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身体感覚が自己を成長させる

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

1、言葉と感受性

『月刊MOKU』2007年6月号
身体感覚と自己の成長(身体感覚が自己を成長させる)
その一 言葉と感受性(V5の5)

  

1-1 日本語が通じない

 さて、MOKU二月号の「野口整体・実践講座」では「頭寒足熱」をテーマとしましたが、この時、私の塾生の一人が、この言葉を理解するのに、「頭を何かで冷やし、足を温めること」と、捉えていました。

 この人は、この言葉を聞いたのは全く初めてというわけではないのですが、以前から何とはなしに、このように理解していたとのことです。

 私においては「頭寒足熱」とは、「そのようになること」であり、「己の心身が鎮まっての生理的状態である」と、弁えているのが、日本人においては当然のことと思い込んでおりましたが、この人は「頭寒足熱」とは「そのようにする」と捉えていたわけで、この間には、大きな相違を感じたのです。

 「無為自然」を愛した日本人の宗教観があまりにも伝わらなくなっているのが私にとっては残念なのです。

  

 師、野口晴哉先生は次のように言われています。

 

 日本語のよさといふものは、語られた言葉よりむしろ言外の余韻にあるので、一つ一つの語の含蓄を感じて行くところに美しさがある。この言葉を使って、言ってしかも言はず語らず、その心を伝へ受けるところに、日本語を用ふる日本人の勘があるのだ。

野口晴哉

  

 またある時、私のところに数年通っている、三十代半ばの女性に「『情けは人の為ならず』という言葉を、この頃の若い人は『情けは人のためにならない、から、かけてはいけない』と思っている(テレビ談)そうだが、君はそうじゃないよね?」と訊いたことがあります。

 しかし、この人は「私も最近まで、そう思っていました」と答えるのです。

 これは「意味が分かっていない」ということだけではなく、「ならず」で止めて、意味を総て言い表さないことで、「聞き手の想像力に任せている」ことを感じられない、ということなのです。

 他にも、「焚き火を見ててくれ」と頼まれた少年が、消えるまでずっと見ていたとか、会社で社員に対して、「こうして下さい」、「その後はこうやって」と、逐一言わないと伝わらない若者が増えているようです。

 そのうちに、「お風呂を見てきてくれ」というのも、その意味を事細かに説明しないと伝わらないほどの情況になってはいないでしょうか。

  

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