落語・演芸・笑いのノート 51〜60

60 セコい男

以前、ある落語会の楽屋で、首にスカーフを巻いて
カジュアルな上着をきた、「洒落者」的な雰囲気をもった爺さんを
見かけたことがある。ソファに陣取って、親しげな口調で誰彼としゃべってい
たので、ぼくは古いファンか関係者だろうと思っていたのだ。
ところが、会のあとのうちあげの席で聞くと、
そいつは有名な「たかり」屋で、六代目松鶴師匠や小文枝
(後の五代目文枝)師匠から始まり、枝雀師匠の楽屋にも出入りして、
用意してある酒を飲んだり、御祝儀をもらったりしていた男なのだという。

あるときには、楽屋に置いてあった差し入れの酒、
一升瓶一本を平気な顔でつかんで持って帰ろうとした。
「ちょっとちょっと。それ、どうしはるんですか」
「たくさんあるから、一本もろて帰ろと思うて」
「いや、それは困ります。それはファンから師匠にくださったもので、
あとでわれわれが師匠の家に運ぶんですから」などと、
手伝いに来ていた弟子と口論になりかけたこともあるという。
そういえばこの夜も、若手の落語家二人が
何か出入り口あたりでうろうろしてるなと思っていたのだけれど、
聞いてみるとそれは、「何かあったら、どついたろと思って」
待機していたのだという話だった。

それで思い出したのだが、さらに以前、こういう話を聞いたこともある。
すなわち、枝雀師匠が何日間かの連続落語会をやったとき、
毎晩終演後の楽屋にやってきて、「師匠。今日の噺はよかったですなあ」
とか「最高でしたなあ」とベタ誉めする男がいた。
関係者がその意図に気づき、師匠と奥さんにアドバイスして
御祝儀を渡してもらったところ、翌日から来なくなったという。
ひょっとして、それもこの爺さんだったのかもしれない。
それにしても、いい歳をして、自分のやってることを
情けなく恥ずかしくは思わんのでしょうかね。
まあ、思わんからこそ、やってるんやろけど。

(追記。上記エピソードについて、桂九雀さんから御教示をいただいた。
連続独演会ではなく、新橋演舞場の、お芝居の公演でのことだった由。
「大向こうをやっております○○です」と、
終わったら、本当に毎日来てたとのこと。当初はその意図がわからず、
師匠は、ほめられるたびに「ありがとうございます」とだけ言っていたのだが、
3日目くらいになって、「あれは、祝儀をもらいに来てはるんとちゃうか」
ということになり、九雀さんが片岡孝男さんのお付きの人に、
対処法を聞きに行ったりした。そして御祝儀を渡したら、
次の日からまったく来なくなったというのである。
としたら、それは別にセコいことではなく、芝居の世界の慣習で、
彼は当然の権利として、主要出演者の楽屋を、
順にまわってたのかもしれませんね。
ともあれ、そんなわけですので、上記文章は、随所を読み替えてください。
そして、九雀さん、ありがとうございました)

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59 黙って聞いておれ!

落語家、落語作家、能楽師、そしてぼく。落語会のあと、
こういうメンバーで飲んだことがあり、そこにはもう二人、
落語家のファンだという中年男性と、その知り合いなのか
会社での部下なのか、若い女性も同席していた。
ところがこの女が、自分としては飛んでる女性のつもりで、
誰とでも対等にしゃべれるだけの知性や教養を
備えていると思っているらしい、馬鹿丸出しのやつだった。

落語家と落語作家と能楽師が話をしており、それはかなり高度かつ
専門的なものであって、たとえば道成寺だったか何だったか、
「上から吊った鐘を歌舞伎ならそろそろと下ろすのだが、
能では一気に落とすので、こちらは能面をつけていて前は見えないから、
謡の時間と足の運びだけでその場に到達していなければならない」
というような内容。ぼくはそれを、知識不足で詳細はわからないながらも、
心地よい緊張と興奮を感じつつ拝聴していたのだ。

ところが、女はいきなりそのプロたちの会話に加わろうとし、
「能って、どうしてできたんですか」などと、場違いとも何とも言いようのない
質問を、それまでの話の流れなどまったく考えずに出しやがった。
「何かやっぱり、必要があるからできて、それでいまも残ってるわけでしょう
」と、それがいかにも問題提起風の鋭い指摘だと思っているような口ぶり。
能楽師、話の腰を折られて憮然としたのか面食らったのか、
それでも酒席の雰囲気をこわすまいと、笑顔で
「初対面ですよね」と言って、やわらかくいなそうとしたのだけれど、
女は「そんなの関係ないじゃないですか」と断定的にこたえる。
それがまた何と言えばいいのだろう、そんなことに関係なくこういう議論をし
たりするのがハイレベルであり、望ましき酒席の雰囲気なのだと思っている
ような口ぶりと表情なのだ。そしていわくは、
「能って、いつごろからやってたんですか。ほら、昔のアコクとかいたじゃな
いですか。ああいうのが始まりですか」 

当方、アコクとは何だと思って考えたら、どうやら阿国のことらしい。
としたらそれは歌舞伎の始祖であるから、
この女は読み方および知識分類で二重に間違っていることになり、
なのにその間違いを自覚しておらず、得々として聞いているのだった。
能楽師、もはや相手にもせず、もとのプロどうしの会話にもどり、
女は一緒に来ていた中年男性と何やらしゃべりだしたのだが、
しかしまあ、こういう女にはどういう具合に説明すれば、
それがいかに場違いな、プロに対して失礼な、
かつ横で聞いているほうが恥ずかしくなるという、
そんな態度であり発言なのだとわからせることができるのだろう。
そう思うと、腹のなかに何か消化の悪いものをどてっと呑み込んだような、
うんざりぐったりとした気分になり、
家へ帰ってからもずっとそれがつづいたのだった。
この女に限らず、若い者たち、もしくは部外者や門外漢であるという人たち
。自分にわからん話、ついていけない話は、下手に参加しようなどと思わず
黙って聞いておれ。それが最低限のエチケットだ。
そして、それくらいの我慢ができないのなら、
酒席になど加わるんじゃない!
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58 勉強会の裏話

上方落語の各一門とも、駆け出しクラスや若手の落語家が、
あちこちの公民館やお寺を借りて勉強会をひらいている。
兄弟弟子でやっていることもあり、系統図で言えば
叔父と甥にあたる関係でひらいている会もあり、一門は違っても
同年次入門という「くくり」で、連携してやっている場合もある。
そんななかのひとつに関して、こういう話を聞いたことがある。

若手二人プラス駆けだしクラスというメンバーでやっていたのだけれど、
入門年次の古い落語家のほうが、あまりかほとんどか、
当日やるネタの稽古をしてこないのだという。本当かと聞くと、
若いほうの落語家が憤然とした顔と口調で、「してませんよ!」 
そしていわくは、「私、いっぺんあの兄さんに言わせてもらいますわ。
勉強会というたら、メンバーが刺激しあってこその会でしょう。
あれでは刺激にも何にもなりませんもの」
どうやら、彼は一生懸命稽古し、その成果で「受けよう」とするのだが、
相手はすでに別の要素で「売れて」いるので、そもそもその会に対する
姿勢や気の入れ方が違ってしまっているということらしかった。

だから若いほうがさらにいわくは、古年次氏のはるか兄弟子にあたる
ベテランがその会の客の入りを聞き、実数をこたえると、
「まだ、わかってへんな」という言葉が返ってきたという。
彼はその意味を聞き返したかったのだが、ちょっと怖い話だと感じて、
聞けなかったとのこと。つまり、その種の会にしては実数が多過ぎたわけで
、それは客がわかってないのか、古年次氏がわかってないのか、
そのあたりの「あやち」を聞きたかったのだけれどという話なのである。
というわけで、その会はほどなく、フェイドアウトへと向かいだした。
これを当方、「修業」ということに関する、
リアリティにあふれた良いエピソードだと思ったのだが、どんなものだろう。
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57 喜丸さんの偶然体験

通称、きまやん。2004年に、47歳という若さで亡くなった桂喜丸さんは、
桂ざこば師匠がまだ朝丸を名乗っていた時代のお弟子さんで、
兵庫県加西市出身。法政大学工学部に学び、在学中、
学生落語のコンテストで全国一位になったという。
落語と勉学(?)以外には興味がなかったのかどうかは知らないが、
後年、噺家仲間が仕事で一緒に上京し、タクシーが国会議事堂の前を通っ
たら、「へええ。これが国会議事堂かあ」と感嘆したので、
ずっこけたという話がある。
すなわち「天然ボケ」的な要素の強かった人物なのだが、
同時に周囲にかなりの気を遣う人でもあって、身体を壊したのは
「つきあい」酒を過度につづけたからだとも聞いたことがある。

そしてこの喜丸さんには、こういうエピソードもある。
内弟子時代、彼に関するある問題で朝丸師が悩んで落ち込み、
その果てに「やめてくれ」「やめません」の騒ぎになった。
枝雀師匠からも、「おまえがおると朝丸が駄目になる。
頼むからやめてくれ。手をついて頼むから」とまで言われたという。
けれども頑としてやめなかったのだが、
もともとの問題は解決しないままだったので、
「とりあえず一度、田舎へ帰っておいてくれ。また連絡するから」
ということになった。さすがに断りきれず、喜丸さん、
しょんぼりとして師匠の家を出た。そして新大阪駅で切符を買おうとしてい
たところ、そこに偶然、大師匠たる米朝師匠が現れて聞いた。
「何や、喜丸やないか。何してんねん」
「はあ。加西へ帰るんです」とこたえると、
まさか破門同然の状況だとは知らない米朝師匠、
「ああ、里帰りかいな。ま、がんばりや」 
それで喜丸さん、ふっと思い直し、こんなことをしてる場合ではないと、
そこからまた師匠の家にもどったのだという。

そして後年いわくは、「あのとき田舎へ帰ってたら、私はそのまま落語家を
やめることになってたに違いおませんわ」
ということは彼は、そこに米朝師匠が現れてくれたという偶然によって救わ
れたわけで、「米朝師匠は神さんですわ」という話なのである。
そこでぼくが思うに、これは「神さまの働きを、そのときその場で顕した人」
というニュアンスになるのであって、心理学者ユングいわくの
シンクロニシティ、つまり「意味のある偶然」の好事例だと考える。
この偶然体験がなければ、縁なし眼鏡をかけさせ羽織の紐に金鎖でも使わ
せれば似合いそうな、あの小太りした、独特の雰囲気を持つ落語家は育っ
てなかったのだ。噺もおもしろくて、好きだったんだけどなあ。
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56 パートカラー映画と笑い

昔々、ぼくが大学生ないしサラリーマンだった時代、
御存じの方は御存じ、パートカラー映画というものがあった。
現在もあるのかもしれないが、その種の映画をここ何十年も見てないので
、正確なところは知らない。その種の映画とは、つまり粗製濫造の
三文ピンク映画であって、制作費をぎりぎりにまで抑えるため、
導入部やストーリー進行の部分などはモノクロで撮影されている。
クライマックスに至り、濡れ場のからみシーンとなるや
突如としてカラーに変わり、それが済むとまたモノクロに戻るので、
パートカラーと称されていたのだ。
そして十代の終わりから二十代前半だったぼく、大阪の新世界、
神戸の新開地、西宮の今津など、当時は少々人気(じんき)の荒かった街
のうらぶれた小さな映画館でそれらを見ていたのだが、
この時点ですでに、はっきりと「笑い」の効用を知っていた。

というのが、その種の映画を見にくる客は、要するにカラー部分を見にきて
いるわけで、無論ぼかしが入ったり黒丸で隠されていたり
肝心のところは見えないのだが、そこを想像でおぎなって、
欲求不満を解消したりしていたのである。
だから突き詰めれば、この種の映画にストーリーなど不要であって、
総集編的に次から次へと見せてくれれば一番ありがたいのだ。
ところが変にマジなストーリーを持ち、主人公たるスケコマシ男が
女を相手に、人生を説いたりする映画があった。
オノレがベッドにひっぱりこんでおきながら、
「君、もっと自分を大切にしなくちゃいけないよ」などと言ったりする。
当時の言葉でいえば「ドッチラケ」つまり「チョーしらける〜!」もいいところ。
さらに、再婚した妻の連れ子たる娘を義理の父親が
四畳半一間のような安アパートで……、などというストーリーになると、
場末の映画館で見ているという内心の暗さ重さがさらに増幅されて、
救いのないような気持ちになってくる。
だからぼくは、観賞経験を重ねた結果、そういう似非マジもしくは
ネクラ作品にあたると、モノクロ部分では半眼でうとうとするようになった。
そして、まぶたの隙間が画面のカラー化を感知した瞬間、
パッと目覚めていたのだ。

ところが、たまにコメディ仕立てで、実にアホらしいストーリーで進んでいく
作品に出会うことがある。たとえば、新発明の特殊メガネをかけると
女性の衣服がすべて透け透けになるので、街頭でもオフィス内でも
女体の観賞し放題とか。アラブ某国の王様が第三夫人だか
第四夫人だかを求めて日本に来られたので、その座を狙う女性たちが
ヌード合戦、寝技合戦を繰り広げるとか。
こういう作品は、そのばかばかしさに思わず笑ってしまうので、
上記した内心の暗さ重さが「散らされ」、軽い気分で見ていくことができる。
ぼくにおける、「似非マジよりは、アホらしい笑いを」というスタンスは、
このあたりから固まりだしたのである。
ただし後年、業界体験記である『ザ・ロケーション』(津田一郎、ヤゲンブラ選
書)や、元プロボクサーでその種の映画にも出演していたコメディアン、
故たこ八郎氏の自伝『たこでーす』(アス出版)を読んで、
通常の映画では込めにくい「主張」を込めていた、
そんなピンク映画もあったと知り、若干認識を改めはしたのだが。
とはいうものの、たこ八郎のあの顔と年格好で、
学生服に学生帽の大学生という役柄。
しかもそれがコメディではないのだとなると、やはりどうもねえ……
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55 サバイバル姉御

ふざけたタイトルをつけたが、無論、誉め言葉。
TTB(テレビタレントビューロー)所属の、桜井一枝さんへの
尊称のつもりである。なにしろ、ぼくが初めて彼女と仕事をしたのが
昭和四十四年(1969)の夏。このとき桜井さんは
まだ「駆け出し」タレントで、当方はといえば、大学の四年生だった。
就職が決まった広告代理店に、アルバイトを兼ねて仕事見習いに通い、
初仕事がラジオの公開録音番組の、会場整理と椅子運び。
アシスタント役を勤める若くて元気な彼女を横目で見ながら、週一回、
パイプ椅子をえっちらおっちら運んでいたのである。
そして翌年、日本万国博がひらかれた年の春に正社員となり、
以後数年間、CM録音やイベントの司会など、多くの仕事をお願いした。
いわばぼくとは、業界同期生なのだ。

だから彼女のキャリアが持つ重みは、その世界の事情や競争の厳しさを知
る者として、実感をこめて理解することができる。
関西で、女性が、この種のタレント業を、現役で四十年近くつづける。
これは、想像以上に大変なことなのである。
(実は関西という狭いマーケットでは、男性タレントはもっと大変なのだが)
テレビにせよラジオにせよ広告関係にせよ、制作者側はとりあえず女性タレ
ントに、若さや目新しさを求める。アシスタントクラスなら、
よほど不器用とか陰気な子でない限り、コネを利かせたりして、まあ、
何年間かはやっていけるのである。だが、それのみで満足していると、
年齢が上がるにしたがって、仕事の幅が狭くなっていく。
アシスタントには使えず、商品片手ににっこりという雰囲気でもなく、
といってメインの役をまかせるには力が不足している。
これでいつしか消えていった女性タレント、ぼくが一緒に仕事したことのあ
る人に限っても、十本の指にあまる数なのだ。

「あのラジオの仕事をもらう少し前まで、私、
食堂の出前持ちのバイトで食べてたんよ」
そんな思い出話をして笑っていた桜井さんだが、精神的に少々落ち込んで
いた時期もあった。「あかんわ。仕事減ってしもた」。番組改編期に、
こうぼやくのを聞いたこともある。けれどもその後は堂々たるもので、
主婦兼母親兼タレントという庶民的なイメージを定着させ、
「ボケとツッコミ」両方可能という能力にものをいわせて活躍している。
朝の生ワイドはもちろん、年齢相応に(失礼!)
懐メロ番組の案内役が似合うようにも変身した。
東淀川区は十三(じゅうそ)のねえちゃんが、
おばちゃんとなって、たくましくがんばっているのだ。
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54 プレッシャーと夢など

前に桂吉朝さんに聞いた話として、そろそろ勉強会などで
自分がトリを取るようになってきた時期、
その前夜はほとんど徹夜で起きていたということを書いた。
起きて稽古しているわけではないが、
「何やしらん、寝るのが罪悪のように思えてきて」という内容だった。
それで思い出したのだが、同門の千朝さん、米二さんからは、
夢の話を聞いたことがある。

会が近づいてプレッシャーが高まったとき、千朝さんは学生時代の試験の
夢を見る。下調べを全然してないので精神的に追いつめられ、
しかし同時に、夢のなかでこう思うのだという。
「けど、おれはもう大人になってるんやから、
この試験は受けんでもええはずや……」
また、米二さんの夢は、楽屋が舞台になっている。会が始まる前、
楽屋にいると米朝師匠から、「おまえは、これこれのネタをやるんやったな」
と言われる。ところがそれは他人のやってるネタで、
自分はまだ稽古したこともない。驚き、困るのだが、
しかし師匠にそう念を押されたらやらざるをえないわけで、
その間にも刻々出番が迫ってきて、焦りに焦るのだという。

ちなみに、千朝さんの夢に関しては、ぼくも過去に長篇執筆期間中など、
まったく同じパターンの夢をよく見たものだった。
だが、もっかやらせてもらっているラジオの生番組については、
まだこの種の夢は見ていない。
早朝出勤で慢性睡眠不足になっているため、夢すら見ずに寝入っている。
それが第一の理由だろうと思うが、こういう理由も考えられる。
つまり、落語も小説も、自分一人で完成品を作り、自己の全責任のもと、
受け手に提供しなければならないが、ラジオはチームでそれをやる。
極端な話、ぼくが寝過ごしてトチろうが、毎朝送ってもらってるタクシーが
衝突して死のうが、番組はいつもどおり放送されていく。
そこの違いからだろうと思うのである。
なにしろ、誰だったか忘れたけれど、初めてちゃんとした会でトリをとるとき、
夢のなかではなく、起きてプレッシャーに耐えている最中、
「あのホール、火事で丸焼けにならんかしらと思いました」
と言った人もいるのだから。
(喜丸さんか宗助さんか、どっちかだったと思うのだが、間違ってたら失礼)
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53 講談師とその子息

こんなメモが出てきたので、何かの参考にと紹介しておくことにする。
日付は昭和62年(1987)の7月23日。場所は北新地の「猫8」というカウ
ンターバー。H氏は東京の出版社の部長(当時。現在は重役さん)である。

『H氏の父親は講談の神田山陽師とのこと。そこから話がはずみ、
聞いたエピソードの概略は以下のごとし。山陽師は戦前、
本の取次の店を手広くやっており、朝鮮にも支店か何かを出していた。
しかし終戦で駄目になり、それ以前から講談が好きで旦那芸としてやって
いたので、あちこちの師匠に教えてもらってプロになった。
財産食いつぶしの口であるとのこと。
本当なら誰それ門下ということになるのだが、旦那出身ゆえ、
名人上手のあの人この人に稽古をつけてもらえたのだと。
家は新宿の柏木。六代目円生師匠の近くであり、
古い一戸建てできたないので、テレビの取材などのときには、
母親が唐草模様の大きな風呂敷をかけて、きたないところを隠した。
H氏兄弟は奨学金をもらって学校へ行ったのだが、
それは成績優秀だからではない。区役所へ申し込みに行くと
すぐ認定されたのは、つまり「税金を払ってない」からだった。
貧乏暮らしを見て育っているので、こんな生活は嫌だと、
兄弟の誰も跡を継ごうとか、その世界に入ろうとは思わなかった由。
H氏、以前小松左京さんの担当をし、その縁で米朝師匠にも
会ったことがある。そのとき父親のことを言うと、「あんたのお父さんの弱み
、いっぱい知ってますわ」と、笑って言われたとのこと。
当方、それはつまり、夫人にばれたら大変だという話かしらと思う。
山陽師、現在78歳だかで、糖尿病の由。それで女性の弟子が
安心して入門してくるのではないかと、これはH氏の冗談なり』

メモによると、上記の話を聞いている途中に偶然、
浪曲の広沢駒蔵師が入ってこられ、マスターの紹介によってH氏と二人、
山陽師の話がはずんでいる。そして当方、駒蔵師の修業時代の話も聞か
せてもらっているのだが、その紹介はまたの機会に譲ることにしよう。
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52 追悼・桂吉朝さん

先日、すなわち2005年11月8日、
桂吉朝さんが50歳という若さで亡くなった。直接の死因は心不全という発
表であるが、癌の再発で昨年十一月から療養中の身だった。
思い起こせば、お互い、まだ若い時代からのつきあいだった。
梅田の阪急東通り商店街近くに、「フミノ」という、お婆さん二人がやってる
安い安い飲み屋があり、そこで桂歌之助さんや雀松さん、
ときにはべかこ時代の南光さんもまじって、わあわあ言っていた。
落語家以外のメンバーは、ぼく、堀晃さん、小佐田定雄さん、落語マニアの
歯科医である原田泰さんなど。そこから少し歩いた場所にある
「ストローハット」というスナック、ここは雀三郎さんが開拓したという、
これまた安い安い店なのだが、そこでもよく飲んでしゃべったものだった。

以来吉朝さんとは、三題噺の会をやったり、新作落語の競演会をしたり、
高野山の落語会に参加したり、宝塚の温泉旅館で会をしたり、
金比羅歌舞伎を見に行ったり、西宮の「えべっさん」で見せ物を見たり、
さまざまなつながりがあったのだ。
その間、彼は太融寺というお寺の広間、北浜のコスモ証券ホール、そして
晴れ舞台である産経ホールへと、活躍の場を大きくしていったのだが、
その進歩向上に関しては、2003年の秋、国立文楽劇場でひらかれた
「米朝・吉朝の会」のプログラムに、『自省をこめて』と題して、
一文を書かせていただいたので、ここに紹介しておくことにする。

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かなり以前、SF作家仲間で、自分たちを小粒と認めて、
こんな話をしたことがある。
「小松左京さんの仕事の、あの分野は誰が継げる、この方面は彼が継げる
と言えるけど、全体を継げる人間はおらんのよなあ」
連鎖的に、「米朝師匠の仕事の」という話題も出て、芸のレベル、ネタの数
や多様性、研究面での業績など、すべてを継げるのは、
ううむ、やはり……、という結論になった。
一方それと同じ頃、ぼくは吉朝さんの進歩に関して、落語会の会場を土地、
そこに構築する落語世界を建物にたとえて、思っていた。
「小さな土地、中規模の土地に建てる家屋なら、いまや常に上々の出来だ
。しかし、その建物をそのまま、大きな土地へ移すわけにはいかんだろう。
次のステップは、大きな土地に大きな家屋を建てることじゃないかな」
で、それから十何年かが過ぎた現在、吉朝さんは、どんな大きな土地にも、
堂々と大きな家屋を建てられるようになっている。
無論、勉強と努力の結果であるはずで、
この「米朝・吉朝の会」という企画は、それを認めた師匠からの贈り物、
さらに階段を上がるための、「場」の提供であろうと思う。
この八月、サンケイホールの米朝一門会において、師匠が解説し、
吉朝さんが実技を示すという、上方寄席囃子のコーナーがあった。
そのとき、ぼくは吉朝さんの芸を眺めつつ、それを見まもる米朝師匠も注視
していたのだが、まさに「慈父」の顔をしておられた。
「すべてを継ぐ」のは至難の技だろうが、慈愛のまなざしを受けられる幸せ
をかみしめつつ、がんばっていただきたいと思う。
偉大な師匠に近づく、次のステップは何だろう。
ときには自分が損をしてでもという、無私の姿勢の強化かもしれない。
小松さんも米朝師匠も、それが「徳」となって蓄積され、
仕事の品格を高めていると感じるので……
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補足しておくなら、コスモ証券ホールの時代、彼の噺を聞き終えて、
「完璧やないか!」と思いつつ拍手していたことが何度もあった。
それがつづくと、マニアのいやらしさで、
「何やねん。いっつも、おもろいやないか」と思ったりし、
そこで上記の「土地と建物」論を考えるようになったのだ。
また、文末の「無私の姿勢の強化」は、日本古来の芸能や武術の考え方を
土台にしている。すなわち、「上手」や「強豪」のノベルにまで達した者が、
さらに「名人」「達人」の域に入ろうと思うなら、
人間を大きくしていくことが次の修業になるという。
吉朝さんもその領域に到達していると感じたので、米朝師匠や小松さんの
徳性を思い、もっと大きな「損」をというメッセージを送ったのだ。

無論これは金銭面のことではなく、
吉朝さんがこれまで損をしてこなかったという意味でもない。
けれども、彼における無駄の仕方と損の仕方を比べた場合、
後者がいささか少ないようには感じていた。一方当方、大きな損を重ねてい
ると、それがあるとき逆転して大きな得になり、その得はイコール徳にもな
るらしいと、近年、漠然とながらわかりかけてきたように思っている。
そこで、まさに「自省をこめて」、こういう一文を書かせてもらったのだ。
それにしても、50歳は若過ぎる。
そしてまた、米朝師匠がお気の毒でたまらない。
一門の弟弟子や、吉朝さんのお弟子さんたちの
決起奮闘を切にお願い申し上げます。
(44に、「桂吉朝さんに聞いた話」というのもあります)
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51 不思議な実演

小学校の低学年期、昭和二十九年から三十二年までを、
父親の転勤によって新潟で過ごした。
あちらではまだテレビは普及しておらず、そもそもテレビ局すらなく、
子供の娯楽といえばラジオと少年雑誌、あるいは貸本漫画の時代だった。
そしてもうひとつ楽しみだったのが、学校にやってくる巡回公演の人たちで、
バイオリン奏者が来た、ハーモニカを吹くおじさんが来た、
人形劇団「プーク」も来て夢幻的な舞台を見せてくれた。
教育の一環として、子供たちを芸術にふれさせてくれたのである。

ところが、いま考えると、あれが果たして教育のためになったのかと、
思わず腕を組んでしまう人もやってきた。忍術使いの小父さんがそれで、
見せた技は以下のごとし。生徒を一人講堂の壇上にあげ、
片手を自分の頭にくっつけさせる。そして気合い一発。するとその手は、
頭から離れなくなってしまい、小父さんはそのワッカ部分に自分の腕を入れ
て生徒を持ち上げ、その場でぐるぐるとまわしてみせたのだった。
次に長い鉄の棒を用意し、男の先生数人を壇上に呼んで、
自分は中央で椅子に座る。何をするのかと思うと、
その鉄棒の中央部分を自分の顎に当て、左右の端は先生たちが握って、
力を合わせて後方へひっぱれという。つまり鉄棒を顎で曲げる技であって、
合図とともに先生たちは言われたとおり力を合わせ、
気合いを発するおじさんの顔が見る見る真っ赤になって、確かに、
直径二センチほどだったと覚えている鉄棒(鉄パイプだったかな?)が、
ぐにゃりと曲がっていたのである。
さらにこの小父さん、となりの中学校でも実演をしたのだが、
そこでは五寸釘を自分の腕に打ちつけるという荒技を見せたらしい。

で、いま考えているのだが、これはいったい何だったのだろう。
小父さんの立場を強いて分類すれば、身心鍛錬の成果を見せる、
「武術」芸人ということになる。それはわかるし、アッパレだとも思うのだが、
その人を、誰がどんな意図で呼んだのだろう。
片手くっつけ術や鉄棒の顎曲げに五寸釘の腕打ち。
小中学生にそれらを見せることに、どんな教育効果を認めていたのだろう。
生徒たちが真似したら、怪我をすること必定で、
いまなら呼んだだけでPTAやマスコミが騒ぐ大問題になると思うのだが……
現在では考えられない企画であるだけに、「わからんなあ」とばかりに、
しきりに首をひねっているのである。ただし、否定的にではない。
あまりのアホらしさに感服し、好意的にニヤニヤ笑いながらであるが。
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