落語、演芸、笑いのノート。11〜20。

20 家族慰安会

小学校5年か6年のときだから、
昭和33(1958)年または34年のことだ。
父親が勤めていた会社の、大阪支社開設何十周年記念とかで、
家族慰安会があった。場所は中之島のフェスティバルホール! 
の地下の、当時のABCホール(と呼ばれていたはず)。
朝日放送が堂島にあった時代だからで、
そのホールを使わせてもらったところから推理すれば、
「仕込み」は同社に関係したどこか、または誰かがやったのかもしれない。

神楽坂浮子だったかが「三味線二等兵」とかいう歌をうたい、
保田春雄とドラゴン魔術団の大がかりなマジックがあって、
気合い術のおじさんも出た。ほかにもいくつかの出し物、
漫談か漫才かがあったはずだが、それは覚えていない。
ドラゴン魔術団を見たなどというのも、いまとなっては
貴重な経験と言えるのだが、舞台上の、ライトの当たった
華やかな色彩を覚えているだけで、内容は記憶していない。

覚えているのは気合い術で、着物に袴姿のおじさんが、
観客席から社員の子供を一人上げて、
気合い一発で動けなくなるという技を見せたりした。
当然、場内にはどよめきや笑い声が広がったわけだが、
そのあとおじさんはこう言った。
「協力してもらったんですから、お礼に、あなたの頭を良くしてあげましょう」
そして、子供の頭に手のひらを当て、しばらく眼を閉じていたあと宣言した。
「お父さん、お母さん、楽しみにしててください。この子は頭が良くなって、
三カ月ほどしたら、必ず成績が上がり出しますから」
うらやましく思ったぼくは、それをずっと記憶し、社会人になってからでも、
「あの子供は、その後どうなったかな。ぐんぐん成績が上がって、
東大や京大に入るとか、学者になるとか、
そんな人生を歩んでいるのかなあ」と、思い出したりしたものだった。

なぜなら、広告マンになり、朝日放送の社屋移転によって、
そのときにはSABホールと名前が変わっていた同じホールで、
映画試写会の立ち会いなどをしていたからだ。
(このホール、その後また名前が変わって、
いまはリサイタルホールとなっている)
そしてさらには、桜宮の太閤園で、クライアントだった会社の
家族慰安会の、今度は裏方を勤めたりもしたのだが、
それはまた別の機会に書くことにしよう。
それにしても、気合い術のおじさんの所作や宣言は、本当だったのか、
それとも暗示だったのか。そして、あの子はいまどうなっているのか。
知りたいんですよねえ。
ところで、ああいう気合い術のおじさんも、
演芸や余興のプロダクションに所属してるんですかね。
としたら、それは「術」ではなく「芸」なんでしょうかね。

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19 「笑い」の複雑性

以下の文章、紹介する事例の分析に、
納得してもらえれば幸いなのだが、
「そういうことを笑いのネタにするとはけしからん。不謹慎だ」と
怒る人もいるかもしれない。
御当人に迷惑がかかってはいけないので、
名前は伏せておくことにする。

俵万智さんの『サラダ記念日』がベストセラーになった時期、
ある中堅実力派の人気落語家がそれをもじった歌をつくり、
噺のまくらで紹介したことがある。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
この本歌をもじり、この街に、と始めたのだ。
この街に落とすと君が決めたから八月六日は原爆記念日
聞いた瞬間、おじさんおばさん、兄ちゃん姉ちゃん、学生諸君、
いりまじった客席が大爆笑となり、ぼくもその一人だったのだが、
仕事柄、あとからその大笑いの理由を分析した。

まず考えられるのは、謎解きによる納得と、
結末の意外性に対する驚きである。
「この街に」で区切った段階では、どんな内容の歌なのか、
全然見当がつかない。「落とすと君が決めたから」ときても、
まだそれが爆弾(ましてや原爆)のことだなどとはわかるわけがないので、
「何の歌や。どうなるねん?」という疑問は、なお深まる。
そこへ「八月六日は原爆記念日」とたたみこまれるので、
「ああ、そうか。なるほど!」の納得とともに、
「おいおい。これはそういう歌やったんかいな!」という驚きが生まれるだ。
次に考えられるのは、「うまくもじったな」という、感心感嘆の気持ちである。
「この味」と「この街」、「君が」と「君が」、「言ったから」と「決めたから」、
そして「七月六日」と「八月六日」、「記念日」と「記念日」。
五・七・五・七・七の、要所に相似や一致があるので、
よくまあ、こううまく合わせたものよという気持ちが起きるのだ。

第三に、それだけ合わせていながら、全然違った歌になっているという、
その意外性、あるいは内容や雰囲気の落差に対する驚嘆がある。
記念日は記念日でも、本歌は「ささやかな淡い幸せ」の記念日であり、
もじりは「巨大で悲惨な不幸」のそれなので、言葉を少々いじって差し替え
るだけで、こうも極端な差異が出るものかという驚きが生まれるのだ。
それだけに、第四の理由として、「とまどい」の気持ちもあったに違いない。
爆笑は聞くと同時に起きたので、個々の意識の自覚領域にさえ上ってこな
い、一瞬以下の反応だっただろうと思うのだが、
「こんなこと、ネタにしていいのか」あるいは、「聞かされた自分はどう対応す
ればいいのだ」という、ひやっとする気持ちは起きて当然なのだ。

さらに第五の理由として、「誰かが落とすと決めただけで、
街ひとつがまるごと壊滅し、何十万もの人間が犠牲になったのだ」という、
その残酷さや不条理さに対する、
顔の「こわばる」ような心理反応もあっただろう。
この場合の「君」は、投下の最終決定を下した当時のアメリカ大統領、
トルーマンということになり、ぼくは笑った直後に、
彼がホワイトハウスで命令書類にサインする光景と、
過去に記録フィルムで見たキノコ雲や、
広島市内の惨状を思いうかべていた。
最終命令者がトルーマンだということを知らない人でも、
「君」がアメリカの軍人か政治家だということは想像できるわけで、
これまた一瞬以下の無自覚反応にせよ、絶対的優位者の残酷性を感じ、
国家総力戦における巨大な政治軍事組織と、その犠牲にされてしまう無数
の市民という、そんな対比をしていた可能性も考えられるのだ。

ならば、ここまでに挙げてきた理由の全部、またはいくつかが、同時に心の
なかや奥底で発生したとき、人の意識はそれをどう処理することになるか。
陽と陰、明と暗、シャレとマジ。それらがこれだけ錯綜して
心中に一瞬で生まれたとき、その大きなストレスを、
時間をかけて徐々に解消していくという反応は、普通取れない。
過電流に対してブレーカーが落ちるように、一瞬で放出発散してゼロにして
しまうための、「緊張」のリセット的な「緩和」行為が必要となるわけで、
それがこの場合の爆笑だと思うのだ。
だから同じ構造ながら、放出してゼロにするのではなく、
ストレスを相手に転化しようとする、
応戦または自己防御反応としての「怒り」も起こりうる。
ことほどさように、笑いというものを分析していくと、
恐ろしく複雑な世界に入ってしまうこともある。
その意味で、これは貴重な経験だったのだ。

なお、「人は一瞬以下で、そんな複雑な心理反応ができるのか?」
という疑問が出るかもしれないが、これはできるし、誰でもしている。
意識下における反応は、高速並列もしくは同時全体的なものであって、
たとえば車が衝突するとかの瞬間、一瞬という時間が「ひきのばされ」て、
悲鳴をあげつついろんなことを考えていたなどという体験談は、
普段意識下でやっていることが、表層に露出していたものと思われるのだ。
また、この「もじり」を作った落語家の心理、
一般化すれば「笑いの生産者の心理構造」についても、ぼくは分析している
のだが、長くなるので、また別に書くことにしよう。

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18 新開地・松竹座の思い出

ぼくの大学時代から広告マン時代、大阪の新世界とともに、
神戸の新開地は、平日でも大勢の人が行き来する、大衆的な、
少し人気(じんき)の荒い盛り場だった。各種商店や飲食店、
映画館や演芸場、そしてストリップ劇場などがあり、
はずれのほうに行くと「場末」の雰囲気になって、
昼間からべろべろに酔っぱらったおっさんが、道路上で寝ていたりする。
それは新世界も同様で、そのすぐ近くに旧遊郭地帯があることも同じ。
双方、演芸場はとうになくなり、いまはさびれ気味であることも同様なのだ。
で、学生時代、気分が落ち込んでいるときなど、ぼくは元気を取り戻すべく、
どちらへもよく行って、半日ほどうろついたのだが、
広告マン時代には代休を取ったときに出かけたりした。
見本市の仕事などで休日出勤がつづくと、その手当をもらうより、
自由な時間が欲しくなる。平日の午後、新世界や新開地をうろつきながら、
「毎日バタバタしてるばかりで、このさき、おれはどうなるのかなあ」
などと考えたりしていたのだ。

そんな時代のあるとき、そうやって新開地の松竹座の前にかかると、
出演者を紹介する看板に桂小米さんの名前があった。
その落語は、学生時代、千日前の自安寺という
お寺であった勉強会で聞いて以来のファンだったし、
吾妻ひな子師匠とのかけあいで人気が高かったラジオ大阪の深夜番組、
『ヒットでヒット、バチョンといこう』も好きで、当時よく聞いていた。
だからぼくは、すぐさま、ほかにどんな人が出ているのかは確認もせず、
チケットを買って入場した。本当に、桂小米の名前だけで入ったのだ。
ところが、その御当人がなかなか出てこない。漫才やマジックなど、
ほかの演目や演者などは忘れてしまったが、とにかく、待っても待っても
肝心の小米さんが登場しない。ついに昼の部が終わってしまい、
ぼくは憮然として外に出ていたのだ。そして、まだ独身で実家にいたので、
帰宅後、母親にそのことを言った。すると母親がいわく、
「そら、出てきはらへんわ。小米さん、今度襲名することになったとかで、
3時過ぎやったか、テレビのワイドショーに出演してはったもの」
「えーっ。なんやあ!」

ただし、憮然として出てはきたものの、ぼくはそのとき、「入場料返せ!」
という気持ちにはなっていなかった。どちらも明治生まれという
年期の入った漫才コンビ、桜山梅夫・桜津多子御両人を初めてナマで見て
梅夫師の三味線にしびれていたからである。
粋な着流し姿で曲弾きを熱演し、たっぷり聞かせておいてピタリと止める。
と同時に三味線くるっとまわして、「こんなん、ぼろくそ!」
場内、うわーっという笑いと大拍手。
「こんなん、ぼろくそ」というのは、「これくらい、軽い軽い」という意味だが、
その息と間の良さといったら、ほんとにまあ。
「自慢の芸を見せて、あれだけの笑いと拍手をもらえたら、
くーっ、演者は気持ちええやろなあ!」と思っていたのだ。
昭和48(1973)年10月、桂小米、二代目桂枝雀を襲名。
だからこれは、その少し前の、ある秋の日のおはなしでございます。←(^o^)

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17 吉本興業女マネジャー奮戦記「そんなアホな!」
(大谷由里子著。朝日文庫)

上記は、全部タイトル。タイトルは長いが、短い時間で読了できる。
肩に力の入ってない文章で、気軽に読め、
吉本の人気タレントも実名で続々登場して、興味をそそるからだ。
ただし、タレントや社員をめいっぱい働かせることについては定評のある
吉本興業で、故・横山やすしのマネジャーをしてたのだから、
なかみは濃くて、煮え詰まっている。
特殊な業界の異常な(?)体験記なのだが、そこにとどまらず、
これは「女性が働く」ということに関するテキストブックとして、
一般性を持つに至った本だと思った。

女子大生が入社する。身辺に有名タレントがごろごろおり、
声もかけてくれる環境なので、遊び感覚の、舞い上がった日々を送る。
すると上司から、「いつまで学生気分でおるんや!」ときつく怒られる。
ショックを受け、そこで初めて本気になって、仕事に取り組みだす。
ところが、仕事を覚えてそれなりの腕がふるえるようになると、
今度は天狗になり傲慢さがでてくる。
たとえば、吉本の金看板を背負っておればこそ、
仕事相手は下手に出てくれているのに、そこに気がつかない。
後輩社員が悩んでいても、「そんなこと、自分で解決してよ。私だって、
それでやってきたんだから」という態度を取る。
さらには、業界外の人間がとんちんかんな依頼をすると、
「知らんのなら、電話してこんといてほしいわ」、などとうそぶいたりする。
だが、そんな唯我独尊がつづくわけはなく、
同僚や後輩社員とのコミュニケーションがうまくいかなくなって、
孤立感に悩むようになる。そして先輩社員にさとされ、
それでようやく眼が覚めて、まともな社員、社会人になっていく……

吉本興業も業務上大きく関与しているマスコミ界。その底辺に近い位置で
広告マン生活を送った当方、高い位置にある業種や会社に
こういう女性社員が間々いることは、体験として知っている。
著者は唯我独尊を脱して人間的に成長したが、そのレベルのまま
古狸と化した女性は、本当に鼻持ちならぬ存在だった。
無論、男性にもその種の社員はいるのだが、マスコミ界(もっと正確に言え
ばテレビ局と巨大新聞社)では、第一線で活動する女性も多いだけに、
それがめだったのだ。そこにはまあ、男性側から見くびられてたまるかと、
ヨロイを着たり虚勢を張ったりするという、
ある種「気の毒な」理由もあるのだろうが。
けれどとにかく、この著者の濃密な体験を、十年二十年という
長い時間のなかへと薄めていけば、一般企業における、
仕事が「できる」女性社員の、一タイプ例になるとも感じた。だからぼくは、
この本を初読したとき、当時高校生だった長女にまわして、こう言った。
「これ、女性が働くということに関する、ケーススタディ的な参考書になって
るぞ。そしてこの著者が偉いのは、過去の自分のいやらしさも、
正直に書いてるというところやな」
そろそろ、下の娘二人にも読ませようかと思っているのだ。

なお、横山やすしという人物に関しての記述内容は、
もっと濃密かつ無茶苦茶。そんななか著者の大谷氏は、
ぐんと年下なのに彼を母親の眼で見るようになり、「横山さんが自分で自分
に押し潰されていっているのがよくわかった」と書くのである。
ともあれ、いろんな意味で「良書」です。

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16 笑いのプロは笑わない

ぼくは普段、友人と雑談しているときなどよく笑う人間だが、
落語や漫才を聞くときには、ほとんど笑わない。
コメディ映画を見に行ったときや、テレビで吉本新喜劇を見るときも同様で、
第三者がその姿を見たら、全然楽しんでないと思うかもしれない。
ところが、実はそうではなくて、「あ。いまの間はよかったな」とか
「ははあ。ここでこういうギャグを入れるか」とか、
「このパターンやったら、次はこう演じるんやろな。
ほうら。やっぱり、そうやった」とか、あれこれ考えて楽しんでいるのである。
また、長年の演芸ファンであり、自分でも笑いの小説を書いてきたから、
「ギャグ」「くすぐり」のパターンは大抵知っている。
だから、よほど意表を衝かれるものでない限り、内心でにやりと
笑っていても、顔に出るほどのインパクトは受けないのだ。
筒井康隆さんに「笑いのプロは笑わない」という主旨のエッセイがあって、
そのなかに「かんべむさしも笑わない」という一節がある。
それを読んだとき、「ああ。やっぱり、そう見えてたんだな」と
納得したわけだが、実際、プロは笑わないのだ。

たとえば、以前ある新作落語の会を、上岡竜太郎さんと並んで坐って
聞いたことがあり、そのときぼくは、どんな部分で上岡さんが笑うか、
横目で観察していたのだが、「ほう。そうくるか」と言いたげな
「にやり」が一、二度あっただけだった。
あとで、「全然、笑ってはりませんでしたね」と言ったら、上岡さん、
「いや。心のなかでは、腹かかえて笑うてるんやけど」
しかし、これは多分、演者に対するエチケット的なフォロー発言だろう。
そのときの演者全員、すべてのネタのなかに、あの百戦錬磨の上岡さんが
腹を抱えて笑うような、そんな要素やインパクトはなかった。観察し、分析し
、それぞれの芸のレベルを判定していたに違いないのである。
また、いつだったか、米朝師匠に密着取材したテレビ特番があり、
そのなかに、師匠が自宅で、「そってん芝居」だったか、
めずらしい噺を弟子たちに伝える場面があった。当方の記憶によれば、
吉朝さん、千朝さん、そして、まだ入門して間もない孫弟子が
正座して聞いていたわけだが、笑っていたのは孫弟子のみ。
あとの二人は、微笑しつつも「吸収」の眼で、師匠の芸を注視していた。
このあたりからも、プロ化の度合いがわかるのだ。

ただし、この「笑わない」ことが人様に迷惑(?)をかけることもあって、
ずっと以前、ある落語会の打ち上げの席で、
枝雀師匠に言われたことがある。
「今日は、あんさんの反応を見ながら演ってたんですけど、
あとで家内(志代子夫人・下座の三味線を担当)から、お父さん、
今日はえらいしつこく演ってはりましたねって言われました。
それでかどうか、ロビーで、帰りはるお客さんを送って挨拶してたときも、
普段より、声かけてくれはる人の数が少なかったですわ」
当方、恐縮して、
「すんません。私、常に考えながら聞かせてもろてますもので……」
というわけですので、演者の皆さま、あしからず御了承ください。

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15 ヒロインの急変

吉本新喜劇は、学生時代以来、テレビで数え切れないくらい見てきた。
無論、ナマで見たことも何度もあるし、
「ギャグ100連発」のビデオも持っている。
「型」がほぼ決まっている喜劇であって、そのなかで男も女も、
倒れるずっこける、叩かれる蹴られる、壁に身体をぶつけられる。
とにかく毎度、派手なドタバタ演技を見せてくれるのだ。
だから当然、登場人物の大半が三枚目なのだが、
話の必要上、二枚目やヒロインも出てくる。
いかに喜劇とはいえ、その彼ら彼女らは、男前や美女なのである。

で、現在のヒロイン役は五十嵐サキと高橋靖子であるが、
後者については一度、テレビ中継で見た演技に仰天したことがある。
筋立ての詳細は忘れたが、例によってドタバタ劇が進行し、高橋靖子に
悪霊が取り付いたということになった。途端に彼女、ワンピース姿の脚を
ガニマタにし、両手をふりまわして叫びながら、暴れまわった。
場内にはアゼンとした感じの笑いが広がり、
彼女は何かのきっかけでもとにもどって、さらにまた急変する。
「へええっ。さすがは吉本。ヒロイン役でも必要があれば、
こんな演技をやるんやなあ!」
当然と言えば当然のことながら、お嬢さんタイプの美人も
ブスの三枚目同様、無茶苦茶なドタバタ演技をやるという、
その落差と体当たりぶりに感心したのだ。

詳しいことは知らないが、この高橋靖子、もとは東映の女優だったそうで、
実は年齢もそう若くはないらしい。だから、ノースリーブのブラウスを着た
女子大生という役柄のとき、「何が女子大生や。いまの女子大生の腕に、
BCGの跡なんかあるかい!」などと突っ込まれ、あわててもう一方の手で
それを隠すという、虚実混在の笑いを作ったこともある。
次は、いつ、どんなドタバタを見せてくれるか。期待しながら、毎週、
土曜日曜の番組表をチェックし、レギュラーや特番を見ているのである。
(追記。最近の吉本新喜劇、笑いの結末やハッピーエンド前に、
「泣かせ」を入れる台本がふえてるように思う。さらっとならええけど、
こってりやるのは堪忍してほしいですな。ルーキー劇団やないねんから)

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14 『ひとり酒盛』と『一人酒盛』

「人」と書いて「にん」と読み、『大阪ことば事典』(牧村史陽編・
講談社学術文庫)には、「持って生まれた人柄」という説明と、
「ニンにないことしたらあかん」という用例が載っている。
現在の大阪で一般的に使われている言葉ではないが、
演芸界では生きていて、「あの噺は、あいつのニンに合うてるな」などと、
落語家が言ったりしているのだ。
ただしこの場合には、持って生まれた人柄、つまり個人の性格や気質という
意味ばかりではなく、落語家としてのキャラクターや、
客がその人に対して抱いているイメージ、さらには人相、体形、声柄など、
きわめて具体的な要素も関係してくるように思われる。

で、ぼくがその「ニン」ということをもっとも強く感じさせられる噺が、
この『ひとり酒盛』または『一人酒盛』というネタであって、
なぜ二種類の表記を書いたかというと、創元社の『米朝落語全集』
第二巻には前者、五代目および六代目笑福亭松鶴師匠のネタを収録した
大判の分厚い書籍、講談社の『上方落語』には、
後者として載っているからである。しかも、実はこの噺、桂米朝師匠と
故・六代目笑福亭松鶴師匠とでは、テキスト自体が違っているので、
骨格は同じでも全体の印象が異なってくる。
噺の世界に、米朝師匠はいかにも米朝師匠らしい、
松鶴師匠はまさに松鶴師匠らしい雰囲気が生まれるので、
「なるほど。これはまさしく、ニンの違いやなあ」と、
大いに納得させられるのだ。

ストーリー自体は簡単なもので、ある男が酒を手に入れたので、
一緒に飲もうと友達を誘う。ところがその友達は、酒の燗をさせられたり、
アテの用意をさせられたり、さんざん使いまわされ、肝心の酒は、
そのあいだに男が一人でほとんど飲んでしまう。
かんかんに怒った友達はタンカを切って飛び出して行き、
それを聞いた第三者が、「喧嘩でもしたのか」と心配する。
すると、いい具合に酔っぱらった男が笑いながら、
「あいつ、酒癖悪いねん」。とまあ、こういう「ひどい」噺なのだ。

そして、米朝師匠の『ひとり酒盛』は、
なぜそんなひどいことになっていくのかということに関して、
ちゃんと理由がつけられている。
独り者の男が友達の近くに引っ越してきたばかりという設定で、
荷物も片づいてないし、当人は壁の崩れを補修するため
壁紙を貼っている最中なので、手が糊だらけ。
だから「すまんけど」と、こう入っていく。これは、昭和二十年代に、
桂南天という師匠から教えてもらった型だというのである。
対して、松鶴師匠の『一人酒盛』にはそんな理由づけがなく、
所帯持ちの男が、嫁さんは留守だが、
自分は火をおこしたり湯をわかしたりするのが面倒だ、
とはいえせっかくの酒を、冷やで飲むのも何だしとうだうだ言って、
友達にその用意を引き受けさせることになる。しかも、米朝型では
友達が自分から引っ越しの手伝いに来てくれるのが発端になっているが、
松鶴型では出かける嫁さんを友達の家に寄らせ、
わざわざ呼んでおいてだ。

ただし、噺が進んでからの「ひどさ」は甲乙つけがたく、
燗をさせつつ、松鶴型は家のなかで糠味噌をかきまわさせ、
ドブ漬けを取り出させる程度であるが、
米朝型は友達を近所のうどん屋に行かせ、
鍋焼きうどんの注文までしてこさせる。
そしてその全体の雰囲気や印象をいえば、米朝型は、
こちらの心理のなかに、普通の人間でも酔っていくうちには
無茶を言い出すこともあるのだという、「納得」が成立するためか、
「ひどさ」の拡大も、それ自体のおかしさで笑っていられる。
だからサゲにも、そんなアホな、無茶言いよるなあという、
「軽み」とでも言いたいおかしさを感じるのだ。
一方松鶴型は、ずぶとく、ふてぶてしい無茶者の独壇場であって、
彼はどてっと座り込んだまま、友達にあれこれ指図しつつ、飲みつづける。
そのエスカレーションを笑っていくためには、
聞き手にある種の「強靱さ」が必要になるわけで、
サゲだってふてぶてしさの駄目押しになるから、
こちらの心理状態によっては、
こういう男は一遍どつき倒さないかんなと思ったりする。
そのかわり、心に強靱さが成立しているときに聞くと、
こんなおかしい噺はないと感じるのだ。

ついでに書いておくと、ぼくが若い時代に抱いていた印象として、
松鶴師匠の噺にはそういう「入りにくさ」を感じる場合が多く、
それを乗り越える気力があるときに聞けば無茶苦茶におかしいネタでも、
そうでないときには圧や重さに「しんどさ」を感じたものだった。
対して米朝師匠は、常にゆるやかな導入スロープを用意してくれるので、
少々疲れているときに聞いても、いつのまにか引き込まれるのだ。
(ただしこちらが中年になって以降、松鶴師匠のテープをあれこれ聞き返し
てもそれは感じなくなっていたので、入りにくさは、
何か別の理由が関係したものだったのかもしれない)。

ともあれ、『ひとり酒盛』または『一人酒盛』に話をもどせば、
これを米朝師匠と松鶴師匠が逆に演じたら、そこには多分、
無理や不自然さが出てくるだろうと思う。どちらがいいか悪いかではなく、
それぞれが、演者の「ニン」に合ったテキストなのだ。
そしてこれは、もとは東京の噺であり、故・六代目三遊亭円生師匠の
テキストも松鶴型だったという。としたら失礼な推測になるが、
それは演じ方によっては、少々「嫌な」噺になったのではないかと思う。
そのあたりも、「ニン」なのである。

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13 記憶と記録

『てんもんや三度笠』の作者、笑芸作家の香川登枝緒さんには、
生前一度だけ、お話させてもらったことがある。
場所は、民放連のラジオ番組コンテスト審査会場で、
朝から夕方までのカンヅメ審査、
その昼休みのことだから、内容はまあ雑談程度のものだった。
ただし、ぼくは上記「てなもんや」の熱心な視聴者だったし、
笑いや演芸に関する著書も何冊も読ませてもらっていたので、
敬意および興味をこめて質問した。
「芸人さんたちの栄枯盛衰については、適宜メモを取っておられるんですか」
すると香川さん、こたえていわく、
「いや。自分の記憶力には自信があるんで、メモは取ってません。
そのかわり、他のことは何も覚えてないし、覚えんようにしてるけどね」
へーっと感心したのだが、あとで考えたら、
失礼ながらこの方式には落とし穴がある。

記憶というものは、本人も無自覚のうちに、欠落したり誇張されたり
他のそれとまじったり、いつしか必ず変形していくもので、
その理由や変形過程は心理学的に説明できる。
ぼく自身も原稿執筆時、「記憶」と「記録」の食い違いに、何度驚かされ、
ひやっとしたかわからないのだ。前に書いた「芝浜」の話だって、
自分では新潟時代の記憶だと思っているが、大阪でも、
NHKなら当時も現在も東京の落語を流しているわけで、
だから実は豊中へ来てからの経験を、
ぼくの脳が、「東京の落語→新潟」と変形してしまったのかもしれないのだ。

そしてもうひとつ、この記憶信頼方式には、文字通り「致命」的な欠陥があって、
本人が亡くなったら、すべてのメモリーがまるごと消えてしまい、
復元不可能となる。だから、膨大な経験と見聞の持ち主たる香川さんには、
未公開分を記録しておいてほしかったなあと、つくづく思う。
いちいち書くのが手間なら、談話の録音でもよかったのだ。
「そうか。なるほど」と思われた演芸関係者様は、どうぞ、記憶よりは記録を。
ほんのちょっとしたエピソードでも、後年、
どれだけ有用有益な資料になるか、わからないのですからね。
無論これは演芸関係に限った話ではないし、
記録に「残さない」という美学の持ち主がおられることも、よくわかるのだけれど。

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12 東の『御乱心』、西の『ためいき坂くちぶえ坂』

学生時代からの雑学派・乱読派なので、
趣味や仕事でいろんな本を読んできた。
もちろん、落語家、漫才師、コメディアン、演芸作家など、
「笑芸」に関係している人の自伝や芸談本を読むのも大好きで、
何度も読み返す本も少なくない。
その一例が、『御乱心』(三遊亭円丈・主婦の友社)と、
『ためいき坂くちぶえ坂』(笑福亭松枝・浪速社)。
前書は、東京の落語界全体を巻き込んだ落語協会分裂騒動を、
発端から結末まで、赤裸々に描いた内幕報告記。
後書は、七代目松鶴襲名問題で起きた一門内のトラブルを機に、
著者が自分の入門以来の道程を見つめ直すために書いた、
これは何と呼べばいいのか、修業記であり省察記であり、
師匠敬慕記でもある青春記なのだ。

そして『御乱心』は、師匠円生や兄弟弟子の姿勢、思惑、
動きなどを克明に記述していった結果、人の「本性」列伝とも言える、
リアルかつシビアな内容になっている。帯に「そのとき男達はどう動いたか。
これはサラリーマン社会の縮図だ」とあるが、まさにそのとおり。
当方、サラリーマン経験者として、会社が揉めたとき揺れたとき、
上司、同僚、部下がどんな反応を示すかという、
そのパターンが手に取るようにわかったのだ。
また、『ためいき坂くちぶえ坂』では、六代目松鶴という人の素顔に驚愕し、
その弟子たちの日常に笑い、あきれ、同情もして、
同時に著者の観察眼と表現力に感嘆した。
師匠の実子である光鶴(後に枝鶴)との初対面時や、
酔ってしつこく加虐的にからまれたときの雰囲気。
貝塚の祭りの夜、道路に眼を近づけ、木の剥片を拾って、
だんじりの車輪の残り香をかぐ部分。
名古屋の安宿で自分のふがいなさに泣き、
気がつくと師匠松鶴も泣いてくれていたという情景などなど。
事例はいくらでもあげられるのだが、それらに共通する「見つめる眼」
「感じる心」「それを表現する文章力」は、ほとんど作家のそれだと感じた。

ノンフィクションであるから、文章のスタイルとして、
『御乱心』と同じく、こちらも「記述」がベースになっているが、
そこにときどきはさまる、というより自然に移行していったらしい「描写」は、
内心で思わず、「うまいなあ」とうなったほどの冴えを見せている。
そういう力が身についているのは、天性としてなのか、
それとも読書体験によってなのか。後者だとしたら、
大量の作品を読んできてなければそれだけの蓄積は生まれず、
その応用的発現もできないはずなので、
この人はかなりの読書家らしいなと思った。さらに、読書経験は関係なく、
落語のプロならそれくらい軽いものなのだということなら、
これもまた別の意味で驚愕要素となる。
とにかく、何度読んでもあきない、興味深い本なのだ。

そして、東西両書の著者が共有しているのは、
性格気質のなかにふくまれる「陰」「暗」「孤」「鋭」といった部分であり、
桂枝雀師匠の用語を借りれば、「皮膚の薄さ」だろうとも感じた。
誤解されやすく非難も浴びやすい特性であって、
その奥底に「やさしさ」があることなど、
周囲からはなかなか理解されないのだ。まして、それを逆転させ、
もしくは秘めつつ、「笑い」の世界に活動の場を定めた者はなおのことに。
というわけで、どちらも上記してきた感嘆が強過ぎるためか、ぼくには、
「ここ、惜しいなあ。この部分を抑えて他と同質にしてたら、
もっとええ作品になったのに」、と思う箇所もある。
しかし、それは著者の好みでそうしたのだから、
口出し無用のことだとも言える。両書とも、どこかの文庫に入って、
もっと広く読まれてほしい本だと思うのである。

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11 もとは、もと・もと・もとだった

懐かしの爆笑漫才、漫画トリオ(横山ノック・フック・パンチ)に
「お笑い消防」というネタがあって、
その冒頭にポスターの標語を言う部分がある。
パンチ「マッチ一本、火事のもと」
フック「小匙に一杯、調味料」
二人、声を合わせて「おまえの頭に養毛剤」
ノック「人の頭のことはほっときなさいよ!」
ここでどっと笑い声が起きるわけで、
ぼくも学生時代テレビで見て笑っていたのだが、
あるとき、桂吉朝さんとその話をしてたら、クイズ風に質問された。
「あれ、何のつながりもないけど、意味わかりますか」
言われてみれば、なるほど確かに、
テンポの良さに笑っていたけど、意味不明なのだ。

そして吉朝さんの解説によれば、あれは本当はこうだったのだという。
「マッチ一本、火事のもと」
「小匙に一杯、味の素」
「おまえの頭に加美乃素」
「人の頭のことはほっときなさいよ!」
ところが、NHKのテレビだかラジオだかでそれをやることになったとき、
なにしろ特定企業や商品の名前は御法度という局だから、
仕方なく上記のように変えて、以後もそれでやっていたのだそうな。
しかし観客の笑いは、テンポの良さに意外性と脚韻の快感が加わって、
絶対に原型のほうが多くなるはずだ。
それをつぶしてまで、商品名まかりならんと言うのは、
これは一種の「傲慢」ではないのか。
理由や意味のあるときには、認めるべきだと思うのである。
第一、プロ野球の中継やニュースでは、阪神よロッテよと、
会社名を言うとるやないか!
なお、フックはいまの青芝フックさん、パンチは上岡竜太郎さん。
こういうことも、だんだんわからなくなってきてるようなので、念のため。