ラードマン。.... 佐久間學

(13/8/11-13/8/29)

Blog Version


8月29日

WAGNER
Die Walküre
Nina Stemme(Sieglinde)
Johan Botha(Siegmund)
Ain Anger(Hunding)
Franz Werser-Möst/
Orchester der Wiener Staatsoper
ORFEO/C875 131B


生身の人間が集まって作り上げるのがオペラですから、何事もなくうまくいくことの方が奇跡なのかもしれません。例えば、新演出のプロダクションの初日などは、本当は裏ではものすごいことが起こっているのでしょうね。それをお客さんに気付かせることなく、平然と歌ったり演じたりしている人は、やはりとんでもない能力の持ち主なのでしょう。
200712月2日に、ウィーン国立歌劇場で行われた、新演出によるワーグナーの「ニーベルングの指環」ツィクルスの最初の演目「ワルキューレ」(この歌劇場の場合、伝統的に「ワルキューレ」で始まり、「ジークフリート」、「神々の黄昏」と続いて「ラインの黄金」で終わるという順序で上演されるのだそうです)の初日にも、そんな大変なことが起こっていたのだそうです。第1幕こそ滞りなく終わったものの、続く第2幕から登場したヴォータン役の歌手がかなりの不調で、途中で歌えなくなってしまったんですね。もちろん、これだけの歌劇場では常に控え(「シャドー」ですね)の歌手が待機していますから、上演自体は最後まできっちり行われたのでしょう。そのヴォータン役の人も、次の公演からは何事もなかったかのように歌っていたそうですからね。そういうことが日常的に起こっているのが、このようにほぼ毎日オペラを上演している歌劇場の実態なのでしょう。
そんな感じで、実際に見に来たお客さんはそれなりに満足して家路についたのでしょうが、その録音をそのまま商品化するのはいくらなんでもまずいだろう、ということで、ウィーン国立歌劇場公式のライブCDが出た時には、本来なら3幕あるはずの「ワルキューレ」は、1幕だけのものに短くなっていました。まあ、この作品の場合、この幕だけでも物語はある意味完結していますから、何の問題もありません。
さすが、世界的なオペラハウスのプレミエだけあって、この時のキャストはものすごいものでした。ジークリンデが今やワーグナー歌手の第一人者として世界中でイゾルデやブリュンヒルデを歌っているニーナ・ステンメ、ジークムントが、数少ない「正当」ヘルデン・テノールの名をほしいままにしているヨハン・ボータなのですからね。そして、指揮は、この時点ではまだ客演でしたが、2010年からは小澤征爾の後任としてこのオペラハウスの音楽監督に就任するフランツ・ウェルザー=メストです。
しかし、ジャケットの写真を見ると、ボータの存在感はすごいですね。これで見る限り、戦いで傷つき、「水、水」と言いながらよろよろと登場するというキャラとは、とても思えません。左端にいるフンディンク(アイン・アンガー。この人も、公演の途中で交代したそうです)の方が、いかにも女房を寝取られるかわいそうな夫、みたいな風に見えてしまいます。その「女房」のステンメも、いかにも行きずりの男に身を任せそうな不敵なたたずまいですね。まあ、こんなのが現実の「オペラ」というものなのです。
ウェルザー=メストの指揮ぶりが、そんな「不倫劇」を助長するような「背徳」の色の濃いものです。ジークリンデが登場する時のとてもロマンティックな音楽もかなりぶっきらぼう、「よく、そんなふしだらなことをしてられるね」と戒められているような気がしてしまうのは、考えすぎでしょうか。したがって、クライマックスのデュエットも、甘さとは無縁の、何かこの先に辛い事が待っているような「寒さ」が漂います。いや、物語として実際にそんな辛いことが起こってしまうのですから、これは指揮者のしっかりとした計算に基づく「伏線」に違いありません。その結末がどんなものなのか、ぜひ知りたいと思うところ、いずれこの後の幕も海賊盤などで出た時にこそ、指揮者がこの「ドラマ」で何を描こうとしたかが明らかになることでしょう。

CD Artwork © ORFEO International Music GmbH

8月27日

ジャン・シベリウス
交響曲でたどる生涯
松原千振著
潟Aルテスパブリッシング刊(叢書ビブリオムジカ)
ISBN978-4-903951-67-6

フィンランドを代表する作曲家、シベリウスの最新の評伝です。タイトルにあるように「交響曲」を軸に、時系列を追って生涯と作品の変遷を語る、という手法を取っていますから、単なる「伝記」とは違い、とても読みやすいものに仕上がっています。
著者の松原さんは、合唱指揮者として高名な方ですから、「なぜ、シベリウス?」、「なぜ交響曲?」という疑問符がたくさん頭のまわりを駆け回ります。しかし、そんな「なぜ?」は、この本を読むうちに氷解することになります。彼は、1980年前後にフィンランドのシベリウス・アカデミーに留学されていて、有名なヘルシンキ大学男声合唱団(YL)の、当時唯一の日本人団員だったのですね。そのほかにもフィンランド放送室内合唱団や、タピオラ合唱団などの団員でもあったそうなのです。その頃、テレビの仕事でフィンランドを訪問していた渡邉暁雄さんから、本格的なシベリウス研究を勧められ、それがこの本のモチヴェーションになったのだとか。
ここでは、「交響曲でたどる」とあっても、いわゆる7つの「交響曲」だけを扱うのではなく、もう少し範囲を広げて「クッレルヴォ」とか「ヴァイオリン協奏曲」までも含めて、話を進めています。その最初の「クッレルヴォ」は、なんと男声合唱が大活躍してくれるぼ。これが、合唱指揮者との接点でした。「交響曲第1番」の章の最後には、「男声合唱と作曲コンクール」というタイトルのパートで、シベリウスの男声合唱曲についても語っています。
各「交響曲」の解説は、それほど厳密なアナリーゼを行っているわけではなく、その分、よくある「楽曲解説」のような退屈さとは無縁なものになっています。例えば、「交響曲第1番」については、「シベリウス自身も語っているが、この曲を支配している要素は、ヴィクトール・リュドベルイのいう『少年の心』である」といった感じで、どちらかというと情緒的なアプローチをとっているために、とても親しみやすいイメージがわいてきます。ここでは、最初から最後まで、その「少年」で通していますから、第1楽章の途中に出てくる最初に装飾音の着いたフルートの二重奏などは「いかにも幼児らしい」とか、第3楽章の木管の軽快な動きは「少年がどこかで他の子どもたちと出会い、言葉を交わすまでもなく、いっしょに戯れ、あちこち足早に動き回っている」などと、分かったような分からないような比喩が並びます。実は、この作品の場合は、もっと語彙が豊富で緻密なアナリーゼを最近体験したばかりなので、何か物足りなさは残り、もうちょっと突っ込んでもらっても良かったな、という気にはなりますね。
他の曲の場合でも、いかにも適切なように見えて、本質とは微妙にずれているのではないか、といった印象を受ける部分がかなりありましたが、基本的に情緒を客観的に表現するのは無理なので、これはしっかりと著者の「気持ちをくむ」といった態度が、読者には求められるのでしょう。
実用的な情報として、ヴァイオリン協奏曲や交響曲第5番の異稿が、現在も入手可能なCDとして市場に出ていることなどは、かなりポイントが高いはずです。実際、ヴァイオリン協奏曲の初稿が存在することすら、現実にはほとんど知られていませんから、その「音」が実際に聴けるという情報はありがたいものです。
巻末の年表や作品表は、データとして重宝しそうですし、北欧のスペシャリストとして、当地の作曲家や演奏家の日本語表記に、一石を投じているのも、なかなか刺激的です。シベリウスの演奏で定評のあったパーヴォ・ベルグルンドは本当は「ベルイルンド」というのが正しそうですし、デンマークの、いわゆる「ニールセン」も、数ある「正しい」表記の中から、著者は「ネルセン」を選んだようですね。

Book Artwork © Altes Publishing Inc.

8月25日

MOZART
The Last Symphonies
Philippe Herreweghe/
Orchestre des Champs-Elysées
PHI/LPH011


フィリップ・ヘレヴェッヘの自己レーベル、PHIは、当初の計画ほどの頻度ではありませんが、着実にリリースを進めているようです。品番は「011」ですが、これが10枚目のアイテム、3年半でこれだけというのは、今のCD事情を鑑みればまずは大健闘ということでしょうか。
今回は、このレーベルでは初めてとなるモーツァルト、最後の3つの交響曲です。ヘレヴェッヘの場合、以前のHARMONIA MUNDI時代にも、モーツァルトの声楽曲はともかく、管弦楽のための作品には消極的で、交響曲などは録音していなかったはずですから、これは彼にとっては初めての交響曲の録音ということになりますね。ちょっと意外な気がしてしまいます。
前作のドヴォルジャークではモダン・オーケストラの指揮をしていたヘレヴェッヘですが、モーツァルトで選んだのはピリオド・オーケストラのシャンゼリゼ管弦楽団でした。弦楽器は8.8.5.5.4という、「ピリオド」にしてはかなりの「大編成」です。例えば、1980年代初頭に、「オーセンティック」を目指してクリストファー・ホグウッドが録音した、世界初の「ピリオド」オケによるモーツァルト全集ではもうちょっと少なめの弦楽器でしたし、さらに、通奏低音として、この3曲にはフォルテピアノが参加していましたね。もちろん、今回のヘレヴェッヘの録音にはチェンバロやフォルテピアノは使われてはいません。というか、初期の作品はともかく、この時期の交響曲に通奏低音を使うケースは、近年はほとんど見られなくなっているようですね。
録音は、このレーベルではおなじみのTRITONUS、例によって重心の低い落ち着いた音に仕上がっていますから、さっきのホグウッドのような、ピリオド楽器の誤った印象を植え付ける効能しかなかったひどい録音とは、隔世の感があります。それだけ、演奏と録音での「ピリオド」の受容が、より賢いものに変わったということなのでしょう。しかも、チューニングがモダン楽器と殆ど変らないほど「高い」ピッチなのにも、驚かされます。A=435ぐらいでしょうか。ついに「ピリオド」もここまでの「妥協」が図られるようになってきたのですね。そう言えば、緩徐楽章ではトゥッティの弦楽器にほんのりビブラートもかかっているような。
しかし、楽譜に関しては、「新全集」の呪縛から完全に解放される、というステージにまでは達してはいないのかもしれません。ホグウッド版で最も驚かされたのは、楽譜にある反復を全て忠実に行うということでしたが、そんな退屈なことはそろそろやめてもいい時代になっているのではないでしょうか。楽譜、楽器、奏法はピリオドでも、それを聴く聴衆は「モダン」なのですからね。
いずれにしても、かつてのストイック(ヒステリックとも言う)な「ピリオド」からはすっかり趣が変わってしまったスタイルを前面に押し出したヘレヴェッヘの演奏は、時として「モダン」でも許されないほどのアバウトなたたずまいを見せることになります。特に「39番」の第1楽章あたりでは、拍の刻みがなんとも自信なさげで、音楽の推進力が聴こえて来ないもどかしさがあります。第3楽章のトリオで、クラリネットが不思議なところで装飾を入れているのも、いい加減と言えばいい加減。
しかし、「40番」になると、そんないい加減さがプラスに作用して、重苦しさの全くない風通しの良い「ト短調」を味わうことが出来ます。こういうのも、たまにはいいですね。
そして、「41番」では、トランペットが参加することによってサウンド的にも充実、そのせいか、ドライブ感も増してきて、華やかさはふんだんに味わえます。ここにきて、今まであんまり目立たなかったフルートも、くっきり聴こえるようになりました。楽器を変えたのか、高いピッチのせいなのか、それは分かりません。

CD Artwork © Outhere

8月23日

Great Works for Flute and Orchestra
Sharon Bezaly(Fl)
Neeme Järvi/
ResidentiOrkest Den Haag
BIS/SACD-1679(hybrid SACD)


シャロン・ベザリーの新譜、確かに「マルP(この原盤権をあらわすマークはPhonographの頭文字の略なんですってね)」は2013年ですが、品番は最新のものは2000番を超えているのに1600番台、しかも録音は2007年と2008年です。どうやら、このレーベルの品番はリリース時ではなく、録音時に準じているようですね。
ですから、最近では正直に録音フォーマットを表示していますが、それは44.1kHz/24bitという、SACDにするにはもったいないような一昔前のスペックでした。確かに、オーケストラの弦楽器の音などは、最新スペックのものに比べると物足りなさが残ります。
タイトルの通り、オーケストラとフルートのための「名作」を集めたアルバムですが、伴奏のハーグ・レジデンティ管弦楽団を、首席指揮者のネーメ・ヤルヴィが指揮をしているのがすごいところです。
その「名作」は、メインがニルセンとライネッケのコンチェルト、シャミナードのコンチェルティーノ、それにプーランクのソナタをレノックス・バークレーがオーケストラに編曲したものという大盤振る舞い、それにグリフィス、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフの小品も加わっていますから、全7曲という超大盛りです。
まず、このところ生誕150年を控えて何かと盛り上がっているニルセンのフルート協奏曲が入っているのがありがたいところです。実は、この曲は最近ほかのレーベルからも何種類かリリースされていますから、ベザリーももしかしたら今までリリースのタイミングを見計らっていたのかもしれませんね。それは、確かにベザリーらしさを存分に味わうことのできるニルセンでした。とにかく、テンポが滅法速くて、今まで抱いていたこの曲のイメージが一変してしまうほどの印象があります。ほとんど神業に近いテクニックで、難しいパッセージを信じられないほど滑らかに演奏しているのは爽快そのものです。ただ、ここまで早く演奏することが、果たしてニルセンの曲にふさわしいのか、という違和感は残ります。決してテクニックをひけらかすのではなく、もっと一つ一つの音が持つ意味をしっかり味わいたいな、という思いですね。
その点、ライネッケのフルート協奏曲の場合は、第1楽章などは、細かい音符にこだわらずいくら早く吹いてもらっても構わないような音楽ですから、ベザリーの演奏はとてもキレが良く感じられます。ところが、第2楽章となると、そうはいきません。こういう、しっとりとロマン派ならではの情感を歌い込んでほしい楽章こそが、ベザリーの最も苦手とするところ、それは期待を裏切らない残念な結果に終わっています。第3楽章も、単に指が動くだけでは、本当の意味の軽やかさは出てこないのだな、ということを痛感させられます。
プーランクでも、やはり真ん中の楽章では、大きなフレーズの中で滑らかに歌ってほしいところが、一つ一つの音符ごとに音をふくらますというベザリーのクセが、無残な結果を生んでいます。これは、ソロ以外のオーケストラの中のフルートや管楽器が大活躍するバークレーのぶっ飛んだオーケストレーションに見事にこたえているバックのメンバーに拍手、です。チケットの転売はやめましょう(それは「オークション」)。
ベザリーのテクニックのすごさをよく知っているフィンランドの重鎮作曲家、カレヴィ・アホが、わざわざこの録音のために編曲を買って出たリムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」は、あの伝説的なゴールウェイの演奏とほぼ同じテンポで半音階を吹ききるという、すごい仕上がりです。しかも、ところどころにタンギングを入れているところもありますから、レガートだけのゴールウェイよりもポイントは高くなっています。このあたりが彼女の本領発揮なのでしょう。

SACD Artwork © BIS Records AB

8月21日

VERDI
Requiem
Anja Harteros(Sop), Elïna Garanca(MS)
Janos Kaufmann(Ten), René Pape(Bas)
Daniel Barenboim/
Orchestra e coro del Teatro alla Scalla
DECCA/478 5245


ミラノのスカラ座と言えば、イタリア・オペラのメッカとしてその名を知られたオペラハウスです。最近では、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)の向こうを張ってライブ・ビューイングなどにも積極的に取り組むなど、新しいオペラハウスの姿を模索しているようです。一時、リッカルド・ムーティの後の音楽監督が不在の時期がありましたが、2007年から客演指揮者を務めていたダニエル・バレンボイムが、2012年からは、晴れて音楽監督に就任、バレンボイムは、それまでのベルリン州立歌劇場の音楽監督との兼務となりました。
そんな、「バレンボイム時代」の幕開けを飾ったのが、ヴェルディ生誕200年となる2012-2013年シーズンの幕開けを飾るために、2012年8月に行われたヴェルディの「レクイエム」のコンサートです。それは、スカラ座のオーケストラと合唱団、さらにソリストとしてハルテロス、ガランチャ、カウフマン、パーペという、これ以上望むべくもないスター歌手を一堂に集めた超豪華なコンサートでした。
ジャケットの写真を見ると、100人程度の合唱団がステージ上の雛段に立ち、オーケストラはピットの床をステージの高さまで上げたところで演奏しています。ソリストたちは指揮者の左右で歌っています。楽器の配置はオケ・ピットの中そのものの、対向配置、ちょっと面白いのが、金管の最低音域を担当する楽器がバスチューバであることです。普通、イタリアのオペラ座のピットには、ヴェルディやプッチーニの場合、ここにはバストロンボーン、いわゆる「チンバッソ」が使われていたのではないでしょうか。つい最近、日本のNHK交響楽団が同じ曲を演奏している映像を見ましたが、そこでは何のためらいもなく「チンバッソ」が使われていましたからね。
しかし、ものの本によれば、この曲で指定された楽器は「オフィクレイド」なのですから、本当はチンバッソなどを使う必要はないのですね。警察は必要かもしれませんが(それは「オフィスレイプ」)。実は、1967年に収録された、有名なカラヤンの指揮による同じスカラ座の映像でも、やはりチンバッソは使われていませんから、これが本場スカラ座の伝統なのでしょうか。
つい最近、この曲の合唱を歌ったばかりなので、つい合唱に耳が行ってしまうのは避けられません。これは、冒頭sotto voceの「Requiem」から、ただならぬテンションが漂います。ただ弱いだけではなく、その言葉に込められた恐ろしいまでの緊張感には、思わず震え上がってしまうことでしょう。ところが、「Te decet hymnus」で始まるフーガになったら、それぞれのパートの声の粗いこと。ほとんど音程も無視してしまうほどの雑な歌い方です。しかし、実はこれも彼らの表現のうちだったことが、聴き進むうちに分かってしまいます。こんな一見粗野に見える部分から、恐ろしく繊細な部分まで、彼らの表現の振幅は並みの合唱団のそれをはるかに超えるものだったのです。例えば、「Agnus Dei」で、ソプラノとメゾのユニゾンのあとに続く合唱の繊細なこと。合唱は同じテーマがアレンジを変えて3回登場しますが、3回目の最後にテナーが歌う、ハイGから始まる「dona eis」などは、ピッチ、音色、パートのまとまりなど、さっきのフーガを歌った同じ合唱団とはとても思えないほどの美しさです。
要は、全ての音符をしっかり楽譜に忠実に歌ったうえで、表現上必要なところは思いきり崩すこともいとわないという精神なのでしょう。最初から思いきり崩すことだけに腐心していた、実際に体験した指揮者と合唱団との一番の違いは、そこなのです。
レーベルはDECCAですが、ジャケットにロゴがあるように、これはUNITELで収録された本来は映像ソフトです。CDで聴くと、なんとも平板な音なのにガッカリしてしまいますが、DVDBDのハイレゾ音声だったら、もう少しましなものが聴けるのではないでしょうか。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

8月19日

MOZART
Requiem
Anna Prohaska(Sop), Sara Mingardo(Alt)
Maximilian Schmitt(Ten), Rene Pape(Bas)
Claudio Abbado/
Bavarian Radio Choir, Sweden Radio Choir(by P. Dijkstra)
Lucerne Festival Orchestra
ACCENTUS MUSIC/ACC10258BD(BD)


2012年8月にルツェルン音楽祭で演奏されたモーツァルトの「レクイエム」は、同じ年の9月にはそのコンサートが丸ごとBSで放送されていました。つまり、当日はまずベートーヴェンの「エグモント」を、ソプラノ・ソロとナレーターを入れて劇音楽として演奏した後に、「レクイエム」が演奏されていました。今回、その時の映像のうちの「レクイエム」だけがDVDBDでリリースされました。「コンサート」ではなく、「作品」として届けたい、ということなのでしょうか。「エグモント」の映像などというエグいもんはなかなかありませんから、ぜひ一緒に出して欲しかったものです。
いずれにしても、アバドが指揮をするモーツァルトの「レクイエム」であれば、「版マニア」としては聴き逃すわけにはいきません。なんたって、彼が1999年にザルツブルクでカラヤンの没後10周年記念として演奏した同じ曲のライブ録音ときたら、「版的」にはとんでもないものだったのですからね。それについては、こちらにまとめてありますから、ぜひご覧になってください。とにかく、バイヤー版だと思って聴いているといきなりレヴィン版になったり、その同じ曲の中でもバイヤー版の音形に置きかえられていたりと、なんとも脈絡のない「いいとこどり」なのですからね。
ですから、今回のコンサートの映像を観るにあたっては、アバドのこの作品に対する、主に「版」に関してのアプローチがどのように変わったのか、あるいは変わらなかったかが最大の関心事となるのは当然のことです。
期待通り、放送の時には、最初にこの「版」に関してのコメントがテロップで出ていました。今回のDVDBDの販売元によるインフォにも同じ趣旨のことが書かれていますから、おそらく同じものが使われているのでしょう。それは
「聖なるかな」はロバート・レヴィンによる校訂版、それ以外はフランツ・バイヤー版で演奏される
というものでした。「Sanctus」はレヴィン版だが、それ以外はバイヤー版だということですね。かつてあんな複雑なことをやっていたアバドが、13年経つとこんなものすごく分かりやすいやり方を取るようになってしまったのでしょうか。
しかし、このコメントは全くの事実誤認であることが、すぐに分かります。確かに「サンクトゥス」はレヴィン版のようですが、そのあとの「Benedictus」ときたら、最初はバイヤー版でやっているのに、オーケストラの間奏になったら、いきなりレヴィン版に変わってしまうのですからね。ですから、おそらく今回のアバドの楽譜は、基本的にはあの13年前のものと同じなのではないかという気がします。この「Benedictus」の間奏などは、この曲を聴き慣れている人ならだれでもバイヤー版でないことはすぐ分かるはずなのに、テロップやインフォを書いた人は実物を聴いていなかったのでしょうか。
そんな「版」の面白さとともに、これは演奏もとても充実していたのがうれしいところです。まず合唱は、バイエルン放送合唱団とスウェーデン放送合唱団の合同演奏、お気づきでしょうが、どちらの団体もあのペーター・ダイクストラが音楽監督を務めていますね。これはまさに現時点では世界最強のタッグなのではないでしょうか。事実、ひたすら渋い音色で、素晴らしいピアニシモを聴かせてくれるこの合唱団には、もう耳が引きつけられっぱなしでした。
ソリストも、素晴らしい人が4人揃っていましたよ。一番気に入ったのが、ソプラノのアンナ・プロハスカ。この曲にはぴったりの澄みきった声が良いですね。ただ、映像ではちょっとぶっきらぼうな歌い方で、別の怪しい魅力を放っています。この4人は、ソロはもちろん、アンサンブルがとても素敵でした。
演奏が終わっても、アバドは1分以上動こうとしませんでした。その間、会場は完全な静寂、これは、ちょっと背筋が寒くなるような体験でした。

BD Artwork © Accentus Music

8月17日

BRITTEN
War Requiem
Galina Vishnevskaya(Sop), Peter Pears(Ten)
Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
Benjamin Britten/
The Bach Choir, Highgate School Choir
London Symphony Orchestra & Chorus, Melos Ensemble
DECCA/478 5433(CD+BD)


今年は、ベンジャミン・ブリテンが生まれてから100年目となる記念の年です。さらに、彼の代表作(というのには、いろんな立場の人からの異論があるでしょうが)である「戦争レクイエム」が作曲家自身の指揮によってこのレーベルに初録音されてから、ちょうど50年目にあたる年でもあります。
この作品が初演されたのは1962年の5月のことでしたが、その時にはブリテンが想定していた「ソ連(当時)、イギリス、ドイツという、第二次世界大戦の際の交戦国同士の歌手が一堂に会して、和解を印象付ける」というコンセプトが、ソ連代表のヴィシネフスカヤの不参加によって完結していませんでした。それが、翌年、1963年1月に行われたこの録音によってしっかりと実現したわけですから、ブリテンにしてみればこの録音こそが完全な形での初演だったことになります。
そこで企画されたのが、この録音の決定的なデジタル・リマスター盤の制作です。そのために、今回はオリジナルのマスターテープから直接24bit/96kHzでデジタル・トランスファーを行い、後世に残すことが出来る品質のハイレゾ・データを作ることになりました。ですから、今回のパッケージには、そんな素材から作られたCDとともに、そのPCMデータがそのまま収められたBDオーディオが同梱されています。
ご存じのとおり、この録音のプロデューサーはあのジョン・カルショーです。1963年と言えば、彼はワーグナーの「指環」を録音している真っ最中ですよね。1962年に「ジークフリート」、1964年には「神々の黄昏」をウィーンのゾフィエンザールで録音した、その間に、ロンドンのキングズウェイ・ホールでこの録音を行ったことになるのです。ウィーンではゴードン・パリー、ロンドンではケネス・ウィルキンソンというエンジニアを抱えた、まさに、DECCAの黄金期の録音ですから、それは非常に価値のある仕事に違いありません。「指環」に関しても、やはりBDオーディオがリリースされていましたから、このフォーマットのすごさをすでに味わっているだけに、期待は高まります。
しかし、「指環」の時には、すでにマスターテープの劣化が進んでいたため、現代のスペックでのハイレゾ・データではなく、1997年という「大昔」のデジタル・データを使わざるを得なかった、という事情があったことに、少しの不安が募ります。「指環」ではもうマスターテープは使い物にならないほどに劣化していたというのに、同じ時期の「戦争レクイエム」では、そんなことはなかったのでしょうか。それについては、ブックレットの中で「オリジナル・アナログ・マスターは、以前に比べてさらに『壊れやすく』なっている」と述べられているのと同時に、スプライシングの補修をしている写真が掲載されています。これを見ると、単にはがれたところを直せば元通りになるような気になりますが、本当は磁性体そのものの劣化の方がより深刻なはずなのですがね。
しかし、最終的にBDで聴ける音は、そんな懸念を振り払うような、すばらしいものでした。リマスタリング・エンジニアは「指環」と同じフィリップ・サイニーですから、彼の仕事ならマスターの劣化はかなり補正出来るということなのでしょう。
実は、手元には1985年にCD化されたものがあります。それは今から見たらかなり荒っぽいマスタリングの産物で、そもそもトランスファーの際のドロップアウトなどもそのままになっているぐらいのものなのですが、例えばヴィシネフスカヤの歌う「Lacrimosa」などは、明らかに今回のBDよりも充実した音が聴けます。この、アナログ・マスターがまだしゃんとしていた頃に、24/98でトランスファーする技術があったなら、もっとすごい音が聴けたことは間違いないでしょう。まさに文化遺産そのものであるアナログテープの劣化は、防ぎようがありません。後世に残したいと本気で思っているのなら、残された時間は極めて限られています。

CD and BD Artwork © Decca Music Group Limited

8月15日

愛しきわが出雲
愛しきわが出雲市民合唱団
岩谷ホタル
出雲市/
IZCD-17322

今年は島根県の出雲大社では、60年に一度という大行事「平成の大遷宮」が行われました。そのための予算は80億円だとか、いずもこんな出費があったら大変ですね。その機会に、出雲市出身のアーティスト、竹内まりやが、出雲市からの依頼を受けてこういうタイトルの歌を作りました。作詞、作曲はもちろん竹内まりや、リズムアレンジは山下達郎、ストリングスアレンジは服部隆之という、豪華スタッフです。
ただし、まりや自身はあくまで作家、プロデューサーという立場なのだそうで、ボーカルとしては登場していません。実際に歌っているのは岩谷ホタルさんというやはり出雲出身の若いシンガーです(これはピアノ伴奏)。それと、この出雲市レーベルのCDでのメインは、さっきのスタッフが作ったオケに乗って歌われる「合唱バージョン」なのです。なんでも、この曲のために出雲市内の中高生と一般の合唱団の中から選ばれた100人のメンバーが歌っているのだそうです。
曲は、まりやお得意のスローな6/8による、カントリー・テイスト満載のものでした。コード進行も、彼女ならではのドッペル・ドミナントを多用したとてもシンプルな親しみやすさ、サビの「♪空高き 出雲」あたりからのクリシェなどは、頭を聴いただけで3小節先のコードまで想像できるほどの(実際そうでした)耳に馴染む心地よさがあります。
ただ、これこそがまりやの曲の身上である、まさにポップ・チューンとしての明るさ、楽しさが一杯の曲に対して、歌詞のなんとも硬直した古めかしさは、なんなのでしょう。「育まれし愛は」などという文語調で名所旧跡をちりばめた陳腐な歌詞は、この音楽とはほとんどシュールなまでの違和感を抱かせるものです。まあ、なんせ大国主命が祭られ、時には全国の神々が集うというまさに「神話の里」の歌なのですから、これはこれで仕方がなかった帰結だったのかもしれません。
しかし、長年彼女のファンを続けてきたものとしては、何か納得できない思いが残ります。彼女を追っかけたいと思ったのは、その、とびきり都会的で弾けるような音楽の魅力を味わいたかったからでした。しばらくのブランクの後、レーベルも変わってカムバックした彼女は、デビューしたてのアイドル時代と全く変わらないポップさでそんな期待に応えてくれていました。しかし、そんな周りの期待とは裏腹に、彼女自身はアーティストとしての「成長」を目指していたに違いありません。気が付いてみたら、いつの間にか彼女の作品、とくに歌詞の世界は、そんな、まさに「老成」を思わせるような「深い」ものに変わっていたのです。ところが、彼女の音楽には、それについていけるだけの「深み」はありません。音楽に関しては決して冒険はせず、一貫してシンプルでありふれた路線をとり続けています(もちろん、それなりの「小技」は効いています)。いや、もしかしたら、それが彼女の「作曲」のスキルの限界なのかもしれません。逆に言えば、いくつになってもまるでティーンエイジャーのような曲を作り続けることが出来る事こそが、彼女の最大の魅力なのですよ。
しかし、彼女は、そんな10代の音楽に、実年齢の歌詞を付けるようになってしまいました。現時点では最新のアルバム、2007年の「デニム」に収録された「人生の扉」あたりが、そんなアンバランスな作品の筆頭です。
そして、今回の「出雲」で、彼女はそれ以上にアンバランスなものを作ってしまいました。もし、この合唱バージョンで、きちんとハーモナイズされた「合唱」を聴くことが出来ていれば、それほどの悪印象は持たなかったのかもしれませんが、暗めのピッチで終始ユニゾン(しかも、混声なのでオクターブ・ユニゾン)で歌われては、もう救いようがありません。カラオケで、達郎が「♪出雲〜っ」とコーラスを入れているのは、なんかのジョークですか?。

CD Artwork © Izumo City

8月13日

BACH
Brandenburgische Konzerte
Helmut Rilling/
Oregon Bach Festival Chamber Orchestra
HÄNSSLER/LP 98.025(LP)


HÄNSSLERから、さりげなくこんなLPが出ていました。ブランデンブルク協奏曲の全曲ですから2枚組、それでも、普通のCDとほとんど変わらないぐらいの価格設定ですから、ダメモトで買ってみます。味噌ではありません(それは「マルコメ」)。この間のように、大枚はたいてクズをつかまされるというのがLPの世界ですが、もし何かあったとしてもこの価格だったら楽々許せますからね。
パッケージは、普通2枚組であればボックスとまでは行かなくてもダブルジャケットぐらいにはなっているものですが、これはなんと、普通のシングルジャケットに紙の中袋に入ったLPが2枚入っているという、とんでもないものでした。

長いことLPと付き合ってきましたが、こんなパッケージには初めて出会いました。いや、それでも、ジャケットすらなかった(折った紙に挟んだだけ)さっきのリンクのユニバーサルのLPに比べれば、まだマシなのかもしれませんが。
想像していた通り、中身は新録音ではなく、1994年に録音されたもので、CDでは、例えばこのレーベルのバッハ全集の中にも入っていたりと、幾度となくリリースされてきたものでした。ただ、LPで発売されるのは今回が初めてのようです。録音データはしっかりライナーにクレジットされているのですが、不思議なことにソリストの名前が誰一人として明記されていません。調べてみたら、最初にCDで出た時点でも、指揮者とオーケストラ以外のソリストの名前は全く記載されていなかったようですね。「4番」のブロックフレーテなどはたまに載っていないこともありますが、「5番」での3人のソリストの名前が見当たらないというのは、普通は考えられないことです。この「オレゴン・バッハ音楽祭室内管弦楽団」というのは、教育的な意味も持っているアンサンブルなのでしょうから、いちいち名もない若いソリストの名前などは記録されることはなかった、ということなのでしょうか。
まず、手元には「1番」の最初の楽章だけが入っていたコンピレーションCDがあったので、それとLPとの音の比較をしてみましょうか。番号順にカットされていますから、これは1枚目の最外周ですので、CDとは比較にならないほどの瑞々しい音を楽しむことが出来ます。弦楽器の高音は滑らかですし、特に管楽器のソリストたちの音がしっかり「立って」聴こえてくるのは、たまりません。CDだと、全てが平面的でメリハリがなくなっている、というのは、こういう比較の時には必ず感じられることです。
さらに、このLPはそんなに重量もないごく普通のグレードのものなのですが、盤質はその何倍もの値段のさっきのLPよりも良好なのですから、本当に聴いてみるまでは分からないものです。実際、聴いていてスクラッチ・ノイズで音楽が妨げられて不快感を抱いたということは全くありませんでしたから、これはとんだ「掘り出し物」でした。
ただ、リリンクの音楽の魅力は、やはり声楽が加わった時に最大限に発揮されるもののようで、このような純粋なインストものではかなり物足りない仕上がりになっています。この「ブランデンブルク」が録音されたのと同じ年に録音された「マタイ」では、すでにピリオド寄りの表現を積極的に取り入れていたリリンクだというのに、ここではいまだ過去のスタイルに固執しているようにしか思えません。「5番」でフルート・ソロを担当しているフルーティストも、ビブラートたっぷりのロマンティックな奏法で頑張っています。それにしても、リリンクのまわりにこういうタイプのフルーティストはいなかったような。この時期、リリンクとよく共演していたジャン=クロード・ジェラールとは全然タイプが違いますし、「学生」にしては存在感があり過ぎ。いったい誰だったのでしょう。
(8/14追記)
CDのクレジットでは、このフルーティストはキャロル・ウィンセンスとの表記があるという情報を、Facebookへのコメントで頂きました。

LP Artwork © hänssler CLASSIC im SCM-Verlag GmbH & Co. KG

8月11日

LUKÁS
Requiem
Matthias Jung/
Dresdner Motettenchor
QUERSTAND/VKJK1232


タイトルは、ズデニェク・ルカーシュという1928年生まれのチェコの作曲家の「レクイエム」です。カップリングは、同じ年に生まれたやはりチェコの作曲家アントニーン・トゥチャプスキーと、ハンガリー(1947年ルーマニアの生まれ)の作曲家ジェルジ・オルバーンの宗教曲です。いずれも、無伴奏の混声合唱によって歌われる、シンプルな作品ばかりです。
ルカーシュの「レクイエム」は、1992年に3週間ほどで作られたものです。なんでも、彼には300曲以上の作品があるそうですが、大半は合唱曲、その中でも、この「レクイエム」はその分野での頂点を極めたものなのだそうです。
1曲目は「Requiem」と「Kyrie」をひとくくりにした楽章。「Requiem aeternam」というフレーズが、ユニゾンでプレイン・チャントのように歌われますが、その表情が非常に厳しいものであるあたりが、強いインパクトとして伝わってきます。もちろん、これをそのまま推し進めるようなアヴァン・ギャルドなことは、いかにこの年代の作曲家といえども、慎重に避けられていて、そのあとには対位法的な処理が施されて音楽は次第にソフトなものに変わり、それがいつの間にか、さらに柔和な「Kyrie」に移行していくあたりは、まさに合唱の「勘所」を押さえた見事な書法、そのまま消え入るように息絶える様も、ほとんど感動的ですらあります。
続く「Dies irae」は、うって変わって激しい音楽に変わります。しかし、その畳みかけるような鋭いフレーズの応酬には、なにか懐かしい肌触りも感じられます。それは、ルネサンスあたりの世俗的な合唱曲などによく見られる手法、この作曲家の引き出しには、おそらくそのような長い伝統に培われた音楽のエキスがたくさんしまいこまれていることがうかがえます。それに気づいてしまうと、この作曲家は、本当は一体何を目指しているのかが分かってきて、ちょっと引いてしまいます。
この、「Sequentia」に由来する楽章は、「Tuba mirum」で終わり、それ以下のテキストは潔くカットされていますが、最後の「Lacrimosa」だけは決して外すわけにはいかなかったのでしょう。ここでこのテキストにあてがわれている、とろけるように甘いメロディこそが、この作曲家の真骨頂なのでしょうから。
続く「Domine Jesu Christe」では、驚くことに厳格なフーガの登場です。これまでの流れからはかなりアンバランスな音楽ですが、ここできちんと「伝統」を踏まえていることを見せたかったのでしょう。後半では息切れなのでしょうか、いとも安直にホモフォニックの音楽になってしまったのは残念です。
ですから、型どおり、レリジャスな「Hostias」と、セキュラーな「Sanctus」に続いて、まるでブルックナーの「Ave Maria」そっくりの「Agnus Dei」が聴こえて来たとしても、驚くことはありません。これは、その程度の作品なのですから。
同年代のトゥチャプスキーも、そんな「後ろ」を向いた作風にはあまり魅力を感じることはできません。でも、「5つのモテット」の4曲目、「Eli, Eli」などは、この有名なテキストの味を思いがけない形で出しているような驚きはありました。
そういう意味では、このアルバムの中ではオルバーンの「Stabat mater」あたりの方が、聴きごたえという点では勝っているのではないでしょうか。少なくとも、曲全体として訴えかけるものが確かに存在していることは間違いありません。
ここで演奏している、ドレスデン・ハインリッヒ・シュッツ音楽院を母体としたドレスデン・モテット・コールという団体は、ドレスデン室内合唱団やRIAS室内合唱団の指揮者として知られているハンス=クリストフ・ラーデマンによって1996年に作られたそうです。しかし、このCDでは、今一つピリッとしたものが感じられません。もしかしたら、それほど真剣に取り組む気にはなれない作品のせいなのかもしれません。
それに加えて、録音は、いかにもCDの限界にどっぷりつかった、覇気のないものでした。破棄してもかまわないような、つまらないCDです。

CD Artwork © Verlangsgruppe Kamprad

おとといのおやぢに会える、か。


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