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■集会はセレモニーに始まりセレモニーで終わる。
■スカウトに感動を与えるセレモニーのヒントは、ここにあります。
セレモニー

「基本編 まずはスカウティングにおけるセレモニーの意味を知っておこう」


英語のCeremonyという言葉を何故使っているのであろうか?
日本語の、式、儀式、式典という言葉を何故使わないのだろうか?

セレモニーという言葉は宗教から来ているのである。

つまり絶対者の存在を意識して、それに対する敬虔の念を秩序ある行動に移すものであって、
人間の勝手な思い上がりの行動を押さえるものである。

そういう点でこれは公民教育の一環であると考えられるのである。

祭りごとには必ずセレモニーが行われる。
"おまつり"という概念には、唄いはやしたり、踊り狂うという、無秩序なものを連想させやすいが、
それが"まつり"の本体ではないだろう。本体はセレモニーなのである。

そういう意味で、祭典とか式典とか言う日本語が、
セレモニーという英語とピッタリする場合もあるにはあるが、
ただそれだけがセレモニーの全体だとは言われないのである。

たとえばカビングにおけるグランド・ホウル(Grand howl)のようなものも
セレモニーに属するものである。

"ちかい"の式、進級式、上進式等は、"式"と名付けても良いものではあるが、
"式"とは言えない様なセレモニーもある。

"旗の持ち方"などもセレモニーの一つとしてイギリスでは定式が作られているのである。

が、それは日本にはない。チャーチパレードに関係があるからであって、
教会がするセレモニーにスカウトとしての作法を符合させる為である。

日本でも、明治、大正時代には、教育上においてセレモニーが重視されていたのである。

それは"絶対者(天皇、現人神)"に対する関連をつけさせるものであった。

三大節(新年、紀元節、天長節)には各小学校で式を挙げた。
天皇の御真影が掲げられ、君が代が合唱され、教育勅語が奉読されたものである。
これは外国(キリスト教国)のセレモニーの日本化であったと言えよう。
この場合はセレモニーは"式"という日本語で良かった。

ところが大戦後の"式"は、絶対者不在となってしまったので
ただ形の上での"式"であるにすぎなかったのである。

かろうじて、絶対者の関連に於いて、結婚式(神式、仏式、教会)や定礎式、
竣工式(大体が神式)等がセレモニーとして残っているだけである。

スカウトで行う式典や儀礼は、神仏不在の式でなく、絶対者の関連の上でのものである。

そういう意味から、セレモニーという語の方が適当の様に思うのである。

仮に、入隊式、ちかいの式等を"式"という名称を使うにしても、
内容としては、形ばかりの式ではなくて、宗教との関連を頭に置いて
(それは特定の宗教ではなく)行いたいものである。
来賓の祝辞や偉い人達の訓示などでウンザリさせられる様なセレモニーは、
本当のセレモニーでもないし、本当の式典でもない。
それでは絶対者との関連がゼロなのである。何のための式典なのか?

式典によってはPRと噛み合わされているものもある。
また表彰式と抱き合わされているものもある。
これは一時にあれこれやってしまおうという事から来るのであって、
何回にも分けて人を集めということは、時間に無理であるから、という理由によるのではあるまいか。
その為に、教育が"行事化"されてしまうのではとてもたまらない。

セレモニーについては、まずその本義をハッキリとつかむことが目下の急務であろう。

セレモニーは"行事"」ではなくて、公民教育としての積み上げの"教育"であると言うことを忘れてはならない。
公民とは、絶対者との関連を結んでいる人間、だということであって、
それが、秩序というものを自発的に守る人間であるということをしっかりと考えてみたいものである。

結論的に言うと、公民性を養うためのセレモニーを的確に行わなければならないと言うことである。


(ボーイスカウト静岡県連盟 スカウティングの原点をさぐる より)


「活用編 いろいろなセレモニーのヒント」