ノーブラランナー。.... 佐久間學

(13/9/20-13/10/8)

Blog Version


10月8日

DECCA SOUND
The Analogue Years
V.A.
DECCA/478 5437


2年前に出たThe Decca Soundの続編です。同じように50枚のCDが入ったボックスですが、今回は2枚組になっているオペラの全曲盤などもありますから、実質は54枚入りです。いや、そんな枚数には関係なく、それぞれのCDにはたっぷりボーナス・トラックが加わっていますので、本当は何枚分なのか、見当もつきません。もちろんここで言う「枚」というのはオリジナルのLPの枚数のことです。LP1枚にはどう頑張っても60分ぐらいしか入りませんが、CDだったら80分以上入りますから、「おまけ」を入れるには事欠きません。
今回は特に「The Analogue Years」というサブタイトルが付いている通り、前回は含まれていたデジタル録音のものは一切ありません。つまり、全てアナログ録音によるもので、1点を除いてはかつてはLPでリリースされたものばかりが集められています。そして、なんとこの中には、1枚だけ「モノラル」のLPで出たものも有るのです。政治家に欠けているものではありません(それは「モラル」)。

このボックスでは最近のものからほぼ年代順に番号が付けられています。その最後、50枚目には、DECCA1954年5月にアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団によって初めてステレオ録音を行った、リムスキー・コルサコフの「アンタール」と、グラズノフノ「ステンカ・ラージン」が入っています。もちろん、これはロイ・ウォレスという、DECCAがステレオ録音を行うにあたってヘッドハンティングしたエンジニアによってステレオで録音されてはいますが、同時に、ギル・ウェントという別のエンジニアによってモノラルのテープも作られていました。というのも、ステレオのLPが、しっかり規格も決まって世界中で発売されるのは1958年になってからのことですから、この録音の時点ではステレオのLPは存在しておらず、商品としてはモノラルのLPでしか出すことはできなかったのですね。事実、このジャケットのモノラルLPはその年の10月にリリースされましたが、ステレオ版はこのカップリングで出ることはなく、「アンタール」にいたってはLPで発売されることすらありませんでした。そのステレオ音源は、録音されてから半世紀近くも経った2002年に「Decca Legends」シリーズのCDとして、「シェエラザード(1960年録音)」とのカップリングで初めて日の目を見たのです。このステレオ版「アンタール」が、先ほどの唯一LPでリリースされなかったものになります。そして、モノラル版はこれが初めてのCD化となります。
この2枚のCDを比較できるというのが、今回最も惹かれるものでした。ここでウォレスがとったマイクアレンジは、その後のDECCAの録音のベースとなる、3本のマイクを三角形の頂点に配した「デッカ・ツリー」と呼ばれるものでした。モノラル版では、おそらく別のマイクを使っていたのでしょう、それは、単に「音が左右から聴こえてくる」といった次元のものではなく、楽器の分離とか、それぞれの存在感などが全く違っていました。例えば、ハープの音などは、モノラルでは他の楽器に埋もれてしまっているものが、ステレオでははっきりと浮き上がって聴こえてきます。ちなみに、ここでアンセルメが使っているのは「第2稿」の楽譜です。

この「アナログ・イヤーズ」の時期の最大のヒット・メーカーと言えば、やはりジョン・カルショーでしょう。ここには、そのカルショーがDECCAで最後に手掛けた196710月の録音、ヴェルディの「レクイエム」も収録されています。もちろん、エンジニアはゴードン・パリー、サザーランド、ホーン、パヴァロッティ、タルヴェラという重量級の歌手の選定からして最高の布陣で迫ります。「Dies irae」のバスドラムの音を聴くにつけ、かつてはこのように絶対に「生」では表現できない「レコード芸術」の究極の姿があったことに、思いを馳せる人は多いはずです。言うまでもありませんが、ただのCDではその片鱗しか味わうことはできません。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

10月6日

HEININEN, NIELSEN
Flute Concertos
Mikael Helasvuo(Fl)
Tibor Bogányi/
Saimaa Sinfonietta
ALBA/ABCD 350


このCDのジャケットには、「DXD」のロゴが見えます。ご存知のように、「DXD」というのはノルウェーの2Lというレーベルが初めて用いた24bit/352.8kHzというとんでもない解像度を持つPCMの規格です。その後、デンマークのDACAPOレーベルでも採用、そしてこのフィンランドのALBAです。北欧の人たちは、やはりこのような澄んだ音が好きなのでしょうか。もっとも、先発の2社はDXDで録音したものをSACDBDオーディオとしてリリースしていますから、その「澄み具合」が実感できますが、こちらはただのCDですから、あまり意味があるとは思えません。いずれ、そのようなハイレゾのメディアを出すのか、あるいはダウンロード用の音源に使うのでしょう。
ここには、やはり北欧の2人の作曲家のフルート協奏曲が収録されています。1931年に亡くなったデンマークのニルセンと、その直後、1938年に生まれたフィンランドのパーヴォ・ヘイニネンです。まずは、このところ何かと接することの多いニルセンの晩年に作られた有名な作品です。特に、ここでは、2つの楽章から成るこの曲の第2楽章のオリジナルの形が世界で初めて録音された、というトピックスがあるものですから、そこを重点的にチェックです。
常々、この曲のエンディングには、何か違和感がありました。ソロ・フルートは朗々とEの音をフォルテで伸ばしているのですが、バックのオーケストラはその間に徐々にディミヌエンドをかけて、音を小さくしていくようになっているのですよ。まあ、最後はフルートが一人だけ残るという、いかにもニルセンらしいトリッキーな終わり方なのでしょうが、なんかすっきりしない思いが残ります。トリツク島がないというか。
そこで、今回初録音の初稿を、楽譜を見ながら聴いてみました(ちなみに、IMSLPでは、最新の全集版をダウンロードできます)。違っていたのは、第2楽章の練習記号「I」(169小節)から後です。初稿は29小節(たぶん)でしたが、現行の改訂稿では99小節と、3倍以上の長さになっています。その間に入っていたカデンツァ風のパッセージは、初稿にはなかったのですね。そして、初稿のエンディングは見事に「ジャン」と元気いっぱい終わっていますよ。なんか、この方が演奏していても気持ちがいいような気がしますが、ニルセンはあえてそれに逆らって、しちめんどくさい終わり方に変えてしまったのでしょう。
フルート・ソロは、フィンランドの名手ミカエル・ヘラスヴォです。かつては、新しい作品の世界初演などを数多く手がけていて、超絶技巧の持ち主として知られていた人ですが、正直、もはや「旬」はとっくの昔に過ぎてしまったという感があるのは残念です。息のコントロールがきかなくなっているため、音程やアタックがかなり怪しげ、聴いていて辛くなってしまいます。
もう一つの協奏曲は、ヘイニネンが2010年に作った(2012年に改訂)「Autrefois」というタイトルのフルート協奏曲です。このタイトルはフランス語で「むかしむかし」という意味ですが、ヘイニネンが小さいころに聴いたシベリウスの同じタイトルの曲(op.96の「3つの小品」の2曲目)の印象がとても強く残っているということで、タイトルと、そこに込められたコンセプトを使ったのだそうです。それは、ヘイニネンにとっての「むかしむかしの音楽」、その中には、自分自身のかつてのとんがっていた作風の音楽も含まれているのでしょう。
曲全体は、そんなタイトルから連想されるような、何かいろいろな方面の「むかしむかし」が含まれているもので、「現代音楽」に慣れ親しんでいる人にとってはある意味聴きやすい、というかほほえましい作品ではありました。特に最後の「子守唄とバッカス礼賛」という楽章では、ワルツ風のダンスなども登場して、楽しめます。
ただ、ここでも、ソリストが彼の技量を超えた楽譜に悪戦苦闘している様子がはっきり分かってしまいます。

CD Artwork © Alba Records Oy

10月4日

BRITTEN
War Requiem
Emily Magee(Sop)
Mark Padmore(Ten), Christian Gerhaher(Bar)
Maris Jansons/
Tölzer Knabenchor
Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
BR/900120


「戦争レクイエム」がこんなに人気のある曲だったなんて、今の今まで気づきませんでした。いくらブリテンの生誕100年とか、作品の初演50周年とかが重なったとは言っても、このところの新譜ラッシュは、いったい何なのでしょう。今回はヤンソンス盤ですが、手元にはあとマクリーシュ盤とパッパーノ盤が控えています。それらがすべて今年録音されたものだというのですから、ちょっとすごいですね。
そんな「ブレイク」、ではなくて「乱立」の中で、何とか自社製品をアピールしようと、それぞれのレーベルを抱える代理店は知恵を絞っているのでしょう。このレーベルの代理店、ナクソス・ジャパンでは、本家NAXOSだけで手いっぱいなのでしょうに、しっかりとフルサイズの「帯」を付けてくれましたよ。それが、これです。

「スコアの冒頭」に書いてあるというオーウェンの詩の原文が載っているのが、まずすごいですね。そして、それをきちんと日本語に訳してくれています。そんなことは、担当者の語学力をもってすればいとも容易なことなのでしょう。ところが、3行目の「All a poet can do today is warn.」を「すべての詩人が今日成し得ることは警告を与えることである」と訳したのは、「All」の意味を取り違えてしまった明らかな誤訳です。ここでの「All」は、「poet」にかかる形容詞ではなく、「すべてのもの」という意味の名詞です。直訳すれば「ひとりの詩人(オーウェン自身のことでしょうね)が今日出来ることのすべては、警告を発することだ」となるのでしょうが、文章としては「詩人である私には、今は警告することしか出来はしない」ぐらいの方が、読んで美しいと思えるのではないでしょうか。もう1ヵ所「普及の名作」というのも、まあこれだけこの曲が世の中に広まっている、という意味を込めたのでしょうが、やはり「不朽の名作」のほうがきちんと意味が伝わります。こんな間違いを犯さないように不眠不休で勉強してください。
そんな感じで、完全に足を引っ張ってしまった形の「帯」です。これでは、わざわざ「帯」を付けた意味がありませんね。
そんなことにめげてはいけません。真摯に演奏そのものを聴かなければ。これは今年の3月13日から15日にかけてミュンヘンのガスタイクという有名なホールで行われたコンサートのライブ録音ですが、ブックレットの中の写真はこのホールとは違っています。実は、同じメンバーは3月23日にルツェルン音楽祭でもこの曲を演奏していたのですね。写真はその時のものでした。それを見ると、合唱が100人ちょっとと、この曲に対しては少なめ、しかも作曲家の指示ではソプラノ・ソロはその合唱の中で歌うはずなのに、ここでは指揮者のすぐ横にいます。これは、この曲でのソプラノ・ソロの役割には明らかに背いた措置なのではないでしょうか。あるいは、ソリストが作曲家自身のDECCAでの録音セッションの時のように「前で歌わせろ」とごねた結果なのでしょうか。
そんな少人数の合唱にも表れているように、ヤンソンスのこの曲に対する姿勢は、何か醒めたもののように感じられてしまいます。「Requiem aeternam」では、大人数の合唱であればそこから生まれるピアニシモから伝わってくるはずの不気味な雰囲気が、この人数ではなかなか生まれてきません。「Dies irae」での金管楽器も、なんか遠慮がちのよそよそしさ、思いっきり弾けてやろうという気概がほとんど感じられません。ソリストにしても、「Offertorium」に続く「So Abram rose」でのハープのイントロに乗って美しく歌われるはずの「an angel called him out of heav'n」というテノールとバリトンの二重唱は、二人の思いがバラバラで全く美しくありません。そもそも、パドモアもゲルハーエルも、この曲を歌うには、あまりにも繊細すぎるのでは、という気がしてしまいます。ソプラノのマギーも、「Sanctus」の冒頭など、決定的にパワー不足の感は否めません。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH

10月2日

SACRED VERDI
Maria Agresta(Sop)
Antonio Pappano/
Coro dell'Accademia Nationale di Santa Cecilia-Roma(by Ciro Visco)
Orchestra dell'Accademia Nationale di Santa Cecilia-Roma
WARNER/9 84524 2


今までジャケットにあった「EMI」というロゴが、「WARNER」というロゴに替わって最初に発売されたアイテムの中の一つを、実際に手に取って見てみました。確かに、あの印象的な赤いロゴがなくなって、ジャケットの表のイメージは一新されてしまいましたが、その他の部分、たとえば背中などは、デザイン的には全く同じですね。さらに、ブックレットのレイアウトや紙質、品番の付け方なども、EMI時代と全く一緒、作り手自身は全く変わっていないことがうかがえます。

ただ、ロゴだけではなく、全てのテキストの中から「EMI」という文字がきれいに消えてしまったことには、寂しさを通り越して怒りに近いものがわいてきます。最初にEMIを買収したUNIVERSALではきちんとロゴなどは残していましたからね。それが、今回は「レコード」が誕生した時から存在していた老舗レーベルに対しての、こんなぞんざいな仕打ちですよ。WARNERというか、それを取り巻くビジネス社会では、そのような文化に対する畏敬の念などは、まったく顧慮されることはなくなっているのだという現実を突きつけられて、とてもやりきれない気持ちでいっぱいです。あくまでクラシックに関してだけのことですが、レコードの世界にはもう「EMI」という慣れ親しんだ言葉は存在していないことになってしまったのですからね。そう言えば、このアルバムには「Mastered at Abbey Road Studios」というクレジットが見られますが、この、かつてはEMIの所有物であった由緒正しいスタジオは、今は誰のものになっているのでしょう。
さて、このアルバムには、タイトルにもあるようにヴェルディの宗教的な作品が集められています。彼の最も有名な宗教曲といえば、あの「レクイエム」ですが、ここではそれ以外の作品が収められています。ひとまずメインの曲目は「聖歌4篇」という、これもそこそこ有名な作品。そして、カップリングが1869年に作られた「Libera me」です。この曲は、その5年後に作られることになる「レクイエム」の最後の楽章の最初の形として知られているものですね。そもそもは、ロッシーニの死を悼んで、イタリアの13人の作曲家が分担して作った「Messa per Rossini」の最後を飾る曲として作られたものです。しかし、このヴェルディが仕掛けた壮大なプロジェクトは、曲自体は完成したにもかかわらず失敗に終わり、演奏されなかったそれらの楽譜は、一部を除いて出版社のリコルディの倉庫に眠ったままとなるのです。
そのミサ曲が日の目を見るのは、作られてから119年後の1988年のことでした。ヘルムート・リリンクによるその「世界初演」の模様はCDHÄNSSLER/98.949)になりましたが、おそらく、それ以来「全曲」が録音されることはなかったようです。「レクイエムの歴史」の中でも「各章は概して冗長で約2時間の全曲を聴きとおすにはかなりの忍耐が要る」と述べられている通り、全体の曲ははっきり言って駄作です。ただ、ヴェルディの作った「Libera me」だけはその後も何かの折に録音されることもありました。その「折」とは、まず2001年の「没後100年」。その時には、チョン・ミョンフン(DG)とリッカルド・シャイー(DECCA)が録音していました。そして、今度の「生誕200」年です。ちょっと前にジャナンドレア・ノセダ(CHANDOS)が録音していたと思っていたら、今回のパッパーノです。思いもかけない「Libera meインフレ」ですね。
これだけ録音が揃っていれば、これは単なるマニアックな「初稿」ではなく、それだけで十分存在価値を示しています。たとえば、「Dies irae」の冒頭などは、「レクイエム」で聴かれるような度肝を抜くインパクトとはちょっと違う、もっとマイルドなものを聴くことが出来ます。
こちらはセッション録音で、なかなか充実した演奏なのですが、肝心の「聖歌4篇」の方はライブ録音で、かなりいい加減なところがあります。

CD Artwork © Warner Classics, Warner Music UK Ltd.

9月30日

BRUCKNER
Symphonien 4 7 8
Kent Nagano/
Bayerisches Staatsorchester
FARAO/A 108076(BD)


ケント・ナガノとバイエルン州立管弦楽団によるブルックナーは、今までに「4番」と「7番」がリリースされていました。2007年に録音された「4番」は、第1稿を使用、しかもSONYからのSACDということで、ここでも取り上げていたわけですが、2010年録音の「7番」ではただのCDだったので、聴いてません。そして、昨年あたりに2009年に録音された「8番」の第1稿による演奏がやはりSONYからのSACDとしてリリースされる、という案内が出されたのですが、何度も何度も販売延期が続いた後、どういう理由なのか、結局販売中止となっていました。
それが今回、この3曲をまとめたCDボックスが、SONYではなく実際にこの録音を担当したFARAOから販売されることになりました。もちろん、「8番」単品でもお求めいただけるようになっています。しかし、同時に、この3曲を1枚に収めたBDオーディオも発売となったのには驚きました。もちろん、そうなればCDなんかは目じゃありませんから、迷わずこちらをお買い上げです。
このBDオーディオには、トータル・タイムがほぼ4時間の24bit/96kHzの音源が、2チャンネルは非圧縮のリニアPCM、5チャンネルがロスレス圧縮のDTS-HDマスター・オーディオで収録されています。DTSではどのぐらいデータが圧縮されているのかは分かりませんが、単純に圧縮なしで計算すると、BD1枚の容量を超えてしまいますから、ほぼ目いっぱい使っているのでしょう。そんなすごいものが、割引を適用すると2000円台で買えてしまうのですから、信じられないほどの安さです。
まずは、先ほどの「4番」で、同じものがSACDBDオーディオではどのぐらい違うのか、あるいは違わないのかを確かめてみることにしましょうか。これは、SACDはシングルレイヤーではなくハイブリッドですから、幾分劣る部分も出てくるのかもしれませんが、BDの方が一枚上手という感は否めません。とにかく、弦の音が滑らかなんですよ。これこそが「ピュア」という、一点の曇りもない美しさです。SACDでは、時折そこに曇りが生じる場合があるのですね。第2楽章のチェロのテーマなどは、存在感がまるで違います。そして、フィナーレの最後、例の第1稿の目玉、「ポリリズム」(この部分にこの言葉を使ったのは、多分このサイトが初めてのはず)では、SACDではもろに破綻をきたしています。BDでは何事もなかったように、それぞれのリズムがくっきりと聴こえてくるというのに。
録音の現場では、編集の問題などもあってDSDではなくPCMが使われるケースが圧倒的に多いような気がします。アナログ録音からのデジタル・トランスファーでも、PCMの方が多いのではないでしょうか。これまで何度も経験してきたことですが、ここでも元のPCMそのものであるBDと、それを一旦DSDに変換したSACDとの間に、優劣が出てきてしまったのでしょうね。
やっと聴くことが出来た「8番」は、もう音については完璧としか言いようがありません。録音されたファラオ・スタジオの残響まできちんとコントロールされていて、ブルックナーらしさに必要な響きは残しながらも、決して混濁することのない「ピュア」な音が届いてきます(カテドラルでのライブの「7番」は、ちょっと残響に邪魔されています)。ナガノは、以前ベルリン・ドイツ響との2005年のライブをDVDに残していますが、その時にはハース版を使っていたはず、それが今回は第1稿。このところこの楽譜による演奏の録音もかなり増えてきましたが、その中では演奏時間が最も長いものとなっています。それは、「遅い」というよりは、それぞれのフレーズをたっぷり歌いこんだための結果のように思えます。第3楽章のワーグナー・チューバなどは、「演奏」というよりは「礼拝」といった感じさえしないでしょうか。ほんと、これだけの美しい音がケントによってこれだけの荘厳な力で迫ってくれば、誰しも「ブルックナー教」の信徒になってしまうことでしょう。

BD Artwork © FARAO Classics

9月28日

The Verdi Album
Jonas Kaufmann(Ten)
Pier Giorgio Morandi/
Orchestra dell'Opera di Parma
SONY/88765492002


今まではDECCAというか、UNIVERSALの専属アーティストだったカウフマンは、SONYに「移籍」したようですね。シュリーマンではありません(それは「遺跡」)。せっかく、今まではかつてのDECCAの血を引くエンジニアによる素晴らしい音を楽しめたというのに、レーベルが変わってしまったら音まで変わってしまうのかもしれないと、ちょっと不安になりました。ところが、クレジットを見てみるとエンジニアのフィリップ・サイニーだけではなく、エグゼキュティブ・プロデューサーやレコーディング・プロデューサーまで、DECCA時代とほとんど同じ人が名を連ねているではありませんか。そういうことだったのですね。レーベル、つまりレコード会社が自前の録音スタッフを抱えて独自のサウンドを聴かせていたという時代は、とっくの昔に終わっていたのですよ。今ではそのような「現場」の仕事は外部のスタッフに任せて、レーベルは単にそれを販売する「権利」を有するだけという、文字通り「レーベル=ラベル」という意味しかなくなっているのですね。あ、これはあくまでUNIVERSALとかSONYといった「メジャー・レーベル」での話ですが。
というわけで、もちろん「ヴェルディ・イヤー」がらみでリリースされた(「Verdi200」というロゴが見えますね)カウフマンのニューアルバムでは、2008年にDECCAからリリースされたアルバムの中で歌われていたヴェルディのナンバーとは、同じオペラでもしっかり別の曲が収録されているという、理にかなった心配りがなされていました。
今回取り上げられているオペラは11作、その中には前のアルバムでは歌われていた「ラ・トラヴィアータ」は含まれていませんから、カウフマンのCDでのレパートリーはヴェルディのオペラ全26作中12作ということになります。モーツァルトやワーグナーで彼の歌に接していた人は、この数字に少し驚いてしまうことでしょう。あのカウフマンが、いつの間にかイタリア・オペラのスターにもなっていたのですからね。「ルイーザ・ミラー」や「群盗」といった、かなりコアな作品までクリアしてますし。
そこでまず、「名刺代わり」といった感じで始まるのが、ヴェルディのテノールのナンバーでは一番有名な「リゴレット」からのマントヴァ侯爵のカンツォーネ「La donna è mobile」です。これが、全然ヴェルディらしくありません。正確には、この時期のヴェルディらしくありません。「ズンチャッチャ」というノーテンキなリズムに乗って歌われる陽気な歌は、パヴァロッティあたりのとびきり明るい声にこそ映えるもので、カウフマンのくそまじめなキャラとは相容れないものです。
続く、こちらも定番、「アイーダ」からのラダメスのロマンツァ「Celeste Aida」などでも、イタリアオペラのファンにとっては最後のハイB♭では思い切り張った声で大見得を切ってほしいところでしょうが、それは聴衆に対するサービスではあっても、必ずしも作品の求めるものではないと考えているカウフマンは、その音をsotto voceで終わらせています。
カウフマンは、この中で「ヴェルディらしさ」を表現するために、ちょっとしたテクニックを使っています。それは、ピッチをほんの少し高めにとると同時に、要所に「泣き」を入れることです。ワーグナーなどでは決して使うことのないこの「小技」、しかしそれは、何かよそよそしさが感じられるものです。仕方なく相手に合わせた、という感じでしょうか。
ですから、彼がそのままの姿で妥協をせずに歌えるのは、後期の「オテッロ」あたりなのでしょう。ヴェルディが初めてそれまでの「番号オペラ」からの決別を成し遂げた、真にドラマティックなこの作品の中でこそ、カウフマンは彼自身のドラマを演じることが出来たのではないでしょうか。
相変わらず期待を裏切らない素晴らしい録音ですが、時折オーケストラが無神経な演奏をしているのが鼻に付きます。日頃オペラの伴奏をしているオケのはずなのに。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

9月26日

レナード・バーンスタイン
ザ・ラスト・ロング・インタビュー
ジョナサン・コット著
山田治生訳
アルファベータ刊
ISBN978-4-87198-580-2

「このバンド無くしては日本という国がおっ勃(た)ちません」というフレーズは、先日行われたサザンオールスターズのスタジアム・ライブのオープニングMCに登場したものです。ご丁寧に、その「字幕」は巨大なLEDスクリーンに映し出されましたし、ファイナルではそれをWOWOWが生中継していましたから、その「勃」という、ほとんど「erection」の翻訳語として知られる二字熟語にしか使われることのない漢字(ま、「勃発」なんてのもありますが)は、ほぼ全国民の目に触れることになったのです。
まあこの程度のことはこの世界にはつきものですから別に目くじらを立てるほどのものではありません。しかし、その同じ二字熟語が、前世紀に多くの人に多大な影響を与えた指揮者であり作曲家、あるいは教育者でもあったレナード・バーンスタインの口から放たれ、それがそのまま活字となっているのを見てしまうと、ちょっと穏やかな気分ではいられなくなってしまいます。
この「巨人」が亡くなる1年前、198911月に、「ローリング・ストーン」誌のライターであったジョナサン・コットという人が、バーンスタインとのインタビュー原稿を依頼されたそうです。もはやそのようなメディアとの接触を断っていたマエストロを説得し、なんと12時間にも及ぶインタビューを敢行、その成果が、2013年にOxford University Pressから出版されたばかりの「Dinner with Lenny, The Last Long Interview with Leonard Bernstein」というタイトルの原書です。20年以上も前の記事がなぜ今頃書籍になったのか(そもそも、記事自体は掲載されたのか)とか、原書に数多く掲載されていた貴重な写真はなぜ割愛されたのか、などといった多くの疑問には、通常は「訳者あとがき」というものの中で答えられているものなのですが、その期待は巻頭にある「訳者は『訳者あとがき』を書きたいと準備していたが、著者の意向で掲載できなかった」という一文によって、叶えられることはありませんでした。「訳者」の無念さがにじみ出ているこのコメントは、もしかしたらこの本の中で最も印象的な文章なのかもしれません。この「著者」は、いったい何様のつもりなのでしょう。
確かに「著者」は、このインタビューの中では、かなり機知にとんだやり取りを披露しています。その一つが、さっきの二字熟語ネタです。
バーンスタイン:10歳のときに、僕は初めてピアノの鍵盤に触れた……僕が○起できるようになる前のことだ。
コット:幼児だって○起すると思いますが。
バーンスタイン:そうだけど、僕が言いたいのは”必要”な時に○起できるということだよ〈笑〉
まあ、「大人は必要な時に○起できる」ということなのでしょうね。大人であっても「必要な時に○起できない」人や、「必要でない時に○起してしまう」人は多いはずですが、このやり取りは、バーンスタインはそれをきちんとコントロールできる極めて稀な才能を持った人であること伝えるエピソードとして、後世に残ることでしょう。同じような「下ネタ」で、アルマ・マーラーに「ベッドに連れて行かれそうになった」というようなアレマな隠れた史実を引き出した才能も、なかなかのものです。
ただ、「カラヤンの死の床に立ち会った」とするバーンスタインの言葉に対して付けられた「カラヤンが死の直前に大賀典雄と面会していたことは有名な話であるが」という「訳者」の注釈には、なにか「ざまあみろ」といったような感情が込められているような気は、しないでしょうか。
そんなことを言ったら、インタビュー前の「プレリュード」という章で、バーンスタインが薬局で薬剤師から「覚醒剤」を渡されたという記述も、ひょっとしたら訳者が巧んだ意識的な誤訳なのかもしれませんね。
いや、バーンスタインはまともなことも喋っているんですよ。それは、実際に読んでいただく他はありません。

Book Artwork © alpha-beta publishing

9月24日

SCHUBERT
Octet
Markus Krusche(Cl), Daniel Mohrmann(Fg)
Christoph Eß(Hr), Alexandra Hengstebeck(Cb)
Amaryllis Quartett
GENUIN/GEN 13269


2011年にこのレーベルから「White」というアルバムでデビューしたアマリリス・クァルテットは、その年にはメルボルンの国際室内楽コンクールで優勝し、翌年には日本でもコンサートを開くなど、最近とみに人気が出てきている、とても若いアンサンブルです。ヴァイオリンのグスタフ・フリーリングハウスとレナ・ヴィルト、ヴィオラのレナ・エッケルスはドイツ出身、チェロのイヴ・サンドゥはスイス出身です。そのファースト・アルバムはハイドンとウェーベルンという斬新なカップリングでしたが、2013年には「Red」というタイトルの、今度はベートーヴェンとベルクという組み合わせのセカンド・アルバムをリリースしました。
その2枚のアルバムの間、2011年の暮れに録音されたのが、このシューベルトです。八重奏曲ですから、管楽器が3人と、コントラバス1人の同じ世代のゲストが参加しています。
このクァルテットを聴くのはこれが初めてです。このCDで彼らだけのパートを聴いていると、正直、それほど個性的な団体とは思えないような、ちょっとおとなしい印象がありました。しかし、そこにかなりの曲者である他のメンバーが加わることによって、なんともものすごい「化学反応」が起こっています。
中でもその鋭利な音楽性でアンサンブルをリードしているのが、クラリネットのクルシェでしょう。彼は、とてつもないピアニシモを駆使することで、このサロン音楽から優雅さのようなものを一切そぎ取り、息苦しくなるほどの緊張感を与えています。それが端的に見てとれるのが第2楽章のAdagioです。終始テーマを与えられている彼のクラリネットが主導権を握っているこの楽章では、他の誰も「のびのびと歌う」などということは許されません。「音楽は、楽しむもの」と考えている人にとっては、もしかしたらそれは耐えがたい体験なのかもしれませんが、いつの時代の音楽でもそこから何かしらのメッセージを受け止めたいと思っている人にとって、これほど魅力的な演奏はありません。
それに対して、ファゴットのモーアマンの場合はもう少し楽天的、ちょっととぼけた音色も手伝って、クラリネットとは全く逆のベクトルで音楽に彩りを与えています。そんな二人が一緒にハモる時には、たがいに寄り添って見事に溶けあうのですから、素敵です。そこへ行くと、ホルンのエスは、孤高の道を行くという不思議なスタンスでアンサンブルに参加しているように見えます。その結果、ほとんどサプライズのような形で、音楽に巧みにアクセントが付けられていることを感じるはずです。ほんと、彼のパートがこんなことをやっていたことに気づかされる瞬間が何度あったことでしょう。
最後の楽章の序奏では、そんな8人のエネルギーが集積した、ものすごいダイナミック・レンジが披露されています。そこには、殆ど「シンフォニー」と呼んでもかまわないほどの壮大な風景が広がっています。それを受けて、例のちょっと「字アマリリス」の感のあるテーマが、エネルギッシュなフレージングで雄々しく歌われると、そこからは「ウィーンの情緒」などというものはすっかり消え去ります。これはそういう音楽だったのですね。シューベルトの晩年に作られたこの作品は、いかにもウィーン情緒たっぷりという印象が植えつけられていたものですが、それはムローヴァたちの演奏によって、大きくイメージが変えられてしまいました。そして、今回のCDでは、この曲の更なる可能性を知ることが出来るのですから、面白いものです。おそらく、子供のころに聴いた「名曲」などというものは、最新の演奏で聴きなおしてみると全く別の曲のように聴こえてしまうのかもしれませんね。それは、もしかしたらちょっと「不幸」な体験なのかもしれません。しかし、その先には確かな充足感が待っているはずです。

CD Artwork © GENUIN classics GbR

9月22日

LLOID WEBBER
Jesus Christ Superstar
Tim Minchin(Juda)
Melanie C(Maria)
Ben Forster(Jesus)
Laurence Connor(Dir)
UNIVERSAL/61126570(BD)


先日の映画版に続いて、やはり最近BDが発売になった「ライブ・アリーナ・ツアー」版のBDです。このプロダクションは、この作品がミュージカルとしてイギリスで上演されてから40年経ったことを記念して、イギリス全土のアリーナで上演されたものです。ここでは、201210月5日に、バーミンガム・ナショナル・インドア・アリーナで行われたライブが収録されています。
この作品は、そもそもは「ロック・アルバム」として、音楽的にも、ストーリー的にも完結しているものでした。ですから、最初は「ライブ」として、アメリカのアリーナで公演を行っていたものが、ついには「ミュージカル」としてブロードウェイにまで進出することになったという「過去」を持っています。したがって、この「ライブ・アリーナ・ツアー」は、まさにこの作品の原点に返ったものだと言えるのでしょう。とは言っても、いまさらただの「ライブ」を行っても、ミュージカルや映画をすでに体験してしまった観客には物足りませんから、例のロイヤル・アルバート・ホールでの「オペラ座の怪人」を手掛けたローレンス・コナーなどのスタッフによって、アリーナを使った限りなくミュージカルに近いライブが実現する事になりました。
「オペラ座」同様、セットなどは組まない代わりに、やはり巨大なLEDスクリーンを後ろに設置して、視覚的な演出に備えます。ただ、それは単に背景を映す、といったような使い方ではなく、もろロック・コンサートのような、様々なメッセージを持った映像が映し出されることになります。そのスクリーン、そしてステージ上で描かれているのは、まさに現代、インターネットや携帯電話がさりげなく登場する社会で、イエスはやはり格差社会の中での、底辺階級のカリスマとして描かれます。ピラトなどは分別ある裁判所の判事といった役回りになっていますね。そうなると、ヘロデ王の位置づけが気になるところですが、これはテレビの人気番組の司会者でした。真っ赤なタキシードに身を包んだ、いかにも「業界人」という読み替えは見事なもんだ。みのもんた
実は、映画を含めて、今までに何度となくこの作品に接してきた中で、演奏が「ライブ」だったことは一度もありませんでした。「生」のミュージカルでも、歌以外のパートはすべて「カラオケ」でしたからね。今回は、演奏メンバーがステージの上にいる、というのが、その「ライブ」という意味を具現化しているものでしょう。上手と下手に組まれたヤグラの中に、10人のバンドのメンバーが並び、「生」で演奏している姿を見ているだけで、確かに「ライブ」ならではのグルーヴを感じることが出来ます。時にはギターがステージまで出てきてユダとセッションをするなどということもあったりしますから、もう最高。
ですから、この公演に関してはミュージカル的な意味での「演出」は、それほど重要なことではなくなってきます。音楽がすべてを語っている中では、どんなぶっ飛んだ設定でもそのメッセージは間違いなく伝わってくる、というのが、そもそものこの作品の最大のメリットだったのですからね。
そんな、ある意味「演出」の呪縛から解放されたキャストたちは、最大限に「アーティスト」としての音楽的な主張を届けているように見えます。そんなキャストの中に、スパイス・ガールズのメラニー・Cがマリア役で登場していたのには驚きました。彼女の歌は変に「芝居」がかっていない分、ストレートな感情が伝わってきます。タトゥーに十字架があったので、この公演用のメークだと思ったら、そうではなく本物でした。「女力」などという漢字のタトゥーも、ミュージカルでは許されないでしょうが、「ライブ」では逆に威力を発揮しています。


BD Artwork © Universal Studios Home Entertainment

9月20日

MORGENLICHT
Kirchenlieder & Choräle
Maria Todtenhaupt(Hp)
Jörg Strodthoff(Org)
Simon Halsey/
Mitglieder des Rundfunkchores Berlin
DG/00289 473 1303


サイモン・ハルジーが2001年から首席指揮者を務めるベルリン放送合唱団は、ベルリン・フィルとよく共演して、その包み込むようなサウンドでオーケストラを飾り立てています(それは「包装合唱団」)。実は、指揮者のハルジーは、このポストの前にはイギリスのバーミンガム市交響楽団の合唱団の指揮者でした。ですから、そのオーケストラの音楽監督であったサイモン・ラトルがベルリン・フィルの芸術監督兼首席指揮者に就任した時に、ハルジーも一緒にベルリンに移った、というような言い方をよくされていますが、実際にラトルがベルリンでのポストをスタートさせたのは2002年ですから、ハルジーはその前からベルリンに居た、ということになりますね。本当はどのような事情だったのかは、憶測に頼るほかはありません。
ハルジーとこの合唱団は、以前からHARMONIA MUNDICOVIELLOといったレーベルになかなかコアなレパートリーを録音していました。どちらのレーベルもSACDでしたから、オーディオ的にもかなり聴きごたえのあるアルバムでしたね。
そんな彼らが、DGという「メジャー」から初めてCDを出したのは、なにか意外なことでした。そして、ちょっとした危惧も感じてしまいました。こういう、マイナー・レーベルで活躍していた「通」好みのアーティストがメジャー・デビューする時に求められているものは、毒にも薬にもならないような、一般受けのするアルバムです。まあ、「大衆に魂を売る」といった、ある意味「堕落」への道をたどるとも思われかねないような路線を取る、ということなのでしょう。「朝の光」などという「爽やか」なタイトルも、そんな憶測を助長するものでしかありません。
ところが、聴いてみると、確かに肌触りはソフトですが、そこには一本ちゃんとした芯が通っていたのには、まず一安心です。それよりも、このCDらしからぬ解像度の高い音は、どうしたことでしょう。SACDを聴きなれた耳にも、そのクオリティは卓越したものに聴こえます。クレジットを見ると、録音とマスタリングはTRITONUS、チーフのノイブロンナー自らがトーンマイスターを務めています。おそらく彼らはマスタリングの腕も一流なのでしょうから、こんな素敵なCDに仕上げることができたのでしょう。
合唱は、フルメンバーから選抜された24人の精鋭が歌っています。ブックレットの写真では、オルガンが設置されているバルコニーに合唱団員も登って、ごく狭いところで窮屈そうに歌っていますが、それがかえって親密なアンサンブルを生んでいるのでしょうね。ちょっと硬質なこの合唱団のキャラはそのまま引き継ぎながら、もう少し緩やかな音楽を伝えようとしているのが、この素晴らしい録音からもよく伝わってきます。
ここで歌われているのは、タイトルにある通り「教会の歌とコラール」、つまり、「讃美歌」です。バッハがモテットや受難曲で用いたコラールもありますが、ほとんどは(キリスト教徒以外の人にとっては)聴いたことのない曲です。しかし、どれも親しみやすいメロディですぐになじむものばかりです。このように、実際に礼拝の場で歌われるのと同じシチュエーションで演奏しているというところから、おのずと敬虔な気分が沸き起こってきます。
ア・カペラもありますが、大半の曲はオルガンやハープの伴奏が付きます。その2つの楽器は、それぞれソロも披露してくれていますが、バッハのプレリュードBWV568を演奏しているオルガンの録音が、とても引き締まっていて素敵です。ハープのソロはBWV846、「平均律」の最初の曲で、あの「アヴェ・マリア」の低音となっている曲です。
さらに、その「平均律」のパターンを取り入れて、この2つの楽器だけでモーツァルトの「Ave verum corpus」を合唱なしで演奏するという、ぶっ飛んだ編曲が披露されています。こんなシュールなアレンジを「メジャー」で堂々と聴かせている関係者に、拍手です。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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