真似、控えて。.... 佐久間學

(14/4/8-14/4/26)

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4月26日

The Ultimate Classic Best
Tower Records Selection
Various Artists
TOWER RECORDS/TNCL-1009-18


今年もまた、「ラ・フォル・ジュルネ」の季節がやってきました。毎年様々なテーマを設けて、いろいろな側面からクラシック音楽を多くの人に聴いてもらおう、という東京のイベントですが、今回晴れて10回目を迎えるということで、今までにこのイベントを飾った10人の有名作曲家を一堂に集めよう、ということになっているのだそうです。ヴィヴァルディから始まってガーシュウィンまで、それは確かに「クラシック」の王道たる文句のつけようのないラインナップです。
そこで、それに便乗しようとタワーレコードがナクソスの音源を集めてこんなコンピレーション・ボックスを作りました。10人の作曲家にそれぞれ1枚ずつCDを割り振って、全部で10枚、その名も「永遠のクラシック・ベスト」ですって。ただ、なぜかCDでの作曲家が「フォル・ジュルネ」の面子とは微妙に異なっているのが気になります。1枚目はヴィヴァルディになるはずのものが、バッハになってたりしますからね。10枚目だって、ガーシュウィンとの抱き合わせでラフマニノフが入っていますし。ただ、こちらは「特別収録」という言い訳が付いているので許せますが、1枚目がなぜバッハなのかという説明は一切ありません。そんなんでいいわけ
実は、タワーがこういうボックスを作ったのは、これが初めてではなく、初期のフォル・ジュルネでは毎回マメに作っていたのですが、2008年のシューベルトを最後に、ぱったりその消息が途絶えてしまっていたのです。もうそんなことから足を洗ってしまったのかな、と思っていたら、それから6年経ってまた世間に登場してきました。
再会したボックスは、なんか様子がずいぶん変わっていました。6年前までは山尾敦史さんが選曲から解説の執筆まで担当していたものが、ここでは選曲は「タワーレコードの専門スタッフ」というだけで、個人の名前は明らかにされてはいません。そして、解説の執筆者が、最近ナクソスの国内盤のライナーノーツなどでよく目にする篠田綾瀬さんに変わっています。このあたりの制作上の変化が、しばらくリリースされなかった原因なのかもしれませんね。とは言え、密かにファンを気取っている篠田さんの解説文が読めるのはうれしいことです。
確かに、その解説は、通り一遍のものとはかなり肌触りが違うものでした。まず、あちこちに登場するのが、昔からこういうものによく使われていた逸話のようなものを、しっかり真実かどうか見極めている潔さです。「ベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭のテーマは、運命が扉を叩いているものだ」、とか、「シューベルトの『魔王』は、『作品1』なので彼の最初の作品だ」といった、もしかしたらこういうアイテムの購入層にとってはすでにどこかで刷り込まれてしまった「俗説」に対して、「それは間違いなのよ」ときっぱり否定してくれているあたりが、さすがです。
このような俗説排除の姿勢は、ネット記事の弾劾にもつながります。ラヴェルの「ボレロ」の解説では、最後の部分に使われているオーケストラ内の楽器を全て挙げていますが、これをネット辞書「Wikipedia」と比べてみるとやはり微妙に違っていることが分かります。手軽にコピペ出来て何かと重宝する「Wiki」には、実はこんなに間違いがあるんですよ、と、暗に警告しているに違いありません。
選曲はもちろんごくオーソドックスなものですが、演奏者にはかつてのナクソスのような貧乏臭さは全くありません。この中で唯一全曲が収録されている交響曲であるドヴォルジャークの「新世界」(シューベルトの「未完成」は2楽章までですから、「全曲」ではありません)は、まさに新生ナクソスを象徴するようなこちらのオールソップ盤が使われているぐらいですからね。
なによりも、1枚目1曲目の「トッカータとフーガ」の最初の音のモルデントで、あなたは衝撃を受けるはずです。

CD Artwork c Naxos Japan Inc.

4月24日

The Rite of Spring
The 5 Browns
STEINWAY & SONS/30031


先日、さる合唱団のコンサートでブラームスの「ドイツ・レクイエム」を2台ピアノによるバージョンで聴きました。それは本当に素晴らしい合唱だったのですが、その時のピアノのアインザッツが非常におおらかだったのには参ってしまいました。実は、だいぶ前ですが、マルタ・アルゲリッチとネルソン・フレイレによるデュオをテレビで見たことがあったのですが、その時には、このブラームスよりもっとひどいアンサンブルでしたから、そもそもこういう編成でピッタリ合わせることなどは至難の業なのだな、と思っていました。
ですから、もう10年近く前に騒がれた、なんと「5人」のピアニストのユニット「ザ・ファイブ・ブラウンズ」などは、最初から聴く気にもなれませんでした。そもそも、彼らが日本で紹介された時には、いわゆる「ライト・クラシック」という忌むべきカテゴリーでの売り込みでしたからね。
この5人のピアニストは、ブラウン家の女3人、男2人の5人の子供たちです。最年長はジャケ写右から2人目の1979年生まれの長女、末っ子は右端、1986年生まれの次男ですね。全員がジュリアード音楽院を卒業、2002年にチームを組んで初めてのコンサートを開き、大成功をおさめます。アルバム・デビューは2005年、RCAからの「The 5 Browns」という、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」などが収められたCDでした。それはビルボードのクラシック・チャートの1位を占め、2008年までに全部で4枚のアルバムをRCA/SONYからリリースします。2010年には、E1 Entertainmentという、以前はカナダのKochだったレーベルに移籍しての映画音楽集、そして昨年10月、彼らがアーティスト契約を結んでいるスタインウェイのレーベルからこんなタイトルのアルバムがリリースされました。
これは、2013年5月に行われたコンサートのライブ録音です。ですから、メンバーも全員「アラサー」を迎えていたことになりますね。それにしてはみんな若い!真ん中の次女などは、ほとんどヤンキーですね。
タイトルは「春の祭典」ですが、演奏はまずホルストの「惑星」から始まります。その1曲目、「火星」が始まった時、その5台のピアノの音がまるで一人で弾いているように完全に「合って」いたのには驚いてしまいました。もうこれだけでほとんど信じられないものを聴いていしまった思い、圧倒されてしまいます。2人でも合わないものが、5人でこれほどまでに揃っているとは。やればできるものなんですね。というか、陳腐な言い方ですが、これが「血の絆」ってやつなのでしょう。
もちろん、それは単にきれいに合っているというだけのものではありませんでした。原曲をかなり自由にアレンジして、聴いたことのないようなフレーズがあちこちで絡み付いてきますが、そのどれもがとても生き生きしていて、本当に楽しんで演奏していることが伝わってきます。
そのあと、曲は切れ目なく最後の「海王星」に続きます。と、なんだかピアノとは思えないような音が聴こえてきましたよ。なんかキンキンした、プリペアされた音、瞬時に弦になにかを乗せたのか、手で触っているのか、こんな小技もきかしているんですね。いや、それだけではなく、最後に出てくる女声合唱まで、誰かが歌っていますよ。曲はそのあとに「木星」に続くという仕掛け、やはり聴かせるツボは押さえています。
そして、サン・サーンスの「死の舞踏」を挟んで、いよいよ「春の祭典」です。2台ピアノのバージョンは何度か聴いたことがありますが、これは「5台」という条件を目いっぱい生かした、とてもいかした編曲が素敵です。全員でガンガン弾く時にはオーケストラをもしのぐほどの大音響、そして、多くのパートが絡み付くところでは煌めくばかりの色彩感、弾き終わった時の会場のやんやの喝采も納得です。いや、すでに第1部の終わり近くで、待ちきれず歓声を上げていた人もいましたね。

CD Artwork © ArkivMusic LLC

4月22日

BRUNEAU
Requiem
Mireille Delunsch(Sop), Nora Gubisch(MS)
Edgaras Montvidas(Ten), Jérôme Vanier(Bas)
Ludovic Morlet/
Children Chorus of La Monnaie, Vlaams Radio Koor
Symphony Orchestra and Chorus of La Monnaie
CYPRES/CYP7615


現在では全く忘れ去られていますが、アルフレッド・ブリュノー(1857-1934)という女子の体操着みたいな名前(それは「ブルマー」)のフランスの作曲家は、エミール・ゾラと親交のあった人で、彼の台本などを用いた多くのオペラを作っています。そして彼は、「レクイエム」も作っていることから、このサイトでも取り上げられるようになるのです。
実は、この曲は2001年の1月に、すでにこちらで紹介されていました。つまり、「レクイエム」に関しては今までに録音されたものはほとんど網羅されているというこちらの井上太郎さんの本で最初の録音のものとして紹介されていたのを頼りに、たまたま再発されたものを聴いてみたのですね。このレビューを読んでいただければ分かる通り、その時の印象は決して芳しいものではありませんでした。井上さんの本でも、おそらくこの録音を聴いた上でのことでしょう、「音楽の骨格そのものの脆弱さは覆うべくもなく、旋律も陳腐」と、まさにぼろくそに言われてましたね。
何しろ、その録音での指揮者のメルシエは、初めて聴いた人にあたかも作品そのものが悪いかのように感じさせる演奏をすることでは定評のある人でしたから、もしかしたら他の指揮者で聴けばそんなにひどい曲だとは思えなくなるような可能性は充分あり得ます。今回、2012年にブリュッセルでライブ録音されたこの新しいCDでは、そんな悪い印象を拭い去ることはできるのでしょうか。
Requiem & Kyrie」の最初に示されるテーマは、なかなかキャッチーなものでした。いかにもオペラ作曲家らしく、そこでは情景が的確に表現されていることがすぐに感じられます。しかし、続いて現れる合唱の無気力さには、一瞬たじろいでしまいます。そのあとのソリストたちによるポリフォニックなパッセージも、何かピリッとしたところがなく前途には暗雲が立ち込めます。しかし、音楽全体の持つまさにオペラティックな運びには、何か引き込まれるものも有ります。
次の「Dies Irae & Tuba Mirum」になると、そのダイナミックな音楽には文句なしに惹かれます。お約束のグレゴリアン・チャントの「Dies irae」がハープとトランペットによって登場しますが、それが児童合唱によって繰り返されると、思わずその敬虔な響きに聴き入らずにはいられなくなってしまいます。そんな、起伏の激しい音楽がまさにドラマティックに展開されていると感じられるようになってくるのは、そろそろこの作品の魅力に気づいてきたからなのかもしれません。この児童合唱の出番はこの後も控えていますが、それはまさにこの作品のポイントとなっています。
そうなのです。確かにあざといところもありますし、構成に弱さが感じられなくもありませんが、これはそういう音楽、言ってみればあふれるばかりの情感を、多少無秩序に語っているだけのことで、それによって音楽そのものの価値が損なわれるものではなかったのです。やはり、ヘタをしたら、メルシエの演奏だけでこのままこの作品がつまらないものだと評価されて終わってしまうところでしたね。
Sanctus」のテーマはマーラーの交響曲第1番の終楽章にそっくりですが、作られたのはこちらの方が先ですし、「Agnus Dei」ではなんとロイド・ウェッバーの「オペラ座の怪人」の中のナンバーのようなものが現れます。ある意味そんな「先駆性」さえも備えた、なかなか隅に置けない作品とは言えないでしょうか。最後の「Et Lux Perpetua」で第1曲目のテーマが再現されるあたりも、しっかりとツボを押さえている感じがしませんか?
これだけだと40分しかないので、カップリングとしてマリウス・コンスタンが編曲したドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」が、別の会場で演奏された時のライブ録音が入っています。これが前の曲とは全然違って素晴らしい音、「レクイエム」がこの音で聴けていたら、その魅力はさらに増していたことでしょう。

CD Artwork © Cypres Records

4月20日

BARTÓK
Duke Bluebeard's Castle
John Tomlinson(Bluebeard)
Michelle DeYoung(Judith)
Juliet Stevenson(Narr.)
Esa-Pekka Salonen/
Philharmonia Orchestra & Voices
SIGNUM/SIGCD372


最近では、このSIGNUMレーベルがほとんど自主レーベルのような形でフィルハーモニア管弦楽団の録音をリリースしているようですね。今まで聴いたことはなかったのですが、今回初めて手にしてクレジットを見てみたら、録音担当はLSO Liveなどと同じ「クラシック・サウンド」でした。エンジニアは、おなじみのジョナサン・ストークスです。もちろん、録音はハイレゾで行われているのでしょうが、SACDにはなってはいませんでした。過去に1度だけ、サロネンの指揮による「グレの歌」がSACDで出ていたような気がしますが、それっきりだったのでしょう。今回も、なかなか素晴らしい録音なので、これがSACDだったらさぞやいい音なのだろうな〜という、まさに「隔靴掻痒」状態でしたね(そうよ)。
この録音は、2011年にウィーンのコンツェルトハウスで行われたコンサートのライブなのだそうです。ソリストのほかに合唱団のクレジットも入っています。確かに、この作品の途中には「ハ〜」というため息が何度か入っていますから、それをしっかりした合唱団が「歌って」いるのでしょうが、このように実際に合唱団の名前までが載っているアルバムは初めて見ました。
ソリストは、青ひげのトムリンソンはともかく、ユディットのデヤングに一抹の不安を抱いてしまいます。この人はいつ聴いてもピッチが許容範囲を超えて高いため、常に違和感を味わった記憶しかないものですから。
最近の上演では慣例になりつつあるように、まず、最初に「前口上」が述べられます。もちろんペーター・バルトークの英訳が使われていますが、それが女性によって語られていたのが、ちょっと珍しいもの、実際この形で聴いたのはこれが初めてです。ちょっとこれは意表を突かれた感じで、この曲を聴くためにちょっと身構えていたものが、見事に肩透かしを食らったような気がします。
そのあとにトムリンソンが重苦しい声で歌い始めるものですから、その対比はかなりなものです。しかし、次にデヤングの声が聴こえてくると、それは確かにさっきの女性の声とのシンパシーが感じられるものでした。彼女の歌い方はやはりいつものように高いピッチの、ドラマティックで高圧的なものですから、そこからはあまり暗さが感じられないのですね。つまり、このあたりのユディットは、完全に青ひげを制圧しているような立場にあるように聴こえてくるのです。
サロネンのオーケストラのドライブは、素晴らしいものでした。ことさら大げさな身振りではなく、しっかり楽譜通りのことをていねいに重ねていく、というのが彼のバルトークへのアプローチのように感じられますが、プレーヤーはそれにしっかり従っているのですね。録音の良さも相まって、その場面に必要な音、たとえば宝石の音色を際立たせるチェレスタなどが過不足なく聴こえてきます。最大の盛り上がりを見せるはずの「第5の扉」のシーンでも、三和音の派手な響きを聴かせるのではなく、それが横につながった時のメロディをくっきりと浮かびあげているやり方をとっています。そうすることによって、ここからはハリウッド映画のようなスペクタクルな光景ではなく、そのテーマの由来するところのハンガリーあたりの風景が浮かびあがってはこないでしょうか。
このあたりを分岐点にして、青ひげとユディットの力関係が変わってくるさまが、デヤングの歌い方の変化によってもたらされている、と感じられるのは、単なる偶然なのでしょうか。いや、心なしか音程も落ち着き、ひたすら自分を責め始めるテキストが現実味を帯びてくるのは、間違いなく彼女の意志によるものなのではないでしょうか。彼女は、本当は相当にクレバーな歌手だったのかもしれません。
なんでも、サロネンはこの時期にバルトークを集中的にコンサートで取り上げていたのだそうです。それが順次CDになって行くのだとか。ちょっと楽しみですね。

CD Artwork © Signum Records Ltd

4月18日

DYRUD
Out of Darkness
Geir Morten Øien, Erlend Aagaard Nilsen(Tp)
Lars Sitter(Perc), Sarah Head(Readings)
Vivianne Sydnes/
Nidaros Cathedral Choir
2L/2L-099-SABD(hybrid SACD, BA)


ノルウェーの2Lレーベルは、今にして思えばまさに「ハイレゾ時代」を予見していたような、この方面ではパイオニア的な存在です。リリース形態も、SACDBAの2枚組というところに落ち着いたみたいですね。ただ、このBAが、プレーヤーの機種によっては認識されないことがあるのがちょっと問題、さらに、このジャケットもイエスが「ピース!」と言いながら復活してくるなんて。太ももまで出して(それは「ハイレグ」)。
もちろん、こんなジャケットは要らないという人には、ハイレゾのデータも用意されています。こちらで購入できますが、さすが2L、しっかり最高スペックの24/192を提供してくれていますね(なんと、SACD以上のハイレゾ、5.6MHzDSDまで)。もちろん、BAのスペックも同じ24/192です。ここで注目したいのは、そのワンランク下の24/96では少しお安くなっているということ。つまり、こちらのように、192でも96でも同価格というものは、元のデータはあくまで96で、192は単なるアップサンプリングだ、ということなのですからね。
合唱関係ではまず失望させられることのないこのレーベルですが、今回もなかなか興味深いところが取り上げられています。ノルウェーの作曲家、トルビョルン・デュールードという人が作った「暗闇の外へ」という、いわば「受難曲」です。ただ、物語は例えばバッハの作品などのように「受難」の周辺だけを扱うのではなく、イエス・キリストが生まれるところから始まり、「受難」の後のティベリア湖畔での復活の場面までが扱われています。タイトルも、暗い棺の中から復活して明るいところへ出るという意味合いが込められたものなのでしょう。ですから、その場面をしっかり表現したのが、このジャケットということになるのですね。
デュールードという人は、1974年にノルウェーに生まれ、ノルウェー音楽アカデミーやスウェーデンのストックホルム王立音楽大学で主にオルガンや合唱指揮、さらに作曲と即興演奏も学んでいます。この作品を聴いていると、多分に即興的な要素が見られますし、きっちり型にはまらない、ある意味ぶっ飛んだテイストが非常に感じられます。それは、このジャケットにも共通するような「ヘタウマ」の世界のような気がします。もちろん、それはとてもしなやかな情感となって、聴く者には伝わってくるはずです。
編成はトランペット2本と打楽器という伴奏で、混声合唱が歌うもの。それ以外に「朗読」という形で、とてもチャーミングな声の女優さんが、きれいな英語で物語を語ってくれます。その時には、合唱が薄くバックを務めていたりします。
合唱が歌う部分も、テキストはほとんど英語、「Crucify him!」などという言葉が飛び交うと、まるでロイド・ウェッバーのミュージカルのような雰囲気が漂います。そんなキャッチーな部分があるかと思うと、それこそ「前衛」っぽい技法が現れたりと、常に予想を裏切ってくれる「ヘタウマ」の応酬による受難曲、退屈とは無縁の音楽が続きます。全曲演奏してたったの55分ですからね。
最後近くに「Das Blümelein so kleine」というドイツ語のタイトルの曲が現れます。それは、マリンバで演奏されるまるでバッハのようなフレーズに乗って歌われるとても美しいコラールでした。おそらく、作曲家は意識してバッハへのオマージュを試みているのでしょうね。
歌っているニーダロス大聖堂の合唱団も、やはりうまいのかヘタなのかわからない独特の魅力を持っています。その、幾分表面がザラザラしていても、口に入れればあふれるばかりの果汁に満たされるオレンジのような豊潤さは、BAによって完璧に味わうことが出来ます。それが、SACDでは、自然のザラザラさが人工的にツルツルになってしまったように聴こえてしまいます。
そんなオーディオ的な魅力、たとえば、イエスが十字架にかけられる時には、打楽器奏者が実際にハンマーで釘を打ちつけている音が聴こえますが、そのリアルさがきっちり味わえるのはやはりBAです。

SACD and BA Artwork © Lindberg Lyd AS

4月16日

BACH
Markus-Passion
Veronika Winter(Sop), Anne Bierwirth(Alt)
Achim Kleinlein(Ten), Albrecht Pöhl, Michael Jäckel(Bas)
Jörg Breiding/
Knabenchor Hannover
Hannoversche Hofkapelle
RONDEAU/ROP7015/16


NMLを検索していたら、たまたまこんなCDを見つけてしまいました。バッハの「マルコ受難曲」です。ジャケットの画像を見ると、「Reconstruction Simon Heighes」とありますから、以前こちらの中で紹介していたグッドマン盤以来の、「サイモン・ヘイズ版」が登場したということなのでしょう。ただ、今のところ販売の案内が見当たらないので、もしかしたら国内ではすぐには購入できないものなのかもしれません。代理店が怠慢だと、こんなことがよく起こります。あてに出来ないものを待つよりもと、こちらで全部聴いてしまいました。これで、顧客を1人逃したことになりますね。
ご存知のように、バッハがライプツィヒでのカントル在職中に作った受難曲は、全部で5曲あると考えられていますが、楽譜が現存しているのは「マタイ」と「ヨハネ」の2曲しかありません。残りは楽譜がなくなってしまったという、何とももったいない話なのですよ。「マルコ」の場合は、確かに1731年3月23日の聖金曜日に演奏されたという記録はあり、「マタイ」などでアリアの歌詞を作ったピカンダーによるテキストも残っています。さらに、他の作品から(へ)の転用が行われていた、という研究もあり、それをもとにして曲を修復することも可能です。ヘイズ版では、カンタータ198番から、最初と最後の合唱と、3曲のアリアを転用、その他にカンタータ54番のアリアと「ヨハネ」の第2稿で新たに挿入されたソプラノのコラールが入ったバスのアリアなどがやはり転用されています。
そして、こればっかりはオリジナルなので他のバッハの作品からの転用は難しい福音書のテキストによるレシタティーヴォ・セッコや群衆の合唱は、先ほどのラインハルト・カイザーの作品から転用している、とされています。ただ、この点に関しては大筋ではそういうことなのですが、実際に比較してみると同じものも有るし、違っているところもかなりあります。そもそも、カイザーでは物語のスタート地点が同じ福音書でもバッハより後の部分からなので、それより前の部分は別に用意しなければいけません。それと、やはりカイザーの作風はいくらなんでもバッハの代用にするにはあまりにも違い過ぎる、という部分が、特に合唱では多く見られますから、そこも別なものを持ってこなければいけません。そんなわけで、ヘイズの仕事はかなり大変なものだったことが分かります。ですから、あくまで一つの可能性として作られたもので、決して実存していなかった架空のバッハ作品ではありますが、これはこれでかなり「バッハらしい」受難曲には仕上がっているのですね。この修復が完成したのは1995年ですが、翌年にはさっきのグッドマンによって、初めて録音も行われましたし。
しかし、バッハの本場ドイツでは、「転用」や「修正」によって出来上がったこの楽譜は「ばっからしい」と無視されてしまったのかどうかは分かりませんが、今までこの修復稿を取り上げる人はだれもいませんでした。それが、なぜか去年の聖金曜日の周辺に演奏されることになりました。その模様は、NDR(北ドイツ放送)でもラジオで生中継されるほどの盛り上がりよう、いったい何があったというのでしょう。それはともかく、それに先立って録音されたのがこのCDです。
歌っているのはハノーファー少年合唱団です。「少年」とは言ってもそれはトレブル・パートだけで、男声パートは青少年が担当していますし、一部の人はレシタティーヴォの中のソロまで歌っていますから、かなりの高水準の合唱団です。多少不安定なところもありますが、コラールなどはとても美しく響いてきます。ソリストは、極力ソフトな歌い方の人たちが集められているようで、エヴァンゲリストやイエスはとことんユルめ、そんな中で、アルトのビーアヴィルトのまるで少年のような声は、合唱との見事なマッチングを見せています。
しかし、ジャケットのイエスの胸のエロいこと。

CD Artwork © Rondeau Production

4月14日

BIRTWISTLE
The Moth Requiem
Roderick Williams(Bar)
Nicholas Kok/
BBC Singers
The Nash Ensemble
SIGNUM/SIGCD 368


1934年生まれのイギリス作曲界の重鎮、ハリソン・バートウィッスルの合唱曲集です。タイトルの「モス・レクイエム」に反応して、つい買ってしまいました。「モス」というのはハンバーガーではなく「蛾」のことです。ジャケットにも、明かりに群がる蛾の群れが描かれていますから、これは間違いなく「蛾のレクイエム」ということなのでしょう。いったいどんな曲なのか、聴きたくなりませんか?
バートウィッスルという人は、「現代音楽の作曲家」によくある、時流に乗って自分の信念を曲げてしまうような軟弱な精神の持ち主ではないようです。このアルバムに収められている、全てこれが初録音となる作品を聴いてみると、その中にはもはや「現代音楽」の世界ではほとんど顧みられなくなってしまったいにしえの技法が、逞しく生き残っている様を見ることが出来るはずです。それは、難解さゆえに聴衆が離れていってしまった「無調」をベースとする技法です。はっきり言って「時代遅れ」の技法ですが、それこそ「予定調和」の世界にどっぷりつかっているこの時代にあっては、逆に新鮮なインパクトが与えられるものになっています。
2003年に作られた「The Ring Dance of the Nazarene」という、ナザレ人(キリスト)と群衆の対話という形で進行する曲は、「ダルブカ」というアラブ系の太鼓がのべつ打ち鳴らされる中で、木管アンサンブルがいかにもなセリエルのフレーズを演奏するというバックが整えられています。そこでバリトン・ソロと合唱はあくまで無調という枠の中でドラマティックな物語を完成させています。ダルブカとの絡みでリズミックな要素もふんだんに盛り込まれていて、退屈することはありません。
この中で最も初期の作品は1965年に作られた「Carmen Paschale」という無伴奏の短いピースです。もちろん無調ですが、ちょっとメシアンのようなテイストもある美しい曲に仕上がっています。途中で鳥の鳴き声のようなものが聴こえてきますが、これは合唱ではなくフルートで演奏されたものでした。テキストの中の「ナイチンゲール」に呼応して、楽譜には「鳥のように自由に」という作曲家の指示で、オルガンのパートが入っているのだそうです。ただ、これは本当はフルートを使いたかったらしく、それがこの録音では実現されたことになります。確かに、ここはオルガンの無機的な音では、合唱との対比があまり感じられないでしょうね。ここでフルートを吹いている、ナッシュ・アンサンブルのメンバーのフィリッパ・デイヴィースは、見事にこの場面にふさわしい異物感を表現しています。
このフルーティストは、例の「蛾のレクイエム」でも大活躍です。この作品は、2012年に出来たばかりの最新作(初演はラインベルト・デ・レーウ指揮のオランダ室内合唱団)、ロビン・ブレイザーの「The Moth Poem」からテキストが使われています、この詩はなんでも、夜中にピアノの中に飛び込んできた蛾が発する音からインスパイアされて作られたのだそうです。そんなサウンドを表現するために、ここでは女声合唱の伴奏として、アルト・フルートと3台のハープが使われています。曲の冒頭でハープの弦が軋むような音を立てるのが、蛾がピアノ線に当たる音なのでしょう。デイヴィースのアルト・フルートは、この楽器ならではの深みのある音色と、超絶技巧で音楽をリードしていきます。
様々な種類の蛾の学名がランダムに挿入された象徴的なテキストに付けられた合唱パートの音楽は、まさに無調のオンパレードですが、それを歌っているBBCシンガーズは、他の曲ともども、いかにも居心地の悪そうな演奏に終始しているように感じられます。おそらく、心から共感できない部分がそのまま表れてしまっているのでしょうが、そんなものを聴かせられるのはとても辛いものです。

CD Artwork © Signum Records Ltd

4月12日

James Rutherford sings Wagner
James Rutherford(Bar)
Andrew Litton/
Bergen Philharmonic Orchestra
BIS/SACD-2080(hybrid SACD)


The Office」でおなじみのイギリスのコメディアン、リッキー・ジャーヴェイスによく似た、なんともダサいデニムパンツのこのおじさんは、当年とって41歳のイギリスの新進ワーグナー歌手、ジェームズ・ラザフォードです。2010年には、例のカタリーナ・ワーグナーのスキャンダラスな演出で話題になった「マイスタージンガー」でのハンス・ザックスでバイロイト・デビューを果たし、次々にワーグナーのロールをものにしているバリトンが、昨年の今頃、まだオペラハウスでは実際に歌っていないものも含めて、ワーグナーのナンバーばかりを集めて録音したのが、このSACDです。
ラザフォードは、学生時代には女の先生から「ヘルデンテノールになったらお金持ちになれるわよ」とからかわれていたそうですが、とてもそんな声ではないと思っていたそうなのです。それが今では、ヘルデンでこそありませんが、押しも押されもせぬ立派なワーグナー歌手になったのですから、その先生はただからかっていただけではなかったのでしょうね。
バックのオーケストラが、リットン指揮のベルゲン・フィルというのが、ちょっとした期待を誘います。もしかしたら、かなり毛色の変わったワーグナーが聴けるかもしれません。確かに、最初に聴こえて来た「オランダ人」序曲は、一風変わった味を持っていました。ちょっと普通の演奏では見られないような、細かいところにまで神経が行き届いたものだったのですね。ただ、それで音楽としての情報量はかなり増えているのですが、ワーグナーの場合はもっぱらそんな些細なことよりも力技によるドライブ感の方が重要だと考える人の方が多いはずですから、これは万人から納得されるようなものではないのかもしれません。個人的にはとても気に入りましたが。
そして、その「オランダ人」の中から、タイトル・ロールによる「モノローグ」が始まります。これも、最初の声を聴いただけでこの歌手がまさに非凡なものを持っていることが瞬時に分かるような、何か特別な魅力で迫ってきます。低い音はよく響いていても、決して重苦しいものではありませんし、その中にはある種の華やかささえ感じられます。さらに、曲の様式を的確に表現する力も秀でているような気がします。このモノローグの場合、短調で重苦しく展開されていたものが最後に長調になるという分かりやすい構造があるわけですが、それは聴いているとかなり唐突に思える演奏が多い中で、ラザフォードはしっかりその必然性が理解できるような周到なやり方でその結末を仕上げています。具体的には、最後のEナチュラルの音に入る前のちょっとしたポルタメント、ワーグナーでこんなことをやるのは反則ですが、それが見事に決まっています。
「タンホイザー」の「夕星の歌」では、高音でとても繊細なソット・ヴォーチェを聴かせてくれます。これが、とろけるようにソフトな味わい、たちまち心の中にさざ波が立ちます。でも、「ローエングリン」のクルヴェナールのような悪役には、この声はちょっと合わないかもしれませんね。同じように、アンフォルタス王もちょっと軽すぎる感は否めません。ハンス・ザックスは、おそらく演出を選んでしまうかも。
そして、最後は、「『指環』全曲のヴォータンを歌うのが目標」と言っている彼の持ち味がよく出た、「ワルキューレ」の「ヴォータンの別れ」です。そのソフトさの中には、威圧的な神々の長ではない、等身大の父親の姿が感じられることでしょう。
オーケストラも、そんなキャラを支える、とことん風通しの良いバランスで迫ります。それは、粗野な金管には少し遠慮していただいて、華麗な弦楽器に頑張ってもらおうという、普通のワーグナー業界ではあり得ないまるでカラヤンみたいな「室内楽的」な姿です。でも、こういうのが、おそらくこれからは主流になって行く予感すら感じられる、それは自信に満ちたスタンスです。

SACD Artwork © BIS Records AB

4月10日

Fare la nina na
Christmas Music of the Italian Baroque
Amaryllis Dieltiens(Sop)
Capriola Di Gioia
AEOLUS/AE-10073(hybrid SACD)


タイトル通り、「クリスマス音楽」という範疇のアルバムで、去年の11月にはリリースされていたものが、日本に入って来たのは春のお彼岸も過ぎた頃になってしまいました。まあ、クリスマスなんて毎年必ずやってくるものですから、今年のクリスマス・アイテムだと思えばいいのだ、などとひがんでみたくなります。
「ロ短調」「ヨハネ」で耳にしていたベルギーのソプラノ、アマリリス・ディールティエンスは、ただものではないと思っていたら、いつの間にかこんな風に自分のソロ・チームを立ち上げてブレイクしていました。すでにこのレーベルからも何枚かのアルバムをリリースしている「カプリオーラ・ディ・ジョイア」というのが、そのチームです。この「喜びの跳躍」という名前のバロック期の作品を演奏するためのユニットは、2007年にディールティエンスとオルガン、チェンバロ奏者のバート・ネセンスの二人によって創設されています。このソプラノと通奏低音が中心になって、その周りのミュージシャンを適宜加え、様々な編成のレパートリーに対応できるようになっています。こんな感じのユニットというと、少し前のイギリスの団体、「コンソート・オブ・ミュージック」を思い浮かべます。あちらもコアメンバーはエマ・カークビーとアンソニー・ルーリーというソプラノと低音(リュート)のペア、プライベートでもパートナーでしたね。こちらは、どうなのでしょう。
このアルバムのタイトルは「ニンナ・ナンナを歌いましょう」というもの、生まれたばかりの幼子イエスを寝かしつけるときの聖母マリアが歌った子守唄「ニンナ・ナンナ」にちなんだ作品が集められています。このジャケットは、まさにそんな情景を描いたものなのでしょうが、その裏側にあるディールティエンスのアー写を見ると、まさにその聖母と瓜二つ、という感じがしませんか?
以前よりふくよかになった面立ちには、慈愛深さのオーラさえ漂ってはいないでしょうか。こんな「マリア様」に抱かれて、耳元で子守唄を歌ってもらったりしたら、さぞや幸せなことでしょう。
演奏の方も、いっそう磨きがかかって来ています。こういうジャンルのソプラノでは、どうしてもさっきのカークビーとの比較になってしまうのは仕方のないことですが、ディールティエンスののびのびとしたその声には、そのピリオド唱法の先達にはない華やかさと、そしてほのかな色気までもが感じられます。さらに、低音でのちょっとすごみのあるダイナミックな歌い方などは、とても新鮮な驚きを与えてくれます。
そんな、表現力の幅の広さが端的に味わえるのが、タルキーニョ・メールラの「子守歌による宗教的カンツォネッタ『さあ、おやすみ』」でしょう。低音のリコーダーの2音だけの単調なフレーズによるワン・コードの上に展開される一種の変奏曲で、静かな部分からダイナミックな部分まで、それぞれに異なる表現が現れて、魅了されます。ここでのリコーダーはちょっと変わった使い方でしたが、他の曲では本来の細かい音符で明るい色付けを行う技巧的な役割も存分に味わえます。そのメンバーの一人は、ヘレヴェッヘの「コンチェルト・ヴォカーレ」の常連、コーエン・ディールティエンスですが、この人はアマリリスの関係者なのでしょうか。
このアルバムは録音もとても素晴らしく、まさに、SACDならではの繊細で伸びのあるサウンドで楽しませてくれます。出色は、ネセンスのチェンバロ・ソロによる、ドメニコ・フランツァローリの「祝福されたクリスマスの夜のためのパストラーレ」でしょうか。この絶妙な音色と肌触りは、決してCDレイヤーでは味わうことはできません。
卓越した録音による、今やバロック・ソプラノのトップに躍り出たディールティエンスの歌う暖かなクリスマス・ソング、やはりこれは、外の寒さを思いながら聴きたいものです。

SACD Artwork © AEOLUS

4月8日

HÄNDEL/Dixit Dominus
BACH/Magnificat
Christina Landsmer, Diana Haller(Sop)
Maarten Engeltjes(CT)
Maximilian Scmitt(Ten), Konstantin Wolff(Bar)
Peter Dijkstra/
Chor des Bayerischen Rundfunks, Concerto Köln
BR/900504


音楽監督就任から10年近く経って、もはやダイクストラは名実ともにバイエルン放送合唱団のシェフとして不動の地位を固めたようです。同時にスウェーデン放送合唱団の首席指揮者も務めるという多忙な環境にあって、ますますその活動は注目を集めるようになってくることでしょう。
彼が以前この合唱団とバッハの「マタイ」を録音(抜粋ですが)した時には、オーケストラは「同僚」のバイエルン放送交響楽団でした。しかし、2010年に録音された「クリスマス・オラトリオ」ではベルリン古楽アカデミー、そして今回の「マニフィカート」ではコンチェルト・ケルンと、このところピリオド楽器のオーケストラとの共演が続いています。もう少しすると発売になる2013年録音の新しい「マタイ」も、やはりコンチェルト・ケルンとの共演ですので、バッハに関してはこのようなスタイルに軸足を移動したのでしょうか。
このアルバムは、ライブ録音、バッハの前にヘンデルの「ディキシット・ドミヌス」が演奏されています。バンジョーは入っていません(それは「ディキシーランド」)。ヘンデルが22歳という若さで作った曲ですが、5人のソリストと5声部の合唱という、これはカップリングのバッハの「マニフィカート」と全く一緒の声楽の編成となっています。同じコンサートで演奏するには、都合がいいでしょうね。もっとも、オーケストラの方はヘンデルは弦楽器と通奏低音だけですが、バッハでは管楽器やティンパニまで入ったきらびやかなものになっています。
編成こそ地味ですが、ヘンデルの作品は1曲目の合唱「Dixit Dominus Domine meo」から、いきなりキャッチーな華やかさで迫ってきます。パッセージが華やかなのと、コード進行が現代のポップスでもそのまま使われているような親しみのあるクリシェだというところがポイントになっています。この辺の、おそらくイタリアあたりに由来する(ヴィヴァルディなどは、こればっかりです)ハーモニー感が、ヘンデルの一つのキャラクターなのかもしれませんね。
そういう明るいキャラの音楽を、この合唱団はとても真面目に歌っています。一音一音をしっかりとていねいに歌いあげるという姿勢を、彼らはどんな時にも貫いているのでしょう。それでも、ヘンデルのもつ軽いテイストが損なわれることがないというあたりが、おそらくダイクストラの資質なのかもしれませんね。
6曲目の「Dominus a dextris tuis」では、続く「Judicabit」と「Conquassabit」が同じトラックにまとめられていて、まるでオペラのようなドラマティックな音楽を展開しています。
最後の「Gloria Patri et Filio, et Spiritui Sancto」では、フーガさえも単なる音の羅列ではないしっかりとした「意味」が感じられるものになっていました。ヘンデルのスピリッツが堅実な中にも見事に現れています。
ところが、後半のバッハになったとたん、そのような生き生きとした軽やかさが全くなくなってしまいます。何よりもダイクストラのとったテンポがあまりにも鈍重、そこでトランペットやティンパニが華やかに盛り上げても、合唱がやたら重苦しく歌っていて、なんとも気が晴れません。この合唱団の真面目さが、バッハになるとこういう形で表れてしまうとは。ただ、この重苦しさは合唱が出てくるところだけ、ソリストたちのアリアや重唱はバックのコンチェルト・ケルンの軽妙さもあって、別物の楽しさを与えてくれています。バスのアリア「Quia fecit mihi magna」の楽譜には通奏低音の伴奏しか書かれていませんが、それをアドリブで埋め尽くしているオルガンのセンスなどはたまりません。ダイクストラと同じオランダ出身のカウンター・テナー、マールテン・エンヘルチェスが歌う「Esurientes」も絶品でした。
録音は、ほとんどCDであることを感じないほどの、伸びのある音を聴かせてくれるものでした。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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