落語・演芸・笑いのノート、41〜50

50 これぞ名人!

桂枝雀師匠が、笑いの原理の説明に、
「機嫌計」という言葉をよく使っておられた。そのときどきの状況によって、
客の機嫌計の目盛りは絶えず上下しているのだから、そこをよく感知して
刺激をコントロールしなければならない、という具合にである。
ところで、ぼくは寄席へ行って、気持ち良く上げてもらうべき機嫌計の
目盛りを、どんどん下げられてしまった経験がある。
梅田にあったトップホットシアター。閉館にはまだ少し間があった時期だった
と記憶するが、出し物ひとつひとつがおもしろくも何ともなく、
遂には腹まで立ってきたのだ。

たとえば若手の落語家は、無理に笑いを取ろうとしてくどいしゃべり方をし、
それが受けないと知ると、なお念を押す。こちらの内心としては、
「わかってるがな。わかってるけど、おもろないから、笑うてへんねや!」
なのである。また、のちに解散した某漫才コンビは、
女子高生らしき客を数人舞台にあげて、テレビのクイズ番組風のゲームを
やった。しかし呼ばれた客は乗っておらず、コンビのみ悪ふざけをしていて、
空席の目立つ客席が一層しらけてしまったのだ。
おまけにぼくが舞台を不機嫌に睨み、となりの中年客が新聞を読み出すと
、それを見てとって、このコンビは言ってくれた。
「あのあたりのお客さんは、こんなん嫌いなんや。芸を見にきてはるんやな
」寄席に芸を見にこずに、何を見にこいと言うのか。ふざけるなよ! 
ムカムカしたぼくは、そっぽを向いていたのである。

で、それからどうなったか。途中で外に出たのか。それとも、
そっぽを向いたまま、怒りつづけていたのか。そうではなかった。
ベテラン漫才コンビの登場とともに、ぼくは正面に向きなおり、
聞いていくうちに身を乗り出すという気持ちになっていた。そして、
「きんらんどんすの、帯しめながら〜」「五万円、七万円、十万円、
運命の別れ道。グリコ、がっちり買いましょう!」
このくすぐりの間の良さに、思わずぶーっと吹き出してしまっていたのである
。機嫌計の目盛りを、ゼロからプラスへどころか、マイナスからゼロにもどし
てさらにプラスへと、通常の二倍分急速上昇させてくれた、その芸の力!
この名コンビは、もちろん、夢路いとし・喜味こいし師匠なのであります。
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49 プロ根性に驚嘆

女性落語家の桂あやめさんは、林家染雀さん(こちらは男性)と二人で
姉様キングスと名乗って音曲漫才をやるときには、日本髪の芸者姿なのに
バラライカを弾くという、「何やわからん」おかしさを示してくれる人である。
そしてまた、とんでもない経験をしている人でもあって、
前名の花枝時代、殺されかけたことがある。

連続強盗殺人犯の男が同じアパートに引っ越してきており
(無論、まだそれがバレてないときで、彼は後日逮捕されたのだけれど)
ある日、転居の挨拶と称してだったか、花枝さんの部屋をたずねてきた。
それで彼女がドアのところで応対していると、相手は愛想のいい顔と口調で
、「落語家さんなんですってねえ」などと言いだした。
そして、自分の田舎へも、祭りの余興とかに来てもらえますかと聞き、
スケジュールが合えばとか何とかこたえると、
ちょっと確認してみますので電話を貸してくださいと言った。
携帯などはまだ普及してない時代であるが、部屋に上げるわけにはいかな
いので花枝さん、固定電話のコードをひっぱり、受話器のコードものばして、
ドアのところで使ってもらおうと思った。
そこで相手に背を向けて電話を取りに行ったのだが、
それを持ってふりむいたときには、すでに男は部屋に侵入してきており、
顔も凶悪犯のそれに激変していたのだという。アッと思うと同時に首を絞めら
れ、必死に抵抗しても到底かなわず、意識を失っていった。
声に出せたのか、頭のなかで言っていたのか、とにかく
「殺さんといて。殺さんといて」と繰り返しつつだったという話なのである。

で、記憶に頼って書いたので細部は不正確かもしれないが、
以上の経緯を、ぼくは誰から聞いたのかというと御当人からであって、
しかしそれは個人的に聞いたのではない。
事件からまだ一カ月あまりしかたってない日の落語会において、
噺のまくらで、くすぐりも入れたネタとして聞かされていたのである。
たとえば、テレビニュースや新聞で報道されたので全国から励ましの手紙が
殺到したのであるが、詳しい住所が新聞に載ったわけではない。
「けど、えらいもんですわ。大阪市天王寺区、アラスカ荘、
桂花枝様だけで届きますねん」などとである。
もちろん、客席は大爆笑。ぼくも大笑いしつつ、
そのプロ根性のものすごさに驚嘆していたのだ。
だって若い女の子が、あやうく殺されかけた体験を、
まだ首に絞められた跡が残っているのかもしれない時期に、
笑いのネタに仕立て上げて、しゃべってたんですからね。
これはもう、心底、脱帽敬服ですよ本当に。
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48 枝雀師匠の思い出(3)

桂枝雀師匠に、新町のお茶屋へ連れていってもらったことがある。
きっかけは某年某月某日、梅田の某店において、
当方、桂吉朝、落語作家の小佐田定雄というメンバーで飲んでいたこと。
曾根崎警察署の裏手にあるそこは落語家がよく飲みにいく店で、
特に枝雀師匠は一時期、毎晩のように顔を出しておられたらしい。
で、このときも一人でふらりと入ってこられたわけで、「おーっ。これはこれは
!」があり、しばしのあいだ、雑談や芸談に花が咲いた。
そしてその店を出たところで師匠がいわく、
「こういう顔ぶれが揃うというのも珍しいことですから、もう一軒行きましょか」
そのままタクシーに乗り、あれは御堂筋から長堀通りへと走ったのか、
それともそこからさらに四つ橋筋に入って少し北へ上がったのか、
とにかく西区新町のあたりで下りた。師匠が先頭になってぶらぶら歩き、
案内してもらったのは、ごく普通の民家に見えるお茶屋であって、
ネオンはもちろん、電照のあんどん看板も出ていなかったと覚えている。

「まあ〜師匠。ようこそ!」「こないだは、えらいどうも、あいすまんことで」
「何を言うてはりますのん。さ、さ、どうぞ」とか何とか、
この台詞はいまぼくが勝手に作ったのだけれど、
そんなふうな会話があって靴をぬぐ。でもって、
急な階段をあがって二階の座敷へということになったのだが、
さあ、これが六畳だったか八畳だったか。
われわれ四人プラスお茶屋のおかみさんに
三味線を弾いてくれたお姐さんという、合計六人が座ることになったのだか
ら、四畳半でなかったことは確かだが、申し訳ありません、
いい機嫌に酔ってたもので、しかとは覚えておらんのです。
ただし、(お婆さんに近い)お姐さんの職業は
芸妓ということになるのだろうけど、それらしい衣装や髪型ではなく、
ごく普通の着物にヘアスタイルだったような記憶がある。
いや、それどころか、地味な色柄のワンピースもしくは
ブラウスにスカートだった可能性もある。なにしろおかみさんもお姐さんも、
普段のまんまという雰囲気で現れたと覚えているからだ。

膳に乗せて出されたものは、お銚子と、魚の干物をあぶったもの。
「そうか。お茶屋は料理屋ではなく貸座敷業なんだから、
宴会でもしようと思えば仕出しを取ることになるわけで、
手軽にすますときはこういうものが出るんだな」 
当方、内心で納得しつつ飲みだして、ところがその先が困った。
歌舞伎、浄瑠璃、上方舞等々、一座の会話が高度かつ専門的過ぎて、
ついていけないのだ。おまけに師匠は義太夫を習っておられ、
小佐田氏も同様だから、二人が順にひとくさり語る。
お姐さんの三味線に合わせて、何か陽気な座敷唄が出たときには、
吉朝さんが洒脱に踊る。単なる落語ファンでそれ以上の素養はないぼく、
ひたすら拝聴拝見するしかなかったのだ。

するとお姐さんが、「あんさんも、何かやりなはれ」
「いや、お恥ずかしい。こういう場でやれる芸が何もないんです」
「けど、民謡くらい唄えますやろ」
それは唄える。習ったことはないけれど、
テープやCDで聞き覚えた民謡なら何曲かは知っているのだ。
しかしそれは現代風にアレンジしたものであって、
バックの演奏にはギターが入っていた。お座敷で、三味線一丁のみで、
枝雀師匠を前に唄えるようなものでは、まったくないのである。
といって、陽気な座敷唄が出たとき
吉朝さんと一緒になって踊れるかというと、これもできない。
ひたすら恐縮しつつ、酔った頭で、ぼくは思っていたのだ。
「なるほどなあ。こういうところで遊ぼうと思えば、下地、素養がいるんだな。
そしてその下地、素養を身につけようと思えば、
かなりのモトを入れなければならんのだなあ……」
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47 批評的声帯模写

イラストレーターの故・佐々木侃司さん。雑誌の挿し絵や
単行本の表紙イラストで、ぼくは大変お世話になったのだが、
この佐々木さんは、大阪芸術大学の教授でもあった。
そして生前聞かせてもらった話によると、以前、
教えていた学生のなかに、声帯模写のうまい学生がいたという。
「ぼくが遅刻して廊下を歩いていくとね、教室から
自分の声が聞こえてくるんですよ。ぼくがおらんでも、ゼミが始まってるの」
実は、いかにも佐々木教授が言いそうなことを言って
勝手にゼミを始めていたその男が、後年、
辛口の批評的声帯模写で売り出したキッチュ、その後
東京に活動の場を移した、現在の松尾貴史さんなのである。

ちなみに彼の声帯模写は、単に声や口調を似せるだけではなく、
本人の物事に対する思考や発言の癖まで取り込み、
増幅して示すところにおもしろさがあった。
すなわち、彼演ずる岡本太郎や竹村健一が、その声その口調でもって、
まさに当人が言いそうなことを言う。
本人が発言しそうな問題に限らず、全然関係ない問題についても、
いかにも「らしい」ことを言う。そこがおかしかったのである。
そしてぼくは、この種の笑いも大好きであり、
過去に別人の同種芸を見聞きして、腹を抱えたこともある。

サックス奏者の坂田明さんが、演奏終了後の
うちあげの席で演じるそれであって、田中角栄元首相が、
なぜかジャズと自民党の関係を論ずるのだ。
「まコノオ、先般も民社党の春日一幸君から忌憚のない御意見をうかがいま
したがね、これだけ日本でジャズが盛んになったのも、
自民党が政権を維持してきたからこそであります。
え、そうでしょう、おかあさん。共産党の世の中で、フリージャズなどという、
わけのわからんものができます。できません!」
いかにも角栄氏が言いそうであり、かつ坂田さん自身の職業世界を
平気でコケにする。自信と余裕があればこそで、その隠された「にやにや笑
い」のしたたかさが、なおのこと笑いを呼ぶのである。

そこで話を松尾貴史さんにもどして、彼が大阪にいた当時、
何度か酒の場で一緒になったことがあるのだが、
礼儀正しく温厚な青年という印象だった。しかし、上記のような芸をやる人間
は、その内部に過激性または破壊願望を秘めているはずである。
権威の破壊、常識の破壊であって、実際、坂田さんやタモリさんが
非公開の場で示すそれは、強烈なものだった。
キッチュ時代、それに接することのできなかったのが、
当方のひとつの心残りになっているのである。
といって、現在の松尾貴史さんが、
それをテレビなんぞでやるわけ、やれるわけもないのだが。
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46 明るく美しかった漫才

前に若手漫才コンビにめだつ聞き苦しい例として、
早口で言葉の切れが悪く、間を取るかわりになのか、
「おまえ」などという言葉を間投詞のようにはさむということを書いた。
で、今回はそれとの対比で書くのであるが、往年の名コンビ、ミス・ワカサ、
島ひろし御両人のテープを聞き返すと、その会話の「美しさ」に感嘆する。
ワカサ師には、かなりの早口で相方を攻め立てる得意芸があるのだが、
その口跡が実にはっきりしている。
そして、「えー」とか「あー」とか無用の間投詞が皆無に近く、
だからせりふひとつひとつが、くっきりと印象づけられる。
ひろし師も同様で、くっきりさ加減はワカサ師に劣るものの、
出身地東北のなまりが残った大阪弁が愛嬌になっているほど、
せりふが生き生きしている。

思うにそれは、無論しゃべりやすいように手直しした上でだろうが、
台本を演劇やラジオドラマのそれのごとく頭に叩き込み、
その上でさらに、二人が普通の会話をしているように聞こえるまで、
こなれさせる稽古を重ねた結果だろう。
したがって、何気なく聞いていると普段の会話に聞こえるのだが、
注意深く聞けば、それが台本の流れに沿った、みごとな演技、
会話劇であることがわかる。本当の普段の会話は、あれほど無駄のない、
必要十分かつ直線的な進み方をするものではないのである。
なのに、その無駄のなさや直線的な進み方には気づかせず、
逆にふくらみを感じさせるというのが、つまりは芸の力なのだ。
そしてこれは、このコンビに限らず、ダイマル・ラケット、いとし・こいし、
かしまし娘など、多くの名コンビに共通した特長でもある。
その根底にはやはり、師匠や兄弟子、楽屋の先輩などから、教えられ、
叩き込まれ、いびられて身につけた漫才の基本があるに違いない。
聞き苦しい若手コンビ、師匠なしのノーブランド漫才が多いということもあっ
て、そのあたりの修練が足りないのではないかと思うのだが、どうだろう。

なお、このワカサ師、相方をやっつけるときには乱暴な言葉を使うが、
ストーリーを進める会話のなかでは、「ようそんなこと言わはるわ」とか
「何やってはったん?」などと、ちゃんと敬語を使っている。
このあたりも、全体を美しくしている要素のひとつだと思うのだ。
最後に、二人の定番のくすぐりを紹介。歌舞伎の真似などで無茶苦茶な顔を
して吠えたあと、ひろし師に「けどまあ、いらい顔するなあ!」とあきれられて
、ワカサ師いわく。「私かて、これやるのん、嫌ですねんよ」
「何でや」「これやるたんびに、縁談が破れるねんもの」。
いまこの年齢になって聞き返せば、明るい声に美貌の笑顔のワカサ師を、
かわいらしいとまで感じる。また、「いらい」というのは、
「えらい」の東北なまりであって、すでに書いたように、それがまた、
にこにこ顔のひろし師の魅力のひとつになっていたのだ。
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45 わからんけど好き

往年の上岡龍太郎さんが好きで、名物番組、ラジオ大阪の
『歌って笑ってドンドコドン』など、ある時期、マニア的なリスナーだった。
常連投稿者が大勢いて、そいつらが他の有名タレントをからかったり、
コケにしたり、洒落のきついコントを送ってくる。
上岡さん、生き生きとしてそれを読むわけで、その傍若無人ぶりと名誉毀損
すれすれのあぶなさが、番組に活気を与えていた。
人の悪口を言うほどおもしろいことはないという、あの呼吸だったのだ。
そしてその悪口が、マジな「ののしり」だと聞き苦しく不愉快になるのだが、
常に笑いを呼んだところに芸の力があったと思う。
「本当は、標的にされているこのタレントと、仲がいいのかな。
いや、待てよ。と思わせておいて、実は完全に馬鹿にしてるのかもしれんぞ
。ううむ。本当はどっちなんだ」
笑いながら、ついつい、そう考えてしまうのだ。

そしてこのことは、上岡さん自身というか、
その全体像についてもあてはまっていた。
「自民党が気に入らんのなら、ごちゃごちゃ言うてんと、
政府替えたらええんです」
ある番組で、議会制民主主義のルールにのっとって、
ずばりとこう言ったときには、そのとおりと思いつつ、爽快感を覚えた。
けれども覚えつつ、これは上岡さん個人の本当の意見なのか、それとも
ひとつのオハナシかしらと、そこを判定しかねるも気分も心に残った。
別の番組で桂枝雀師匠との対談中、
こういう意味の言葉を聞いた覚えもある。
「私は仕事で怒りや腹立ちを発散してますから、普段は逆に穏やかです。
何でそんなことで怒ったりするのて言うたりしてます」

枝雀師匠の「まるく、まるく」は、いらいらピリピリしがちな自分を、
何とか矯正しようと思っての理想目標だった。それとの対比発言として、
これもまた非常によくわかった。何度かお会いしたときにも、
確かに温和だった。だが、さて本当に普段もそうなのかとなると、
ぼくの推測外のこととなる。要するに、どこまでが本音で
どこからがオハナシなのかわからず、
しかしある種の「姿勢」を有する人であることは確かであって、
けれどその姿勢は、世間一般の多数派には、
「刺激」が強かろうなあと思うのみなのである。
その「わからん」上岡さんが好きで、洒落のきつい話に笑っていたのは、
多分、ぼくも多数派ではないからだろう。
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44 桂吉朝さんに聞いた話

内弟子の年季が明けたあと、一時、安アパートに住んでいた。
ドアのところに、本名とともに芸名の名刺だかも貼っておいた。
すると、同じアパートのおばはん連中がそれを見て、
本人がなかにいるとは知らず、声高に言っていたとのこと。
「ケイ・キッチョウ。どうせ、日本人やないやろ」

駆けだし時代、楽屋で六代目笑福亭松鶴師匠の世話をしたときの話。
ある人が、ハンガーにかかってた師匠のシャツを、「師匠、これモダンですな
」とか言って誉めた。するとその人が部屋を出ていってから、松鶴師匠、
鏡に向かってそのシャツを着ながら、ぼそっと、「モダンに唐獅子……」。
そのとき師匠の着物を畳んでいた吉朝さん、
「思わず、そらあんた、牡丹に唐獅子やがなって言うてしもたんですわ。
言うた瞬間、しもたーっと思うて身を固うしたら、
しもたーっと思うてることがわかりはったんですかな、じろっと睨んでから、
ただひとこと、さよか!  ほんま、生きた心地がしまへんでしたな」

そろそろ、若手の落語会でトリを取るようになってきた頃の話。
「自分がトリを取る会の前の晩は、大抵、起きてましたわ。というて、
徹夜で稽古してるわけやない。一人でトランプか何かやってますねんけど。
何やしらん、寝ることが罪悪みたいに思えてきてね」

先代の小染さんに稽古を頼んだときの話。
「応挙の幽霊」を教えてもらおうと思い、電話した。
何日の何時に家へ来いということになり、朝十時だかに行くと、
夫人が昨夜帰ってないという。
吉朝さん、近所の喫茶店で待っていたのだが、やはり帰ってこない。
仕方なく帰宅すると、昼過ぎに電話がかかってきて、
「すまなんだ。いま難波花月やけど、来てくれるか」
行くと近所のビヤホールへ連れていってくれて、
「昨日はちょっと、帰りづらいことがあったんや」
そしてネタについては、自分は誰それに教えてもらい、
そのときこんなことを聞いたとか、いろいろ教えてくれていわく。
「しかし、小染から取ろうとするネタが、応挙の幽霊か。
もっとほかに、あるように思うけど」
つまり、もっと小染的な得意ネタを頼んでほしいような口ぶりだったとのこと。
それで吉朝さん、「それは私も、兄さんにつけてもらうにしては、
ちょっと軽過ぎて失礼かなと思うたんですけど。
一応覚えてるんですけど、筋を通すためにお願いしたわけで」
「まあ、それやったら、そのままやったらええがな」ということになり、
小染さんは、吉朝さんと、そのとき同席していたもう一人を、
次の店へ「放り込んで」くれて、自分は花月にもどったとのこと。
先代の小染さんを知ってる人には、
いろんなことが「思われる」エピソードではなかろうか。
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43 政治家対芸人

昭和が終わった平成元年、就任二ヶ月にして
女性問題で辞任してしまった、宇野宗佑という総理大臣がいた。
天下に恥をさらしに出たようなものだが、
問題発覚以前から支持率は低かった。だからぼくは当時、
テレビで彼の国会答弁を見ていて、思ったものだった。
「このおっさん、そのうち突然、怒りだすのと違うか。
そして肩を上下させて、日本の現状についてぼやきだすのでは」
なぜそんな妙なことを思ったのか。それは宇野首相の眼鏡をかけた顔から
、ぼやき漫才の大御所、故・人生幸朗師匠を連想していたからだった。
じっくり見ればそれほど似ているわけではないが、
服装といい何といい、雰囲気はそっくりだと感じたらしいのだ。

だから連想はさらに進み、こういうぼやきもうかんできた。
「まあ皆さん、聞いてください。いまの世の中に、ああなるほどなあと心の底
から納得して、明るく笑えることが、どれだけありますか」
「ほんまやなあ。あんたの怒るのも無理はない。
嫌なニュースが多すぎるからねえ」と、これは相方の生恵幸子師匠の声。
「え。リクルート事件で自民党がガタガタになって、首相のなり手がない。
そこで、いまのこの国民の政治不信を何とかせないかんと思うて、
私が日本のために引き受けたのに、どうや。新聞で世論調査したら、支持
率よりも不支持の率のほうが高いという。馬鹿にするなよ、ほんまに!」
「ぼちぼち、ぼやいてまんねんで。この、おっちゃん」
とまあ、いくらでも広がっていったのたけれど、よく考えたら、
人生師匠が生きておられたら、宇野首相は、
ぼやき攻撃の対象にされる側の人間、それも恰好の標的だったのだ。
そこをぼくが忘却もしくは錯覚していたのは、特技はハーモニカの曲吹きな
どという彼が、権力者や政治家にさえ見えなかったからなのか。
いやまあ、実にどうも、何ともはや。

それにしても、いまもつくづく思うに、人生師匠のぼやき漫才は、
実に大阪的な芸でしたね。なにしろ、文句を言うだけ言って
「責任者出てこい!」とどなり、そのあとすぐさま、こう収めるのだから。
「ほんまに出てきはったら、どないするの」「謝ったらしまいや」
「謝るくらいなら、最初から言うな」「ごめんちゃい」
常に笑いによる「逃げ道」を用意しておくという、ある種のずるさであり、
したたかさであり、しかしその裏には、
こういうリアルな現実認識もこめられていそうに思う。
「まあ、こんな具合に、正論は誰にでも言えまんねん。けど、
世間が正論だけで動かんというのも、確かですしなあ」 
といって、現実べったりになって、権力に迎合するというわけでもない。
大阪人。政治家にとっては、扱いにくい人種だろうなあと思うのだ。
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42 続・笑いの複雑性

ずっと以前、テレビのお笑い番組のなかで、コメディアンが
「おまえ、嘘つくんじゃないよ。嘘つきは政治家の始まりだよ」と言ったところ
「政治家がみんな嘘つきみたいに思われるではないか」と、
抗議が来たという話を聞いたことがある。
しかし、抗議してきたのが政治関係者なのか単なる視聴者なのかは知らな
いが、これは「笑い」というものの観点から見れば、
事の根本がまったくわかってない反応であり、無意味な抗議でもある。

というのが、仮にそれが公開番組だったとして、
上記の言葉に、大多数の観客がどっと笑ったとする。
ならばその時点において、世間一般の人々は、「政治家は嘘つきだ」と思っ
ているのである。そしてそう思うに至った背景には、少なからぬ数の政治家
の、公約違反や権謀術数や利権漁りや汚職があったのである。
新聞やテレビのニュース、雑誌週刊誌の特集記事。
それらによってその実態を知らされておればこそ、観客たちは納得したり、
うまい「もじり」だと感じたり、溜飲を下げたりして、笑いの反応を示すのだ。
逆から言えばコメディアンは、それらの背景を踏まえた上で、
いまこの時点でこう言えば「受ける」だろうという予測のもと、
そう言っているのである。

だから、政治家の大多数が清廉潔白で、
嘘つきは少数だという時代や世の中においてなら、
同じことを言っても笑う客の数は少なくなる。と同時に、
覚めたり、引いたり、シラケたりという反応を示す客の数がふえてくる。
なぜなら、このとき彼らの心のなかには、「そんな少数者の例を取り上げて
、政治家全体をあげつらわなくてもいいではないか」という、
いや〜な感じを受けたことによる拒否感や反感がうまれるからである。
したがって、これまた逆から言えば、そんな時代や世の中においてそういう
もじりを使うコメディアンは、社会状況を把握できておらず、
観客の反応も予測できない、二流三流の人間だということになる。
そこがわからず、これは受けるだろう、おもしろかろうと思って口にすれば、
今度はそのコメディアン自身が、客から浮いた、世間からずれた、
寂しく哀しい雰囲気を漂わせだすのだ。

さらに言うなら、政治家全員が正直だという世の中においては、そもそもコメ
ディアンはそんなもじりを思いつかないし、思いついても舞台にはかけない。
そんなもの、受けるはずがないからだ。であるからして、
コメディアンのその種のもじりを封じようと思うなら、政治家が姿勢を正すこと
のみが解決策なのであって、テレビ局に抗議などしても何にもならない。
なぜなら、追えば追うほどハエがたかってくるように、抗議そのものを
またネタにして笑いを取ろうとするのが、コメディアンなのだから。

なお、ならばコメディアンは世の中の動きやニュースを日々に把握し分析し
、それを基礎や背景にして笑いのネタを生産しているのかというと、
そうではないけれど、そうでもある。つまり、いちいち論理や倫理の基準に
照らして思考を組み立てているわけではないだろうが、感覚や勘で、
それに等しい作業をしているのだと思う。
そしてそれを成り立たせているのは、彼個人のプロ意識であり覚めた眼で
あり反骨精神であり、さらにその奥底には、複雑な性格や生い立ちや
ハングリー経験などがあったりもする。ネタひとつを取り上げても、
ことほど左様に、笑いの構造はなかなか複雑なのである。

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41 何をやってもいい人

「ええ、桂ナナヒカリでございます」
冒頭、これだけで笑いを取る桂小米朝さんは、言うまでもなく
米朝師匠の長男である。父親似の男前で、クラシック音楽にも造詣が深く、
ラジオでその分野の番組を持っているし、エッセイや評論でも才気を示して
いる。普段、落語会のうちあげなどで話をするときには、
さすがにしつけも厳しかったのだろうなと感じさせられる、礼儀正しい、
言葉遣いの丁寧な人でもあるのだ。
だからぼくは、彼が売れ出した当初から好意的に見ていたのだが、
肝心の落語に関しては、うまいのか下手なのか、判断を下しかねていた。

全体にせかせかしており、登場人物の会話にしても、
「えらいこっちゃがな〜」「何を言うてんねんな〜」などと、語尾が流れる。
「もうちょっと落ち着いて、ゆっくりと腰を据えて、ひとつひとつの台詞も、
きちっと止めながら演ったらどないでんねん」
そう言いたい気持ちになり、失礼ながら、
「この人の根本、核心、性根はどんなものなんやろか」とも思っていた。
もっとはっきり書けば、その部分において「わかってる御曹司」なのか、
「わかってへんアホ坊ん」なのか、判断しかねていたのだ。
またそれには、第三者からプラスとマイナス、
双方の意見を聞かされていたことも関係している。
「あいつ、一種の天才でっせ。普通、あんな落語では、あれだけのお客さん
をつかまえて、わあわあ笑わせられませんわ。けど、それをやってますから
な。皮肉でも何でなく、こいつ天才やなと思うときがありますわ」
プラスの意見はこうであり、マイナス意見はこうである。
「内弟子の苦労を知らんと思いますわ。なぜなら彼、大学在学中に
入門してますやろ。そら、早起きして朝の用事もしてたやろけど、
行ってきますちゅうて家を出たら、あと、帰ってくるまで自由ですがな。
そんなん、内弟子と違いますもん。24時間、自由のない毎日を辛抱するの
が内弟子の修業なんやから」

だが、あるとき独演会で「小米朝半生記」という自作のネタを聞いて、
ぼくにおける判断が定まった。
「あ。この人、もう何をやってもええ人や。落語がせかせかしてても、
仕事で少々アホなことしてても、この性根があるとわかったからには、
全部認めようやないか」
というのが、「小米朝半生記」には、以前、結婚話にまで進んでいた女性に
ふられ、そのショックでやけになって、貯めていた200万円だったかを、
祇園で使ってしまったというエピソードが出てくるのだが、
そのふられた原因はかくかくしかじかだと公開した。
とはいえ、差し障りがあってはいけないのでここに書くのは控えておくが、
「そこまで言っても、ええんかいな」と思うようなドキッとする内容を、
作中の彼女の台詞のかたちで、はっきり公表した。
しかもそのとき彼は結婚を控えていて、会場には自分の母親とともに、
フィアンセも座って聞いており、終演後の関係者の話によると、
二人とも、ショックなのか怒りなのか恥ずかしさなのか、
顔を真っ赤にして聞いていたという。

そして、ぼくが上記のごとく彼を認める気になったのは、
二人の前でそこまで言ったこと以上に、それをちゃんとネタに仕立てて、
客席を大いに沸かせていたことだった。
自己の修羅場体験、地獄体験を、価値の相対化と視点の逆転で「笑い」に
仕上げ、聞かされるのを一番嫌がる人の前で演じて、
第三者多数には大笑いをさせた。これを「プロ」と呼ばずして、
どんな人間をプロと呼ぶかという気持ちになり、興奮感動していたのだ。
また、この噺のなかには、ハワイでマラソン大会に出場したエピソードも出て
くる。途中でへとへとふらふらになり、次の角で脱落しようかと思ったのだが
、そこを曲がった途端、チアガールがずらっと並んで陽気に応援してくれて
いたので、止まるに止まれなかったのだという。
その、角を曲がった途端のチアガールの姿というのが、
みごとに決まっていた。ヤンキー娘たちの陽気な応援ぶりが、
一瞬の場面転換で、ぶわっと眼前に浮かんできた。
小米朝さんが「乗って」いたからか、ぼくが興奮して聞いていたからか。
多分、両方の相乗効果だろうが、
「なんや。うまいやないか!」とも思っていたのである。
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