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間取り、どう? 佐久間學
このオーケストラの本拠地で、今回のレコーディングでも使われたホールは、2011年にカンザスシティに出来たばかりの「カウフマン・センター・フォー・ザ・パフォーミング・アーツ」という、2つの大ホールを持つ施設の中の、「ヘルズバーグ・ホール」というところです。 ![]() ![]() ![]() ![]() いずれにしても、こんなうらやましいホールで録音されたこのオーケストラの音をサラウンドSACDで聴くと、ここの音響がとても優れていることが分かります。もちろん、これはあくまで客席で聴いているという設定での音場になっていますから、オーケストラ全体がきっちりフロントに収まっていますが、おそらく、観客が入っていない時に録音されているのでしょう、ホール全体の包み込まれるような響きがしっかり感じられます。その残響は、どちらかというとワインヤード型ではなく、シューボックス型のような感じがします。これは、おそらくバルコニーからの反響がかなり効いているからなのでしょう。 指揮者のスターンは、そんな、とても気持ちの良いサウンドの音響を知り尽くしているのでしょう。ここで繰り広げられる「惑星」は、決して力ずくで鳴らしまくるというのではなく、もう響きはホールが作ってくれることを想定して、とてもバランスのとれたクレバーな鳴らし方をしているようです。その結果、音楽は無理なく、「火星」のダイナミックさ、「金星」の静かさ、「水星」のトリッキーさといったそれぞれの曲の特徴をくっきりと描き出しています。もちろん「木星」は、あまりにも有名になり過ぎたこのテーマを、たっぷりと歌わせています。 そして、まるでデュカスの「魔法使いの弟子」のような雰囲気を讃えた「天王星」を経て最後の神秘的な「海王星」へと続くのですが、この曲の終わり近くに登場する女声合唱が、それまでの快適さをぶち壊すようなことをやってくれました。歌い出しの「G」のユニゾンが全く合っていなくて、まるでクラスターのように聴こえてきたのですよ。ここでの合唱は、あたかも空気のようにひっそりと出てきてほしいのに、これではまるで宇宙怪獣が現れたようです。それ以降のハーモニーも、ピッチが暗めで邪魔でしょうがありません。残念です。 カップリングが、ホルストが作った「The Perfect Fool」というオペラの中のバレエ音楽です。このタイトルを「どこまでも馬鹿な男」と訳した人は天才でしょう。先ほどの「天王星」のテイストをそのまま受け継いだような音楽で、「大地の精の踊り」、「水の精の踊り」、「火の精の踊り」の3つから出来ていますが、真ん中の静かな踊りでは、ピッコロやフルートのうっとりするようなソロが聴けます。もっと頻繁に演奏されてもいい曲ですね。 SACD Artwork © Reference Recordings |
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「オパス〜」は自筆稿が260ページ、マッジのCDは5枚組で演奏時間が234分23秒でしたが、今度の曲は自筆稿が335ページでCD7枚組、演奏時間は503分3秒ですからね。 ソラブジは、ゾロアスター教徒のインド人で土木技師の父親と、イギリス人のソプラノ歌手(かつてはシチリア系とスペイン系の混血という誤った情報が伝えられていました)との間に生まれました。96歳で亡くなるまでに、100曲を超える作品を残しています。その中には、自筆稿が456ページの「100の超絶技巧練習曲」というまさにギネスものの曲もあります。 今回の作品は、1949年に完成された「死者のためのミサ曲の中の『ディエス・イレ』によるセクエンツィア・シクリカ」というタイトルです。実質的には「セクエンツィア」という、「レクイエム」ではおなじみの最初に「Dies irae」で始まるテキストに本来付けられていたグレゴリオ聖歌のメロディを使った、27の変奏曲です。ただ、その変奏曲の中でも第22変奏などは「100のパッサカリア」といって、変奏曲の中にさらに100曲もの変奏曲があるという構造で、これだけでも100分近くかかりますから、どんだけ大規模な作品かはうかがえるはずです。 これが完成したのは1949年でしたが、ジャスティン・ルビンによって初演されたのは1999年のことでした。しかし、それは全曲ではなくほんの一部だけでした。そののち、ソラブジの作品を管理している「ソラブジ・アーカイブ」は、2002年に、その頃ソラブジの作品を頻繁に演奏していたピアニスト、ジョナサン・パウエルに、この曲の全曲演奏を依頼します。パウエルは他の演奏の予定をこなした後、2008年12月に第13変奏までを、2010年1月に残りを演奏、同じ年の6月には晴れて全曲の「世界初演」を行ったのです。 それ以降もパウエルは全曲演奏を何度も行い、その総決算として2015年の9月から12月にかけて6回のセッションを設けて録音されたのが、このCDです。 この作品のテーマとなる「Dies irae」は19個ほどの三行詩が集まったものですが、グレゴリオ聖歌ではそのメロディは5種類ほどしかなく、それを繰り返し使っています。ソラブジは、それを全部並べたものをテーマとして最初に提示しています。 ![]() 中には、冒頭がサティの「ジムノペディ」そっくりの曲(第8変奏)や、タイトルからして「ドビュッシー風に」という第19変奏のように、完全にその作曲家のスタイルを模倣したものもあります。「ドビュッシー」では、ほとんどその印象派の作曲家の知られざるピアノ曲か、と思ってしまうようなアンニュイな流れの中に、思い出したようにグレゴリアンのテーマが顔を出すのが、ユーモアすら感じさせてくれます。 もちろん、圧巻は先ほどの「パッサカリア」と、最後の第27変奏を飾る様々なフーガ群です。正直、バッハあたりのフーガとは似ても似つかないものなのですが、多くの声部が複雑に交錯している様子は、しっかり感じられます。 そのあたり、ピアニストのパウエル自身が、ブックレットにタイムコード付きで詳細に解説しているので、それを読みながら聴くとより理解が深まることでしょう。 とは言っても、あまりの心地よさに、つい眠気を催すことが頻繁に起こることは避けられません。 CD Artwork © Piano Classics |
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オーマンディは、同時代のショスタコーヴィチに対しては積極的な態度をとっていました。彼とフィラデルフィア管弦楽団は、1963年にはすでに交響曲第4番のアメリカ初演を行っていますし、13番、14番、15番という最後の3つの作品も、それぞれアメリカ初演、あるいは冷戦中の西側での初演などを手掛けています。そして、それらは、その初演の直後にRCAによって録音されました。 交響曲第15番の場合は、1972年1月8日にマキシム・ショスタコーヴィチの指揮によるモスクワ放送交響楽団の演奏で世界初演が行われた後、1972年9月28日にオーマンディによって西側初演が行われ、10月4-5日に録音されたのが、このSACDに収録されているテイクです。 ![]() ここには「7 1/2 IPS」という表示がありますが、それはテープの走行速度で、メートル法では「19cm/s」というフォーマットになります。当時は、LPと同じものを、この規格で4つのトラックを行きと帰りに2チャンネルずつ使って再生するオープンリールテープとしてリリースすることもありました。これは、マニアックな「2トラック 38 cm/s」という規格よりはとっつきやすかったので、かなりのアイテムが発売されていましたね。 これをサラウンドで聴いてみると、前回の「5番」とは全然違う音場設定なのに驚かされます。何より、てっきり木管はリアから聴こえてくると思っていたら、冒頭のフルートソロがフロントの真ん中で演奏していたのですからね。弦楽器も、フロントに半円形に広がっています。おそらく、この時点ではRCAのサラウンドのポリシーはあくまでコンサートと同じ配置だったものが、レヴァインのマーラーの交響曲第4番を録音した1974年あたりからは、競争相手のCOLUMBIAの影響で、指揮者を楽器が取り囲むような音場を採用することになったのでしょう。本当かどうかは分かりませんが、RCAが様々な模索を行っていたことは間違いありません。 この交響曲では、作曲家が過去の作曲家の曲からいくつか「引用」していることが指摘されています。最も分かりやすいのは第1楽章で登場する、ロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」でしょうね。ただ、これは「引用」とは言っても、元ネタをそのまま使っているわけではありません。オリジナルは ![]() ![]() 例えば、 ![]() ![]() カップリングの「ハムレット」は、1932年にアングラ劇団で上演されたシェイクスピアの「ハムレット」のために作られた音楽です。ハムレットはデブで乱暴者、オフェーリアは売春婦というぶっ飛んだ設定だそうで、その音楽もとことんハチャメチャです。 そんなアングラの意図を酌んだのか、「4チャンネル」以前の1968年に録音されたものをダットンがサラウンドにリミックスしたバージョンでは、なんと弦楽器がリアから聴こえてきます。 SACD Artwork © Vocalion Ltd |
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この2枚組のSACDには、1970年代に「4チャンネル」で録音、リリースされていた「第5番」と「第15番」が収録されていて、それぞれにボーナストラックとして、「5番」にはコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」、「15番」にはアーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップスによる、ショスタコーヴィチの劇音楽「ハムレット」が収録されています。 そのうちの「5番」が入ったSACDだけを、まず聴いてみました。このジャケットは、オリジナルのLPのものですが、いかにも「革命」のために立ち上がったロシアの勇ましい男女、といったコンセプトが感じられますね。おそらくこれが録音された1975年頃のアメリカでは、この曲に対するイメージはこの程度のものだったのでしょう。 その、サラウンドでの楽器の定位は、左フロントにヴァイオリン、右リアに低弦というものでした。それがこの交響曲の冒頭でのそれぞれのパートの対話のシーンで、非常に分かりやすい働きを演じていることが分かります。リスナーを挟んで、交互にそれぞれの主張をぶつけ合う、という感じでしょうか。なにしろ、右リアの低減のエネルギーがものすごいものですから、それに負けじと張り上げるヴァイオリンとの「対決」には、2チャンネル・ステレオで単に左右から聴こえてくるもの以上のインパクトを感じることが出来ます。 残りの楽器は、ほとんどの木管が左リア、金管は左リアにホルンとトロンボーン、右リアにトランペットという定位です。そして、打楽器はティンパニは左フロント、シンバルが右フロント、そして左リアにはピアノとチェレスタ、右リアにはシロフォンです。特にピアノがこれだけくっきり聴こえてくる録音は、まずないのではないでしょうか。 全体にデッド気味にあまり残響は乗っていないような中で、それぞれの楽器はあくまでクリアに聴こえてきます。それで盛り上がるクライマックスは、もろにそんな響きに包まれて刺激的な体験が味わえます。ただ、弦楽器などの録音は力強さを表現することに腐心したせいか、なにか潤いには欠けるところがありますね。 それが終わって、ボーナスの「ハーリ・ヤーノシュ」が始まると、そんなサウンドがガラリと変わって落ち着いたものになります。これはかなり劇的。こちらでは、弦楽器は全てフロントに並ぶというノーマルな形で、他の楽器が周りを取り囲んでいます。そして、それぞれの楽器の音が交響曲のような生々しいものではなく、もっと豊かな残響を伴った柔らかい響きになっています。録音時期はほんの数ヶ月しか離れていませんし、録音場所もエンジニアも全く同じなのに。 これは4チャンネルのマスターはありません。ですから、マルチトラックから新たにミキシングを行ったダットンの趣味が反映されていたからかもしれませんね。当時と現代ではおのずとミキシングのセンスも変わってくるのでしょう。 唐突ですが、先日指揮者の荒谷(あらたに)俊治さんがお亡くなりになったそうですね。実は、20年以上前に、ショスタコーヴィチの5番を荒谷さんの指揮で演奏したことがあったのですよ。その時に、第4楽章の練習番号「119」から始まるファースト・ヴァイオリンのテーマを、とても大切に歌うように指示していたことを今でもはっきり覚えています。それは、その時に、ここの歌わせかたが、ソロモン・ヴォルコフの「証言」の中にある「強制された歓喜」を端的に表現しているのではないか、と思ったからです。 ![]() SACD Artwork © Vocalion Ltd |
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ここはもちろん、最初はエマニュエルの作品を展示するための、文字通りの美術館だったのですが、彼はある日突然、これを自らの「霊廟」にすることを思いついたのだそうです。夏は涼しいですからね(それは「冷房」)。 そのために、彼は建物にあった窓をふさぎ、壁と天井全面を、人間の生まれた時から死ぬまでの様子を描いた「Vita(人生)」というタイトルのフレスコ画で覆ったのです。それは、わずかな明かりの中に浮かび上がって、ある時はドラマティックに、そしてまたある時にはかなりエロティックに迫ってきます。そしてここには、実際に、彼の遺灰が納められています。現在ここは、知る人ぞ知る観光スポットとして、一般に開放されています。なんでも、土足厳禁なのだとか。 ![]() それに気づいて、この空間の中でだけ体験できる音楽を作ろうとしたのが、ノルウェーの作曲家でヴォーカリストのクリスティン・ボルスタでした。彼女は、ジャズからヒップ・ホップまでのジャンルで活躍しているオールラウンドなミュージシャンです。そして、2009年に、自らも参加している「ステンメクラング」というヴォーカルグループを使って実際にこの空間の中で試行錯誤を繰り返しながら曲を作るというプロジェクトを開始するのです。もちろん、そこで出来上がった作品は、その同じ空間で開かれるコンサートでの聴衆の前で公開されます。それはこの場所でしか生まれることのない、まさに「持ち運びができない音楽(武満徹)」なのでしょうね。 そんな、ごく一部の人しか味わえない世界を、今まで数多くの素晴らしい録音のアルバムを世に送り出してきたノルウェーの「2L」レーベルが、ハイレゾのサラウンドで録音してくれました。それがSACDとBD-Aに収録されたのが、このアルバムです。特にBD-Aでは通常の平面的なサラウンドだけではなく、「Dolby Atmos」や「Auro-3D」のような、「高さ」までも表現できるサラウンドのフォーマットが選べますから、しかるべき再生装置を使えば、この「霊廟」での体験がそのままお茶の間で味わえることになりますね。 演奏者のステンメクラングは、ここでは5人の女声シンガーがクレジットされています。最初の「Echoes & Shadows」という曲では、その中のリーダーのボルスタともうひとりという2人だけによって演奏されていますが、その声はまるで何百人もの合唱のように聴こえます。彼女たちの発声は、クラシカルなものではなく、もっと地声をメインにしていますから、そこにあるはずの根源的なエネルギーがここでは解放されているのでしょう。 それが、2曲目の「Silence」になって、ボルスタが抜けて他の2人が加わった3人になると、その響きは俄然ピュアなものに変わります。そのあたりの変化も感じつつ、最後の5曲目、全員のヴォーカルと4人のチェリストによる、このプロジェクトの最初の産物「Tomba sonora(音響の墓)」が聴こえてくるころには、確かにこの不思議な空間が醸し出す空気を感じられたような気になってきます。もしかしたら、そこでは人生観までもが少し変わっていたかもしれません。 SACD & BD Artwork © Lindberg Lyd AS |
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このアルバムに入っているのは、そのほかにオーケストラだけの「Compulsion Island」と、ソプラノ・ソロとオーケストラのための「Ladies' Room」という、ヴァラエティに富んだ全3曲です。最初に聴こえてくるのが、2014年に、ここで演奏しているフィンランド放送交響楽団の委嘱によって作られた「Compulsion Island」です。「衝動の島」という何やら哲学的なタイトルの曲ですが、そのサウンドはとってもすんなりと入っていけるものでした。いや、これは間違いなくいわゆる「現代音楽」の手法が駆使されているのですが、そこからはそういう言葉を聞いて思い浮かべる、なにか排他的で難解なイメージは全く湧いてはきません。というより、そのような技法を超越したところで、何か具体的なイメージがストレートに伝わってくるのですね。 それで連想したのが、耳にする機会が多い、映画やテレビドラマのバックに流れる音楽です。こういうところで使われる音楽では、本当に優れたものではまさに音楽そのもので的確にその場のイメージが伝わってくることがあります。 このハーパネンさんの場合も、その場の光景が理屈ではなく感覚としてしっかり伝わってくるという、映画やドラマの音楽として使われたのなら、さぞや素晴らしい結果を生むのでは、と思ってしまうような音楽が作れる人なのでは、と思ってしまいました。これはほんの15分ちょっとの曲ですが、その中はまさに山あり谷ありの波乱万丈の世界です。聴くものは、それによって、なにか自分の知らない世界を目の当たりにしているような錯覚に陥ってしまうかもしれませんよ。 次の「Ladies' Room」という曲は、ソプラノのソロがオーケストラをバックに、9つの「歌曲」を歌うという作品です。ところが、その9曲の中で、しっかり「歌詞」があるものは5曲だけ、そして、そのそれぞれの曲の間には、「アドルフ・ヴェルフリへのオマージュ」というタイトルの曲が4曲歌われているのです。ヴェルフリというのは、こちらでもとりあげたスイスのアウトサイダー・アーティストですね。生涯の大半を精神病院で過ごしたという特異な精神状態が生み出す精緻なアートを、「現代音楽」のモティーフとして使ったもう一つのケースです。ここでもハーパネンさんは、具体的なテキストは用いずに、歌手の持つすべてのテクニックを駆使して、見事にヴェルフリの世界を再現して見せてくれました。 そして、2018年に、このオーケストラの首席フルート奏者、小山裕幾さんのために作られたのが、「フルート協奏曲」です。小山さんと言えば、音楽大学ではなく、慶應義塾大学理工学部というフツーの大学を卒業して、世界的なフルーティストとなった方ですね。 通販サイトでは、このCDのプロモーション映像を見ることが出来ますが、そこでは小山さん自身がこの作品について「無機質な現代奏法を効果的に使って、抒情的な音楽を作り上げている」と語っています。まさに、この言葉が、この作品、さらにこの作曲家の魅力を端的に言い表しているのではないでしょうか。実際にこのフルート協奏曲では、「息を吹き込むだけの音」とか、「キーを叩く音」だけで完璧に「音楽」を伝えることに成功しています。かつての「現代音楽」は、その技法だけで完結してしまった結果、独りよがりでつまらない音楽になってしまっていましたが、現代の「現代作曲家」はそこにはとどまらずに、きっちりと聴くものを楽しませる術を身に着けて、新しい世界を切り拓いているのでしょう。 CD Artwork © Ondine Oy |
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時が流れ、世の中に「原典版」があふれてくると、この出版社では、モーツァルトの新全集のベーレンライター版とか、マーラー全集のウニヴェルザール版からライセンスを得たリプリント版のスコアを出すようになり、さらに便利になります。 そして、最近では「自社製品」でも、なんだかすごいことをやるようになっていたことに気づきました。以前の、出所も明らかにされていないような得体のしれないものは姿を消し、なにやら最新の研究成果が反映されたような、ほとんど「原典版」と言っても過言ではないようなものが店頭に並んでいるようになっていたのですよ。それは、例えばシベリウスのような、著作権が切れてまだそれほど経っていない作曲家のものまで用意されていました。なによりも、そこでは解説が日本語で読めるのがとても魅力的です。 そんな会社が、フルートの楽譜でもこんなものすごいものを出してくれました。タイトルこそは「名曲集」と、それこそ吉田雅夫あたりが監修した大昔の曲集を思い浮かべるようなものですが、そんなものとは規模が違います。なんせ、総ページ数が81ページの中に31曲もの作品が収録されているのですからね。 しかも、それらの作品それぞれに、しっかりその「原典」が明記されていますし、ものによってはそのオリジナルの出版譜にあったミスプリントまでが修正されているのですから、すごいものです。 そして、そのレパートリーの作曲年は1708年から1962年までと、2世紀半におよんでいます。そして、それぞれの曲の楽譜は、それぞれ個別に出版されていて、中には現在もまだ流通しているものもあるのですが、それぞれ数千円以上の価格のはずです。それを全部別々に集めようとすればいったいくらになるのか見当もつかないものが、たった3200円(税抜き)で手に入るのですから、夢のようですね。例えば、この中にあるヒンデミットの「8つの小品」(SCHOTT)だけでも、今買えばこれだけでこの曲集とほぼ同じ値段ですからね。 製本も行き届いていて、クーラウの「ファンタジー」などは、ベーレンライター版ではめくるのが大変だったものが、しっかり4ページ分が見開きになっていますから、とてもありがたい配慮ですね。最初の変奏にあったミスプリントも直っていますし。 ![]() ↑ベーレンライター版 ![]() ↑音友版 なんと言っても感動的なのは、ベリオの「セクエンツァ」と、福島和夫の「冥」という、いずれもガッツェローニのために作られ、Zerboniから出版された楽譜までが、しっかり収録されていることです。しかも、「冥」では多数のかなり重要なミスが、作曲家自身によって訂正されているのですからね。こんなものが「曲集」に収まってしまう時代になっていたなんて。 ![]() ↑Zerboni版 ![]() ↑音友版 もちろん、「セクエンツァ」はしっかり見開きになっています。 あとは、オネゲルの「めやぎの踊り」でも、常々気になっていた音にもきっちりと「正しい」音の指示があって、目やにがとれたようにすっきりしていますし、もちろんドビュッシーの「シランクス」でも、最後から2つ前の小節の頭のアクセントは明確に「誤り」だとされています。 ただ、バッハの「パルティータ」では、ベーレンライター版では手筆稿にある、同じフレーズの譜割りや音が場所によって異なっている部分をあえてそのままにしてあったものが、しっかり同じ形に直されていたりするのは、全面的に支持するわけにはいきません。 この曲集は2017年に刊行されているのですが、タイトルに[改訂版]とあるように、その前の年に出版されたものから2曲削除されて、1曲新たに加わっています。おそらく、著作権上の問題があって、慌てて差し替えたのでしょうね。ま、その削除された2曲の楽譜はすでに持っているのでいいのですが、なんかお粗末です。 Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp. |
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12月31日
最近の音楽界の流れとして、CDなどのフィジカルな媒体の衰退があげられます。このサイトでも、そんなわけでアルバムの聴き方が次第に変わろうとしています。現実的な問題として、「もの」としてのCDの量が収納スペースの限界を超えてしまったこともあり、極力ネット経由で新譜を聴くという方向に変わりつつあります。ただ、サラウンドの音源をネットで聴く環境にはないので、それはSACDやBD-Aに頼らざるを得ない状況です。 では、例によってカテゴリーごとのアイテム数のランキングです。 第1位:合唱(今年43/昨年47)→一つ、お断りです。昨年のランキングに「ポップス」は登場していなかったのですが、実際は堂々の第4位にランクインしていたのですね。それは、その前の俊が5票しかなかったので、まさかこんなにあったとは気づかなかったという、ミスでした。失礼しました。 ■合唱部門 やはり、結局合唱は強いですね。ただ、今年はそれほど印象に残ったものはありませんでした。そんな中で、ドイツの合唱団が日本人よりも美しい日本語で歌ってくれたこちらのアルバムは、忘れることはできません。 ■オーケストラ部門 なんといっても「サラウンド映え」するのはこの部門でしょう。そういう意味で、半世紀近く前に録音されていながら、今まで本来のフォーマットでは聴くことが出来なかったブーレーズの「オケコン」が、初めてSACDのマルチチャンネルでリアルに再生できた時の感動はひとしおでした。と同時に、このようなコスパを度外視した録音が出来た時代の貴重な資料としても意義のあるアイテムです。これが、今年の大賞です。 ■フルート部門 世の中には、とても上手なフルーティストと、どうしようもなくヘタなフルーティストがいるのだな、と思わされた今年でした。そんな中で、アドリアンとパユの2人のレジェンドが作ってくれたドップラーのアルバムが、アートワークも含めて楽しめました。 ■ポップス部門 なんと言っても、50周年記念で作られた、サラウンドによる「アビイ・ロード」が、衝撃的でした。 ■ピアノ部門 7回目(確か)にして初めて、ピアノ部門がランクインです。ブルックナーの珍しいピアノ曲集が、印象的でした。 ■オペラ部門 オペラもきちんとサラウンドで録音されている昔の録音が、再生音楽ならではの満足感を与えてくれることを、ショルティの「ボエーム」が教えてくれました。 と、今年は例年になくカテゴリー間の入れ替わりが多かったですね。「現代音楽」と「書籍」に、巻き返しを図ってもらいたいところです。さらに、半世紀近く前の録音のサラウンドSACD化で、あの頃の録音の勢いをまざまざと感じた年でもありました。 |
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ところが、今回は、ファーストネームがフランチェスカというのですから、これは女性なのではないか、という疑問が湧いてきました。普通、イタリアの男性だと「フランチェスコ」ですからね。日本では女性ですが(ふらんちぇす子)。とは言っても、なにしろ、前回も今回もブックレットには曲目の解説しかなく、アーティストの写真や紹介文は全くありませんから、判断材料が何もないのですよ。この情報化時代にそんな不完全な形でしか製品をリリース出来ないのは、レーベルとしては許し難いですね。 ですから、どこかにちゃんとしたバイオがないか、調べてみました。まず、「フランチェスカ」という名前は間違いなく女性のものだということは分かりました。そして、「彼女」が演奏しているであろう写真も見つかりました。 ![]() そんなわけで、今回彼女が取り上げたのは、前回のエマニュエル・バッハから1世紀半の後にこの世に生まれた作曲家、フィリップ・ゴーベールの作品です。生前は、フルーティストと同時に指揮者としても活躍していた方です。なんせ、パリのオペラ座の音楽監督を務めていたのですからね。そして、自分の楽器のフルートのための作品も、今では世界中のフルーティストの重要はレパートリーとなっています。というか、彼と彼の先生、ポール・タファネルとの共著のデイリー・エクササイズは、フルートを学ぶ者にとっては必須のメソッドです。 彼の作品は、どれもが、同時代のラヴェルやドビュッシーの技法を取り入れながらも、シンプルなメロディを重視したとても親しみやすいものです。そこにはもちろん、この楽器の聴かせどころが満載ですから、フルーティストにとってはまさに珠玉のようなものが揃っています。そのほとんどは、それほど長くない「小品」といった感じの作品なのですが、「ソナタ」という名前を持った3楽章形式の堂々たる「大作」も3曲残されています。その中では「第1番」が最も有名なようですが、個人的にはマルセル・モイーズに献呈された「第2番」が、最も好きです。これは、ゴールウェイが演奏したものを聴いたことがあるからなのかもしれません。 パニーニは、その3つの「ソナタ」、そして、フランスからアメリカに渡ったフルーティスト、ジョルジュ・バレール(エドガー・ヴァレーズが「デンシティ21.5」を献呈したフルーティスト)のために作った「幻想曲風ソナチネ」をここでは演奏しています。 はい、ここでも、彼女の「フローレンス・ジェンキンス度」は健在でした。もう、どんなフレーズを聴いても、幅広いビブラートで音程は不安定だし、フレージングもでたらめです。そして極めつけは、フレーズの最後の音の乱暴な処理。その全く余韻を感じることのできない暴力的な終わり方からは、フランス音楽の繊細さは微塵も感じることはできません。 唯一の救いは、伴奏のピアニスト、ヤクブ・チョルツェウスキの音楽性あふれる演奏でしょうか。彼は、まさにジェンキンスに於けるコズメ・マクムーンと同じ役割を演じていたのでした。 CD Artwork © Vermeer |
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1702年に音楽家の家に生まれたネブラは、幼少のころから父親の教育を受けて音楽の才能を発揮し、17歳の時にはデスカルサス・レアレス修道院のオルガニストに任命されています。このポストは、かつてあのトマス・ルイス・デ・ヴィクトリアも務めていたという由緒あるものです。この頃の彼はオペラやサルスエラ(スペイン風のオペラ。赤い花は咲きません・・・それは「サルスベリ」)といった舞台作品を数多く作っていました。それは全部で70曲以上になると言われていますが、現在はそのうちの13曲しか残されていません。そしてこの時期には、バルバラ・デ・ブラガンサが結婚した時のお祝いのオペラ(他の作曲家との合作で、彼は第1幕だけ)も作曲しています。 やがて、彼は宮廷楽団のチェンバロ奏者や、王立教会のオルガニストに就任します。この頃のスペイン宮廷には、ドメニコ・スカルラッティ(チェンバロ)やファリネッリ(カストラート)などの著名な音楽家がバルバラ王妃によって招かれていました。そんな中で、ネブラはイタリア音楽の様式を学ぶことにもなり、170曲以上の教会音楽を作曲しました。 この「レクイエム」は、王妃の翌年に亡くなったフェルナンド6世の葬儀にも、スコアの一部が修正されて演奏されていますし、それ以後の宮廷の行事でもことあるごとに使われ、なんでも、19世紀に入っても演奏されていたのだそうです。 ネブラは1768年にマドリッドで亡くなりますが、その没後250年にあたる2018年に、マドリッド市がこの「レクイエム」の演奏を企画し、ここでの指揮者ホセ・アントニオ・モンターニョにそれを委嘱します。その演奏会は、初演が行われたのと同じ王立サレジオ会修道院に於いて開催されました。このCDは、後日、その時と全く同じメンバーが、サン・ミゲル教会に集結して録音されたもので、これが世界初録音です。 この「レクイエム」は、スペインの慣習に従って、通常の「レクイエム」の前に「オフィコ(礼拝)」という部分が加わっています。ここでは、それは4つの曲で出来ています。1曲目の「Invitatorio(招待状)」はア・カペラで、最初と最後は5声部の合唱(コロ・ヴィクトリア)がルネサンス風のポリフォニーを演奏し、真ん中の部分では別の男声だけの合唱団(スコラ・アンティクア)が、ユニゾンでグレゴリオ聖歌を朗誦するという形です。このグレゴリ製菓のパートは、言ってみれば日本の「お経」のような感じですね。確かに、大勢の和尚さんが一斉に般若心経を唱えていると、それは音楽のように聴こえてきます。しかも、お経の場合は木魚によるビートが入りますからね。 2曲目は「Salme(詩編)」です。ここで、弦楽器と低音が加わって、いきなりイタリア風の明るい音楽が聴こえてくるのには、ちょっと驚かされます。その冒頭のメロディが「村の鎮守の神様が〜」という、日本の唱歌「村祭り」とそっくりなのには笑えます。もっとも、このメロディはモーツァルトも「魔笛」の中のザラストロのアリアで使っていますけどね。 3曲目の「Lección(教訓)1番」は、ソプラノ・ソロによるアリアです。オーケストラにはさらにフルートが加わります。これは、この作品全体を通して唯一のソロ・ナンバーとなっています。 4曲目の「Lección(教訓)2番」は、合唱によって歌われます。 そして、やっと「レクイエム」が始まります。ここではソプラノ、ソプラノ、アルト、テナーという4声部の合唱とソプラノ、アルト、テナー、ベースという4声部の合唱による二重合唱で、ポリフォニーがメインの音楽が綴られますが、それぞれに特徴があり、楽しめます。 SanctusとAgnus Deiの間にとても美しいモテットが挟まれるのも、魅力的ですし、最後のAgnus Deiは、リリカルなホモフォニーで悲しみを演出しています。 CD Artwork © note 1 music gmbh |
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おとといのおやぢに会える、か。
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