KhasyaReport Khasyabooks mini 2023-05
ヒュースケンがゴールで記したこと
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ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・ヒュースケンは日本へ向かう途中、セイロンのゴールでこう日誌に記した---
この美しい自然と澄み渡る心を持つインド諸島の人たちの故郷を、西洋の文明人が大砲と兵隊の力で壊し産業開化の悪徳を持ち込むのだ*注 。
*注 上記は意訳。以下、原文英訳
Oh,you civilized nations,fair-skinned people,how many lessons of true barbarism you give those aborigines of the two Indies, whom you call savages! You use the term as a sort of excuse for the outrageous thefts you have committed and will commit against them. / p.42 06-Mar-1856 Japan Journal 1855-1861
ハリスの通訳兼秘書として江戸城にタイクンを訪ね徳川家定に謁見した日の夜、ヒュースケンはゴールでの思いをまた書き付ける---この国の笑顔の絶えない子供たちの将来を西洋人は無残にも文明開化の欲望と引き換えに突き崩してゆく。ああ、この国の幸福を打ち砕き取り返しのつかない悪徳をお前らは持ち込むのだ*注 。
*注 上記は意訳。以下、原文英訳
--- is the progress really progress,this civilization really really civilization for you? I,who have admired the artlessness of your inhabitants as well asa their simple customs, who has seen the abaundance of your fertile fields, who has heard everywhere the happy laugter of your children,--I fear,Oh, my God, that his scene of happiness is coming to an end and that the Occidental people will bring their fertal vices./ p151 07-Dec-1857 Japan Journal 1855-1861
日米通商条約が結ばれて後、ヒュースケンは2年半日誌を離れる。その間に何が彼に起こったか、資料では確認できない。1861年1月1日に彼は日誌を再開する。そして、その一週間後、薩摩藩のテロリストに惨殺される。
ヒュースケンは西洋の悪霊を日本にもたらした。われら尊王の徒は彼を切り裂き攘夷するのだ。ヒュースケンを闇に紛れて襲ったイムタらはそう豪語する。え?、待って!ヒュースケンは日本の文化と暮らしと日本の人々をこよなく愛した人だったんだよ、…
ヒュースケンの葬儀は西欧五か国が取り仕切った。プロシアは50名の海兵を江戸湾の艦隊から呼び寄せ、音楽隊を整列させ、英仏蘭は護衛兵を集め葬列に参加した領事をテロから守った。新興国アメリカの代表ハリスは、だが西欧諸国とは一線を画す。ヒュースケンの埋葬には参加したが幕府に近い位置を取り軍事力を見せつける示威行進には加わらなかった。
1861年1月8日をもって彼の日誌は終わる。代わりに西欧各国の幕府への不満が膨れ上がる。徳川幕府転覆のイムタらの策略は成功したか。
ペリー以降の日本開国の情勢を記した「ゑひすのうわさ」*注・次ページ という冊子がある。その巻五にこうある。
彼は本来オランダ人でアメリカ公館のオランダ語通訳として幕府と折衝した。彼自身は自分の名を「久助」とした。
*注 「ゑひすのうわさ」
安政元年、ぺリーの江戸湾襲来から書き起こし日米修好条約を詳細に解く。2巻以降は安政地震の惨状、町民の復興献金内容を詳述し、異人が江戸を闊歩する情景をイラストで描き、江戸の「えびす」(異人)の様態を安政五年の第5巻まで連ねた読み物。→
フランシス・ホールがこう記している---江戸っ子は馬上のヒュースケンを街で見かけて「久助、久助」と声をかける。異人は「久助」というとなり、異人を見れば「久助!」と呼びかけた。
久助は日本人を妻とし--ホールは「愛人」と呼んでいる--、子をもうけた。妻は、危ないから一人で街を歩かないで、と久助に諭していたが最悪の事件は起きてしまった。
*注 「ゑひすのうわさ」 発行年、作者不詳だが、コピーが出回っている。国会図書館所蔵の資料は達筆で読みにくいが、国文研国書データーベースの資料は読みやすい。歴史資料としてはウソか、誠か。贋作か。この和本から読み取れるのは徳川幕府の動揺と江戸庶民の暮らしに溢れる底力だ。
西洋の悪徳が日本に襲い掛かることを憂いたヒュースケン。こともあろうに彼は西洋を嫌悪し美しい日本の尊王を標榜するイムタらの餌食になった。なんとも皮肉なことがこの後に起こる。
暴徒イムタらは江戸幕府に目こぼしを受け、彼らは一人として検挙されずにいたが、英仏蘭プロシア各国はこれを激しく抗議し幕府を拒絶する。テロの標的は、次は我身だと慄く各国外交使は江戸湾の艦隊を集め江戸砲撃の準備を始める。幕府日本は急激に推移する状況の悪化に溺れて各国との条約締結を早めることになった。そうか、イムタらは攘夷どころか、結果として幕府の進める開国を助けたのか。皮肉なものだ。
ヒュースケンは、いや”久助”は開国の使者だった。しかし、西洋の悪徳を日本に招き入れるなど気にそぐわない。堰を破った開国の津波は日本を飲み込む。通商条約が結ばれてから、西洋各国は名だたる外交の立役者を日本へ送り込み、権威を光らせ手段を択ばず自国への富の集積を図る。貧しいアメリカ移民一世ヒュースケンのゴールでの緒言など帝国の巨人たちには聞こえまい。再生儒教で富国強兵をすすめ、明治に再生した武士たちの国はこの時からアポカリプスの約束の落日へまっしぐらに突き進むのだ。
参考
「ゑひすのうわさ/内海雑話」国文研蔵 ヒュースケンの記述は巻5掲載。
Japan journal 1855-1861 Henry Heusken.Translated and edited by Jeannette C.van der Corput and Robert A. Wilson Rutgers University Press 1964
Japan through American Eyes The journal of Francis Hall 1859-1866 edited,annetated,and abridged by F.G.Notehelfer 2001
2023-Oct-29
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