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(14/4/28-14/5/16)

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5月16日

Polish Flute Quartets
FourTune
Lukasz Dlugosz(Fl)
Radoslaw Pujanek(Vn)
Katarzyna Budnik-Gelazka(Va)
Rafal Kwiatkowski(Vc)
CD ACCORD/ACD 187-2


以前こちらのペンデレツキのフルート協奏曲のCDでお目にかかっていたポーランドのフルーティスト、ウーカシュ・ドウゴシュと弦楽器のメンバー3人が集まったのが、「FourTune」というユニットです。まあ楽器が4つ集まって「4つの調べ」という意味なのでしょうが、おそらくこれは「Fortune」という言葉とひっかけているのではないでしょうか。「幸運」とか「財産」という意味の言葉ですが、ジャケットを見ると、そこにはサイコロが。ということは、これは「フォーチュン・クッキー」などに通じる「運だめし」の方の意味が強いのでしょう。「音楽は博打だ」とか。
ある意味、作曲家の「運」というか「運命」などは、本当にわからないことが多いものでしょうから(うん)、そのあたりの意味ももしかしたら込められているのかもしれません。確かに、ここで彼らが取り上げた作曲家たちの「運命」ときたら、なかなかのものでしょうからね。
まずは、1943年生まれのクシシュトフ・メイエルです。奇しくも同じファースト・ネームを持つペンデレツキとともに、ポーランドの「前衛」シーンを担った作曲家ですが、多くの「前衛」と同じようにロマンティックな作風に変わる道をたどって現在に至っています。しかし、1988年に作られたこの「6つの楽器のためのカプリッチョ」を聴くと、まさに同じような「運命」をたどったペンデレツキが捨て去ってしまったものを、まだまだ自分の中に残しているな、という感触が得られます。まず、このタイトルからして一ひねりありますからね。演奏者は4人しかいないのに「6つの楽器」って、どういうことでしょう?実は、この3つの楽章から出来ている作品で、ドウゴシュは楽章ごとにアルト・フルート、普通のフルート、そしてピッコロと、3種類の「楽器」を演奏しているからなのですよ。ね、それに3つの弦楽器を加えれば「6つ」になるでしょ?
第1楽章の「Capriccioso」は、アルト・フルートの息の長い瞑想的なアリアを弦楽器がサポートするというスタイル。その弦楽器のリズム・パターンがさまざまに変わる中で、フルートは孤高の存在として佇んでいます。第2楽章の「Vivo」は、うって変わって超絶技巧の応酬、無調感の漂うフレーズの中には、間違いなくこの作曲家のアイデンティティが感じられます。そして第3楽章の「Lento」では、ピッコロの使い方が絶妙です。まるで点描画のようにこの楽器が打ち込む刺激的な高音のパルスが、弦楽器たちが作り上げている空虚感あふれる空間に、さらに切なさが漂うようなアクセントを与えているのです。これはなかなか深みのある音楽、たとえスタイルが変わったとしても、その中に過去の自分らしさがしっかり残っていれば、そこにはしっかりとした尊厳が認められるのですよ。
ですから、変わり過ぎてしまったペンデレツキの場合は、まず本来の「クラリネット四重奏」という編成を、安直に「フルート四重奏」に変えてしまった時点で、すでに作品に対してのリスペクトが失われてしまっているのでは、と、決めつけられても仕方がありません。確かに、このフルート版は、特に最後の「別れ」という楽章はかなり上質な「ヒーリング・ミュージック」に仕上がっていますが、オリジナルのクラリネット版には、もう少し聴く者を突き放すような「力」があるのでは、という気がします。もちろん、本質的にはそれほどの違いではないのですけどね。まさに熟達の筆致による深い瞑想の世界は、退屈なだけです。ライナーでも触れられていますが、ショスタコーヴィチあたりのテイストが強く感じられるのも、いつものペンデレツキです。
もう一人の1930年生まれのヴワディスワフ・スウォヴィニスキという、指揮者としても知られている人の「王宮のための組曲−バロックの思い出」は、タイトル通りの「現代音楽」のバロック風パロディ、「だからなんなんだ!」という怒りなくしては聴けません。

CD Artwork © CD Accord

5月14日

MOUSSOUGSKY
Pictures at an Exhibition
Fritz Reiner/
Chicago Symphony Orchestra
ANALOGUE PRODUCTIONS/LSC 2201(LP)


先日SACDで聴いたRCAによる1957年録音の「展覧会の絵」のLPバージョンです。
SACD同様、オリジナルの録音データなどは一切記載されていない、1958年にリリースされたものと全く同じジャケットとライナーノーツのLPは、「LSC 2201」という品番まで、全く同じという凝りようでした。いや、そう言えばSACDの品番も、番号だけは全く同じでしたね。なんと言っても、このデザインはLPサイズになってこそのものだと思えるのは、「LIVING STEREO」のロゴの部分です。いかにも「ステレオ」を「具体化」した、左右のスピーカーから赤、青、黄色の矢印が無数に飛び出してくるというデザインです。これが、LP(上)ではきちんとすべての矢印が見えるのに、SACDのジャケット(下)では、製版の際のちょっとした加減で、ある色の矢印がなくなっていますからね。

このカラフルなロゴは、しかし、記憶の中には少し安っぽいものとして残っています。ステレオ・レコードの黎明期には、再生装置も大々的に売り出されていましたが、多くのメーカーが提供していたのは「アンサンブル・ステレオ」という一体型のタイプでした。
しかし、それは今思えば「オーディオ」には程遠いものでした。もちろん、スピーカーもその中に入っていますから、そのサイズでは適切な音場感を得ることはまず不可能です。一番お粗末なのはレコード・プレーヤー。その当時はまだ使われていたSPとの互換性を図るために、針先はSP用とLP用を回転させて切り替えます。カートリッジは圧電素子かなんかの、恐ろしく再生レンジの狭いタイプ、針圧もやたら重くて、まさに音溝を「削る」ほどのものです。そして、情けなさの極めつけは、ターンテーブル。直径が7インチしかありませんから、シングル盤ならいざ知らず、LPでははみ出してしまいます。中には奥行きが足らず、ふたを閉めると後ろの穴からLPが外にはみ出すものも有りました。
昔、実家で買ったステレオが、まさにそんな安物でした。それはビクター製。その時におまけとして付いてきたのが、このロゴが入ったRCAのステレオ音源によるデモLP(もしかしたら7インチのEP)でした。初めて聴いた「ステレオ」の音は、とてもきらびやかで圧倒的なものでした。でも、それはどこか偽物っぽい胡散臭さも感じられるものでもありました。というか、そんな安っぽい音にも感動してしまった自分が許せないような、かなり屈折した思いとともに、この「LIVING STEREO」の画像が刷り込まれているのですね。
それから半世紀近く経って、よもや、このロゴの付いたLPに、本当の意味で「感動」させられる時代が来ようとは、思いもよらないことでした。180gの重量タイプのこのLPは、ソリの全くない完全に平らな状態であることが、まず感動を呼びます。そして聴こえて来たトランペットの「プロムナード」のテーマは、SACDとは別物の滑らかさをもっていました。SACDでは、音自体は素晴らしいのに、なぜか「古さ」を感じてしまうものが、LPではそれが全くないのですね。とは言っても、やはりスクラッチ・ノイズが結構聴こえるのがやや不快、とくに、静かなところで派手に聴こえるのが、かなり気になります。
ところが、B面になったら、そんなスクラッチ・ノイズがほとんどなくなりました。そうなると、ここで始まる「リモージュ」は、セッション録音としては信じられないほどのひどいアンサンブルなのですが、それすらも妙なリアリティを持ってくるのですから、不思議です。そして、驚くべきは、「死せる言葉をもって」の最後付近で静かにコントラバスが入ってくるところの音場、そこでは、はるか遠くまで広がる薄暗い世界が、しっかり感じられたのです。もちろん、その直後の「バーバ・ヤガー」でのティンパニとグランカッサのバトルや、そのあとの、魔女の鍋が泡立つ様子を描写した部分での、ピッコロに重なるチェレスタの生々しさと言ったら、到底SACDの比ではありません。

LP Artwork © Analogue Productions

5月12日

BACH
Messe in h-Moll
Reglint Bühler, Susanne Krumbiegel(Sop)
Susanne Langner(Alt)
Martin Lattke(Ten), Markus Flaig(Bas)
Georg Dhristoph Biller/
Thomanerchor Leipzig
Freiburger Barockorchester
ACCENTUS/ACC 10281(BD)


毎年、バッハゆかりの都市ライプツィヒでは、「バッハフェスト」という催しが開かれています。それは、巨乳好き(それは「バストフェチ」)の集会ではなく、バッハの音楽祭、今年ももう少しすると、10日間にわたって街全体がバッハ一色に染まり、毎日いろいろな場所で多くのコンサートが同時に開かれるという、まるで「ラ・フォル・ジュルネ」みたいなお祭りが始まります。
慣例として、そのグランド・フィナーレは聖トマス教会で「ロ短調ミサ」が演奏されることになっています。このBDは、昨年の6月23日のその「大トリ」をライブ収録したものです。もちろん、主役はこの教会の合唱団です。
そういう趣旨のコンサートですから、このBDはその場の雰囲気を存分に味わえるような撮られかたをされています。本当はどうなのかは分かりませんが、あくまでリアルタイムに編集を加えないで演奏を聴いてもらう、というスタンスが感じられます。まず、オープニングでは、その聖トマス教会の全景が映し出されますから、気分はいやが上にも高まります。そしてカメラは内部に移り、合唱とオーケストラがスタンバっている大きなオルガンをバックにした西側のバルコニーを見せてくれます。時折そのカメラは北側のバルコニーにもパンしますから、そこにある少し小ぶりの「バッハオルガン」なども目にすることが出来ます。
そのアングルで客席を映し出すと、後ろの方、つまり、合唱がいるバルコニーのすぐ下あたりでは、お客さんはカメラの方を向いて座っていることが分かります。さらにもう少し前を見ると、そこでは座席は90度向きが代わって、お客さん同士が顔を向き合わせるという座り方になっていますよ。つまり、演奏の最中に普通に座っていると、演奏者はお客さんの正面ではなく、真後ろ、もしくは真横に位置しているということになっているのです。バッハの時代でも、おそらくこんな配置で、あくまで礼拝のBGMといった感じで演奏家自体は特に注目されるようなことはなく、教会の中に音楽だけが漂う、という音響空間が存在していたのでしょうね。
ですから、もっぱら演奏家だけを注目するようになっている現代のコンサートホールの音響空間とは全く異なるこのシーンは、それだけでとても強烈なインパクトを与えてくれるものです。演奏家にとっても、後ろを向いたお客さんに向けての演奏というのは、ちょっと違和感があることでしょう。
この映像を見ている人は、実際に会場で聴いている人には絶対に味わえないアングルからの貴重な景色を体験することが出来ます。まずは、指揮者のビラーの顔のアップ。今まで思ってもみませんでしたが、この人はちょっと前に日本で大騒ぎになった偽作曲家と非常によく似ていますね。全く演奏の本質からは離れたことですが、S氏はこんなところでも大きな「迷惑」をかけていることになります。だって、この顔を見ていると、どうしても「指揮をしている振り」をしているようにしか思えなくなってしまいますから。いや、そんなことではなく、たとえばポジティーフ・オルガンを演奏している人は、バッハの自筆稿のファクシミリを使っている、などと言った情報の方が大切なのは当たり前なのですがね。
生映像の怖さでしょうか、まだあどけなさの残る少年合唱団のメンバーたちの、ちょっとした行儀の悪さなどもカメラはしっかりと伝えています。客席から正視されていないという油断もあったのか、日ごろからそのような態度なのか、ソロが歌っている間に座って待っている彼らの様子はなんとも異様です。横の子に話しかけたり、足を組んで座っている子もいますからね。あとは、ちょっとさえない歌い方をしているソリストを見る、まるで蔑むような遠慮のない視線。そんな彼らが、緊張感を持った緻密な演奏など、出来るはずがありません。

BD Artwork © Accentus Music

5月10日

Stravinsky Memorial Concert
Michel Béroff(Pf)
Leonard Bernstein/
The English Bach Festival Chorus
London Symphony Orchestra
ICA/ICAD 5124(DVD)


歴史的な放送素材からの音源や映像を「First CD(DVD) Release」という大袈裟な見出しを付けて続々と世に送り出しているICAの新譜は、1972年の4月8日に行われた「ストラヴィンスキー没後1周年記念コンサート」のDVDです。ストラヴィンスキーが88歳でこの世を去ったのは1971年4月6日ですから、この日は「命日」とはちょっとずれていますが、木曜日の平日である6日を避けて、土曜日の8日にしたのでしょう。なんたって、会場はあの馬鹿でかいロイヤル・アルバート・ホールですから、集客的にもベターでしょうし、係員のアルバイトも集めやすいでしょうからね。
ここでバーンスタインとロンドン交響楽団が演奏しているのは、「春の祭典」、当時21歳のミシェル・ベロフ(帯に「22歳」とあるのは間違い)のピアノを加えた「カプリッチョ」、そしてイギリス・バッハ・フェスティバル合唱団を迎えての「詩編交響曲」です。
このメンバーでの「春の祭典」の映像としては、こちら1966年に収録されたものがありましたが、それはもちろん白黒、しかし、今回はしっかり「カラー」で撮られています。この鮮やかな、いや、鮮やかすぎる色調には、1966年の映像に比べるとまさに今昔の感があります。
そして、映像監督は前と同じハンフリー・バートンなのですが、ここではカット割りなどずいぶん変わっているように思えます。バーンスタイン自身の姿を追い続けるカットはかなり少なくなり、その代わりにソロ楽器のアップがあちこちで見られます。それが、「春の祭典」の場合は、その時に最も重要な楽器が、必ずアップになって登場するという分かりやすさです。アルト・フルートやバス・クラリネットといった珍しい楽器が、いかにこの曲では活躍しているかが良く分かりますし、もしかしたらワーグナー・チューバが使われていたことを、この映像を見て初めて気付く人がいるかもしれませんね。
そして、音も、そんな細かい楽器の生音がくっきり聴こえてくるような、まさに画面とシンクロしたものでした。もちろん、この時代の映像の音声はまだモノでしたが、マイクだけはたくさん使っているようですから、おそらくバートンの指示で、かなりバランスを調整していたのではないかという気がします。そして、今回のDVD化に際しては、わざわざ「Enhanced Mono」という言葉がクレジットされていますから、何らかの補正があったことは間違いないでしょう。それによって全体の豊かな響きはちょっと損なわれてしまっています。というか、この時代の映像の音声は、同じ頃の音声だけのメディア(LPレコードなど)に比べたらはるかに劣っていたことが再確認できます。それが、現在ではその立場は逆転しているのですから、皮肉なものです。
映像も、DVD化に当たっては、おそらくかなりの修復が加えられているのでしょう。その結果「春の祭典」ではこんな不思議なカットを目にすることになりました。
なぜか、指揮台の脇に電話機が。
同じアングルで撮られたどのカットでも、「電話機」なんかありませんし、良く見るとチェロの楽譜の位置が少し違っていますから、このカットだけが差し替えられたものなのでしょう。リハーサルの時とか。しかし、普通リハーサルでは正装はしないものですがね。
「詩篇交響曲」の場合は、完全に修復出来ないカットがあったのでしょう。何か所かで静止画像が差し込まれているところがありました(音声は無事だったようです)。その画像が、バーンスタインが使ったスコアだというのは、ある意味うれしい配慮ではありますが。
この曲の最後、つまり、コンサートの最後で、バーンスタインは会場の拍手を制止して退場します。それはおそらく、この曲の中に作曲家への追悼の意味を込めたというメッセージだったのでしょう。このあたりが、この映像の「記録」としての重みです。ただ、この後もう指揮者はステージには戻ってこないままコンサートは終わったのか、あるいは改めてきちんと拍手を受けたのか、出来ればそこまできちんと伝えて欲しかったものです。

DVD Arteork © International Classical Artists Ltd

5月8日

MOUSSOUGSKY
Pictures at an Exhibition
Fritz Reiner/
Chicago Symphony Orchestra
ANALOGUE PRODUCTIONS/CAPC 2201 SA(hybrid SACD)


SACDは確かにクリアで解像度の高い音を伝えることが出来る、間違いなくCD以上のクオリティを持っているメディアではありますが、必ずしもその特性をフルに発揮しているものばかりではありません。元の録音がCD並みであれば、それはCD並みのものしかできません。さらに、元がアナログ録音の場合は、それがどの程度のマスターテープであるかが問題になってきます。さらに、そのアナログテープからデジタル・ファイルにトランスファーする時の状態も大切です。これこそがまさに職人芸の世界、そもそも、理想的には実際に録音された時と同じテープレコーダーで再生すればいいのでしょうが、今となってはそれも困難ですから、そこには様々なノウハウが必要になってくるはずですからね。
今回、Analogue Productionsというアメリカのレーベルから、RCAの初期のステレオ録音「LIVING STEREO」をSACD化したものが発売になりました。このあたりのものは、今までにもCDSACD、あるいはXRCDなどで何度もリリースされていましたが、なんかこれはそれらのものとはちょっと違う様な気がしました。そもそも、値段がそれらのものよりはるかに高価ですし。
このレーベルでは、もともとは昔のジャズの録音を、マスターテープから新たにカッティングした高品質LPを出していました。そのうち、同じものをSACDでも出すようになったようですね。ただ、レパートリーはジャズやブルース、そしてロックだったものが、ついにクラシックにも進出、同じやり方でこのLIVING STEREOのカタログから25のアイテムをLPとハイブリッドSACDとしてリリースしたのです。あいにく、それをリーズナブルな価格で買える国内代理店経由では、なぜか4タイトルしか入手できません。そこで、クーポンがだいぶ貯まっていたので、それを使ってダメモトでこのライナーとシカゴ響との「展覧会の絵」を買って聴いてみることにしました。
そういうものですから、さぞやSACD化にあたっての自慢話のようなものが付いているのでは、と思ったのですが、オリジナルのジャケットが使われたブックレットには、オリジナルのライナーノーツが転載されているだけで、それ以外のデータはマスタリングエンジニアを含め一切ありませんでした。これはこれで、なかなかの潔さ、なにしろ本体にもニッパーのマークが印刷されているぐらいですからね。
さらに、製造元のクレジットも、RCAの現在の所有者であるSONYになっていますから、これはしっかりとした原盤(マスターテープ)の提供が行われていたことが期待できます。
そんなわけですから、このパッケージから得られるのは初出LPのリリースが1958年だった、ということだけです。ただ、他のところで得られる録音年代は1957年でした。しかし、同じ演奏者の、名録音との誉れ高い「ツァラ」などは、1954年のステレオ録音ですからね。
この「展覧会の絵」のトランスファーは、おそらくごく最近行われたのでしょう。テープのドロップアウトがかなりあちこちで見られますから、テープ自体はもはやかなり劣化しているようです。2回目の「プロムナード」では、切れてしまったテープを補修したような跡がはっきり聴こえますし。しかし、音そのものはとても元気のよい、今録音したばかりのような生々しさが感じられるものでした。特に、「バーバ・ヤガー」あたりになって多くの打楽器が派手に鳴りはじめると、そのあまりのリアリティの豊かさに、思わずたじろいでしまうほどです。バスドラムの炸裂などは、巷によくあるチマチマしたデジタル録音では絶対に得られないようなエネルギーが感じられます。これは、文句なしにすごい音です。
「サムエル・ゴルデンベルク」と「リモージュ」の間でヒスノイズが全くなくなった無音の部分がありますから、このマスターはここをAB面の変わり目にしたLP用のマスターだったのでしょう。そのLPもぜひ聴いてみたくなり、注文したところです。聴き比べが楽しみです。

SACD Artwork © Analogue Productions

5月6日

America
Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
HÄNSSLER/CD93.306


SWRヴォーカルアンサンブルの最新アルバムは、タイトル通り、アメリカ人の作品集です。エーロン・コープランド、スティーヴ・ライヒ、ジョン・ケージ、モートン・フェルドマン、レナード・バーンスタイン、そしてサミュエル・バーバーと、「近現代」の6人の作曲家の名前が並びます。
しかし、こうして見てみると、アメリカという国のクラシック音楽が、いかに多様なスタイルをもっているかがよく分かります。それはおそらく、そもそも無縁だった「伝統」との距離の違いからくるものなのでしょう。ジョン・ケージやスティーヴ・ライヒなどは、まさにアメリカでしか生まれえなかった音楽家です。
最初のトラックの作曲家、この中で最も早く生まれたコープランドは、パリでナディア・ブーランジェに師事するなど、まだヨーロッパの音楽の「伝統」をいくらかでも受け継いでいたはずです。そのパリ時代の作品「4つのモテット」は、したがって「伝統的な合唱曲」としての体裁を踏み外すことは決してありません。
そして、その次にこの中では唯一の現存者ライヒが続きます。この「ミニマルの祖師」がガチの「合唱曲」を作っていたというのがすでに意外ですが、なんとポール・ヒリヤーが1995年に委嘱した「プロヴァーブ」という、まぎれもない合唱曲があったのですね。実際、この作品はすでに、ヒリヤーとシアター・オブ・ヴォイセズによる録音がNONESUCHからも出ていました。もともとの演奏者に合わせて、合唱ではなく5人のソリストのための編成、それに2台のヴィブラフォンと、中世のオルガン風にプログラミングされたシンセサイザーが加わります。もちろん、このCDでも全く同じ編成で演奏されています。この時期のライヒは、もはや「ミニマル」という範疇にはあまりこだわらない作風に変わってしまっていましたから、このようなほとんど「異種競技」とも思えるような団体の委嘱にも応えられるようになっていたのでしょう。それにしても、この作品は、いくらなんでもと思えるほどの演奏家への「寄り添い」(というより安易な「妥協」)の度合いが強いのが気になります。始まりこそは単旋律のポリフォニックな重なり合いがライヒらしさを見せるものの、しばらくするとミエミエの「中世風」の音楽になってしまいます。作曲家に言わせれば、これは「ペロタンへのオマージュ」なのだそうなのです。ミルキーじゃないですよ(それは「ペコちゃん」)。しかし、これは「オマージュ」どころか、もろ「サンプリング」ではありませんか。ライヒがヒリヤーとのコラボレーションでなし得たのは、単なるチープな「パクリ」だったなんて、悲しすぎます。
続く、ケージの1988年の作品「ファイブ」は、楽譜を使わない「偶然性」の音楽。その結果生まれたものは、いとも静謐な、安らぎにあふれた音楽でした。もちろん、見かけはよく似ていても、次のフェルドマンの1971年の作品「ザ・ロスコ・チャペル」のように、単に瞑想の目的のためだけに作られた「ヒーリング・ミュージック」とは本質的に異なる志から生まれたことは明白です。
バーンスタインの最晩年、やはり1988年に作られた彼のほとんど唯一の合唱曲「ミサ・ブレヴィス」は、実はジャン・アヌイの戯曲「ひばり」の付随音楽として1955年に作られていた8曲の合唱曲を、そのテキストをミサ通常文に置き換えて再構築したものです。正直退屈な音楽ですが、唯一最後の「Dona Nobis Pacem」だけは打楽器も加わったリズミカルなもので、バーンスタインらしさが感じられます。ところが、これも16世紀フランドルの作曲家、クロード・ル・ジュヌのシャンソン「Reveci venir du printemps(また春が来たね)」のサンプリングだったとは。
最後はバーバーの男声合唱とティンパニによる勇壮な曲「ストップウォッチと軍用地図」。こちらで一度聴いたことのあるものですが、今回の方がよりリアリティのある合唱で迫ります。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH

5月4日

DOPPLER
Con Bravura
Walter Auer(Fl)
Karl-Heinz Schütz(Fl)
Christoph Traxler(Pf)
TUDOR/7174


「コン・ブラヴーラ」というのは、「華麗な技巧をもって」という意味のイタリア語です。海産物が愛し合うことではありません(それは「昆布ラヴ」)。そして、実際にこういうタイトルの曲が演奏されているわけでもありません。フルート愛好家にはお馴染みのドップラー兄弟のレパートリーは、お兄さんのフランツが作ったにせよ、二人で共作したにせよ、とにかくフルートの持つ技巧をフル稼働させて華麗に決める、という意味が、ここには込められているのでしょう。
そんな曲を演奏するのに最もふさわしい、「世界最高のオーケストラ」であるウィーン・フィルの首席フルート奏者が二人集まった、というのが、このCDの最大の魅力になっているはずです。それは、このオーケストラの中ではまだまだ「若手」の、1971年生まれのワルター・アウアーと、1975年生まれのカール=ハインツ・シュッツの二人です。ただ、厳密にはシュッツはまだ「フィルハーモニー会員」にはなっていないようなので、「ウィーン国立歌劇場管弦楽団」の団員ではありますが、「ウィーン・フィル」の正式団員ではないということになります。まあそれは単に形式的なこと、シュッツはいずれ間違いなく正式団員になるに決まってます。
このCDでは、どの曲でどちらがどのパートを吹いているかが、きちんと表示されています。ですから、最初の、ドップラーのデュエットでは最も有名な「アンダンテとロンド」ではアウアーが1番、シュッツは2番と書いてありますから、ピアノの前奏が終わって右のスピーカーから聴こえて来たフルートがシュッツであることが分かります。この曲では、まず2番のソロで始まることになっていますからね。それは、まさに「2番」ならではの、低い音域で奏されるフレーズだったのですが、その滑らかな音には思わず耳をそばだててしまいます。彼の音はこちらですでに聴いていましたが、その時の印象と変わらない、地に足のついた伸びやかな、とても魅力的な音でした。
そして、「1番」のアウアーの登場です。おそらく、別々にこの二人を聴いたのでは気付かないかもしれませんが、このように並べられると、その音の違いはとてもよく分かります。アウアーの音は、幾分くすんでいて、シュッツほどの艶やかさがないのですね。ピッチもほんのわずかですが、不安定なところもあります。彼も、やはり以前こちらで聴いていましたが、その時にもなんとなくそんな印象を持っていたことを思い出しました。
その次の「ヴァルス・ディ・ブラヴーラ」では、二人のパートが入れ替わります。そうすると、アンサンブル全体の音色が今までとガラッと変わってしまいました。伸びのある音のシュッツが高い音域を担当すると、こういうことになるのですね。もう、それははっきりとした違い、まだシュッツがオーケストラの中で吹いているところを聴いたことがありませんが、彼はこれからのウィーン・フィルの音色を変えてしまうかもしれませんね。
しかし、この二人のアンサンブルは、舌を巻くほどの素晴らしさです。どんな細かいところでもピッタリと表情を合わせているのですから、もう信じられないものを聴く思いです。それがあまりにも完璧なために、逆にドップラーの作品の弱さが表面に出てきてしまう、という皮肉なことも起こります。これだけのスキルを、こんなつまらないところに浪費してどうするの?みたいな気持ちにさせる二人の演奏は、ある意味残酷です。
まるでNAXOSのように、ブックレットのパート表記が、ちょっとおかしなことになっています。これだと、トラック14から16の「リゴレット・ファンタジー」は二人とも1番になってしまいますが、これはアウアーが1番、そして、最後の「アメリカのモティーフによるデュエッティーノ」(トラック17+18)ではシュッツが1番です。ここでは、「ヤンキー・ドゥードゥル」の部分でピッコロに持ちかえて、軽快に迫っていますよ。

CD Artwork © Tudor Recording AG

5月2日

運命と呼ばないで
ベートーヴェン4コマ劇場
NAXOS JAPAN
IKE

学研パブリッシング刊
ISBN978-4-05-800251-3


あの「のだめカンタービレ」に続けとばかりに、こんなクラシックのネタのコミックが刊行されました。この作品がユニークなのは、まず、「のだめ」のような紙媒体で最初に公開されたものではない、といういかにも今の時代が反映されているところです。そして、なによりも、これを作ったところが「レコード会社」だ、というあたりが、まさに前代未聞。そう、これは、今では「世界一」のクラシック・レーベルとなってしまったあのNAXOSの日本法人「ナクソス・ジャパン」が、公式サイトに殆ど冗談で「連載」していたものを、まとめて単行本にしたという、かなりぶっ飛んだ出自を持っているのです。「作者」に関しては上記のようなクレジット、ストーリーを構成してネームを作るのが「NAXOS JAPAN」さん、作画をするのが「IKE」さんということになるのでしょう。その「NAXOS JAPAN」さんは、大胆にも会社の名前をペンネームにしているぐらいですから、おそらく社員さんなんでしょうね。それも、数人が集まったグループではなく、一個人なのではないか、という気がします。というのは、彼女(だと思いますよ)が書いたであろうコラムが公式サイトにありますが、これを読む限りではマニアックな度合いといい、目指しているものの細かさといい、まず集団ではないような気がするからです。それにしても、この有無を言わせぬ押しつけがましさには、ちょっとたじろいでしまいませんか?
そんな、いかにもマニアっぽい押しつけがましさが、このコミックにもそのまま反映されているのが、おそらく最大の敗因でしょう。タイトルにあるように、基本ベートーヴェンの評伝を4コママンガで表現しようというものなのですが、実は本当の主人公は彼の弟子のフェルディナント・リースなのです。このリースという人は、後に作曲家/指揮者となって大活躍をするのですが、現在ではほとんど忘れ去られた存在です。それでも、彼の名前は、もう一人の著者との共著「Biographische Notizen über Ludwig van Beethoven (ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンに関する伝記的覚書)」という、ベートーヴェンの最初期の評伝の著者としてかろうじて音楽史には残っています。これは、文字通りリースの目から見た師ベートーヴェンに関する「覚書」、作者はこの著作に着目し、絵描きさんと一緒にかわいらしいリースのキャラクターを作り上げて、この中のエピソードをギャグ満載のコミックに仕上げたのです。
しかし、そんなマニアックなアプローチと、いかにもなキャラによる見え透いたギャグとの間には、明白な乖離が生じるのは当然のことです。読んでいるうちに、その居心地の悪さは次第に募り、先へ読み進もうという意欲が確実に薄れていきます。それはまるで、出来の悪い同人誌を無理やり読ませられているような感じでしょうか。
決定的な破綻が訪れるのは、作品のクライマックスとなるべき、リースがベートーヴェンのピアノ協奏曲のカデンツァを即興で弾きはじめる場面でしょう。まず、リースになんでそんなことが可能になったかという必然性が、まるで感じられません。普通はそれなりの伏線があるものなのに、いきなり「化ける」のですからね。まさに独りよがりの極みです。さらに、その状況がこの絵からは全く伝わってきません。つまりこれは、構成力の全くない作者と、コミックの「文法」すらも習得できていない未熟な作画者とによる、おぞましいまでの駄作にほかなりません。
ただ一つ、価値を見出すとすれば、それは各所にちりばめられた、このレーベルから出ているリースの作品のCDの「番宣」でしょう。なんでも、明日から始まる「ラ・フォル・ジュルネ」には、この本の専用のブースが設けられるのだとか。その脇には、売れずに倉庫に眠っていたリースのCDが、日本語のライナーでも付けられて(これは良くやる手)山積みになっていることでしょう。もちろん、CDリースではなく、お買い上げです。

Book Artwork © Gakken Publishing Co., Ltd.

4月30日

RAVEL/Ma Mére l'Oye
MUSORGSKY/RAVEL/Pictures at an Exhibition
Jos van Immerseel/
Anima Eterna Brugge
ZIGZAG/ZZT343


てっきり「展覧会の絵」から始まるものだと思ってCDをスタートさせたら、あのかっこいい「プロムナード」のファンファーレではなく、なんかイジイジした音楽が始まったので、一瞬CDを間違えたと思ってしまいましたよ。ジャケットをよく見たら、まずカップリングの「マ・メール・ロワ」から始まっていたのですね。そこでハタと気が付いたのは、このアルバムは「ムソルグスキー」ではなく、「ラヴェル」の音楽を集めたものだ、ということでした。まず、「マ・メール・ロワ」でたっぷりラヴェルのエッセンスを味わったあとで、そのラヴェルがロシアの音楽を編曲したものを聴いてもらおうという趣旨だったのだ、と、勝手に想像しておきましょう。
今回のアニマ・エテルナ・ブルージュの弦楽器の編成は、彼らとしては普通のサイズの8.8.7.6.5というものでした。これは、「マ・メール・ロワ」を演奏する分には、それほど少ないとは思えません。木管楽器のソリストたちが、いかにも鄙びた音色と、ちょっと野暮ったい奏法を駆使して、それぞれのキャラクターを際立たせ、まるで室内楽のようにフレンドリーな演奏を聴かせてくれています。
しかし、最後の「妖精の庭」になったら、まるでフル・オーケストラのような壮大なサウンドが聴こえてきたのは、録音会場の残響と、TRITONUSによる卓越した録音のせいなのでしょう。つまり、このような「魔法」によって、現在ではこの倍近くの弦楽器を備えたオーケストラによって演奏されることの多い「展覧会の絵」でも、おそらく初演当時のサイズでも充分にそのスケールの大きな響きを出せることを実証させたかったのかもしれません。
メインの「展覧会の絵」では、そのファンファーレはちっとも「かっこよく」ありませんでした。それは、今まで聴いたこともなかったような「表情豊か」なものだったのです。もちろん、この部分をクレッシェンドとディミヌエンドを駆使し、きちんとフレージングを施して、「表情豊か」に演奏したって、ちっとも面白くないのは明白です。はっきり言ってこれは「軟弱」の極み(なんじゃ、こりゃ)、ムソルグスキーがこのテーマに込めたであろうロシア的なテイストは、このやり方では全く失われてしまっているのです。
つまり、これはインマゼールによるまさに「確信犯」的なやり方、この作品を最初からラヴェルが作っていたらこんな風になるんだぞ、という、まさに「ラヴェル作曲:展覧会の絵」を具現化したものだ、とは言えないでしょうか。そう思って聴いてみると、これはなかなか興味深いものになってきます。たとえば、「グノームス」での木管の下降音のモティーフと同じものが、そのあと弦楽器のグリッサンドの中でチェレスタによって奏されるというほとんど冗談としか聴こえないような部分では、このオーケストレーションが見事に「おフランス風」に存在感を主張するのを確かめることが出来るのです。そのフレーズの最後を飾るハープの装飾音の、なんと優雅なことでしょう。余談ですが、先日耳にしたさるアマチュア・オーケストラの演奏で、この部分をまさに「ロシア的」に乱暴に扱っていたハーピストのセンスの、これはまさに対極に位置するものです。
もう1ヶ所の「おフランス」は、「サムエル・ゴルデンベルク」。特に、「お金持ち」の部分でのユニゾンが、なんとも優柔不断な独特のリズム感に支配されているのがたまりません。途中でポルタメントまで加わりますからね。「カタコンベ」あたりも、金管の粘っこいアンサンブルは、ちょっと得難い風情です。
とは言っても、最後の「キエフ」だけは、いくらなんでもガンガンに盛り上がらないわけにはいきません。総勢6人の打楽器奏者による目いっぱいの炸裂では、さっきの「マ・メール・ロワ」をしのぐほどの高揚感を味わえますよ。

CD Artwork © OUTHERE MUSIC FRANCE

4月28日

BACH
Matthäus-Passion
Julian Prégardien(Ev), Karl-Magnus Fredriksson(Je)
Karina Gauvin(Sop), Gerhild Romberger(MS)
Maximilian Schmitt(Ten), Michael Nagy(Bas)
Peter Dijkstra/
Chor der Bayerischen Rundfunks
Regensburger Domspatzen(by Roland Büchner)
Concerto Köln
BR/900508(CD), 900509(DVD)


ペーター・ダイクストラは、バイエルン放送合唱団を率いてかつて2009年にBRレーベルから「マタイ」のCDを出していました。しかし、それは全曲をそのままCDにしたものではなく、おそらく元はラジオの番組だったものなのでしょう、メインはマタイ受難曲に関する解説の朗読で、その「参考音源」として、彼らが過去に演奏していたものが使われていた、というものなのでした。このCDを見つけたときには、「ダイクストラくんはもう『マタイ』の全曲を録音させてもらったのだ」と驚いたものですが、実態はそんなものだったのです。
とは言っても、ここで使われた音源の元となったコンサートは実際に行われていたわけですから、もちろんすでに彼のレパートリーにはなっていたのでしょう。ただ、ここでのオーケストラはバイエルン放送交響楽団というモダン・オーケストラでした。
その後、ダイクストラはしっかりとバッハの大規模な作品のライブ録音のCDDVDを出すようになります。その時には「クリスマス・オラトリオ」(2010年)ではベルリン古楽アカデミー、「マニフィカート」(2011年)ではコンチェルト・ケルンと、ピリオド楽器のオーケストラと共演するようになっていました。そして、まさに「リベンジ」たる今回2013年の「マタイ」のパートナーは、またいつものコンチェルト・ケルンです。
かつてはSACDを出していたこともあったこのレーベルも、最近はCDでのリリースしかなくなってしまいましたが、この録音に関しては同時にDVDも発売になっていました。BDであればもっと良かったのですが、まあ画面については目をつぶるとして、音声は確実にハイレゾになっているはずですので、CDと比較する意味でも聴き比べる価値はあると、両方入手してみました。
予想通り、DVDの音はCDとは比較にならないほどのすばらしいものでした。変なたとえですがDVDの音をBDの画面だとすると、CDの音はまるでDVDの画面のようなものですね。音の解像度の違いがはっきり聴いて分かるのですからね。おそらく、CDだけを聴いていたのでは演奏の印象まで全く別物のように感じられてしまうかもしれません。
オーケストラは弦楽器の人数がかなり多く、あまり「ピリオド」っぽいストイックなサウンドではありません。おそらく、ダイクストラは「モダン」とほとんど変わらないアプローチで、オーケストラに接しているのではないでしょうか。フレージングはたっぷりしてますし、極端なダイナミックスの変化もありませんから、何のストレスも感じることなく柔らかな響きに浸ることが出来るはずです。これは、ある意味「ロマンティック」なスタイルの演奏です。
おそらく、プレーヤーたちも、そんなスタイルを自発的に取り入れているのかもしれません。例えば、42番のバスのアリア「Gebt mir meinen Jesum wieder」では、第2コーラスの弦楽合奏にコンサートマスターの超絶技巧のソロが入るのですが、それを演奏している日本人の平崎真弓さんは、いとも表情豊かなヴァイオリンを聴かせてくれています。
歌のソリストたちも、かなり情熱的な歌い方、メゾの人はそれでちょっとリズムが重くなって自滅していますが、ソプラノのゴーヴァンはそのあたりの絶妙なバランスの中で、49番のアリア「Aus Liebe will mein Heiland sterben」を素晴らしく歌い上げています。そして、なんと言ってもこの曲をドラマティックに仕上げる役割を見事に果たしているのが、福音史家の若きテノール、ジュリアン・プレガルディエンでしょう。すでに「ヨハネ」の録音も行っている、まさに上り坂の成長株です。
合唱は、最初のうちはそんな「ロマンティック」な流れでおとなしかったものが、曲の終わりに近づくにつれてどんどん表現の幅が広がり、思わず引き込まれてしまうのは、ライブ録音のなせる業でしょう。ピアニシモで歌われる受難のコラール(62番)などは、背筋が凍るほどの凄さです。

CD & DVD Artwork © BRmedia Service GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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