落語・演芸・笑いのノート。61〜70。

70 思い出すままに

吾妻ひな子。マジカルたけし。桂枝雀。桂歌之助。桂吉朝。
笑福亭松鶴(六代目)。桂文枝(五代目)。桂文我(先代)。
笑福亭松葉(七代目松鶴追贈)。林家染吾楼(前名、市染)。
桂喜丸。桂音也(タレント名、今井音也)。横山やすし。
タイヘイ原児。桂春蝶。塚本やっこ……
以上、順不同ならびに敬称略にて失礼ながら、舞台やマスコミやイベントで
その芸に触れること以外、すなわちぼくが観客としてではなく個人としても、
「接触」や「遭遇」をさせていただいた物故者の名簿である。

落語家諸氏は、打ち上げの酒席やパーティー会場での芸談拝聴、
談笑、あるいは一緒に遊びに行ったりした仲。それ以外では、
たとえば吾妻ひな子師匠は、当方が初めてラジオ大阪で番組を持たせても
らっていた若い時代、毎週同曜日の同時刻にとなりのスタジオで、
「悩みの相談室」を録音しておられた。そしてそのときには必ず、
羊羹や饅頭など、甘いもののおすそわけがまわってきた。
御本人とは廊下で「おはようございます」と挨拶をかわした程度だったが、
担当ディレクターに、「ひな子師匠、よっぽど甘いものがお好きなんですね」
と言うと、「そうではなく辛党なんやけど、スタッフに毎週、
差し入れを持ってきてくれはるんですよ」ということだった。

枝雀師匠の弟さんであるマジカルたけし氏とは、北新地にあった
「猫8」というカウンターバーで一緒になり、手品のタネの仕込み方などを
聞かせてもらったことがある。桂音也さんはこちらが広告マン時代、
タレント今井音也として、ラジオCMの録音を何度もお願いした。
大阪弁ではなく標準語で読む原稿であるが、実はこの人、
元は朝日放送のアナウンサーだったのだ。
横山やすし氏は、雑誌の仕事で西川きよしさんにインタビューするため、旧
梅田花月の楽屋(階段の踊り場のような実に狭いスペース)へ行ったとき、
西川さんが「雑誌の取材の人や」と紹介してくれた。
やすしさん、何の興味もなさそうな顔でただひとこと、「そうかいな」。

タイヘイ原児氏は、元は川上のぼると大阪ヤローズのメンバーだったが、
その後タイヘイトリオに加入した。あるとき某クラブで偶然「遭遇」しただけの
話であるが、そのとき客として飲んでいた原児さん、興が乗ってきたのか
店のギターを取り、アントニオ古賀の「その名はフジヤマ」を唄って
喝采を受けていた。ぼくの大好きな曲でもあったため、
甘い歌声がいまでも耳に残っている。
三味線漫才、三人奴の塚本やっこ師匠とは、もっと単純な「遭遇」。
ある年のクリスマスイブの夕方、これまた旧梅田花月前を歩いていたら、
和装コート姿のやっこ師匠がクリスマスケーキの大きな箱を提げて、
楽屋入りしていかれた。その服装や芸の雰囲気と、赤いリボンのかかった
化粧箱との対比がおもしろくて、光景をはっきりと覚えているのだ。
ナンノナニガシ、近日来演!
「地獄八景」は爆笑のくすぐりにならって、そう追記したくなってきたけど、
う〜ん、これはシャレになりませんわな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

69 追加のくすぐり

落語や漫才で「くすぐり」を聞いて、反射的に思うときがある。
「あっ。ここに、もうひとつくすぐりを重ねたら、客はさらに笑うはずや!」
たとえば、「胴乱の幸助」という上方落語のなかに、
酒を飲みたい二人が、嘘の喧嘩をして仲裁好きの幸助をひっかけ、
思惑通り、小料理屋へ連れて行ってもらう箇所がある。
「うまいこといった」というので、二人は彼のあとについて歩きながら
ひそひそ話を始める。そこで幸助が、
「おい。仲良う話をすな。まだちゃんと仲裁してへんねや。
おまえら、友達どうしか。頼りないやっちゃな」と言い、客はまずここで笑う。
そしてそれに加えて枝雀師匠の演出では、小料理屋の二階へ上がるとき、
「譲り合いをすな、譲り合いを」というくすぐりが入るので、客はまた笑う。

このときぼくがプラスすればいいと思ったのは、こういうくすぐりだった。
「譲り合いをすな」と言った幸助、二階へ上がって再度ふりむき見下ろして、
「こら。階段の途中で何をほたえとんねん。何? わしが先に上がってたら、
下からこいつが(組み合わせた両手の左右の人差し指を伸ばし、
それを突き出す仕草で)こんなことした? あほか、おまえらは!」
つまり子供がやる「カンチョー」の恰好をするわけで、
客はまあ、間違いなく爆笑するだろうと思うのだ。

また少し古くなるが、「ザ・ぼんち」の、
漫才ブーム時代に収録したテープを聞いていて、
二人が刑務所へよく慰問に行くという話でも、追加のくすぐりがうかんだ。
彼らの言葉によれば、「囚人の人」がずらっと並んで座っており、
左右に「監視の人」が立ってて、そこで漫才をするのだという説明があり、
おさむさんが現に漫才をやっている会場の客席にむかって、
「ちょうどそこの君、帽子かぶった君が座ってるその席が、
死刑囚の席やで」  テープによればここで客達はどっと笑っており、
言われた当人も笑っているらしく、「笑うてる場合と違うで」という
駄目押しが入る。客はもちろん、そこでも笑っている。

そしてまさとさんが「一番前が死刑囚や」と言い、以下、
おさむ「そのうしろが無期懲役で、あと二十年とか十五年とか座ってる」
まさと「うしろ行くほど軽いねん」 
という説明があって次のくすぐりに進むのだが、
この「うしろ行くほど軽いねん」のあと、おさむさんが
「二階が無実の人でな」と加えれば、これまた客は爆笑したに違いなく、
「何でそれをプラスせえへんのか。惜しい!」と思っていたのだ。
なおこの場合、「二階が冤罪の人でな」は印象が強すぎて、
客が引く恐れがあるから、やはり「無実の人」と言うべきだろう。

ただし、桂雀三郎さんに聞いた話によれば、若い時代、
刑務所慰問に行ったとき、死刑囚は二階席で、
前面がガラス張りになっていたという。
「さすがに、そこへは視線は向けられまへんでしたな」ということだったが、
ぼんちさんたちの行った刑務所は漫才のとおりの席順だったのか、
それとも、ネタとしてそのほうが都合がいいからそうしたのか、
このあたりはぼくにはわからないので、念のため。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

68 ちんどん通信社の面々

先般、もっかやらせてもらっているラジオ番組のゲストとして、
林幸治郎さんという方にお越しをいただいた。
大阪にある日本最大のチンドンカンパニー、
「ちんどん通信社」の代表であって、20余名のメンバーを擁し、
街頭や商店街での移動宣伝活動はもちろんのこと、各種イベントや
舞台出演、さらには海外での宣伝活動までも手がけておられるという。
そしてこのとき、「チンドン屋!幸治郎」という本と、
「CHING−DONG JAZZ MUSIC」というCDを頂戴したのだが、
それらに接して、まず「おもしろいなあ!」と思ったのは、
林氏を初めとする主要メンバーの略歴だった。

林氏は1956年、福岡の生まれで、御存じの方は御存じ、
県下の名門校たる修猷館高校を出て立命館大学へ。
軽音楽部に所属後、ニューオルリンズジャズ研究会を作り、
それをチンドン研究会に発展させ、そのまま大阪の西成にある
青空総合宣伝社に入ってプロになった。ちなみに、この青空総合宣伝社は
業界では有名な老舗会社で、以前、某大学の女子学生がここに通って
社長からレクチャーを受け、みずからも街頭宣伝活動を体験して
卒論を書いたこともある。そして林氏、1984年に独立して
いまの会社を興したのだが、このとき大学時代の仲間が馳せ参じ、
それぞれクラリネットやバンジョーを担当するようになった。
ちんどん屋がバンジョーを使ったのはそれが初めてだったそうで、
以後、他社の若手が続々とバンジョーを使い始めたというのである。

また現在では、大阪芸大で音響工学を学び、
ちんどん屋の音の収録をしようと入ってきて、ゴロス(腹に抱えるようにして
打つ大きな太鼓)を担当するようになった人がいる。
大阪音大のクラリネット科出身という女性もおり、大阪芸大の芸術計画学科
(これ、何をする学科だろう。プロデュースかな?)出身で、
ちんどん太鼓(胸のところに縦に装着して、木枠に取り付けた
太鼓や鉦を打つやつ)を担当している人もいる。
林氏はトランペットとちんどん太鼓、OL出身の夫人は、
まったくの一から始めて、いまやちんどん太鼓のベテランがうなるほどの
腕を持つに至ったという。したがって、ちんどんジャズと称するCDも、
デキシーランドの名曲を揃えたごきげんな演奏集。なにしろ林氏一行、
あこがれのニューオリンズのジャパン・フェスティバルでパレードをし、
ライブハウスで生演奏もしているのだ。

で、こうやって延々と紹介してきたのは、
「おもしろいことをやる人は、あちこちにいるもんだなあ」と感嘆し、
「ちんどん活動はいまや、寄席芸と大道芸、音楽と演劇、
芸能と芸術を融合させる位置にまで達しているんだな」と、
認識を新たにしたからである。昔ながらのちんどん屋のイメージでは、
失礼ながらうらぶれた、ものさびしい雰囲気を漂わせていたものだったが、
こうなるとパフォーマンス世界の一方の旗頭なのだ。
「ニューオルリンズの生演奏、受けましたか」
「受けましたね。ペーソスがあるから、
そこに共感してもらえたのかもしれません」
こうこたえてくれた林氏は大柄で不敵なつらがまえ。
諸事に対して、独特の視点を持った方とお見受けいたしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

67 大衆演劇とは何か?

ずっと以前のことだが、新世界で大衆演劇を見たことがある。
日本一きたない小屋と自称する浪速クラブであって、
安くてボリューム満点、いまは値上げしているのかもしれないが、
当時七百円で二時間余りを目一杯楽しめた。
そのかわり、プログラムもなければチラシもない。チケットだって、
マジックで数字を書いたボール紙の小片だったのだ。
なかに入れば、椅子席とともに昔ながらの桟敷があり、
おっちゃんおばちゃん連中、上機嫌で芝居にのめり込んでいる。
劇団「むらさき」の公演で、前狂言と切り狂言があり、そのあとさらに、
歌と踊りのグランドショーというものもあった。

芝居はどちらも股旅物。義理と人情の板ばさみがあって、
遂に最後はチャンチャンバラバラという、おなじみの型である。
そして、その舞台に対して観客の示す反応がおもしろい。
間男をした女がおり、亭主がその言い訳を信用しかけると、
桟敷のおばちゃんが声をあげる。「あ〜あ。甘いなあ」
主役が一宿一飯の恩義を説けば、椅子席のおっちゃんは
大いに納得してつぶやくのだ。「そうや。一宿一飯や。それが男や……」
そうかと思うと、酒を飲みながら見ていて、大声でやじりつづけた男もいた。
舞台上の役者は適当にいなそうとしたのだが、
いなさなかったのが小屋のおばちゃんで、上演中にもかかわらず
つかつかと歩み寄って、「うるさいな。あんたは!」
バチ〜ンと、酔っぱらいのほっぺたを叩いたのだった。
叩かれた男はそのまま沈黙。

そしてこのおばちゃん、グランドショーが始まると
クラッカーをいっぱい鳴らして、舞台を五色のテープで埋める。
景気づけにと一万円札で作ったレイを手渡す。
なにしろ右に左にと大活躍していた。その盛り上げ作業に乗って、
ザンギリ頭に着流しスタイルの役者連中、エレキギターを弾く、
スチールギターを弾く。女性歌手も着物にハイヒールという姿で登場する。
当方思わず一緒に口ずさみながら、ふっと椅子席の足元を見ると、
そこに総入れ歯が落ちていた。となりの席の爺さんが、
入れ歯が落ちたのも知らず、寝入っていたのだ。
そこで見終えてつくづく思うに、つまり、舞台と客席のそれらすべてをひっく
るめたものが、大衆演劇であるわけなんですな。いや、結構でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

66 受けたでしょうなあ

『大阪の笑芸人』(香川登志緒、晶文社)という本のなかに、昔の寄席の、
舞台側から撮った客席写真が、見開き2ページを使って掲載されている。
巻末の注記によれば、昭和2年(1927)12月、
道頓堀の弁天座で行われた、吉本漫才座長大会のときのものだという。
一階も二階もぎっしり満員で、その詰まり具合や、
写真のどこにも椅子の背もたれが映ってないことから判断すれば、
少なくとも一階は畳敷きだと思われる。二階は客たちが階段状に並んで
座っているので、こちらは椅子席なのかもしれない。
このあたり、識者やマニアに聞けば、「戦前の弁天座というたら、
これこれこういう客席や。そんなことも知らんのか。それでよう、
演芸ファンてなこと言うてるな。常識でっせ」と言われそうだが、
知らないものは知らないので、推測で書くしかないのである。

でまあ、それはそれとして、画面をびっしりと埋めている
客の姿を見ていくと、男も女もほぼ全員が和服であり、
冬のこととて、襟巻きをした男や肩掛けをした女も目立つ。
また、男は鳥打ち帽や中折れ帽をかぶっている者が多い。
前者は商人風であって、なかにはひょっとして丁稚なのか、
まだ子供のような顔をしたのもいる。後者は勤め人風か、
商人でも店主クラスらしく思える容貌。
女は若いのが桃割れ、お婆さんはひっつめ。
なかなかの美人もまじっていて、その女性のヘアスタイルは、
和風だけれどもモダンな型である。

そしてそれらを見て思ったのは、「なるほどなあ。
こういう雰囲気の客には、いまのわれわれが大して笑わないくすぐりも、
大受けしたんだろうなあ」ということだった。
たとえば、難しい熟語がわからず頓珍漢な受け答えをし、
その意味を説明してもらうと、「それならそう言うてくれたらええのに、
英語使うもんやさかい」「誰が英語使うてるねん。日本語やがな」
などという笑いの型があるが、これは現在の客には
「ベタ」なくすぐりであって、引く者も少なくないだろう。
しかしこの写真に映っている客たちは、大笑いしたに違いないと思われる。
熟語も英語も学校出のインテリだけが知っているもので、
この客たちの日常生活において、
「知らん」「わからん」という点では、双方同じ言葉なのだ。だから、
漫才や落語で、演者がそれをそのままなぞるような会話をしてくれたら、
安心、共感、裏返しの優越感などが混合された、喜びの笑いがうまれる。

上方落語の「寄合酒」のなかに、飲み代の割り前を出すについて、
小銭がまじってもいいか、全部一銭玉やったら怒るかなどと
さんざんぱら言い、相手が「何でもええねやがな!」と焦れた途端、
「何にもないねやがな」と返す部分がある。
これが昔からあったくすぐりなのかどうかは知らないが、当時、
自分たちのふところ具合そのままという客が聞いたとしたら、
ある種の快感を覚えて爆笑したに違いない。
逆から言えば、かくかくの客たちが相手だったからこそ、
しかじかのネタやくすぐりも受けたということだろう。
ゆえに当然のことながら、現在の客たちに受けよう、大笑いしてもらおうと
思うなら、その彼らがどんな生活をし、どんな思いを持っているのか、
そのチェックから始め、それに適合するくすぐりを
用意しなければならない理屈になる。
枝雀師匠が「変わってこそ、変わらず」と言っておられたように、
笑いの方程式には、変数が必要なのだ。これもまあ、常識ですけどね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

65 いや〜な笑い

ぼくは、「きつい」笑いや「えげつない」笑いには、
ある程度以上の耐性があり、自分でも書いたり、口にしたりしている。
したがって当然、それ以上にきつい笑いの攻撃を受けて
内心こわばることがあっても、知らぬ顔で一緒に笑ったり、
乗りツッコミで返したりしている。
しかし、「いやな」笑いというものは、やっぱり嫌だ。

たとえば、ワカナ・一郎の戦前のネタに軍国調のものがあり、
そのなかでワカナが、「おめえさん、軍籍ねえのかい。へえん、
だらしがねえなあ!」と言う部分がある。
一郎はかなりの近視だったからか、軍隊には行ってなかったそうで、
これは、それを前提にした「からかい」なのだ。
このネタが収録されている復刻版のCDは、
元来レコード用に録音したものなので客の笑い声は入ってないのだが、
寄席でやったときには多分、ここでも笑い声が起きたのだろう。
だが、ぼくは笑えず、反射的にいや〜な気になった。といってその理由は、
弱者をからかっているからという直接的なものではなく、
軍人や軍事を平和の敵だと思っているからでもない。
ヒューマニズムというものに、大きな「嘘」が含まれていることくらい
わかっており、平和の敵などという考え方自体が争いを招くことなど、
とうの昔から常識なのだ。ならばなぜ、いや〜な気になったのか。

それは、時代の勢いを背景にして、本来ならば弱者仲間であるはずの者が
強者になって、「上から」からかっているという、
そんな時流便乗者の雰囲気を感じたからだろう。
そしてまた、こういうからかいが笑いを呼ぶという時代は、
やはり良くない時代であると思ったからだろう。
同じCDには前線慰問の体験ネタも入っていて、これはまあ、
時流ということについての納得はできる。
また有名な「全国婦人大会」も入っており、そのなかの朝鮮女性の演説に
は、「私も大和撫子の、人間の、おなごであります」という、
聞き方によっては、憲兵か特高が引っ張りにきそうな部分もある。
大和撫子を建前的な防御規定とみなし、それを抜いて考えれば、
反抑圧宣言になるからだ。だからワカナ・一郎の漫才は、
一筋縄では解釈も評価もできないと思うのだが、
何度聞き返しても、上記の部分はひっかかるのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

64 「御難」に遭いかけた話

ある人に聞いた話。昭和40年代の初め、学校を出て演芸会社に入った。
見習いの期間を終えてマネジャーになり、寄席や放送などとともに、
いわゆる「ドサまわり」の仕事もするようになった。
あるとき、人気抜群のトリオ漫才をメインにしたチームを連れて、
西日本の某県へ出向いた。現地の興業会社だかプロダクションだかが主催
する演芸大会であって、満員の客は大笑いしてくれた。
ギャラの支払いは、業界で言うところの「取っ払い」、
客から入場料を取ってそのままそこから払う方式で、
終了後、現金でもらうことになっている。そこで主催者のところへ行き、
御礼の挨拶をして支払いを求めたところ、そこは和室であったのだが、
あぐらをかいて座っていた相手がいきなりドスを出した。

和服姿でサラシの腹巻きからだったのか、
それとも洋服を着ていてベルトにでも差していたのか、
それは聞かなかったのだが、とにかく短刀を抜いて畳にブスッと刺し、
声にもドスを効かせて、「払えん!」とどなった。
別にこちらに失礼や落ち度はなく、客は大入りだったのだから
赤字が出たわけでもない。要するに、彼が若僧なので見くびって、
無理難題を通そうとしているのだ。無論、社会人一年生の彼、
その場でそこまでは考えられず、頭が真っ白になった。
契約額は50万円で、これは当時の自分の月給の
2年分余りに当たるのだ。それを受け取れなかったらどうなるのか。
帰路、トリオ漫才の師匠にどう言えばいいのか。帰ってから、
会社にどう報告すればいいのか。とにかく、もらって帰らなければ! 
彼、ごく短い時間だったのか、それとも長い時間だったのか、
そのあたりは自分でも覚えてないのだけれど、必死に頭を働かせ、
多分、蒼白になっていたであろう顔で言った。
「……あの。うちが○○組と親しいのを、御存じですか」
短い静寂のあと、相手はドスを抜き取りながら、こたえたというのだ。
「兄ちゃん。ええ根性しとるやないか」
そして50万円も、無事に払ってもらえたという話なである。

「御難」という言葉があって、これはドサまわりの芝居一座や芸人が、
興行主からカネを払ってもらえず、難儀することをいう。
落語「不動坊」に出てくる御難は、客の不入りが原因とされているが、
上記のような理由も多々あったに違いないし、いまでもあるのだろうと思う。
それにしても、「御存じですか」と聞かれたあとの短い沈黙、
その間の相手の頭のなかの思考は、どんなものだったのだろう。
利害得失を考えつつ、同時に自分のメンツも保つには、
どう言えばいいのか? その高速計算の結果が、
「ええ根性しとるやないか」なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

63 ひとり残ってこれを書く

香川県は琴平町で、毎年四月、
「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が催される。
江戸時代に建てられた重要文化財・金丸座が、
年に一度の賑わいを見せるのだ。
そしてぼくは、昭和62年(1987)にこれを見に行き、
中村勘三郎の「沼津」や、澤村籐十郎の「屋敷娘」を楽しんできた。
歌舞伎については素人中の素人だが、雰囲気はたっぷりと味わえたので
ある。なぜかというに、まず町中に色鮮やかなのぼりが立ち並んで、
四月の風にはためいていた。昔風に言うなら、
まさに「村に芝居がやってきた」という感じであり、それだけで、
何か心がうきうきとしてきたからである。

そして金丸座へ行くと、まねきの看板があがっている。
やぐらからは太鼓の音が響いてくる。木戸前は開場を待つ人でごったがえ
し、上々の雰囲気となっている。おまけに、このときは落語家の桂歌之助、
吉朝の御両人、および吉朝ファンだという現地の女性と一緒に行ったのだ
が、そのわれわれの席が、舞台上手側の桟敷だった。
ゆったりとかまえて見まわせば、古い建物のことゆえ場内は薄暗く、
かつ上演中は明かり取りの窓を閉めて、さらに薄暗くする。
燭台風に作った照明灯の並ぶなか、それが舞台の華やかさ、
踊りの衣装のあでやかさを一層ひきたたせ、酒も手伝ってか、
たちまち陶然としてしまったのだ。

時間はゆっくりと流れて心地よく、勘三郎と幸四郎のコミカルなかけあいに
くすっと笑っていると、となりの吉朝氏がみごとな大向こうをかける。
「ナカムラヤッ!」
そのときぼくは、この雰囲気をかもしだすこういう小屋が、
江戸や大坂の街にはずらりと並んでいたのだと気づいて、思っていた。
「なるほど。木挽町に道頓堀。芝居の人気が高かったはずや。
職人や丁稚がまねをし、町娘が役者に熱狂したはずや。
これ、催眠術やがな。そら、のめりこみもするやろ」
当時の日常と、それとは隔絶された夢の世界。
その落差を思い、つくづくと納得していたのである。

なお、あとから吉朝氏が言ったことには、
「イッテラッシャイッ! オカエリナサイッ! 花道からの出と戻りに、
こういう声をかけたかったんですけど、やっぱり難しいですな。
酸いも甘いもかみわけたような人ならええけど、
私らがかけても、似合わんと思いましたな」
これもまた、納得できる言葉であったのだ。
以上、あれから十九年たったら、
二人ともおらんようになってしもてるなあと思いつつ。

62 つまり、何者だったざんすか?

「懐かしのTV・CM大全集」「懐かしのテレビ・ラジオ主題歌」
「懐かしのラジオ番組オープニング集」「なつかしきジャズ喫茶黄金時代」
仕事と趣味を兼ねて、ときどき、こういうテープやCDを
むさぼり聞いているのだが、そんななかのひとつに
「ジス・イズ・ミスター・トニー谷」というのがあって、
これがおもしろさ抜群である。特に「さいざんすマンボ」
「チャンバラ・マンボ」「プクプク・マンボ」の三曲など、テンポといい
ギャグといい、現在でもそのまま通用するおかしさを持っている。
マンボのリズムと派手な演奏に乗って、算盤が鳴る。
チンドン屋の鐘と太鼓が入る。昔風チャンバラ映画のBGMが入る。
よくまあここまでと、そのナンセンスぶりにあきれてしまうのだ。

ところで、トニー谷でまず思い出すのは、その子供が誘拐された事件であり
、これはぼくが小学校二年のときに起こった。
そのときぼくの母親が推理して、勝手に犯人を断定してしまった。
「○○に違いない。トニー谷の人気をねたんで、いやがらせをしたのよ」
○○とは、当時人気のあった喜劇俳優。結局、誘拐された子供は
無事にもどり、逮捕された犯人も○○氏ではなかったのだが、
一主婦にそんな推理をさせるほどに、トニー谷の人気が
すごかったのだということは言えるだろう。そしてぼくは、大人になって
芸能関係の記録物を読むようになってから、この事件に関して
一部のマスコミが、トニー谷の売名行為、いまの言葉でいう「やらせ」だと
報じたことを知った。それが原因で、人当たりのよかった彼が、
マスコミ嫌い、人間嫌いになってしまったというのだ。

「ひどいじゃないか。気の毒に」と同情したのだが、一方、花登筐氏の
『私の裏切り裏切られ史』には、氏が絶頂期のトニー谷から、
傲慢無礼な仕打ちを受けたエピソードも出ていて、
これには義憤を感じさせられた。
と思うと、神津友好氏の『にっぽん芸人図鑑』には、
好意的な人物解釈が出てくる。けれども村松友視氏の『トニー谷ざんす』に
よれば、まあ、あまりつきあいたくない人間ではある。
「つまるところ、どういう人だったのか?」
わからぬままに、すでに御当人は亡くなっており、いまの若い人は多分、
その名前さえ知らないのではあるまいか。
「時は流れ、人は消え去りだなあ……」
マンボ三曲に笑いつつ、「芸人」「芸能人」の栄枯盛衰に
思いをはせるのである。

61 エフ氏に聞いた話

エフ氏といっても、星さんのショートショートに出てくる人物ではない。
以前、わかぎゑふ氏に聞いた話を、いくつか紹介させていただくのである。

企業がバブル時代に、メセナとか何とか称しながら、
実は税金対策でホールを建てたりした。それらは恰好はいいのだが、
演劇には使えないものが多いのだという。音楽ホールなら、
音響などにも配慮しなければならないので、建築家はプロの意見を聞く。
ところが演劇は、いれものがあって、舞台と幕さえあればできるだろうと思
っているのか、タッパ(高さ)のないところが多く、ひどい例としては、
舞台の裏を上手から下手へとまわれないホールもあるとのことである。

演劇をやってる人間が、それだけでは食えないことは常識。
中央市場で早朝働いている者もおり、これは稽古や公演に
差し支えが出ない時間帯だから。ホステスやホストをやってる者もおり、
夫婦でそれをやってる者は、始発電車で待ち合わせて帰るのであると。
「叩き」といって、他の劇団の公演の、大道具の建て込みや
バラシの仕事をしている者も多い由。
東京の新劇では、昭和の終わり頃から平成にかけてという時代でも、
月給1万五千円はいいほうで、五千円というのもあった。
ある俳優が交通違反して罰金五千円と言われ、
月給五千円しかもらってないのに、どうやって払うんだと食ってかかった。
警官は警官で、いまどき五千円なんて月給があるかと信用せず、
劇団に電話をかけた。そして確かに五千円であると聞いたら、
がんばってくださいと、交通違反者を励ましたというのである。

スタニスラフスキー・システムでやると、
誰でも何年かで俳優になれることになっているとのこと。
わかぎ氏、それでやってきたのだが、あるとき、別に舞台でやらなくても、
日常で演劇をしておればいいのではないかと思えてきたので、
一時活動をやめた時期があった由。
しかし吸収し培養した基礎や知識や技術を出す場は、
やはり舞台であると思うようになって、再開したとのことである。

演劇では、俳優から照明から音響から、すべてのパートが
一致する瞬間があり、そのとき観客からは「どよめき」が返ってくる。
それが「快」なのであると。たとえば平幹二郎の「ハムレット」で、
そろそろと剣を抜くシーンがあり、せりふを言いながら抜き終える瞬間、
三方からのライトがパッと剣の切っ先で交差し、
かつ音楽がズバッと入った。この瞬間は、客席がどよめいたそうである。

などなど、非常におもしろく興味深く、こちらの仕事の
参考になる部分も多い話だった。
ついでに書いておくと、かなり以前、わかぎ氏が在阪テレビの
スタジオ番組にレギュラー出演していた時期があった。
メインの司会進行役ではなく、その左右に何人かが並んで座る、
そのうちの一人だったが、その日のゲストが興味深い話をしているときには
、にこにこと、かわいらしい顔で聞いていた。
ところが、彼または彼女がピントのずれた受け答えや
どうでもいいような話をしており、かつカメラが自分を狙ってないときには、
露骨に、「しょ〜もな〜!」という顔になっていた。
狙ってなくても、画面の隅にそれの映ることがあるわけで、
ぼくはそこが面白くて見ていたのだが、
いつしかテレビから遠ざかったようであるのは、
あまりに「しょ〜もな〜!」の事例が多かったためだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・