No-92 2015-Apl-10
● シンハラ語には無意志動詞という動詞があります。何か特別な動詞のように捉えられています。英語文化圏の人々にとってはシンハラ語の無意志動詞が、なにか特別で、時に不可解な現象を表現するかのように考えられていて、奇異な動詞として紹介されます。
例えば、「私は見る」と表現する場合。
そこにバルコニーが見えたとする。英語ではこう表現します。
英語 |
I see a balcony. |
日本語訳 |
私はバルコニーが見える |
これをシンハラ語では、
මට බැල්කනිය පේනවා |
maTa balkaniya peenavaa
マタ バルカニヤ ペーナワ
私-に/与格 バルコニー 見える/無意志動詞 |
と言います。「マタ」は「私」の与格で、「マ(私)+タ(~に)」という仕組みになっています。英語ではmeにあたります。だから、このシンハラ文をそのまま現代英語にすれば、
Me see a balcony.
となって、現代英語では文になりません。今の英語では文にならないけど、シンハラ語では英語で言えばmeにあたる「マタ」が主語に来なければ、逆に文になりません。
だから、このシンハラ語の言い回しを与格主語文と名付けて言語の分野では特別な用法だとするのです。でも、日本語から見れば、この現象はそれほど特別なものではありません。なぜなら、この文の場合、日本語でも「マ-タ」にあたる「私-に」を主語に据えることができるからです。
ම-ට බැල්කනිය පේනවා |
マ-タ バルカニヤ ペーナワ
私-に バルコニーが 見える。
|
「マタ-ペーナワ」は「私に-見える」という言い回しそのものです。「私に見える」のほうが「私は見える」より正当な日本語の言い回しです。
でも、格文法に馴染みのない国語教育を受けた私たちは「私に」を与格主語だなどと意識することはありません。「私は/が」でなければ文は成立しない、などという英語流の主格主語感覚に振り回されてはきませんでした。
ところで、シンハラ語では動詞の「ペーナワ(見える)」を無意志動詞(ニルットサーハカ・クリヤー)と呼んでいます。
「私」の意志とは別のところで事態/行為が起こっている。「見える」という動詞が表すことは「私」の意志/行為でおこるのではない。そう表現したいとき、主語は「私が/は」(主格)ではなく「私に」(与格)いう形を取るのです。
日本語では「私に」という言い方をしても、それが無意思文を作っているという気分は起こりません。無意志動詞というくくりが日本語文法にはないからです。でも、シンハラ語ではここが大切。シンハラ語のエッセンスなのです。ここがシンハラ語のメンタリティであり、もしかすると人の行為を捉える哲学なのかもしれません。
シンハラ語の与格主語を取る無意志動詞をピックアップしてみましょう。それらは日本語の「私に」を主語に置く動詞と次のように重なります。
見える
(私に見える) |
පේනවා |
ペーナワ peenavaa |
聞こえる
(私に聞こえる) |
ඇසෙනවා |
アセナワ aesenavaa |
分かる・考えられる
(私には分かる) |
වැටහෙනවා |
ワタヘナワ vaetahenavaa |
知られる/意味が理解される
(私には分かる) |
තේරෙනවා |
テーレナワ theerenavaa |
合点がいく
(私には合点がいく) |
තේරුම් යනවා |
テールム・ヤナワ theerum yanavaa |
明らかになる/気付く
(私に明らかになる) |
දැනෙනවා |
ダェネナワ daenenavaa |
悟る/全知が得られる
(私において全知が得られる) |
අවබෝධ වෙනවා |
アワボーダ・ウェナワ avabooDHa venavaa |
日本語のこれらの動詞は「~に」という助詞を従える名詞---与格名詞---を主語として持つことになります。
「私に見える」のような言い回しはサンスクリットでアートマネー・パダ(中動態middle voice)と呼ばれます。また、「見える=ペーナワ」のような動詞をシンハラ語文法ではアチェータニカ・バーワヤacheethanika bhaavayaをあらわすアカルマカ・クリヤーワ(アカルマカ動詞)と言います。アチェータニカはア(打ち消し/接頭辞)+チェータニカ(意思)、アカルマカはア(打ち消しnegative)+カルマカ(行動/働き)のことです。意志や行動を打ち消す接頭辞の「ア」を被せている用語なので「非・意志」や「非・行動」と訳してしまいたくなる方もおられるでしょうが、「非意志動詞」「非行動動詞」と呼んでしまっては「意思」「行動」の否定と言うアンチテーゼにとどまってしまいます。「意思」「行動」を打ち消しているのですから、これらは「無意志動詞」「無行動動詞」と言うべきでしょう。これがアートマネー・パダの気持ちです。
ちなみにサカルマカと言えばサ(with)+カルマカ(行為/deed,operative)で、行為が意志を持って行われる事を表します。サカルマカ・クリヤーは能動態の文を作り、その動詞はわたしたちの用語で言えば他動詞です。
シンハラ語ではカルマカはクリヤー(自ら起こす働き、行為/action)と同じです。対象をコントロールする力を持つのがカルマカ。クリヤーは「動詞」のことですからカルマカ・クリヤーで「対象をコントロールする動詞」という意味、他動詞のことです。文法用語としては、先に触れたようにカルマカにサ(with)の接頭語を置いてサカルマカとします。
サカルマカの逆がアカルマカ。アは「無」を表しますから、カルマカが不在なのです。対象をコントロールする意思がここにはありません。
ここまで、お話しするとカルマカがインド哲学のカルマと接していることに気付かれたでしょう。アカルマカもアカルマというインド哲学。
インド哲学のカルマは運命が人を縛り付けます。良いカルマは運を開きますが、悪いカルマは螺旋状に自滅していく不吉な気分があります。それが因果。では、因果からの解脱はどこに?
そこからアカルマへの道を探るのですが、哲学としてアカルマが昇華しなければ、アカルマは悪いカルマよりさらに堕落します。
文法用語としてのシンハラ語のアカルマカ(与格主語)もどこかインド哲学です。
アカルマカの動詞に主格の主語はない。自己(主格主語)は既に「無」となっていて、欲(能動態)を捨てて、行為を叙述するという無欲の位置(中動態)に移っています。
こうして与格主語をアナロジーすれば無意志動詞文の与格主語は解脱の主語、ということです。
「マタ・バルコニー・ペーナワ」を振り返ってみます。
「私にバルコニーが見える」。これは英語の I see a balcony ではない。「バルコニーが見える」と言うとき、「私」は徹底して「見る」という行為から解き放たれているのです。
シンハラ語を学んで無意志動詞の世界に入ってゆくとインド哲学の世界に迷い出てしまいます。でもそれは、どこか懐かしい。それは今の私たちが忘れてしまったもの。日本語体系の深みに横たわる精神のように思えます。
参考 「葵上」(三島由紀夫)のシンハラ語訳(アーリヤ・ラジャカルナ)で「君の別荘がだんだんはっきり見えてくる。二階の窓の 格子と,バルコニイの木の欄干が見えてくる」はどう訳されているか。シンハラ語QA-18-2 |