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身体感覚が自己を成長させる

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

1、言葉と感受性

『月刊MOKU』2007年6月号
身体感覚と自己の成長(身体感覚が自己を成長させる)
その一 言葉と感受性(V5の5)

1-3 野口整体、からだ言葉、身体感覚、感情、そして心の力

 野口整体が専門である私が、なぜ国語力についてお話しするかと言えば、国語は「深く考える」ことと、この国の文化の基礎となっているからです。

  

 MOKU五月号では、心と体を「ひとつもの」として感じる「身体感覚」のお話をいたしましたが、「心と体がひとつである」ことは、日本語に特に多いと言われる「からだ言葉」が証明しています。

 そのからだ言葉の中でも、「溜飲が下がらぬ」は若い人のほとんどは知りません。それで、これに近い「腑に落ちない」を挙げて説明するのですが、「腑に落ちない」とは、頭が納得しないだけでなく、事実、みぞおちから下に、内臓の下部に向って、「気」が下がらないという状態なのです。

 私には、他人のそれが眼で観え、手で触れることもできるのですが、本人は至って感じていない、という人が若者に増えているのです。

 「腑に落ちない」を、「身体感覚」で理解している人は、その痞えた「気」を敏感に感じているのです。

 しかし、こういう人は稀で、それこそ腹で、内臓で、腸で以って理解しようとする「探求心」の現れが、逆に「腑におちない」という「身体感覚」を生み出しているとも言えるのですが、ほとんどの人は、比喩として知っているだけなのです。このように、現代の教育で育った若者は、体で感ずることが鈍くなっているのです。

 このことが「感情が解らない」ということで、自分の気持ちがわからないから、人の気持ちも解らないのです。

 感情が痞えたままの最たる人が鬱病の人なのです。

 この六十年でこれほどに、生活文化が変わった国は日本だけだと言われています。

 「からだ言葉」を感覚として共有できていた時代というのは、日本語も伝わっていたし、言葉のやり取りの間に今のような世代間格差はなかったでしょう。

 それが、「感覚」を共有することができなくなったことで、これほどに違ってしまったのです。

 このことを理解できると、様々な人間関係に応用できるものと思います。

  

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