落語・演芸・笑いのノート、21〜30


30 わからん芸名

『落語系図』という本がある。昭和の初めに発行され、昭和三十年(1955)
に名著刊行会から、復刻版として出版されたものである。
で、つれづれなるままに眺めていると、東西落語家の系統や人脈が
よくわかっておもしろいのだが、別の意味でおもしろいのが、
漫才以前の萬歳や、色物連中の芸名表。
荒川藤男・光月、若松家小正・正右衛門、中村小市、松旭斎天一……。
これらはいかにも芸名らしい芸名だが、なかには外国風の名前もまじってい
る。当時はモダンでハイカラに聞こえたのだろうけれど、
いまとなっては古くさく感じたり、意味不明のものもあるからである。

たとえば、昭和の初めごろの萬歳で、宮川セメンダルという名前が載ってい
る。セメントの樽でセメンダル。多分小太りした人だったのだろうが、
現在では、こういう命名はしないに違いない。
セメンダルどころか、ビヤ樽さえ、あまり見かなくなっているのである。
(あの、若い人に言っておききますけど、このビヤ樽は、
ビヤホールで見かける、金属のあの樽のことではありませんよ。
もっと大型の、木製のやつのことなんですよ)

また、明治中期から大正にかけての一覧表のなかに、曲芸・江川ハンステ
ーという名前もある。ハンステーとは、いったい何なのか。
八重洲という地名は、ヤン・ヨーステンというオランダ人の名前からつけられ
たものだが、これも外国人の名前の変形なのだろうか。
ちなみに、現在でも曲芸に江川マストンという名前があるが、
このマストンも、ぼくにはわからない。
まさか象の先祖、マストドンから取ったのではなかろうと思うのだが。
そして、一番わからないのが、昭和三年ごろの吉本興業に所属していた
奇術師のコンビで、その名前が、ヘニチックとサモバイ。
ヘニチックとサモバイ!
あなた、わかりますか、この芸名の由来なり原典なりが。

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29 「困り」のおかしさ

桂枝雀師匠の笑いの理論のなかに、「困りの笑い」というものがある。
この場合、大阪弁のアクセントで発音する「困り」は、
困惑という意味であって、その内容は概略こういうものである。
「人が困っている様子も、笑いのタネになる。ただしその困り具合は、
第三者がマジになってしまわない程度の、薄いものでなければならない」
そしてその代表例として、ぼくは、「毎度ォ、皆様おなじみのォ〜」で始まる、
宮川左近ショーが好きだった。

リーダーが故宮川左近師匠。三味線が暁輝夫さん。ギターが松島一夫さん
。浪曲ショーと銘打った、あのコミカルな舞台がいまも眼にうかぶ。
暁さんは、左近師匠が浪曲をうなるとき、わざと「はすっぱ」な調子で、
義理かやっかいのように、曲師の役を勤めたりする。
「まだかいな。そんな古いモンを延々とやって、お客さんが嫌がってはるや
ないか」。そう言いたげにじろりと睨み、睨まれた左近師匠、
眉をぴくぴくさせ、困ったような上目遣いで暁さんに視線を走らせる。
このときの表情が実におかしかったのだ。
また、松島さんが着物の裾をはしょってふざけたりすると、
これまた困ったような、情けなさそうな顔で、斜め下から見上げたりする。
その姿勢も、どこかおかしかった。
上目遣いとか斜め下からとか、つまり、ぼくの記憶において、
左近師匠は常に、こころもち足を開いて半身にかまえ、
腰を少し折って右手を突き出しているのであり、その右手には扇子がしっか
りと握られているのてある。

そして、その姿勢を取っているのは、つまり得意の浪曲で客席をうならそう、
年期の入った芸で「決めよう」とするためなのだが、それをなかなか実行さ
せてもらえない。それが「困って」「情けない」のであり、
男前で恰幅のいい人が、そうやって困って情けながっているところが、
こちら笑いのを誘ったと、まあ、こういうことなのだ。
おまけに、その困った情けない顔は、肝心の浪曲をうなったあとにも示され
る。二人からぼろくそに言われて弁明や反論をしつつ、
ふっとその視線を客席に向けて愚痴るのだ。
「考えてみたら、お客さんも冷たいわ。わしがこないして、
汗かいて浪曲やってんねや。ちょっとくらい、拍手くれはってもエエと思うね
ん。おんなじ(同じ)ニッポン人やないか……」
無論、当然、ここで爆笑と拍手が起きるのだが、ぼく、この愚痴が好きで好
きで、なかんづく「おんなじニッポン人」やないかという部分には、
ひっくり返って笑うという気持ちになったものだった。

「自分の熱演に対して、少しくらい拍手をくれてもいいではないか。何となれ
ば……」。その理由として突然、ニッポン人の出てくる意外さ、アホらしさ。
しかし考えてみれば、「同じ大阪の人間やないか」では狭すぎてマジに
なるし、「同じ人間やないか」では広すぎて抽象的になってしまう。
「おんなじニッポン人やないか」という、そのほどあいの良さと、
ニホン人ではなくニッポン人という破裂音のおかしさに、
また笑ってしまっていたのだ。まったく、絶妙でしたね、あれは。

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28 枝雀師匠の思い出(1)

落語会の楽屋や打ち上げの席などで、桂枝雀師匠とは
随分いろんなお話をさせてもらった。SFアドベンチャーという雑誌で、
「笑い」をテーマに対談させていただいたこともある。
そんなわけで思い出すことも多いので、書けるときに、
順不同で書いておくことにする。

枝雀師匠は、なにしろ「まるく、まるく」「万事気嫌よく」をスローガンにしてお
られたくらいだから、世間話をするときでも笑顔を絶やさない方だった。
ただし、スローガンが「努力目標」だったことでもわかるように、
本当は「陰」や「鋭」の部分の強い人だった。
だから世間話のなかで、こちらが何か言って師匠が笑うという場面でも、
思わずとか、心の底からという反応は少なかった。
それは、こちらも笑いの仕事をしているし、人の言葉や表情には敏感な人間
なので、リアルに感じ取れるのだ。だから、思わずの笑い、
心の底からの笑いを示してもらったときのことは、よく覚えている。

前者は、枝雀師匠、べかこ(現・南光さん)、雀松さんなどが揃っていた、
厚生年金会館中ホールの楽屋での話。
当方、べかこさんと話をしていて、某女性の話題を出した。
別にやばい話や色っぽい話ではなく、以前、その女性が、
べかこさんも出ていたあるパーティーに、
同席させてもらえたので喜んでいたという、そういう内容である。
「へえ、そうですか。それ、誰ですやろ」
「そのとき、あんたとダンスもした人でっせ」
するとべかこさんが笑いながら、
「ダンスも仰山としましたからなあ」
当方とっさに、
「おおっ、これこれ」
このとき、まさに思わずという感じで、枝雀師匠が「ぶふっ!」
その反応がお弟子さんたちにとっても「嬉しい」ことだったのか、
べかこさんは「SF作家が、これこれとはどうや」と突っ込み、
雀松さんは「そやから私、ときどき間違うて、センセやなしに、
兄さんと言うてしまいますねん」と盛り上げてくれたのだ。

また後者は、桂小米さんが会主、枝雀師匠が助演だった
コスモ証券ホール落語会での話。
無事におひらきとなって、楽屋で小米さんが挨拶したのだが、
きちんと分けた髪と、スーツにネクタイという姿のそれに、
当方つい「いちびり」癖が出て、「何やしらん、サラリーマンの転勤みたいや
な」と言ってしまい、皆がどっと笑った。
そのあと、打ち上げで飲んでいい気分になって外に出て、
なかみは忘れたけれど小米さんに何か言ったら、
小米さん、にやにや笑いながら、「どうせ、サラリーマンですからな」
それに対して当方も笑いながら、「あっ、根に持ってる。
山陰者(さんいんもの)だけに、だいぶ根持ちやな」。
途端に枝雀師匠が、驚くほどの大声で「あははははっ!」
かつ、本当におかしがって喜んでいる顔と口調で、
「それ、いつか使わせてもらいますわ」

小米さんは鳥取県出身なので、それまで、山陰→ネクラという
タモリ式の冗談を言ったこともあった。それで上記のように言ったのだが、
実は枝雀師匠も鳥取出身の家系なのだった。
そのときはそれを忘れていたので、笑い声を聞いて
一瞬ヒヤッとしたのだけれど、次の瞬間には、ほっとしていた。
一瞬とか次の瞬間とか書いたが、これは半瞬と半瞬、双方で一瞬という、
ほとんど同時の反応である。そしてそのあと枝雀師匠、語りかける口調で、
「私もほんまは根持ちですねや……」
山陰者という言い方、根持ちという言葉とともに、このあたりにも、
あのはじけたような笑い声の原因があったのかもしれないなと思う。
ほかにもいくつか、思わず、あるいは本当に笑ってもらった記憶はあるが、
ここに書いたふたつを、もっとも印象深いものとして覚えているのである。
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27 どうすりゃいいのかこの多さ

このノートをスタートするとき、四十年来の上方落語ファンとしては当然、
好きな落語、興味深い落語、うきうきする落語、もうひとつ没入できない
落語など、様々なネタについても書いていこうと思っていた。
というより、むしろそれをメインにし、他の諸芸の話を
いろどりに添えるつもりだったのだ。ところが、それら書きたいネタが、
次から次へとうかんできていくらでも増えるので、
ちょっと手の着けようがなくなり、困惑している。
これまでに取り上げたのはほんのいくつかで、
いま備忘のために列挙しておけば、当方の頭のなかには、
まだこれだけの「書きたい」ネタ、「書ける」ネタが控えているのだ。

足上がり、愛宕山、阿弥陀池、鋳掛屋、池田の猪買い、市川堤、市助酒、
一文笛、犬の目、色事根問い、いらち車、牛の丸子、馬の田楽、江戸荒物、
近江八景、おごろもち盗人、唖の釣り、鬼アザミ、帯久、親子酒、親子茶屋、
書き割り盗人、景清、掛け取り、風の神送り、かわりめ、雁風呂、
京の茶漬け、菊江仏壇、肝つぶし、鬼門風呂、近日息子、禁酒関所、
口入れ屋、くっしゃみ講釈、蔵丁稚、くやみ、鍬形、稽古屋、
けんげしゃ茶屋、高津の富、鴻池の犬、小倉船、五光、骨つり、仔猫、
米揚げいかき、鷺取り、桜の宮、佐々木裁きき、皿屋敷、三十石、
算段の平兵衛、三枚起請、鹿政談、地獄八景亡者戯、七度狐、七段眼、
始末の極意、蛇含草、茶漬け間男、正月丁稚、崇徳院、相撲場風景、
住吉駕籠、千両みかん、崇禅寺馬場、太鼓腹、大丸屋騒動、高尾、
蛸芝居、立ち切れ線香、たぬさい、狸の化寺、莨の火、ちしゃ医者、
天狗裁き、天狗さし、天神山、土橋万歳、花筏、壺算、鉄砲勇助、
天王寺参り、道具屋、動物園、胴乱の幸助、夏の医者、ぬけ雀、猫の忠信、
猫の茶碗、寝床、ねずみ、軒付け、野崎参り、八五郎坊主、はてなの茶碗、
花筏、七度狐、質屋蔵、百人坊主、百年目、兵庫船、日和違い、貧乏花見、
ふたなり、不動坊、舟弁慶、べかこ、へっつい盗人、へっつい幽霊、堀川、
饅頭こわい、深山隠れ、向こう付け、眼鏡屋盗人、餅屋問答、厄払い、
宿替え、宿屋仇、宿屋町、八橋船、八五郎坊主、遊山船、寄合酒、
らくだ、悋気の独楽……

これでもまだ、抜けているものがあるかもしれず、
しかもこれらは、同じネタでも演者によって演出が違い、
受けた印象も異なっているので、単にストーリーを紹介するだけでは、
自分が思う意味での「取り上げた」ことや「書いた」ことにはならない。
こちらの頭のなかにある各ネタは、そこから先を書いてもらいたがって、
膨張しつつ脈動しているのである。
しかし、上記のネタすべてについてそれを書いていくのは、
かなりの気力とエネルギーを要する作業だとわかる。本当にわかる。
どうすりゃいいのか、シアン化水素。USBケーブルのジャックを頭に突き立
て、脳内メモリーをパソコンに移せんものかと思ったりしているのだ。
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26 がんばれ、パチパチパンチ

吉本新喜劇に、確か元ボクサーだと聞いた覚えがあるのだが、
島木譲二という俳優がいる。芝居の最中、突然衣装を脱ぎ捨てて
上半身裸になり、盛り上がった胸の筋肉を誇示して、
いきなりそれを両手でパチパチ叩き始める人物である。
これを称して、「大阪名物・パチパチパンチ」という。
そしてその動作を見せるのは、大抵、彼の演ずる登場人物が、
いらいらしたり、腹を立てたりする場面なのだが、
その怒りを周囲がわざと倍加させていくのがおもしろい。
特に、現在新喜劇にはほとんど登場しなくなっているのだけれど、
間寛平と組んでそれをやっていた時期のおかしさは、絶品だった。

仮に寛平が主人公であり、島木が脇役の一人で、
ちょっとズレた真面目さを示す立場にあるとする。たとえば、ヒロインをめぐっ
て二人は対立しており、彼が自分の愛情や生活設計を、
一生懸命説明する場面だとする。ところが寛平は聞く耳を持たない。
そこで、じれた島木はやにわに服を脱ぎ、パチパチパンチを開始する。
以下、寛平はとぼけた口調、島木は必死の声で、
おおむねこういう会話がかわされていくのである。
「あんた、それ何してんの」「パチパチパンチですよ。ぼくは怒ってるんですよ
」「へえ。怒ってんの。何で?」「話を聞いてくれないからですよ」
「誰が?」「あなたがですよ!」「ぼくが。ぼくが何をしてくれへんて?」
「話を聞いてくれないんですよ」「はあ、話を。誰の話を」「私のですよ!」
「ああ、あんたの話を。何の話を?」「結婚の話をですよ!」
「ほう、結婚の話を。誰の?」「ぼくのですよ!」
「ああ、あんた結婚するの。それで、嬉しいて、それをやってるの」
「怒って、やってるんですよ!」「あれ、怒ってんの。何で?」

 これが延々と繰り返されるわけで、その間、島木はパチパチパンチを見せ
つづけて、胸を真っ赤にしていく。表情も声もどんどん悲壮になり、
それを見ていたぼくは、途中から笑いが止まらなくなった。
無論、寛平のしつこく、ねちっこい、そのくせとぼけた「いびり」があってこそ
の効果だが、島木の奮闘ぶりに大笑いしつつ、思い出していたのだ。
「そうや。マルクス兄弟の映画に、この雰囲気の掛け合いがあったっけ。
これ、あの息と乗りやな」。
以上、敬称略にて失礼ながら、肉体酷使芸に対して敬意を表しつつ。

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25  ヒットラー笑伝

東京の講談師、ものすごい髭でおなじみの田辺一鶴師の口演を、
ぼくはまだナマで聞いたことがないのだが、カセットテープは持っている。
「ヒットラー・我が生涯」(オリオンカセット)という新作物で、
いつどこで買ったのかは覚えてないのだが、いまだにときどき聞き返して
笑っているのだ。内容は、おおむね史実にのっとったヒットラー一代記。
誕生から学生時代。第一次大戦出征から戦後の浮浪者同然の生活を経て
、ナチ党入党。以後、着々と権力を握って、遂に第二次大戦を起こし、
果ては自殺に追い込まれる末路まで。
テープのことゆえ、バックに銃撃の音が入っていたり、「リリー・マルレーン」
の歌唱が流れたりし、言葉と音とで彼の生涯が紹介されていくのである。

しかし、何から何まで史実通りだと、学校の講義と変わらなくなる。
そこで一鶴師、要所要所にギャグをはさむ。
たとえば、オーストリアにいたのではらちがあかぬとて、
青年ヒットラーがドイツへ行こうと決意する部分。
「ホップを効かせて、ステップ、ジャンプと、彼がミュンヘンに飛ぶや、
時、1914年7月、第一次世界大戦が勃発した!」
ミュンヘンだからビール、ビールだからホップ。その語呂合わせでステップ、
ジャンプ。こうやっていちいち説明するとダレてしまうが、
耳で聞く分には実に快調のテンポで、何度聞いても笑ってしまう。
言葉と雰囲気がぴったり合ってて、うまい言いまわしだなあと、
感心もしてしまうのである。

また、第一次大戦に参加したヒットラーは、敵の毒ガス攻撃を受けて、
一時失明状態になった。その史実が一鶴師にかかると、こうなる。
「うわあっ。眼が見えない! 毒ガスを浴びたヒットラーは、
まあ、ポリボックスの赤電球みたいな眼になっちゃった」
ポリボックスの赤電球というのは、いいですねえ。
(いまは普通の赤ランプだが、往年、交番と助産婦さんの家の玄関には、
独特の濃さをもった大きな赤電球が取り付けられていたのだ)
ヒットラーの顔に、その赤電球を二個はめこみ、その姿でもって演説させて
ごらんなさい。世界に冠たるドイツ国民、のけぞりますぜ。

しかし、そこで思うに、暴虐なる独裁者の生涯をお笑い講談に仕立て、
その録音テープを市販もできるというのは、主人公が外国人だからこそかも
しれない。とりあえず、われわれとは無関係の人間だし、演者だって、
どこからも抗議や脅迫を受ける恐れがないからだ。
その点から推測するに、講談や落語、お笑いモノの映画や演劇に仕立て上
げられる日本の圧政者、モデルを選ぶとすれば
犬公方の徳川綱吉など、まだ江戸時代止まりではなかろうか。
それを見聞きしても誰も怒らず、シャレとして笑ってくれるという、
そんな「さしさわり」のないモデルを選ぶとすればだ。まあ、明治以降の日本
に、ヒットラー式の独裁者がいなかったことも、大きな理由になるのだが。
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24 技術を見せる

昭和天皇は手品がお好きだったそうで、
「手品だけは、騙されても怒る人がいないね」という、
側近にもらした感想も残っている。
確かにそのとおりで、寄席でも大道でも、見物人は皆、不思議だなあ、
どういう仕掛けなのかなあと、素直に感嘆している。
もちろんぼくもその一人で、感嘆のあまり、
この芸を自分も身につけようと思ったことさえある。
もうとうから禁止されているが、梅田の地下街に各種「立ち売り」人がいた
時代、そのなかに、手品のタネを売る小父さんもまじっていた。
その実演を見て、思わず商品を買ってしまったのである。

小太りした身体でベレー帽に眼鏡という、何となく喜劇的な雰囲気をただよ
わせた小父さん、しきりに鼻をこすりながら技を披露する。
「さ、次どれいこ。次、これいこか」 
見せたのは煙草を消滅させる術であり、それだけなら別に驚かないのだが
、これは火がついたままの煙草を手のなかに握り込み、
一瞬で無くしてしまうのだ。そのとき、ぼくは真剣に考えた。
「消滅させるといっても、つまりは眼の錯覚で、煙草そのものはどこかに隠さ
れているのだ。上着のポケットか。しかし、火がついて煙の出ていた煙草を
ポケットに入れたら、服が焦げるはずだしな。
いや、それ以前に、あれを手で握れるということ自体がおかしい。
実は、握ってないのではないか」
横から眺め、斜めから観察し、けれどどうにも見当がつかない。
「初心者向けの、簡単なネタや。誰にでもできるデ。これが四百円」
声に負けて、結局、説明書付きのセットを買った。
仕掛けを知りたいという欲求とともに、酒席で実演すれば受けるだろうという
思惑を胸に、わくわくしてその場を離れたのである。

だが、その結果は?
「こんなもん、そう簡単にできるかい!」
タネ明かしはルール違反になるからやめておくが、仕掛けは確かに単純な
ものであり、みごとに錯覚を利用するようになっていた。
しかし、それを使いこなすには、かなりの訓練が必要であって、
買ってすぐになど、とてもできるものではないとわかった。
「熱い! 怖い! 」 声をあげつつ、そこであらためて手品とは、
仕掛けを利用して、習熟した「技術」を見せる芸だと認識したのである。
だから、結果として「だまされた」ことになるのだが、
昭和天皇の言葉どおり、まったく怒りはしませんでしたよ。

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23 ものすごかった仁鶴さん

広告マン時代、笑福亭仁鶴さん出演のラジオCMを作ったことがある。
クライアントは、大阪ミナミにある「ニュージャパン」というレジャービルで、
「サウナ」篇と、忘年会用「宴会パック」篇、この2本のコメントを書いた。
スケジュール手配は上司がしたのだが、
仁鶴さんがレギュラー番組多数で売れに売れていた時代だから、
ラジオCMごときで、別に時間を取ってもらえるわけがない。
結局、ラジオ大阪の若者むけ深夜放送、確か11時スタートだった
「ヒットでヒット、バチョンといこう!」の生放送前に、
となりのスタジオで録らせてもらうことになった。

そして当夜、上司と二人、桜橋の旧社屋三階、スタジオ前の狭い廊下で、
ベンチに座って待っていると、放送開始時刻の十分前くらいに、
仁鶴さんとマネジャーが駆け込んできた。本当に「駆け込んで」きたわけで
はないが、雰囲気としては、そんな切迫感があったのだ。
オンエア用のスタジオでは、すでにアシスタントの女性が、
用意を整えて待っている。だからすぐさまとなりのスタジオに入ってもらい、
あわただしく挨拶と説明をすませて、下読み一回で、
そのまま10秒CM2本を録音したのだけれど、これはすごかった。

仁鶴さんは朝日放送ラジオの深夜番組で、リスナーからの葉書を
超早口で読み上げていくコーナーも評判になっていたから、
こちらも言葉をぎちぎちに詰め込んで書いている。
それを上着を脱いだ姿で、大きく息を吸っておいて、一気に陽気に
大声で読んでいく。見る見る顔が紅潮し、途中で息が苦しくなってくると、
上体をゆすり、両脚でバタバタ床を踏みならしながら突進する。
アッというまに2本収録したときには、廊下のモニタースピーカーから、
生番組開始のテーマミュージックが流れだしており、
仁鶴さんはダダダッと走ってそちらへむかう。そのあとをこちらの上司が、
「師匠。上着忘れてはります!」と叫んで追いかける。
超「売れっ子」のパワーとスケジュールはこういうものかと、
驚嘆して見送っていたのだ。

御愛敬までに、その2本のコメントを紹介しておくので、
仁鶴さんの大声でどうぞ。
『タクシー乗って、カバーナへ行ってくれたまえ、
道頓堀御堂筋を西に入ってんか。
ええっ、カバーナ、知らん? そんなバカーナ! 
おなじみニュージャパンの豪華サウナ、カバーナ。
ただいま年末割り引き実施中。
受け付けは午前四時まで。ナンテコトヲネ!』
『おい、幹事。二次会のない宴会て、それでエエンカイ! 
てなこと言わさんために、おなじみニュージャパンの二次会付き宴会パック。
ただいま好評受け付け中。お一人様、○千○百円から。
ニュージャパンの二次会付き宴会パック。
ようやるで、このお、浮かれ金時!』
ま、このような、こてこての「大阪ローカル」CMを作っておったわけです。

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22 松鶴師匠のこと

代目数がそのまま敬称になっていた「六代目」、
といっても菊五郎ではなく笑福亭松鶴師匠のことだが、
この師匠には生前、一度だけお会いして、お話をさせてもらったことがある。
小松左京さんが持っておられた(小松さんに、この敬語は合わんなあ)、
持ってはったラジオの対談番組で、本人多忙のため
何回か代役を頼まれたことがあり、そのときゲストとして来られたのだ。
場所は確か、なんばシティだったかの催事スペース。

そして、そのときの会話で覚えていることがふたつあって、
ひとつは番組のなかで、ぼくがこういう質問をした。
「若い落語家さんたちが、テレビやラジオやイベントや、いろいろやってはり
ますけど、ああいう動きについてはどう思われますか」
これは、「あんまり感心しまへんな」とか、「若いうちは急いで顔や名前を売
ろうとするより、落語の稽古に専念するべきやと思います」とか、
そういうこたえを予想しての質問だったのだ。
ところが、松鶴師匠いわく。
「自分が落語家やということさえ忘れなんだら、何をやってもええと思います
。人さんの前で、しゃべる稽古になりますからな」
当方、ああなるほどと納得し、予想していたこたえは、実は自分がそう思っ
ていたことであり、師匠にもそう言ってほしいという期待でもあったのだが、
その「狭さ」を認識させられたのだ。

覚えていることのもうひとつは、終了後、スタッフや出演者が
喫茶店で雑談していたとき、ぼくが落語に関してある質問をした。
それに対して、付き人として同席していたお弟子さんは、一瞬ちらっとながら
、「突然、何を聞きまんねん」と言いたげな色を眼にうかべたのだが、
そしてそれは当然の反応だったとも言えるのだが、
松鶴師匠はごく自然に、やわらかい口調で教えてくださった。
「やさしい人やなあ」というのが、その瞬間の印象だったのだ。
やさしいと同時に、良くも悪くも、
「オソロシイ」人でもあったのだと知って驚愕したのは、ずっとのちに、
笑福亭松枝さんの、『ためいき坂くちぶえ坂』を読んでからの話。
なお、上記の付き人は松葉さんで、だからぼくはこのとき、六代目と、
後年悲運の七代目となった(襲名が決まっていたのに癌に冒され、
披露公演予定日に死去して、七代目を追贈された)、
二人の松鶴師に会っていたということになるわけである。
それがどないしたと言われたら、説明に困るんですけどね……

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21 耳障りな漫才

吉本でも松竹でも、若手の漫才師が次々に現れ、
新人賞を獲って人気急上昇というコンビも出ている。
しかしそのなかには、雑なしゃべり方で、
「それ、何とかしてくれよ」と言いたい人もいる。
早口でも、聞きやすければそれでいいのだが、
「突っ込み」の調子を取るためか、しきりに「おまえ」とかの言葉をはさみ、
ひどいときにはこんな具合になるのだ。
「それ、おまえ、忘れとるんやないか。そんなん、おまえ、
ちゃんと言うたらな、おっさんが困りよるないか。何しとるんや、おまえ」
上記は、ぼくがいま適当に考えて書いたせりふであるが、
こういう突っ込みが延々と繰り返されたら、
その耳障りの悪さや全体の調子の粗雑さに、いらいらしてくるのだ。

この場合、「おまえ」をすべて抜いて、こう言っても何ら支障はないし、
聞きやすさという点からは、そうすべきものだと思う。
「それ、忘れとるんやないか。そんなん、ちゃんと言うたらな、
おっさんが困りよるやないか。何しとるんや」
そして、こうやってすっきりさせたせりふを、テンポよく、相方がボケやすい
ように言おうと思えば、おのずと「間」や「息」の工夫が必要になってくる。
もちろんその場合には、早口は早口でも、
滑舌の良い早口になることも要求されてくる。
「おまえ」をまるで間投詞のように乱用するのは、デビュー当初、そんな高等
技術はまだとても使えず、とにかく一瞬でも空白があくのが怖くて、
それを「おまえ」という言葉で埋めることによって、調子を取ってきたからで
はなかろうか。そして、舞台上から客席の反応を観察できる余裕ができた
いまも(なんぼなんでも、それはできてるはず)、それが癖になって、
無意識のうちに乱発しているのではないかと思うのだ。

これは、ただ聞いているだけの者として推測したことではない。
実はぼくも、講義や講演、ラジオの対談などで、言葉の調子を取るため、
「鼻をすする」ということを癖にしてしまった時期があった。
多分、風邪気味のときにそれをやったら、
間を置くかわりになって具合がよかったのだろう。
以後、鼻水など何も出てないときにもそれをやってしまうようになり、
あるときテープを聞き返して、その耳障りの悪さにアッと思ったのだ。
何にせよ、早口とテンポの良さは別であるし、そこに滑舌の悪さが加わった
ら、漫才全体がうるさくて、粗雑で、下卑た雰囲気を持ってしまう。
ぜひ、御一考を願いたいのである。
ネタに古さは感じても、往年の人気コンビのテープを聞き返すと、基本の稽
古と場数の成果で、そのあたりの技術はみごとなものになってますよ。