オーボエ、だっちゃ。.... 佐久間學

(14/5/18-14/6/5)

Blog Version


6月5日

BRAHMS
Ein deutsches Requiem
Christiane Libor(Sop)
Thomas E. Bauer(Bar)
Antoni Wit/
Warsaw Philharmonic Choir(by Henryk Wojnarowski)
Warsaw Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.573061(CD), NBD0039(BA)


ブラームスの「ドイツ・レクイエム」の最新アイテムです。なんとCDBA(いまいち浸透していない略語ですが、「Blu-ray Audio」のことですからね)が同時に発売されるという又とない機会なので、両方とも入手して音を聴き比べてみることにしました。
それにしても、このBAの品番が「0039」というのは、いろいろ考えさせられるものなのではないでしょうか。一応「4桁」を用意したのは、当初は何千アイテムものリリースを想定してのことだったに違いありません。その「0001」番がリリースされたのは2011年の11月、それはまさにこれからのハイレゾ時代に対応した新しいパッケージの華々しいスタートだったはずです。しかし、それから丸2年以上が経ったというのに、その間にリリースされたこのレーベルのBAはたったの39枚しかなかった、ということになります。どうやら、このレーベルに関しては、一応出してみたものの、それほど売り上げも伸びなかったので、そろそろ見切りをつけようとしているのではないでしょうか。もしかしたら、このアイテムがこのレーベルにとっての最後のBAになってしまうのかもしれませんね。当初は24bit/48kHzなどという中途半端なスペックのものもありましたが、すべて24bit/96kHzになってからは、明らかにCDをはるかに上回る音を聴かせていただけに、なんとも残念な気がします。
ただ、BAに関しては、他のレーベルも同じようなスタンスに終始していたような印象はぬぐえません。SONYなどはサンプル程度のリリースはあったものの、到底本腰を入れるつもりはなさそうですし、UNIVERSALにもかつてのような勢いはなくなっています。なによりも、BAに特化したプレーヤーがとっくに開発されてもいいのに、いまだに消極的な再生機器メーカーの対応は象徴的です。おそらく、この業界では当初からBAに対しては何の期待も持ってはいなかったのではないでしょうか。
今回の「ドイツ・レクイエム」は、お馴染み、ポーランドのCD Accordのスタッフによる録音です。いつもながらのきっちりとした音づくりは健在ですが、ここではややおとなし目の仕上がりになっているでしょうか。冒頭の再生レベルが、BACDに比べてちょっと低めに感じらますが、これは全曲のダイナミック・レンジを考慮してのことなのだと、すぐ気付きます。CDでは、全体のレンジを圧縮した結果、冒頭のピアニシモが少し大きめにマスタリングされているのでしょう。ですから、フォルテシモの部分でもBAでは余裕を持ったフル・サウンドを楽しむことが出来ますが、CDではなにか頭打ちのような物足りなさが残ります。なによりも、そういう個所での弦楽器の輝きが別物です。こういうハイレゾ感、別にBAがなくなってもダウンロードなどの別の方法で味わう道は残っていますが、それには「物」としての存在感などは不要だとする鈍感さが必要です。芸術家の「心」をデータのやり取りだけで伝えようとすることにある種の抵抗感を抱くのは間違ったことだと決めつけられる、いやな時代が来ようとしています。
そう、このジャケットのドライフラワーのように、この曲の渋さを的確に表しているパッケージとともに「ドイツ・レクイエム」を味わう時には、ヴィットの渋いながらもブラームスならではの歌心に満ちた演奏がとてもすんなり伝わってきます。それを担っている合唱は、とても集中力のある歌い方でそれに応えている部分が多く見られるのはうれしいことです。しかし、この曲はソプラノやテノールにとっては求められるスキルの度合いにも並々ならないものがありますから、コンディションによっては多少耳障りなところもなくはありません。ライブならいざ知らず、セッション録音でこれはちょっと辛いかも。
ソリストでは、バリトンの端正な歌に惹かれます。ソプラノはちょっと張り切り過ぎ、というか、ヴィットの作り上げたストイックな世界からはちょっと浮いてます。

CD & BA Artwork © Naxos Rights US, Inc.

6月3日

MOZART
Die Entführung aus dem Serail
Desirée Rancatore(Konstanze)
Javier Camarena(Belmonte)
Rebecca Nelson(Blonde)
Thomas Ebenstein(Pedrillo)
Kurt Rydl(Osmin)
Hans Graf/
Salzburger Bachchor, Camerata Salzburg
ARTHAUS/108 102(BD)


お馴染み、モーツァルトの「後宮よりの逃走」は、悪者だったはずの太守セリムが寛大な心でみんなを許して解放するというあり得ないエンディングですが、それゆえに演出家にとっては様々な「読み替え」の可能性を秘めているという魅力いっぱいの作品なのでしょう。2013年のザルツブルク音楽祭でこのオペラが上演された時には、その舞台はトルコではなく、なんとザルツブルクのさるお金持ち(「レッドブル」の社長)が作った飛行場になっていました。そこに2つある格納庫のうちの一つ、ハンガー8(アハト)ではオーケストラが演奏、そしてもう一つの、ハンガー7(ジーベン)で物語が進みます。ここは、その社長さんが自分の趣味で集めた飛行機やレーシング・カーのコレクションが展示されている博物館なのですが、そこを華やかなオート・クチュールと見立てての演出なのです。つまり、コンスタンツェはモデル、ブロンデはお針子として捕らわれていたというのがその設定のベース。ところが、この「舞台」には、客席がありません。それは、このプロダクションがテレビで生中継されるためのものだったから。ハンガー7の中にも、カメラの邪魔にならないように歩き回っている相当数の観客がいますが、本当の観客は、テレビの前にいる何百万人という視聴者たちなのです。歌手たちはまるで野外フェスのようにハンズフリーのマイクとイヤモニターを装着、ステディカムやカムキャットを含めた無数のカメラが彼らを追いかけ、その映像がヨーロッパ中にリアルタイムで流されたのですからね。
それがいかに大変なことであったのかは、このBDに収められているメイキング映像を見れば良く分かります。歌手たちは、ステージで歌うのとは全然異なるシチュエーションで、カメラの位置を的確に知りながら演技を行わなければなりません。なによりも、これは「オペラ」なのですから、オーケストラに合わせて「歌わ」なければいけないのですが、その頼りになるのはイヤモニターから聴こえてくる音声と、指揮者の姿を映したモニターを見ながら、カメラに入らない位置で指揮をしている副指揮者の動きだけ、それに慣れるためには、かなり長期にわたるリハーサルが必要だったはずです。
ところが、本番直前になって、すでにリハーサルを始めていたコンスタンツェ役のディアナ・ダムラウが突然キャンセルになったので、現場は大混乱。代役としてイタリアから直行したランカトーレには、なんと12時間の準備期間しかありまへん。これはあきまへん。とりあえず、太守役のトビアス・モレッティなどのサポートもあって、ランカトーレは演技に関してはそつなくこなしていますが、それで精いっぱい、歌の方はかなりいい加減になってしまっているのは、仕方のないことでしょう。
でも、他の歌手たち、中でもオスミンのリドルあたりの好演もあって、ハラハラさせられながらも無事に「生中継」は終わったようでした。
実は、この演出には飛行場ならではのサプライズが用意されていました。というのも、この生中継の時の映像をYouTubeで見ると、最後には4人がヘリコプターに乗って飛び立つ、という映像が確かにありました。ところが、このBDではその最も重要なシーンが丸ごとカットされていました。その訳は、カーテンコールのシーンで、ハンガー8からオーケストラの団員がハンガー7まで歩いてくるときに分かります。そこには、まだ地上に残っているヘリコプターがしっかり写っているではありませんか。「生」の時のヘリコプターが飛び立つシーンは、前もって用意してあった映像を差し込んでいたのですね。あとでここを見直して、この痛恨のミスに気づき、せっかくのシーンを泣く泣くカットしたのでしょう。結局、飛んでったはずの4人もカーテンコールに加わっているのですから、そんなことはどうだっていいのに。

BD Artwork © Arthaus Musik GmbH

6月1日

BACH
Kantate BWV 147, Magnificat
Andrea Lauren Brown, Lynda Teuscher(Sop)
Olivia Vermeulen(Alt)
Julian Prégardien(Ten), Sebastian Nock(Bar)
Hansjörg Albrecht/
Münchner Bach-Chor & Orchester
OEHMS/OC 1801


多くの「名盤」を生み、今ではほとんど「記号」と化しているカール・リヒターとミュンヘン・バッハ合唱団&管弦楽団は、カール・リヒターの他界とともに消滅してしまったと思っている人もいるかもしれませんが、今でもしっかり残っています。そして、今年が、リヒターがこの団体を作った1954年から、ちょうど60年目に当たるのですね。そこで、その記念としてリリースされたのがこのCDです。もっとも、演奏が録音されたのは2012年ですから、それ自体はあまり意味がないようですが。
ですから、このCDに「記念」の意味を見出すとすれば、現在のこの合唱団とオーケストラ、そして指揮者のチームによる初めてのバッハ作品(以前の「フェーブスとパンの争い」では、オーケストラの名義が違ってました)だという点と、ブックレットに、この合唱団に1963年から参加しているというクラウス・シュタットラーという人のエッセイが掲載されている点ということになるのでしょう。そのエッセイには、この合唱団の、まさに身内でしか語れないような貴重な「記録」が満載です。ただ、原文のドイツ語を英語に訳したものではリヒターたちが録音を行ったところを「archive productions」という、まるで普通名詞のように扱っているのが笑えます。この訳者は、原文にある「Archiv-Produktion」という、かつては「古楽」界のステータスとも言われた由緒あるレーベル「アルヒーフ」を知らなかったのでしょうか(レーベルの名前だけはまだ有るひーふ)。だとしたら、こんな貴重なエッセイを訳す資格はありません。それだけではなく、このブックレットでは、それぞれの曲をどのパートのソリストが歌っているかという表記が全くありません。これも、「記念」のつもりで作ったブックレットにしては、あまりにお粗末です。
ここでは、おそらく、バッハのカンタータの中では最も有名な147番が最初に演奏されます。まあ、これは、最近のピリオド系の演奏を聴き慣れた耳には、ある意味新鮮なものですが、なにかユルい印象は免れません。5番のソプラノのアリアなどは、高音は苦しそうだしリズム感は悪いしと、いいところがありません。ただ、さっきのような表記なので、これは誰が歌っているのかは分かりません。
「マニフィカート」では手元に楽譜があったので、その人はこちらでも3番のアリアで薄っぺらなところを披露している第1ソプラノの人であることが分かります。これはその前のアリアを歌っている第2ソプラノとはまるで別物ですからね。ただ、本当にひどいのは合唱でした。7番の「Fecit potentiam」などはメリスマの音程がバラバラで、殆どクラスターのように聴こえるほどです。まあ、リヒターの時代から合唱に関しては素人っぽさが目立ったものですが、その伝統は脈々と受け継がれていたのでしょう。
ですから、このCDで聴くべきは、オーケストラ・パートなのではないか、という気がします。このオーケストラはメンバーが固定されている団体ではないようですので、ものすごい人たちが集まってくる可能性はあります。フルートはバイエルン放送交響楽団の首席奏者、ヘンリク・ヴィーゼですからね。彼は音楽学者としても知られていますから、もしかしたらアルブレヒトに何らかのサジェスチョンを与えていたのかもしれないと思えるのが、9番の2本のフルートによるオブリガートが付いたアルトのアリアです。楽譜はこういうものですが、
それを、このように「不均衡」なリズムで演奏しています。こんな演奏は初めて聴きました。
ただし、同じ旋律を歌うソリストが、普通に楽譜通りに歌っているので、フルートは変に浮いて聴こえてしまいます。
もう1ヶ所、最初の曲ではティンパニが小節の頭にある音符の前に、盛大に前打音(時にはロール)を入れて、派手に盛り上げています。これも初めて聴くやり方ですが、こちらは大成功、これだけでも「60周年」のお祝いの気持ちが存分に感じられるのではないでしょうか。

CD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

5月30日

C.P.E.BACH
Die letzten Leiden des Erlösers
Christina Landshamer, Chrisitane Oelze(Sop)
A. Vondung(Ms), M. Schmitt(Ten), R. Trekel(Bar)
Hartmut Haenchen/
RIAS Kammerchor(by Denis Comtet)
Kammerorchester Carl Philipp Emanuel Bach
BERLIN/0300575BC


カール・フィリップ・エマニュエル・バッハは、1714年の3月8日に生まれていますから、ヨーハン・ゼバスティアン・バッハが28歳の時の子供です(父バッハは1685年の生まれですが、まだ誕生日の前でした)。ということは、今年2014年は、C.P.E.バッハの生誕300年という記念の年になるのですね。それにしては、日本ではあまり騒がれていないな、という気がしますが、地元ドイツでは大いに盛り上がっているに違いありません。
事実、そのまさに300歳を迎えた誕生日当日の2014年3月8日には、ベルリンのコンツェルトハウスで、彼の大作「救い主の最後の苦難」という受難カンタータが演奏されようかという時を迎えていました。おそらく、その模様はドイツ全土にラジオで放送されたのでしょう。そして、その時の音源が、こんなに早くCDになって、日本でも入手できるようになっていました。ま、あの新年の恒例行事には及びませんが、こんなマイナーな作品のCDがたった2か月ちょっとで届くなんてかなり異例のことです。それだけ、ドイツ人のこの作曲家に対する思いが尋常でないことも、ここからはうかがえるのではないでしょうか。
演奏しているのは、ハルトムート・ヘンヒェンが1982年から芸術監督を務めているカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ室内管弦楽団。まさにこの日にふさわしい名前を持つ団体ですね。1969年に設立されたこの室内オケは、もちろんモダン楽器を使っています。なんと言っても昨今はこの時代の作品ではピリオド楽器で演奏する方が当たり前という風潮が強まっていますが、それをあえてモダンで押し切っているのは、オペラなど幅広い分野で活躍しているヘンヒェンの、「本当の意味での『オーセンティック』な演奏などありえない」という主張の反映なのでしょう。
1770年に作られたこの作品は、もはや、いわゆる「受難曲」のように教会での礼拝の際に演奏されるものではなくなっています。声楽はソロ5人(ソプラノが2人)と混声合唱、一応物語を進行させるレシタティーヴォはありますが、それは聖書の言葉をそのまま語るのではなく、もっと自由に編集されたものに変わっています。これはソリストが交代で担当。中には「アッコンパニャート」という、ドラマティックな伴奏が付くところもあります。でも、聴いているうちに父バッハの作品でおなじみの単語や固有名詞が出てきますから、それなりにプロットは継承しているのでしょう。「ペテロの否認」のシーンのあとに悲しみに満ちたアリア(テノールの「Wende Dich zu meinem Schmerze」)が続く、などというのも、もはや時代を超えたパターンとして受け継がれているのかもしれませんね。このアリア、最後に一旦終わるかに見せて、終わらずに続くという「偽終始」と呼ばれる和音進行が聴こえます。これなどは、まさにモーツァルトなどにつながる新しい音楽の象徴ですね。
さらに、同じテノールで、今度はキリストを揶揄するような元気のよいアリアが歌われます。タイトルが「Vorstockte Sünder!(強情な罪びと)」というのですから、どんな内容かは大体想像できますね。途中にはコロラトゥーラなども現れて、その「軽さ」が強調されています。
最後は大きな合唱で締められますが、これは間にソロを挟んだいともノーテンキな曲調なので、なんと不謹慎な、という気になるのですが、実はこれは死によって人々を「救って」くれたキリストに対する感謝の気持ちの表れだったのですね。この前の曲では、なんとティンパニまでが加わって、もろダイナミックに盛り上げています。父バッハの作り上げた崇高な世界を、息子はもっと身近なものにした、といったところでしょうか。
合唱はたまにしか出てきませんが、なんか上っ面だけの歌い方に終始しているように感じられてしまいます。こんな作品だからこそ、もっと「熱く」歌ってほしかったのに。

CD Artwork © Edel Germany GmbH

5月28日

BEPPE
Remote Galaxy

Ralph Rousseau(Va. d. G.)
Mark van Wiel(Cl)
Emily Beynon(Fl)
Vladimir Ashkenazy/
Philharmonia Orchestra
2L/2L-100-PABD(BA)


モーテン・リンドベリというエンジニアが一人で録音から何から手掛けているレーベル「2L」が、ついに100アイテム目をリリースしました。そういえば、こちら99番目だったんですよね。ちょっと季節外れですが、鍋物かなんかでお祝いしなければ(「煮える」ですから)。
このレーベルは、とことん「音」にこだわったリンドベリによって、常に最高のスペックの製品を提供してくれていました。特にサラウンドに対する熱意には特別なものがあったはずです。スペックは最初からハイレゾのSACDだったものが、さらに超ハイレゾの世界に入っていき、最近ではSACDBAが同梱されている形に落ち着いていきたな、と思っていたら、今回のパッケージはBAのみ、SACDを出さない代わりに2枚組LPをリリースというスタイルになっていました。ピュア・オーディオはLPで、そしてサラウンドはBAで、というポリシーなのでしょうか。そう、今回のサラウンドは、今までの5.1に加えて、「7.1」と「9.1」というものが新たに入っています。そのうちの9.1は、「AURO 9.1」という特別なもので、通常の5.1の「上方」にさらに4つのスピーカーを設置するというものなのだそうです。なんだか、MDGの「2+2+2」とよく似た発想ですね。
でも、これを再生するには、新たなスピーカーと、特別なデコーダーも必要なようですから、到底この方式が浸透するとは思えないのですがね。いや、そもそもBA自体が、各メーカーとも出してはみたもののいまいち売行きは芳しくないということで、もはや撤退を検討しているところもあるという噂もささやかれているぐらいですから、こんな「先進的」な方向に進み過ぎて墓穴を掘らなければいいのに、と思う昨今です。
今回のBAには、フルートのエミリー・バイノンが参加しているので、それが最大の目玉でした。なんでも、彼女のために作られた「フルート協奏曲第2番」が収められているのだそうです。そういえば、以前やはりバイノンをフィーチャーした同じようなジャケットデザインのアルバムに「フルート協奏曲第1番」が入っていましたが、その時の作曲家はフレード・ヨニー・ベルグ、しかし、今回は「フリント・フベンティーノ・ベッペ」という別な人です。なんか作風も似てるし、よくこんな人を見つけたものだ、と思ったら、実はこれは同じ人、最近名前を変えたのだそうです。珍しいですね。
ということは、その、以前のアルバムでは作品そのものには完全に失望させられた思い出がありますから、ここでも同じような、まるで砂をかむような思いをさせられるのでしょうか。
残念ながら、そんな「期待」は全く裏切られることはありませんでした。その最新のフルート協奏曲ときたら、あまりの中身の薄さに驚かされます。何しろ、「フルート協奏曲」と言っていながら、バイノンのソロはほんとにたまにしか聴こえてこないのですからね。それ以外は、いかにして華麗な響きで空間を埋めようかというあざとさがミエミエの派手なサウンドで迫るばかり、確かにオーディオ的には価値がありそうですが、それだけのものでしかありません。
そんな中で、そのバイノンはさらに脂ののった素晴らしいフルートを聴かせてくれています。特に高音の輝きは、以前はそれほど感じなかったものです。ある場所などは、ピッコロがユニゾンで入っているのではないかと思えるほどのふくよかな高音、もちろん、この曲のオーケストラにはピッコロはおろかフルートも入っていませんからね。
それでも、この曲が一番マシ。他の曲はどうしようもないつまらなさです。タイトル曲の「Remote Galaxy」などは、ソロにヴィオラ・ダ・ガンバが入っていますが、なぜこの楽器なのかという意味が全く分かりませんし、クラリネット・ソロが加わる「Distant Words」も、アホみたいに明るいだけです。あと2曲のオーケストラだけの曲は、始まるやいなやものすごい睡魔が襲ってきましたし。

BA Artwork © Lindberg Lyd AS

5月26日

KNECHT/Le Portrait musical de la Nature - Grande Simphonie
PHILIDOR/Overtures
Christian Benda/
Orchestra Filarmonica di Torino
Prague Sinfonia Orchestra
NAXOS/8.573066


クネヒトの「大交響曲」は、その世界初録音のものをこちらで聴いてました。このベルニウス盤では、この曲は1997年の録音、カップリングの曲がなかなか見つからないでいるうちにリリースが延びてしまっていたのでしょう。
ですから、今回同じ曲が録音された2013年以前にも、もしかしたらどこかで録音されたものがないとは限りませんが、まあこんな珍しい曲はそうそう録音されるものではないでしょうから、ここはとりあえずNAXOSの顔を立てて、これが「2番目」だと言うことにしておきましょうか。ただ、こちらもカップリングには苦労したようで、クネヒトとは何の縁もないフランスの作曲家フィリドールという人の序曲が入っています。しかも、指揮者は同じなのにオーケストラが違うというのですから、いかにもやっつけ仕事という感じですね。
クネヒトを演奏しているのはイタリアのトリノのオーケストラ、エンジニアもイタリア人ということで、まさに「期待通り」のとんでもない音が聴こえてきましたよ。もうバランスは無茶苦茶、繊細さのかけらもない録音なのでした。木管なんか、全然聴こえてきませんよ。そこで、弦楽器の音がとても雑に聴こえると思ったら、それはどうやらソロで弾いているようでした。改めてベルニウス盤を聴きなおしてみると、そこは普通にトゥッティなのに、どうしたことでしょう。もしかしたら、その時に書いたように、スコアには「2つのヴァイオリン」などと書かれていますから、それをまともに受け取ってそれこそ弦楽四重奏ででも演奏しているのかな、とも思いましたが、第2楽章などでは普通にトゥッティなのですから、訳が分かりません。
それにしても、このソロのヴァイオリンのセンスの悪いこと。まるで自分の音に酔いしれているかのように、好き放題に弾いているのですから、聴かされる方はたまったものではありません。なんとかしてほうだい
最後の楽章には、この曲のアイディアをパクったのでは、と言われているベートーヴェンの「田園」の、同じ終楽章のテイストと、さらに第3楽章のような部分も含まれています。というのも、これは帯の日本語表記では全く分からないのですが、原文の表記では、「自然は喜びに満ち」なんたらという前に、きちんと「L'Inno con variationi: Andantino - Coro: Allegro con brio -Andantino - Coro: Allegro con brio」と書いてありました。つまり、この楽章は「聖歌と変奏」という4拍子の穏やかな部分と、「コーラス」という、3拍子の賑やかな部分とで出来ていて、それを交互に繰り返しているのですね。もちろん3拍子の部分が、後にベートーヴェンの第3楽章になるのです(いや、ならないって)。ところが、この2つの部分の切り替えが、この演奏ではとことん不細工なんですね。特に、最後の2つのセクションの間ときたら、静かに終わってそれで満足してしまったところに、まだにぎやかなものが続くという必然性がまるで感じられません。
なんか、ベルニウスではそんな思いはなかったはずなのに、と聴き直してみたら、案の定、そちらにはこの最後のにぎやかな部分はありませんでした。楽章の表記も「L'Inno con variationi: Andantino - Coro: Allegro con brio - Andantino」、つまり、楽譜そのものが違うのですよ。もしかしたら、今回のベンダは自分の裁量で付け加えたのだとか。そうだとしたら、これは蛇足以外のなにものでもありません。
フィリドールの方は、プラハのオケとプラハのスタジオ、おそらくエンジニアもイタリア人ではなさそうで、全く違った爽やかな音が聴けます。演奏されているのは4曲のオペラのための序曲ですが、そのうちの2曲は3楽章形式で、まさに「シンフォニア」本来の意味での「交響曲」に限りなく近いものです。そのあたりが「大交響曲」との接点だったのでしょうか。まるで、ちょっと手抜きのモーツァルトといった感じの、なかなか魅力のある曲ばかりです。演奏、録音とも、こちらの方がメインだった、と思いたいものです。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

5月24日

TSCHAIKOWSKY
Symphonie Nr.7, Klavierkonzert Nr.3
Lilya Zilberstein(Pf)
Dmitrij Kitajenko/
Gürzenich-Orchester Köln
OEHMS/OC 672(hybrid SACD)


先日「交響曲第4番」が出たときに、「キタエンコとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とのチャイコフスキーの全交響曲のツィクルスが完了した」などと書いてしまいましたが、実はまだ「完了」はしていなかったのでした。今回のアルバムの日本語の帯には、もしかしたらそれを読んでいたのでしょうか「前作で全集が完成したと思っていた方も多いのではないでしょうか?」という、揶揄とも取れるようなやや気になるフレーズが載っていましたね。しかし、まさか「7番」でツィクルスを完成させようとは。
実はロシアでは、この作品を取り上げる指揮者は結構いるそうなのです。ですから、レニングラード(当時)生まれの指揮者のキタエンコは「ドイツではほとんど知られていない」この作品をあえて取り上げようと思ったのだそうです。
もちろん、この世にチャイコフスキーが作曲した「交響曲第7番」という作品は存在していません。ただ、「5番」と「6番」の間の時期に、もう一つの交響曲を作ろうとしたことはありました。一応スケッチは4楽章分出来上がったというのに、チャイコフスキーはその出来に満足できず、これ以上この素材で交響曲を作ることを断念してしまいます。ただ、それではあまりにももったいない、と思ったのかどうかは分かりませんが、この「交響曲」の第1楽章をそのまま、単一楽章の「ピアノ協奏曲」に作り替えました。それが、ここでのカップリングである「ピアノ協奏曲第3番」です。もちろん、これはまぎれもなくチャイコフスキーの作品です。まあ、「2番」でもめったに演奏されないのですから、この「3番」に至ってはほとんど演奏されることはありませんが。
そんな、作曲家自身が見切りをつけた素材を使って、1950年から1955年までの間に「交響曲」を復元(「でっちあげ」とも言う)したのは、セミョン・ボガティレフというロシアの作曲家です。第1楽章は、もちろん「ピアノ協奏曲第3番」をそのままピアノ・ソロのパートをオーケストラの中のパートに置き換え、最後にある長いカデンツの代わりに10小節ほどのつなぎの部分を挿入し、金管のちょっとした「おかず」を加えて完成です。同じように、第2楽章と第4楽章は、チャイコフスキーのスケッチを弟子のタネーエフがピアノ協奏曲としてオーケストレーションを施し、「アンダンテとフィナーレ」というタイトルで完成させています(「作品79」というチャイコフスキーの作品番号が与えられています)から、それをさらにオーケストラだけの編曲に直せば済むことです。ただ、第3楽章だけは、この時点でもはやスケッチは残っていなかったのでしょう、同じ時期に作られた「18の小品作品72」というピアノ曲の10曲目「スケルツォ−ファンタジー」にそのままオーケストレーションを施したものを用いました。1957年にモスクワで初演され、1962年には、オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団によってCBSに初録音されています。もちろんステレオです。
ちなみに、2006年にピョートル・クリモフという人が行った、他の曲で補った「第3楽章」を省いて、全3楽章という形にし、新たににオーケストレーションを施した「修復」は、ボガティレフの仕事とは全くの別物です。
SACDのハイレゾを存分に体験できる、いつもながらの素晴らしい録音は今回も健在、特に「7番」では、さらにワンランク瑞々しさを増した、殆どLP並みの音を聴くことが出来ます。それによって、この交響曲のとても華やかでキャッチーな側面がストレートに伝わってきます。やはり、これはそのあとに作られる「6番」とは全く別の世界、もっとあっさりした心情から生まれた曲のような気がしてなりません。
「ピアノ協奏曲第3番」では、カデンツァでまさに「玉を転がす」ような鮮やかな演奏を聴かせてくれるジルバーシュタインに耳が釘付けになってしまいます。

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

5月22日

オケ奏者なら知っておきたいクラシックの常識
長岡英著
アルテスパブリッシング刊(いりぐちアルテス005)
ISBN978-4-903951-90-4

世にアマチュア・オーケストラの公式ウェブサイトというものはたくさん存在しています。そしてそれぞれは、じつに様々な形をもっています。もちろん、演奏会の案内などの活動状況の紹介などは欠かすことが出来ないものですから、まず、もれなく含まれているのでしょうが、それ以外の、団員による読み物なども加えて、バラエティ豊かに迫るものなども多く見受けられます。何を隠そう、このサイトにしてからが、そもそもの出発点はそのような、演奏会に向けて練習している曲についてのマニアックな蘊蓄を集めたものだったのですからね。ですから、この本の著者のように、アマオケの団員でそのウェブサイトに定期的に音楽に関する文章を投稿しているような人を見たりすると、なにか他人とは思えなくなってしまいます。
そう、この本の著者は、本来は音楽学者なのですが、お子さんが通う学校のオーケストラが、父兄も団員として受け入れるというところだったので、そこにヴィオラ奏者として入団し、日々のオーケストラ活動を楽しんでいるという方なのです。そんな方がサイト管理者の勧めに応じて、音楽に関するコラムを毎週公式ウェブサイトに投稿するということを3年間にわたって続けられたというのですね。その結果、180篇以上のコラムが出来上がったのだとか。こらむぁーすごいですね。
そして、その中から60篇ほどを選んで、再構成されたものが、こんな本になってしまいました。そのような、音楽的なバックボーンがしっかりしていて、なおかつオーケストラの「現場」に日々身を置いているという方の書いたものですから、これは読まないわけにはいきません。
ただ、最初にこの本のタイトル(編集者が付けた?)を見た時には、この「オケ奏者なら知っておきたい」というフレーズの中の「なら」という言い方に、ちょっと不快なものを感じてしまいました。これがたとえば「オケ奏者にとって、知っておいて役に立つ・・・」みたいな言い方だと、そんなことは全く感じたりはしなかったのでしょうが、これは本当に損をしているタイトルです。この言い方には、有無を言わせぬ強制力、言ってみれば知識の強要のようなものが感じられます。しかし、知識というものは、他人に強制されて与えられるよりは、自ら知りたいと思って身に着ける方が良いに決まってますからね。実際に読んでみると、そんな押しつけがましいところは全くない内容だったので、なんか、こんなタイトルを付けられたのがかわいそうになってきましたよ。
つまり、そんなよくある煽情的な割には中身のとことん薄いあまたのハウツー本のような先入観をもって読み始めたところ、その語り口は柔らかですし、述べられていることもいともまっとうで奥深いものだったので、かえって面喰ったというのが正直なところなのですよ。
中身がきちんとしているというのは、たとえば「モーツァルトが初めから木管4パートが2本ずつ揃った編成で作ったのは『パリ交響曲(31番)』だけ」というとんでもない事実を、いともさりげなく語る部分によって分かります。確かに、言われてみればそうでした。さらに、そんな「トリビア」であっても、いたずらにマニアックに走ってはいないことも、ベルリオーズが「幻想交響曲」で試みた「標題音楽」の先駆けとして、クネヒトではなくベートーヴェンの例を挙げていることから知ることが出来ます。
ただ1ヶ所だけ、「バロック音楽の付点リズム」のところで掲載された説明用の画像は、視覚的に不完全さを感じてしまいます。
このように「長」、「短」と「言葉」で説明するのよりは、
このように、きちんと「楽譜」(参考文献の中にもあったクヴァンツの書籍からの引用)で示してくれた方が分かりやすいはずですからね。

Book Artwork © Artes Publishing Inc.

5月20日

MOZART
Requiem
Nuria Rial(Sop), Marie-Claude Chappuis(Alt)
Christoph Prégardien(Ten), Franz-Josef Selig(Bas)
Alexander Liebreich/
Chor des Bayerischen Rundfunks(by Michael Gräser)
Münchner Kammerorchester
SONY/88765482312


レーベルはドイツのSONYですが、制作したのはミュンヘンの放送局のBR(バイエルン放送)です。201112月にヘルクレス・ザールで行われたセッション録音ですから、もともとはラジオで放送するための音源だったのでしょうね。
使われている楽譜はレヴィン版です。アバドが2012年に「レヴィン版もどき」で録音したものがすでにリリースされていましたが、録音されたのは今回のリーブライヒ盤の方が先になるのですね。なんか、録音が出るのはずいぶん久しぶりという感じがしませんか?実際のコンサートでは、最近は割と頻繁にこの版が使われているような気がしますけど。
合唱は、そのアバドの時にもスウェーデン放送合唱団と一緒に出演していたバイエルン放送合唱団ですが、今回は単独で、さらに合唱指揮もダイクストラではなくグレーザーの方でした。
オーケストラはミュンヘン室内管弦楽団、そして、2006年からこの団体の芸術監督と首席指揮者のポストにあるアレクサンダー・リーブライヒが指揮をしています。もちろんモダン・オーケストラですが、ここでは最近のモーツァルト演奏の主流になりつつある、限りなくピリオド風に近い奏法を駆使して、「オーセンティック」なスタイルを実践しています。金管楽器とティンパニは、楽器そのものがピリオドのように聴こえます。
もちろん、そのような「奏法」はオーケストラと合唱の双方に徹底されています。テンポは速め、音は短め、そしてダイナミックスは堂々と、という一般的な「三点セット」の他に、ここでは「不均一リズム」も採用されています。それはたとえば「Rex tremendae」の6小節目から始まる「付点八分音符+十六分音符」というパターンを、後ろの音符を短めにして「複付点八分音符+三十二分音符」という形で演奏するものです。それは15小節目まで続きますが、18小節目からの「Salva me」という歌詞の部分からは、楽譜通りの音価で歌うという、音楽の内容によってフレキシブルに対応されるべきものですね。こういうことをやってくれると、いかにも「オーセンティック」という味わいが加わります。
もちろん、モーツァルトの自筆稿では普通に「付点八分音符+十六分音符」で書かれていますから、これはあくまで演奏家の裁量で行うものであることは言うまでもありません。当然のことですが、ここで使われているレヴィン版にも、そのように印刷されています。
しかし、多くの修復稿の中には、この部分のいわば「即興」の演奏法を、しっかり記譜しているものも有ります。1988年のモーンダー版がその最初のものでしょう、ここではもともとなかったオーケストラのパートをしっかり「複付点」にしています。そして、合唱パートはあくまでオリジナル通りに印刷したうえで、「複付点で演奏せよ」という注釈を付けています。
もっとすごいのは、2013年のコールス版。ここでは合唱パートまでが「複付点」になっていますよ。
余談ですが、1992年のランドン版では、オーケストラはトロンボーンだけで、ティンパニがなくなっていますから、この部分がまるでア・カペラの合唱のように聴こえます。
そんな颯爽としたスタイルの演奏の中で、合唱もソリストもとてもピュアな音色とハーモニー感で素晴らしいものを聴かせてくれています。特に合唱は、いつになくしっとりとした味わいが胸を打ちます。「Lacrimosa」の最初のハーモニーの暗い肌触りは絶品です。カップリングの「Ave Verum Corpus」でも、ゆったりとしたフレージングで大人の音楽を聴くことが出来ます。
レヴィン版ならではのちょっと聴きなれないパッセージも、これ見よがしに聴かせるのではなくごく自然に扱っているのも好感が持てます。「Sanctus」のけばけばしい弦楽器のオブリガートにはいつも閉口させられますが、ここではそれほど目立って聴こえないような賢いバランスが保たれています。

CD Artwork © Sony Music Entertainment Germany GmbH

5月18日

BACH
St Matthew Passion
Werner Güra(Ev), Stephen Morscheck(Jes)
Lucy Crowe(Sop), Christine Rice(MS)
Nicholas Phan(Ten), Matthew Brook(Bar)
Bertrand Grnenwald(Bas)
John Nelson/
Schola Cantorum of Oxford, Maîtrise de Paris
Orchestre de Chambre de Paris
EUROARTS/3079654(BD)


またまた「マタイ」の映像で、済みません。こちらはちょっと前、2011年にパリにあるサン・ドニ修道院の大聖堂で行われたライブです。
この映像で指揮をしているのは、ジョン・ネルソン。METを始め、各地のオペラハウスでのキャリアもあり、現在はパリ室内管弦楽団の桂冠音楽監督というポストにあります。そのオーケストラがここでも登場、ということは先日のダイクストラとは違って、特に「ピリオド」にはこだわらない姿勢をとっているのでしょう。
それに関しては、ボーナストラックの中でのインタビューやリハーサルの様子によって、彼の求めているものの一端が分かるはずです。その中で、特にリハーサルのシーンは「こんなところまで見せるの?」と思えるほどの、興味深いものでした(合唱団のリハーサルの前に合唱指揮者のジェームズ・バートンが「発声練習」をやらせている場面などは、合唱関係者は必見です)。そこでネルソンが歌手や演奏家に指示していること、さらに彼自身のインタビューの中で述べていることは、「音楽に必要なのは『オーセンティックなスタイル』ではなく、『演奏家の気持ち』だ」といったようなものではないでしょうか。あくまで聴衆に向けて熱い思いを伝えることが大事、ということなのでしょう。
本番の映像で、彼の指揮ぶりを見ていると、他人に「指示」するのではなく、その場のプレイヤーがやりたいことを「すくいあげる」というような感じが伝わってきます。それはまるで「もう、リハーサルで私の思いは伝えたのだから、あとはあなたたちで音楽を作りなさい」と言っているように思われます。
確かに、その演奏は「演奏家の気持ち」がしっかり伝わってくるものでした。その、最も成功しているパートが合唱なのではないでしょうか。オクスフォード大学内に作られたこの「スコラ・カントルム」という合唱団は、30人ほどの学生が集まって結成されていますが、彼らは特に音楽を勉強しているわけではなく、専門は別のこと、言ってみれば「アマチュア」ですが、そんな素朴さがとても真摯な演奏になって現れています。最初のうちは男声があまりにも弱体なのでどうなることかと思っていたものが、次第に調子を上げていき、終わりごろには男声もすっかり立ち直って堂々たる歌を聴かせてくれています。彼らは、この指揮者には絶大の信頼を寄せているのでしょう。有名な54番のコラール「O Haupt, voll Blut und Wunden」では、1番が終わった時に指揮者が「次はピアノで」みたいな指示を出すと、2番ではまさにその要求通りの音色で歌い始めたのですからね。そして、終曲のちょっと前、63bの「Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen(まことに、この人は神の子であった)」という合唱には、まさに万感の思いが込められています。
「オーセンティック」にはこだわらないというネルソンのスタンスは、通奏低音の楽器編成などにも表れていることが、映像からは分かります。最近のピリオド系の団体では、そこに馬鹿でかいリュート(テオルボ?)など、様々な低音楽器が加わっていますが、ここではシンプルにオルガンとチェロ、場合によってはコントラバスが加わるだけです。さらに、13番のソプラノのアリア(オーボエ・ダモーレ2本と低音)や60番のアルトのアリア(オーボエ・ダ・カッチャ2本と低音)のオブリガートでは、ファゴット1本だけでバス・パートを演奏しています。その結果、このダブルリード3本だけのアンサンブルは、とてもピュアなサウンドを生み出すことになりました。「オーセンティック」にこだわっていたら、こんなことはできるわけがありませんね。
映像作品ならではの魅力が、かなりユニークなカメラワークに込められています。それは、演奏に参加していない人たちの表情のアップ。最後の合唱では、イエスの人が目に涙を浮かべているのが分かります。

BD Artwork © EuroArts Music International

おとといのおやぢに会える、か。


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