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干し皮と塩。 佐久間學
今回の新しいアルバムでも、そのコンセプトは明確に貫かれていました。その素材は、中世あたりから伝わっているものから、最近のものまで、民衆の間で歌われていた膨大な「フォークソング」です。それらの中には「熱烈な聖歌」、「神秘的な伝承歌」、「辛口のラブソング」などがあるのだそうです。 そして、そこでオルヤン・マトレという1979年生まれの作曲家の登場です。彼は室内楽、合唱曲から大きなオーケストラ作品まで数多くのジャンルでの作曲を行っていますが、最近はこのオスロ室内合唱団のために、この「フォークソング」を元にした作品を数多く作っています。 彼は、これらの「フォークソング」の中から、それぞれの曲のエキスのようなものを抽出して、あくまでそれをしっかり伝えるような編曲を施しました。 アルバムの構成としては、まずは「前奏曲」という彼のオリジナルが歌われます。それは、テキストを使わない母音唱法だけによる作品で、とてもピュアな響きのテンション・コードというよりはクラスターに近いハーモニーが持続する中に、押し寄せる波のような情景や、時折鋭い叫びが混じったりしています。 そして、本編が始まります。最初はアルバムタイトルにもなっている「ヴェネリティ」。これは、この中世のバラードに登場する女性の名前です。彼女は山の魔王に誘惑され、そこで魔法の薬を何度も飲まされて、次第に自分が誰かも分からなくなっていきます。 そんなテキストに曲が付けられたものを、まずは、本物の「フォークソング歌手」に徹底的な指導を受けた合唱団が、「フォークソング」として演奏します。それは、発声法やコブシの付け方など、クラシックの歌唱とはかけ離れたスキルが要求されるものです。しかし、それはやがて不思議なハーモニーを伴い、多くの声部が絡み合う複雑なものへと変わっていきます。マトレのプランとしては、それはヴェネリティが次第に薬でラリっていく様子を現しているのだそうです。それが最後には、煌めくようなサラウンドの音響として、爆発します。 そのように、録音にあたってはその曲に応じて適切な音場を設定してありますから、シンプルにフロントに広がっているものから、360度に包み囲まれるものまで、ヴァラエティを楽しむことも出来ます。もちろん、編曲のプランもそれぞれに変化があって、次々に現れる新鮮なアレンジに、どんどん期待が膨らんでいきます。 3曲目に演奏されている「ルステマンのスロット」という曲は、森で木を切っている人が、そこで地下に住む「ルステマン」という生き物が歌う「スロット」という「フォークソング」を聴いたという伝説が元になった曲です。これが、とても複雑なリズムとメロディを持っている曲で、まるでジャズのように聴こえます。それがハーモナイズされているのですから、それはもう、最高のジャズコーラスですよ。 その後にもう1曲歌われると、そこから休みなく先ほどの「前奏曲」と同じテイストを持つ「間奏曲」が歌われます。さらに、やはり休みなくつながる次の曲は、「主の友ら」という、天国で愛する人に再会するという内容のお葬式のための歌です。そんな雑誌がありましたね(それは「主婦の友」)。サラウンドの音場で歌われるこのゆったりとした曲は、ノルウェーの大作曲家グリーグの作風とよく似たものが感じられます。 その次の「ストーレ・ストルリ」は、とても楽しい3拍子のワルツの踊りが何度も繰り返される間に、民族的な歌が挟まるという曲です。 いずれの曲も、素晴らしい録音と完璧な演奏で、聴いているだけで心が満たされてしまいます。ニューステットは、また一つ宝物のようなアルバムを作ってくれました。 BD & SACD Artwork © Lindberg Lyd AS |
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実際には、2011年に「ドン・ジョヴァンニ」、2012年に「コジ」、1年休んで2014年に「後宮」、2015年に「フィガロ」、さらに1年休んで2017年に「ティト」、そして2018年に「魔笛」と、6つのオペラを録音してきていました。ですから、あとは「イドメネオ」を残すだけになったのですが、2019年にバーデン・バーデンでそれが上演された形跡はありませんでした。となると、それは2020年以降のことなのでしょうか。あるいは、もう「魔笛」まで録音してしまえば、そこにマイナーな「イドメネオ」などを録音してもしょうがないと思って、このプロジェクトは打ち切りになってしまうのでしょうか。 半世紀も経てば、クラシック音楽の世界は全く別のものになってしまっていました。レコードは姿を消し、その後継者だったはずのCDもそろそろ黄昏を迎えようとしていて、最近ではもっぱらインターネットによる新たな音楽流通が主流になりつつあります。ですから、もはやレコードをたくさん買ってくれるお客さんはいなくなり、オペラのような制作費がかさむ物の録音も激減しています。ですから、まあ6曲でも作ってくれたのは感謝しなければいけないのでしょうね。 そして、音楽の演奏についても、モーツァルトあたりの時代のものは半世紀前とは全く異なるものになっていました。ここで演奏しているヨーロッパ室内管弦楽団はモダン楽器のオーケストラですが、弦楽器のビブラートはなくなり、打楽器や金管楽器はピリオド楽器が使われるようになっています。もちろん、音楽の作り方も、その当時の慣習を取り入れて、例えば通奏低音としてフォルテピアノを加えたりしています。そんな下敷きの上で、指揮者のネゼ=セガンは、とてもしなやかで、心のひだに染みるような音楽を作り上げてくれました。 ところが、そんなオーケストラをバックに歌っているソリストたちが、なにか今一つパッとしないんですね。その最たるものが、このプロジェクトには全て参加しているヴィリャゾンです。このテノールは、最初からモーツァルトにはちょっと違和感がありましたから、今回の「魔笛」ではまさかタミーノは歌わないだろうとは思っていました。その予想は確かに当たりました。そうなると、このオペラのテノールのロールはモノスタトスしかなくなりますが、いくらなんでもそれはないでしょう。そこでどうしたかというと、なんと、彼はバリトンのロールのパパゲーノを歌っていたのですよ。これには驚きました。しかし、これはどう考えてもミスキャスト、アンサンブルの時の声がテノールのまんまなので、全然ハモらないんですよね。 さらに驚いたのは、タミーノをあのフォークトが歌っていたことです。正直、ワーグナーは無理でもモーツァルトだったら何とかなるのでは、と思ってはいたのですが、実際に聴いてみるとそれはやっぱりとんでもないタミーノでした。仮にも、この役は王子様ですよ。それが、あんなチャラチャラしたお子ちゃら(お子ちゃま)みたいな声で歌われたのでは、たまったものではありません。 もう一つ失望したのが、グロッケンシュピール(もちろん、キーボード・グロッケンシュピール)です。ここでは、常連のジョリー・ヴィニクールがピアノフォルテと持ち替えでこの楽器も担当しています。それが、ほとんど聴こえてこないんですよね。そもそも通奏低音も全く聴こえてこないので、そのノリでバランスをとっていたのでしょうが、このオブリガートが聴こえないことには、このオペラの魅力は半減です。 CD Artwork © Deutsche Grammophone GmbH |
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とは言っても、ごくまれにソリスティックな役目が回ってくることもあります。例えば、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」では、「美女と野獣の対話」の「野獣」として、おどろおどろしい低音のフレーズを披露したりしています。 そう、この楽器では、決して穏やかでハッピーな情景の描写などは出来ません。あくまで、悪魔のような得体が知れず恐ろしいキャラクターなどのイメージが付いて回る宿命の元に生まれたのです。 しかし、このアルバムでは、そんなコントラファゴットを主人公にすえて、その知られざる華やかな側面を明らかにしようとしているようです。そのタイトルは「万華鏡」、こんな地味〜な楽器によって、そのような色彩感豊かな煌めくばかりの世界を広げようとしている無謀な企画です。 いやいや、これはなかなかの健闘ぶり、これだったら、確かにこの楽器の秘められた素顔が立派に伝わってくるのではないでしょうか。 ここで演奏されている曲は、1曲をのぞいてはこれが世界初録音となる珍しいものばかりです。それらを作っている4人の作曲家も、見事に聞いたこともない名前が並んでいます。 まずは、1940年生まれのオランダのファゴット奏者、ピアニスト、そして作曲家のケース・オルタイスが、2006年に作った「序奏とアレグロ」という、ファゴット、コントラファゴット、そして弦楽五重奏という編成の曲です。オルタイスという人は1970年から2005年までロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のファゴット奏者を務めていましたが、この曲はそのオーケストラの当時の首席ファゴット奏者とコントラファゴット奏者のために作られています。そして、同じ年に彼らによって初演されました。 これは、古典的なフォルムと、新古典主義的な和声とを併せ持った楽しい作品で、弦楽器が作り出す躍動的な音楽を受けて、ファゴットとコントラファゴットが対になって技巧的なパッセージを繰り広げる、というものです。そこでは、その2つのソロ楽器が、あらん限りの「技」を繰り出して、ほとんどバトルの様相を呈しています。ファゴットに出来ることがコントラファゴットに出来ないはずはない、と頑張っているコントラ奏者の姿が目に浮かぶよう、その結果、思ってもみなかったような華やかな世界が眼前に広がることになるのです。 ゲルハルト・ドイッチュマンは、その名の通り1933年にドイツに生まれた作曲家です。その作品は民族音楽から合唱曲、果ては交響曲まで多岐に渡っています。1998年に作られた「コントラファゴットとピアノのためのソナタ」は、3つの楽章で出来ていますが、穏やかなテンポで始まったものが最後は生き生きとした音楽になるという分かりやすいものです。 ヴィクトル・ブルンスは、1904年に、フィンランドでドイツ人の両親から生まれました。レニングラード音楽院で学んだ後、ドイツに渡りボリス・ブラッヒャーに師事します。1946年から1969年まで、ベルリン・シュターツカペレで2番フルート奏者を務めています。 ここでは、ピアノとコントラファゴットのための小品がいくつかと、フル・オーケストラをバックにしたコントラファゴットの協奏曲が演奏されています。 最後のエフレイン・オッシャーは、1974年にウルグアイで生まれ、ベネズエラで育ったフルーティスト(のちにウィリアム・ベネットに師事)で作曲家です。2011年に作った「Soledad(孤独)」は、劇音楽として作られたもので、アストル・ピアソラの影響を強く受けているのだそうです。様々なバージョンがありますが、ここではコントラファゴットと弦楽五重奏、そしてギターのために編曲されています。 SACD Artwork © Ars Produktion |
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ここでのメインの作曲家は、松下耕(まつしたこう)です。電気屋さん(それは「松下幸之助」)ではなく、合唱指揮者、あるいは合唱コンクールの審査員として非常に有名な方で、作曲家としても膨大な数の合唱曲を世に送りだしています。中でも、コンサートの前に演奏される「携帯切らなきゃ お仕置きよ!」というユーモラスな曲は、有名ですね。 ここでは、ご自身もカトリック信者である彼が最近作ったラテン語の歌詞によるモテットが7曲と、マックス・レーガーの「3つの合唱曲」、そして、クリトゥス・ゴットヴァルトが編曲した、マーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」(合唱曲のタイトルは「Im Abendrot」)が演奏されています。松下とゴットヴァルトはまだご存命ですが、レーガーは1世紀以上前にお亡くなりになっていますから、「Contemporary Choral Music」というサブタイトルはちょっと変ですね。 以前こちらで聴いた日本人作曲家のアルバムでは、日本語で歌われている曲がありましたが、ここでの松下のモテットはテキストは万国共通の(「フランス風」とか「ドイツ風」といった違いはありますが)ラテン語ですから、特に意識されるようなことはありません。そんなあたりが、松下の作品が国際的に高い評価を受けている一つの要因なのかもしれませんね。ポップスの世界でも、インターナショナルな市場に向けて活躍するときには、その世界の共通語である英語で歌うことが必須であるのと同じことなのでしょう。というか、なぜかこのドイツの合唱団の発音が「日本風」に聴こえてくるのが、ちょっと不思議。 最初に収録されている「Ubi caritas」は、なんだかデュリュフレの作品にとても良く似たテイストが感じられました。そう思って聴いていると、次の「O salutaris hostia」はプーランクのようなセンスが強く感じられます。 かと思うと、3曲目の「Tenebrae factae sunt」は、20世紀初頭のヨーロッパ音楽のような無調感が漂っています。シュプレッヒ・ゲザンクまで登場しますからシェーンベルクでしょうか。 4曲目の「Salva me Coro」と、5曲目の「De profundis clamavi」は、ここで歌っているザールブリュッケン室内合唱団のために作られました。どちらもメシアンの影響が強く感じられますし、後者などはそこにペルトも加わります。 6曲目の「Usquequo Domine」はちょっと特殊。作られたのが2011年、あの大震災と、津波、原発事故が起こった年です。ここでは、まるで北欧の作曲家(マンテヤルヴィとか)のような世界が広がります。 そして、7曲目の「Domine, fac me servum pacis tuae」では、やはりペルト風の長三和音が満載です。 このような、世界的な合唱の流れを「参考」にしながら、ちょっとどこかで聴いたことがあるような感情をおぼえさせて親近感を誘う、というのが、この作曲家の一つの戦略なのかもしれませんね。その結果、その後に続くマックス・レーガーのドイツ・ロマン派の伝統をそのまま受け継いだような「Trost」、「Zur Nacht」、「Abendlied」という3つの合唱曲とは何の違和感もなくなってしまうのです。 最後に歌われているのが、ゴットヴァルトの一連の多声部無伴奏合唱のための編曲の一つ、マーラーの「アダージェット」です。オリジナルはハープと弦楽合奏ですが、ここではハープのパートは潔く切り捨てられて、もっぱら弦楽器の息の長い旋律を密集した合唱で彩るという手を取っています。そこで、弦楽器で聴いた時にはあまり感じられないテンション・コードの妙が、ア・カペラでは鮮明に聴こえてくるという現象に驚かされることになります。ただ、それだけで満足していたのでは、マーラーならではの濃密な陶酔感を表現することはできません。そんな歯がゆさを、この合唱団には感じてしまいました。 CD Artwork © Carus-Verlag |
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今回の、イギリスの演出家デヴィッド・ルヴォーによる演出も、そのような自由な発想によるユニークなものでした。ただ、これは劇場のプロダクションではなく、アメリカのテレビ・ネットワークNBCが生で放送(!)するために制作したものです。 それは、2018年4月1日(イースター・サンデー)に、アメリカ全土で放送されました。その映像は、パッケージとしてはDVDがリリースされているようですが、もっぱらネットのコンテンツとしてストリーミング配信されているようです。いずれはBDなども発売されるのでしょう。それを、今回はWOWOWが放映してくれたので、見てみました。 会場は、「マーシー・アヴェニュー・アーモリー」、東北地方(それは「アオモリ」)ではなく、ニューヨークのブルックリンにあるかつての兵器庫を改造した広大なアリーナです。そこに階段状の客席を設置して、1500人ほどのお客さんを入れ、「ライブ」が行われたのですが、最前列あたりにはエキストラを仕込んであって、的確にステージのグルーヴを反映して客席が盛り上がっている様子が映像として取り込まれることを目指しています。 そして、ルヴォーの演出では、広大なステージの背後には建築用の足場が4層ほどの高さで設置されています。これは、先ほどのジューイソンの映画と酷似したプランです。 しかし、今回は、そこには本来のミュージカルではピットに入っているべきオーケストラが陣取っていました。最上段には、指揮者付きのホーン・セクション、その下がドラムスとパーカッション、その下が複数のキーボード、そして、ステージと同じ面にストリングスとリズム・セクションが待機しています。 「Overture」が始まると、いきなりソロ・ギターが前に出てきてあのフレーズを弾き始めます。それによって、このプロダクションが「ミュージカル」ではなく「ライブ」であることが強烈に印象付けられます。ここでは、主役は「音楽」、しかも「ロック」ですから、それにふさわしいシチュエーションが用意されている、ということですね。客席は最初からスタンディングです。 さらに、なんとストリングスまで、スケルトンの楽器をもってステージを走り回ります。一応映像的には各パート1人しかいないようですが、最後の「John Nineteen: Forty One」ではかなり厚いストリングスの響きが聴こえてきました。 それと、グランドピアノがやはりステージ上に置いてありましたが、使われたのはヘロデ王のソロの時だけでしたね。ここでヘロデ王を歌っていたのがアリス・クーパー、今まで聴いてきたものとは正反対のキャラクターで、コミカルさは全くありませんが、それをダンスがカバーするという形、客席は最高に盛り上がっていましたね。 ソリストで最も存在感があったのは、ユダ役のブランドン・ヴィクター・ディクソンではないでしょうか。映画版のカール・アンダーソンとよく似た設定です。しかし、肝心のジーザスがジョン・レジェンドというのは完全なミスキャスト。この人が歌いだすと、ステージの緊張感が一気になくなってしまいます。彼が縛りつけられた十字架が、いきなり十字架状に開いた下手の壁の中に消えていくシーンは感動的だというのに。 もしかしたら、このプロダクションは、ロイド=ウェッバーが「ロック・オペラ」として発表した当初のコンセプトに最も近いポリシーを持ったものだったのではないでしょうか。 Artwork © Sony Music Entertainment |
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ジャケットの写真が彼女ご本人、ブレイズヘアがかっこいいですね。なんか、ヒップホップ系のアーティストのように見えますが、もちろんれっきとしたクラシックのフルーティストです。なんでも、メリッサ・スローカムという有名なジャズ・ベーシストの娘さんなのだそうですね。しかし、彼女はジャズではなくクラシックの道へ進み、ジュリアード音楽院、マンハッタン音楽大学、カーティス音楽院などで研鑽を積みます。そこでは、フィラデルフィア管弦楽団の首席奏者、ジェフリー・カーナーや、ニューヨーク・フィルの首席奏者、ロバート・ランジュバンの薫陶を受けました。 彼女は2012年、つまり22歳の時に、ミルウォーキー交響楽団の首席奏者に就任しています。それ以外にも、フィラデルフィア管弦楽団、シカゴ交響楽団といったメジャー・オーケストラや、オルフェウス室内管弦楽団というユニークなオーケストラの客演首席奏者も務めています。 まず、アルバムはバーバーの「カンツォーネ」というフルートとピアノのための短い曲から始まります。初めて聴く曲ですが、いかにもバーバーらしい柔らかなメロディにうっとりさせられる作品です。そこで聴こえてきたスロークムの音は、そんな音楽にぴったりと寄り添った、ソフトな音色でした。特に低音で極力倍音を加えないピュアな音になっているのが、とても魅力的で、聴くものを暖かく包み込んでくれます。ただ、ビブラートがいかにもアメリカのフルーティストらしい機械的なものであるのが、ちょっと気になります。 次は、ひところは良く聴くことがあった、バルトークのピアノ曲をポール・アルマが編曲した「ハンガリー農民組曲」です。これは、彼女が23歳の時に初めてミルウォーキーで開いたリサイタルで演奏した曲なのだそうです。彼女の演奏では、最初の方のシンプルな民謡のテーマが、とても味わい深く感じられます。 そして、これもバーバー同様、初めて聴いたアメリカの作曲家、エーロン・コープランドの「フルートとピアノのためのデュオ」です。流れるような第1楽章、詩的な第2楽章、そしてダンスのような第3楽章の3つからできていて、それぞれにコープランドらしさが満載の楽しい曲です。彼女は、この曲を学生時代にジェフリー・カーナーにレッスンしてもらっています。コープランドは、カーナーの何代か前のフィラデルフィア管弦楽団の首席奏者、ウィリアム・キンケイドの委嘱によってこの曲を作っています。そんな「伝統」のようなものを、彼女は受け継いでいるのでしょうね。第2楽章では、プーランクの有名な「フルート・ソナタ」の第2楽章のテーマそっくりのテーマが出てきますね。 ショパンの遺作の「ノクターン」の編曲を挟んで、フルーティストの定番レパートリー、ジョルジュ・ユーの「ファンタジー」が演奏されます。この曲は、彼女が13歳の時に学校で演奏したものを母親のメリッサが聴いて、すっかりお気に入りになってしまったのだそうです。 もう一つの定番、フランク・マルタンの「バラード」のあとの締めくくりはドビュッシーのソロ・フルートのための「シランクス」です。これも、彼女の穏やかな音色が光ります。もちろん、最後のロングトーンにアクセントが付けられることはありません。 CD Artwoek © Affetto Recordings, LLC |
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最近かなり音にはうるさい人にこれを貸してあげたら、「ブルーレイ・オーディオってすごい!」と驚いていました。そんなマニアでもこれはかなりの衝撃だったのでしょう。 それが録音されたのは2011年でした。それ以来、このアーティスト、トーネ・ビアンカ・スパッレ・ダール指揮のスコラ・カントルムのアルバムは出ていなかったところに、久しぶりにリリースされたのが、今回のアルバムです。その録音データを見ると、ここには2014年から2018年にかけて録音されたものが収録されているということでした。つまり、前回のアルバムから3年経って以降に行われた録音が集められているということになります。 しかし、その2014年録音とされる曲を聴いてみると、その音は2011年のものに比べると格段の進化を遂げていたことが分かりました。実際、この間に、エンジニアのリンドベリは、マイクの使い方を大幅に変えていることが、それぞれのアルバムのブックレットにある写真から推察することが出来ます。彼の現在のやり方は、中央に9本、あるいはそれ以上のマイクがセットされたアレイを1本だけ立てるというものですが、それが始まったのがこの期間のようなのです。それ以前は、メインのアレイの後ろにアンビエンス用のマイクを別に立てていましたね。 ですから、以前の録音では音そのものはとても生々しいのですが、音場としてはごくありきたりの合唱が全てフロントに集まっているというものでした。それが、2014年には、合唱はしっかり半円形の音場でリスナーに迫ってくるようになっていたのです。 このアルバムには、5人のノルウェーの作曲家と、1人のスウェーデンの作曲家のごく最近の作品が集められています。2014年に録音されたのは、その時に出来たばかりの「Gloria」というタイトルの、フロイ・オーグレ(ノルウェー)というジャズメンでもある方の作った曲で、そこには彼女自身のソプラノ・サックスもフィーチャーされています。テキストはミサの中のあの「Gloria」ですから、誰でも知っています。それを、ジャズ的な手法(オスティナートとか)も交えて、合唱とサックスが絡み合います。写真を見ると、真ん中にサックス、その両脇に男声、さらにその外側に女声という配置になっていて、確かに合唱はその定位で聴こえてくるのですが、サックスがもっと中央寄りから聴こえてきます。しかも、後半にはそれがオーバーダビングされて、別のところからも聴こえてきますよ。 アルバムタイトルの「TRACHEA」は、やはりノルウェーのマッティン・オーデゴールが作った曲のタイトルで「気管」という意味なのだそうです。ここにはホルンが4本参加、それぞれ4隅に配置されてその中に合唱が並びます。特殊奏法や歌い方でちょっと難解だと思っていると、それが何回か続いた後にはきれいなハーモニーが出現してくるというのは、まさに「現代」の音楽の姿です。 あるいは、やはり作曲家自身がフィドル・ソロで参加しているビョルン・コーレ・オッデ(ノルウェー)の「Snilla Patea」では、大昔から伝わっている民族音楽が素材になって、それが「現代」に生きる意味を考えさせられます。 他の曲も、聴いていて手ごたえのあるものばかり、それが超リアルな録音によって聴き手の周囲に迫ってくるのは、本当にエキサイティングです。 BD & SACD Artwork © Lindberg Lyd AS |
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そして、それから20年近く経って、この「第3巻」のリリースです。もちろん、ここに収録されている作品も、全て世界初録音です。以前のアルバムとこのアルバムでライナーノーツを執筆しているアラン・バッドリーは、ホフマンの全ての協奏曲のリストを作成して「バッドリー番号」というものを付けています。それによると、フルート協奏曲は全部で13曲あることになっているのですが、この3枚のCDにはそれぞれ4曲ずつ録音されているので、12曲しかありません。まだ1曲残っているのですね。 このバッドリー番号の特徴は、曲の調性ごとにグループに分けて、その中で番号を付けているということでしょう。13曲の内訳は、イ長調が2曲、ニ長調が6曲、ホ短調が1曲、ト長調が4曲なのですが、それぞれ最初に調号(短調は小文字)、次に番号が付けられています。このアルバムの中の曲は「D5」、「G1」、「A1」、「G4」の4曲ですね。そして、このNAXOSの全集から漏れてしまったのは「D2」です。 さらに、フルート協奏曲は「II」というカテゴリーの中に入っていますから、正確には、最初の曲は「Badley II:D5」という呼び方をされることになります。ちなみに、「I」はチェンバロ協奏曲、「III」はオーボエ協奏曲、「IV」はファゴット協奏曲(1曲だけ)、「V」はチェロ協奏曲、「VI」はヴァイオリン協奏曲、「VII」は2つのソロ楽器のための協奏曲、「VIII」は合奏協奏曲や「コンチェルティーノ」など、「その他」の協奏曲です。 フルート協奏曲は、すべて急・緩・急の3楽章形式で、オーケストラには弦楽器以外にホルンとチェンバロが入っていますが、真ん中の楽章ではホルンはなくなります。もちろん、チェンバロは通奏低音としての役割を果たしているのは、この時代の様式ですね。 ここでフルートのソロを演奏しているウーヴェ・グロットは、このレーベルから多くのアルバムを出していますが、それらを聴いた限りでは特にグロっとくる(グッとくる)スタイルをとることはなく、いとも穏健な演奏をするプレーヤーという印象がありました。今回のホフマンでも、その印象は全く変わりません。とても端正に音を並べてはいるのですが、そこからはまだ誰も聴いたことのない作品を世界で初めて演奏しているのだ、という熱気のようなものはさらさら感じることはできません。単に、「全集」としてのカタログを満たすための音素材を提供するのだ、ぐらいの低い志で録音に臨んでいるのでは、とさえ思ってしまいます。もちろん、それはこのレーベルのポリシーなのでしょうから、それ以上のものを求めることもないのでしょうが、なにしろ、この20年前に同じ作曲家の同じフルート協奏曲に、なんともスリリングで溌剌とした演奏によって、しっかりと「命」を吹き込んでいた瀬尾さんの録音をすでに聴いているのですから、聴く者のハードルは高いのですよ。 ト長調(G1)の協奏曲の第3楽章には、モーツァルトの有名なニ長調の協奏曲(というか、オリジナルはオーボエ協奏曲)のロンドのテーマが登場しますし、イ長調(A1)の協奏曲のやはり終楽章では、バッハの「組曲第2番」の「バディヌリ」によく似たテーマが聴こえてきます。グロットは、そんなところはいともあっさりと吹き流しています。もし、前のアルバムを録音した当時の瀬尾さんが引き続き「第3巻」も録音していたのなら、もっとショッキングなアプローチが聴けたのかもしれませんね。 CD Artwork © Naxos Rights(Europe) Ltd |
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このオペラ、そのカットされた2つの幕では、主に歌っているのはオトコだけという、なんとも華のないワイルドな設定になっています。一応第2幕の最後には小鳥の声で女声が登場しますが、普通の演出ではその姿は見えないことになっていますからね。 そして、第3幕になって、やっと主人公の片割れの女性、ブリュンヒルデが現れて歌い出すことになるのです。そこで初めて、「オペラ」には欠かせない「愛の二重唱」を聴くことが出来るようになります。つまり、そういう美味しいところだけを抜き出したのが、このCDなんですね。ですから、ソリストは本当は8人必要なこのオペラなのですが、第3幕では3人しか出てきませんし、さらにこのCDではその最初のあたりに出てくるヴォータンの出番もカットしているので、2人だけで済むことになります。 実際、第1幕ではジークフリートはミーメと喧嘩しながら刀を鍛えたり、第2幕ではその刀でファフナーが変身している龍を殺したりと、まさに殺伐としたシーンが連続しているだけで、音楽的にはあんまり魅力はないんですよね。というか、この第3幕のブリュンヒルデが登場してからは、音楽が全くの別物になってしまいますから、最初から聴いてくるとかなりの違和感にぶち当たってしまいます。実際、この場面の少し前のところで、ワーグナーは一旦作曲を中断していて、再開されるのは13年後になるのですから、変わっていて当然なわけです。 ここで演奏しているオーケストラは「ドイツ放送フィル」という名前の団体です。ドイツ各地の放送局に所属しているオーケストラはたびたび名前を変えているので、戸惑ってしまいますが、このオーケストラもやはり昔とは異なる名前に変わっています。いや、名前だけでなく、その前身のオーケストラ自体が、元々は別の放送局の所属だったのですから、話は複雑です。それは、このオーケストラの正式名称から見えてきます。それは、「Deutsche Radio Philharmonie Saarbr?cken Kaiserslautern」つまり「ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団」という長ったらしい名前です。つまり、「ザールブリュッケン」と「カイザースラウテルン」という街の、それぞれザールラント放送(SR)と、南西ドイツ放送(SWR)に所属するオーケストラが2007年に統合されたものなのです。その時点で、SWRにはそれ以外に2つのオーケストラがあったのですが、それも2016年に統合されて、現在の「SWR Sinfonieorchester(南西ドイツ放送交響楽団)」となっています。ああ、ややこしい。 というわけで、この「ジークフリート」は、その「ドイツ放送フィル」による第3幕の前奏曲から始まります。しかし、その首席指揮者、日本でもおなじみのピエタリ・インキネンの指揮ぶりは、とてもスマートで、ちょっとたじろいでしまいます。トランペットで現れる「槍」のモティーフの付点音符などは、信じられないほどの滑らかさ。なんでも、来年2020年にはバイロイトで「指環」の指揮をすることが決まったそうですが、これはかなりの新風を吹き込んでくれることが期待できそうです。いや、あるいはものすごいブーイングとか。 ここで歌っている2人のソリストは、間違いなくブーイングの対象になりそうな人たちですね。ジークフリートのシュテファン・ヴィンケは、あのクラウス・フローリアン・フォークトほどではありませんがヘルデンからは程遠い声ですし。ブリュンヒルデのリーゼ・リンドストロームはおぞましいほどの音痴、というか、ビブラートで音程が完全に狂ってます。 CD Artwork © Naxos Deutschland Musik & Video Vertriebs-GmbH |
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もちろん、ここではそんなちょっとヤバいデザインとは全く関係のない、この国を代表する4人の作曲家、物故者の武満徹と、ご存命の間宮芳生、細川俊夫、近藤譲の作品が選ばれていました。 まずは、1955年生まれの細川俊夫の2006年の作品「Die Lotosblume(蓮の花)」です。これには、「ローベルト・シューマンへのオマージュ」というサブタイトルが付いている通り、テキストはそのシューマンの歌曲にも用いられたハインリヒ・ハイネの詩がテキストになっていて、ドイツ語で歌われています。つまり、元々インターナショナルな需要を目指して作られているのですね。 打楽器も加わったサウンドからは、日本の仏教と蓮の花との因縁が感じられますが、音楽もこの作曲家の包み込まれるような穏やかさが味わえます。 続いて、武満徹の初期(1961-9年)の作品、「風の馬」です。これは、5曲からできている組曲ですが、そのうちの3曲がヴォカリーズだけで歌われるので、歌詞はありません。そして、残りの2曲に、秋山邦晴のテキストが付いています。もちろん日本語で書かれたテキストなのですが、それを彼らはきちんと「日本語」で歌っていました。これは、ちょっと不思議な感覚でしたね。もしかしたら、日本人の作曲家が日本語のテキストに作曲した曲を外国の合唱団がそのまま日本語で歌ったのを聴いたのは、これが初めてだったのかもしれません。さらに驚くべきことに、その日本語はとてもきれいな日本語だったのです。 つまり、例えばウィーン少年合唱団のようなところが日本にやってきてコンサートを行う時に、いかにもお客さんへのサービスという形で「日本語の歌」を披露してくれることがあるのですが、その時の発音がいかにも拙いのですよね(歌詞が瑕疵だらけ)。まあ、自分たちは全く使うことのない言葉を一生懸命勉強してそれに「似せて」歌う姿が可愛いので許せる、ということなのでしょう。しかし、このCDでの日本語は、そんな次元をはるかに超えた、もしかしたら「日本人が歌う日本語よりも美しい日本語」だったのですよ。 メンバー表を見ると、数人日本人と思われる名前がありました。おそらくその人たちがしっかり指導していたのでしょう。それにしても、これはすごすぎます。というか、これが世界水準の合唱団なのでしょうね。 武満の曲は、他に1981年ごろに作られた「うた」の中から3曲演奏されています。こちらはメロディがシンプルなだけに、さらにその日本語の美しさが光ります。「小さな空」などは、聴いていて涙があふれてきましたよ。 もしかしたら、日本の合唱団には、「発声」を重んじるあまり、「発音」が犠牲になっているという面があるのではないでしょうか。「う」などは、口を開けて「うぉ」みたいに歌うように指導されてはいませんでした?このドイツの合唱団は、そんなことはこだわらずに、しっかり「発音」を磨き上げました。その結果がこれです。ある意味、日本の合唱団が「負けた」ことを実感してしまいましたよ。 余談ですが、武満の「うた」の中には、彼がそれまで聴いてきて、自然に口ずさむようになっている音楽のエキスを、彼自身の作品として再構築しているものがあるような気がします。この「小さな空」では、そのエキスが「メリー・ウィドウのワルツ」だったのでは。 そして、1929年生まれの間宮芳生が1958年に作った名曲、「コンポジション第1番」です。これも、例えば昔の東混の真面目くさった録音に比べると、なんと楽しげに歌っていることでしょう。 1947年生まれの近藤譲の2011年の新作「薔薇の下のモテット」には、蒲原有明の七五調の、聴いただけでは意味が分からないようなテキストが使われています。彼らは、そういうものでも的確にその意味を捕らえ、音楽として表現しているようでした。 CD Artwork © Naxos Deutschland Musik & Video Vertriebs-GmbH |
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おとといのおやぢに会える、か。
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