なぜだか分からないけど、自然とそうなってしまう。それは私の意志とは関係ない。私の意思から離れて、別の次元で物事は起こっている。 シンハラ語は中動態を無意思として表現する。そこには無意志動詞という特別な動詞が用いられて、その動詞はシンハラという言語に独特の、特有のニュアンスを作る。日本語の世界からすれば、それは新たなアスペクト、"態"の発見だ。 |
シンハラ語の無意志動詞。聞きなれないかもしれませんがシンハラ語ではとても大切な動詞です。それは何か特別な動詞? これをシンハラ語では、 と言います。「マタmaTa」は「私mama」の与格で、英語ではmeにあたる。だからと言ってこのシンハラ文をmeを使って現代英語に変えたら、
そう、特別で、だけど、ありふれたもの。英語の言語文化からすればシンハラ語の無意志動詞は特別で、時に不可解で、理解に苦しむような現象を運んできます。なんとも奇異な動詞。
例えば「見える」という動詞。
向こうにバルコニーが見えたとします。そのとき日本語と英語ではこう表現します。
日本語
私はバルコニーが見える
英語
I see a balcony.
මට බල්කනිය පේනවා
maTa balkaniya peenavaa
マタ バルカニヤ ペーナワ
私/与格 バルコニー 見える/無意志動詞
Me see a balcony. |
となってしまい始末に困ります。英語では文にならないけど、シンハラ語ではこの与格のmeにあたる「マタ」が主語に来なければ、逆に文にはなりません。
「マタmaTa」は「マma(私)+タTa(~に)」という仕組みになっています。
この言い回しを与格主語と呼んでシンハラ語の特別な主語の使い方とされています。だけど、日本語にしてみれば、この言い回しはそれほど特別なものじゃない。
なぜなら、日本語でも「マ-タ」にあたる「私-に」を主語に据えることができるからです。
මට බල්කනිය පේනවා
maTa balkaniya peenavaa マタ バルカニヤ ペーナワ 私に バルコニーが 見える。 |
「マタ-ペーナワ」は「私に-見える」という言い回しそのものです。「私に見える」のほうが「私は見える」より自然な日本語として聞こえます。
格文法に馴染みのない私たちは「私に」を与格主語だなどと意識することもないし、また、「私は/が」の主格主語でなければ文は成立しないなどという英語流の文法作法なども頓着しません。
ところで、シンハラ語では「ペーナワ(見える)」を無意志動詞(ニルットサーハカ・クリヤー)と呼んでいます。それは、私(主語)の意志とは別のところで事態/行為が起こっている、動詞が表すことが私(主語)の意志/行為ではないということを表します。そして、このときに主語は「私が/はmama」(主格)ではなく「私にma-Ta」(与格)という言い回しを取ります。
日本語で「私に」と言っても、これが無意思を表すとは気づかない、意識しないのですが、シンハラ語ではここがとても大切です。「私に見えてくる」のは断じて「私が見る!」行為ではないからです。
シンハラ語の無意志動詞には次のようなものがあります。
見える (私に見える) |
පේනවා | ペーナワ peenavaa |
聞こえる (私に聞こえる) |
අහෙනවා | アヘナワ ahenavaa |
思われる (私には思われる) 考えられる (私には考えられる) |
වටහනවා | ワタヘナワvaTahanavaa |
分かる/意味を理解する (私に分かる) |
තේරෙනවා | テーレナワteerenavaa |
合点がいく (私には合点がいく) |
තේරුම් යනවා | テールム・ヤナワteerum yanavaa |
明らかになる/気付く (私に明らかになる) |
දැනෙනවා | ダェネナワdanenavaa |
悟る/全知が得られる (私において全知が得られる) |
අවබෝඩ වෙනවා | アワボーダ・ウェナワavabooda venavaa |
日本語でも知覚に関するこれらの動詞は「~に」という助詞を従える与格名詞を主語として持ちますから、これらの動詞が持つ心理的な意味は同じような言語処理が、私たちの感性のどこかで行われているのかもしれません。
この言い回しはサンスクリットでアートマネー・パダ(中動態middle voice)と呼ばれるものと同じです。シンハラ語文法では中動態をアチェータニカ・バーワヤacheethanika
bhaavaya、無意志動詞をアカルマカ・クリヤーワ(アカルマカ動詞)と言います。アチェータニカはア(打ち消し/接頭辞)+チェータニカ(意思)、アカルマカはア(打ち消しnegative)+カルマカ(行為/働き)のことですが、これはサンスクリットをなぞった文法の理解法です。
サカルマカはサ(with)+カルマカで、行為が意志を持って行われる事を表します。つまり、サカルマカ・クリヤーは他動詞のことで、この動詞は能動態の文を作ります。
シンハラ語ではカルマカ(行為/deed,operative)はクリヤー(自ら起こす働き、行為/action)と同じです。対象をコントロールする力を持つのがカルマカ。文法上ではクリヤーは「動詞」の意味を持っていますからカルマカ・クリヤーで「対象をコントロールする動詞」という意味を持ちますが、用語としてはカルマカにサ(with)の接頭語を置いてサカルマカとします。
サカルマカの逆がアカルマカ。ア(非)カルマカなのです。対象をコントロールする意思がここにはありません。
このシンハラ文法に現れるカルマカと言う用語がインド哲学のカルマと接点を持つと気付かれたでしょうか。アカルマカもアカルマというインド哲学の用語と縁があります。
スリランカの日常では、カルマという出来事は自己を螺旋状に落とすもの、自滅していく自分と言う不吉な気分を運んでくる言葉。その負の因果から解脱するためにアカルマへの道を上るのです。これをアナロジーして文法用語としてのシンハラ語のカルマカは自己(主格主語)からの脱却を成し遂げてアカルマカ(与格主語)へと解脱すると考えられるかも。与格主語文は解脱の主語を持つ、かも。
「マタ・バルコニー・ペーナワ」を振り返ってみましょう。
「私にバルコニーが見える」と「私に」を使ってみます。
これは英語のI see a balcony.とはまったく別の言い回しです。「私に」と言うことで私は「見る」行為から解き放たれています。シンハラ語は「解き放たれる」言語文化を持っているがために心が重い負担から救われると同時に、自分の責任を回避する風潮を生みもする。ちょっとここが厄介なところでもあります。
【参考】「葵上」(三島由紀夫)のシンハラ語訳(アーリヤ・ラジャカルナ)で「君の別荘がだんだんはっきり見えてくる。二階の窓の 格子と、バルコニイの木の欄干が見えてくる」はどう訳されているか。最初の「見えてくる」には「私に」が加えられ、次の「見えてくる」では「私に」さえ省かれます。 シンハラ語QA-18-2 |