落語・演芸・笑いのノート、1〜10

10  『代書』の参考資料

「あんた、覚えてなはるか。御大典というやつ、古いこっちゃなあ。
あの御大典で提灯行列が出ましたやろがな。あの時あんた、私、
もう子供の仲間から若い衆の仲間に初めて入れてもろたんや。
お前も今日から若い者の仲間入りせえちゅうて……。うれしかったな、あんた。
奉祝と染め抜いた揃いの法被着てなあ、向こうはち巻、きゅっとしめて」
これは、創元社の『米朝落語全集』第七巻に収録されている、
『代書』からの抜粋紹介。
御大典というのは、昭和天皇が京都御所の紫宸殿で即位礼をおこなったことで、
大正天皇の喪が明けてからだから、日付は昭和三年の十一月十日である。
で、それを祝って、全国各地で上記のような奉祝行事がおこなわれたわけだが、
どうやらそのときのものらしい写真が、ぼくの手元にあるので、
下に紹介して、さらにその下に説明を入れておこう。
御覧のとおり仮装行列をやったらしく、読みにくいかもしれないが、
二人の男がかぶっているエントツ帽子に、「奉祝」という文字が書かれている。



ただし、撮影年月日が不明なので、昭和八年十二月の、
皇太子(現天皇)誕生のときという可能性もあるが、
まあ、雰囲気は似たようなものだろう。
しかしこれ、現在のコスチュームショーなどと比べると、
当然のことながら古臭いというか、あか抜けてないというか、
いまの感覚では野蛮な感じさえする。石油缶がみっつほど映っていて、
棒を持った男もいるのは、多分それを叩きながら行進したのだ。トホホ。

とはいえこの連中、別に無頼漢の集まりではない。
酒の「白鹿」の系列、辰馬海上保険(後に合併して興亜火災海上、
さらに先年合併して日本興亜損保となった会社)の、
西宮本店に勤務する社員たちなのだ。
つまり、当時の人々が「はしゃぐ」ときには、
一応は知識階級とみなされていたホワイトカラーでも、
こんな雰囲気になったということだろう。
そのあたり、今度から『代書』を聞かれるときの、イメージづくりの御参考までに。
それにしても、もうちょっとスマートな扮装はなかったんかいな。
実はこのなかには、もうとうに亡くなったぼくの父親、
その若かりしころの姿もまじっているのだが、
わたしゃ恥ずかしいて、どれが父親ですと、よう紹介せんがな。

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9 「笑話化」本能

笑いに関する話なのだが、その前提として、
ムカつく経験談を書かなければならない。
長女がまだ小学校の高学年だったころ、
変な先生、嫌な先生がいると言うので、昔はもっとひどい、
いまなら大問題になるような教師もいたのだという話をしてやった。
高校時代、生徒が靴のかかとを踏んでいたり、
下校時に制帽をかぶってなかったりすると、
いきなり駆け寄ってつかまえ、殴りつける教師がいた。
そればかりか、殴っているうちに興奮してくると、相手の顔や耳に噛みつく。
逃げると追いかけて、石を本気で投げる。
誰に言っても信用しないのだが、すべて事実であって、嘘だと思うなら
大阪府立桜塚高校、昭和40年前後の男子卒業生に聞いていただきたい。
肥塚正太夫という数学の老教師である。

で、ぼくは、そういう面ではごく普通の生徒だったので
被害にあったことはないのだが、そういう教師が嫌いで嫌いで、
しかも自分のその蛮行を一種の「売り」にしている気配には、
唾棄すべきものを感じていた。そして三年の二学期だったある日、遂に切れた。
友人と二人で下校時、彼が制帽をかぶってなかったので、
例によって殴りかかられた。
プッツンしたぼくは、馬鹿なことはやめろ、そんなことをして何になるのか、
第一生徒たちは反省するどころか、陰で笑いものにしてるではないかと、
ぶちかましたのである。
相手は顔を真っ赤にし、鼻息を荒くして怒ったのだが、
こちらは服装を整えているから手を出せず、そのまま足早に遠ざかっていった。
ところがこの爺さん、翌日全教室を覗いてまわり、
ぼくが何年何組の誰であるかを確認して、
「わしに逆らうやつは、絶対入試に落ちる」などと、他クラスの授業で言いふらした。
不安定な心理状態にある受験生に、こんなことを言うなど、
それだけで教師失格なのだ。

さて、お待たせしました。ここからようやく、笑いの話に入るのですが。
この経験談を聞いた長女が、「それで、どうなったの」と聞いたので、ぼくはこたえた。
「別にどうもならへん。第一志望は落ちたけど、
関学と同志社に通ったんやから、まあ文句はないやろ。
ざまみさらせと思うただけや。あとで聞いたら、その教師は、
こっちが卒業した次の年やったかに、病気で死んだらしいけどな」
長女は「ふうん」とつぶやき、それでその場の会話は終わったのだが、
何日かしたら、期待の笑顔で眼を輝かせて、せがんできた。
「お父さん。こないだの話、もう一遍聞かせて」
「え。何の話?」
「ほら。わしにさからうやつは入試に落ちるって言った先生が、
お父さんがバーンと合格したら、次の日、死んだっていう話」
ぼく、思わず声をあげて、
「違う違う。次の日やなしに、次の年やがな!」
しかし考えてみたら、話としては、次の日に死ぬほうが格段におもしろい。
「こんな子供でも、無意識のうちに、話をおもしろくしようとするんやなあ」
感心し、人には「笑話化」本能とでも呼ぶべき、意思機能があるのではないか、
お伽噺や民話のなかの「笑い」の発生源は、これではないかなどと思っていたのだ。
それともこのエピソード、広く「虚構化」本能ととらえるべきで、
それを長女が笑話にしてしまったのは、当方の育て方に問題があったからだろうか。

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8 『昭和任侠伝』

桂春団冶師匠の一門に、平成5(1993)年に五十一歳で亡くなったのだが、
桂春蝶さんという人がいた。虚弱型の痩せた身体で、顔も細くて青白く、
よく、まくらでこう言って笑いを取っていた。
「仁鶴さんなんかが出てきはったら、陽気な雰囲気で盛り上がりますけど、
私が出てきて座ったら、なんじゃ、結核患者がひなたぼっこしてるようで……」
困ったような、申しわけながっているような、あるいはすねたような、
そんな口調や表情がおかしくて、学生時代以来、
ぼくの好きな落語家の一人だったのだ。

そして、この春蝶さんには『昭和任侠伝』という自作の落語があり、
これは当時人気の高かった東映のヤクザ映画、
高倉健や鶴田浩二が創る世界を下敷きにしたネタであって、
任侠世界に憧れる「いちびり兼あかんたれ」の主人公が、やたらにおかしかった。
長くなるので引用は省略するが、マニアなら御存じ、「石鹸落としてますよ」とか、
「誰やと思うたら、おまえ、角の八百屋の子やないか」など、
いつ聞いても笑ってしまった。亡くなったとき、夕刊紙の追悼記事に、
「若いころは、勢いのある、いい噺家だったんだけど」
という意味のコメントが載っていたと記憶するが、
それがちょうどこのネタの受けていた時代で、
それを実証する記録も残っているのだ。

昭和45(1970)年から46年にかけて、上方落語がブームだった時期があり、
朝日放送では「1080分、落語会」という、早朝から深夜までぶっとおしの、
いまや伝説化している超ロング落語会を開催した。
そしてぼくは、すでに会社勤めをしていたから仕事があって行けなかったが、
後日発売された、その模様を収めたLPセットは買った。
そこにこの『昭和任侠伝』も入っており、場の雰囲気も作用してだろうが、
春蝶さんは、まさに売れっ子の「勢い」を示している。
このLPセット、阪神大震災で他のレコード類とともに割れてしまったので、
記憶に頼って書くことにするが、出囃子が鳴って姿を現しただけで、
ものすごい「出喝采」が起き、それにまじって、
「春蝶!」「待ってました!」「バタフライ!」などという声が、
場内のあちこちから投げかけられる。そしてその客席を眺めつつ、
高座まで進んで座った気配があり、春蝶さんの第一声が、
どなりつける口調で、「やかましいなっ!」。
これでまた、どーっと会場の揺れるような笑いが起き、
すでに完全に、客を「つかんで」いるのである。

また、長らくパーソナリティを勤めていた「ヒットでヒット、バチョンといこう!」や
「男と女で、ダバダバダ」(どちらも、ラジオ大阪)もおもしろく、よく聞いていた。
山陽特殊製鋼が、当時としては戦後最大の倒産をしたのが、
昭和40(1965)年の3月。後日、上記「ダバダバダ」でその話題が出たときには、
春蝶さんがごく自然な口調で、「あのヤマトッコーは」云々と言い、
なるほど、あの会社はヤマトッコーと略すのか、
さすがは証券会社のサラリーマン出身だなと、大いに納得したこともある。
ところが後年、この番組には一度ゲストで呼んでもらったことがあるのだけれど、
十分か十五分かの会話が、なぜかぎこちないままに終わってしまった。
ラジオでの会話は、大抵の場合、
たとえ一瞬だけにせよツーカーの呼吸が成立するものなのだが、
このときにはそれがなく、こちらはまだ若造だったし、
受け入れてもらえなかったのかと感じていたのである。
としたら、ぼくが思っている以上に、「むつかしい」人なのかもしれないなと。

で、それはそれとして、亡くなった原因は、
長年にわたる過度の飲酒だということで、
それが理由になって、晩年には仕事も減っていたらしい。
平成4(1992)年の夏、桂小文枝師匠の「五代目文枝襲名披露」パーティーが、
大阪ロイヤルホテルであり、その押し合いへしあいの会場内で
春蝶さんを見かけたのが、最後になった。
スーツ姿だったが、見た瞬間の印象として、
「何やしらん、しなびて、小さくなってはるなあ」と感じた。
良い方に推測すればゴルフ焼けだったのかもしれないが、
顔色もくすんだ茶色に見えたのだ。

ちなみに、先年、弟子の昇蝶さんの『昭和任侠伝』を聞く機会があり、
噺が進むにつれて、口調といい何といい師匠に生き写しになってきて、
遂には顔まで春蝶さんに見えてきたので、驚嘆したことがある。
ただ気の毒なことに、このネタを演じるためには、いまの若い客に、
そもそも東映の任侠映画というもの、そのストーリーの特長や、
往年いかに人気があったかを知らしめておかなければならない。
昇蝶さんはまくらで、まずその説明から始めたのだけれど、
客がそれをどれだけ実感できたかはわからない。
「このネタ、落語マニアが幻の名作として聞く分には受けるかもしらんけど、
一般の客向けとしては、消えていかざるをえんようやなあ……」
そう感じ、時代の変化を思っていたのだ。しかし何にせよ、春蝶さんは好きでした。

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7 漫才番組を見て思う

「笑い」の小説を書いてきて、その面に関する自分の感覚には
一応の自信を持っていたのだが、一時期、それを失いかけたことがある。
1980年代の初めだったか、テレビで「漫才ブーム」というものが起き、
どの局もレギュラーや特番を組んで、次から次へと、東阪の漫才を流した時期があった。
当然、ぼくもあれこれ見ていたのだが、おもしろいとは思わないコンビが大半だった。
「現在、こういう笑いが受けてるのだとしたら、おれの感覚がずれてきたのか?」
そう思って不安にかられ、「笑い」の短編やショートショートを書くときにも、
しばらくは、ホームランか三振かという無茶がしにくかったのだ。

ところが、ブームが終息して気がついてみると、
ぼくがおもしろいとは感じなかったコンビは、東阪とも消えていたり、
別れていたりし、変わらず第一線でやっているのは、
こちらが「うまい」「おかしい」と思った人たちばかりだった。
「な〜んや、そうやったんか。おれ、ブームの派手さに幻惑されてたんや」
安心安堵し、プロとしての反省もして、現在に至る。
だから、在阪のテレビ局が流す漫才特集を見ていても、ふらついたりはしない。
出てきた当座から、「あ。こいつら、おもしろい」と思っていた吉本のコンビ、
「ティーアップ」と「フットボールアワー」が、その後、
揃って賞(名称失念。失礼)を取ったことを知り、
「ほうら、みろ」と、ほくそえんだりしているのである。

もっかの感想を言えば、同じく吉本の「笑い飯」は、獰猛な顔をした側が、
軽い「おかしさ」をただよわせるようになったら強いと思うのだが、まだちょっとわからない。
五人でやってるグループ、「ザ、プラン9」。これは中央に立つリーダーの、
骸骨に皮を張ったような顔に、貧相と紙一重みたいな不思議なおかしさがある。
リーダーなのに皆からやりこめられるという、
昔でいえば漫画トリオや宮川左近ショー式の定番スタイルだが、
ネタを増やし、残り四人のキャラクターが立ってきて、
役割分担とその入れ替えや混戦などができるようになったら、
破壊的な笑いを生み出せると思う。
ところで、ティーアップの前田氏。過労なのか飲み過ぎなのかは知らないけど、
頬がこけてきている。以前のように、もう少しふっくらしたほうがいいと思いますがねえ。
フットボールアワーの「のんちゃん」でしたっけ、
顔の不細工さで売り出したのに、偉いもんですな、
売れてきたら、ええ顔になってきてますがな。

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6 『こぶ弁慶』

短編小説の構成法やバランス感覚と、比較対照しながら聞いていると、
この『こぶ弁慶』は、実によくできた、みごとなネタだと思う。
ただし演者が、大津の宿にかかる『宿屋町』の部分から、たっぷりやるときには、
聞いている分には、流れに沿って意識や想像が移っていくので、
何の違和感もないが、読ませるとしたら、イントロが少々長くなるきらいがある。
(無論、聞かせる噺と読ませる話は別なので、
これはあくまで当方の比較思考である)

ところがこれを、喜六・清八の二人が宿屋に上がるあたりからと考えると、
「結構」がぐっとひきしまる。
風呂に入ってから、膳がはこばれる。酒を飲み、
人が集まってきて賑やかになるという、あのあたりからのストーリー進行。
壁土を食う男が現れて、皆が感心するので調子に乗って大量に食べ、
高熱を発して京都へもどる。
そのうち、肩にイボみたいなのができ、それが次第に膨れてきて、
遂には人面瘡の弁慶になって物を言い出すという、
そのスピーディーかつ意外な展開。
さらには、蛸薬師さんへ願いにいった帰り道、
大名行列に行き会ってからの派手なクライマックス場面など、
まったく、ドタバタ小説のお手本といってもいいみごとさなのだ。

そしてそれは、このネタのできたのがいつなのかは知らないのだが、
昔から延々百何十年か二百何十年か、
数多い演者がトータル無数ともいえる回数、客の前で演じつづけ、
そのときどきで、受けた部分は残してふくらませ、
ダレた部分は削るという、その作業を繰り返してきた結果だろう。
現場の眼と耳にさらされつづけたネタは、遂には、
まるで小説や劇作の理論にのっとって構成したような、
「均整」「均衡」を持つに至るのだ。
(というより、それらの理論も元来、無数の事実をもとにしてできたわけなのだ)

また、上方落語の一大魅力である下座の「はめもの」、
すなわち、大名行列のときの「大拍子」、弁慶が殿様の駕籠を止めるときの「ツケ」、
そして見栄を切って名乗りをあげるときの「一丁入り」などが、
これまたみごとな効果を上げるので、毎度わくわくする。
わくわくしつつ、「小説において、このはめものと同等の効果を文章で出すには、
どういう仕掛けを加えればいいのかなあ」などと、考えるのである。

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5 テント氏を大川周明に

吉本の漫談家に、「テント」という人がいる。
以前、関西地区のみのオンエアだったのかもしれないが、
ADSLか何かのテレビCMで、
振り袖姿の女性のとなりで腹話術の人形みたいな男が、ンガッとかグギョッとか、
意味不明の音声を発して、肩や腕をぎくしゃくと動かすやつがあった。
その男がテント氏で、とても生身の人間には見えなかったのか、
放映期間中、あれはCG映像の合成かと問い合わせがあったらしい。
とにかく奇妙な芸人で、マニアには非常に受けるそうだが、
『上岡竜太郎かく語りき』(筑摩書房)のなかでも解説されているように、
広く一般に受けるというタイプの芸ではない。
そしてそのテント氏、最初は大空テントと名乗っていたのだが、
なぜテントに改めたかについて、漫談のなかでネタとして語っていたことがあった。
「大空テントというてたら、よく、大空まゆみさんと間違われたんです。
それで、オーロラ・テントに変えたんですけど、そしたらまた、間違われたんです」
「誰と?」と思わす間があって、「オーロラまゆみさんと……」
そんなアホな。どこぞの世界に、オーロラまゆみてな女優がおるかい。
ええかげんにしなさい! いくらでもつっこめそうなボケであって、
そのバカバカしさに、ぼくは思わず笑ってしまったのだ。
また、酒の場で二、三度顔を合わせたことがあり、世間話をしたときには、
ごく淡々と、礼儀正しくしゃべる人だった。

ところで、そうやって個人にもどったときのテント氏、
痩せた体形や頬のこけた顔、眼鏡をかけた神経質そうな表情などが、
戦前、国家主義を唱えて三月事件や5・15事件の黒幕にもなった思想家、
戦後の東京裁判ではA級戦犯にも指定された、大川周明にそっくりである。
だからぼくは、もしそれらの事件や東京裁判を映画やテレビドラマにするとしたら、
このテント氏を大川周明にすればいいと思っている。
大川周明は東京裁判の審理中、前の席に座っている東条英機の頭を叩いたり、
合掌して大声でお経をとなえたりし、発狂したと判定されて免訴となった。
刑をのがれるため、発狂の演技をしたのだという説も出たが、
真相は脳梅毒の悪化であって、
収容された松沢病院でマラリア療法を受け、全快したという。
そして、超優秀な頭脳の持ち主であった証拠には、退院後、
イスラム教の聖典「コーラン」を、確か日本で初めて全訳しているのだ。
顔や姿の似ているテント氏が、この大川周明の
「マッド」な雰囲気も出すべく本気で演技したら、
それは迫真のものとなるに違いないと思う。
映画ならびにテレビドラマの関係者様、機会がありましたら御一考を。

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4 歌さん、惜しかったな

桂歌之助さんが食道ガンのため五十六歳で亡くなったのは、
平成14(2002)年の年頭だった。勉強会や独演会をよく聞きにいき、
SF作家の先輩堀晃さんや一門の若手連中と一緒に、
飲みながら馬鹿話をしたり、拙作『泡噺とことん笑都』という長篇の
モデルにもなってもらった仲だから、
もちろん、通夜にも葬儀にも出席させてもらった。
そしてその席で思っていたのは、「歌さん、惜しかったな」ということだった。
では、何がどう惜しかったのか。これを説明するためには、
まず歌さんの性格や気質を紹介しなければならないのだが、
それを実にみごとに、的確に表現した文章がある。
亡くなった翌年、故人のエッセイや川柳、自作の新作落語などを
選択収録して発行された『桂歌之助』(ソリトン・コーポレーション)という書籍に、
長年の友人田中靖治氏が寄せた「追悼・桂歌之助」というそれであって、
さすがに学生時代からの故人を知る人だけに、ぼくが漠然と思っていたこと、
感じていたことを、すべて言語化しておられる。

引用させていただくなら、建築家志望で名門大手前高校から
東京工大をめざしていた北村和喜少年、
確か二浪したあと、米朝師匠に入門して扇朝の名前をもらったのであるが、
「共に進学を志した友たちは順調に進学し、一流企業に就いているのに、
自分はまだかけだしの落語家。扇朝は永く、
若き日の星雲の志を断ち切れずにいたように思う」、
「きちんとはしているが、愛嬌のない固い噺。それは理詰め思考の現れであって、
肩ひじ張っていて、それを打ち破ろうとすると、時に力み過ぎてしまう。
そんな扇朝の落語が徐々にほぐれてきたのは
歌之助になってから(昭和四十九年)だろうか。
それでも相変わらず芸人らしい愛嬌に欠けていた。
無理に愛想をするとぎこちなさが現れる」。
けれども、「何でもよく吸収できる頭の良さ、
ガツガツしない野心味のない人柄の良さに、
彼を中心に人の輪が大きくなっていった」、
「芸人らしい愛想もせず、とっつきも悪く、よく理屈をこねる。
無骨者であるにもかかわらず、何かしら好々爺然としたところがあった」云々。

まさにこのとおりであって、これらを土台または背景にした歌さんの落語、
乗ってないときや、あまり体調の良くなさそうなときには、「重く」なっていた。
特にそれが『子はかすがい』といった、ハッピーエンドに終わるとはいえ、
途中に「陰」や「重」をふくむネタであったときには、
こちらの気分が浮揚せず、下がったままで終わったりした。
それはネタではなく演者の問題であると、ぼくは思っていたのだ。
そのかわり、「軽く」やれたときには、知的な雰囲気がプラスに働くわけで、
あるとき聞いた『ねずみ』は、
それこそ途中の「隠」や「重」の要素が有効な伏線となり、
ぼくはサゲで笑いながら、「そうや。歌さん、こういう噺をやったらええねや!」
と思っていたし、そのことを御本人にも言った記憶がある。

で、ここでようやく「惜しかったな」にもどるのであるが、
田中氏の書いておられるあれこれ、
ぼくが思ったことで言うなら演者としての問題を、歌さん、あと少しで、
ひっくるめて解決できそうになっていた。
離脱、クリアー、ふっきれ。そういう一挙解決が、何かひとつのきっかけ、
発見、悟りがあれば、できそうになっていた。
五十台後半に入っていた年齢ゆえに心が安定してきていたのか、
それとも何か芸の上の開眼があったのか。
それは確かめないままに終わったが、この「もう少しで」という雰囲気は、
長年落語を聞いてきた当方の「印象」であり「勘」であって、
本当に、見えていたと感じるのだ。それまでの歌さんを、
錘をつけたまま揚がろうとしていた凧の「しんどさ」にたとえたら、
解決して錘をはずした凧は、いかに軽く、自由に、大空で舞ったことかと思う。
まったく、「歌さん、惜しかったなァ」なのである。


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1 夏の浪曲は耳に障る?

演芸に関してもっとも古い記憶をさぐると、漫才でもなく落語でもなく、
浪曲、浪花節だということに思い至った。
幼稚園時代、真夏の某日、桂枝雀師匠の表現を借りるなら、
「頭の上から、おひいさんが、カーッ!」という、やたらに暑い午後、
人影のない蝉しぐれの住宅街 を歩いているとき、
近くの家で大音量でかけているラジオから、浪曲が聞こえてきていたのだ。
昭和20年代の終わりだから、先代(二代目)・広沢虎造の活躍期だが、
聞こえていたのが、彼だったかどうかは覚えていない。
しかしまあ、その声の太さ重さ、暑苦しさたるや、
熱暑や蝉しぐれともあいまって、言語に絶しましたな。
だからぼくは、長らく、浪曲は「暑苦しい」ものだと敬遠していた。
先代虎造の「森の石松」が絶品であることを知り、
三門博の「唄入り観音経」にポップ(?)したのは、
大人になってからなのである。

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2 落語の第一記憶

これは父親の転勤で新潟にいた、小学校の1年から4年まで、
つまり昭和29(1954)年から、32(1957)年までのうちのいつかだ。
当時、新潟にはまだテレビ放送はなく、ラジオも一家に一台、
茶の間に置いてあって皆で聞くという、そんな時代だった。
NHKは第一と第二、民放は新潟放送一局のみ。
ある夜、第一か新潟放送かで何かやっていて、
それが落語というものだとは、当方まだ知らないわけなのだが、
終わりに近づいたころ、母親が感心したような声で言った。
「ああ。これは、おかみさんが偉いわ」
これ、何だかわかりますか。
ヒント。新潟だから、上方落語ではなく東京のネタです。
かすかな記憶では、確か、財布を拾ったとかどうとかいう話でした……
そう。多分、いや十中八九、『芝浜』だったんですね。
とすれば、八代目・三笑亭可楽だったのかと思うのだが、そこまではわからない。
しかしとにかく、父親も母親もじっと黙って聞いてたんだから、名演だったのだろう。
無論、ぼくは子供だから、聞き入っていたわけではない。
その横で、雑誌『少年』でも読んでる耳に、「聞こえて」きていただけなのだが、
『芝浜』を落語の第一記憶にしているとは、乙な坊ちゃんじゃござんせんか。


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3 漫才の聞き始め

両親とも関西の人間だから、東京の漫才が肌に合わず、聞かなかったのか。
それとも、親は聞いていたけど、こちらの印象には残らなかったのか。
とにかく、新潟時代のラジオ記憶に、なぜか漫才はまじってないのである。
で、また父親の転勤があって、小学校5年の春からは
大阪府豊中市に住んだのだが、えらいもんですな、
それまで関東文化圏の辺境(?)で暮らしていたぼくが、
あっというまに大阪弁を覚え、ラジオやテレビの演芸番組を楽しむようになった。
だから、「漫才の聞き始めは、このコンビ、このネタだ!」という特定もできない。
ダイマル・ラケット、かしまし娘、いとし・こいし、捨丸・春代、
三平・四郎、漫画トリオ、ワカサ・ひろし、横山ホットブラザーズ……
子供のことだから、演芸場へはまだ行ってなかったけど、昭和33(1958)年以降、
ラジオやテレビで、聞き倒し、見倒しましたな。そして、延々現在に至る。
というわけで、この先はそれらの順不同紹介。
更新分を読みやすいように、これからは、上へ上へと足していきます。
「上へ上へと足したら、文字が重なって読みにくいやろうと思う」
「違うがな。前の文章の、その真上に足すねや」
「さあ。そやからわたい、真上に足したんだ」
以下、こういう「くすぐり」は、いちいち元ネタを説明しませんので、あしからず。

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