落語・演芸・笑いのノート


別に大した趣向はございません。落語・演芸・笑いに関して、
見たこと、聞いたこと、思い出したことなどを書いておこうという、
まあ、雑記録です。順不同、前後脈絡なしですので、
各断片とも、人や時代の雰囲気を想像しながら、どうぞ。

★1〜10  ★11〜20 ★21〜30 ★31〜40 ★41〜50
★51〜60  ★61〜70  ★71〜80 ★81〜90


99 「いつのまにか覚え、何となく知ってる」ことだったのだが

(フリーメモ欄に書いたものを、こちらにも収録しておきます)
以前(2010/12)、「復活噺4席+出演者および落語作家による座談会」
という落語会の座談会部分で、若い演者の実感談として、
古いことが自分たちにはわかりにくいという話が出ていた。
直接的には「雷が鳴ったら蚊帳のなかに入る」習慣とか、
忠臣蔵の浄瑠璃の「忠臣二度目清書」(ちゅうしんごじつのきよがき)
についてなどだったが、聞きながら考えたことがある。
たとえば落語には『蔵丁稚』とか『猫の忠信』をはじめとする、
歌舞伎のパロディや浄瑠璃を下敷きにしたネタがいくつもあり、
これは江戸時代なり明治時代なり、作られた当時は客がその原典、
元ネタを知っているという前提で演じられていた。
実際、市井の人々も歌舞伎や文楽を見たり聞いたりして、
それくらいは十分知っていたのだそうだ。ところが当方、
それらに関しては素人なのに、パロディやもじりが何となくにせよわかる。
あるいは、わかる気がして想像で楽しめている。
これはどうしてかと考えたわけで、その知識の吸収元のひとつは
往年の漫才だったのだろうと思い当たった。

たとえば松鶴家光晴/浮世亭夢若に「お笑い曽我物語」というネタがあり、
曾我兄弟の仇討ちの概略を紹介して、
その見せ場をお笑い式に演じてくれていた。
ミス・ワカサ/島ひろしには、忠臣蔵の「松の廊下」の場面や、
勧進帳の「安宅の関」を扱ったネタがあり、
同じく紹介と熱演で笑わせてくれていた。
中田ダイマル/ラケットは「ぼくは幽霊」というネタのなかで
四谷怪談や、お岩さんの説明をしてくれたし、
かしまし娘は「修善寺物語」、三人奴は「傾城阿波鳴門」を扱った出し物で、
それらが大体どんなお話であるのかを教えてくれた。

いまとなっては古い時代の漫才であるが、当然そういったネタも、
当時は「客の好みや知識からは遊離していない」という判断で作られ、
演じられていたのだろう。そして同時に、
歌舞伎や浄瑠璃をまったく知らない客たちも、
その気楽に笑いながら聞く漫才によって、
代表作に関する初歩知識を吸収していた、できていたことになる。
中学から高校にかけての当方が、
まさにその一例だったのだと思ったわけである。
いまの若い人たちは、何からそういう知識を得ているのだろう。
現在も漫才にその種のネタがあるのか。
漫画やアニメ、ゲームにはどうなのか。
それとも、そんなことは知る必要もない知識になっているのか。
冒頭の若手の実感談から推測すれば、多分そうなんでしょうね。

98 ラジオで手品をした人

(ラジオ雑談室用に書いたのだが、こちらにも収録しておきます)
『藝人という生き方』(矢野誠一・文春文庫)のなかには、
ユニークでコミカルな味のあった奇術師、故・伊藤一葉の項目もあって、
[大マジメに「ラジオで奇術をやりたい」って考えてるひと]と書いてある。
ところが別ページの、こちらは話術も含めて名人だった奇術師、
故・アダチ龍光の項目には、本当にそれをやった話が紹介されている。
それによると、TBSラジオが依頼し、15分という約束で収録を始めたが、
30分たってもディレクターからOKのサインが出ない。
[おかしいと思って「まだかい!」ってきいたら、「すみません。
面白かったんでサイン出し忘れてました」ってやがる]と、
龍光先生の言葉が記録されている。としたら伊藤一葉、
大先輩のその経験を知らなかったのだろうか。
それとも、自分も同じことにチャレンジしたいと思っていたのか。

しかしそれはともかく、この依頼をしたTBSラジオは偉い。
そしてラジオの魅力を、「映像が映らないからこそ、ひとつの音声情報がリ
スナーの数だけのオリジナル映像を生み出せる」点にあると考えている当
方、そのテープが残っていたら、ぜひとも聞いてみたいと思う。
もちろんスタジオでは、タネや小道具を使って実際に奇術をやり、
ディレクターがサインを出し忘れるほどおもしろかったのは、
それを副調のガラス越しに「見て」もいたからだろうと思う。
しかし龍光先生も、ラジオ向けに説明を多くしていたに違いなく、
その話芸によって喚起されるイメージを体験してみたいのだ。
そしてまた、この種のチャレンジを、洒落の精神でもって、
他のラジオ局もどしどしやっていただきたいと願う。
ただし、決して「悪ふざけにはせずに」という条件つきであるが。

97  とうとう来たか……

08年9月5日(金)の夜、NHKテレビで
「落語家、桂米朝・一門60年の軌跡」を見た。
米朝師匠はお元気で機嫌良さそうに見えたし、小米朝さんが
「代書」の稽古をつけてもらう場面で、背後に小米、宗助、すずめの
各氏などが並んで座って聞いていたのだが、
なかでも宗助氏のひきしまった顔が印象的だった。
しかし一方、枝雀師匠と吉朝さん、若くして亡くなった方々の
映像が出てきたときには、何とも言えない気持ちになった。
先代の歌之助さんも加えて、当方、三人ともと
「ついこないだまで」しゃべっていたような気がするからだ。

そしてそれ以上に心にずしっときたのは、米朝師匠が御高齢ゆえに、
高座で落語(何のネタなのかは説明がなかったが)の同じところを
何度も繰り返し、先に進まなくなったことがあったという話だった。
ざこば師匠の談では、介添えして舞台を下りるとき、
「とうとう来たかと思って、私、泣いてました」とのこと。
東京の小さん師匠が晩年同じ状態になられて、
「噺が終わらないんですよね」と聞いたことがあるだけに、
ぼく自身も「とうとう来たか」と、本当に何とも言えない気持ちになったのだ。
それにしても、そういうエピソードをテレビの番組で公表するについては、
一門や制作関係者の間で侃々諤々の議論があったと思うのだが、
それが立派な決断であったのか否か、昨日見たばかりなので、
まだぼくには判断できない。時間をおいて、また考えることにいたします。

96 悩ましき入眠講談

夜寝るとき、よく落語のテープやCDをかけている。
大抵は途中で眠ってしまうが、上方落語のネタは大方知っているから、
「あの噺、あれからどうなったんだろう」と気になることはない。
逆に翌朝どこまで聞いていたかを思い出し、
「番頭が出てきたところまでは覚えてるから、
まあスタートから10分くらいで眠れたんだな。
ということは、昨夜の睡眠時間、ざっと5時間40分か」などと、
見当がつけられて便利なのだ。ところが最近、講談のテープ、
それも内容をまだ詳しくは知らないやつを聞きながら寝ているので、
自分が眠ってしまったあと話がどうなっていったのか、
翌朝気になって仕方がない。

小金井芦集州の「曲垣と度々平」、これは馬術の名人曲垣平九郎の家へ
度々平という男が奉公に来る話で、どうやら度々平、
実は武士で馬術の秘伝を盗みに来たものらしい。
しかし大方は、二人がタクアンをかじりながら酒を飲むあたりで寝てしまう
ため、そのあとどうなるのか、まだ知らないのである。
宝井馬琴の「浮田秀家、八丈島物語」、
これも島流しになった秀家がどうなるのかは未知のまま。
一龍斉貞丈の「柳生二蓋笠」、神田伯山の「河内山行状記」も同様であって
、昼間ちゃんと聞けばそれですむのだけれど、
なぜかそれではルール違反(?)だと思ってしまっている。

ただし神田小山陽(収録時)の「徳川天一坊」だけは、
その内容のおもしろさ、語りの調子やめりはりのつけかたが絶品で、
寝ながら最後まで聞いてしまったためわかっている。
ところがこれにはこれで問題があって、長篇講談であるから、
収録されているのはそのごく一部なのだ。ぜひとも続きを聞きたいのだが、
発売されているのかいないのか、商品が見あたらない。
また、以上はすべて東京の講談師であるが、
同様に聞きたい上方講談のテープやCDも見あたらない。
なかなか思うようにはいかんのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

95 もしも落語家になってたら

四天王寺や高津神社へ行ったとき、境内をぶらつきながら、
「自分がもし落語家になってたら、こういう場所を順に訪れて、
写真を撮ったり印象をノートにメモしたり、
自分用の勉強ノートを作ってただろうな」と考えることがある。
想定するのは、内弟子の期間が明けて自由の身になり、
けれども仕事はほとんどなく、安アパートに住みながら
アルバイトで食いつなぐという、駆け出し時代。すなわち、
暇はあるけどカネはないという毎日、夕方からは落語会の手伝いに
行くとして、昼間の空き時間をいかに安くつぶすかという思考なのだ。

そしてそのノートは、「天王寺参り」とか「高津の富」とか、
ネタごとに一冊ずつ作り、写真もそこに貼っておく。
またそれらに関して師匠や兄弟子、他の一門の先輩から教えてもらった
話なども順次書き加えていく。それを三年、五年とつづければ、
各ネタに関する便利帳、虎の巻ができていくだろうと思うのだ。
ただしこれは、いまこの歳になって考えることだから、
本当に落語家になっていたとして、高卒なり大卒なりの若い自分が、
そんな殊勝なことを考えたかどうかはわからない。
まあ十中八九、ちらっと頭にうかんでも面倒くさがり、
きたない三畳間でごろごろしていたことだろう。
以上、大阪市立「住まいのミュージアム」を見に行き、
昔の商家や長屋など、落語そのままの展示で思い出したので一筆。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

94 笑いの生産と巨大なストレス

「赤塚不二夫のことを書いたのだ」(武居俊樹、文春文庫)を読むと、
抱腹絶倒のギャグ漫画を量産しつづけてきた赤塚氏、
酒に女、高額品の衝動買い、冗談いたずら悪ふざけ等々、
ストレス発散行為も激烈であったことが書かれている。
常識や良識の線を越え、アブノーマルと言おうかクレイジーと言おうか、
明らかに狂気の世界に入っている瞬間もある。
そしてアルコール依存症になり、脳内出血を起こし、
もう何年も意識不明のまま入院中だというのだが、これは笑いの世界で
壮烈な戦いをしてきた男の、ひとつの必然コースであると思った。

なぜなら、テレビで人気が出て超多忙となった笑芸タレントも同様だが、
毎日毎日来る日も来る日も、朝も昼も夜も関係なく「笑い」を生産して
提供しつづけるというのは、どう考えても人間にとって不「自然」な営為で
あって、いわゆる「テンション」を無理矢理高めたあとの疲労の激しさ、
ストレスの大きさ深さは、ときに他者に対するサディスティックな攻撃欲求を
生み、あるいは逆転して自己破壊衝動になったりもする。
その入り口くらいはぼくも知っており、統合性失調一歩手前の状態や
本物の自律神経失調症など、
笑いの小説を量産していた時期に経験しているのだ。

これまた激烈な半生と京都という街のおぞましい裏面を描いた衝撃の書
「突破者」(宮崎学、南風社)のなかに、往年の若いとび職連中が、
危険な仕事を終えて飯を食い酒を飲んで繁華街に繰り出したときには、
喧嘩も限度を越えた暴力性を帯びるという話が載っている。
読んだとき、これは昔のこととて安全ロープなど使わず、
高所での作業中「死」の恐怖を無理矢理押さえ込んでいたのであろう、
その根源的な巨大ストレスの、緊張解除による噴出ではないかと思った。
それに比べれば軽くて浅いものだろうけれど、
笑い世界の奥へと突撃していくと、深層心理の反応パターンとしては、
似た状態になっていくのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

93 首提灯を連想して

母親を殺し、その首をバッグに入れて自首した高校生。
これを某SF作家は、「自首と首実検を混同しておるのではないか」と
のたまったが、「自首」をその視点で文字通り解釈すれば、
自分で自分の首を持って出頭しなければならんことになり、
これは落語「首提灯」の世界となる。
そして、本当に自分の首を持って歩こうと思ったなら
それは「狂気」であるが、落語でやれば馬鹿馬鹿しさの「笑い」となる。
上記の高校生、母親の片腕も切り取ってスプレーで白く塗り、
それを植木鉢に刺していたという。

しかし、造形作家が石膏か何かで腕を作り、白塗りにして
植木鉢に刺して展示すれば、それはひとつの「芸術」作品となる。
だからして高校生のやったことは「狂気の芸術」とも言えるのだが、
そこに「笑い」の要素が含まれていたのかどうか。
いなかっただろうなあ。含まれてたら、そんな事件は起こさんわなあ。
すなわち、これを逆から言えば、虚構の狂気を保ちつづけようと思えば、
「正気」精神の大変な強靱さが必要となるわけで、
そのとき「笑い」はその有効な保持支柱にもなる。
現実と虚構。その危険な混同や溶融を防ぐのも、
笑いの大きな効用なのだ。言うてること、わかりますか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

92 蛸男の口上

横山ノック氏死去(07年5月3日)につき、
漫画トリオ当時のパンチ君(後の上岡龍太郎氏)が
ダミ声で述べていた「蛸男」の口上を、思い出すままに。
『さあ、見てください見てください、世界の話題、医学の謎。
埼玉県は蒲郡、生まれましたる蛸男でござい。
親が代々狩人(かりゅうど)で、因果はめぐる小車(おぐるま)の……』

首筋をつかまれたピンカール頭のノック氏、この案内に乗って
眼をむき口をとがらせ、身体をくねくねさせて蛸踊りをやるわけなのだが、
実はこの口上、ぼくはここまでしか覚えていない。
というより、大抵このあたりでノック氏が我に返って
「ええかげんにしなさい!」と終わらすので、
この先を聞いた記憶がないのである。
テレビなどで時間制限がきついときには、「親が代々狩人で」くらいで
「ええかげんにしなさい!」が入るため、「因果はめぐる〜」を聞いたのも
ごく少数回だった。さらにこの先があって御存じの方がおられるなら、
ぜひとも御教示を願いたいのである。

なお「蒲郡は愛知県ではないのか」という疑問が出るかもしれないが、
これはわざと埼玉県にしていたとのこと。ともあれ、「上岡龍太郎かく語りき」
や「上岡・米朝が語る昭和上方漫才」を、読み返すといたしましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

91 楽屋の雰囲気

先日(07年4月15日)、心斎橋そごう劇場で、
三代目桂歌之助さんの襲名披露公演があった。
1月5日、ワッハ上方で行われたそれを皮切りに、
天満天神繁盛亭でやり、東京でやり、今回が締めくくりという会である。
開演は午後二時。そしてぼくは、中入り後の座談会に出番をもらっていた
ので、珍しくスーツなどを着て早めに行き、楽屋で待機していたのだが、
その様子を思い出すままに書いておくならば……。

プログラム冒頭の口上に並ぶのは、御本人歌之助さんを中央に、
司会の米左、そして米二、南光の各氏と米朝師匠。
米朝師匠と歌之助さんの楽屋は別だったので見ていないが、他の面々、
「歌之助、入門は何年やったっけ」「千葉大で落研に入ってたんやな」
などと確認しながら、早々に着替えを始めていた。
黒紋付きに袴をつけるわけで、若い連中がそれを手伝い、
たとう紙を広げたり、袴をつける人の後にまわって
腰板をセット(?)したり、うらやましいような良い雰囲気だった。
開演時刻が近づき、舞台の袖へと移動するべく米朝師匠が顔を出され、
そのときには座っていた者もパッと立ちあがって挨拶をする。
ぼくも無論、バネ仕掛けの人形のごとく立ちあがる。

口上のあと番組が進み、時間に余裕ができると、
楽屋に用意されていた弁当を食べる者もいる。若い弟子っこたち、
食べ終わると皆同様に、「ごちそうさまでした!」と大きな声で挨拶をする。
特定の誰かに対してではなく、「いただいた」ということに対する
御礼であるらしい雰囲気が、これもまた気持良い。
高座の様子をモニターテレビで眺めつつ、雑談も始まる。
小米朝さんが先般、北京大学の落語会で「動物園」をやってきたそうで、
そのときの話が出る。東京の故古今亭志ん朝師匠の話も出る。
朝方、能登半島で地震があったので、
気象予報士の資格を持つ雀松さんに質問が出る。すると雀松さん、
「私は気象予報士なんで、地震についてはわかったようなこと言うたら
いかんことになってるんです。天気は気象やけど、地震は地象ですから」
皆、なるほどなるほどと納得ならびに感心をする。
そうこうするうち中入りになったので、司会の小米朝さん、出演者の雀松、
こごろう、歌之助さんたちとともに、ぼくも舞台の袖へと移動したのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・