どうぞ、晩に。.... 佐久間學

(07/12/24-08/1/11)

Blog Version


1月11日

RIES
Flute Quartets
John Herrick Littlefield(Fl)
Aaron Boyd(Vn)
Ah Ling Neu(Va)
Yari Bond(Vc)
NAXOS/8.570330


ベートーヴェンの最初期の伝記の執筆に関わったフェルディナント・リースは、「作曲家」というよりはむしろ「ベートーヴェンの弟子」というカテゴリーで語られることの方が多いのではないでしょうか。彼の父親、フランツ・リースにかつてはヴァイオリンを教わり、個人的にもなにかと面倒を見てもらったという縁があったものですから、その父親の手紙を携えてフェルディナントがやって来たときには、ベートーヴェンは快く彼をピアノの弟子として迎え入れたのでした。さらに、彼の作曲の先生であったアルブレヒツベルガーの教えを受けられるようにも手配をします。つまり、作曲に関しては、彼はベートーヴェンの「弟子」というよりは「同門」ということになります。
フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという編成のフルート四重奏曲作品145は、彼の晩年(とは言っても、まだ50代でした)に作られたものです。この作品番号はこの曲を出版したジムロック社によって付けられたものですが、それは現代では完全に忘れ去られていました。その楽譜のコピーを、1970年代の後半にワシントンの国会図書館で発見したのが、ここで演奏しているフルーティストのリトルフィールドでした。彼は、フルートと弦楽器で演奏するための新しいレパートリーを探すために、オランダのフルーティストで音楽学者でもあったフランツ・フェスターの作ったカタログを元に、その楽譜の現物をあちこち探し回っていたところだったのですね。彼はその楽譜を元に、アンサンブルを組んで演奏旅行を行います。それは聴衆にも、そして批評家にも好評をもって迎えられたということです。現在では、そのジムロック版のファクシミリが、フォールズ・ハウスから出版されていますから、誰でも容易に演奏できるようになっています(たしか、全3曲の版は5000円程度で買えるはず)。
確かに、このアルバムで初めて耳にした3曲のフルート四重奏曲は、とても魅力的なものでした。少なくとも、旋律の美しさという点では、ベートーヴェンをはるかに凌ぐものがあります。もしかしたら、そこにはシューベルトにも通じるほどの「歌」が秘められているかもしれません。さらに、それぞれ4つの楽章で構成されていますが、それぞれのキャラクターの対比も見事なものです。
第1番のハ長調の曲は、弦楽器だけで始まりますから、フルートが主役という感じはあまりないのですが、次第に出番が表に出てくるという仕掛けでしょうか。最初の楽章のテーマは「皇帝」とよく似ていますね。あるいはモーツァルトのオーボエ四重奏曲とか。最後の楽章には「スペイン風に」という表題まで付けられて、意表をつかれます。もっとも、そのテーマは別にスペインではなくちょっとオリエンタルなのがご愛敬。第2番はホ短調という翳りのある調性、それをふんだんに意識した音楽が、心にストレートにしみてきます。1楽章のテーマがまるでモーツァルトの39番のトリオのようにも聞こえます。第3番は、ベートーヴェンの最後の交響曲のように、2楽章にスケルツォ、3楽章にアダージョという構成です。そのスケルツォのトリオなどは、まさにシューベルトっぽいテイスト満載です。
こんな素敵な曲を世に知らしめてくれたリトルフィールドさんが、ぜひともこの曲を自分で録音して後世に残したかった気持ちは、よく分かります。しかし、残念なことに、もはや彼の技量は70年代の頃ほどのクオリティを維持することは不可能になっていました。音程やアインザッツは合わず、早いパッセージは見るも無惨なありさま、聴いていて辛くなるほどでした。第3番のフィナーレには小さなアインガンクが挿入されているのですが、それを「自作のカデンツァ」などと表記する神経にも、許しがたいものがあります。

1月9日

I Sing the Birth
New York Polyphony
AVIE/AV 2141


アーリー・ミュージックの分野には、数々の素晴らしい才能があーりーますが、そこにまた一つ輝く星のようなグループが加わりました。それは2006年に結成されたばかりというまさにフレッシュな男声4人組、「ニューヨーク・ポリフォニー」です。メンバーはカウンターテナー、テナー、バリトン、バスバリトンという声部構成、それぞれにユニークなキャリアを持った人ばかりです。というか、ジャケットの写真を見てみるととてもクラシックのコーラスグループとは思えないような、ちょっとあぶないルックス、いったいどこからこんな繊細な音楽が出てくるのかと思えるほどのミスマッチですよ。スキンヘッドで(輝いてます)、まるでギャングのような鋭い目つきの恐ろしい人がいるかと思えば、熊のような巨漢で眼鏡ばかりが異様に小さくみえる人とか、ものすごいインパクトです。
スキンヘッドはカウンターテナーのウィリアムス、すでに数多くのアメリカ国内のアーリー・ミュージックのグループに関わってきているその道のスペシャリストです。テナーのシルヴァーはイギリス出身、幼い頃からウェストミンスター寺院の聖歌隊のメンバーを務め、後にはケンブリッジのトリニティ・カレッジやセント・ジョンズ・カレッジといった名門で歌っていたという、まさにイギリス合唱音楽の伝統をしっかり身につけた人です。バリトンのディスペンサは、なんとジュリアード出身、ソリストとして幅広く活躍していました。そして、バスバリトンのフィリップス(これが熊)は、オペラ歌手として多くのオペラハウスで歌ってきた人です。
そんな4人のアンサンブルは、例えばデビューしたばかりの頃のキングズ・シンガーズのような、緊密なハーモニーと、軽やかな音色を持ったものです。カウンタテナーのウィリアムスの声が、決して飛び出さずに他のメンバーととても気持ちよく溶け合っていて、それは心地よいサウンドを醸し出しています。そして、その心地よさが、決してただのヒーリングに堕していないところが素敵です。というのも、このグループはその4人以外に、「ミュージカル・アドヴァイザー」という形で結成にも関わっているマルコム・ブルーノという人が、しっかり音楽的な方向付けをしているのです。ちょうど、このようなグループの草分けだった「プロ・カンティオーネ・アンティクヮ」におけるブルーノ・ターナーのような存在として、しっかりと格調高い音楽性をもたらしているのでしょう。
このアルバムは、ちょっと時期を外されてしまいましたが、クリスマスのための曲を集めたものです。もちろん、陳腐なクリスマスソングなどは1曲も登場しません。そのコンセプトは、大昔のプレイン・チャントから、出来たばかりの現代作品という時代を超えた視点、そして、シンプルなフォーク・チューンから複雑なポリフォニーという、曲の構成を超えた視点、その二つのものクロスさせた壮大な視野に立っているというのですから。
そうは言っても、基本的にどの曲にも感じられるのは中世やルネサンスといった時代のテイストです。アルバムの冒頭に収められた、アンドリュー・スミスというイギリスの若い作曲家が作った彼らの委嘱作品も、プレイン・チャントを導入に持つそんな雰囲気をたたえた曲です。緩やかな流れを持ってはいても、随所に現れる不協和音が、絶妙のアクセントとなっています。パレストリーナ、クレメンス・ノン・パパ、ウィリアム・バードといった名匠のマスターピースに混じって歌われる名もないトラディショナルでさえも、穏やかな中にしっかりとした主張が込められていることが、最後まで緊張感をもって聴き通すことの出来た最大の要因だったのでしょう。
彼らがこの先どのような路線を進むのか、楽しみに見守りたいところです。多くのグループがたどったような安易な道は決して取ってはもらいたくないものです。

1月7日

Tribute to Beethoven
Drum in The Symphony no. 9th
Massimo Aiello(Drum)
Walter Attanasi/
Slovak Philharmonic Choir
Slovak Radio Symphony Orchestra
AZZURRA/TBP-JAB039


年が明けたばかりだというのに、こんなアイテムです。今年の「第9」にはまだまだ間があります。
ジャケットと、そのタイトルを見れば、どうやらこれはベートーヴェンの「第9」を、オーケストラとドラムスが競演したもののようですね。こういう名曲はもはやなんでもありの状態ですから、とうとうこんな編成のものが飛びだしたということでしょうか。しかし、クレジットをよく読んでみると、これは生のオーケストラとドラムスがいっしょに演奏したわけではなく、すでにあった普通の「第9」のCDを聴きながら、それに合わせてドラムスを録音した、というもののようです。そういえば、指揮者やオーケストラなどは、まるで一昔前のNAXOSのようなマイナーな顔ぶれですね。もちろん、ソリストの名前の誰一人として聞いたことはありません。
正確には、オーケストラの音源が録音されたのが2000年頃、そして、このアイエロさん(普通に変換したら「愛エロ」だって)が、言ってみればそれをカラオケにしてドラムスを録音したのが2001年ということです。そんな古いものがなぜ今頃出回るようになったのかは、分かりません。
第1楽章は、とりあえず冒頭のホルンの5度では何も手を付けてはいません。ドラムスが登場するのはヴァイオリンの細かいアウフタクトが入ってからです。「ドラムス」とは言いましたが、もちろん「太鼓」だけではなくシンバル類も使われますから、ここではまずそのシンバルがヴァイオリンにアクセントを付け加えることになります。これがかなり繊細なタッチで行われますから、まずは一安心、このシンバル類のさまざまな音色を駆使しての「上塗り」は、かなりの場面でなかなかの効果を発揮することになります。これを聴く前に最も心配したのは、例えば「フックト・オン・クラシック」のように、のべつバスドラムのビートが刻まれて、妙なグルーヴが生まれてしまうことでした。しかし、そんないかにもリズミックな処理は本当にビート感が必要な場所のみにとどめられているあたりが、アイエロさんのこの曲に寄せる「トリビュート」のなせる技なのでしょうか。曲の中に込められたビート感をさりげなくひきだした、という感があります。
ですから、第3楽章のように殆どリズムとしての要素がないところでは、いともおとなしげに演奏しているだけです。その代わりと言ってはなんですが、楽章の頭に1分40秒ほどのインプロヴィゼーションが挿入されています。これも、「ドラムス」というよりは「パーカッション」と言った方が良いような心地よいものです。
第4楽章での聴きものはなんと言ってもテノールのソロが出てくる部分の「マーチ」でしょう。ここでのアイエロさんは、スネアドラムでまさに「マーチ」そのもののロールを聴かせたくれた結果、ここは本物の「行進曲」になってしまいましたよ。これはちょっとしたショックでしたね。そこから聞こえてきたまるで軍楽隊のようなテイスト、これもやはりこの曲の押しつけがましいキャラが見事に表に現れたものでしょう。
そしていよいよ大詰め、ソリストの四重唱が終わったところで、やはりドラムスだけのソロが入ります。「カデンツァ」のつもりなのでしょうね。これが延々7分以上も続きます。これこそが、ベートーヴェンの呪縛から解き放たれた、アイエロさんの自己表現の場だったのでしょうか。そのあとに続く最後のプレストが、逆に違和感のあるものに思えてしまうから不思議です。
しかし、この「本体」であるべき演奏の、なんと主体性のないことでしょう。逆に、これだけシンフォニーとしての「表現」のない演奏だからこそ、しっかりドラムスと融合して聞こえるのでしょうね。こんな演奏を探し出してきたアイエロさんにも拍手。

1月5日

オルガンは歌う
辻宏著
日本キリスト教団出版局刊
ISBN978-4-8184-0660-5

日本のオルガン制作者の草分けともいうべき辻宏さんは、2年ほど前に筋萎縮性側索硬化病という病気のために72歳でこの世を去っています。この本は、そんな辻さんが、もはや体の自由がきかなくなった病床で、口述筆記によってしたためたものが中心になっている、文字通り彼の「遺産」です。真に「美しい」ものに出会い、生涯をその美しさを奏でる楽器のために捧げた辻さんの語る言葉を集めたこの本は、読むものにとてつもない重みを与えます。
アメリカやオランダでのオルガン製作の修行を終えた辻さんが、帰国して自身の工房でオルガンを作り始めたときは、その当時のオルガン制作の主流とも言うべきバロック風の楽器を作ることになります。それは、その少し前までの主流であったロマンティック・オルガンへの反発から始まった「ドイツ・オルガン運動」という動きにのっとったものでした。本来は教会で用いられていたオルガンという楽器を、多くの聴衆が集まるコンサートホールでの使用に耐えられるように「改良」していった結果、シンフォニー・オーケストラに匹敵するほどの大音量は獲得出来たものの、昔のオルガンが持っていたクリアな響きは失われていました。折からのバロック音楽復興の動きに伴い、バロック時代の音楽を演奏するにはそんなロマンティック・オルガンではふさわしくないと、昔のオルガンを復元するという風潮が高まったのだそうです。
そこらあたりまでの話は、十分に知っているつもりでした。その頃国内で相次いで作られるようになったオルガンを見ても、近代的な電気的アクションではなく、昔ながらのトラッカー・アクションによる鍵盤の楽器が殆どだったような気がします。確かに、これはバッハの音楽などには適した楽器だと思っていました。しかし、著者はここで、それはバロック時代の楽器とは似て非なるものだと言い切っています。確かに良く似た構造を持ってはいますが、微妙なところで材料も製法も異なっているというのです。つまり、昔のものに似せて、それより遙かに進歩しているはずの現代の科学技術を駆使して、さらによいものを作った気になっているだけなのだ、と。
そこまで自信を持って言い切るだけの裏付けが、著者が実際にヨーロッパで出会った古いオルガンの音でした。何百年も前に、本当に手作業で作られたその楽器は、現代の技術の粋を集めて作られた楽器を遙かにしのぐ素晴らしい音を奏でていたのです。スペインの古いオルガンを修復したときも、鍛え上げられた職人の手によって制作された何百年も昔の楽器は、分解して再度組み立て、細かい調整を施しただけで実に美しい音色を聞かせてくれたということです。例えばパイプが損傷していたからといって、新しい材料で作り直したりしたらそれだけで美しい音は損なわれてしまうのだそうです。風箱を組み立てるのに使用した釘が、最初に制作されたときに使われたものはそのまままた使えたというのに、その後の時代に新たに用いられた釘は、ボロボロに錆びて使い物にならなかったというエピソードは、当時の技術の確かさを如実に語っているものです。
力強い著者の言葉は、今まで抱いてきたオルガンに対する価値観を根本から打ち砕くものでした。昔の名工の作った楽器を凌ぐものは、今の技術をもってしても作り上げることは出来ないという事実、それはひいては、近代の科学技術に対する信頼感が幻想に過ぎなかったことを明確に示してくれるものでもありました。今までたどってきた技術の進歩とは、あくまで均質なものを大量に作るためのもの、その課程で、肝心なものが抜け落ちてしまったのではないかと、著者は強調しています。そういえば、東京カテドラルのオルガンも、ほんの数十年前に作られたものなのに、電気的な部品がもう手に入らないというだけで使えなくなってしまったそうですね。その程度のお粗末さが、現代の技術の実態なのでしょう。そんなものを買ってどうなる

1月3日

SYRINX
Simion Stanciu Syrinx(Panpipe)
Armin Jordan/
Orchestre de chambre de Lausanne
CASCAVELLE/VEL 3116


このジャケット、なんだか以前に見た記憶があると思ったら、実はかつてERATOから出ていたものでした。

録音されたのは1985年、その頃はこのレーベルは確かRCAの傘下にありました。しばらくしてWARNERに吸収されてしまったと思ったら、いつの間にかもはや新録音は行わない実体のないものになっていましたね。フランスの由緒あるマイナー・レーベルが、親会社の意向でいとも簡単に消滅させられてしまい、その結果、音源は回り回ってこんなスイスのレーベルから新しくハイビット・マスタリングで登場することになるなんて、なんだかやりきれない思いです。
ここで演奏されている楽器は「ナイ」という、ルーマニアの民族楽器です。ただ、実際に「ナイ」という名前を聞くことはほとんどないことでしょう。一般的には、世界各地に広がっている同様の楽器の総称「パンパイプ」、あるいは「パンフルート」として、お馴染みのはずです。長さの異なる筒を音階順に並べただけという、いともプリミティブな構造、音を出すこと自体はそんなに難しいものではないようです。しかし、容易に想像できるように、隣り合っている音を出している分には簡単かもしれませんが、離れている音に素早く移るのは相当大変なことのはずです。例えば分散和音のような間の空いた音を滑らかに吹くなどというのは、よっぽど修練を積まない限りできっこないと思えてしまいます。
そんな楽器の演奏者として、これが録音された当時はルーマニアの「ザンフィル」という人が有名でしたね。というか、殆ど「パンパイプ=ザンフィル」といった感じで、まさにこの楽器の唯一無二の名人のように大活躍していたような気がします。ですから、同じ頃にシモン・スタンチウという人が、こんなクラシックのコンチェルトを吹いてしまったアルバムを見ても、「ザンフィルは、こんなことまでやってるんだ」ぐらいの感慨しかわきませんでした。もちろん、実際に音を聴いたこともありませんでしたよ。
そんなアルバムがCD化されたものを手にして、初めてパンパイプ版のモーツァルトやクヴァンツを実際に聴くことが出来ました。その前にまず、まるでデモンストレーションのように収録されていたのが、バッハの序曲第2番のフィナーレ、「バディネリー」でした。この曲こそ、いきなり細かい音符で分散和音が鳴り響くという、普通のフルートで吹いてさえ難しいものです。それを、スタンチウ(そのあとに自ら「シランクス」と名乗っているのですから、すごいものです)は信じられないほどの正確さで華々しく聴かせてくれました。いったい3度や4度の跳躍をどうやってこんなに素早くクリアできるのでしょう。
ですから、もはや技巧的にはクヴァンツであろうがモーツァルトであろうが全く不安を感じることはありませんでした。それは、両端の早い楽章では、まさに本来の楽器で演奏されたものと同じだけの高みにある素晴らしいものに仕上がっていたのです。そして、その上に、真ん中のゆっくりとした楽章では、なぜこの楽器を用いて演奏したかというアイデンティティの主張が加わります。例えばクヴァンツの第2楽章「アリオーソ」では、この楽器特有の哀愁に満ちた情感が、このドイツ・バロックの大家の旋律を借りて見事に広がっていました。そこには、単に物珍しさだけでクラシックに挑戦している民族楽器の姿などはさらさらありません。それは、もしかしたらフラウト・トラヴェルソで演奏されたものとは全く別の次元での、完成された音楽の形だったのかもしれません。
そう、今でこそ「クラシック音楽」なんて威張っていますが、元をたどれば数ある民族音楽のひとつの形に過ぎないのですからね。

1月1日

三善晃
レクィエム
外山雄三/
日本プロ合唱団連合
日本フィルハーモニー交響楽団
ビクターエンタテインメント
/VZCC-1007

あけましておめでとうございます。年頭から「レクイエム」とは、なんとも当サイトらしいことで。
これも、「LPジャケット美術館」の中にあったものを見つけて、非常に懐かしい思いに駆られたアイテムです。もう1度聴いてみたいと思っていた矢先にCD化されたものがリリースされたなんて、なんというタイミングの良さでしょう。ミニチュアサイズになってしまいましたが、この勝井三雄によるジャケットは、今でもその斬新さを失ってはいません。よく見ると女性性器のようなアブないものも描かれていますが、それはそばにある胎児との関連で死者に対峙する概念としての「生」を象徴したものなのでしょう。
三善晃の「レクィエム」が初演されたのは、1972年の3月15日のことでした。その時の模様は、今回のCD化にあたって新たにライナーノーツに転載されている中島健蔵氏の文章によってうかがい知ることが出来ます。興奮気味に三善の全く新しい側面を見せてくれたこの作品の誕生を伝えるさまは、当時の音楽ジャーナリズムの間では大きな話題となっていたことを思い出しました。程なくして、1977年3月10日には、日本プロ合唱団連合の定期演奏会として再演されます。その、東京文化会館でのコンサートのライブ録音が、この音源です。
その年の7月(なんという素早いリリースでしょう)に発売されたレコードを即座に買ってはみたものの、多数の打楽器(7人の打楽器奏者を指定)を必要とする大編成のオーケストラと、200人近くの大合唱という多くの演奏家によって産み出される複雑で膨大な音響の世界は、LPによって再現するにはかなり困難なものでした。特に合唱がひずんでしまっていたのは、当時の再生装置のせいなのか、あるいは盤質に問題があったのか、いずれにしても録音された音のかなりの部分が欠落した状態で聴き続けるのには耐えきれず、いつしかそれは中古屋行きとなってしまうのです。
30年の時を経てようやくCD化されたその音源は、見事なクオリティを誇っていることが分かります。この間のマスタリング技術の進歩にも助けられ、この「レクィエム」はついにLPでは聴くことの出来なかった素晴らしい録音を聴かしめてくれたのです。それは、あえてホールトーンを無視し、あくまで個々の楽器、合唱の明晰さを可能な限り強調したものでした。とてもライブ録音とは思えない、まるで虫眼鏡でのぞいたようにスコアの隅々までが見えてくるようなそれは明晰さでした。特に、この作品で重要な役割を果たしている打楽器たちのサウンドは、はっきりした主張を伴って伝わってきます。
そのようにして蘇った衝撃的な「三善サウンド」、確かに、かつてLPで聴いて、中島氏が味わったものと同質の驚きを改めて感じることは出来ました。しかし、その驚きには、実はかなり冷ややかなスタンスで向き合っていることも、同時に感じられてしまったのです。この曲が作られた頃は、例えばペンデレツキあたりの「前衛的」な作品が、真に驚きを持って受け止められていた時代でした。そのようなスタイルこそが「現代音楽」の進むべき道であると、当時の聴衆と、そして作曲家たちは間違いなく考えていたはずです。三善がこのようなサウンドを作り出した真意は知るよしもありませんが、冷静な眼を持って客観的に当時の音楽シーンを俯瞰することが出来るだけの時間が経過した「今」の視点でこの作品を聴いてみると、そこには明らかにそんな時代の反映を見ることが出来るのです。しかし、この再演の時点ではすでにそのお手本だったポーランドの作曲家は、そんなエピゴーネンたちの熱い思いを置き去りにして、見事に「変節」を完了していました。そんな「歴史」に翻弄された日本の作曲家の姿をこのアルバムから感じるというのは、あまりにもひねくれた見方でしょうか。

12月30日

CAGE
Complete Music for Prepared Piano
Giancarlo Simonacci(Pr. Pf)
Ars Ludi Lab(Perc. Ens)
Nicola Paszkowski/
Orchestra V.Galilei
BRILLIANT/8189


ジョン・ケージのプリペアド・ピアノのための作品を全部集めた3枚組の「全集」が、1500円ちょっとで買えてしまうなんて、なんとも恐ろしい世の中です。こんな事でもない限り、彼のこの楽器のための全作品を聴く機会などありえなかったことでしょう。これで、「ソナタとインタールード」は3種類のアイテムが揃いましたし、今まで聴いたことのなかった「協奏曲」も聴くことが出来ます。
この全集の最初に収録されている(ほぼ作曲年代順に曲が並んでいます)史上初のプリペアド・ピアノのための作品「バッカナーレ」が、たとえ当初は打楽器アンサンブルを想定していたところが、演奏家の都合が付かずに急遽必要に迫られて今のような形で初演されたものであったにしても、高価なグランドピアノにねじや消しゴムを挟んで音を変えるという、言ってみれば子どものいたずらのような発想の「楽器」自体は、長年にわたって受け継がれてきた西洋音楽に対する冗談に近い挑戦だったことは明らかです。「室内オーケストラとプリペアド・ピアノのための協奏曲」での、そんな楽器を、それこそ西洋音楽の権化であるオーケストラと競演させようというアイディアは、ちょっとすごいことだとは思いませんか?そもそも、この曲が初演されたときには、オーケストラを指揮したのはプロの指揮者ではなく、ケージの長年の友人であるモダン・ダンスの振り付け師、マース・カニングハムだったというのですからね。もちろん、カニングハムにオーケストラの指揮者としての能力などはありませんから、どんなスコアなのかは非常に興味のあるところです。だれかがこっそり教えていたのでしょうか(それは「カンニング」)。
実は、この間ご紹介した「LPジャケット美術館」の中に、この曲を高橋悠治が演奏したNONSUCH盤のジャケットがあったのですよ。それを見て、はるか昔にこのレコードをお店で見つけておきながらつい買いそびれてしまった記憶が蘇ってしまいました。あの時に買っておけば、今ごろになって後悔しなくて済んだものを。
というわけで、意気込んで聴き始めたところ、やはりこれはとてつもない「冗談」であることが分かります。オーケストラの楽器はそれなりにスケールっぽいものとかハーモニーも聴かせているのですが、迎え撃つプリペアド・ピアノのなんという秩序のなさ。やはり、これは西洋クラシック音楽への果敢な挑戦を企ててはみたものの、最初から滑稽な結末を迎えるのは分かっていたというストーリーを描いていたものなのでしょう。
しかし、独奏者のシモナッチは、なぜか大まじめにきちんと自分のパートに意味を持たせようとしているところが、逆に笑えます。どうやらこの人は、ケージの仕掛けた冗談にはあまり興味を示さない(示せない)人のように思えてしょうがありません。それが端的に表れているのが、おそらくこの楽器のための曲としては最も有名な「マルセル・デュシャンのための音楽」なのではないでしょうか。この曲の最後の方で、オリエンタルなフレーズが何回も繰り返されます。普通はその中で一番高い音のプリペアが突拍子もない音色と音程なので、そこでショック(というか、笑い)を与えられるものなのですが、この人のプリペアはなんの違和感もわいてこないようなまっとうなものなのです。
こういう演奏を聴いていると、ケージが西洋音楽の中に打ち込んだはずのくさびが、いつの間にかそれ自体西洋音楽の大きな流れの中に組み込まれてしまっているような思いに駆られてしまいます。そう、50年も経てば、それはもはや「前衛」でもなんでもなくなってしまうという、これが歴史の重みというものなのでしょうか。

12月28日

マエストロ・ペンの お茶にしませんか?
末廣誠著
レッスンの友社刊
ISBN978-4-947740-15-1

指揮者の末廣誠さんが、月刊誌「ストリング」に連載していたエッセイが単行本になりました。「ストリング」というのは料理雑誌(それは「イカリング」)ではなく、弦楽器を演奏する人のための専門誌ですから、なかなか普通のクラシック・ファンの目にはとまりにくいはずです。こんな風にきちんと1冊の本になれば、誰でもこの抱腹絶倒のエッセイが味わえますよ。今すぐ書店に走って立ち読みをしましょう!って、きちんとお金を払って買わなきゃダメじゃないですか。
末廣さんは指揮者としては超一流の方ですが、文章を書く才能もずば抜けたものをお持ちです。コンサートのパンフレットなどによく曲目解説などを執筆されていますが、それはとても新鮮な視点から書かれていて、思わず「そうだったのか!」と膝をたたいてしまうような、素敵なものです。何しろ「カルメン」の解説が「今夜、この舞台の上では殺人が行われる」で始まるのですからね。
そんな末廣さんが、「ストリング」で繰り広げていたのは、とことん笑えるお話しでした。ほんと、どの回も3回以上はくすくす笑いがこみ上げてくることは保証します。そのうちの1回は大爆笑かもしれません。なんたって「序曲『便秘薬』」ですもんね。
指揮者として全世界を飛び回っている体験と、音楽に対する該博な知識を、ここまで面白いものに仕立て上げる才能は、単に文章のテクニックというのではない、末廣さん本人が備えている「笑い」に対するセンスによるものでしょう。そういえば、本文中にも登場しますが、末廣さんは大の落語マニア、中でも、故桂枝雀が大好きだったとか、確かに、あの一見ハチャメチャにみえて計算し尽くされた笑いのセンスは、末廣さんの文章の中にも感じ取ることが出来ます(ところで、枝雀のDVDは入手されたのでしょうか)。最高に笑えたのは、雑誌連載の時に、この本の中にある2年分の連載の最後から一つ前の号で「次回はなんと最終回」とやったことでしょう。その前に直接ご本人と話をしたときに、「3年間連載します」とおっしゃっていただけにこれはショックでした。しかし、次の号ではケロッとして「次号から新シリーズをスタートします」ですって。もちろん、このやりとりは単行本には収録されていませんが、この手の込んだ2ヶ月連続のジョーク、こうなるとかなりブラックっぽくなってきますね。ちなみに、その「新シリーズは」、「名曲言いたい放題編」というタイトルで、今でも連載が続いています。
しかし、そんなおかしさに笑い転げているだけでは、真の末廣ファンとは言えません。一見面白おかしい中に、末廣さんならではの鋭い主張が込められているのを、決して見逃すことは許されないのです。例えば、「子供のための音楽教室を考えるの巻」では、真に音楽が好きな人間を育てるためには何が必要なのか、とても示唆に富む提言が語られています。また、「コンクールについて考えるの巻」では、普段漠然と感じていた疑問点が、とても明白な形で示されています。そうなんですよ。大人になってからのコンクールなんて、絶対あり得ない話じゃないですか。
嬉しいことに、この単行本には雑誌には掲載されていなかった書き下ろしが4編も加わっています。それを読めば、なぜ「マエストロ・ペン」なのかがよく分かるという、これももしかしたら末廣さんの仕掛けだったのかもしれません。そして、最後の1編には、極めて真面目に末廣さんの音楽に対する信条告白が述べられています。「柄にもなく大まじめなことを書いてしまった」などと茶化していますが、これこそは末廣さんの本心であることは明らかです。油断をしてはいけません。
そうなんですよ。最大の油断は、これを読んで末廣さんのことを「面白く、楽しい人」と思いこんでしまうことなのです。本当はとっても怖い人なんですからね。

12月26日

BACH
Der Streit zwischen Phoebus und Pan
Simone Nold(Sop), Annette Markert(Alt)
Markus Schäfer, Werner Güra(Ten)
Konrad Jarnot, Stephan Genz(Bar)
Hansjörg Albrecht/
Münchner Bach-Chor, Bach Collegium München
OEHMS/OC 914


ワーグナーの「指輪」全曲や、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」をオルガン用に編曲したSACDなどをご紹介したことのあるオルガニスト、ハンスイェルク・アルブレヒトは、実は指揮者としても活躍していたことをこのアルバムで知りました。彼が指揮をしているのがミュンヘン・バッハ合唱団、あのカール・リヒターによって創設された合唱団です。リヒター亡き後その任を引き継いだのがハンス・マルティン・シュナイトですが、2005年からはこのアルブレヒトが指揮者となっているのです。そういえば、リヒターだってもともとはオルガニストでしたね。
ここで演奏しているのは、バッハの「世俗カンタータ」というよりは、「音楽劇」としてとらえるべき作品「フェーブスとパンの戦い」BWV201です。バッハはオペラのような劇音楽は書いていないと思われがちですが、例えば「マタイ受難曲」などはれっきとした劇音楽です。その「マタイ」の台本(というか、アリアの歌詞)を書いたクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリチによって、有名なミダス王の神話を題材にフェーブス(アポロ)とパンの歌合戦の場面が描かれた物語が、この曲です。
通常は開始の合唱で始まるものなのですが、アルブレヒトは「劇」としての体裁を確保するために、この曲の前に「序曲」を用意しました。それは、バッハの他の作品を転用するという、バッハ自身も行っていた手法です。「イースター・オラトリオ」の元となった「牧人のカンタータ」BWV249aの1曲目と2曲目、そしてカンタータ「いざ、晴れやかなラッパの鳴り渡る響きをAuf, schmetternde Töne der muntern TrompetenBWV207aの冒頭の合唱をドッキングさせたものです。さらに、同じ207aからの「マーチ」を、201への導入として使っています。
そこまで周到な準備をして始められたこの「劇音楽」、そこからは、アルブレヒトの生き生きとした音楽の運びによって、とても生々しい「ドラマ」が展開されることになりました。いえ、音楽自体はバッハの時代の様式をきちんと踏まえたものなのですが、それを歌っている人たちが見事にキャラクターを「演じて」いるものですから、とても人間的な息づかいを聴くことが出来るということなのですが。
幕開けの合唱から、それははっきり現れています。音程などは多少犠牲にしても、ある種の切迫感のようなものを最優先に表現していることが、もろに伝わってきます。そして、それぞれのアリアの表情付けも、まさに真に迫ったものです。物語のハイライト、フェーブスとパンがそれぞれ歌う歌の違いの際だたせ方は見事です。フェーブスの歌はあくまで美しく、それは殆どなんの主張も持たない平面的なものにすら聞こえます。イントロのヴァイオリンのフレーズで、最後のちょっとした「おかず」を拍の中に入れず独立して処理をしているのは、アルブレヒトのセンスでしょうか。これも「美しさ」を引き立てるものです。それに対するパンの歌は、とことんワイルドに迫ります。しかし、そんな粗野な面の方が、聴いていて味があると思えるのはなぜでしょう。
そんなパンの歌をたたえるミダス王の歌には、どんな聴き手の興味をもみだす(満たす)迫力が込められています。これを歌っているギュラは、わざと羽目を外して、確信犯的に大げさな身振りを聴かせます。その後のレシタティーヴォで、そんな審美観の欠けた耳がロバの耳にされてしまうくだりも、とても情けない表情、まるでオペラのようにリアリティあふれるものです。
このオーケストラには、フルートのヘンリク・ヴィーゼが参加しています。それは「序曲」のアダージョで、まるで木管のような渋い響きで惹きつけられたものですが、最後のマーキュリーのアリアのオブリガートでのアンサンブルでも、完璧な語り口を堪能させてくれました。
このチームの「マタイ」などは、どれほどドラマティックになるのか、ぜひ聴いてみたいものです。

12月24日

MOZART
Don Giovanni
Johannes Weisser, Lorenzo Regazzo(Bar)
Alexandrina Pendatchanska, Olga Pasichnyk,
Sunhae Im(Sop), Kenneth Tarver(Ten)
René Jacobs/
Rias Kannerchor, Freiburger barockorchester
HARMONIA MUNDI/HMC 901964.66


ミュージカルの世界には、「ショーストップ」という言葉があるそうですね。裸の女性の踊りではありません(それは「ストリップショー」)。実はこの言葉、微妙にニュアンスの異なる2つの意味で使われているようです。一つは文字通り大喝采でショーが一時中断されてしまうような状態、そしてもう一つはオペラの場合の「アリア」に相当する、聴かせどころのナンバーのことを指し示します。つまり後者は、「『キャッツ』の中の『メモリー』というショーストップは、素敵だね」といった具合に、かなりキザなシチュエーションでしか使うことはおすすめできないような単語です(そして、それに相づちを打ってくれるような女性には決して出会えることはありません)。なぜ「アリア」が「ショーストップ」なのかといえば、そういう音楽的に完成されているナンバーというものが始まると同時に、物語の進行はそこでストップしてしまうからなのです。そう、ミュージカル嫌いを公言してはばからないタレントが、「セリフをしゃべっていたと思ったら、突然歌を歌い出した」という、あの状況ですね。
もちろん、オペラの場合も、その状況は変わりません。イタリア・オペラではレシタティーヴォによって進んでいた物語は、アリアが始まるとともに一時停止、そんな不条理は気づかないふりをして、美しい歌に酔いしれるというのが、オペラ鑑賞の暗黙の「マナー」となっているのです。
モーツァルトのオペラに新鮮な息吹を与え続けているヤーコブスは、もしかしたら、そんな欺瞞的な「マナー」に耐えがたい思いを持っていたのかもしれません。今回の新録音「ドン・ジョヴァンニ」では、「ショーストップ」であるはずのアリアの最中でも、ドラマは滞ることなく継続されているという驚くべき場面を、いやと言うほど味わうことになるはずです。レシタティーヴォ・セッコは、楽譜に書かれているメロディを忠実に歌うというよりは、普通のセリフをしゃべっているものに、ほんの少し抑揚が付いているだけのように聞こえてきます。その分、通奏低音のフォルテピアノと、時にはチェロまでが自由自在に振る舞って、その「セリフ」に音楽的な愉悦感を与えています。
デュエットやアリアでさえ、隙あらば芝居を「ストップ」させては置くものかという演奏家たちの根性のようなものによって、ハッとするようなエキサイティングな瞬間がひっきりなしに訪れます。エルヴィラ役のペンダチャンスカは、まるで狂気のような鋭い表現で、せっぱ詰まった情景を訴えますし、ツェルリーナ役のスンヘ・イムはとことん細かい語り口で物語としてのリアリティを聴かせてくれています。ほんと、この人の芸の細かさは特筆もの、ドン・ジョヴァンニとのデュエット「Lá ci darem ma mano」では、最初はためらっているものが、即興的なカデンツァを挟んで嬉々として他のオトコについていこうと決心してしまう変わり身の早さを、見事なまでに歌の中で演じきっているのですからね。
演奏されている版は、基本的にウィーン版、後に殆ど歌われなくなるナンバーもすべて網羅した「完全版」、かと思うと、最後の大団円だけは残すという「折衷版」でした。もちろん、その際に削除されたプラハ版の曲も、すべて最後にまとめて収録されています。そこで、ドン・オッターヴィオのアリアも2曲とも聴くことが出来るわけですが、それを歌っているケネス・ターヴァーという人の柔らかい声には完全に魅了されてしまいました。この人は、モーツァルト・テノールとしては非の打ち所のない資質を持っているのでは。
買ってしまってから気づいたのですが、このアイテムはSACDでも出ていたのですね。分かっていれば迷うことなくそちらを買ったのに、残念なことをしました。こんな風にわざわざ2種類出すなどという無駄なことをせずに、ハイブリッドSACDで一本化してくれれば、こんなミスを起こすこともなかったのですが。

おとといのおやぢに会える、か。


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