ルックス、似てるな。.... 佐久間學

(09/3/8-09/3/26)


3月26日

The Art of Paula Robison
Paula Robison(Fl)
VANGUARD/MC 123


アメリカの美人フルーティスト、ポーラ・ロビソンがかつて多くのレコードを録音していたVANGUARDレーベルから、2枚組のベストアルバムがリリースされました。もちろん、このレーベル自体は今ではどこかに身売りして実体のないものになっているのでしょうね。このアルバムも、リリースにあたっては彼女自身のレーベルであるPERGOLA RECORDINGSが関与しているようです。
そんな、マイナーなレーベルでの録音活動のせいでしょうか、最近はとんと名前を聞かなくなってしまったロビソンですが、このCDのライナーにあった彼女の公式サイトによれば、60歳代後半となった今でも相変わらずお美しく、元気で活躍しているようですね。
1941年生まれのロビソンが、バーンスタインに見いだされて、ニューヨーク・フィルとの共演を果たしたのは、彼女が20歳の時でした。バーンスタインが、若い演奏家をソリストに迎えて1962年に録音した「動物の謝肉祭」の中で、「大きな鳥籠」の華やかなソロを吹いているのが彼女です(そこでは、若きゲイリー・カーがコントラバスで「白鳥」を演奏しています)。その後、アメリカ人としては初めてジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝、まさにアメリカを代表する若手のフルーティストとして華々しい活躍をすることになりました。
通常のレパートリー以外に、彼女は、現代の作曲家にフルートのための作品を数多く委嘱し、もちろん、彼女が世界初演を行っています。その中には、武満徹の「I Hear the Water Dreaming」や「巡り」といった曲も含まれています。今でも、オリヴァー・ナッセンに新しい協奏曲を委嘱しているのだとか。さらに、武満の「Voice」や「Air」をアメリカで初演したのも、実は彼女だったのですね。「現代音楽」のシーンでも、彼女は重要な役割を果たしていたのでした。
このベストアルバムには、VANGUARD時代にリリースされた6枚のアルバムからのナンバーが収められています。最も古いものが1974年に録音されたラヴェルのトリオ、そして、最も新しい録音は1990年の、なんとブラジルのミュージシャン(多分。なにしろ、このベストでは共演者のクレジットが全くありません)との共演で、ブラジル音楽を演奏しているものでした。いえ、ヴィラ・ロボスとか、そういうのではなく、ボサノバとかショーロとか、そっちの音楽ですね。花に水をやるやつ(それは「ジョーロ」)。実は、このベストアルバムのうちの半分ぐらいはすでに聴いたことがあるのですが、これは初めて聴くものでした。というより、彼女がこういう音楽も演奏することすら初めて知りました。それこそゴールウェイでもない限り、こういうノリの音楽を自然に演奏するのはクラシックのフルーティストにとってはかなり難しいことなのですが(パユなどは、かなり悲惨でしたね)、彼女はその技巧の冴えに物を言わせて実に見事にこれらの「ポップス」に命を与えていました。「ティコ・ティコ」などはピッコロでちょっとユーモラスな味を出すほどの余裕まで。バッハの「無伴奏パルティータ」のラテン風アレンジも、とてもクラシック奏者が演奏しているとは思えないようなノリの良さです。ここでは、あのアルマンドが超高速で吹かれているところに、ギター奏者でしょうか、スキャットでユニゾンを入れているのも素敵、そう言えばロビソンもジャズ風のムラ息の多い吹き方をしているような。
面白いことに、そんな曲の間に別のアルバムからの本物のバッハやヘンデルのソナタが入るという、粋な編集がされています。こちらは、モダン・チェンバロやモダン・チェロを使った元気の良い演奏、ヘンデルの早い楽章でチェンバロのリュート・ストップとそのチェロが生き生きとしたリズムを刻む中で吹かれるフルートは、まさに時代もジャンルも超えた颯爽たるものでした。

CD Artwork © Musical Concepts, USA

3月24日

BACH, HOLLIGER
Works for Flute Solo
Felix Renggli(Fl)
GENUIN/GEN 88129


スイス生まれ、ペーター・ルーカス・グラーフやオーレル・ニコレに師事をしたフルーティスト、フェリックス・レングリが「ソロ」、つまりフルート1本だけで演奏された曲ばかり(一部、アンサンブルもありますが)を集めたアルバムです。曲は、バッハ親子と、オーボエ奏者としても有名なハインツ・ホリガーという、「バロック」と「現代」のレパートリーなのが、ユニークなところでしょうか。もっとユニークなのは、ソリストのレングリは、現代曲では通常のフルートやアルトフルートを吹いているというのに、バロックではちゃんと当時の楽器であるトラヴェルソを吹いていることです。ソリストとして身を立てたモダンフルート奏者がトラヴェルソまできちんと吹けるのは極めて希なこと、彼の場合、果たして「二足のわらじ」は履きおおせているのでしょうか。
しかし、父バッハの「パルティータ」といい、息子バッハの「ソナタイ短調」といい、彼のトラヴェルソは完璧なバロックの音を聴かせてくれていました。それは、モダンフルート奏者の場合必ず付いてしまうビブラートが一切ない、実に素朴な音でした。ただ、表現のダイナミックスはちょっと「トラヴェルソ離れ」しているのは、感じないわけにはいきません。それと、例えば「パルティータ」の「サラバンド」などでは、繰り返しで律儀に装飾を施して演奏しているのですが、それはちょっとバロックの様式からは離れているような気がしてなりません。なにか、自然に出てきたのではない、頭の中でこねくり回したような作為的なものが感じられてしまいます。おそらく、それは「装飾」というよりは、現代風の「インプロヴィゼーション」に近いものなのかもしれません。
ホリガーの作品では、1曲「トリオ」がありました。ピッコロ、フルート、そしてアルトフルートのための曲です。なんでも、これはホリガーのバーゼル交響楽団での同僚だったピッコロ奏者の追悼のために2005年に作られたものなのだそうです。フルートとアルトフルートの伴奏に乗って、ピッコロが終始大活躍をする、というとても楽しい曲です、鳥のさえずりのような華やかなフレーズが、いかにもピッコロ奏者が喜びそうなものになっています(ここではレングリは、アルトフルートを担当)。
もう1曲、他の楽器が加わったものが、1984年の「Schlafgewölk(『眠りの雲』、でしょうか)」という作品です。レングリのアルトフルートと共演しているのが、なんと日本のお寺で使われていたり、ご家庭の仏壇には普通に備わっている「きん」という「打楽器」です。そんな、あたかも仏教の礼拝に参加しているような面持ちの中で、まるで「お経」のように瞑想的なアルトが流れるという、ホリガーにしてはちょっと意外な曲想です。
そう、彼の場合、いかにも「現代音楽」という、さまざまな特殊奏法を駆使した「難解な」というか、「勝手にやってたら」というような作品をすぐ連想してしまいがち、もちろん、そんな作品もこのアルバムには含まれていますが、実は彼の芸風はかなり幅広いものだったのですね。そして、そんな中には1996年に完成した「ソナタ」のように、ちょっとユーモラスなものまで含まれています。「アルマンド」とか「クーラント」といった舞曲のタイトルが付いた12曲の小さな曲から成っていますが、それぞれが例えばさっきのバッハの「パルティータ」などの、見事なパロディになっているのですよ。組曲第2番の「バディネリー」をパロったと思われる「Badines!...Ries!」などは、ホイッスル・トーンのはかなげな音であのテーマが演奏されるのですから、まさに抱腹絶倒です。
最後に収録されている「Petit Air」は、盟友オーレル・ニコレの75歳の誕生日を祝った曲、もちろん、その5年前に武満徹がやはりニコレのために作った彼の遺作「Air」へのオマージュでしょう。仏前に供えるという(それは「おまんじゅう」)。

CD Artwork © GENUIN Musikproduktion, Leipzig

3月22日

LUKASZEWSKI
Via Crucis
IestynDavies(CT), Allan Clayton(Ten)
A. Foster-Williams(Bar), Roger Allam(Nar)
Stephen Layton/
Polyphony
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA67724


ポーランドの作曲家、ウカシェフスキについては、以前やはりレイトン指揮の合唱曲をご紹介したことがありました。今回は、2000年に作られた、4人のソリスト(そのうちの1人はナレーター)と合唱、そしてオーケストラのための「Via Crucis(十字架への道)」です。そんなタイトルの曲では、リストのものが有名ですが、これも基本的には同じ構成を持っています。ただし、リストの曲の場合はキリストが十字架につけられて亡くなるまでの14の情景を描いていたのに対し、この作品はそのあとの「復活」の場面を加えて、全部で15の「ステージ」が用意されています。
その15のステージと、最初に置かれたイントロ、そして最後のエンディングが、この曲の全ての構成要因、それらは非常に分かりやすい形で独立した情景をあらわすとともに、相互に有機的な(ライナーには「数学的」という言葉も見られます)結びつきを見せています。
まず、金管楽器や打楽器が多用された、華々しいオーケストラの響きによる「Via Crucis」というイントロが、圧倒的なインパクトを与えてくれます。それに続くそれぞれのステージは、いわば「額縁」のように、決まったパターンで囲まれています。まず最初には、力強いオーケストラ・ヒットが、ステージのタイトル数だけ(つまり、第5ステージだと5回)打ち鳴らされ、それがいわば「開始の合図」となって、そのシーンが始まるという、最初の枠組みが示されます。その後は、まず男声だけの荒々しいステージのタイトルの「叫び」、そして、対照的に柔らかな「Adoramus te」という女声の美しいハーモニーが鳴り響きます。その後がそれぞれのステージの自由な部分、朗読やレシタティーヴォ、そして合唱で、さまざまなシーンが描かれます。この部分、テキストには受難曲でお馴染みの福音書なども使われていて、まさに受難曲そのもののようなリアルで劇的な音楽が繰り広げられます。その部分の締めくくりが、混声合唱による「Qui passus est pro nobis」、そして、最後にオーケストラだけで演奏されるのが、イントロの後半部分で提示されていた、おそらくイエスの歩みをあらわすのでしょう、ゆったりとした行進の音楽です。
そんな、ある意味パターン化されたユニットが15回繰り返されることになるのですが、その内部のそれぞれに異なるパーツだけではなく、それらの「額縁」自体も微妙に変化していくのがエキサイティングなところです。最後の行進の音楽は、テーマ自体は同じなのに、次第にオーケストレーションが変わって(更新されて)、徐々に重苦しい様相を呈してきます。さらに、第12ステージはイエスが十字架上で息絶えるシーン、ヨハネ福音書の、まさにバッハの受難曲では「Es ist vollbracht」に相当する部分が繰り広げられるのですが、その後の第13ステージ以降では、最初にステージ数をあらわす音がそれまでの暴力的なパルスではなく、安息感に満ちたレガートなものに変わるのが、印象的です。
最後の、まさに希望に満ちた「復活」のシーンの後のエンディングは、想像通りイントロと全く同じものでした。こうして、作品全体にも「額縁」が用意されていたことを、聴き手は知るのです。
ウカシェフスキの音楽は、難解な和声も自然に聞かせるとても美しいもの、オーケストラも声楽も、とてもヴァラエティに富んだ大きな振幅を持っています。ハイテンションがウリの「ポリフォニー」は、ここでもその幅広い表現力を存分に発揮して、その美しくも厳しい音楽に確かな造形を施しています。
おそらく、この曲には単なる宗教的な典礼音楽を超えた、普遍的なメッセージが込めらているはずです。アウシュヴィッツの囚人服まで描かれているこのジャケットの絵が、それを端的に語っています。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

3月20日

PUCCINI
Madama Butterfly
Angela Gheorghiu(Butterfly)
Jonas Kaufmann(Pinkerton)
Antonio Pappano/
Orchestra e Coro dell'Accademia Nazionale
 di Santa Cecilia
EMI/2 64187 2


詳しく調べたわけではありませんが、最近作られているオペラのCDと言えば、ほぼ100パーセント実際の公演の模様を収録した「ライブ録音」になっているのではないでしょうか。しかも、「音だけ」のCDではなく、映像も付いたDVD(もしくはブルーレイ)の方が、はるかに多くリリースされているはずです。スタジオに歌手とオーケストラを集めてのセッションを組もうとすれば、とてつもない経費がかかります。それよりはすでに出来上がっているものをそのまま収録する方がはるかに安上がりでしょうし、「生」につきものの事故やノイズも、何種類かのテイクを巧みに編集する技術が進んだことによって解消出来るようになっていますしね。
ですから、今時映像も付かないスタジオ録音が行われているなどとは、ちょっと信じがたいことでした。まだまだ、良いものを作ろうとする人たちは健在なのだ、と思いたいものです。ここでの主役たち、ゲオルギウとカウフマンが実際にオペラハウスで蝶々さんやピンカートンを演じるのは、まだまだ先のことでしょうから。そんな、とても実現しそうにない顔ぶれでオペラを録音するという「ドリームキャスト」が実現出来るのも、まさにスタジオ録音ならではのことなのですよね。それにしても、EMIがこの「蝶々夫人」を最後にスタジオで録音したのが、43年前だというのには驚いてしまいます。
そんな力の入った企画、出来上がった製品もなかなか力の入った立派なボックスとなっています。厚さが2.5センチもあるボール紙の箱ですからね。ただ、ブックレットの厚さが6ミリですから、箱の中は1センチ近くの空間が出来てしまい、振るとカタカタと音がして、最初はCDが外れてしまったのかと思ってしまいましたよ。この箱に見合うぐらいの分厚いブックレットだと良かったのですがね。それよりも、その箱を飾るこのゲオルギウの写真が、見事に「左前」の打ち合わせの和服を着ているものですから、「やっぱりな」と思ってしまいます。西洋人に和服の正しい着方を教えるのは、朝青龍にガッツポーズをやめさせるよりもはるかに困難なことなのでしょう。
いや、そもそもこのオペラでの「日本」の扱いは、まさにそんな着付けと同じ次元のものなのでしょう。なんといっても、「日本人」がそれを聴くときには必ず起立することを強要される「君が代」という極めて特別な歌が、なんとも安直に引用されているのには、心配にさえなってきます。「教育関係者」は、こういうものは取り締まったりはしないのでしょうかね。登場人物も、おかしいですよね。「ボンゾ」ってなんなのでしょう。おそらく「坊主」なのでしょうが・・・。「ゴロー」の職業は「il nakodo」、それを対訳で見るとドイツ語は「der Nakodo」フランス語は「le Nakodo」ですから、なんのことなのか(さいわい英語だと「the marriage broker」)。それから、指揮者の末廣誠さんが雑誌のエッセイにお書きになっていましたが、蝶々さんが肌身離さず持っているのが「Ottokè」という「人形」、これは「仏」なんですってね。ですから「仏像持ち歩いている日本人なんて、どこにいるんだあ!」と、末廣さんに突っ込まれることになるのです。そんな些細なことはほっとけって?ごもっとも。何と言っても、プッチーニにとってはここは単なる「未知の異国」なのですからね。
いや、演奏は堪能させて頂きましたよ。スタジオ録音ならではの、細かい音場設定、アメリカ鑑の大砲の音もリアルでしたね。そして、ゲオルギウの蝶々さん、実に自然体で等身大の女性という感じがひしひしと伝わってきます。お目当てのカウフマンは、第1幕などはちょっとこの役にはもったいないような立派な声だったので、これはミスキャストかな、と思ってしまいました。ピンカートンって、本当に男の風上にも置けないようなダメな奴ですからね。しかし、最後の最後で「Butterfly!」という、とことん情けない声、これで不満はすっかり消え去りました。素晴らしい!

CD Artwork © EMI Records Ltd.

3月18日

Aki Takahashi Piano Space
高橋アキ(Pf)
TOWER RECORDS/QIAG-50035-37


これも、この間のゴールウェイ同様タワーレコードによって初めてCD化された貴重なアイテムです。オリジナルは1973年にLP3枚組、立派なボックスに入ったセットで発売されました。「芸術祭参加作品」という、企画の段階からとても力の入ったレコードで、3枚の内容は、日本人の作曲家が2枚、外国の作曲家が1枚、日本人の作品の中にはこのレコードのために新たに委嘱された曲が入っている、というのがすごいところです。付属のブックレットも分厚いものだったような記憶があります(すでに中古屋行きになっていて、手元にはありません)。これは70年代、いわば「現代音楽バブル」の時代の、一つの産物ととらえるべきものでしょう。もちろん「バブル」とは言ってもごく狭〜い世界の中の出来事ではありましたが。
「完全復刻」されたこのCDも、LPと全く同じコンテンツが3枚組になっています。まず、その3枚目、当時の現代音楽シーンの寵児たち、メシアン、ブーレーズ
、シュトックハウゼン、ベリオ、そしてクセナキスたちの作品は、現在ではすでに「古典」としての重みを持ち得ているものばかりです。そんな中にあって、ブソッティの、全編ピアノの内部奏法だけ、という画期的な作品「Piano pieces for David Tudor 3」は、今でもそのアイディアの斬新性は失われてはいません。
日本人の作品では、「カリグラフィー」やら「アルロトロピー」といった、なんとも頭でっかちなタイトルが、恥ずかしいほどのインパクトを与えてくれます。中でも、三枝成彰(当時は「成章」)の、作品などは、なんと、そもそも文字としてタイプしたり、発音することすら出来ないというものすごいものでした。

仕方がないので、画像で表示です。「元プリンス」みたいな、読む人を完全にあざ笑うようなタイトル、付けたご本人は、さぞ気持ちが良かったことでしょう。
LP時代に聴いたときには、タイトル同様その音楽もまさに刺激的なものでした。ピアノ、プリペアド・ピアノ、エレクトリック・ピアノ、コンボオルガンという、実に微妙な楽器選定がまず「時代」を感じさせるものですが(シンセサイザーはすでに実用化されていましたが、なぜか「クラシック」の音楽家はそれを敬遠していたものです)、それを差し引いても、多重録音でそれらの楽器を同時に演奏することによって開かれた音響空間には、確かな「新しさ」を感じたものです。
30年以上の時を経て同じ作品を聴いたときには、そこからはそんな先進性などはきれいさっぱり消え去っていました。精一杯新しい音響を追求していたはずのものは、今となっては実に心地よい「ヒーリング・ミュージック」のように聞こえてきます。曲の前半、エレピで演奏されるプレーンチャントのような音型が、そんな雰囲気を醸し出して心を和ませるよう。現在まさにそのような音楽を量産している三枝の資質は、「尖っている」と思われたあの頃と、本質的には何も変わっていなかったことに気づかされます。最後のあたりに出てくるピアノによる細かい音符のパターンも、メシアンの鳥の声そのものですし。いや、これは現代の「サンプリング」というテクノロジーのさきがけだったのでしょうか。
当時「前衛音楽」のリーダー的存在だった一柳慧の「ピアノ・メディア」も、その頃の最先端の流行を取り入れた、まさにスティーヴ・ライヒそのものの様な「ミニマル・ミュージック」でした。そんな変わり身の早い作曲家の末路は、今では誰でも知っています。
そんな、今となっては顧みられることのない多くの作品が産まれたのが「バブル」の時代なのでしょう。今や還暦を過ぎてなんともロマンティックにサティを弾くようになった高橋アキは、まだ20代だった頃の彼女の晴れがましいファーストアルバムを、さてぃ、どのように聴くことでしょうか。

CD Artwork © EMI Music Japan Inc.

3月16日

MOZART
Requiem
Ute Selbig(Sop), Bernada Fink(Alt)
Steve Davislim(Ten), Alastair Miles(Bas)
Colin Davis/
Chor und Orchester der
 Sächsische Staatsoper Dresden
DREAMLIFE/DLVC 8106(DVD)


BSでも放送され、だいぶ前にDVDで発売された2004年のドレスデン州立歌劇場での映像が、なにげに安く再発されました。CDより安いDVDですから、当然「買い」でしょう。あるいは、すでにDVDは見限られて、ブルーレイの時代に入ったのかも。もはやブルマーの時代は戻っては来ませんが。
この演奏会は、1945年2月13日のドレスデン大空襲を悼むための催しだということです。その時には、このゼンパー歌劇場も含めて都市全体が破壊されてしまったわけですが、再興なったその歌劇場での「祈念」コンサートは、その日の前後、2月11日から15日にかけて行われました。画面には、闇の中に明るく浮かび上がる歌劇場の全景に続いて、客席とステージが映し出されます。通常はオーケストラ・ピットになっている部分の床がステージと同じ高さまで上げられて、そこにオーケストラが並んでいます。ステージの部分にはプロセニアムの柱と同じデザインの反響版が設置され、その前に100人ほどの大人数の合唱が並んでいます。そこにソリストと指揮者が入場してきても、満員の客席からは拍手が起こることはありません。このコンサートがどのような意味を持っているのか、それぞれの聴衆が心の中に期するものがあるのでしょう。
そんな、異様な緊張感の中で、この「レクイエム」が始まります。オーケストラの前奏で最初に出てくるカットは木管セクションのバセットホルンのアップです。クラリネットとは全く異なる哀愁を帯びた音色、それは、この楽器の特異に折れ曲がった外観というインパクトのある映像によって、視覚的にも伝わってきます。いくらモダンオーケストラといっても、このパートだけはこの楽器でなければ「レクイエム」の味は出てきません。
指揮者の真っ正面に置かれた無人カメラは、デイヴィスの全身像を執拗に追いかけます。彼の指揮は確信に満ちた明確なもの、時折「タメ」を作るようなときには、下半身までも使って大きな身振りで指示をする彼の指揮ぶりが、このアングルからは良く分かります。そして、その動きが求めているものは常にかなりの「重み」を持つものであることも良く伝わってきます。合唱はそれに応え、まさに「慟哭」と言ってもいいような悲痛な歌を一丸となって聴かせてくれています。実は、以前ご紹介した2007年のロンドン交響楽団との録音では、ジュスマイヤー版の楽譜にデイヴィス独自の手が加えられていましたが、ここでもそれと同じものを聴くことが出来ます。この時点で、すでに「デイヴィス版」は完成していたのですね。ですから、「Dies irae」のトランペットとティンパニの合いの手が、他のどの版にもないような躍動感あふれるリズムになっているのです。ロンドン交響楽団の場合は、それがまさに一つの盛り上がりとなっていたわけですが、ここでは同じリズムでもなにか突き刺さるような別の意味として感じられたのは、そんな合唱の「深さ」のせいでしょうか。普段はオペラを歌っているこの合唱団、確かに「ドラマ」を演じることにかけては年季が入っています。
ソリストたちも、そのルックスからしてドラマティックな人がいることが分かるというのが、映像の利点です。中でも、ソプラノのゼルビックの神秘的なマスクは、そのクールな歌い方と相まって静かな魅力をたたえています。しかし、テノールのデイヴィスリムの顔は、インパクトがあり過ぎ。まるでマンガのキャラクターのような豊かな表情は、なにか別の種類の訴えかけにあふれていて、ちょっと馴染めません。声は良いのですが。それと対照的な風貌のバスのマイルズにも、笑えます。このあたりだけにでも拍手があってもいいのに、と思っても、もちろん終演後に拍手が起こることはありませんでした。

DVD Artwork © Nihonmonitor Co.,Ltd

3月14日

A Spotless Rose
Paul McCreesh/
Gabrieli Consort
DG/00289 477 7635


アルバムタイトルの「汚れのないバラ」というのは、聖母マリアのメタファーなのだそうです。ここでは、マクリーシュ指揮のガブリエリ・コンソートの無伴奏合唱(1曲だけオルガンが入ります)によって、同じタイトルのハウエルズの作品を始めとした、聖母マリアがらみのテキストに作曲された古今の合唱曲が演奏されています。
その「古今」というのがくせ者(ここんとこ、大事ですよ)、時代が変われば当然作曲の様式も変わってきます。そんな変化をつぶさに味わうことが出来る、というのが、このアルバムの一つの魅力になることでしょう。ただ、もちろんこれはそんな「作曲技法の歴史」を扱った「教材CD」などではありませんから、20世紀の音楽の直後には15世紀、そして19世紀を経てまた15世紀といった具合に、それらのものが時系列に沿って並べられているということは、決してありません。
ということで、まず最初に聞こえてくるのがジョン・タヴナーだというのは、そんな「歴史」の扱いを象徴しているような選曲のように感じられてしまいます。この「A Hymn to the Mother of God」を聴くと、「歴史」とは、決して一つの方向へ向かう「進化」ではなく、同じようなものがある時期をおいて繰り返される「ループ」なのではないか、という実感が迫ってきます。それにしても、この録音会場であるイーリー・カテドラル内のレディ・チャペルのアコースティックスの、なんと豊かなことでしょう。合唱音楽にはこのようなびしゃびしゃのエコーが必要欠くべからざるものだったという、それも「歴史」の一つの様相です。
まるで定点観測のようにこのアルバムの中に存在しているジョスカンやパレストリーナといった、まさにこのような響きの中で生まれた作品は、ですから、まるで「背景」のように主張を持たない姿を見せています。
この中では最も「古く」に作られた「Ther is no rose of swych vertu」は、女声だけで歌われています。中世のたたずまいを残すシンプルな曲ですが、ここではそんな素朴さよりももっとねっとりした情感が歌い込まれています。この曲にそこまで重たい衣を着せたくなるのは、やはりこの会場のたっぷりした響きのせいなのでしょうか。
そんなぬるま湯のような音響空間が広がる中に、確かなインパクトを与えてくれるのが、「今」の作品でも、タヴナーとは全く異なる肌合いを持つ、彼とは同世代のイギリスの作曲家ジャイルズ・スウェインの「Magnificat I」です。ヨーロッパ音楽とは根本的に仕組みの異なるアフリカ音楽の手法を大胆に取り入れたミニマルっぽい作品、ここでの合唱団のメンバーのすべての制約から解放されたような歌い方(あるいは「叫び方」)は、ひたすら調和の取れた響きを醸し出そうとするこのチャペルの音響に対する挑戦のようにも聞こえてはこないでしょうか。
ジェイムズ・マクミランの「Seinte Mari Moder Milde」は、大オルガンと一緒になってそんな調和をぶちこわそうという試みでしょうか。しかし、彼の場合は静謐に戻ることも忘れてはいません。最後の演奏曲、グレツキによる「Totus tuus」が、「Maria」というテキストの繰り返しでひたすら息の長いフェイド・アウトを企てているように。
そんな振幅の大きさをこの音楽たちに与えているガブリエリ・コンソートのメンバー、おそらくここには個性の強い声の持ち主が集まっていることでしょう。それが、時には柔らかい響きに従順に奉仕しているときもあれば、ひたすら個人をむき出しにした多彩な音色を追求している場面もあるというように、その音楽から最大の魅力を引き出そうとしている姿勢には素晴らしいものがあります。時として暴走しそうになるそのサウンドを好ましいと感じられさえすれば、このアルバムからは無上の喜びが得られることでしょう。

CD Artwork © Deutsthe Grammophon GmbH, Hamburg

3月12日

BRUCKNER
Symphony 4/Original Version
Kent Nagano/
Bayerisches Staatsorchester
SONY/88697368812(hybrid SACD)


ブルックナーの交響曲第4番の初稿版は、ついこの間シモーネ・ヤングに続いてノリントンのCDがリリースされたばかりだというのに、またまた新録音がSACDで登場しました。なんと、録音されたのはすべて2007年(それぞれ12月、4月、9月)。
しかし、このレーベルは少なくとも国内盤に関しては、SACDに対しては非常に消極的なような印象を受けていたので(ブルーレイなんたらには、えらく熱心なようですが)、これはちょっとした驚きでした。やはり、何たって自社で開発したものですから、また本腰を入れようとしているのでしょうか。と思って録音スタッフを見てみると、プロデューサーもエンジニアも、どこかで聞いたことのあるような名前、そう、それはミュンヘンを拠点に活動、バイエルン州立歌劇場とも密接な関係にあるFARAOレーベルのスタッフではありませんか。録音された場所もFarao Studiosという、彼らの本拠地です。このレーベルだったら、確かに新譜はすべてSACDですから、納得です。と言うことは、FARAOSONYの傘下に入ってしまったのでしょうか。あるいは、単にアーティストの権利などの関係で、このような形になったのでしょうか。いずれにしても、最近の「グローバル化」によって、レーベルの実体というものは非常に分かりづらくなっています。なんと愚弄ばるなことでしょう(意味不明)。
録音会場はコンサートホールではなく、文字通りのスタジオ、600平方メートルの広さで、天井の高さは8.8メートルあるそうです。ですから、当然「ライブ」ではなく、今では非常に珍しくなった本当の意味での「スタジオ録音」ということになります。しかし、このスタジオは適度に長い残響が付いた、非常に美しい音がするところのようです(最初にデータを見ないで聴いていたときは、普通のホール録音だと思ってしまいました)。SACDと相まって、その「FARAOトーン」は、弦楽器の柔らさや、金管楽器の力強さ、そして特筆すべきは低音の深さを、余すところなく伝えてくれています。
ケント・ナガノの演奏は、前回のノリントンとはまさに正反対のアプローチを、この稿に対して試みているように思えます。あちらが「粗野」であるとすれば、こちらはまさに「洗練」の極致ではないでしょうか。なんといっても、たっぷりとしたテンポで悠々と歌い込むさまは、なんとも言えない広がりを、この曲に与えています。ちなみに演奏時間は、ノリントンの「60分」に対して「75分」、これは、この稿のまさに「最速」と「最遅」ではありませんか。実際、この2つの演奏はまるで別の曲のように感じられるほどです。
そんなテンポであるにもかかわらず、ケントの演奏が決して「遅い」と感じられないのは、その中で彼が実に細やかな表情を繰り出しているからなのでしょう。それは、そもそも曲の開始の時の「sempre pp」という指示の弦楽器のトレモロが、ホルンのソロに寄り添うように豊かな表情を付けていることからも分かります。そして、そんなていねいな演奏の中から、今まで殆ど気づくことのなかったような新鮮なフレーズが味わえることになります。例えば、第1楽章の中にはすでに第4楽章の、この稿でなければ聴けないテーマの萌芽が存在していたことにも気づかされます。そのように、個々のパーツをていねいに歌い上げることによって、全体の構造のまさに「前衛的」な作られ方を知らしめるのも、ケントの目論見だったのかもしれません。第3楽章は、実はかなり複雑なリズム構造を持っていてそれが、第4楽章の伏線としての役目をしっかり持っていたことも、ここで気づかされました。
それにしても、この楽章のトリオの部分のなんと美しいことでしょう。低弦の絶妙のピチカートを聴くにつけ、これを別なものに差し替えてしまったブルックナーは、なんともったいないことをしてしまったのだろうという思いにかられてしまいます。

SACD Artwork © Sony Music Entertainment

3月10日

TELEMANN
Six Sonates pour Deux Flûtes
Michel Debost(Fl)
James Galway(Fl)
TOWER RECORDS/QIAG-50039


タワーレコードの企画による過去の名盤の復刻シリーズ、前回のデュシャーブルの「ピアノ版『幻想』」などに続いて、今回もEMIのレアな音源です。国内(当時は「東芝音楽工業」でしょうか)で制作された貴重なアイテムに混じって、やはり貴重なこんなアルバムがついにCDになりました。
1974年の7月に録音されたこのデボストとゴールウェイの共演盤は、1976年には国内でもLPが発売されましたが、あいにくその時に入手し損なったために、長い間ゴールウェイのディスコグラフィーからは欠落していました。それが、晴れて入手出来るようになったのですから、感慨はひとしおです。
ゴールウェイのEMIへの録音といえば、1971年に行ったモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」がありました。しかし、これはあくまで、カラヤンがベルリン・フィルのメンバーをソリストとして使った企画に参加しただけの話です。他のト長調のフルート協奏曲ではもう一人の首席奏者アンドレアス・ブラウが演奏していますし(これは、オケの中のフルート・パートはゴールウェイが吹いているのですが、ソリストのブラウは完全に負けてしまっています)。そして、このアルバムも、メインとして扱われているのはあくまで当時はすでにソリストとしてのキャリアを確立していたデボスト、ゴールウェイがRCAから華々しくソリストとしてデビューするのは、もう少し先のことなのです。
全部で6曲からなるテレマンの「作品2」の二重奏は、元のタイトルが「2つのフルート、または2つのヴァイオリンのための6つのソナタ」となっていて、特に楽器を限定していないのは、この当時の作品としては良くあることです。そしてもちろん、「ソナタ」というのは、「教会ソナタ」のこと、緩−急−緩−急の4つの楽章から出来ている形式の曲です。特に早い楽章での対位法的な処理が聴きどころ、2人の名人がそれぞれソロとしてあらわれたかと思うと、次の瞬間には一緒に絡み合う、という変化の妙がたまりません。この中の「3番」は、フルートの基本的な教則本「アルテ」の中でエチュードとして使われていましたので、フルーティストにとっては馴染みの深いものでしょう。もっとも、それは原本ではなく、後に校訂した人が付け加えたもののようであるて
ここでは、ゴールウェイは左のスピーカー、デボストは右のスピーカーから聞こえてくるような定位になっています。そして、全く対等に扱われている2つのパートのうちの「1番フルート」は、1、3、5番ではデボストが、2、4、6番ではゴールウェイが担当しています。そんな予備知識を持ってこのCDを聴いてみると、おそらくこの二人の音色や音楽性がかなり異なっていることに気づくことでしょう。ゴールウェイの芯のある低音、輝かしい高音に比べると、デボストの音色、あるいは音の輪郭はだいぶぼやけたものになっていますし、ゴールウェイの声部の入り口などに感じられるフレーズの攻撃感のようなものは、デボストには殆ど見あたりません。
パリ音楽院の、そして演奏家としての後輩格にあたるゴールウェイの凄さを、ここでデボストは敏感に感じ取ったことでしょう。第1番のソナタの第2楽章でゴールウェイがとっておきのスビト・ピアノを仕掛けたときには、彼は躊躇なくそれに合わせて、歩み寄ろうとさえしています。それにもかかわらず、なにか全体的には、お互いの主張が音楽の流れを損なっているな、と感じられることの方が多くはないでしょうか。野心に満ちた若い演奏家同士のスリリングなまでのバトル、長い間きちんと聴いてみたいと思い続けていたアルバムは、そんな彼らがある時代に醸し出した一つの風景の記録でした。

CD Artwork © EMI Music Japan Inc.

3月8日

LIGETI
Lux aeterna
Susanne van Els(Va)
Daniel Reuss/
Capella Amsterdam
musicFabrik
HARMONIA MUNDI/HMC 901985


リゲティの「ルクス・エテルナ」の最新録音、歌っているのはこのサイトには初登場の「カペラ・アムステルダム」という、1970年に創設されたオランダのアンサンブルです。1990年に、かつてはリアス室内合唱団、現在ではエストニア・フィルハーモニック室内合唱団の指揮者を務めているダニエル・ロイスが指揮者に就任したことにより、この団体はフル・タイムのプロの合唱団として新たに出発、今では世界中の音楽祭などで大活躍しています。「ラ・フォル・ジュルネ」で日本にやってきたこともあるね
「ルクス・エテルナ」という曲が語られるときには、必ずといって良いほど「キューブリックの『2001年』のサントラに使われた曲」、という「まくらことば」がついて回ります。確かに、あの映画であのように印象的な使い方をされたからこそ、この曲は、そしてこの作曲家は現代の音楽としては破格の待遇で世に知られることにはなりました。しかしそれは「ツァラトゥストラ」同様歴史の必然、もしかしたら、あの映画がなかったら、現在では全く別の局面を、これらの曲は迎えてしまっていたかもしれなかったのでは、という考えは、タイム・パラドックスを起こすだけのものでしかありません。
サントラに使われた、この曲の初録音となるゴットヴァルト盤(WERGO/1966年)のある種おどろおどろしいたたずまいは、確かにこの映画には見事に合致した不気味さを現したものではありました。しかし、作られてから40年以上も経った頃には、この曲は無伴奏合唱作品の「古典」としての地位をすでに確立していました。日本のアマチュアの合唱団がコンクールの自由曲に選んで演奏するというような事態が勃発した時点で、ついにこの曲は「2001年」からの呪縛から逃れることが出来たのです。
このアルバムでは、リゲティの他の作品の間にこの曲が挟まれるという、ユニークな構成がとられています。6曲から成る「無伴奏ヴィオラソナタ」の前半の3曲がそれ、おそらく自然倍音を素材にしたのでしょうか、平均率とは微妙に異なる音程を持った第1曲に導かれて、「ルクス・エテルナ」が始まります。若いメンバーが集まっているこの合唱団は、ここでなんともしなやかな「ルクス・エテルナ」を紡ぎ出しています。まるで虹の色のように刻一刻色合いを変えて輝くクラスターの、なんと美しいことでしょう。そう、ここには、「永遠の光を彼らに照らして下さい」というテキストの「意味」が、見事に伝わってくるような確かなメッセージが込められていることを誰しもが感じられるはずです。最後にアルトが歌う「luceat」という言葉には、なんという深さが宿っていることでしょう。
ヴィオラソナタの他の楽章に挟まれているのは、1982年に作られた、やはり無伴奏の合唱曲「ヘルダーリンによる3つのファンタジー」です。「ルクス・エテルナ」とは全く作風の異なる曲ですが、ここでも合唱団は「クールな共感」をもって、見事な演奏を聴かせてくれています。
カップリングが、リゲティと同世代、1925年生まれのオランダの作曲家、ロバート・ヘッペナーの「岩の中へ」という、1992年に作られた6曲の合唱曲です。ある意味保守的な作風だったため、リゲティやブーレーズなどが現れた1960年台の「前衛」シーンには付いていけず、ドロップアウトをしてしまった過去を持つ人ですが、こうしてリゲティの作品と同時に聴かれると、なにか懐かしい思いに駆られるのと同時に、リゲティとは別の意味の新鮮さも感じ取ることが出来ます。現代の音楽は何が本当の主流だったのか、そんなことにも思いを巡らすような、これは「前提的」な作品でした。
最後に、「レクイエム」のテキストがらみで、「ルクス・エテルナ」に続く「リベラ・メ」のグレゴリオ聖歌が歌われているのも、粋な計らいです。

CD Artwork © Harmonia Mundi s.a.

おとといのおやぢに会える、か。


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