日本語の「誰だ?」はシンハラ語で「カウダ?」。韻を踏んでいるみたいで覚えやすい。「シンハラ語の話し方」でお話しているように、シンハラ語を日本語として覚える習慣を作るとシンハラ語の学習が楽に、そして、面白くなります。 では、「誰だ?」を「誰の本だ?」、「誰が書いた本だ?」のように言い回しを広げると、日本語の語順のままシンハラ単語を並べて「カーゲ・ポタダ?」、「カウ リヤープ ポタダ?」と言えるのでしょうか。 |
No-50 2005-09-30 / 2007-01-22 / 2017-05-31 / 2018-03-07
● 「誰だ?」「何処だ?」などの疑問詞を使うとき、シンハラ語ではちょっと特別な事情が生じます。「誰」などのような疑問詞には必ず疑問の助詞「ダ?」が直結するのです。 「誰の?」と訊くときにもそれは同じです。
では、「誰の本?」と訊くときにはどうなるでしょう。
「ダ?」は「誰」から離れて「本」の後に来ます。「誰の本」はひとつの切り離せないまとまり、文節なのですから「誰の本」の後に疑問の助詞「ダ?」が置かるのです。シンハラ語は日本語のように文節単位で文が作られる言語です。単語のつなぎ方も語順も日本語と同じなんだと覚えてください。 では、「誰が書いた本だ?」と訊くには、どうしましょう。 上と同じように、
と言葉を並べたいところですが、こちらはちょっとシンハラ語的とはいいがたい。というのも、「誰」不定代名詞に当たるシンハラ語のカウකව් はそのままでは使えないからです。カーゲකාගෙ (誰の)はカー不定代名詞කා とゲー所属・所有を表すニパータ・助詞ගේがくっついて、初めて一つのまとまり、「誰の」という疑問詞を作っています。このようにシンハラ語の「誰」は何らかの接辞を語尾に付けないと単語になってくれません。 「カウ」は、このほかにも、「カウルකව්රු 」「カウレーකව්රේ」「カウ-ドーකව්දෝ」など、ルරු 、レ―රේ 、ド―දෝ といった接辞を伴なって初めて不定代名詞の「誰かsomeone」を表すようにもなります。 それなら、
とすれば、疑問文になりそうですが、これだと文法的でないとはねられてしまいます。ද ダ?の位置が問題なのです。ポタのすぐ後にダ?があるので疑問の対象が本になってしまい、「誰が?」にはなってくれないのです。言い換えれば疑問詞疑問文になってくれません。
[その本 ඒ පොත エー ポタ] [書いたのලිව්වේ リウウェ] [誰だ?කව් ද ? カウダ?] という三つの文節がポイントです。文節の扱いは日本語と同じですから、日本語で「おかしいな?」と感じない程度に文節をあれこれ組み合わせれば自然とシンハラ文が作れます。ただし、「誰だ?」にあたるකව් ද ? カウダ?は「誰?」のようには疑問の助詞を省略できませんから「カウ?」とはできません。 でも、カウルが疑問代名詞に使える場合がある?でも、先の「カウル リヤープ ポタダ?කව්රු ලියාපු පොත ද ?のような「カウ」と「だ?」が泣き別れする言い回しも使える場合があります。それはこの文が補語として文の中に組み込まれている場合です。
生成文法ではこの「カウル」と「ダ?」の生き別れを「島island」と「パイド・パイピング」のルールを適用して解釈します。
これは文節で捕らえると日本語に即してシンハラ語の疑問詞を理解すると簡単なのですが、英語で、となるとそうは行きません。英語にはここでQと記した「疑問の助詞」というものがありませんから、疑問詞と疑問マーカーQの生き別れと言ってもピンとは来ないのです。 紹介した例文はLF pied pipingがWh移動によってシンハラ語にも生じるということを証明するために書かれました。言語一般にユニバーサルな文法がアプリオリに存在することをこのシンハラ文に照射したのです。 後にこの例文はアメリカの研究者によって再検討され、疑問文における日本語とシンハラ語の対応・比較に用いられるようになります。 LF Pied Peping; Evidence from Sinhalaは日本語とシンハラ語の関係など一切口にしていません。しかし、この論文はかなり日本語的なシナリオを(アプリオリに)潜在させているのです。 それは例えば、論文には構文上シンハラ文として成り立ち難い(日常使えない)シンハラ文が提示されていますが、これを見るとき、そのシンハラ文として成り立たないさまが余りに日本語的なさまに重なる、という点が現れています。
難しそうにLF pied pipingを説明したけど… 疑問詞が必ず文の頭に置かれるタイプの言語である英語からすれば、その制約を持たないシンハラ語にもWh移動が起こるということは大変な発見になります。シンハラ語は英語とは何のゆかりもない言語で、むしろ英語の対極にあるようなそぶりを見せる言語です。そこでもpied pipingが働いているなんて言語のユニバーサルな様子を証明する大切な目印なのです。
この疑問詞疑問文では「何処へ行くバス」という一塊(文節-chunk-)のあとに疑問の助詞が置かれます。
「コハータ?」「コへー?」の疑問詞に疑問の助詞「ダ?」が直結するというルール、そこに執着していると上記2例のシンハラ文は間違いかと気にかかるのですが、何のことはない、あら、日本語の文節仕様と同じだから「ダ?」は疑問詞から離れようが、離れまいが気にしないんだ、となるのです。シンハラ文の中の語の並びは英語のような強いシンタックス・ルールで縛られません。文節がチャンクchunkしているので、そこさえ切り離さなければ、どんな風に言葉を並べてもいいのです。
日本語の「か?」とシンハラ語の「だද?」
でも、シンハラ文を英文と比較すれば岸本論文のような結論を引き出すことになります。そして、それは文法論として重要なことです。岸田論文はシンハラ文のパイド・パイピングを解き明かしてくれました。でも、そこでは触れなかった別の論点がありました。 |