだかせた。
何せ恐ろしい伝染病であることは経験で知っているから、患者を厳重に隔離することで蔓延を防ごうとしていたのである。
発病者が出たとなると有無をいわさず避病院へ強制入院させ、入ったが最後絶対に家族との交流はさせない方針であったので、淋しく死んだあと、焼揚へすら同行は許されなかったというのであるから、不満反感を持たない方がおかしい。
新潟の二日後、今度は対岸の沼垂町で大騒動となった。
八月下旬には北蒲原郡や西蒲原郡でも騒動があり、そのほかにも不穏な状況の町村が多かった。
この事件をきっかけにコレラ予防の方法は隠便を第一に、病院の新築を行なったり、米穀を安売りするなど、為政者側も柔軟な姿勢を見せたので、その後は騒動はほとんど見られなくなった。
3 近代都市への第一歩 top
廻船の衰退
これまで新潟町の経済を握ってきたのは、数多くの廻船問屋たちであった。
江戸時代のはじめ、西廻り航路が開拓されてからは、新潟は重要港湾となり、年貢米の輸送をはじめ、後背地への物資の集散地として発展を重ねてきたのであった。
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そうした商人や商業の仲継ぎ役として大活躍したのが廻船問屋であって、新潟港を領していた頃の長岡藩は、彼らから納められる各種税金を藩の大事な財源のひとつとしていた。
交通や通信がままならなかった江戸時代は、廻船問屋の存在は、なくてはならぬ大切な流通機構であったので、彼らを経ないで他所と商取引を行なうことはむずかしかった。
ところが、明治になって社会の状況が大きく変ると、廻船方式はしだいにふるわなくなり、遅くとも明治二〇年代には、その多くが運漕業に転じていったのである。
というのも、いろいろ要因はあげられるが、そのひとつは通信方法の発達であった。
郵便や電信は、生産者と商人を直接結びつけるようになったのである。
前に述べたが、一般の人々がまだ政府の郵便事業になじまずにいるころから、商人は積極的に利用をはじめ、書状一通一銭〜二銭の料金は、それだけを見ればけっして安いものではなかったと思われるが、遠近の距離にかかわらなかったことと、連絡の速さと確実性は、きわめて信用のおけるものであったのである。
一方、新政府は、郵便事業を行なうにあたって、既存の飛脚業に従事していた多くの人々の失職を補償する意味で、官営陸運会社を設立して貨物運送専門に従事させることにした。
そして全国に支店網をはりめぐらして、商人がいつどこからでも商品の流通に利用できるようにしたのであるから、廻船問屋にとっては致命的打撃であったにちがいない。
そして政府は、殖産興業こ嵒国強兵の二大スローガンの実行をすすめるにあたって、不当巨利防止策を打ちだして国民経済の育成をめざしたので、特定の業種が独占的に大きな利益をあげることは強く防止されたわけである。
古い形式がすたれてゆくなかで、新しい形式が一方で生じつつあった。
そうした時代の先行きを見こしていたかどうかはわからないが、早くから洋式船を使って海運業を始める人が出始めてきた。
彼らの一番の刺激になったのは、おそらく三井・三菱といった中央の巨大財閥であると思われ、いままで羽振りをきかせていた廻船問屋に代わって、新たな新潟経済の主導者となろうとしていたのである。
三井財閥は一八七八(明治一一)年、清国(今の中国)が大飢饉に見まわれたさい、日本からの米穀輸出を一手にまかなって、西廻り航路を中心とする共同運輸会社を創立し、三菱財閥は西南戦争(一八七七年)の時に、軍事物資の輸送を一手に引受けて以来、海運を手広く行なっており、二大財閥の激しい競争は日本経済の振興にも大なり少なり影響をおよぼした。
新潟にも両者の支社が進出し、のちに新潟財界の中心になる人々は、両者いずれかの系列に属していることが多かった。
ことに後背地に穀倉をひかえる新潟は、諸産業の未発展の一時代には、一八七八(明治一一)年の米穀輸出で急速に成長してきた米穀商や海運事業者が何人か見られた。
対岸貿易を開く
さて、河口を利用した港湾の条件の悪さと、米穀以外の産業がほとんど育っていない新潟は、日本海側という不利も加わえて、せっかく対外貿易のために開港したのに、明治も一〇年を過ぎる頃には外国船の来港数は極端に少なくなっていた。
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各国の領事館もみな引揚げてしまって、結局、和船が出入りする昔の港の姿に逆もどりの状態であり、横浜や神戸のような賑わいは夢と潰え去ったのであった。
しかし、政府としても、新潟のこのような状態を手をこまぬいて見ていたわけではなく、対外が駄目なら対岸貿昜はのぞめないものかと調査を始めており、それとなく地元の資産家の意向をうかがいながら、日露貿易の実現を画策していた。
なんとかして対外貿易を振興せねば、維新以来の国家財政は窮々として、二進も三進もいかぬようになることは必至であった。
話は、三菱系の新潟物産会社という海外貿易商社の重立(おもだ)ちである西脇俤二郎や鈴木長蔵に持ちかけられ、またロシア側も貿易希望の意向であることがわかったので、さっそく実現へと準備がすすめられた。
はがらずもこの会社にとって、初仕事となったわけであるが、一八七九(明治一二)年、冬をさけるようにして、あわただしく調えられたそのいでたちは、汽船は五〇〇トンたらずの「豊島丸」、輸出用商品として米・麦・味噌・醤油・ミカンといった食料品、総指揮をふるうのは同社手代の伏見半七、というものであった。
当時大陸では、ロシアと清国がシベリヤ地方での国境問題で対立しており、かなり険悪な雲行きであった。
ロシア側は、もし武力衝突になれば、西方からの物資輸送が時間的に困難になりやすいことを懸念して、東方からのルートを求めていたのであった。
ロシアの日本海側の拠点はウラジオストック港である。
現在、新潟から船で二四時間くらいで渡れる日本海を、この当時のこの船などではその数倍を要した。
ところが、意気盛んに出航してようやく目ざす港へたどりついてホッとするまもなく、入港を厳しく断わられてしまった。
理由をただすと、新潟のコレラ騒ぎのニュースがすでに伝わっていて、伝染を懸念されたからであった。
初手のつまづきで先行きに不安の影を感じたとたん、追い打ちをかけるように、遠路輸送してきた物資は不要であるといわれ、伏見は愕然としてしまった。
よく聞いてみると、ロシア側は馬の飼糧をのぞんでいたのだけれども、清国との国境問題にケリもついた(イリ条約の調印)ので、戦雲も晴れ、全く必要はなくなったのであるということであった。
国際情勢の急変、輸出品目選定の誤り、国内事情など、いろいろな要因の連関で不首尾な結果に終ってしまったのは、別に伏見の責任でも何でもない、運のめぐりあわせであったのであるが、新潟港の将来をたくされるようにして送り出された日のことや、新らしい貿易ルート開拓の意気に燃えて海を渡ってきたことなどを思うと、どうしてもから手でそのまま帰国する気にはなれなかった。
不運の悔しさと、何か利益になりそうなものを早く見つけたい焦りをおさえて、彼は滞在を延ばしてウラジオストック近辺の港湾の様子や産業・漁業などをつぶさに観察してまわった。
その結果、まだ口シヤも日本も気づいていない一大漁場を発見したのである。
伏見の頭には、しだいに北洋漁業の基地としての新潟の将来が描かれてきたようであった。
このあと彼は、二度ほど居留民用の商品を積んで対岸を往復するが、こうした地道な努力に共鳴して、対岸貿易の振興を熱心に説くものも現れて、伏見のあとに続こうと意気を燃やす者も現れ始めた。
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ことに『東北日報』の記者であった関矢儀八郎は、対岸貿易・北洋漁業の振興には、新潟・富山・石川の三県が北陸地方発展のためにも力を合せてあたるべきだと盛んに主張し、後日、県会議員となって、さらに強力に運動をすすめた。
県の協力を得ることはできなかったけれども、伏見の経験した最初の失敗は、徐々に福に転じていったのである。
北洋漁業の基地として
新潟から北洋漁場を目ざして出漁した先陣は伏見半七で、一八八五{明治一八)年、続いて関矢儀八郎がわずか六六トンの魁(さきがけ)丸によって出漁したのが一八八九(明治二二)年であったが、これより先、すでに樺太地方の漁業経営者と結んでいたのが田代三吉(通称田三)や小熊幸次郎といった人々であった。
田代はその後、サケ・マスの青田買いをさかんに行なって、おおいに利益をあげ、新潟の新らしい経済人となった。
青田買いというのは、農業から転じてきたことばであるが、漁獲を見込んで漁業経営者にあらかじめ手金を払い、売買契約を結ぶもので、経営者はそれを資金として出漁するのである。この当時の漁船は、そのほとんどが二〇〜五〇トンくらいの小さな日本式帆船だったといわれているが、年をおって出漁数もふえ、しかも出るごとに豊漁であったから、じきに青田買いの必要がなくなってしまった。 |

北洋船 新潟港に集まる北洋船。
林立する帆柱は、帆船時代の船であることを物語る。
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明治も二〇年代になって、対外的には開店休業状態であった新潟の港は、こうしてようやく北洋漁業と対岸貿易の基地としての性格が生じて来、新らしい存在の意義を見いだし始めたのであった。
北洋漁業の振興に伴って、対岸貿易に関しても、新しい形で行なおうとする気運も盛りあがってきた。
日露汽船会社や越佐汽船(のちに新潟汽船会社と改名)が、ウラジオストックヘの航路に進出してきた。
そして一八九八(明治二九)年、おりから日清戦争の最中であった日本政府は、船舶不足を痛感し、海運保護政策を打ちだして新潟〜ウラジオストック間を特定助成航路に認定したのである。
これを契機に、対岸貿易はさらに躍進し、春に米穀・醤油などの食料品や漁網・漁具類を積んで新潟を出航し、秋に塩ザケなどの海産物加工品を満載して帰ってくるという形の往来が、頻繁になされるようになって、その年の出入り船舶数は六八隻で、輸出入総額は開港以来の記録であったという。
一方、北洋漁業の方は、ロシア側か漁場の制限をしてきたため、いままでの場所から東北の方に漁場が移り、一八九九(明治三三)年以降、とくにカムチャツカ半島近傍で操業がなされるようになった。
一九〇四〜五(明治三七〜三八)年の日露戦争後、ポーツマス条約が調印されると、それに基づいた漁業条約も結ばれて、日本・ロシアは対等に漁業をいとなめるようになり、ますます発展する様子がはっきりわかると、さらに漁業経営を目ざそうという人々が現れはじめ、たとえば鈴木佐平・小川善五郎・高橋助七・石井留吉・堤清六などの有能な人物が続々と輩出した。
こうした漁業の発展は、将来の新潟の発展の大事な基礎であると考えた県議会のバックアップも見のがせない。
県としても、その振興に積極的な策を講ずるべきであると知事に建議した結果、両年度にわたって総額二万七〇〇〇円余の支出がきまり、一五〇トンの遠洋漁業船、新潟丸を建造したというのであるから、その意気ごみのほどを知ることができよう。
のちにその船は民間に貸与されて東洋丸と名を改めた。
ところで明治来年の漁獲総額は、
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一九〇九(明治四二)年 一五万五八一一円
一九一〇(明治四三)年 四七万ニー 一〇円
一九一一 (明治四四)年 五六万一八〇一円という、いままでに考えられない巨額であった。
しかしながら、対岸貿易の進展も北洋漁業の発展も、単にそれだけの力でそうなったのではなく、そのほかの産業の興隆ともおおいに関連をもっていた。
明治初年対外貿易の失敗は、米作農業以外の産業の未発達による落差が大きすぎたために、一方的なものになってしまって続かなかったのであった。
港湾設備の改善
新潟がようやくそうした状態を脱皮するきっかけになったのは、一八八八(明治二一)年に、日本石油が川向いの沼垂地内に製油所を設け、初めて工場が港の近くに建てられてからであった。
その後、いろいろな工場が沼垂地内に建ち並ぶようになって、現在の工業地域のはじまりとなったのである。
製油に関連して、硫酸製造・化学肥料生産・機械工業などが、明治三〇年代以降、次々に起り、また経済活動も一段と活発さをました。
こうして港湾の機能のいっそうの拡張がのぞまれ、かつ都市の発達が明らかになってくるに従って、新潟港の貧弱さはだれの目にも歴然としてきた。
第一、船舶はだんだん大型化してくるし来港数も多い。
明治時代の新潟港は、いわゆる埠頭を有さない、江戸時代からの河畔横づけ式がずっととられてきていた。
だが、これからはそのような形では、とうてい受入きれないし、設備の不備や川底が浅すぎるために、みすみす他港へ回送されるというのでは、断じてプライドが許さなかった。
一刻も早い接岸施設の整備がなされなければ、せっかく好況の波に乗っている新潟は、むざむざ他港の発展に負けてしまう恐れは十分であった。
近代的港湾施設は、川向うの沼垂側に設けられた。
新潟港が近代的貿易港として本格的に注目されるようになるのは、次の大正時代に入ってからである。
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