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柏倉陣屋絵図を読む

柏倉陣屋絵図部分

 長い峠を越え河を渡ったところで、「與七郎、向こうに三角の山が見えるだろう。その山のふもとが御陣屋だ」と父が言った。指さす先を見ると、広い田んぼの先にまるで作ったように美しい三角形の山があり、その手前の小高いところにいくつかの建物の屋根が見えた。
 これは「名奉行・田内與七郎物語」(結城敏雄著)の冒頭の一節である。與七郎とは田内與七郎成伸、後に柏倉陣屋代官となり人々の信望を集めた佐倉藩士である。このとき数えで十四歳、寛永十二年(1800)のことである。
 美しい三角形の山は柏倉にそびえる富神山である。

「見渡す限りの広い田畑ときれいな山。ここはきっといいところに違いない」

 高くはないが凛としてそびえる山を見て與七郎のこころに晴れ晴れとした思いが浮かんだ。

 文化十四年(一八一七)、父成啓の後をついで與七郎成伸は柏倉陣屋代官となった。富神山のふもとに建つ柏倉陣屋は山形城を取り巻く四十六ヵ村四万石を従える下総佐倉藩の支配地である。江戸藩制期、柏倉は佐倉藩の陣屋を構えたことで日本の農村集落の理想を体現する。
 柏倉陣屋は佐倉藩を支えた。柏倉陣屋の集める米が佐倉藩の財政を豊かにした。佐倉は栄え堀田家は江戸城での地位を上げ藩主を江戸老中首座にまで登らせた。

山形に足を向けて寝られない

 「佐倉は山形に足を向けて寝られない」と佐倉の史家が言った。春の陽のおぼろな朝だった。そのとき、私は佐倉城の門前に佇んで史跡案内板を読んでいた。初老の男性が近づいて来て挨拶を交わし、私が山形の柏倉から訪ねてきたと知ると、ため息のように、
「佐倉は山形に足を向けて寝られない」
と漏らし、そのわけをこう教えてくれた。
 柏倉陣屋には山形と佐倉の特別なかかわりを表す歴史がある。
 下総佐倉藩の藩主だった松平乗祐が延享三年(一七四六)に山形藩へ移封された。それと入れ違いに堀田正亮が山形藩から佐倉藩に入封した。この時山形藩六万石、佐倉藩十万石である。堀田佐倉藩はこの時から幕末までの約百年間、柏倉を筆頭とする山形四十六ヵ村を佐倉藩の分領として柏倉陣屋から支配する。
 佐倉藩の石高は十万石、国替えの一年後に正亮が老中首座となって一万石が加えられ十一万石となったが、山形分領は実にその内の四万石を占めている。それがゆえに「足を向けて寝られない」のだ。佐倉藩の財政を豊かにした山形の米。これはまた、巡りかえって柏倉陣屋が差配する山形四十六ヵ村を豊かにした。


柏倉陣屋

 柏倉陣屋は三町三反二十歩(一万坪)の敷地を持つ。ここに佐倉藩士四十名、家族郎党が加わって百名を超える人々がここに暮らしたという。與七郎成伸は山形四十六ヵ村の隆盛を計り、今も語り草となる数々の施策を柏倉陣屋から打ち出し実行した。
 文政七年(一八二四)八月の暴風雨による大水害を乗り切り、七年にわたって続いた天保の飢饉(一八三三‐一八三九)には領民の餓死者を一人も出さず困窮する農民を救った。また、刈り取った稲のはせ掛けを指導して米の質の向上を図るという細かな技術指導まで行っている。
 いや、良米を生む稲作を奨励したばかりではない。「田内與七郎物語」は山形平清水焼が隆盛を得たのは與七郎の特命を受けた沼木村名主の折原市十郎の功によるにという秘話を明かしているが、後に田内大明神の大きな石碑が平清水に建てられたのはその功績をほめたたえたものだと紹介している。その石碑は今、明治初期に開窯した青龍窯にある。
 佐倉の城が與七郎成伸の柏倉陣屋での経営手腕を高く評価し国下へ呼び戻そうとしたことがある。それを知った柏倉を筆頭とする山形四六ヵ村は與七郎を山形に慰留するよう嘆願書を寄せた。村々からの厚い信頼は與七郎を柏倉陣屋に留まらせることになった。彼が佐倉へ戻り藩の勘定頭となるのは弘化三年(一八四六)、六十歳の還暦を迎えた時であった。

 柏倉陣屋は領民の学問への志にも力を注いだ。
 郷土史研究に打ち込んだ結城義吉氏は「郷土の歩み」の中で陣屋の中心に建つ堀田永久稲荷神社に北痒の師・平田湖堂の碑が立っていることに触れている。
 この稲荷神社は陣屋の守り神として伏見稲荷から勧請されて、人々に「いなりさま」として親しまれている。
 平田湖堂は藩学である佐倉成徳書院の柏倉分校・北痒(成徳北庠)の師であった。北痒に学んだのは藩士ばかりでない。僧侶も農民も勉学にいそしむ者は誰をも受け入れた。北痒は教育者や村役人を輩出する源となった。

「小江戸」と呼ばれた佐倉

 幕末の佐倉藩は実に改新的だった。潮流の先端を行く街角には江戸木遣りの粋な声が流れていた。蘭方医の佐藤泰然を江戸から招いて順天堂を開きオランダ西洋医学を普及した。佐倉は「小江戸」と呼ばれ、「西の長崎、東の佐倉」と称されるようになった。
 緒方洪庵が大阪船場の適塾で広めていた種痘をいち早く吸収したのも佐倉藩である。佐倉順天堂は安政四年(一八五七)、堀田正倫藩主の時、柏倉陣屋に種痘方役所を設置した。正倫自身がその子に種痘を接種して牛痘の安全を訴え、その療法を広めて、当時、日本中に蔓延していた天然痘の予防と治療にあたった。柏倉門伝は医師を多く輩出していた地区として名が高いがその背景には柏倉陣屋があったのである。

 薩摩長州が徳川を倒して明治という新時代を誕生させると社会の仕組みが大きく転じた。明治二年(一八六九)藩籍奉還、同四年(一八七一)廃藩置県が施行されて柏倉陣屋は廃止され、人も建物も消え去った。延亨四年(一七四七)、棚倉藩が初めて陣屋を柏倉に置き、佐倉藩がそれを継いで宝暦十三年(一七六三)から明治四年(一八七一)まで百二十四年間に渡る長い間、柏倉陣屋はこの地にあり、そして、忽然と消えた。この地に残るのは陣屋を守って来た「いなりさま」だけとなった。

 だが今、私はここで柏倉陣屋の姿を目前にしている。絵図を読む。どこに陣屋の門があるか。役所はどこか。北痒はどこか…
 そして、こう考える。どれだけの人々が山形と佐倉のために、あるいは、この国の未来のために柏倉陣屋百年の歴史の中で力を尽くしたか。
 陣屋の絵図は歴史を語る。激動する新しい時代に照らされるからこそ。


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【柏倉陣屋絵図】  原本・百目鬼門間家所蔵 和田照夫氏複写 堀田稲荷神社には山形阿部和工務店阿部利勇氏奉納の柏倉陣屋絵図がある。

【参考】 名奉行・田内與七郎物語 結城敏雄著 平成24年11月  柏倉陣屋 結城敏雄著(西山形の散歩道所蔵)平成19年  西山形郷土誌(結城善吉編集) 昭和62年11月  郷土の歩み 結城善吉著