2-3 坐と「知情意」の円満な発達
釈迦は三千年前、悟りを啓き、入滅の際に「法灯明、自灯明」という言葉を遺されました。これは「法を拠り所とせよ、そして己を拠り所とせよ」という意味です。
釈迦の悟りは「坐しての瞑想」によるもので、「坐により、心を静めることで、真理を感得することができる」と同時に「坐により、己を拠り所とできる」ことを教えています。この「己」とは「意識しての自分」ではなく、意識以前より有る「体」という無意識の「己」であり、「どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る」という野口先生の言葉もこのことを意味しているのです。
坐すことで気を鎮め、心が静まることで自分の身体が分かる、感じられるということが「体の要求で分る」ということなのです。そして坐により、腰が鍛えられ、腰椎を軸とすることで、「己を拠り所」とすることができ、心の安定と自分に対する信頼が得られるようになるのです。
整体指導の場において、腰が入るにつれ、「視界が広がった、視点が高くなった」という感じを持つ人は少なくありません。体が整い、腰が入ることで脳のはたらきが変り、よく整った身体においては、「俯瞰する眼」を得ることができます。
俯瞰することが宗教的に働き、「真理を感得する」ことができたのが、釈迦においての「悟りを得た」ということだったのです。
正坐で養う原理は「上虚下実」であり、仙骨と太腿に力が入ることで、大事なことがきちんと感じられる心の働き、脳の働きを実現することができるのです。
「知情意」の円満な発達も、坐によって「腰肚」を鍛えることで促されていました。知というのは頭、情(感情)は胸、意は腰にあり、基礎となる腰がきちんと坐ることで上部も安定するのです。
私は十九歳の折、野口先生の講義を聞く時に、坐によって頭が働くという「身体性」に慣れることが、野口整体を学ぶことの始まりでした。
記憶を中心とした受験勉強というものは、頭に知識を入れようとするもので、体に入り、身に付くということはありません。「記憶する」ということは食べたものが胃に留まっているのと同様です。食べたものは、胃でこなされ、腸で吸収されてこそ血となり、エネルギーとなるように、「意識の上では忘れている」が、潜在意識に入ったものだけが心身を育てていくのです。
頭で記憶しよう、覚えようとするのではなく、体丸ごとで理解する。単に記憶された知識は、前回の「自分の言葉にならない」という話と同様、自分の糧とはなりません。つまり腑に落ちて腹に入るのです。そうすると、意識の上では忘れているようでも、必要な時には「思い出すことが出来る」のが潜在意識の働きなのです。
坐すことで呼吸が深まり、体に気が通っている状態になると、脳の働きが変わり、勉強に身が入るようになります。「体を使ってものを考える」ということの基本が「坐」にあり、坐による学びは、頭でっかちになることなく、学んだことが自分の基礎となります。また「腰肚という身体の中心を得る」ことで、「体の要求」という自分の興味の方向性を識ることができるのです。(→正しい正坐のすすめ)