フランス?ブラは変。.... 佐久間學

(14/6/7-14/6/25)

Blog Version


6月25日

POULENC
Stabat Mater, Sept Répons des Ténèbres
Carolyn Sampson(Sop)
Daniel Reuss/
Capella Amsterdam
Estonian Philharmonic Chamber Choir
Estonian National Symphony Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMC 902149


ダニエル・ロイスと、カペラ・アムステルダム+エストニア・フィルハーモニック室内合唱団という、現在間違いなく最高位にランクされるはずの「ドリーム・チーム」が、プーランクを録音してくれました。一応メインの扱いになっているのが「スターバト・マーテル」ですが、その前に「テネブレの7つの応唱」が演奏されています。いずれも、キリストの死をテーマにしたテキストによる、ソロ、合唱、そしてオーケストラという大きな編成の作品です。
「テネブレの7つの応唱」は、餃子屋さんからではなく(それは「王将」)、レナード・バーンスタインからの委嘱を受けて作曲されました。それは、彼が音楽監督を務めるニューヨーク・フィルの本拠地となる、リンカーン・センターのコンサートホールのオープニング記念演奏会のための委嘱だったのです。実際に初演が行われたのは1963年4月のこと(指揮をしたのはバーンスタインではなく、トーマス・シッパーズ)、プーランクはその少し前にこの世を去っていました。つまり、これはプーランクが作った最後の合唱曲ということになります。
その半年後、ジョルジュ・プレートルの指揮によってパリでヨーロッパ初演が行われるのですが、同じ指揮者によってEMIに初めて録音されたのは、それから20年を経た1983年のことでした。しかし、どうやらこの作品は録音に恵まれない星の元に生まれたようで、そのあとはこちらのハリー・クリストファーズとザ・シックスティーンの1994年の録音まで待たなければいけませんでした。そして、おそらくそれに次いでの録音が、さらに20年近く経った2012年のこのCDということになるのではないでしょうか。
オリジナルの編成は、トレブル・パートは少年合唱が歌うように指定されています。さらに、ソロもボーイ・ソプラノが担当することになっています。あくまで、少年ならではの無垢な声を、プーランクは欲していたのでしょう。ですから、プレートル盤ではそのようなメンバーによって演奏されていました。ところが、この録音を聴くと、その少年合唱があまりにひどいのですね。それは、初演に立ち会えなかった作曲家がもしこれを聴いていたら、さぞやがっかりするだろうな、というほどのひどさです。そのせいかどうかはわかりませんが、次のクリストファーズ盤では普通の混声合唱で歌われています。もちろんこの団体ですから、女声パートはあくまでピュアな歌い方に徹していて、作品の求めるものにきっちりと即していたはずです。この時のソリストも合唱団のメンバーのソプラノで、まるで少年のような雰囲気の声を持った人でした。
そして、今回ももちろん合唱は大人の混声合唱です。おそらく、この曲ではコンサートでも普通の混声合唱が歌うことの方が多くなっているのではないでしょうか。そういうスキルを持った団体が増えてくれば、もはやいい加減な少年合唱の出番はなくなってきます。もちろん、「ウィーン楽友協会合唱団」のような雑な合唱団の出番も。
クリストファーズ盤では25人ほどのメンバーだったものが、今回はその倍に増えています。その分、いくらか表現のキレが鈍くなった感はありますが、それを補って余りある質感、それもいぶし銀のような重厚な肌触りと、オーケストラの渋い音色とによって、作品のメッセージはより的確に伝わってきます。まるで無調のような厳しさを持つこの作品の中で、唯一明るめな2曲目「Judas mercator pessimus」で、最後にア・カペラで「Melius illi erat, si natus non fuisset(彼にとっては、むしろ生まれない方が良かったであろうに)」と突き放されるシーンなどは、まさに絶品です。
ただ、ソリストのサンプソンは、ちょっと誤算でした。彼女は、もっとノーマルなプーランクらしさが漂う「スターバト・マーテル」でさえ、この合唱団の中ではちょっと浮いて聴こえてしまいます。

CD Artwork © harmonia mundi s.a.

6月23日

The Singles 1969-1973
Carpenters
UNIVERSAL/UIGY-9542(single layer SACD)


今ごろ気づいたのですが、「カーペンターズ」って、名前に「ザ」が付かないんですね。「ザ・ビートルズ」みたいに、あの頃の最後が「ズ」で終わるバンドは、必ず頭に「ザ」が付いていましたからね(「ザ・リガニーズ」とか)。もしかしたら、そんな画一的な名前を避けて、ロック・バンドとは差別化を図ったというような戦略があったのかもしれませんね。確かにこのバンドのサウンドは当時としては画期的、その親しみやすさが人気を呼んで、日本では「一家に一枚カーペンターズ」という時代がやってきます。本当ですよ。誇張ではなく、どんなご家庭にも彼らのレコードがあったという、今ではとても考えられない現象が起きていたのですよ。そういえば、AKB48のレコード(つまりCD)を実際に持っているという人に、いまだかつて会ったことはありません。
そんな、ノスタルジーのかなたにあったはずのバンドのアルバムが、なんとユニバーサルが誇るシングル・レイヤーSACDで発売されました。価格はクラシックのアイテムと同じ税込4500円(3月末のリリースでしたから。今では4629円になってしまいました)ですから、別に高いとも思いませんが、こちらにはさらにいろいろ「小物」がおまけに付いているそうなので、迷わずお買い上げです。
ただ、クラシックの時もそうでしたが、このパッケージもなにか根本的な間違いを犯しているような気がしてなりません。本体はオリジナルのダブルジャケットのミニチュアなのですが、悲しいかな、このサイズではそれがきちんと畳み込むことが出来なくて、中途半端に開いた状態にしかなりません。それをボックスにしまうと、この不思議な構造の箱の蓋は全然力がないので、絶対に閉まることはないのですよ(蓋の裏にSACDを収納する必要なんてないのに)。
なんでも、このSACDには、リチャード・カーペンター自らがマスタリングに携わった2014年の最新DSDマスターが使われているというのですね。それはすごいこと、もしかしたらLPをしのぐほどの音が聴けるかもしれませんよ。一応、当時、1973年に買った、国内編集のLP2枚組のベスト盤がまだそんなにコンディションも悪くなっていないで手元にありましたから、比較にはことかきません。
ただ、こちらのアメリカ編集のベスト盤は、まだ実際に聴いたことはありませんでしたから、1曲目の「We've Only Just Begun」で聴きなれたシングル・バージョンとは全然違うものが聴こえてきたのには、戸惑ってしまいました。「ベスト盤」としてのイントロという意味で、いきなり「Close To You」のオープニングから始まって、「Superstar」の断片なども交えた後に、初めて本来の曲が始まっていたのですね。その、最初に挿入された部分は、楽器のバランスも、カレンのヴォーカルも全然別物ですから、おそらく編集した時に新たにレコーディングされたものなのかれん。「Close To You」の本体は1970年の録音ですが、この部分の音はたった3年で全然クオリティが違うようになっていました。ただ、それにしては1973年録音の「Yesterday Once More」がえらく音が悪いので、ちょっと訳が分からなくなってしまいます。ストリングスの音などは、「Close To You」の方がずっと繊細です。
ということで、その「Close To You」を、1973年のLP1985年にA&Mでマスタリングが行われたCD2枚組のベスト・アルバム、そして今回のSACDとを比較してみました。LPだけは、最後のコーラスが終わった後、また繰り返すというバージョン、CDSACDは普通にフェイド・アウトするバージョンです。
これはもう、ヴォーカルの立体感も、ストリングスの瑞々しさも、LPにはかないません。ヴォーカルだけだったら、SACDよりもCDの方が密度が高く聴こえるかもしれません。SACDは、確かに解像度は高く感じられるものの、音に厚みと暖かみが全く欠けています。これはおそらく、マスターテープそのものの劣化が進んだためなのではないでしょうか。いずれにしても、このSACDの音は全くの期待はずれでした。

SACD Artwork © A&M Records

6月21日

HATZIS
Flute Concertos
Patrick Gallois(Fl)
Alexandre Myrat/
Thessaloniki State Symphony Orchestra
NAXOS/8.573091


カナダの作曲家、クリストス・ハツィスのフルート協奏曲が2曲収められたアルバムです。フルートを演奏しているのは、このレーベルでお馴染みのパトリック・ガロワ。この、1953年生まれのハツィスという作曲家の名前は全く聞いたことがありません。こんなフルートがメインのCDが出なければ一生聴くことのなかった作曲家だったのかもしれませんね。これこそまさに「出会い」というものです。
ガロワとハツィスも、やはり「出会い」があったからこそ、このCDが生まれることになったのでしょう。その様子がライナーノーツ(英文)で語られています。それは2000年のこと、当時トロントに住んでいたガロワが、トロント大学のハツィスのオフィスのドアをトロントンとノックして、「なにか、フルートのために作曲したものはありませんか?」と聞いたことから、その関係が始まったのだそうです。そこでハツィスは、1993年に作ったものの、誰にも演奏されずずっと無視されていた「Overscript」の初演を、翌年ガロワに行ってもらえることになったということです。
実は、このCDはもう一つの「出会い」にも支えられて出来上がりました。それは、ここでの指揮者アレクサンドル・ミラ。彼はガロワとはパリでの学生時代からのお友達、さらに、ハツィスの作品のよき理解者として、多くの作品を世界中で演奏しているのでした。ここにめでたく「愛の三角関係」?が成立、ミラが芸術監督を務めるギリシャのオーケストラとガロワによって、2つのフルート協奏曲が世界で初めて録音されることになったのです。
2011年に作られた「Departures」は、タイトルが示すように作曲家の個人的な知己との「別れ」がモティーフになっているとともに、その年に勃発した「フクシマのツナミ」にもインスパイアされているのだそうです。古典的な協奏曲のような動きの激しい両端の楽章と、穏やかな真ん中の楽章を持つ3楽章形式が取られています。第1楽章は「Blooming Fields」というタイトルが付けられていますが、これは、ジョージ・ブルームフィールドさんという亡くなった友人にちなんだもの。別に「花咲き乱れる丘」のような意味はないのでしょう。これはもろ中国風の5音階の世界。聴いていて恥ずかしくなるような音楽です。第2楽章は「Serenity」。105歳で亡くなった「霊感豊かな女性」にささげられているということですが、そのまんまの「癒される」曲調です。そして、第3楽章が「フクシマのツナミ」ということになります。「フクシマ」だけに限定したということで、これは容易に原発事故に結びつきますが、そのタイトルが「Progress Blues」という、何か深い意味が感じられるものです。作曲者によると、「Progress=進歩」とは、そのような事故を引き起こした「科学技術の進歩」のこと、それに対する「憂い」が「ブルース」なのでしょうか。とは言っても、音楽自体は日本の篠笛あたりを思い起こさせるようなフルートの特殊奏法が、もろ「ブルース」風のリズムの中で披露されるのが、ちょっと薄っぺらな感じです。最後の最後に、まさに「津波」を描写したかのようなドラマティックな音楽で恐怖を誘おうというのも、あまりに安直。
ガロワによって日の目を見ることになった「Overscript」は、「上書き」とでも言ったような意味合いでしょうか。ということはその前の「下書き」があるはずですが、それがバッハの、ヘ短調のチェンバロ協奏曲BWV1056の元の形と考えられているト短調のヴァイオリン協奏曲BWV1056/Iです。これは、早い話がこちらと全く同じコンセプトによる「リコンポーズ」の世界、バッハの元ネタを切り刻んで貼りあわせれば、それが新しい音楽になりうるという愚かな勘違いの産物以外の何物でもありません。
ここでのガロワは、全く報われないもののために、その名人芸を奉仕しているように思えてなりません。「出会い」は、必ずしも幸福な結果を招くものとは限らないのです。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

6月19日

BACH
Concertos for Two Harpsichords
鈴木雅明、鈴木優人(Cem)
Bach Collegium Japan
BIS/SACD-2051(hybrid SACD)


バッハの教会カンタータの全曲録音も完成させ、乗りに乗っている鈴木雅明とバッハ・コレギウム・バッハは、最近は雅明さんの息子さんである優人(まさと)さんも交えて、さらなる次元での躍進を模索しているようですね。優人さん自身も、オルガン・チェンバロ奏者としてだけではなく、2013年には横浜シンフォニエッタの常任指揮者(音楽監督は山田和樹)に就任されるなど、指揮者としても本格的に活動を始められているようですから、着々と「2代目」への足固めに余念がないのでは。
と、こうやって漢字で書けば、このお二人はきちんと区別できますが、英語表記では「Masaaki」に「Masato」ですから、ちょっと紛らわしくなってしまいます。現に、この中の1曲での楽器の分担が、このSACDのライナーと代理店が流した情報による多くのネット上のインフォとでは食い違っています。あくまでライナーのクレジットに従えば、ここでは収録された4つの作品で2人のチェンバリストは、用意された2台のチェンバロをそれぞれ1番のパートと2番のパートで演奏するという、完全に「公平」な分担を行っているのです。
その2台のフレミッシュ・チェンバロ(のコピー)は、それぞれ個性的な音を持っています。これは、あくまで1番が左側、2番が右側から聴こえてくるという前提での話ですが、ルッカース一族の3代目、ヨハネス・クーシェの楽器は明るく繊細な音色、ルッカースの鍵盤を拡張した楽器は深みを帯びた音色を持っています(あくまで「個人的な感想」です)。
1曲目は、BWV1062のハ短調の協奏曲です。これは、有名なニ短調の2つのヴァイオリンのための協奏曲BWV1043を2つのチェンバロのための協奏曲に編曲したものです。聴きなれた単旋律のヴァイオリンのバージョンに比べると、同じ短調でもなんだかヒラヒラとした華やかさが加わっているような気がしませんか?例えばゆっくりとした第2楽章で、2人のソリストの掛け合いを聴いていると、やはりそれぞれに微妙な味わいの違いがあることに気づきます。雅明さんはまさに円熟の極みといった堂々とした押し出し、対して優人さんは、若者ならではの独特のビート感で、時折ハッとさせられるような時間を作ってくれたりしています。
2曲目のハ長調の協奏曲BWV1061は、最初から2台のチェンバロのために作られたもののようですね。圧巻は最後の楽章のフーガです。最初にソリストがたった一人でフーガを演奏、それがしばらく続いたときに、さらにもう一人が別のフーガを加えてきて、もういったい何声部あるのかわからなくなるほどの複雑な世界が出来上がったところに、今度はヴァイオリンなどが乱入してくるという、まるでジャズのセッションのようなエキサイティングなバトルが繰り広げられます。ここでも鈴木親子は、まるでお互いのフレーズを見極めた上で、さらに自分らしいフレーズを重ねようとしているように聴こえます。
3曲目は、「序曲(いわゆる管弦楽組曲)第1番」として知られているBWV1066の組曲を、優人さんが2台のチェンバロのために編曲したものです。これこそが、このアルバムの白眉、豊かに装飾を施されたチェンバロによって、音楽は見事にフランス風のギャラントな姿を現し、オリジナルのオーケストラ版からは味わうことのできない自発的な音楽を堪能できます(編曲のギャラはいくら?)。メヌエットなどのかわいらしい曲の時にはそれがさらにくっきりと聴こえてきます。
そして、最後は元のオーボエとヴァイオリンのための協奏曲として復元されて演奏されることの多い、BWV1060の協奏曲です。これも聴きものは第2楽章、本来は異なる楽器の掛け合いを、いかにチェンバロだけで違いを出そうとしているかを堪能してみましょう。もしかしたら、スピーカーで聴くよりも、高性能のヘッドフォンで聴いた方が、より定位や細かいニュアンスが感じられるのではないでしょうか。

SACD Artwork © BIS Records AB

6月17日

BACH
Six Trio Sonatas
Tempesta di Mare Chamber Players
CHANDOS/CHAN 0803


バッハの「6つのトリオ・ソナタ(BWV525-530)」は、1720年代の後半に、長男のヴィルヘルム・フリーデマンのための練習曲として作られたものです。これだけではなく、バッハは惜しみもなく息子の教育のために「教材」を提供し、彼を一流の音楽家に育てあげるのですが、フリーデマンはやがてこのプレッシャーに耐えきれず、破綻してしまいます。まあ、よくあることです。
この、名前の通りオルガンやペダル・チェンバロのような3声の楽器のために作られた「トリオ・ソナタ」は、もちろん両手で2声のメロディ、そして足鍵盤でバス声部を演奏するものですが、この形態はバロック時代の代表的な合奏のスタイルでした。つまり、通奏低音の上に2つのメロディ楽器が加わってアンサンブルを行う、という形ですね。ですから、この「6つのトリオ・ソナタ」は、元はそのような合奏曲だったものを、オルガン用に作り直したものなのでしょう。ただ、そのオリジナルの形は部分的にしか残っていないので、現在ではそれを様々な楽譜に割り振って演奏することが広く行われています。あるいは、メロディのうちの一つはチェンバロの右手で弾いて、もう一つの声部をソロ楽器が演奏するという「ソロ・ピース」としても、多くの楽譜が用意されています。
今回のCDでも、そんなアンサンブルに「復元」したものが演奏されています。2002年に、フルートのグウィン・ロバーツとリュートのリチャード・ストーンがフィラデルフィアで創設した「海の嵐」という、ヴィヴァルディの作品のタイトルを名前にした団体は、この6曲を演奏するにあたって、ヴァイオリン、フルート、リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ、チェンバロという、メンバー全員が万遍なく演奏に参加できるようにしています。その結果、この曲集はそれぞれにヴァラエティに富んだ個性を持つことになりました。そんな編曲を試みたのは、リュートのストーンです。
この6曲は、全て急−緩−急という、イタリア風の協奏曲の3楽章形式をとっています。これは、いわばエンタテインメントにもつながる形式なのではないでしょうか。そう言えば、どの曲も、心なしかバッハにしては親しみやすいテーマが現れて和みます。なんたって、BWV525のテーマは「ドミソ・ドファラ」という分かりやすさですから。
そのBWV525ではアルト・リコーダーとヴァイオリンが上の2つのパートを担当するという、スタンダードな編曲プランがとられていて、異なる発音体によるメロディ楽器の対話が存分に楽しめます。ここでは真ん中のゆっくりとした楽章での、シンプルなメロディ・ラインをお互いの楽器がどれだけ飾り立てるかという「バトル」が聴きものでしょう。
そんな「まっとう」な編曲の後に、このバンドならではの面白い楽器の組み合わせが続きます。BWV526では、2本のヴァイオリンと、チェロとリュートによる低音という、ちょっと平べったい編成で演奏されています。「対比」よりは「融合」を目指すというコンセプトなのでしょうか。ただ、この低音があまりにもユル過ぎるのが気になります。それは、カリーナ・シュミッツのチェロの、ちょっと歌い過ぎてリズムが甘くなってしまうという「クセ」のせいなのかもしれません。彼女は、次のBWV527で担当しているガンバ(しかも、ここではトラヴェルソとともにメロディ楽器)で頑張る方が性に合っているのではないでしょうか。
最もぶっ飛んだ編曲プランは、最後のBWV530で披露されます。クレジットではD管のソプラニーノ・リコーダーと2本のヴァイオリンがメロディ楽器となっているので、どのようにパートを割り振るのかと思っていたら、ソリスティックでとても目立つ部分だけをソプラニーノ・リコーダーに吹かせて、まるで協奏曲のように華やかな曲に仕上げていましたよ。これはすごいアイディア、なかなか楽しめます。

CD Artwork © Chandos Records Ltd

6月15日

BERNSTEIN
West Side Story
Alexandra Silber(Maria)
Cheyenne Jackson(Tony)
Micheal Tilson Thomas/
San Francisco Symphony
SFS/821936-0059-2(hybrid SACD)


レナード・バーンスタインとは縁のあったマイケル・ティルソン・トーマスが、サンフランシスコ交響楽団を率いてコンサート形式でそのバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」を上演しました。そのライブ録音が、SACDでリリースされたのですが、それが2枚組、しかも「コンプリート・ブロードウェイ・スコア版/世界初録音」などという日本の代理店のコピーが踊ってたりすれば、もう買わないわけにはいきません。でも、今頃「世界初録音」なんてありえませんが。
案の定、この、厚さが2センチもある貴重な写真が満載の豪華なパッケージには、どこを探してもそんなことは書いてありませんでした。こんなコピー、いったい、どこからでっち上げたのでしょう。
その「コンプリート・ブロードウェイ・スコア」なるものをMMTが抱えている写真もここには載っていますが、それは見慣れたBoosey & Hawks版、確か1994年に出版されたものです。それは、そもそもバーンスタイン自身が1984年に初めてこの「自作」を録音した時に用意した楽譜を元に校訂されたもののはず、ですから、そのバーンスタインの録音こそが、「世界初録音」になるのではないでしょうかね。確かに、バーンスタインはスコアにある曲のうちの場面転換の音楽などをカットしていますから「コンプリート」ではないのかもしれませんが、今回のMMT盤でも、そこはやはりカットされているのですよ。
さらに、このスコアは「ブロードウェイ・スコア」と言うだけあって(いや、スコアそのものにはそんな表記はどこにもありません)、実際にミュージカルのピットでの演奏を想定しての楽器編成になっています。楽譜にある編成は、こんな感じ。
このオケにはヴィオラがないんですね。弦楽器はヴァイオリンが7人、チェロが4人、コントラバスが1人だけ、さらに木管楽器はマルチリードで、「リードIII」などは一人で8種類の楽器を持ち替えなければいけません。でも、クラシックのオーケストラでこんなことが出来る人なんかいませんから、こんな編成表を忠実に守ることなんて出来るわけがありません。5人で済むはずのところがここでは11人に増えています。弦楽器も、それぞれ倍以上に増員しています。ですから、この演奏は「コンプリート」でも「ブロードウェイ」でも、ましてや決して「世界初録音」でもないのですね。いくらCDが売れないと言っても、こんな「不当表示」の山盛りは、自分の首を絞めるだけだという大事なことに、代理店は気づかないのでしょうか。
写真を見ると、サンフランシスコ響の本拠地のデイヴィス・シンフォニー・ホールのステージは、後方が一段高くなっていて、そこでソリストたちが演技をしながら歌っています。もちろん「ミュージカル」ですから、みんなハンズフリーのワイヤレス・マイクを付けています。SACDにはスコア通りに、ナンバーの中で語られるセリフしか入っていませんが、もしかしたら普通のセリフの部分の演技もあったのかもしれませんね。
キャストの中では、トニー役のシャイアン・ジャクソンが、伸びのある声でなかなか魅力的。「グリー」で、ボーカル・アドレナリンのコーチ役だったということですが、全く記憶にありません。マリア役のアレクサンドラ・シルバーは、ミュージカルのキャリアはまだ駆け出しのようで、まだまだこれから、という気がします。「アメリカ」のアンサンブルでコンスエロのパートを歌っていたLouise Marie Cornillezという人が、ミュージカルにはもったいないようないい声だったので経歴を見てみたら、オペラで活躍している人でした。
客席には映画版でアニタ役を演じたリタ・モレノなども座っていたようですから、さぞや盛り上がったことでしょう。ただ、「プロローグ」からして、なんともかったるいリズム感で、とてもミュージカルを聴いている気はしませんでした。さっきの「アメリカ」などは、リズム的には最悪。

SACD Artwork © San Francisco Symphony

6月13日

MAHLER
>Titan< Eine Tondichtung in Symphonieform
Thomas Hengelbrock/
NDR Sinfonieorchester
SONY/88843050542


マーラーの、後に「交響曲第1番」と呼ばれることになる作品は、1889年にブダペストで初演された後、1893年に大幅に改訂されてハンブルクで再演されました。これが「ハンブルク稿」と呼ばれるものです。その録音は、以前こちらでデ・フリエントによる演奏によって聴いていました。その時のタイトルが「交響曲の形式による音詩『巨人』」というものであることが、今回のヘンゲルブロックのCDのジャケットに使われているこの稿による演奏会のポスターによって分かります。
初演の時に使われた1889年稿はもう失われてしまっているのだそうですが、1893年稿はその自筆稿のコピーが出回っていて、なんとIMSLPでも公開されています(低解像度のファックスで送信されたような、ひどい画像ですが)。デ・フリエントが使っていたのも、この自筆稿のコピーです。ジャケットに楽譜が写っていますが、これはそのコピーの154ページと155ページ(第5楽章「9」付近)ですからね。
そんなわけで、この稿はまだ印刷楽譜は出版されてはいなかったのですが、このたび国際マーラー協会で編纂されている全集版の一環として出版されることになったのだそうです。ただ、UNVERSALのサイトで見る限り、実際に楽譜の現物が発売になったという状態ではないようですね。これは、以前「交響曲第2番」のキャプラン版でもあったケースで、「出版された」と発表されてから数年たってやっと商品が世の中に出るという、不思議な現象です。あの時にもキャプラン版の「出版」にあたっては、かなり早い時期に「世界初演コンサート」というものが行われていましたが、今回もついこの間、5月9日にハンブルクのライスハレというところで、「世界初演コンサート」が開催されています。このCDは、それに先立って、同じメンバーによって2013年の5月と、2014年の1月に録音されたものです。つまり、このコンサートの時にはすでにCDは出来上がっていたことになりますから、会場では即売が行われたのか、あるいは、入場者には全員にこのCDが配られたのかもしれませんね(チケット代は、CD込みだったりして)。
そのように鳴り物入りで発表された新全集としての1893年稿ですが、どうやらその内容は自筆稿とはかなり異なったものになっているようです。楽譜そのものはまだ入手できないのですが、とりあえずUNIVERSALのリストによれば、木管は4-4-4-3、金管は7-4-3-1と、自筆稿の3-3-3-3/4-4-3-1よりも増えています。これは現行版(4-4-4-3/7-5-4-1)とほぼ同じ編成です(ただ、ここでは「in 4 movements」などという記載がありますから、このデータを全面的に信用するのはちょっとはばかられます)。さらに、自筆稿による演奏を行っているデ・フリエント盤とは、聴いてはっきり分かる違いもあります。そのあたりを、現行版との違いなどとともにまとめてみましょうか。
◇第1楽章
スコアの1ページ目から、現行版との違いがゴロゴロしています。弦楽器のフラジオレットに乗って出てくる「ラ−ミ」というモティーフの楽器が違っていますし、現行版ではクラリネットとバスクラリネットで奏される軍隊ラッパの模倣は、1893年稿ではホルンで演奏されていました。この部分は自筆稿も全集版も違いはありません。

↑現行版

1893年稿(自筆稿)

◇第2楽章
「花の章」と呼ばれているこの楽章は、現行版では丸ごとカットされています。

◇第3楽章(現行版の第2楽章)
1893年稿の自筆稿にはあった、冒頭のティンパニは、全集版ではなくなっています。そして、この形が現行版にも継承されています。

↑現行版

1893年稿(自筆稿)

◇第4楽章(現行版の第3楽章)
自筆稿では、冒頭の「フレール・ジャック」のテーマはコントラバス・ソロ+チェロ・ソロという「ソリ」の形ですが、全集版ではチェロ・ソロがなくなっています。これも現行版の形なのですが、実は現行版ではコントラバスはトゥッティというのが「新全集版」のスタンスです。

↑現行版

1893年稿(自筆稿)

◇第5楽章(現行版の第4楽章)
1893年稿では、いずれも練習番号「56」の後に、ティンパニが入っていましたが、現行版ではそれがなくなっています。

↑現行版

1893年稿(自筆稿)

そして、最後のページでは、エンディングのティンパニとトライアングルとバス・ドラムのロールだけになるところが、自筆稿では3小節(×2)だったものが、全集版と現行版ではともに1小節(×2)に変わっています。

↑現行版

1893年稿(自筆稿)

同じ「1893年稿」と言いながら、自筆稿と全集版とではなんでこれほどの違いが出てしまっているのでしょう。それは、一次資料の選択の違いによります。なんでも、自筆稿以外に、マーラーは出版のためのコピーを作っていて、そこにマーラー自身がおびただしい改訂を行っているというのですね。全集版の校訂者(UNIVERSALのサイトには、名前は明記されていません)は、こちらの情報をメインに校訂を行った結果、最初の自筆稿とはまるで違うものが出来てしまったのでしょう。
まあ、作曲家の意思を反映させたいという気持ちは分かりますが、この校訂者のおかげで、将来この「1893年稿」に関しては少なからぬ混乱が生まれることは、目に見えています。おそらく、この全集版の「1893年稿」は翌年のヴァイマールでの演奏の際に使われた楽譜にかなり近いものなのでしょうから、正確には「1893/1894年稿」と表記すべきものなのではないでしょうか。したがって、「ハンブルク稿」という言い方も不正確です。というか、どうせマーラーはこの先さらに大幅な改訂を加えてしまうのですから、この中間形態である自筆稿を、なぜそのままの形で全集に入れてはくれなかったのでしょう。今回のような楽譜を出版するのは、まずそれをやってからの仕事なのではないでしょうか。ほんとに、余計なことをしてくれたものです。
聴いたのは輸入盤ですが、なんでも国内盤にはこの稿についての独自のライナーノーツが掲載されているのだそうです。おそらく、その内容をセールスポイントにしようとしているのでしょう、国内盤のキャッチコピーは「これまで誰も聴いたことのない衝撃のハンブルク稿」という扇情的なものになっています。これは「ハンブルク稿」とは別物なのですから、「誰も聴いたことのない」のは当たり前の話です。まさに「笑劇」ですね。

CD Artwork © Sony Music Entertainment Germany GmbH

6月11日

MOZART
Requiem
Genia Kümeier(Sop), Bernarda Fink(Alt)
Mark Padmore(Ten), Gerald Finley(Bas)
Mariss Jansons/
Netherlands Radio Choir
Royal Concertgebouw Orchestra
RCO LIVE/RCO 14002(hybrid SACD)

マリス・ヤンソンスがモーツァルトの「レクイエム」を演奏したアルバムが出ました。しかし、ヤンソンスがモーツァルトを演奏したものなど過去にあったのか、というぐらいの、これは珍しい演目です。念のため某通販サイトで検索してみたら、ヤンソンスがモーツァルトを演奏しているアイテムはこれを含めて4品、他の3品は、全てメインの曲目ではなく、フルート協奏曲やヴァイオリン協奏曲の伴奏をしたものですから、もしかしたらこれが彼にとっての初めてのモーツァルトをタイトルとしたアルバムということになるのでしょうか。
さらに、彼が指揮をしているこのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団も、この検索ではモーツァルトの「レクイエム」のアルバムは他には見つかりませんでした。という、ある意味レアな顔触れによるSACDということになります。
そんな「不慣れ」なレパートリーに対して、彼らは特にスタンスを変えることなく、彼らの日常の演奏活動の土俵の上にモーツァルトを引きずりあげて勝負を仕掛けているように見えます。まず、弦楽器はかなりのプルト数を確保しているのでしょう、それはライブ録音の会場であるコンセルトヘボウの広い空間全体に煌めくような豊潤さをもって響き渡っています。さらに、最近ではもはや主流となった、リズム・セクション(つまり、ティンパニとトランペット)だけにはピリオド楽器を用いるといったようなチマチマしたことには関心を向けることはなく、あくまでマーラーやブルックナーを演奏する時に用いる楽器をそのまま使うというやり方を貫きます。
この、特にティンパニの存在感は、間違いなく18世紀の音楽には見られないもの。そう、単にリズムを強調するという役割を超えた、それ自身がクライマックスの核となるような強い主張は、まさにブルックナーに於けるこの楽器の役割そのものではないでしょうか。中でも「Dies irae」などは、まさにブルックナーの語法によって演奏されたモーツァルトに他なりません。しかし、その他の曲でも盛り上がるところでは例外なく披露されているこのティンパニの強打は、最初のうちこそ疲労感を抱くほどの戸惑いがあったものの、慣れてくればそれは見事な快感に変わります。かと思うと、「Tuba mirum」でのバスのソロなどは、まるでベートーヴェンの「第9」の終楽章での大仰なレシタティーヴォのよう。そこに、びっくりするほど奔放な装飾を付けたりすれば、もはやジョークにしか聴こえないほどの危うさを持ってしまいます。
さらに、やはり18世紀的なセオリーにのっとれば、トロンボーンなどはソロの部分はともかく、基本的に合唱と同じパートの補強という意味を持っているはずですが、ここではそんな役割には留まらず、積極的に厚ぼったいサウンドを作りだすことに貢献しているように思えます。同じことはオルガンにも当てはまります。「Quam olim Abrahae promisisti」で朗々と響き渡るペダルの音は、このホール備え付けの大オルガンからのものに違いありません。確かに、普通にこの作品に使われるような小ぶりのポジティーフでは、ブルックナーのサウンドを作り出すことはかないません。
面白いことに、いくらそんな大げさな身振りで飾り立てようとしても、それでモーツァルトの音楽自体が損なわれることはありません。というより、特に最晩年の作品が持つ、まさに時代様式を超えた充実した作風には、どんなアプローチにさらされようがびくともしないほどの確固たる主張が込められているのではないでしょうか。
つまり、ジュスマイヤーが作った「Benedictus」などでは、確かにモーツァルト固有の作風は巧みに取り入れられてはいるものの、それはモーツァルト自身がこの時期に達した霊感を宿らせるほどの高みには至っていないことが、このヤンソンスの「19世紀的」な演奏によって見事にあぶり出されているのです。

SACD Artwork © Koninklijk Concertgebouworkest

6月9日

Kurt Eichhorn conducts Carl Orff
Lucia Popp(Sop), John van Kesteren(Ten)
Hermann Prey, Thomas Stewart(Bar)
Gottlob Frick(Bass) etc.
Kurt Eichhorn/
Münchner Rundfunkorchester
SONY/88843015172


クルト・アイヒホルンがミュンヘン放送管弦楽団の首席指揮者に在籍中の1970年代前半に録音したオルフの作品が、まとめてボックスになってリリースされました。これは、1995年に作曲者の生誕100周年記念として5枚分のCDのためにマスタリングとカップリングが行われたもののリイシューです。録音された時はレーベルはAriloa-Eurodiscでしたが、1995年の段階ではBMG傘下に入っていてBMG Ariola、それが2014年になると、SONYはこんな風に旧BMGのレーベルをまとめて「RCA」と表示するようになっていました。「歴史」ってやつを感じてしまいますね。なんにしても、こんな貴重な録音が安価で広汎に提供されるようになったのはうれしいことです。なんたって、LP時代に買った最初の「カルミナ・ブラーナ」ですから、思い入れもハンパではありませんし。
それは、CDが出始めた頃にさっそくこんなジャケットでCD化されていました。そこからは、LPの刺激的な音づくりによるインパクトは全く感じられないようになっていましたが、それが本来の音なのだろうと納得していましたね。なんたってCDLPよりはるかに原音に忠実な再生が出来ると本気で信じていたころでしたから。
もちろん、今ではそんな妄想はこれっぽっちも抱いていませんから、今回のCDを聴いてみると単に当時のマスタリングがあまりに幼稚だったことに気づくだけです。やはり、元の音は相当に高音を強調した派手なものだったのですね。それが見事にこの曲に合っていたので、強烈な印象が残っていたのでしょう。
それは5枚のうちの1枚、残りの4枚には、今まで全く聴いたことのない曲が並びます。まずはオペラが2曲、それぞれが1枚のCDに収まっています。「賢い女」と「月」という、さすがにタイトルだけは「オルフの代表作」という言い方で目にすることは良くあった2つの作品です。いずれもグリム童話を原作としたものですから、おぼろげにあらすじは知っているような気がします。もちろん、オペラでは細かい部分で手の入った台本が用意されていたのでしょう。ただ、こんなボックスですから、当然リブレットなどは付いていません。これがNAXOSあたりだと、ネットからダウンロード出来るようになっているものですが、SONYの場合はそんな配慮は一切ありません。そんな企業の都合によって、ほんのたまにしか意味の分かる単語が聴こえて来ないドイツ語の台本によるオペラを味わわなければならないのですから大変です。
ですから、「言葉」が分からない分、もっぱら「音楽」によってのみ、この作品を楽しむしか、とる方法はありません。そこでもろに音楽だけが前面に出てくると、なんか、こんなことを言ったら失礼かもしれませんが、この作曲家はなんと少ない語彙で勝負をしているのだろうという気がしてきます。つまり、この2つのオペラの前に作られた「カルミナ・ブラーナ」で、もはや彼のオリジナルのフレーズは出尽くしてしまったのではないか、とまで思えてしまうのですね。「賢い女」で、ピッコロ、ファゴット、ピアノ(多分)による超高速のユニゾンが何度も繰り返されるのを聴いた時には、思わず笑い出してしまいました。もっとも、「カルミナ度」がより高いのは、「月」の方でしょうか。
もう少し後になって作られた「クリスマスの劇」と「復活祭の劇」になると、中身は殆どセリフで、音楽はほんの少ししかなくなってきます。こうなると、リブレットなしで延々とドイツ語だけのお芝居を味わうのは殆ど苦痛と化します。
しかし、そこでめげてはいられません。最後に収録された「アストゥットゥリー」になると、これは完全にモノドラマ、37分もの間、一人の俳優がただ喋っているだけというものすごいものなのですからね。こういう「音楽」をオルフが作っていたなんて、全くのサプライズでした。ちゃんと楽譜も出ているんですよ。これって、もしかしたら「ラップ」?

CD Artwork © Sony Music Entertainment

6月7日

MOZART
The Last Three Symphonies
Frans Brüggen/
Orchestra of the Eighteenth Century
GLOSSA/GCD 921119


ブリュッヘンと18世紀オーケストラの「モーツァルトの最後の3つの交響曲」、つまり394041番の最新CDです。2枚組でこの3曲だけ、序曲などの「おまけ」はありませんから、1枚目に2曲、2枚目に1曲というアンバランスな収録になってます。シングルレイヤーSACDだったら1枚に収まるものを。もっとも、いまどきそんな特別なプレーヤーがないと再生できないようなものを出す勇気のあるレーベルはありませんが。
これは、彼らにとっては2度目の録音なのだそうです。モーツァルトだからニドメナノ(それは、「イドメネオ」)。1度目というのは20年以上前のPHILIPS時代ですが、今ではそんなレーベルすらも世の中からは姿を消してしまっているために、その権利を引き継いだDECCAから再発されているというのが、なんか変な感じです。同じように、やはりかつてPHILIPS時代に出ていた「1度目」に続く「2度目」として2012年にリリースされたベートーヴェンの交響曲全集は、2011年に録音されていましたが、今回のモーツァルトは2010年と、それよりも前の録音になります。それがいまごろのリリースとなった結果、ベートーヴェンはSACDだったのに、これはCDになってしまっていました。ほんとにSACDで出るかどうかは運次第、というか、もはやどう頑張ってもSACDは主流にはなりえないという環境が整ってしまったみたいですね。
つまり、このベートーヴェンとモーツァルトは、ほぼ同じ時期に同じ会場(ロッテルダムの「デ・ドゥーレン」)で録音されていながら、聴こえ方が全く違っていたものですから、せめてSACDであればなあ、と思ってしまったのですね。いずれもかなり残響が多めになっていますが、ベートーヴェンではきっちりバランス良く楽器が聴こえて来たものが、モーツァルトではなんともモゴモゴした音なのですよ。特に低音のモヤモヤ感はちょっと堪えがたいものがあります。
メンバーを比べてみると、さすがに弦楽器はほとんど同じ名前が並んでいます。管楽器も基本的に同じ人のようですが、フルートあたりではモーツァルトで吹いていたシュミット・カスドルフという人がベートーヴェンではいなくなって、代わりにベズノシウクが入っています。確かに、39番あたりでのフルートはちょっとお粗末ですから、ベートーヴェンの時には下ろされてしまったのかもしれませんね。いや、これはあくまで根拠のない憶測ですが。
そのフルートですが、この3曲は、いずれも1本しか使われないのに、もう一人のメンバーの名前があるのはなぜなのでしょう。フルートだけ倍管というのはちょっとありえませんから、曲によってメンバーが違っていたのでしょうか。確かに、39番と40番では別の人のような気もします。
その39番は、第1楽章の序奏で、そんなフルートが思い切り足を引っ張っていたせいでしょうか、何か演奏に集中力が欠けています。「ライブ録音」と言ってますが、もちろん適宜編集は行われていますし(1ヵ所、はっきりつなぎ目が分かるところがありました)、ベートーヴェンの時におまけで付いていたDVDには、「録り直し」のセッションの模様まで収録されていましたから、直すことは出来たのでしょうが、何度やってもうまくいかなかったので下ろされてしまったとか(これも、もちろん憶測です)。第2楽章も、あまりに「大家」然とした流れが勝っているために、ちょっとモーツァルトにしては重たすぎる音楽になっています。第3楽章のトリオでは、クラリネットが派手に装飾を付けるのはいいのですが、後半はちょっと勘違いのような気がしますし。ですから、フィナーレのほんとに最後の最後にちょっとかわいらしいことをやってくれても、なんか不気味なだけなんですね。
それが、40番と41番では、うって変わっていとも軽快に音楽が流れています。もしかしたら、この2曲だけの方が、アルバムとしての完成度は高いものになっていたのではないでしょうか。

CD Artwork © note 1 music GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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