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■スカウトティングの原点「ちかい」「おきて」の理解は、あなたに信頼と自信を与えます。
■「ちかい」と「おきて」を魔法の言葉にするヒントは、ここにあります。
「ちかい」と「おきて」

☆ちかい☆

「ちかい」はスカウトの年代にあわせて、分かり易い表現になっています。

ビーバースカウト・・・ビーバーのやくそく
カブスカウト・・・・・・カブのやくそく
ボーイスカウト以上・・「ちかい」

私たち指導者はまず基本となる「ちかい」の意味をしっかり理解して、
その意味するところを、ビーバー・カブ年代にあった指導をしていくことが重要です。



「基本編 ちかいの意味をしろう」


"ちかい"は「アルベキところ」を指しているのである。あるべきところとは「真理」であり、
ザイン(Sein)である。哲学でいう「実在」である。
これに対し"おきて"の方は「あらしめる」すなわちゾルレン(Sollen)、
哲学でいう「現象」なのである。
あるべきところにあらしめる、これが"ちかい"と"おきて"の事である。

それであるから"ちかい"とは絶対者(神、佛)との関連を人間(スカウト)が結ぶことである。
カントの言葉に「絶対者との関連において、人間は人間である」と・・・
これは、絶対者(神、佛)との関連を結ばない人間はまだ基本的な人間とはいえないのだ、
という意味に解されるのである。

基本的な人間とは「公民」のことである。

義務(Duty)を果たさず権利のみを主張するなら、公民ではないのだ。
以上の解明に基づいた意味での「公民」であるならば
絶対者(神、佛)に誠を尽くすことは勿論、
国にも誠を尽くすように自分をあらしめるに違いないのである。


「いつも他の人々をたすけます」

人間にも、他の人間をたすけることが出来るのだという可能性を表しているのである。
幼い子供でも、人をたすける事が出来ると言うことを知らせて
自分の可能性を発見させる事が大切なことである。

それが、絶対者と人間との関連をますます深めることになるのである。

「体を強くし、心すこやかに、徳を養います」

これは、神、佛への誠の尽くし方であるといえる。
自分だけの幸福を考えないで他の人達への幸福をはかる、
これを東洋の言葉で表現すると「徳」というのである。

これは、自分と他人を区別するような相対観の世界では出来ないことである。
自分とか他人とかいう差別を超えた絶対観に立たなければ
そういう気持ちになれないものである.。

そうした絶対観は絶対者(神、佛)との関連を結んだ基本的な人間でなければ
生まれるはずはないのである。


"ちかい"は、誰にちかうのか?

まず、自分は絶対者(神、佛)との関連を結ぶのだということを自分自身にちかうのである。
すなわち、自発活動への点火である。
だから、冒頭に「私は」とハッキリ言うことになっているのだ。

"ちかい"は合唱するものではない。
そして、自分と同じように絶対者との関連をすでに結んでいる仲間(スカウトやリーダー)
に対して、私も関連を結びます、と約束をするのである。


「ちかいのあつかいかた」


このように考えていくと、競技大会における選手代表や、
入校式における生徒代表の宣誓だのとは大変な違いである。


むしろ一種の入信式だと考えられるのである。

"ちかい"の式は中世の国で準騎士が正騎士の身分に身分入りするときの
叙任式の形式をとって、ベーデン・パウエルが創案したのである。
それは、カトリック系の司祭によってとり行われた歴史がある。
スカウトは騎士の復活だと考えられていたのである。

騎士を持って基本的な人間の一例であると
ベーデン・パウエル卿は暗示したもの考えられる。

こういう原義や由来を我々はよく見極めて"ちかい"の式のやり方を改めてみる必要がある
ように考えられるのである。




☆おきて☆

「おきて」もスカウトの年代にあわせて、分かり易い表現になています。

ビーバースカウト・・・・ビーバー隊のきまり
カブスカウト・・・・・・・カブ隊のさだめ
ボーイスカウト以上・・スカウトの「おきて」

私たち指導者はまず基本となる「おきて」の意味をしっかりと理解し、
ビーバー・カブにその年代にあった指導をしていくことが求められています。


「おきての意味」


"おきて"と平仮名としたのは、和訓を選んだということと、
漢字の"掟"は他律的で命令的であるからである。
それに反して"おきて"は、自律的であり自発活動である。

「してはならない」という禁止的な表現をとらず
「する」「である」という自律的積極的行動の表現によったのである。

"おきて"は「心のおきどころ」である。

おきて"の全条目は信仰心の現れ方であると見るべきで道徳律と見るべきではなかろう。
この点再考の必要がある。

誠実、忠節、人の力になる、友誼に厚い、礼儀正しい、親切、従順、
快活、質素、勇敢、純潔、謙虚という12の行動は
※注 現在は、誠実、友情、礼儀、親切、快活、質素、勇敢、感謝の8つ※
それが人間対人間の間における関係(ヒューマン・リレーション)
つまり、相対的な世界でのルール・道徳律でもあろうが、
シニアー(ベンチャー)、ローバーの段階では更にこれを高めて
信仰心の発露による行動であるという自覚に達しなければならない。

宗教的な自覚、価値観の革命、信仰心の燃え上がり、
それへの点火というものは、早い人もあり遅い人もある、老少不定である。
、 一生かかっても芽生えない人もあるし、迷心に陥る人もある。
私はスカウトになったということは入信の機会に恵まれたのだと見るので、
その意味で"おきて"は、神または仏のチームのするゲームのルールである
と考える見方も成り立つ。

そう考えた場合、このルールを守らないということは、
神、仏に誠を尽くさないということになる。
こういう解釈の仕方は、初級、2級のスカウトに対して通じるのではなかろうか。

「スカウトは信仰を厚くしてそのつとめにはげむ、
しかも謙虚の心を失わず他人の信仰や風俗を軽んじない・・」とあるように
信仰心というものは、スカウティングと別のものではない、つまり異物ではないのである。

我々はこれまでスカウティングと信仰とは切り離して
関連のないものだと考えていたようである。

そこで、リーダーがスカウトたちに"おきて"の説明をする時、自分の頭の中に、
これは、神または仏との関連においての、誠の尽くし方である
ということを確認しておく必要があろう。
とはいえ、余りにこじつけて木に竹をつなぐような説明をしてはならない。
それはむしろ逆効果を生じることになる。

説明は極めて自然に感動を呼び起こすという形をとるのが良かろう、
例えば、森の中営火の夜話に託してすると良い。
営火や夜話を通じての話の仕方については改めて後述します。




☆標 語☆

「標語」(モットー)はスカウトの年代にあわせて、分かり易く設定されています。

ビーバースカウト・・・・なかよし
カブスカウト・・・・・・・いつも元気
ボーイスカウト以上・・そなえよつねに

私たち指導者はまず基本となる「そなえよつねに」の意味を理解すると事から、
はじめてビーバー・カブにその年代にあった指導をしていくことが重要です。


「標語の意味を知ろう」


標語の「そなえよつねに」は往々非常時に対する備える心構えだというように解せられた。

鎌倉時代の武士が「いざ鎌倉に事起こりなば、錆びたりともこの槍を引っさげ、
やせたりとも、このウマに乗って馳せ参じ・・・」という心意気を(佐野常羽先生の祖先、
佐野源左衛門常世を主人公とした謡曲「鉢の木」より)合い言葉とした「いざ鎌倉」という、
それの亜流と解されるものであった。


すなわち「さあこい」「準備は出来ているぞ」という説明を、
わたし自身もスカウトに話した記憶がある。
そういう解釈だけで間違いだとは考えていない。
けれども非常時の為だけにスカウティングがあるとは考えない。


平和時の斥候であるスカウトにとって、
むしろ平和時における「そなえよつねに」の方が大切である。


それについてもいろいろのケースがある。

火災だの、風水害だの、交通事故だの、震災だの、という災害や、雪崩、
土砂崩れ、生き埋め、急病というように天災と人災がある。


また、日々の善行をするチャンスはいつでも、どこにでもあるが、
そういう機会を見逃すようでは観察力が備わっていないだともいえる。


「つねに観察を怠るな」というようにも解釈される。


折角その場に到着をしても、人工呼吸という技能を習熟していなかったならば
溺者を救うことは出来ない。


それは、技能が備わっていないことのために「技能をつねに」とも解釈されるのである。


このように、「そなえよつねに」という言葉は、スカウトにいろいろのケースについて
考えるように、油断してはならないことを示しているのである。


スカウトというものは、信頼に値することを名誉としている。
信頼されるということは、責任を任せることが出来る男であり、誠実な男であることである。


そうした、信頼を裏切らないことが「そなえよつねに」の本意である。
"おきて"、"ちかい"に対応して、"ちかい"は「絶対者との関連に於いて人間は人間である」
という考えに対応するにで、「そなえよつねに」とは
神又は佛に誠を尽くすという関連があるのである。


そしてその次には、国家に対して誠を尽くすと言うことに関連がある。


「君は、ボーイスカウトという多くの人々から信頼されている男である。
だからその信頼を裏切らないように、スカウトという"正札"の通りに、
その正価通りの値打ちを落とさないように、"つねにそなえる"のだ」ということを説き聞かせ、
「そして、信頼がなかったら、君は、そして人間はいったいどうなると思うか」
ということを考えさせると良い。


やがて彼の考え方は、いつの日にか、絶対者との関連に、へと展開するであろう。


もっと分かり易く言うならば「いつも、いつも、スカウトだ」ということである。


「スカウトだ」ということは、神や佛と関連を結んでいるということ、
神のチーム、佛のチームのメンバーである、ということ、
悪魔のチームには絶対に入らないと言うことである。


・中華民国(台湾)の童子軍(ボーイスカウト)の標語は"智・仁・勇"である。
これは"智にそなえ、仁にそなえ、勇にそなえよ"という意味であって、
日本と異なり儒教的である。




☆スローガン☆

「スローガン」は全ての年代のスカウトに同じものが掲げられています。
私たち指導者も「日々の善行」の意味を理解して、
ビーバー・カブにその年代にあった指導をしていくことにしましょう。

「スローガンの意味」


英語の"スローガン"(Siogan)を"主張"と言い直したものである。
スローガンとは元々スコットランド人の"ときの声"だという。
声を張り上げて自分らの態度を言いふらすという意味で、つまり主張である。


"日々の善行"という主張は英国の"Daily.good.turn"と同じ内容である。


good.turnという言葉は、ベーデン・パウエルの発明のようである。
それで、その当時英国の人々はこの妙な言葉を冷やかしたそうである。
「毎日毎日トンボガエリをするのか・・・」と。


turn(ターン)は、水泳選手がプールで折り返しの時にトンボガエリをする、あれである。
それを日本で"善行"と読み替えたのは、ターンを"おかえし"と解釈した事によるのである。
つまりは恩返しである。


天地、神仏の恵みに対しての恩返しであって、それは善行によってなされる、
という思想である。


この"日々の善行"は"一日一善"とも言われている。
一善だけでよいという制限したわけではない、口調がおもしろいので一善といった。


自分が自分の計らいで之は善行だからしてやろうといって、
意識したり、計画してやる善行は本当の善行ではない。


"善行無轍述"(孟子)
(善行という車が通った跡には、車の轍の跡も残らない)


インドのガンジーも同じようなことをいった。
「心身共に清い者だけが、真の善行を為し得る」と、
これは人間の作為の善を"偽善"だとしたのである。


スカウティングは哲学ではない、ゲームであり、教育なのであるから、
これは善だという推理判断をして、その善というものを「実行する事によって学ぶ」と
いうプロジェクトなのである。


"主張"(スローガン)の示す意味がこれである。
平易に言うならば、毎日毎日、善行ごっこをするということである。「ゲームの活用」


けれども"善行をする"そのこと自体に目的があるのではない。
それを介して公民性を養うのが目的であるから、
善行ごっこはその意味で、方法なのだといえよう。


またの考えとして、神や佛はあまねく、
この大宇宙に向けて善行を日々に実行されているのである。


そういうチームに自分も参加して、自分も善行をする。
このチームは毎日試合をする、休日なしである、だから"日々の善行"である。


終わりに、"感謝の念"から発しなかったら行った行為は
善行に見えても善行とはいえないであろう。
善行とは仕事(job)ではない、嫌々ながらするものでもない
おもしろくてたまらないからするものでありたい。ゲームのように。


日々の善行はお返しであるからその上にお礼を貰ってはならない。
アルバイトと混同してはならない。
本当は人間が無意識で空気(酸素)を呼吸しているように、
意識をしないでする善行でありたい。


打算的の善行ではなく、取引を考えての善行ではなく、
命そのままの善行につながった善行であって貰いたいものである。


ある人達が提唱して行っている「親切運動」のようなもので満足してはならないと思う。





☆奉 仕☆

スカウティングの四本の柱は

人格・・・自らの人格を築き
健康・・・健康な体を作り
技能・・・役に立つ知識・技能を身につけ
奉仕・・・人々に奉仕できる様になる

そのどれが欠けてもスカウト運動の目的は達成されないことになります。
私たち指導者は「奉仕」の意味をしっかり理解して、
その意味するところを、日々の活動を通してスカウトに指導をしていくことが重要です。

「奉仕の意味を知ろう」

奉仕と言うことはスカウティングの大きな目的であるが、
その意味についての分析が十分でなく、
そしてその指導に奉仕の原理が伴わなければならないのではあるまいか。


リーダーの多くは奉仕を道徳的な美徳であると説明し、
奉仕は我々の責務なのであるからしなければならないのだ、
とあたかもノルマであるかのように押しつけるきらいがありそうである。


カブやボーイの低年齢層ではそれに服従したり納得するであろうが
シニアー(ベンチャー)やローバーの年齢になると疑問を持って来るであろう。


例えば行事への奉仕の場合、旅費等自費で奉仕に出向くつもりでいる、
それだのに、交通費を貰ったり弁当を出されたりするのであるならば、
これはアルバイトとどう違うのか?という疑問を持つようになる。


少年隊長あるいは年少隊長がシニアー(ベンチャー)やローバーに対して
原隊奉仕を頼んだときに、彼らの中には隊付きだの副長補だの、
デンチーフだのという奉仕分野としての登録をしている者と、
そうでなくて臨時に野営とかハイキング等の応援に出勤奉仕を頼まれた者とがある。


そうなると奉仕についての任務上の限界が曖昧になってくる。
ある限界を超えると他の人の限界内に入って、出しゃばることになるという例もある。
そこに衝突を生じ、シコリを残すことになる。
これ隊長の指示が悪いことから起きるのであって、
その結果として彼らは奉仕することを嫌がるようになる。


多くの隊長の中にはそれらのスカウトに対して
隊長のなすべき面倒な仕事の大部分をさせたり、
彼らにオンブをしなければ満足な隊運営、隊指導の出来ない人もいる。


そのことは奉仕の美名のもとに酷使することではないかという疑念を
奉仕者に抱かせることになる。
シニアー(ベンチャー)の或スカウトは、
本来のシニアー(ベンチャー)の課程を満足に履修をしないで
原隊の奉仕だけに終始してシニアー(ベンチャー)たる存在を保っている者がいる。
彼らは奉仕の方が忙しくて課目に挑むことも出来ず、
従って進級が出来ないとこぼすのである。


以上のことは奉仕することを仕事(job)だと見る点から来る認識不足では無かろうか?


認識不足はリーダー側にもスカウト側にもある。


ましてや、奉仕を申し込んで来る第三者(スカウトの部外者)
においてはもっとひどいものがある。
そこで、"奉仕とは何か?"というテーマでシニアー(ベンチャー)やローバー達に
討議をさせて、その本質を探らせ、つかませる必要があると思う。


奉仕とは宗教用語である。


漢語の"奉仕"とは、和訓で"つかえまつる"である。
"つかえまつる"の"まつる"は"祭る"であり、
"つかえ"は神や佛に"つかえる"ということを意味している。


人に仕えるのではない、家来になるということでもない。


"まつる"とは絶対者を崇敬すること、そしてそれに感謝することである。
そうすることによって絶対者と人間とが一体となることである。
一体となって共に宇宙の生命力のエネルギーを生かし、
それを享受して反映と幸福とに注ぐ、という行動へ点火することで、
人間活動への始動となるのである。それが信仰心の起点としているのである。


奉仕を英語でサービス(Service)という。
サービスとは神に仕える礼拝、又は礼拝式それから発して
人間への奉仕に及んでいるのである。
どんな宗教にあっても奉仕とは、人間と絶対者との一体感に基づく行動を指しているのである。


べーデン・パウエルはローバリング・ツウ・サクセスに、
「奉仕は必ず犠牲を伴う者である」と注意をしている。
"犠牲"という漢字の形成が示しているように、
これは"まつり"に牛や羊(いけにえ)を供えることから発しているのである。


生きた牛や羊(いけにえ)を神前に供える。
神道では山の幸(野菜など)、海の幸(魚類)は神前に献じる。
佛教では生臭くない者をお供えする。


英語のサービスは犠牲、これは、罪をあがなう者の贖罪の祈りを込めての、
献身という意味を持っているのである。


こういう最初の言葉から今日の「犠牲になる」とか「犠牲を払う」とか
「献身する」とかの言葉になったのである。
そういう歴史を知らないために言葉だけ残って
その精神は失われてしまったのではあるまいか。


サービス、奉仕、という言葉もそれと同様に宗教的な原義を失ってしまって、
主として商業用語と化してしまったのである。


"出血大サービス"だの、"奉仕大安売り"だのとして用いられている。


以上のように、奉仕というものは神や佛に対する人間の関連の仕方である。
しからば、人間として、スカウトとして我々はいかに奉仕すべきか、
奉仕をいかに扱うか、という点についての根本的な思索が必要なのではあるまいか。

邪心、打算は奉仕には禁物なのである。


ところが万事に合理性を求める若い世代の人々の間には、
非打算は合理的でないという思想が強い。
だから、合理的に納得できない様な奉仕はしたがらないのである。
ここにおいて、新しい世界観が彼らの胸に現れてこなかった奉仕はあり得ないことになる。


"信仰"と名付けられる小舟に乗って、"打算の海"を乗り越えなかったならば、
この境地に到達することは出来ないであろう。


そこで、価値観を変える必要がある。


しかるに、価値観をそのままにしておいて、奉仕を考える人がたくさんいる。
つまり、奉仕だと称して実はボロイもうけを狙う商人もいる。
ましてや、奉仕を押し売りする者がいる奉仕によってもうけた事がある経験からである。


スカウティングを通じて、純粋な奉仕をすることを、わからせたいものである。
それについても"ちかい"を正しく把握することの重要性を痛感する者である。


絶対者との関連においての奉仕を期待したい。美徳としての奉仕ではなくて。


(ボーイスカウト静岡県連盟 スカウティングの原点をさぐる より)