落語・演芸・笑いのノート、31〜40。

40 続・家族慰安会

以前、小学生時代に父親の会社の
家族慰安会があったという話を書いたが、今回は、こちらが社会人になって
広告代理店に勤めていた時期、家族慰安会の裏方を勤めた話である。
クライアントは「ふりかけ」の丸味屋で、場所は桜宮の太閤園。
常設ステージのある広い建物で、歌があり、漫才があり、漫談もあるという、
お楽しみ演芸会を開催したのだ。昭和四十五年か六年のことであって、
確かゴールデンウイーク中の一日だったと覚えている。

ただし、その「仕込み」や演出は別の大型代理店が芸能プロダクションに
依頼したのか、それとも勤めていた豆粒代理店がテレビ局に頼み、
そこからプロダクションに話を通してもらったのか、そのあたりのことは
記憶していない。当方、社会人になったばかりの駆け出しで、
名刺の肩書きがアシスタント・ディレクター。これは業界では「雑用係」を意
味しているから、何もわからないまま休日出勤して、下働きをしていたのだ。

門のところで前座の女性歌手を待ち、衣装ケースを提げたそれらしい人が
やってきたので、「前歌の方ですか」と声をかけて控え室に案内したところ、
営業の先輩社員に物陰へひっぱっていかれた。
「おまえ、前歌の方ですかなんて聞き方は、失礼にあたるやないか」
それはぼく自身、言った瞬間ひやっとしていたことなので、
すぐさま頭をかきかき謝った。
「ちょっと。うちらの出番まだかいな」
出演者控え室で、若干いらつき気味に問いかけてきたのは、
庄司敏江・玲二の敏江さん。どつき漫才で売れ出していたころで、
しかし出番はまだ浅かった。そしてこの日のメインは、毎日放送の「ヤング・
オーオー」で、すでに超人気者になっていた桂三枝さんだったのだが、
売れっ子だから、控え室で待つなどというスケジュールではない。
出番直前、ぎりぎりに到着して、そのまま舞台に上がった。

以下、批判ではなく驚嘆の記憶として書くので、誤解のないように願いたい
のだが、出し物は、着物で落語を演じたのではなくスーツ姿の漫談。
と言いたいところだが、正直なところ、これは漫談でさえない雑談だった。
おまけに、どこの会社の慰安会なのかも覚えてなかったらしく、
何か頓珍漢なことを言ったので、客席からどっと笑い声が起きた。
そして、三枝さんの頭上には、会社名を記した慰安会の横長型の看板が吊
されていたのだけれど、その笑い声をきっかけにそれからしばらくは、
「看板を見上げずに、業界名や会社名をいくつか推理して言い、
客席の反応によって正しい会社名を当てる」という、そういう流れで、
客席をわあわあ沸かせ、喜ばせていたのである。
呼んでもらった先の社名も覚えておらず、しかもいきあたりばったりで、
それをネタにして時間をつぶしている。そう解釈すれば非常に無責任かつ
傲慢無礼な態度ということになるのだが、このときの客たちや
丸味屋側担当者の雰囲気はそうではなかった。
超人気者がハードスケジュールのなか「来てくれた」だけではなく、
自分たちの会社名を材料にしてくれて、笑わせ、
楽しませてくれているとばかりに、喜んでいたのである。

そして、もうひとつ驚嘆したのは、それを舞台の袖から見つめながら、
営業の先輩社員がささやいたこと。
「今日の三枝さんのギャラ、二十万やで」
ぼくの初任給が三万六千円だったか七千円だったか。その日が入社二年
目のゴールデンウイークだったとしても、額面四万円あるかないかだった。
だから三枝さんは、十五分か二十分ほどの舞台で、
その五倍のギャラをもらっていたことになるわけで、
現在の大卒初任給を二十万円とすれば、百万円もらう計算になる。
上記のステージ内容ともあいまって、つくづく、
「人気」というものの恐ろしさを感じさせられていたのだ。
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39 タモリの本芸

ミーハー的で、いやらしい書き方になるが、
ぼくはタモリさんと何度か話をしたことがある。それも、
氏が爆発的に売れ出す前、デビュー直後という時期のことであって、
初対面の夜から、いまだにテレビなどでは公開したことのない、
というより、テレビでなど公開できるはずのない、
ものすごい芸を見せてもらったこともあるのである。

そのいきさつを説明すると長くなるが、ジャズの山下洋輔さんや坂田明さん
、同じSF作家の堀晃さんなどと一緒に、東京は目白の家で、隠し芸大会を
やったのだ。ちなみに、現在のタモリさんは豪邸住まいの由だが、
このときの家というのは、実は漫画家赤塚不二夫氏のマンションなのだった
。そこにタモリさんが居候していたのであり、しかし家主の赤塚氏は、
仕事多忙ゆえ事務所泊まりの毎日。週に一度程度、
着替えを取りに帰ってくるだけだということだった。
で、かの有名な「四カ国語麻雀」から始まって、あれこれネタを見せてもらい
、全員が声優になって架空ドラマの録音をしたりして遊んだ。
そして午前二時頃に他の皆さん方は帰り、なぜか、ちゃんとホテルを取って
いたにもかかわらず、ぼくと堀さんだけが、そのマンションに泊めてもらうと
いうことになった。するとタモリさんがいわく。
「かくかくしかじかの人の、マネの仕方を教えてあげましょう」

かくかくしかじかというのは、職業や社会的立場ではなく、
人間のある「状態」。困って苦闘している様子を示す言葉である。
そして、ぼくたちにサシで、その表情や叫びの注意点などを実技入りで教え
てくれたのだが、このときぼくは、「顔をひきつらせて笑う」という、
病的な笑いを確かに経験していた。あまりに具体的で、
おかしさを通り越して、薄気味悪くなってきたからである。
「この観察力はどうだ。また、その観察結果を芸にしてしまう、
精神の強度は……」 
その後、テレビや公開の場で、氏の芸はいくらも見ているが、
あのネタが出たことは、現在に至るまで一度もない。
「まあ、出せんわなあ。ブラックユーモアは日本では受け入れられにくく、
見た者の大半は、笑わずに怒るだろうからなあ」なのだ。
さて、ところで。あなたは上に書いた「かくかくしかじか」から、
人間のどんな状態を思いうかべられましたか。
それによって、常識人たるあなたのなかの「残酷」度と、
それが何に向けられやすいかが、わかるのですがね。
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38 枝雀師匠の思い出(2)

ずっと以前、枝雀師匠大活躍の時代、夢を見た。
舞台はどこかの温泉地で、そこに師匠夫妻やお弟子さん連中、
それに落語会で顔なじみになっているファンたちが遊びに行っている。
当方もそのメンバーに加わっており、山間の温泉街、横手の溝から湯気が
たちのぼっているような坂道を、談笑しながら歩いている。
にもかかわらず、なぜかぼくはグループからは離れた立場にいるらしく、
このあたり、夢の記憶なのではっきりしないのだが、師匠からも、
「あんさんは別の立場の人ですから」というようなことを言われたようで、
そこに泣きたいような寂しさを感じているのである。

で、覚めてから考えたところによると、これは多分、「自分は枝雀師匠から、
いつ、家へ遊びにきませんかと言ってもらえるかなあ」と、
おりにふれて思っていた、その気持ちがもとになった夢である。
ただし断っておくが、それは、本当に遊びに行きたいと思っていたからでは
ない。ぼくはそういうことには遠慮と気後れ、もしくは気遣いが先に立つ人間
であり、まして偉い人、立派な人、多忙な人から誘われたら、
「そんな、貴重なお時間を私などにさいていただくなど、
とんでもないことでございます」とばかりに、後ずさりするタイプなのである。
現に、米朝師匠からは、ある古い資料に関して、「それやったら家にあるか
ら、見にきたらええがな」と言っていただいたことがあるのだが、
天下の米朝師匠にオフの時間をさいてもらうなどという、
そんな蛮勇は持ち合わせず、謹んで辞退させてもらったのだ。

だから上記の思いは、「誘われても自分は遊びになど行けないだろうけど、
誘うだけは誘ってほしいなあ、誘ってもらえたら嬉しいんだけどなあ」という、
そういう気持ちなのである。なぜなら、ぼくの感じたところによれば、
本来内向性である師匠の「人づきあい」には、無意識ながらも濃淡や段階
がつけられていたようで、自宅への誘いは、よほど心を許した相手にしか、
しておられなかったように見えたから。
そして同じく内向性であるこちらも、何かもう一枚、
師匠との間の壁が越えられたら、落語に関してでも、もっと突っ込んだ話が
させてもらえるのになあと思い、もどかしさを感じてもいたから……
けれど結局、その壁は越えられず、誘っていただくこともないまま、
師匠は亡くなられた。御自宅へうかがえたのは、
通夜も告別式も行われなかったので、せめてお線香でもと、
弟子の雀松さんを通して奥様にお願いし、参上したときなのである。

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37 空気を読む

演芸や演劇の関係者が使う表現に、「空気を読む」という言葉がある。
落語家の例で言うなら、高座に上がった当初の、
客席のこわばり具合や意識の散漫さから、それが次第にリラックスしつつ
集中してくるありさま、そして遂には揃って没入してくれだす状態まで、
刻々の変化を読みとり、それに合わせた対応をしていくわけである。

しかしそれは、理屈としてはわかるが、実際問題どうすることなのか。
空気は無色透明であるし、雰囲気は物や形ではないのに、
それを読むとは、どうすることなのか。
実は、これは「見える」のである。客席の空気、雰囲気が、
演者の下手な一言によって、一瞬でこわばるのが見えるし、
意外な展開に驚いたとしたら、その驚きの気も見える。そればかりか、
「引く」のも見えるし、「乗って」くるのも見える。全部、見えるのである。

高校時代、ぼくは落研をやっていて文化祭で口演もしたのだが、
このとき一度だけ、それをまざまざと体験した。土曜と日曜、各二回公演の
予定だったところ、客が多くて会場に当てた教室に入りきれず、
急遽、日曜の夕方に、三回目を追加することになった。
落語の口演は想像以上に体力と気力を消耗するもので、おまけに無礼千万
、増長傲慢、『はてなの茶碗』などという大ネタを演じていたぼくは、
すでにふらふらになっていた。すると、その疲労が良い方向に作用して、
「力が抜けた」状態になったのだろう。噺の途中から、突如として、
すべての空気が見えだしたのである。いや、本当に、空気は見えますよ。
そしてその空気が、客席全体を包む「波」となり、適宜の周期で
こちらに寄せてきたり、引いていったりするのも、見えだした。
そうなると楽なもので、その波の寄せ返しに合わせて噺を進めていけば、
自由に客席をあやつることができる。笑わす部分では笑わせ、感心させる
部分では感心させ、その名演(?)に、大きな拍手をもらっていたのだ。

という話を、ある落語家にしたところ、相手がいわく。
「落研の経験者は、その快感が忘れられんで、噺家になるわけですよ」
うん。さもあろう。その気持ちは、よくわかる。
そして現在でも、講演やレクチャーをしているとき、会場内の空気が読める
ことがあるし、落語会のゲストに呼ばれて中入りで対談しているときなど、
さらによく読めたりする。演劇をやっている若い人と話をしていて、
「ぼくは、これがわかるんですよ」と、片手で「寄せ返し」のゼスチャーをして
みせると、相手は非常に嬉しそうな顔になるのである。
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36 等価変換式創作法

アマチュアの映像作家がふえており、日々の記録ばかりではなく、
ひとつのテーマを追ってドキュメンタリー作品を製作したり、脚本から演出ま
で自分たちでこなして、ドラマを作るグループも少なくないという。
以前、あるビデオコンテストの審査を頼まれたことがあり、そのときには、
大学生のグループが作った、ミュージカル風のドラマに感心させられた。
出演者も全員アマチュアだから、歌や踊りや台詞は、
まあ、それ相応のものだった。だが、構成は無駄が無く引き締まっていて、
素人離れしていたからである。

「あの構成術を、どうやって習得したんですかね。術は、知識だけでは使い
こなせないと思いますけど、よっぽど、数をこなしたんでしょうかねえ」
同じく審査員をしていた映像の専門家に聞き、
その答にぼくはさらに感心していた。
「音楽ですよ。彼らは、たとえば好きな曲を繰り返し何十回も聞いて、
そのフレーズやメロディーに合いそうなシーンを想像する。
そこからストーリーを作るんです」
音楽の導入部はドラマの導入部分を想像させ、盛り上がり部分は
クライマックスの見せ場を導き出す。だから完成したストーリーは、
全体としておのずと、みごとなバランスを有することになるというのである。

「規定すれば、これは何だろう?」と考えたのだが、もちろん、「もじり」では
ない。結果として、音楽の構成がガイドラインになっているだが、
それはパクリや受け狙いでやった「なぞり」でもない。下敷きにしてとか、
本歌取りとか、言葉はうかぶのだが、どれも違うように感じる。
また、仮に別人がそれを試みれば、同じ曲、同じフレーズやメロディーからで
も別のイメージを想像するはずだから、一曲の音楽から、
無数の映像世界が想像されうることになるとも言える。
ならばそのひとつひとつは、オリジナルであるということになる。
つまり彼らは、既存の音楽を触発材料に使い、その感性と想像力で、
独自の世界をうみだしているわけなのだ。

考えた結果、ぼくは、これは創造工学で言うところの、
「等価変換」ではないかと思った。
AにおけるXは、BにおいてはYである。この技法で、
フレーズやメロディーをシーンやストーリーへと変換し、
抽象表現物から具体表現物を誕生させたのだ。
正直な感想を言えば、「えらいことしよるなあ!」であって、
それを理屈ではなく、感覚感性でやってしまったというところに、
驚異も感じた。そしてさらに、「逐語訳」的等価変換にとどまらず、
想像力がそこから飛翔して羽ばたきだしたら、もっとすごい作品ができるに
違いないとも思ったのである。少し誉め過ぎかもしれないけれど。
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35 いやしからぬこと第一

長年、自分なりに工夫しながら「笑い」の小説を書いてきたため、
その悪しき副作用で、よほどのギャグや動きでない限り、
おかしさを感じないようになっている。
ところが狂言を見ると、知識としては知っている型なのに、必ず笑う。
「不思議やなあ。何でかなあ」であって、
もちろんその最大の理由は芸の力なのだが、何か、
狂言の成り立ちそのものにも原因があるように感じ、考えたことがある。
そして、次のような要素に思い至った。

まず、装置。大きく高く、がっしりとした木の柱があり屋根があり、
磨き立てられた舞台がある。これはぼくにとって、ほっとする色調であり、
安心感を得られる構造である。
次に、品。定められた台詞にせよ、それを発する演者の声や表情にせよ、
ゆったりとしていて、こせこせしたところがない。狂言集を読むと、
役作りの注意として、「いやしからぬこと第一なり」と書いてあったりするが、
まさしく、いやしからず上品である。
さらに、時間。右に書いたゆったりさの結果として、ごく短い話が、
たっぷりとした時間をとって進められていく。こちらの意識としては、
秒なり分なりの単位時間が、引き延ばされた感じがする。
すなわち、ほっと安心した心に、ゆったりとした上品な刺激が、
先を急がず入ってくるのである。

すると、こちらの心理はどうなるか。知と情という言葉を使って言えば、
知の面が解除されて情の受容態勢のみとなり、そのときぼくは、
ほんのちょっとした言葉や動作にも、
大きなおかしさを感じるようになっているのではないか。
つまり、知識の検索とか、仕掛けの分析とか、仕事柄ついついやってしまう
いらぬ作業を忘れ、素直になっているのではないか。
それが、狂言で笑う根本だろうと思うのである。
また、ぼくの書く笑いはスピード感を必要とするドタバタ物が多いのだが、
これが力足りずして、こせこせしたものになることがある。
下品にならぬよう気をつけているが、露骨になったりはする。
だから、「基本はこっちなんだぞ」と、謹んで拝見する気になっているという、
それも、笑う理由のひとつかもしれないのだ。
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34 奇妙なテーマ曲

東京のボーイズ物、灘康次とモダンカンカンの話である。
「地球の上に朝が来る。その裏側は夜だろう〜」、
御承知の方は御承知のごとく、このグループのオープニングテーマ曲は、
昔懐かしい「川田節」である。そしてクロージングには、
これまた懐かしきヒット曲、「すてきなあなた」を使っている。
川田節の原曲は広沢虎造の浪曲だそうだが、こちらは原曲が確かドイツ製
であり、その後、アンドリュース・シスターズのコーラスで、1950年代に
大ヒットしたものなのである。そこでぼくは、こういうことを考えた。
「もし、ドイツ人なりアメリカ人なりのおじさん、おじいさんが日本に来てて、
ふらりと寄席に入るとする。そして、このグループの演芸を見たら、
びっくりするだろうなあ」

言葉はわからないけれど、何かコントやかけあいをやっている。
ははあ、これはジャパニーズスタイルの、ボードビルなのだな……
思っていると、いきなり舞台上から、五十年以上も昔にヒットした曲が流れて
きて、ボードビリアンたちがオジギをする。外国人のおじさん、おじいさん、
時間の感覚を混乱させられ、何でいきなり、こんな場所でこんな曲がと、
解せない思いに、とらわれるに違いないのである。
逆に考えれば、日本人のおじさん、おじいさんが、
ニューヨークかどこかで白人のコミックショーを見ていたら、
彼らが突然、「青い山脈」の演奏で舞台を終えるようなものなのだから。

ところで、このモダンカンカンによる「すてきなあなた」には、
どんな日本語の歌詞がつけられているのか。
実は、ぼくはそれを覚えておらず、以前、知り合いの漫画家コーシン、
演芸評論家でもある高信太郎に聞いたことがある。
するとコーシンも覚えておらず、数日後、電話をくれていわく。
「あれ、あちこちに聞いたんだよ。モダンカンカンの所属プロダクションの人
にもね。だけど、誰も思い出せない。みんな、喉まで出てるんだけどなんて
言って、首をひねるんだ。で、ようやく、元のメンバーに聞いてわかったんだ
けど、結論を言えば、歌詞はなかったんだよ。メロディー演奏だけで、
どうも、モダンカンカンでしたあって、それで終わってるんだってさ」
誰や。喉まで出てるなんて言うたやつは!
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33 助かったあ!

落語会のあとの酒席で、桂米朝師匠から、ほとんどサシに近い状態で、
中国の小咄を聞かせていただいたことがある。
師匠が小松左京さんと、中国旅行をしてこられた直後のことで、
あちらにもその種の話芸があり、一人でしゃべるから
単口(タンクー)と称するのだという。ネタは概略こういう内容。

中国も豊かになって、子供に習い事をさせる親が増えてきた。
ある母親、子供にバイオリンを習わせたのだが、
子供が嫌がって練習をサボる。以下、米朝師匠の声と口調と表情を、
思いうかべてお読みいただきたいのだけれど、そこで母親が言った。
「あんた、何で稽古せえへんの。稽古しなさい。稽古したら、
ごほうびに十元あげるから。それで、子供が十元欲しさに毎日稽古しだした
んやけど、しばらくしたら、また稽古せんようになったんや。
それで母親が、何で稽古せえへんの。稽古したら、
十元あげるて言うてるのに。そしたら子供が、むかいのおばちゃんが、
稽古やめてくれたら、二十元あげるて言いはった」

聞き終えた途端、ぼくは「あはははは」と大声で笑い、声をあげていた。
「うまいなあ!」  そしてその瞬間、内心でゾーッとしていた。
ぼくが感歎したのは、その小咄の構成、話の持って行き方についてである。
しかしこれ、聞き方によっては、師匠の話芸を、
「うまいなあ!」と評したようにも受け取られかねない。
天下の米朝師匠に対して、そんな失礼な反応はないのであって、
師匠にそう解釈され、むっとした顔でもされたらどうしようという、
大きな恐怖感を覚えたのだ。だが米朝師匠、にこにこっと笑って、
「な、うまいやろ。稽古やめてくれたらちゅうのも、
バイオリンやさかい、なおさらおもろいねや」
当方、思わず内心で、これまた声をあげていたのだ。
「ああ、よかった。助かったあ!」
前に枝雀師匠に関する話題で書いたときと同様、
これまた、半瞬プラス半瞬、合わせて一瞬というなかでの話である。

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32 型の相似

若かりし時代、インドネシアのバリ島へ行ったことがある。
劇場島と称されているごとく、舞踊劇や仮面劇が盛んで、
ヒンズーの神々が、いまも生活に溶け込んでいる島である。
で、ぼくも有名なケチャ・ダンスを初めとする、それらの歌舞や劇を観賞して
きたのであるが、そのなかのひとつに驚かされた。
バロンという獅子の姿をした善の象徴と、ランダという悪の怪物が、
人身御供をめぐって戦うという仮面舞踊劇。
まず序幕があり、幕間の踊りがあり、第一幕に男が二人登場する。
人身御供となるのはサハデワという青年であり、
二人はその母親に従う、召使いなのだ。

そして、その言葉は全然わからないのだが、配られた日本語パンフレットに
よると、二人は、サハデワが人身御供にされることについて、
語り合っているのだという。
「えっ。そしたらこれ、歌舞伎で言うたら、聞いたか坊主かいな」
幕開きに出てきて、聞いたか聞いたかと言いつつ話の背景を説明する、
あの坊さんを思い出し、その相似にうなっていたのである。
しかも、ひとしきり語り合うや、一人がその場を、小さくぐるりとまわった。
まわっておいて、また会話を開始した。内容はわからず、
パンフレットにも説明は書いてなかったが、その動作は明らかに、
時間もしくは距離の飛躍を示したと思われた。
「狂言と一緒や」
いや、来るほどに、これでござる……。
あの呼吸とまったく同じであると感じ、その理由を推理していたのだ。
「人間のやることゆえ、筋立てや演技が洗練されれば、
おのずと相似が現れるのか。それとも日本の古典劇が、
実はヒンズーのルーツを持っているのか?」

そして、考えながらなおも見ていると、三度目の驚きがあった。
二人の背後から、ランダ陣営の悪魔が現れ、一人はそれに気づいて逃げか
けるのだが、もう一人はなかなか気がつかない。
別の方向を見ながらしゃべりつづけ、悪魔が後からその肩を叩くと、
うるさそうに払いのけたりする。観客の笑い声のなか、
それが何度か繰り返されて、ようやくふりむき、うわっ! 
まさしく、万国共通の「笑い」の型であり、そのときぼくは、自分の推理の、
前者が当たっていそうに思っていたのである。
SF作家としては、ヒンズー・ルーツ説も捨てがたいのだが。
そして実際、歌舞伎や能狂言以前の猿楽や散楽、
その元をたどっていけば、朝鮮から中国、さらにその先、西域や天竺へと
行き着くに違いない部分もあるわけなのだが。

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31 信者の儀式  

落語に関して、ぼくは「米朝教」の信者みたいな人間である。
なのに、このノートで師匠のことをまだあまり書いてないのは、
演じられる落語について書き出せばきりがなくなるし、おもしろエピソードの
紹介については、遠慮と気後れの感を覚えるからである。
もちろん出版社から依頼があったときには、これは仕事だから、
きちんと書かせていだいている。こちらは私的なホームページゆえ、
やはり何となく、「畏れ多い」気がするのだ。
そんなわけで今回は、『桂米朝コレクション4・商売繁盛』(筑摩文庫)の
巻末に書かせていただいた解説を転載し、
ぼくの信者ぶりを知っていただくことにする。
長くなるが、原文の雰囲気を伝えるため、段落の「一行アケ」は掲載時のま
まにしておくので、そのつもりでお読みいただきたい。

巨大な城はあるけれど、普通、大阪(幕末開港期以前は、大坂という表記
が一般的だった)を城下町とは言わない。なぜなら、ここは藩ではなく、
大坂城代や町奉行など、ごく少数の官僚・役人によって統治されていた、
幕府直轄地だったからである。
民政については有力町人による自治的な制度が認められており、
したがって市井の人々も、「お上」や侍たちの権威と圧力を、通常、
ほとんど感じさせられずにすんだのだ。
また、港があって、「出船千艘、入船千艘」と称されたごとく賑わっていたの
だが、大阪を港町と規定する人も少いだろう。
なぜなら、ここは港あっての町ではなく、町あっての港。
港と川、およびそれらと結ばれた格子状の堀割りを輸送路に使って、
流通や商業で栄えた都市だったからである。
それゆえ江戸時代には、諸藩の蔵屋敷や特産品を扱う店が市中に多数あ
り、最盛期には全国の富の七割が集まったと言われている。
自由を好み、権力の介入を嫌い、経済繁栄の基礎となるべき合理性を尊ぶ
風土は、この環境によって生まれ育ち、強固になった。
上方落語の主要舞台となっているのは、かような歴史特性を持ち、
それが明治、大正、昭和初期へと移ってさらに発展していった、
活気にあふれた町なのである。

で、この舞台の上で無数の人々が暮らしてきたのであるが、このとき右に書
いた諸特性が、彼らの思考傾向や生活態度に、もうひとつの大きな特長を
付与することになった。
卸し、仲買い、小売り。商人と町の人々、商人と蔵屋敷の侍、商人どうし。
どんな立場や関係にせよ、商取引は対立や強制で進めるものではなく、
親和友好の雰囲気のなか、互いの譲歩と妥協で成立させるものである。
ならばその雰囲気は、どうすれば作れて、共有していけるのか? 
ここに、「笑い」というものが注目され、その効用が認められて、
対人関係の潤滑油として活用される必然性が生まれてくる。
笑顔で愛想良く、冗談などもまじえて商談を進めていけば、
どちらの門にも福が来るのだ。
また、相手や第三者ではなく自分をまな板に乗せ、その愚行や失敗談を笑
いの種にしておけば、他人を傷つける怖れがなく、
相手にもいささかの優越感を与えることができる。さらには、心に余裕があ
ればこそなんだろうなと、見直してもらえることさえある。
実際、自慢話ばかりで自己の弱点や失敗を語れない者は、気位のみ高くて
心の狭い、嫌な人間であることが多いからだ。そのあたり、日々の接触や交
流で動いている町だけに、人間観察もリアルで厳しくなるのである。
かくしてこの町の人々に、年齢性別・家柄職業・貧富賢愚の差異を問わず、
笑いを好み、自分を三枚目にし、「私はアホです」と公言すれば周囲もそれ
を好意的に受容するという、特異な対人反応形態が行き渡った。
「あいつ、大分<いちびり>やで。おもろいやっちゃな」
(いちびりとは、ふざけることが好きな人の意)
「あんな偉い人が、あんなアホなこと言うて人を笑わしてはる。
そこが偉いわなあ」
この賞賛構造がわかれば、大阪人に対する理解もぐっと進むと思うのであ
るが、こういった「好かれる愚行者」、「尊敬される三枚目」は、
町中でいくらも見られる存在であったのだ。そして、経済面では地盤沈下を
つづけている現在も、それは変わっていない。
したがって、現実をリアルに取り込み、その土台上に虚構をふくらませる上
方落語にも、この種の人物は数多く登場する。
その彼らが商売や取引の場で生み出す笑劇集、それがこの一冊だと、御理
解願いたいのである。

さて。ここまでは解説者の立場で書いてきたのであるが、
以下は個人の顔を出し、長年の上方落語ならびに米朝師匠ファンとして、
書かせていただくことにする。
実は当方、中学時代から四十年余り、ラジオやテレビ、寄席やホールで、
師匠の噺を数多く聞いてきた。無論、ここに収録された噺もすべて、独演会
などで何度も聞いている。
そのときどきの光景を思いうかべ、ちょっと失礼して大阪弁で、生の感想と
記憶を列記させていただこうと思うのだ。
『帯久』 「飯を粥に延ばして養いましたな」、ええ台詞やなあ。「商人の金は
きびしいもんで」、リアルですなあ。お裁きは、いつ聞いても涙がにじむ。ピシ
ッと決まる奉行の姿は、ほんま、米朝師匠に限りまっせ。
『つぼ算』 買い物天狗。ある戦前の大阪の本に、信心天狗という言葉が出
てきた。こういう言い方、してたんやなあ。番頭が錯乱するあたり、常に大笑
いがつづきます。
『道具屋』 「間違いなしの偽物でやす」、このときの師匠の顔が好きで、
まねしてみたりする。しかしこの噺、駆け出し君がやると、よくダレる。何でも
ない台詞が、おかしく聞こえるか否か。そこに、差があるわけですね。
『はてなの茶碗』 茶金さんの品格。公家や帝。落ち着いた噺やけど、同時
に派手な展開やなあとも思う。私、高校時代は「落研」でして、文化祭でこ
れを演じた、いえ御無礼、暗唱しました。それくらい好きな噺です。
『米揚げ笊』 粉を落とすための動作、実際に笊屋のおっさんが、やってたん
やろな。強気の主人の、とどめのなさがおかしい。堂島の繁栄は、昭和十四
年、米穀取引所の解散で終焉を迎えた。
思えば恨めしいあの戦時統制経済と、恨みがここへきますな。
『高津の富』 田舎親爺の自慢が、嘘にならずホラですむよう、「何を言うて
も、本気にして聞くもんやさかい」という救いの台詞が入ってる。なるほど。
これで後半が、楽しく聞けるわけか。「当たらんもんやなあ」では、必ず緊張
解除の爆笑が起きますよね。
『商売根問』 二人が座って対話するだけ。おまけに冒頭の、なかなか先へ
進まない問答。聞き手がダレる要素は多いわけで、前座噺とはいえ、
駆け出し君には逆に難しい噺やろなあと思います。
雀の南京豆枕。ガタロの捕り方。ようこんな、アホなことを!
『しまつの極意』 人を減らしつづけ、遂には自分も。これ、シュールな情景
やなあ。伝え方によっては嫌味の出る倹約法を、「そんなアホな」と笑わせ
なければならない。勝負は結局、演者の「人」ですかねえ。
『牛の丸薬』 早朝の農村風景。茶店の婆さんとの会話。「八十!」とあきれ
る声や表情。算盤を入れるとき、チッチッと舌で出す珠の音。「世の中に、お
まえほど悪い奴ないなあ」で起きる笑い。「弟がドイツに留学」という、実に
都合のええ説明。全部好きです。
『住吉駕籠』 陽気で、おかしくて、アホらしい噺。茶店の親爺だと、あとでわ
からせる仕掛けは、映像作品では難しい。言葉の芸なればこその爆笑です
ね。侍も、武張った台詞だからこそ、あとの笑いを呼ぶ。
八本足で走る駕籠なんか、リアルに想像したらもう。
『厄払い』 こういう行事や風習、ええなあと思う。町にも人にも、なごみがあ
ったんやなあと。私の娘が高校時代、テレビで師匠のこの噺を聞いて、
最初はくすくす、そのうちあはは、遂には笑い転げだした。
引き込まれ、取り込まれて、あやつられたんですな。

ところで、右の感想に共通する魅力として、まだ的確な言葉を発見できてな
いのだけれど、仮に「おかしみ」とでも称したい雰囲気があることを、
最後に書かせていただきたい。
当方の演芸愛好歴によれば、落語や漫才の演者のなかに、
「うまい」「おかしい」「おもしろい」という満足要素以外に、
この「おかしみ」を感じさせてくれる人がいる。
この場合、「うまい」は芸のレベル、「おかしい」は笑いの内容や量、「おもし
ろい」は知的興味の充足度、そして「おかしみ」は、演者自身がただよわせ
る、存在と雰囲気の魅力を示す言葉だとお考えいただきたい。
具体的には、「何を言っても、おかしい」「ちょっとした動きや表情だけで、
こっちは笑ってしまう」という人であり、伝説の初代・桂春団冶師がそうであ
ったという。また、少しマニアックになるが、筆者にとっては、故・橘ノ円都師
、浪曲漫才の故・宮川左近師なども、それに該当する人だった。
まだ先はわからないので名前は伏せるが、中堅クラスの演者のなかにも、
その萌芽を感じさせられ人はいる。そして同じく筆者にとっての米朝師匠は
、この「おかしみ」を、強く感じさせられる演者であり、人である。
「わかりやすい」から聞き出した中学時代以降、「うまい」「おかしい」「おもし
ろい」ので聞きつづけるうち、いつ頃からか、そう感じるようになったのだ。
この文庫シリーズ第一巻で小松左京さんが書いておられるごとく、
米朝師匠は学者型の純正インテリであり、堀晃さんの感嘆表現によれば、
「偉大なる常識人」でもある。
そういう人が同時に、何を言ってもおかしい雰囲気をただよわせるのだから
、その魅力は言葉では表しがたい。本当に表しがたいのであって、
その証拠に当方、ときどき酒席を御一緒させていただいているときなど、
思わず抱きつきたくなったりしているのだ。
だから、上方落語に接するのは初めてだという読者も、この文庫本をきっか
けに、数多く発売されている師匠のCDやビデオに触れ、できれば落語会に
も出かけて、ぜひ、生の雰囲気を味わっていただきたい。
そしてそのあと、あらためてこのシリーズ本を読めば、声が聞こえてくる、
仕草が見える、表情が眼に浮かぶ。脳内「おかしみ」独演会を楽しめること
は、請け合いなのである。

……とまあ、こういう解説を書かせていただいたのだが、
その内容については、いまも訂正や削除の必要を認めない。
逆に、書き加えたいことが沢山ある。
それらについては、以後、このホームページ、このノートでと思っている。
今回の転載は、実はその踏ん切りをつけるための、
信者にとっての「儀式」なのでした。