落語・演芸・笑いのノート 81〜90

90 「優」は取れても……

検定ブームであって、先般、大阪府立上方演芸資料館も
「上方演芸クイズ、笑検(わらけん)」というものを実施した。
そしてその問題用紙を見せてもらったところ、
落語に関してなら百点を取れることがわかった。
たとえば問題1、落語「ちりとてちん」に出てくる
長崎名物「ちりとてちん」は、どんな食べ物が腐ったものか。
問題5、父親も落語家であるのは(次の四人のうち)誰?
問題29、毎年9月に生国魂神社で行われている、
上方落語家が一同に会するお祭りとは?
問題にはそれぞれ四つの選択肢が用意されているのだが、こんなもの、
他の諸問題を含めて、それを見るまでもなく鎧袖一触である。

またその他の演芸についても、ほぼ正解が出せるとわかった。
問題4、B&Bの島田洋七が書いたベストセラー小説の題名は?
問題10、(次の4組のうち)兄弟コンビでないのは? 
問題18、ほんの一時期、「伊井パンチ」の名前で
テレビにも出ていた元漫才師は誰でしょう? 
問題39、ゼンジー北京の決まりセリフは?
このあたりなど、マニアックな設問も混じっているが、楽勝なのだ。

しかしなかには、う〜むとうなって考え込むものもあった。
以下、要点だけを書かせてもらうが、
松竹芸能の人気コンビ「よゐこ」の改名前のコンビ名、
陣内智則が以前組んでいたコンビ名、
小藪千豊の漫才師時代のコンビ名。
これらがわからなかったわけで、例によって四択問題だから、
多分これだろうなと見当のつくものもあるが、やはりこころもとない。
全体として、まあ85点から90点という見当だったのである。
しかしこれ、得点が「優」のレベルだったと言っても、
関西以外では尊敬されもせず、一目置いてももらえんでしょうな。
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89 仰天、驚愕しましたね

以前、東京の落語家、快楽亭ブラック氏のCD
「放送禁止落語大全」を聞いたところ、いやまあとんでもないモノで、
殿下や妃殿下が実名で登場して、
○○などとおっしゃる、××なんぞをなさる。
「これはそもそも、いかなるメッセージをこめたものなのか。
御当人の心の根底にあるのは、憎悪なのか軽蔑なのか、
それとも超過激な受け狙い精神なのか?」
見当がつかず呆然としたのだったが、数ヶ月後に偶然、新右翼
鈴木邦男氏の「愛国者は信用できるか」という本を読んでいたら、
いきなりブラック氏が出てきて、鈴木氏以上の
「憂国の情」を披露していたので仰天した。

鈴木氏とブラック氏はときおりライブでトークショーをやっているそうで、
あるときのそれで、ブラック氏が
「昭和天皇の犯罪」について言及したのだという。鈴木氏、
「普段は愛国者的な発言をするブラックさんには珍しいと思った」ので、
戦争犯罪のことかと聞くと違うという。昭和天皇には戦争責任はないが、
側室を廃止したことに罪があるのだという。
そのショーが開かれたのは、女性天皇論議が盛んだった時期らしく、
側室廃止によって「後継ぎはいなくなった。天皇制を危機に陥れた。
この責任は大きいですよ」とのことなのだ。
「えーっ。ブラック氏は、普段は愛国者的な発言をする人だったのか。
そしたらあの放送禁止落語の根底には、裏返しになった、
皇室に対するレンケツの情があったのか!」
驚愕しつつ、今度は、「それでは、そのレンケツの情の根底には何が?」
などと、考えだしていたのだ。
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88 この公演、ぜひとも実現を! 

このノート、いつのまにやら88回になった。漢数字で書けば八十八。
桂米朝師匠のファンなら、いまこれを反射的に
「やそはち」と読んだことだろう。すなわち八十八(やそはち)とは、
米朝師匠の俳号。「米」の字を分解しての読み方なのである。
また米朝事務所の関連会社は、その名を「エイティエイト」という。
そこで思うに数年先、米朝師匠の米寿記念、
つまり八十八宗匠がめでたく八十八歳を迎えられたときのお祝い公演は、
どれほど賑やかで大入り満員で、嬉しく盛り上がるものになるだろう。

落語家の長寿記録としては、数え年の九十歳まで現役だった
橘ノ円都師がおられ、昭和46年だったか7年だったか、
京都で開かれた「円都・米朝二人会」における
お二人の対談を収めたレコードは、円都師匠がすでに
「何を言ってもおかしい」境地に達しておられたため、
まさに抱腹絶倒のおもしろさを伝えてくれている。
米朝師匠の米寿記念には、ぜひともそれを越す対談を
お願いいたしたいのである。お相手は、どなたがよろしいのか。
一門からなら? 他の一門にも広げて考えれば? 
落語家以外からも人選すれば?
いやあ、楽しみですなあ。
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87 上方落語界の活況を祝う

一月五日、ワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)のホールで、
桂歌々志さんの、三代目桂歌之助襲名披露公演が行われた。
師匠は、若くして亡くなった先代の歌之助さん。
その彼と、生前おつきあいをいただいていた御縁で、
ぼくもプログラムに祝辞を書かせてもらい、嬉しさを味わえたのであるが、
同時に「時の流れ」ということも、強く実感していた。

当方、上方落語を聞きだしたのは中学時代(昭和30年代後半)で、
高校では友人と落語研究会をつくり、文化祭で口演もした。
ところが当時は、一般向けに発売されている上方落語のレコード集や
速記録などは皆無に近く、録音機器もオープンリールの
テープレコーダーがあっただけという時代。
そんな高額商品は買えないので、とにかくテレビやラジオの
落語番組を真剣に見聞きし、終わるやいなや、
必死に思い出してノートに書き出し、覚えていたのだ。
また後年、高校や大学の落研出身者が少なからずプロになりだしたが、
当時のぼくには、とても考えられることではなかった。
「こちらは素人が遊びでやってるだけ。あちらは資質に恵まれた人たちが、
厳しい修業を経て才能を開花させた、玄人の別世界」
そう思っていたからで、実際アマチュアとプロとを区切る壁は、
いまより格段に高かったのだ。

ともあれ、以来四十数年。おりにふれて勉強会を聞きに行き、
独演会を楽しみ、作家になってからは、ほぼ同年代の落語家さんたちと、
おつきあいをさせてもらえるようにもなった。
冒頭に書いた先代歌之助さんがその一人で、新作落語の会をやったり、
会の中入りにミニ対談をしたり、機嫌良く「遊ばせて」もらった。
これまた若くして亡くなった桂吉朝さんとも、三題噺の会を開いたりしたし、
歌之助、吉朝、当方の三人で、
四国の金比羅歌舞伎を見に行ったこともある。
そしてそんな交遊の過程で、二人の兄弟子である故桂枝雀師匠、
教えの親である桂米朝師匠にも御面識をいただくようになったわけで、
往年の落語少年にとって、これは本当に夢のような話なのだ。

先日の歌之助襲名披露公演は、チケットが前売り段階で完売、当日は
補助椅子や立ち見も出るという盛況だったし、口上に出られた米朝師匠は
、孫弟子の成長に大きな期待を示しておられた。
襲名ということでは、故桂春蝶師の御子息桂春菜さんが、
今年中に父親の名前を継ぐとも聞いており、戦後初の落語定席、
天満天神繁盛亭も好調の入りで、新しい客層が生まれてきているという。
昭和四十年代後半に一度、上方落語ブームがあったのだけれど、
それに劣らぬ活況には、「ひねた」ファンたる当方も嬉しくなり、
「何か私に協力できることがございましたら」と、
言いたい気持ちにもなってくるのである。
というのが、現在ぼくはラジオ番組を持たせてもらっているのだが、
女性アナとの対話やゲストとの会話、リスナーからのメール紹介などに、
長年上方落語を聞いてきた経験が、どれだけ役立っているかわからない。
その「恩返し」を思うからなのだ。
(1/17付けの日経新聞、関西版夕刊に書いたものです)
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86 どうぞ、師匠を「顕して」ください    

三代目、桂歌之助様。あなたの師匠、二代目歌之助さんを、
私たちファンは「歌さん」と呼んでいました。
真面目で偏屈で理屈っぽく、ときに鬱積と焦燥の感も漂わせ、
同時に照れ性で気遣い屋で笑顔がかわいらしく、
功利のために対人姿勢を豹変させることのない、
「義」ということを心得た人でもありました。

しかしその歌さんは、「惜しかったなあ。もうちょっとやったのに!」
という段階で、亡くなってしまわれました。右に列記した特性ゆえか、
間々、噺に「重さ」や「こわばり」が出ていたのですが、
一方で「明るさ」「軽さ」も目立ってきていたため、私は、本当にもうちょっと
でふっきれて、自在の境地が拓けるはずだと実感していたのです。

そして新しい歌之助さん、あなたはその師匠からネタを教わり、
芸風を受け継いでいるとともに、それら一切の由縁や変遷も
心に収めておられるでしょう。それはすなわち、あなたの内部に
あの歌さんが、そっくりそのまま潜在しているということです。
だからこれからは、「師匠。一緒に演じてください」と念じて、
高座に上がってください。すると、好演熱演があるレベルを超えたとき、
あなたの落語世界のなかに師匠も顕れ、
私たちファンに深い懐かしさと喜びを与えてくれることでしょう。
なぜならそのとき顕れる師匠は、ふっきれた先の、
自在の境地に遊ぶ歌さんに違いないのですから。
ますますの御研鑽を、お祈りいたします。

(上記は、襲名披露公演の、プログラムに書かせていただいたものです)
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85 考えるたびに困惑が増す

「天才伝説」(小林信彦、文藝春秋)、
「横山やすし夢のなごり」(古川嘉一郎、KKベストセラーズ)、
「やすし・きよしの長い夏」(近藤勝重、新潮社)、
「吉本興業、女マネジャー奮戦記、そんなアホな!」(大谷由里子、
朝日文庫)、「やすし・きよしと過ごした日々」(木村政雄、文藝春秋)。
これら、順不同で挙げた本をおりにふれて読み返しているのは、
横山やすしという人の本音本性が、いつまでたってもわからず、
思い出すたびに困惑の感を覚えるからである。

ただしわからないのは当然のことで、そもそもぼくは
御当人と話をしたことがない。早い話が赤の他人だったのだから、
その素顔など、わかるわけがないのだ。
もっとも接近遭遇は二度だけあって、一度は前にこのページでも書いた、
梅田花月の楽屋へ西川きよしさんを訪ねたとき。
西川さんが「雑誌のインタビューの人や」と紹介してくれ、
横山氏は何の興味もなさそうな顔でただひとこと、「そうかいな」。
もう一度はホテルプラザの高層階からエレベーターで降りていると、
途中階からいきなり御当人が乗り込んできたとき。
隙のない整髪ならびにスーツ姿で、しかし一瞥でわかる
「いらいらピリピリ」状態。一緒に乗っていた某氏が、
乗ってくる姿を見るなり、「おっ」などと声をもらしたため、
当方、どなりつけられるのではないかとヒヤッとしていた。

で、それはそれとして、御両人の漫才は花月で生で見たことがあるし、
テレビの演芸番組では数え切れないほど見ている。
そして「うまい」と思ったし、いまも「さすがに、うまかったなあ」と
思ったりはする。ところが、記憶が定かではないので
初期からか途中からかは確言できないのだが、
申し訳ないことに、「おかしい」と感じたことがない。
この場合、初期というのはコンビを結成した昭和四十一年からの
若手時代、途中からというのは、やすし氏が最初の暴力事件を起こした
四十五年以降、数々の事件を起こしては謹慎と復帰を繰り返していた
そんな時代をさすのであるが、とにかく「うまい」とは思っても
「おかしい」とは感じないので、心にも顔にも笑いが生まれなかった。

そしてその原因には見当がついていて、
もし初期からそう感じていたのなら、そのときには
西川きよしさんの表情や言葉に、緊張や遠慮による「こわばり」があって、
まだ「うまい」域には達していなかったからかもしれない。
途中からなら、これは明らかに、やすし氏の起こした事件や
それにまつわる言動を、ぼくの基準においては
「シャレにならん」と感じていたからである。
芸人さんの世界には「やんちゃ」という言葉があるらしいが、
その範囲をはるかに越えた、独善と傲慢の臭いを感じていた。
それに対するマイナス感情が作用して、
漫才にも没入できなかったからだろうと思うのだ。

「誰かそのあたりのことを、御当人のトラウマやコンプレックスなどにも
立ち入って、事分けて説き聞かせてあげる人はおらんかったんかいな」
そう思いつつ上記書籍を読み返すと、たとえば「天才伝説」には、
猛スピードで車をぶっとばしていた氏が、
近所の子供が遊んでいる自宅近くに着くと超スロー運転になり、
その子供たちに怪我でもさせたら自分の子供がいじめられるからと
つぶやくエピソードが出てくる。
そう思うのなら、なぜその範囲を広げ、
世間とか社会とかを視野に入れなかったのかしらと思うのだが、
そうなれば「横山やすし」ではなくなると言われるかもしれず、
しかし大谷由里子氏の表現によれば、その「横山やすし」は、
「自分で自分に押しつぶされて」いっている。
「誰かそのあたりのことを」と、今度は疑問が増すのである。
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84 メモする暇に覚えなさい

桂九雀さんのメールによる公演案内。
そこには折々の話題も書かれているのだが、
最新号(06/12/01着信)に概略こんなことが記されていた。
「最近、自分のブログに落語会の感想を書く客がふえたためか、
上演中にメモを取っている姿をよく見かける。演者側からよく見えるし、
となりの客が視線をそちらに向けたりもしている。
顔見知りで落語作家を志望している若者もそれをやっていたので、
落語家には評判が悪いこと、若いのだから要点は頭で覚えるようにと伝え
、彼はそれを素直に聞いてくれた。メモを取らない分、舞台に意識を集中さ
せているはずなので、今後の仕事に必ず役立つことと思う」云々。

これは、まったくそのとおりである。
演者や他のお客さんに失礼だということについては、
「誰が何をしてようと、そんなこと一切気にはならんくらい、
他の客をひきつけるのが演者の腕だ」という考え方もあるから、
賛否が分かれるかもしれない。
しかしブログに書くためとか、将来の仕事の参考のためにと思ってメモを
取るのは、本末転倒だと思う。感想や意見や批評は、
まず口演を受け入れ、楽しみ、味わったあと、あらためて考たり
まとめたりするのが本当であって、聞いている最中にメモなどしていたら、
それは噺の世界に没入していないということだから、
あとでまとめる感想も、没入せずして述べている感想になってしまう。
それがさらに進むと、感想を書くために聞く、そのためのメモを取るために
聞くという心理態勢になってしまい、まあ自由と言えば自由だけれど、
落語を楽しむことにはならないと思うのだ。

また落語作家志望者についても、同じく没入してないのだから、
そうやって残したメモは逆に将来の参考になりにくいのではないか。
それよりも、九雀さんが伝えたとおり「頭で覚える」ことの方が、
はるかに有効な準備作業になる。
印象や感想、おかしかったくすぐり、みごとだった一瞬の表情。
それらを覚えて帰り、その晩でも翌日でも、思い出して文章化していく。
これが恰好の頭の訓練になり、先の仕事の資料にもなっていくのだ。
ぼくがこのノートに書いているさまざまな経験談やエピソードにしても、
現場でメモを取ったものなどひとつもない。素材にしているのはすべて、
覚えて帰り、翌日思い出して書いたメモなのである。

大抵は、頭のなかであれこれ想像しながら自然体で噺を聞き、
翌日「思い出せる」ものだけをメモ化しているわけだが、
仮に「覚えておかなければならない!」という意思で意識集中すれば、
全出演者に関する印象や感想から、終演後の「打ち上げ」の席で出た
興味深いエピソードまで、大概のことは記憶しておくことができる。
仕事柄その訓練をしてきたからであって、訓練すれば誰でも、
酒席における複数の人間の2時間余りの雑談でも、
要点は想起してメモできるようになれるのだ。
まあそんな場合には、帰りの電車のなかで、
手帳に想起すべき項目だけ急いで控えておいたりはするけれど。
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83 動きのギャグの文章化

趣味と勉強を兼ねて、テレビの中継録画番組で、
NGKの吉本新喜劇を努めて見るようにしている。
ストーリーや進行の手順は先刻承知といった型が多いが、
ギャグ・冗談・くすぐり、そういったもののなかに、
ときどき意表を衝かれるものが混じったりするからだ。
そして、見ていて毎度思うのは、当然のことながら
「ううむ。これを文章で、活字で示して読者を笑わせようと思ったら、
大変だなあ」と感じる、「動き」の笑いが多いこと。

たとえば舞台上が旅館の離れという設定、社長と部下と若い女がおり、
社長は不倫旅行中で、その女とペアルックのセーターを着ている。
そこへ突然社長夫人がやってくる。社長はあわててセーターを脱ぎ、
部下に着させて、その場をごまかす。社長夫人が別の部屋へ行くと、
社長はまたセーターを着る。夫人がもどってきそうになると、
ふたたびあわてて部下に着させる。夫人、あれこれ用事があって
舞台を出たり入ったりし、そのたびに旅館の従業員も手助けして
同じ動きを繰り返すのだが、何度目かに旅館の従業員
「手をつなげ。手を!」と指示する。
そこでセーターを着ている社長と着ていない部下が
向かい合って両手をつなぎ、頭を低くする。従業員、
社長のセーターを裾からくるっとめくってそのまま部下側へと移動させると、
一瞬にして部下がセーターを着ている姿になる。場内、大爆笑。
テレビを見ていたぼくも、これにはあっけにとられて噴き出した。
無論、セーターは裏向けになっているので、もどってきた社長夫人に
それを突っ込まれ、場内再爆笑となる。

とまあ、とりあえず味も素っ気もない説明文で紹介したわけだが、
この場面を小説の地の文と会話で、あの舞台の
軽さやスピード感を出しながら表現しようとしたら、どれほど難しいことか。
仮にみごとに書けたとしても、それを読んで笑うのは喜劇の型、
動きのギャグを知っている人であって、そんな予備知識のない人を
笑わせるのは、不可能に近いのではないかと思ったりするのである。
事例ひとつだけで随分スペースを取ってしまった。
簡潔に書いても取らざるをえなかったわけで、ここから考えても、
演劇の1シーンが持つ情報量、非常に大きいことがわかる。
ほかにも、「ひょっとこ」風の顔で売っている人物を皆で延々からかい、
当人が「ひょっとこから離れろよ!」とどなった途端、
舞台上の全員が彼から走って離れて姿を消すギャグもあり、
これなど蜘蛛の子を散らすその様子がおかしいのだけれど、
文章で、全員蜘蛛の子を散らして消えたと書いたって、
おもしろくも何ともないものになりそうなのだ。
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82 住んでいた人たち

小学校5年の初めから高校1年の終わりまで、大阪府豊中市に住んだ。
その中学時代くらいまでだったか、テレビでは「やりくりアパート」
「番頭はんと丁稚どん」「ラーメン親子」「一心茶助」など、
大阪ローカルのコメディ番組が、次から次へと放送されていた。
大村昆、佐々十郎、芦屋雁之助、芦屋小雁、茶川一郎、
夢路いとし、喜味こいし、といった面々の出演で、
作者としては花登筺、山路洋平などの名前を覚えている。

そして、このなかの佐々十郎さんの自宅は、当時ぼくが住んでいた家の
すぐ近く、通っていた小学校からも近いところにあった。
学校からの帰り道、ひょっとして会えるのではないかと、
友達と一緒にその家の前まで行ったものである。
こじんまりとした平屋で、新築ではなかったから、
中古の売り家を買ったのだろう。
また、「てなもんや三度笠」以前、亜細亜製薬の「ベルベ」という
アンプル剤のコマーシャルで人気者になっていた藤田まことさんの家は、
別の校区、当時の豊中警察署の斜め向かいにあり、そこへも遠征した。
同じく新築ではなく、間口も狭かったが、こちらは二階建て。
表札には原田という本名が記されており、
その横に小さく藤田と注記されていたと覚えている。
佐々、藤田、御両人とも自宅前で見かけたことはなかったが、
藤田さんは挨拶のためか打ち合わせのためか、通っていた小学校の近く、
国道176号線沿いにあった亜細亜製薬の本社ビルへ向かう姿を、
何度か目撃したことがある。もっとも、一度は大きなシェパードを連れてだっ
たから、単なる散歩だったのかもしれない。

そして、歳月が流れて社会人になり広告代理店に勤めだしてのち、
ある推薦広告の原稿を受け取りに、ぼくは花登筺さんの家へ出向いたこと
もある。これまた豊中市内で、確か高級住宅地である東豊中だったと思う。
広い丘状の敷地内にある上品なお屋敷といった雰囲気で、
門から玄関へと上がっていくと、複数の飼い犬に猛烈に吠えられた。
案内を請い、広い玄関先で立って待っていると、
なかから出てきたのは無論のこと花登さん本人ではなく、
マネジャーなのかお弟子さんなのか、とにかく若い男性だった。
封筒に入れた原稿を受け取り、礼を言って、そのまま帰ってきたのである。

そしてさらに、作家になってのち、ぼくは記憶のあれこれを掘り起こすため
何度も豊中市内をうろついたのだが、あるとき偶然、
茶川一郎さんの家を発見していた。
阪急宝塚線の曽根駅から岡町方向へ歩いていたときで、
古くからある閑静な住宅街のなか。生け垣と古びた木の門があり、
家屋は少し奥まったところに位置しているという、
芸名を記した表札に気づかなければ、少しも目立たない和風の家だった。
何かの参考になればと思い、書いておく次第である。
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81 詭弁やと思います

古いメモでこんなのが出てきたのだが、
名前を出すわけにはいかないのであしからず。
『○○君、師匠にソープかどこかへ連れていってもらったのはいいが、
数日後、クラミジアか何かで、「お大切のお道具」の具合がおかしくなった。
師匠に「あのう……」と伝えると、「すぐに病院へ行け」ということになり、
行って診察してもらってその結果を電話で報告すると、師匠は、
「うんうん。ああ。ああ、そうか。うん」などと相槌のみ。
それはそばに夫人がいたからで、その夫人が「何の電話ですか」と聞くと、
「いや。誰それがまた飲もうと言うてきたんや」などと、ごまかしたとのこと』

こういう話はよく聞くのであって、落語でも漫才でも、
師匠や兄弟子がその方面の面倒を見てやるのが、
ひとつの慣習(?)になっているのかもしれない。
そしてなかには、それをきっかけに「溺れて」しまい、
無茶な遊びで身を滅ぼす者も出てくるわけである。
しかしもちろん堅物もいるわけで、亡くなった東京の柳家小さん師匠は、
若い時代、吉原へ連れていかれても逃げて帰ったという。
また、同じく亡くなった六代目松鶴師匠には、
「飲む・打つ・買う」の遊びに関して、「それが芸の肥やしになるというのは、
詭弁やと思います」という、きっぱりとした言葉がある。
逃げて帰っても、人間国宝になる人はなる。松鶴師匠のこの言葉には、
若い時代以来遊び倒してきた(と思われていた)人の意見だけに、
「覚めた」深さを感じるのだ。
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