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身体感覚が自己を成長させる

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

2、拠り所となる自己とは

『月刊MOKU』2007年7月号
身体感覚と自己の成長(身体感覚が自己を成長させる)
その二 拠り所となる自己とは(V11の4)

  

2-1 優等生の憂鬱

 二十代三十代の間で、鬱症状に悩む人が増えています。中でも、「自分はこの仕事でいいのだろうか」という葛藤が強く見受けられる人が目立っています。

 高校、大学在学中に通過しておくべき煩悶葛藤が充分にできないまま会社に入り、そこで初めて人生をどう生きるかを悩み始めたということなのでしょう。

 「偏差値」「安定」「収入」など、自分が「やりたいかどうか」とは違う基準で進路を選んできた人が疑問を感じるようになったことから生じた問題ですが、私の眼から、「『自分の人生はこれでよいのだろうか』という葛藤が鬱症状となって現れている」と判断できる人は、思春期に「自分の要求」というものを吟味せず、頭で作り上げた価値観による選択で就職に至っているのです。しかし、学校も親も、それが「優等生」「いい子」であって、「何の問題もない」と思っているのではないでしょうか。

 

 受験勉強では、すでに決まっている正解が答えられるかどうかだけが問われ、その人自身がどう考えるかは問われません。つまり、その人そのものは問われないわけです。したがって、「記憶力中心」の勉強に向かうことになります。野口晴哉先生は『躾の時期』(全生社)の中で、「記憶」について、次のように述べられています。

  

野口晴哉 『躾の時期』(全生社)

記憶というのは、空想するとか、推理判断するとか、あるいは総合して良い悪いを決めるとか、自分の位置を定めるとかいうような、頭の補助として必要なものである。その記憶力を大事にして何でも憶えさせるから、思考力が鈍ってくる。

  

 子どもの頃から、「自分」を問うことも問われることもないまま、知識を記憶し、自分とどういう関係があるのか分らない正解を答えることを続けていれば、「自分はどうしたいのかが分らなくなる」のも当然のことだと思います。 

 晩年には「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」、「気のしっかりした人がいなくなった」と憂い、つねづね、現代の教育は「育がなくて教教である」と指摘されていた野口先生は、『思春期』(全生社)では、「自分とは何か」について、このように述べられています。

 

  野口晴哉 『思春期』(全生社)

 その人の生命の自由を束縛している無駄な知識、教養をみんな捨てさせるような方法を常に考えているのです。(中略)私達が“自分”だと考えているものは、自分が生きて来た知識、経験の総合なのです。「○○さん」と呼ぶと「はい」と答えるのは○○さんが自分だと思い込んでしまった先入主です。(中略)そういう知識の集りが自分だと思っているのです。

 けれども自分とは、それだけのものなのだろうかと言えば、自分の名前をまだ覚えていない内から自分は在ったのです。生まれる前から自分は在ったのです。しかし意識以前に在った自分は判らないのです。意識以後に自分で作って来た、自分だと思い込んで来たその自分だけを、自分だと思い込んでいるのですが、生きているということ、健康を保つということ、いざという時の咄嗟の行動も、みんな意識以前の自分の行動なのです。そして、それを縛っているのが意識しての自分なのです。

  

 実は、意識以前の要求に依って人は生きているのですが、意識による知識が増えると意識以前が分からなくなるのです。「勉強して、知識を増やしていくことが自分を高め、成長させることだ」という思い込みが、自分の要求、自分というものを分らなくさせているのだと言えます。

  

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