パチンコ好きや。 佐久間學

(19/10/17-19/11/7)

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11月7日

WEBER
Der Freischütz
Lise Davidsen(Agathe), Andreas Schager(Max), Sofia Fomina(Änchen)
Alan Held(Kaspara), Markus Eiche(Ottokar), Franz-Josef Selig(Eremit)
Corinna Kirchhoff, Peter Simonischek(Narrator)
Marek Janowski/
MDR Leipzig Radio Choir(by Pholipp Ahmann)
Frankfurt Radio Symphony
PENTATONE/PTC 5186 788(hybrid SACD)


ヤノフスキの指揮による「魔弾の射手」の全曲盤は、1994年にベルリン・ドイツ交響楽団と共演したRCA盤がありました。今回はフランクフルト放送交響楽団との2018年の録音です。このオーケストラ、正式には「hr交響楽団」と改名しているのですが、最近になって国際的な呼称としては、昔からの「フランクフルト放送交響楽団」も使うようになっています。やはりこちらの方が馴染みますね。ラーメンにもなじみますし(それは「胡椒」)。
今回の録音は、2018年11月29日と30日にフランクフルトのゼンデザールで行われたコンサート形式の上演を収録したものです。もちろん、実際のコンサートの前後にも同じ場所でセッション録音も行われて、それらのテイクを編集したものが最終的な製品になるというのは、常套手段です。
このオペラは、普通に演奏すると2時間を超えるのですが、今回の録音はトータルで1時間56分ほどです。それは、この上演ではバイロイトのカタリーナ・ワーグナーが「ドラマトゥルク」として参加していたからです。彼女は、このジンクシュピールで本来は演じられるセリフの部分を、短いナレーションに置き換えた、いわば「フランクフルト版」を使って上演を行いました。そのために、全体の上演時間もこんなに短くなったのですね。
そのナレーションの台本は、カタリーナと、バイロイトで彼女の演出の際のドラマトゥルクを務めているダニエル・ウェーバー(新国でのカタリーナ演出の「フィデリオ」でも同じポスト)が共同で執筆しました。そして出来上がったのは、元々セリフ役だったザミエルと、最後の場にだけ登場する「隠者」との二人が、適宜本来のセリフを要約したナレーションを語るというものでした。しかも、そのザミエルは、元々は「悪魔」なので疑いもなく男性だったものを「魔法使いのおばあさん」に変え、ここでそれを演じているコリンナ・キルヒホフという有名な女優さんが、しわがれ声で語るという設定になっています。そういえば、昨年二期会がこのオペラを上演した時も、演出のペーター・コンヴィチュニーがザミエルに女性をキャスティングして、登場場面も大幅に拡大したプランを採用していたようですね。そして、隠者の方は、最後に歌うところだけは本来のゼーリヒが歌っていますが、ナレーションは別の人が最初から顔を出すという形です。
ということで、このアルバムからは、ある意味ミュージカルのようなセリフがなくなって、音楽のみがストレートに聴こえてくるようになりました。まあ、それはそれでただ聴く分には何の問題もないだろうとは思っていたのですが、聴き終えてみると、かつてカイルベルトの全曲盤を聴いた時に味わえた「ドイツ的なオペラ」、言い換えれば「田舎芝居」の雰囲気はここからは完璧に消え去っていました。それは、言い換えれば日本語での「魔弾の射手」という古臭い訳語の中に巣くっているクラシック界のスノビズムが、ここでは感じられないということでしょうか。
そうなれば、そんな仰々しいものを脱ぎ捨てたスマートな「フライシュッツ」を存分に楽しむことにしましょうか。ヤノフスキの指揮ぶりは、とても軽快で、「ロマン派」という感じではなく「バロック」の生き生きとしたテイストさえ感じられるものでした。そして、なんと言ってもライプツィヒ放送合唱団の合唱のスマートなこと。「狩人の合唱」などは、わざと「田舎くさい」歌い方を入れているにもかかわらず、都会人のセンスの良さだけが目立ってしまうというカッコよさです。
ソリストではやはりダヴィドセンの高貴ささえ漂うアガーテは素晴らしかったですね。エンヒェンのフォミナも伸びやかな声が美しかったです。マックス役のシャーガーも、やはり今の時代のテノールですね。キルヒホフのナレーションからは、なぜか「魔笛」のパパゲーナが老婆に扮するシーンを思い浮かべてしまいました。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


11月5日

SIBELIUS
Kullervo
Johanna Rusanen(Sop), Ville Rusanen(Bar)
Hannu Lintu/
Estonian National Male Choir(by Mikk Üleoja)
The Polytech Choir(by Saara Aittakumpu)
Finnish Radio Symphony Orchestra
ONDINE/ODE-1338-5(hybrid SACD)


シベリウスの「クッレルヴォ」は、2016年2月にヴァンスカによって新録音が行われていましたが、それから2年ちょっとしか経っていない2018年8月にまさかさらにこんな新録音が続くなんて、思ってもみませんでした。そして、その1か月後にはNHK交響楽団が定期演奏会で取り上げる、などという「事件」も起こるのですから、もはやこの作品はごく一般的なレパートリーとしての地位を獲得したことになっていたのかもしれません。
とは言っても、今回の録音に参加したメンバーは、ほとんどがそのN響のコンサートと重なっているというあたりが、まだまだ特定の演奏家にとってしか馴染みがないという事実を露呈しているのかもしれません。
つまり、今回の録音でのソリストが、ソプラノもバリトンもともにN響で歌っていたルサネン姉弟ですし、合唱もその時のエストニア国立男声合唱団なのですよ。しかし、今回はその合唱が、さらにもう一組加わっています。それは地元フィンランドの「ポリテク合唱団」です。この合唱団は、2017年に今回の指揮者リントゥが来日して東京都交響楽団(つまり、1974年に渡邉暁雄とこの作品の日本初演を行ったオーケストラ)とこの作品を演奏した時の合唱団でした。
ちなみに、この合唱団は、1996年に録音されたサラステ盤にも参加していますが、その時は「ヘルシンキ工科大学男声合唱団」というクレジットでしたね。もちろん、いずれも同じ合唱団です。
どちらの合唱団も「男声」合唱団なのですが、今回のCDの帯ではこんな風に書かれていました。


なんか、いきなりなよなよしたイメージが湧いてきませんか?「おっさんずラブ」みたいな。やはり、この字面では、男声合唱の持つ力強さは伝わってきませんね。
とは言っても、この「クッレルヴォ」で要求される男声合唱は、単に「力強い」だけではすまされない、もっと高度のスキルが要求されるはずです。
彼らが登場するのは、第3楽章と最後の第5楽章、それぞれに「物語」の語り部として、非常に重要な役目を担っています。特に、第5楽章の「クッレルヴォの死」では、前半はとてもなめらかな情感を湛えた合唱が歌われますが、音楽が盛り上がったところで迎えるゲネラル・パウゼ(これは、とてもショッキング)の後では、その様相が一変して、暴力的ですらある激しさまで要求されています。
今回の合唱は、2つの合唱団の集まりである割には、それほどの重量感はなく、かなり繊細な印象がありました。第3楽章の最初のころはユニゾンだけで歌われていますから、あまり感情を込めずに淡々と歌われていたようです。それが、第5楽章の後半では、恐ろしいまでの迫力で迫ってきたのには驚きました。表現のキャパシティが非常に大きいのですね。それと、やはりフィンランドやエストニアといった国に育った人でなければ歌えない特別の「味」があるのでしょうね。
ソリストでは、やはりソプラノのヨハンナ・ルサネンの迫力には圧倒されます。N響のライブ映像でも、その存在感溢れる体から生まれる声には、素晴らしいものがありました。それに比べるとバリトンのヴィッレくんは、ちょっとおとなし目。
リントゥの指揮は、この若書きの作品の初々しさを大切にしているようでした。そのせいか、オーケストラだけの第4楽章がテンポも速く、この悲劇的な作品の中では、ちょっと違和感を伴うかなり陽気な音楽に聴こえてきます。おそらく、それは意図してそのような表現をとったのでしょう。
録音は、サラウンドとしてはちょっと物足りないところもありますが(多分セッション録音なのでしょうから、合唱をもうすこし広げて欲しかった)、音の解像度はかなりくっきりしています。ですから、第3楽章の頭でトライアングルが連打されているのがよく分かります。最初に挙げたヴァンスカの録音ではその音の粒がつぶれていて全然分かりませんでしたからね。

SACD Artwork © Ondine Oy


11月2日

Beatles Go Baroque・2
Peter Breiner and His Orchestra
NAXOS/8.574078


このレーベルでムソルグスキーの「展覧会の絵」の新しいオーケストレーションを聴かせてくれたピーター・ブレイナーが、ビートルズのバロック風カバーの「2」を作りました。これは、1992年に録音された「Beatles Go Baroque」というアルバムの続編です。そんなものは、ジョシュア・リフキンが作った世界初のバロック風カバーアルバム以来、多くの人が試みてきたかなり「陳腐」な企画なのですが、このブレイナーの仕事はクオリティの点で抜きんでたものがありますから、そういうものといっしょくたにするのは無礼なことなんです。
このシリーズに関しては、前作では、例えば「ヘンデルのスタイルによるコンチェルトグロッソ第1番」のように、具体的な元ネタを提示しないで、そこにビートルズの曲を当てはめるということを行っていました。今回は、その精度がさらに上がって、バッハとヴィヴァルディのそれぞれの作品をしっかり提示していますから、その楽しさはさらに上がっています。
まずは、いきなりピアノのソロが現れるので、「なんでバロックでピアノ?」と思ってしまいますが、それはバッハの「ピアノ協奏曲ニ短調(BWV1052)」が元ネタだからです。もちろん、バッハの時代ではチェンバロが使われていたのでしょうが、現代ではそれをピアノで演奏することもまれにありますからね。その第1楽章で使われているビートルズ・ナンバーが、「Abbey Road」のオープニングを飾っていた「Come Together」というのに、まず驚かされます。というのも、この手の編曲ものでは、なんと言ってもメロディの美しい曲が選ばれることが多いのに、この曲ではそんなことよりは、「リフ」という、特定のパターンを繰り返すものが重要になっているからです。ところが、その「リフ」が、ここではバッハがこの曲に用いた「オスティナート」に、見事に同一化しているのですね。なんという斬新なアプローチ。
ですから、ものによってはほとんどメロディの類似性などは感じられないものもあります。例えば、「While My Guitar Gently Weeps」を「ブランデンブルク協奏曲第2番」の第2楽章にはめ込んだものなどは、低音の進行だけを頼りに編曲を行っていますから、言われなければその引用はまず分かりません。というか、そこで聴き手の「ビートルズ度」が試されているのですよ。
ということは、ブレイナー自身も、かなりの「ビートル・マニア」であることも、よく分かります。すごいのは、「ヴァイオリン協奏曲イ短調(BWV1041)」の第2楽章にはめ込んだ「Something」です。そこでは、ヴァイオリンのソリストが、ジョージ・ハリスンのソロを完コピして弾いていますからね。
このように、ここでは「Abbey Road」からの引用が多数行われているのは、やはり今回のアルバムがリリースされた2019年が、そのアルバムのリリースの50周年にあたっているからなのでしょう。なんせ、「B面メドレー」の後半などというマニアックなものまで、もはやバッハやヴィヴァルディを離れて、バロック風の完コピだけを行っていますからね。「The End」では、リンゴ・スターのドラム・ソロをチェンバロが代わりに演奏していますし、続く3人のギター・バトルも、果敢にヴァイオリンで再現しようとしています。
そして、それに続く「Her Majesty」を「ブランデンブルク協奏曲第3番」の中で聴かせているのですが、そのエンディングではチェンバロが「Let It Be」のアウトロを、最後の終止形の一つ前のコードまで弾いて、止めています。これは意味深ですね。
ただ、これだけのことをやったのですから、「Abbey Road」の残りの曲も全部使ってほしかったですね。同じバッハの「ロ短調ミサ」のパロディが、それほど楽しめませんでしたから。
個人的に一番気に入ったのは、ヴィヴァルディの「四季」の「秋」の第2楽章に、「Because」をはめ込んだトラックです。いや、これはイントロのチェンバロからして、「Because」そのものではありませんか。もしかして、パクったのはヴィヴァルディの方?

CD Artwork © Naxos Rights(Europe)Ltd


10月31日

DEBUSSY/Nocturnes
Duruflé/Requiem
Magdalena Kožená(MS)
Robin Ticciati/
Rudfunkchor Berlin(by Gijs Leenaars)
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
LINN/CKD 623


スコットランドのオーディオ・メーカーLINNのソフト部門、LINN RECORDSは、ハイエンドのオーディオ機器に見合うような、質の高いSACDを多数リリースしていました。しかし、数年前から、SACDのリリースがばったりと途絶え、CDしか発売されないようになっていました。そのうちに、このレーベルは過去のSACDまでも品番を変えずにCDとして再発するようになりました。いったい何が起こっていたのでしょう。
そこで、親会社ではすでに10年前に「CD離れ」の宣言を行っていたことを思い出しました。CD、あるいはSACDの再生機器は全て生産を終了し、再生音源はLPとデジタル・データのみにするという宣言です。現在では、ソース機器としてはネットワーク・ミュージック・プレーヤーとターンテーブルしか製造しておらず、CDプレーヤーは部品の在庫がなくなったことを理由に過去に販売した機器の修理すらも受け付けないという体制になっています。
そんな状況では、LINN RECORDSとしてはCDを販売することさえ憚られるでしょうから、ましてSACDなどを出せるはずもありませんね。ただ、もちろん「ネット・オーディオ」向けのデータは、しっかり配信を行っています。とは言っても、2チャンネルでのハイレゾ音源は入手できますが、サラウンド音源は入手できません。さらに、SACDの入手ももはや不可能となったのでは、サラウンド再生の道は完全に断たれてしまったことになります。
そんな風に「ダメ」になってしまったLINNレーベルですから、もう何の魅力も感じられなかったのですが、ティチアーティがデュリュフレの「レクイエム」を録音したというのでしたら、聴いてみないわけにはいきません。しかし、久しぶりにそのパッケージを手にした時には、さらなる驚きが待っていました。このレーベルは、いつの間にかOUTHERE(アウトヒア)の傘下に入っていたのですね。最近ではALPHAレーベルを吸収して大躍進を図っているフランスのレーベルOUTHEREですが、LINNはそこのサブレーベルに成り下がっていたのです。かつてはSACDを牽引していたレーベルだっただけに、こんな残念なことはありません。業界では、もはや、SACDは「絶滅危惧種」と揶揄されているのだそうです。ある意味、ハイレゾとしてのスペックには不十分なものがありましたから、それも仕方のないことなのかもしれませんが・・・。
今回のティチアーティのデュリュフレは、ドビュッシーの「夜想曲」とのカップリングでした。そのドビュッシーは、なんとも彼らしくないどんくさい仕上がりでした。いかにもドイツのオーケストラらしい生真面目なテンポ感を、全く払拭できていないんですよね。以前聴いたスコットランド室内管弦楽団との「幻想」の生々しさなど、どこにも見当たりません。彼がこのベルリン・ドイツ交響楽団(かつてのRIAS放送交響楽団)のシェフになって2年以上経っていますが、まだ自分の色を出すところまでは達していないのでしょうか。
ただ、そんな退屈な「夜想曲」が、最後の「シレーヌ」で女声合唱が入ってくると、俄然魅力的な音楽に変わるのはおもしれーぬ。その柔らかな響きを聴くと、ここでの合唱団、ベルリン放送合唱団にサイモン・ハルジーの後任として、2015年から首席指揮者に就任した、1978年生まれのヘイス・レーナースという人は、この合唱団のレベルの維持、いや、向上には貢献しているように感じられます。
ですから、このアルバムのメイン、デュリュフレの「レクイエム」も、その合唱団の素晴らしい演奏が聴けたのには、喜びもひとしおです。それは、とても洗練された、まさに「大人の」合唱でした。ティチアーティのオーケストラも、ここでは時折ハッとさせられるような表現を見せてくれていました。「Introït」で、オーケストラがグレゴリオ聖歌のテーマ、合唱がそれの対旋律を同時に歌っている時に、それが両方ともはっきりと聴こえてきたときにはさすが、と思いましたね。
ただ、コジェナーのソロは、あまりにも場違いでした。

CD Artwork © Outhere Music


10月29日

IMPERMANENCE
Beth Willer/
Lorelei Ensemble
SONO LUMINUS/DSL-92226(CD, BD-A)


2007年にボストンで設立された「ローレライ・アンサンブル」という女声アンサンブルの、このレーベルでのデビューアルバムです。ベス・ウィラーという人が創設者で、自らもアルトのパートを歌いながら、芸術監督を務めています。メンバーは、基本的にベスを含めて9人です。
彼女たちのレパートリーは、中世から現代まで幅広くカバーされています。さらに、新しい作品を多くの作曲家に委嘱していて、これまでに50曲以上の作品が生み出されているのだそうです。
今回のアルバムでは、そんな中で2013年に、ピーター・ギルバートという1975年生まれのアメリカの作曲家に委嘱した、「Tsukimi」という曲が録音されています。タイトルは日本語で「ツキミ」、つまり「月見」ですね。変態ではありません(それは「ブキミ」)。これは、小倉百人一首の中にある和歌の中から、「月」に関する歌を8首選んで、それをテキストにして合唱曲を作ったというものです。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」みたいな歌ですね。「月かも」なんて、なんだか現代語みたいな感じですね。
もちろん、これらの歌集は平安時代から鎌倉時代までといいますから、西洋歴だと8世紀から12世紀ぐらいまでの幅広い時代に作られたもののアンソロジーです。
その他に、それと同じ頃か、もう少し後に西洋で作られた曲、カリクストゥス写本(12世紀)とかトリノ写本(15世紀)に残された作家不明のオルガヌムや、15世紀の作曲家ギョーム・デュファイのモテットなども取り上げられています。
アルバムタイトルの「IMPERMANENCE」は、「永久的ではない」、つまり「一時的」というような意味でしょうか。1000年のスパンを持つ作品を並べて聴くことによって、それぞれの時代での「一時的」なものが、現代ではどのような姿に聴こえるのか、あるいはいにしえの和歌を現代の作品のテキストにするというのは、どのような意味を持つのか、そんなところを聴くものに考えさせる、といった意味合いなのでしょうか。
特に、日本の和歌の場合は、その背景には西洋社会の宗教観とは異なる、仏教的な無常観なども込められていることでしょうから、それに対峙した作曲家の反応なども、味わうことができるのでしょう。
まあ、そんな小難しいことを考えなくとも、このレーベルならではの極上のサウンドで聴く、まさに極上の肌触りを持った女声アンサンブルの歌声には、オープニングから引き込まれてしまいます。それぞれのメンバーはかなりの力を持ったプロフェッショナルなシンガーのようですから、それがまとまった時のエネルギーはかなりのものになります。それを、彼女たちは同じベクトルで放出してきますから、そこにはものすごい存在感が生まれることになります。もちろん、表現力の幅も自由にコントロールできますので、ストレートに彼女たちのやりたい音楽が伝わってきます。
そんな「素材」を、余すところなく伝えているのがこの録音です。サラウンドの音場は、たとえば2Lレーベルのような周りを取り囲むようなプランは取っておらず、フロントに半円状に広がっているだけですが、十分な空間の広さは感じることが出来ます。
そこで歌われたギルバートの「ツキミ」は、1分足らずの曲の集まりですが、それぞれに技法を変えた斬新な作り方をされていました。おそらく作曲家は、言葉の意味よりは、その5・7・5・7・7のリズム感と、日本語の「発音」に興味があったのではないか、という気がします。例えば、「ほととぎす 鳴きつるかたを 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる」では、最初の「ほととぎす」に敏感に反応して、それを素っ頓狂なサウンドに乗せて不思議な効果を上げていました。
そのほかに、武満徹の「風の馬」の第1ヴォカリーズと第2ヴォカリーズも歌われています。「第1」は女声合唱の曲ですが、「第2」はオリジナルは男声合唱、でも、彼女たちにかかると男声よりも厚ぼったい合唱が聴こえてきます。

CD & BD Artwork © Sono Luminus, LLC.


10月26日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Ann-Helen Moen(Sop), Marianne Beate Kielland(Alt)
Allan Clayton(Ten), Neal Davies(Bas)
鈴木雅明/
Bach Collegium Japan
BIS/SACD-2451(hybrid SACD)


ピリオド楽器による「第9」も、それほど珍しくなくなってきた昨今です。さらに、ピリオドではなくても、モダン楽器の室内オーケストラによる演奏というのも、最近では見かけるようになりました。ただ、その時には合唱も少なくしないといけないのに、単にフル編成のオーケストラを雇う予算がないというだけで、100人の合唱に室内オケという組み合わせで演奏しようとしている団体もありますから、それはちょっと、という気がしませんか?
今回のバッハ・コレギウム・ジャパンは、8.8.6.5.3.という弦楽器に30人ほどの合唱という、なかなかバランスの良い編成でした。今年の1月に東京オペラシティのコンサートホールで行われたコンサートのライブ録音と、その前後に同じ会場で行ったセッション録音を編集して、仕上げられているようです。
例えば、N響あたりが演奏するときの半分の人数しかいない弦楽器ですが、この録音で聴く限りは十分な響きが味わえています。逆に、木管あたりがあまり目立たないほどです。それと、第4楽章のソリストが、なんともオフな感じで、ぼやけた音像になっているのが気になります。
しかし、何よりも気になったのが、第1楽章冒頭のホルンのA-Eという空虚五度のあとにひとくさり合奏があって、今度はD-Aの空虚五度がホルンとクラリネットで始まった時の、ピッチです。それは、とても違和感のあるものでした。
もしかしたら、ライブのテイクなので管楽器奏者が不本意な演奏しかできなかったのかもしれませんが、そうであればそのあとのセッションでいくらでも修正したものと差し替えることができるはずなのに、録音スタッフはそのしくじりのテイクをそのまま「商品」として採用していたのです。なんというお粗末な「品質管理」だったのでしょう。
とは言っても、演奏そのものはドライブ感にも歌心にも満ちた素晴らしいものでした。特に終楽章の合唱はまさに感動的、普通の「第9」で聴けるような大雑把な合唱とはまるで次元の違う、音楽の本質に迫る名演でした。特に、男声パートの余裕さえ感じられる歌い方は絶品でしたね。
なによりも、テキストに対する感覚がとてつもなく鋭敏で、言葉が的確なメッセージとしてダイレクトに伝わってきたのは、驚異的です。
ここで鈴木さんがどんな楽譜を使っていたのかは、非常に気になるところでしょう。ちょっと前であれば、ピリオド系の人たちはまずベーレンライター版を使っていたのでしょうが、最近は同じ原典版でもジョナサン・デル・マーがかなり刺激的な校訂をおこなったベーレンライター版ではなく、もう少し穏やかな、ペーター・ハウシルトの校訂によるブライトコプフ新版が登場したことによって、そのあたりの様相が変わってきていますからね。
今回の演奏では、まずは最初のチェックポイント、第1楽章の81小節のフルートとオーボエの後半の音が、「D」になっていました(@)。これは、ベーレンライター版にだけに現れる音、それ以外の原典版では、全て従来通りの「Bb」になっています。というか、最近は明らかにベーレンライター版を使っていると思われる録音(たとえば、先日のネルソンス盤)でも、この音は「Bb」に直されていましたから、これは久しぶりにベーレンライター版に忠実な演奏が聴けるのでは、と期待してしまいます。
しかし、鈴木さんたちは、そのもっともエキサイティングな「改変」である、第4楽章532小節以降のホルンに付けられたタイ(A)をとってしまいました(ご無な)。さらに、第4楽章767小節以降のソリストの歌いだしの歌詞も、ベーレンライター版では「Tochter, Freude, Tochter, Tochter」というイレギュラーな形になっていたものが、ここでは全部「Tochter」になっているのです。そんな風に、ベーレンライター版の「面白い」ところを全部無視しているくせに、「@」だけはベーレンライター版以外ではやっていないことをとりいれているのですから、不思議です。
@

A

SACD Artwork © BIS Records AB


10月24日

MOZART
Flute Quartets
Karel Valter(Fl), Pablo Valetti(Vn)
Peter Biely (Va), Petr Slakla(vc)
ARS/ARS 38 285(hybrid SACD)


モーツァルトのフルート四重奏曲をピリオド楽器で演奏している最新録音盤です。しかも、SACDのマルチチャンネル仕様ですから、これは外せません。となると、気になるのはエンジニアの名前です。このレーベルだと、創設者のシュマッハー夫妻がプロデューサーとエンジニアを務めているはずですので、そのうちのダンナの方、マンフレート・シュマッハーだと思ってクレジットを見ると、そこにはカレル・ヴァルターと、ここでフラウト・トラヴェルソを演奏している方の名前がありました。フルーティストでエンジニアというのは、なかなか珍しいのではないでしょうか。あ、プロデューサーはいつも通りマンフレートの奥さんのアネッテ・シュマッハーでした。
録音はライブではなくスタジオで行われたものですが、そのサラウンドのプランは別に4つの楽器が四方に広がるといったものではなく、ごく穏健にフロントにふくらみを持って定位しているものでした。しかし、やはりミュージシャンによる録音だと思わせられるのは、それぞれの楽器の聴かせどころがきちんと聴こえてくるという点でしょうか。もちろん、自分の楽器だけを目立たせるような品のないことは一切行ってはいませんでした。
それどころか、このヴァルターという人は、演奏するときにはアンサンブルにとことんこだわって、自分の役割の調整を行っているようです。例えば、イ長調の四重奏曲の第1楽章は変奏曲で、それぞれの楽器がソリスティックな演奏を披露するように作られていますが、ここでは、ヴァルターは他の楽器がメインだというところでは、徹底的に自らの存在を消しているんですね。最後の変奏などはフルートがテーマを演奏している上で、チェロの変奏が繰り広げられる、という設定なのですが、そのテーマさえ、彼は極力目立たないように吹いていましたよ。
そのようなアンサンブルの達人たちが集まった合奏ですから、演奏はとてもスリリングで緊迫したものになっていました。メンバーそれぞれが、他のメンバーのどんな細かい仕草にも瞬時に反応してまるで一つの楽器のようにまとまって迫ってくるのですからね。
こういう演奏で聴くと、普通はとてもつまらない曲のように感じられる(おそらく偽作)ト長調の四重奏曲まで、しっかりとした意味のある音楽として聴くことが出来ます。
通常、「モーツァルトのフルート四重奏曲」といえば、ニ長調、ト長調、ハ長調、イ長調の4曲とされていますが、このアルバムではもう1曲「ト長調」の四重奏曲が取り上げられています。とは言っても、別に新しく発見された曲ではなく、同じモーツァルトが作った「オーボエ四重奏曲ヘ長調」のオーボエのパートをフルートに置き換えて演奏したものです。これまでも、例えばゴールウェイが1991年に東京クワルテットと共演した録音がありましたね。
ただ、ゴールウェイの場合は、オーボエ四重奏曲の楽譜をそのまま使って、もちろん同じ調で演奏していました。しかし、今回の録音では全音高く移調された楽譜になっています。いちおう、その「編曲」を行ったのは、モーツァルトと同時代の作曲家で楽譜出版も手掛けていたフランツ・アントン・ホフマイスターという人です。
その時代の普通のフルートでは低音は「D」までしか出せなかったのに、オリジナルでの最低音が「C」だったのと、その楽器ではシャープ系の曲の方が鳴りやすかったのでこのような措置をとったのでしょうね。
ただ、ホフマイスターは、あくまでアマチュアの愛好家のためにこのような編曲を行っていたので、オリジナルでプロの演奏家を想定して作られている華々しいパッセージを、アマチュア向けにやさしく(とは言っても、十分技巧的ですが)直したりしています。おそらく、最大の難所は、6/8で書かれている第3楽章の途中に出てくる、オーボエだけが4/4で書かれている部分でしょうが、そこは、普通のリズムになっているようです。

SACD Artwork © Ars Produktion


10月22日

MENDELSSOHN
Six Sonatas
Hans Davidsson(Org)
LOFT/LRCD-1166


メンデルスゾーンは、作曲家、指揮者として大活躍した人ですが、もちろんピアニストとしても超一流、さらに、オルガン奏者としてもよく知られていて、その即興演奏には、まさにヴィルトゥオーゾたる輝きがありました(卒倒する人もいた?)。特にイギリスでは、オルガニストとしての名声が非常に高かったのだそうです。
そんなわけで、彼が亡くなる3年前の1844年に、さるイギリスの出版社が彼に3曲のヴォランタリー(オルガン曲の一種)の作曲を依頼します。それに対してメンデルスゾーンは、その依頼の「倍返し」の6曲のオルガン・ソナタを作曲するという形で応えました。それは1845年に、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの4か国で同時発売という形で出版されたのです。凄いですね。いかに彼がオルガニスト、作曲家として「売れて」いたかが分かります。
その割には、現在ではこのメンデルスゾーンのオルガン・ソナタは、彼の交響曲などに比べると全く知名度は低いのではないでしょうか。しかし、調べてみると、CDなどでは意外と多くの「オルガン・ソナタ全曲盤」がリリースされていることが分かりました。とりあえずNMLのリストでは、ソナタ集が11種類、さらにその他のオルガン作品をすべて集めた「全集」も5種類あることが分かりました。もちろん、それ以外にもあるはずです。
とは言っても、いくらたくさんの録音があったところで、それらはごく限られた人たちの間だけで聴かれているものなのではないか、という気がします。同じようなことが、フルートの愛好家の間では誰一人として知らないものはいないと思えて、実際に無数の録音が存在する、例えば「シャミナードの『コンチェルティーノ』」とか「ライネッケの『ウンディーヌ』」にも当てはまるのではないでしょうか。こんな名曲は誰でも知っているだろうと思っても、決して「クラシック音楽」全体の世界では知名度の点では全く通用しない曲だというのは、よくあることです。
今回は、それをスウェーデンのオルガニスト、ハンス・ダーヴィドソンが2016年に録音したものです。この6曲のソナタを全部演奏するとほぼ80分かかるので、CDの規格ギリギリのところで収まります。詳しく調べたわけではありませんが、先ほどのたくさんのソナタ全集も、おそらくCDだったら1枚で収まることが分かったので、作られたものなのではないでしょうか。
「ソナタ」という名前も付いているので、しっかり「ソナタ形式」をそなえた楽章で出来ていると思ってしまいますが、ここではそのような配慮はあまり感じられません。それよりも、「色々な要素を持った楽章が集まっている曲」といったようなニュアンスで「ソナタ」と呼ばれているのではないでしょうか。
実際、そのそれぞれの楽章では、自由な楽想が次々に登場する「前奏曲」あるいは「トッカータ」的なものや、厳格な「フーガ」で作られた楽章がたくさん見られます。さらに大きな要素は、「コラール」を素材にしたものが含まれているということです。これらはまさに、オルガン音楽のお手本であるバッハの作品のパーツそのものではありませんか。
そして、メンデルスゾーンは、そこにまさにロマン派的な「歌」のパーツを加えました。そこからは、ほとんど彼の合唱曲と同じような穏やかなテイストを感じることが出来ます。
それぞれの6つの「ソナタ」は、4つの楽章で出来ているものや、2つしかないものとか、楽章の数も微妙に異なっています。というより、もはやすべての楽章を含んだ「18の楽章による大規模なツィクルス」として、これらのソナタ全体をとらえるべきだ、というのが、ここでのオルガニストのダーヴィドソンの主張のようですね。
確かに、そのような聴き方をすると、次々に現れてくる魅力的な楽想に包まれて、とても幸せな気持ちになれます。この、1806年に作られた中規模のサイズのオルガンも、いかにもロマンティックな暖かい音色で聴くものを包み込んでくれます。

CD Artwork © Loft Recordings


10月19日

ABBEY ROAD ANNIVERSARY EDITION
The Beatles
APPLE/0602577921124(CD, BD-A)


ビートルズの「アビー・ロード」がハイレゾのサラウンドで聴ける日がくるなんて、思ってもいませんでした。実は昨年の「ホワイトアルバム50周年」でオリジナルアルバムでは初めてのサラウンド・ミックスは誕生していたのですが、個人的にはこのアルバムには何の価値も持てなかったので、いくらハイレゾだ、サラウンドだといっても、全く食指は動きませんでした。
しかし「アビー・ロード」は特別です。50年間、ことあるごとに聴き続けてきたこの珠玉のアルバムがサラウンドで収録されているBD-Aが入っているというだけで、かなり高価なこの「スーパー・デラックス・エディション」という最高位のグレードのセットを購入させていただきました。
このエディションの構成は、ジャイルズ・マーティンによってリミックスが行われたフルアルバムのCD、そして、それの24/96のハイレゾによる2チャンネルステレオ、さらには、DTS-HDマスターオーディオ5.1と、ドルビー・アトモスの2種類のフォーマットのサラウンドが収録されたBD-A、そして、「セッションズ」と名付けられた正規アルバムには採用されなかったアウトテイク集の2枚のCDという4枚のディスクです。
そして、それらが収納されているのが、分厚い表紙のLPサイズの、100ページにも及ぶブックレット、というか、豪華写真集です。
もちろん、お目当てはBD-Aです。まずは、そのスタート画面からして驚かされます。ただ、3種類のフォーマットを切り替えるためには、普通は使えるはずのリモコンのカラーボタンではなく、矢印キーで曲目の上か下をサーチしなければいけないのが、ちょっとヤボでしょうか。
そして、サラウンドで聴こえてきた「Come Together」はまさに衝撃的でした。冒頭の「タカタタカタ」というハンドクラップにディレイをかけたパルスが、それだけ抜き出されてリアから聴こえてきたのです。それだけで、彼らが録音の時にどれだけアレンジやサウンドにこだわっていたかがはっきり伝わってきます。
さらに特徴的なのは、コーラスがしっかり空間的な広がりを持って聴こえてくることです。これも、今まで聴き流していたものが、はっきりコーラスに注目できるようになり、その完璧なコーラスワークに改めて驚嘆させられることになるのです。
そして何よりも、音のクオリティが格段に上がっています。そもそも、「I Want You」あたりではイントロとヴォーカルの合間に派手に聴こえていたヒスノイズが、全く消えていました。
今回のリミックスで最も効果があったと思われるのは、なんと言っても「The End」でのギター・バトルの部分でしょう。ドラム・ソロが終わった後に、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ジョン・レノンの順に2小節ずつそれぞれに特徴的なソロを演奏するというパターンが3回繰り返される場面なのですが、オリジナルではその3人の音像はすべて左チャンネルに固定されていました。それが、今回は2チャンネルでもサラウンドでも左(ポール)→右(ジョージ)→センター(ジョン)と、はっきり分かれて聴こえてきたのです。
もしかしたら、このような作業はオリジナルに対する冒涜だ、と思う人もいるかもしれません。しかし、これはオリジナルとは全く別物の、「進化系」ととらえるべきではないかと思います。彼らがこれを録音した半世紀前は、「ステレオ」すらも一般的とは言えませんでした。ですから、もし彼らがサラウンドなどのテクノロジーを知っていたのなら、きっとこのようなものを作り上げていたのではないか、と考えるのは、とても楽しいことではないでしょうか。
ブックレットの情報の多さにも、驚かされます。セッションの最後に加えられたストリングスの人数までも分かるのですからね。「Here Comes the Sun」では、ヴァイオリンはなく、ヴィオラ以下の弦にクラリネット、フルート、アルトフルート、ピッコロがそれぞれ2本ずつ加わっているなんて、聴いただけでは絶対にわかりませんでしたよ。まさか、アルトフルートまでがあるとは。

CD & BD Artwork © Calderstone Productions Limited


10月17日

TIME & ETERNITY
Patricia Kopatchinskaja(Vn)
Camerata Bern
ALPHA/ALPHA 545


クレンツィスと共演したチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲で、強烈なインパクトを与えてくれたコパチンスカヤが、「時と永遠」というかっこいいタイトルが付けられたこんなコンセプト・アルバムを作ってくれました。
そして、そのアルバムを飾るジャケット写真が、そもそもかなりのインパクトを持ったものでした。大きく穴の開いたヴァイオリンと、ヴァイオリニストの「生首」が並んでいる、という構図ですからね。
それらが何を意味するのかはそこで取り上げた曲によって明らかになります。前半のメインの曲は1905年生まれのドイツの作曲家、カール・アマデウス・ハルトマンが、ナチスに対する抗議の意味を込めて1939年に作った、「葬送協奏曲」です。まさにその「時」でなければ作ることができなかった、激情と慟哭が込められた4つの楽章から成るヴァイオリン協奏曲です。
ここでは、コパチンスカヤはそれぞれの楽章で激しいリズムでエネルギッシュな情感を表現していたと思えば、最後の穏やかな楽章ではほとんどすすり泣くようなソロを聴かせてくれています。
その協奏曲がヴァイオリン・ソロの超ピアニシモに続くアコードでエンディングを迎えた後には、3人の少女による民謡風の曲が歌われます。それは民族的な唱法によるとても素朴な歌なのですが、それに続いて「戦争のカデンツァ」というタイトルの即興演奏が繰り広げられます。そこではシュプレッヒ・ゲザンクで何やらメッセージのようなものも語られます。それは、先ほどの協奏曲のメッセージとリンクしたものなのでしょう。
後半で取り上げられているのは、やはりヴァイオリン協奏曲の形をとったフランク・マルタンの2つの弦楽合奏とヴァイオリン・ソロのための「ポリプティーク」という作品です。彼の最晩年、1973年にユーディ・メニューインのために作られました。「ポリプティーク」というのはできものではなく(それは「ポリープ」)、連続した宗教画のことですが、ここでは14世紀に作られたキリストの受難から復活に至る1週間を描いた6枚の絵画から受けた印象が表現されています。ブックレットにはその絵画も載っています。
曲は「エルサレム入城の印象」、「最後の晩餐の印象」、「ユダの印象」、「ゲッセマネの印象」、「受難の印象」、「神の栄光(=復活)の印象」という6つの楽章から出来ていて、ヴァイオリン・ソロはイエスの言葉を表すレシタティーヴォ風の音楽を奏でます。
ただ、コパチンスカヤはそれを単純に演奏するのではなく、1つの楽章が終わるごとにバッハの「ヨハネ受難曲」の中で歌われている4声部のコラールを弦楽合奏で演奏しているのです。14世紀の絵画、18世紀のバッハのコラール、20世紀のヴァイオリン協奏曲という、それぞれの「時」に作られたものが同時に表わしているのは、「復活」という「永遠」の姿だったのです。
ただ、実際に描かれた絵画は7枚から成っていました。マルタンは、最後から2番目の「磔刑」には音楽を付けていません。そこで彼女は、それを埋めるためにルボシュ・フィシェルというチェコの現代作曲家の「Crux」という短い曲を演奏しています。これは、2つか3つの音だけのティンパニのビートに乗って、ヴァイオリンが悲鳴を上げたり技巧的なパッセージを披露するという曲ですが、時折「Dies irae」の断片が聴こえてくるように感じられるのは単なる錯覚でしょうか。最後には、チューブラー・ベルの連打で、この曲は終わります。
そして、「ポリプティーク」の最後の曲が、全てを浄化するように消え去ったあとに、これまで度々登場していた司祭によるナレーションで「イエスは復活した」と語られます。
最後を飾るのは、「ヨハネ」では最初に登場するコラール「O große Liebe(おお、偉大なる愛)」です。短調の曲ですが、もちろん改訂後の最後が長調で終わるピカルディ終止になっている形が演奏されています。そして、チューブラー・ベルの余韻とともに、このアルバム全体の幕が下ろされるのです。

CD Artwork © Alpha Classics


おとといのおやぢに会える、か。



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