うどん、お椀に。.... 佐久間學

(05/10/6-05/10/26)

Blog Version


10月26日

MOZART
Piano Concertos 6,15&27
Pierre-Laurent Aimard(Pf)
Chamber Orchestra of Europe
WARNER/2564 62259-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11886(国内盤 1123日発売予定)

また、モーツァルトです。まだモーツァルト・イヤーになっていないうちからこんなに取り上げているなんて、いったい来年にはどんなことになっているのでしょう。それにしても、「生誕250年」などという半端な数字でこれだけ盛り上がるのですから、すごいものです。というより、こんなものはただの口実、とにかくみんなモーツァルトが好きなんです。本当はいつだって大騒ぎをしていたいのでしょうが、それもなんですからこういう「当たり年」にかこつけて、おおっぴらに聴きまくろう、演(や)りまくろう、ということなのでしょう。もちろん、私もモーツァルトは大好き、こういう時でないと出せないようなちょっと変わったアルバムを、大いに期待しているところです。
エマールがモーツァルトの協奏曲を録音してくれた、というのも、もしかしたらこの流れの恩恵なのかもしれません。殆ど「現代物」のスペシャリストとして、メシアンやリゲティの演奏で衝撃的な世界を見せてくれたエマールでしたが、ベートーヴェンの協奏曲に手を染めたあたりからレパートリーに広がりを見せてきたのは、ご存じの通りです。もっとも、そのベートーヴェンは、相方のアーノンクールの趣味が前面に出すぎていて、私にとってはちょっと、でしたが。
今回のモーツァルトでは、まず曲目の選択からして、一本筋の通ったものになっています。6番、15番、27番と、彼の若い時期から晩年までの長いスパンを網羅しているとともに、全ての曲が「変ロ長調」で書かれているという共通点があるのです。ライナーノーツを執筆しているリンゼイ・ケンプによると、この変ロ長調というキーは、モーツァルトにとって「もっとも分かりやすい種類の幸福と結びついている」ものなのだそうですから、そのあたりの情感の反映が時代と共にどう変わっているかを検証するのが、エマールの目論見だったのかもしれません。
6番と15番では、この「幸福感」が存分に味わえます。オーケストラはベートーヴェンの時と同じヨーロッパ室内管、しかし、指揮者はおかずにエマールが自ら「director」という立場でオーケストラの面倒を見ています。「conductor」というほどの強い意志は示さず、もっぱらオーケストラの自発性を生かそうというスタンスなのでしょうか。ここでは、ピアノとオーケストラの音楽性は見事な調和を見せていて、伸び伸びとしたモーツァルトの「明るさ」を心ゆくまで楽しむことが出来ます。6番の3楽章で大活躍するホルンの生き生きとしたことといったらどうでしょう。
ところが、27番になると、様相は一変します。1楽章のオーケストラのイントロがこんなに「暗く」聞こえてくる演奏は、今まで聴いたことがありません。もしかしたらエマールは、ここで「変ロ長調」と同じ調号である(平行調とも言う)「ト短調」を意識しているのでしょうか。しかし、ピアノもオーケストラも申し合わせたように妙な「溜め」を作っていて、音楽が停滞して流れていかないのにはちょっとついて行けません。2楽章も、その重々しい足取りは変わりません。そして、まるで羽根が生えて舞い上がるような軽やかさを持っていて欲しい3楽章のロンドでも、そんな期待が満たされることは決してありません。思わせぶりな暗さ、妙な引っかかり、そして不思議なアクセント、こんな音楽はまるで先ほどのアーノンクールの趣味そのものではありませんか。このオーケストラに染みついたこの「偉大な」指揮者の陰が、ここにもチラチラしているのではないか、そんな印象を強く受けるものでした。言ってみれば、とても相性が良いと思って「幸福」な気分で付き合っていたら、いきなり情夫が顔を出して、美人局だと分かったようなもの。こんな品のない喩えは、このサイトではいつもだぜ

10月24日

MOZART
46 Symphonies
Alessandro Arigoni/
Orchestra Filarmonica Italiana
MEMBRAN/203300-321


モーツァルトが作った「交響曲」というのは、いったい何曲あるのでしょうね。今時、最後の交響曲が「41番」だから「41曲」だなどという人は、いるはずがないでしょう。そもそも、この番号にしてもモーツァルト自身が付けた番号では決してないことはもはやよく知られた事実です。8歳の子供が「これは私の交響曲第1番だ」などと言っていたりしたら、かなりキモイものがありません?
最初にこの番号を付けたのが誰なのかは、私には分かりませんが、いずれにしても、そこにモーツァルトの意志が反映されていたことは全くあり得ません。研究が進むにしたがって、偽作であることが判明したり、新しい作品が発見されたりと、交響曲に限らずモーツァルトの作品目録自体が現在では大きな混乱のなかにあります。そもそも「交響曲」という概念すらも研究者によってさまざまな解釈がなされていますから、はっきり言って交響曲が何曲あるかなどということは誰にも分からない、と言うのが現状なのです(たとえば、クリストファー・ホグウッドの「交響曲全集」には全部で69曲の「交響曲」が収録されています)。
10枚組で1689円(税込み)という、とても信じられないような価格で出回っている、このアレッサンドロ・アリゴーニという人が指揮をした、トリノにある「フィラルモニカ・イタリアーナ」というオーケストラの全集には、46曲の交響曲が入っています。まあ、このあたりの数字が最近の標準的な解釈なのでしょう。ところが、ここでまた見慣れないものが。「交響曲第42番」とか、はては「交響曲第55番」などという「41番」が最後だと思っていた人を欺くような番号が見られるではありませんか。モーツァルトが最後の交響曲を作ってから亡くなるまでの3年間に10曲以上の交響曲を作っていたことが、最近になって明らかになったのでしょうか。もちろんそんなわけはなく、これは今まで番号を振られていなかった若い頃の作品に新たに番号を振ったもの、さっきの「55番」とは、一時偽作とされていた「K45b」のことだったのですね。実はこの番号、大分昔から密かに使われてはいたもののようで、現在でもまだ見かけることがあります。せっかくケッヘルが年代順になっているのに、こんな付け方をしてしまったのは大問題。どうしても付けたいのなら「7a番」とかにしてくれればよかったものを。
とにかく、そんな「裏番号」を知ることが出来たのが、このセットの一つの収穫でした。もちろん、それだけではありません。こんな値段ですから、ライナーノーツもなければ録音データも一切ありませんが、逆に全く先入観なしで聴くことができます。そこで聞こえてきたものは、近頃の主流である「ピリオド・アプローチ」には完全に背を向けた、いかにもおおらかなモーツァルトだったのです。人数は少なめでしょうが、弦楽器は思い切りビブラートをかけて歌いまくっています。なによりもすごいのが、まるでロッシーニのようなクレッシェンド。「39番」の序奏でティンパニのロールが華々しくフォルテシモまで迫ってきた時には、思わずスコアの間違いかと思ってしまったほどです。昔はこれが当たり前だったモーツァルトのちょっと懐かしい演奏様式、時代が巡ってそろそろ「揺り返し」が来ているのかもしれません。あまりにもおおらか過ぎて、アンサンブルに難があるのは、まあ演奏の勢いに免じて、許すことにしましょう。ただ、全てのリピート(繰り返し)を省いているのは、ちょっとさもしい気もしますが。メヌエット楽章までリピートがないと、まるで別の曲のように聞こえるから、不思議です。「41番」の第1楽章ではまるまる4小節抜けてますし(編集ミスでしょう)。ですから、いくら「40番」のテンポが異常に遅くても、曲を聴き終わるスピードは速くなるのです。

10月21日

VICTORIA
Requiem
Harry Christophers/
The Sixteen
CORO/CORSACD 16033(hybrid SACD)


2001年に創設されたイギリスのレーベルCOROは、当初はCOLLINSというすでに活動を停止したレーベルにあった「ザ・シックスティーン」のカタログをリマスターして再発するということを行っていました。それは、以前こちらでご紹介したことがありますね。しかし、最近ではそのような旧録音だけではなく、独自に新しい録音も始めるようになったようです。その最新作が、このヴィクトリアの「レクイエム」とモテットを集めたアルバムです。スペインのルネッサンスを代表する作曲家、トマス・ルイス・デ・ヴィクトリアには、若い頃に作られた4声部の「レクイエム」がありますが、ここで聴けるものは、彼の最晩年の作品、というか、殆ど最後の作品となった、1605年に作られた6声部のものです。
この「レクイエム」、当時の慣習なのでしょうが、それぞれの曲に先だってグレゴリオ聖歌が演奏されています。それを聴いていると、まるでデュリュフレの作品を聴いているような錯覚に陥るのは、ちょっと不思議なものです。もちろん、デュリュフレの方が昔からあったこの旋律をほぼ完璧にコピーして、現代の作品として蘇らせたのですから、そんな感想を持つのは正しいことではないのでしょうが、350年もの時を経た作品の間に、グレゴリオ聖歌というものを介して全く同じテイストを感じることが出来たというのは、何かものすごいことのような思いがします。ほんと、「奉献唱」など、そのまま続けてデュリュフレの作品になってしまっても何の違和感も抱くことはないようなアブなさがあります。
この曲は、ヴィクトリアが仕えた皇太后マリアの葬儀のために作られたものなのですが、ここには死者を悼む哀しみよりは、むしろ天に召されることに対する祝福のようなものを感じてしまうのは、いけないことなのでしょうか。というのも、この曲のなかで使われているモチーフが、ことごとく上昇音型によったもののように聞こえるからです。その最も印象的なものが、冒頭の「入祭文」の、お馴染みのグレゴリオ聖歌に続いて聞こえてきます。まるでファンファーレのようなそのフレーズからは、まさに昇天のイメージがかき立てられてもそんな見当外れではないと思うのですが。
そのように感じてしまったのは、クリストファーズたちの演奏が、湿っぽさなど微塵も感じられない華やかなものだったことと、大いに関係があるに違いありません。まるで鋼のように伸びのあるソプラノパートと、それを張りのある声で包み込む他のパート、そして、さらに厚みを増すために加えられたオルガン。それらが録音会場であるシラス教会のなかで響き渡る時、あたかも私達がとても晴れがましい祝典にでも参列しているような気持ちになるのはごく自然の成り行きです。
そして、先ほど、現代のデュリュフレの作品とも何の違和感もなく共通点が見いだせたのは、そのような華やかさに加え、彼らがこの曲から現代でもしっかり通用するようなエモーションを引き出しているせいなのでしょう。それぞれのパートが熱く思いの丈を込めて歌い上げる姿からは、時代も、そして宗教も超えた、まさに魂のほとばしりのようなものが伝わってきます。このような体験を味わうことを、あるいは「感動」というのかもしれません。便秘の時にもそんな「ほとばしる」体験が(それは「浣腸」)。

10月19日

PÄRT
Lamentate
The Hilliard Ensemble
Alexei Lubimov(Pf)
Andrey Boreyko/
SWR Stuttgart Radio Symphony Orchestra
ECM/476 3048
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2049(国内盤 1123日発売予定)

「テート・モダン」という現代美術館がロンドンにあります。イギリス最大の規模を誇るものですが、なんでも元々は発電所だった建物をそのまま使っているという、ユニークな設備なのだそうです。そこの「タービン・ホール」という、以前は発電用の「タービン」があった場所に、2002年にインドのボンベイ(現在は「ムンバイ」と言うのだそうですね)に生まれた世界的な彫刻家、アニッシュ・カプーアの「マルシャス」という作品が建造されました。そう、「製作」などという言葉ではとても言い表せない、まさに「建造」という言い方がピッタリするような巨大な作品が、この、かつてはタービンが設置されていた巨大な空間に出現したのです。長さ155メートル、高さ35メートル、スチールの骨組みに赤い塩ビのシートを貼り付けたこのオブジェは、長いトンネルの両端にまるでブラックホールへの入り口のような形をした開口部が一つは正面、一つは真下を向いて付いているという構造になっています。それを頭に巻き付けると「ターバン」になりますね。

この作品を前にして、ペルトはとてつもない衝撃を受けたと語っています。曰く「最初の印象は、まるでタイム・ワープして未来と現在が同時に見られるように、死んだ自分が生きている自分の肉体の前に立っている、というものだった。その瞬間、私は死ぬためにはなんの準備も出来ていないことに気づき、私に残された時間で何を成し遂げることが出来るのか、自らに問いたい気持ちになったのだ。(例によって、業者のインフォとは微妙に異なる表現であることに、ご注目下さい)」
このオブジェと、作者のカプーアへのオマージュとして作られた「ラメンターテ」は、ピアノ協奏曲という形をとっていて、全部で10の部分から成っています。最初の部分で、バスドラムの壮大な咆哮に乗って現れる金管のコラールは、この壮大なオブジェをイメージしたものなのでしょうか。次の「Spietato」では、普段のペルトではあまり味わうことのないような、半音階の連続に続く切迫した場面が繰り広げられます。しかし、その後の弦のフラジオレットやビブラフォンを背景にしたピアノソロでは、いつもながらの静謐なペルトが登場して、聴くものを安心させてくれます。リュビーモフの、まるで一つ一つの音を慈しんで魂を与えるような演奏には、思わず引き込まれてしまいます。そんな、落差の大きい表現も、この曲の特徴でしょう。最後の方の「Lamentabile」で聞こえてくる弦楽器もとても美しいもの、日頃首席指揮者ノリントンのもとで強いられている「ノンビブラート」の鬱憤を晴らすかのような、この甘い響きは、心を打ちます。
この曲の初演は、もちろんこの「タービン・ホール」で行われました。その時の写真がライナーに掲載されていますが、それは、この空間と見事にマッチした得難いイベントだったことでしょう。空間芸術である彫刻と、時間芸術である音楽との、希有なコラボレーションがそこでは確立していたはずです。もしかしたら、オーケストラの音はこのオブジェの中を通って、観客の後ろからも、少し時間をおいて聞こえてきたのかもしれませんね。そんな体験ができるサラウンド録音なども、聴いてみたいものです。
カップリングは、「エスペリオンXXI」のジョルディ・サヴァールの委嘱で作られた無伴奏合唱のための「ダ・パーチェム・ドミネ」。ドローンの上に音を置いていくという、もちろん中世の音楽を現代に蘇らせたペルトのルーティン・ワーク、アンサンブルではなく、大人数の合唱でも聴いてみたい気がします。

10月17日

MOZART
Clarinet Quintet, Horn Quintet, Oboe Quartet
Lorenzo Coppola(Cl)
Pierre-Yves Madeuf(Hr)
Patrick Beaugiraud(Ob)
Kuijken String Quartet
CHALLENGE/SACC72145(hybrid SACD)


クイケン兄弟の次男ジギスヴァルトと長男のヴィーラントがファースト・ヴァイオリンとチェロという外声を担当している「クイケン弦楽四重奏団」、かつてモーツァルトのレクイエムをこの編成で演奏した珍しいCDをご紹介したことがありましたね。今回は、それに比べればいたってまとも、クイケン達のオーケストラ、「ラ・プティット・バンド」の管楽器奏者が参加しているアンサンブルです。
まずは、名曲中の名曲、クラリネット五重奏曲、クラリネットは、これも周知の「ゼフィーロ」のメンバーでもある、ロレンツォ・コッポラです。ただ、ここでコッポラが使っている楽器がちょっとくせ者。ただのクラリネットではなく、「クラリネット・ダモーレ」という聞き慣れない名前だもーれ
左の図を見れば、普通のクラリネットとはちょっと違った形をしていることがお分かりになることでしょう。現代の楽器に比べてキーが少ないのは「古楽器」であることで比較の対象からは外して頂くことにして、注目して頂きたいのは、胴体とマウスピースをつなぐ「ボーカル」と呼ばれる部分と、開口部の形です。ボーカルは少し湾曲していますし、開口部も朝顔型ではなく、ちょうどコール・アングレやオーボエ・ダモーレのような壺状の形をしていますね。そう、まさにこの楽器は、そのオーボエ・ダモーレのクラリネット版なのです。オーボエ・ダモーレが、オーボエより短三度低いA管であるのと同様、この楽器もA管である普通のクラリネットより長三度低いF管になっています(つまり、一回り大きな楽器、ということです)。
そもそも、モーツァルトがこの五重奏曲を作ったのは、友人のクラリネット奏者アントン・シュタードラーのためでした。ただ、シュタードラーがこのクラリネット・ダモーレを吹いていたというわけではなく、彼の楽器は「バセット・クラリネット」という、通常のA管の低音の音域を広げたものですから、ここでのコッポラの選択は、決して「オリジナル」を追求したものではなく、同じ音域を持つ知られざる楽器を使ってみたものだと受け取るべきでしょう。
私が初めて体験したクラリネット・ダモーレの柔らかい音色はとても魅力的なものでした。特にその最低音は、ちょっととってつけたようなバセット・クラリネットのそれに比べて、あくまで他の音域との違和感のない、自然なものです。もちろん、A管用に改竄された楽譜の音ではなくモーツァルトが書いたオリジナルの音型が聞こえてくるのもありがたいもの。協奏曲も、この楽器で聴いてみたい気になってきました。ただ、そのような価値のあるアプローチではあるのですが、この演奏全体を覆っているある種の生真面目さよって、音楽を気軽に楽しめなくなっているような印象を与えられるのは、ちょっと残念です。ラルゲットの一本調子な歌い方も、かなり不満が残ります。
それに比べると、あとの2曲は曲想の違いもあるのでしょうが、いかにもすがすがしい息吹が感じられて楽しめます。あまり聴くことのないホルン五重奏曲は、通常の弦楽四重奏ではなく、ヴィオラが2本という渋い編成、しかし、出てくる音楽はいかにもすっきりしたものです。マデュフのホルンはもちろんナチュラルホルン、時折、「プ」とか「ペ」といった、ゲシュトップで音程を修正した音が混じるのが、何とも言えぬ和やかさを醸し出しています。ボージローのオーボエも、他のメンバーと見事に一体化した呼吸から、確かな「悦び」を伝えてくれています。そこには、先ほどのコッポラのような硬直した音楽ではない、豊かな歌が溢れています。

10月14日

バッハの街
Bachstätten
Martin Petzoldt著(小岩信治・朝山奈津子訳)
東京書籍刊
(ISBN4-487-79840-X)

バッハの「街」ですから、元のタイトルが「Bachstädte」だと思ったら、そうではないのですね。これだと「バッハゆかりの場所」みたいな訳の方が、より正確な気はしますが。しかし、サブタイトルはもっとすごいことになっていますから、ここでめげてはいけません。「Ein Reiseführer zu Johann Sebastian Bach」、素直に「ヨハン・セバスティアン・バッハへの旅行ガイド」と訳しておけば良いものを、関係者が付けた邦訳は「音楽と人間を追い求める長い旅へのガイド」ですと。なんだかなぁ、という感じですね。ことバッハに関してはそのぐらい重々しいタイトルでないと、世の中では認められないとする感覚が、いまだにこの国には蔓延しているのでしょう。
という具合に、いつかご紹介したカルショーの本にも見られたように、クラシック音楽の書籍の翻訳にあたっては何が何でも「教養」を前面に押し出したいという翻訳者達の美しい「使命感」は、明治以来の「伝統」として、これからも変わらず継続されていくことでしょう。何とうざったい。余談ですが、翻訳業界でのちょっと普通の感覚では理解しにくい不思議な習慣は、他の分野でも大手を振って闊歩しています。特に、児童文学での見当外れの親切心といったら、殆ど犯罪的ですらあります。最近映画化されて大ヒットとなった「チャーリーとチョコレート工場Charlie and the Chocolate Factory」の原作(まず、タイトルの訳が「チョコレート工場の秘密」というだけで、ひいてしまいます)あたりは、その最も分かりやすい例です。今、所狭しと書店をにぎわしているその「新訳」を読んでみると、訳者が誇らしげに「チャーリー・バケットは、チャーリー・バケツとしないことには、ちゃんと翻訳したことにはならない」と開き直っているのですからね。「ベルーカ・ソルト」が「イボダラーケ・ショッパー」ですって。これらのキャラクター名にはちゃんとした意味があるのだから、それが分かるような翻訳でないといけないのだとか。こういう感覚にはとてもついて行けないと思うのは、私がそういうものに慣れていないというだけのことなのでしょうか。そんなことを言っていたら、それこそ「バッハ」は「小川さん」と訳さなければならなくなりますし、シューベルトは「靴ひもさん」ですよね(それは・・・)。

と、関係のないところで悪態を付いてしまいましたが、この本の価値は、そんなおかしなセンスの翻訳でいささかも減じるものではありません。言ってみれば、300年近くの時を軽く飛び越えた「旅行」を体験できるという、まるでタイムマシンのような「ガイド」、これはちょっとすごい発想です。
その仕掛けはこうです。バッハが生前住んだり訪れたりした場所を42ヵ所ほど探しだし(その中には、確かに行ったという証拠がないところも含まれます)、資料を基にそこでバッハが何月何日にどういうことをしたのかを、事細かに述べているのです。人の名前がたくさん出てくるのには少しひるみますが、その、まるで見てきたような筆致を支えている、現在のバッハ研究が到達した成果の精密さには驚かずにはいられません。そして、そのあとに続くのが、現在のその場所の詳細な説明です。歴史的な教会や、その中に設置されている、バッハが触れたであろうオルガン(もちろん、現在は建て替えられて原形をとどめないものも多数)のストップ表まで、克明に記載されているのです。さらに、交通手段や連絡先、教会を見るには予約が必要か、など、本当の意味での「ガイド」まで付いているのですから、すごいものです。ですから、これを読んで実際にそこに行ってみたくなる人も多いことでしょう。あなたの一番大切な人と一緒に行かれてみてはいかがでしょう。

10月12日

XL
Choral Works for 40 Voices
Arvid Gast(Org)
Simon Halsey/
Rundfunkchor Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 801873(hybrid SACD)


真っ白いジャケットに銀色の「XL」という文字、かなり印象的なデザインには惹き付けられてしまいます。これは、ローマ数字で「40」を表す文字なのですが、同時に「eXtra Large」という意味も持たせてあるという、イギリスの作曲家、アントニー・ピッツの作品のタイトルにもなっています。「40」の声部を持つ「巨大な」作品というと、すぐ思い出されるのが、16世紀に活躍したトーマス・タリスのモテット「Spem in alium」でしょうが、このアルバムはそのタリスの曲をまず収録した上に、それと同じ40の声部をもち、テキストには詩編40を用いるという、とことん「40」にこだわったピッツの2002年の新作を初(おそらく)録音した、というものです。さらに、その大編成のサウンドをきっちり「サラウンド」で体験してもらうために、マルチチャンネル仕様であることが大きく打ち出されたものになっています。ただ、その合唱団の並び方と、それに応じたマイクアレンジが図示されたライナーによって、そんな、いわばサラウンドのデモンストレーションで終わってしまっている底の浅いアルバムのような印象を持たれてしまうのは、もしかしたら演奏家にとっては不本意なことだったのかもしれません。
実際、そんな「際物」であっても仕方がない、という思いで聴き進むうちに、このアルバムの本当のコンセプトは、そんな表面的なものではなかったことが、痛感されることになります。これは、先ほどのタリスだけではなく、グレゴリア聖歌や、パーセル、バッハといったいにしえのオリジナルと、それを素材にして作られた20世紀後半(ピッツは21世紀)の新しい曲を並べて紹介するという、かなりスリリングなものだったのです。
そのバッハでは、「フーガの技法」のコントラプンクト1がオルガンで演奏されたあと、ディーター・シュナーベルによる無伴奏合唱バージョンを聴くことが出来ます。そこには、まるでウェーベルンによる「音楽のささげもの」のような点描的なレアリゼーションによる、ちょっと不思議な浮遊感が漂っていました。そして、もう一つの「バッハネタ」が、なんとあの「Immortal Bach」ではありませんか。このアルバムで初めて聴いた、バッハのコラール(BWV478)を元ネタ(最初に、オリジナルが提示されます)にして、次第に原形をとどめないほどに「壊して」いくという、一度聴いたら忘れられない名曲に、こんなところで再会出来ようとは。しかも、この演奏は前に聴いたものより、その壊し方が徹底されている快演なのですから、嬉しくなってしまいます。
同様の仕掛けは、マーラーの8番で有名な聖歌「Veni, creator spiritus」(最初の「ヴェーニッ!」というのが「千人!」と聞こえることから、この曲は「千人の交響曲」と呼ばれていますね)を素材にしたジョナサン・ハーヴェイの「Come, Holy Ghost」にも見られます。2人のソリストが呼び交う中、8声の合唱は不思議なバックグラウンドノイズを奏でます。終盤では、それはまるでリゲティの「レクイエム」のような様相を見せるのですから、面白くないわけがありません。
いずれの曲に於いても、ベルリン放送合唱団が卓越したテクニックとソノリテで、存分に楽しませてくれたのが、アルバムコンセプト同様あまり演奏に関しても期待をしていなかったことに対する嬉しい裏切りでした。ただ、タイトル曲であるピッツの作品は、いまどき12音やシュプレッヒ・シュティンメではないだろうという、技法的に硬直したものが見られて、ちょっと期待はずれ。

10月10日

Mozart The Supreme Decorator
D.Montague, E.Futral, M.Cullagh(Sop)
Charles Mackerras/
The Hanover Band
OPERA RARA/ORR 232


「モーツァルト、最高の装飾家」という、まさに来年のモーツァルト・イヤーに向けてのもろ企画アルバムです。もちろん、これはこういうことが大好きな指揮者のマッケラスが自ら監修にあたっており、これからうんざりするほど出てくるであろうどこぞの国の「○○に良く効くモーツァルト」などという便乗企画とは根本的に異なる次元の志を持ったものであることは、言うまでもありません。
モーツァルトが他の作曲家の作品をどのように「装飾」したか、という様子を実際に音で体験してもらおうという企画、しかしここで実現されているのは、単に曲を並べただけという安直なものではありませんでした。マッケラスは、ライナーノーツの中で、そのような曲、あるいは装飾が出来上がる課程でモーツァルトと関わりがあった人物たちのことを細かく述べてくれています。それによって、モーツァルトの素顔が自ずと浮き出てくる、という巧妙な仕掛けが、ここには施されているのです。その人物の1人が、当時ロンドンで活躍していた大バッハの末子、ヨハン・クリスティアン・バッハ、21歳年上のこの作曲家は、モーツァルトが唯一尊敬した同業者として、彼の手紙にはたびたび登場しています。そのバッハの「シリアのアドリアーノ」というオペラからのソプラノのためのアリアが、まずこのアルバムに登場します。最初にダイアナ・モンタギューによって歌われるのがオリジナルのバッハ・バージョン、そして、そのあとに続くのがマジェラ・カラフとエリザベス・フラトルによって歌われれう2通りのモーツァルト・バージョンです。ここでモーツァルトは、元からあったゆったりとした前奏をバッサリカットして、全く別の快活な部分を新たに挿入、それを導入として本来のアリアに入るという、実にかっこいい編曲を行っています。もちろん、フレーズの至るところにはセンスの良い「装飾」が施され、目の覚めるようなカデンツァが彩りを添えます。
そして、このようなバージョンを作るきっかけを与えたのが、もう1人の登場人物、その当時の恋人アロイジア・ウェーバーでした。健康食品も時としてお肌に悪いもの(それは「アロエじわ」)。やがてはこのアロイジアの妹であるコンスタンツェと結婚することになるのですが、この頃はオペラ歌手であった彼女に夢中だったモーツァルトの、「バッハさんのこんな曲があるんだけど、歌ってみない?君が歌えばもっと素敵になるように、ぼくがちょっと手を入れてみたんだ」みたいな、幸せそうな様子が目に浮かんではきませんか?
実は、このアルバムのコンセプトはもう一つあって、それは「パクリ屋としてのモーツァルト」。先ほどのクリスティアン・バッハの曲からアイディアを借りて、それを彼なりに展開させたという実例が2つほど紹介されています。そのうちの一つが、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロを独奏楽器としたコンチェルタンテの形を持つ「後宮」の中のコンスタンツェのアリアですが、確かにその前に聴かれるバッハの「シピオーネの慈悲」というオペラの中の曲とそっくりのアイディアが見られます。もちろん、これは敬愛する作曲家の良いところを積極的に自らの語法の中に取り入れるという、ポジティブな意味での「パクリ」ととらえるべきでしょう。
3人のソプラノは、いずれも清楚な歌い方で好感が持てます。私としては芯のある響きで一歩ぬきんでているフトラルの声がベストでしょうか。久しぶりに聴いたハノーヴァー・バンドの柔らかい響きともども、ホールの空気感まで見事に収めることに成功した録音の素晴らしさも光っています。

10月8日

DURUFLÉ
Complete Choral Works
Thomas Herford(Bar)
Clare Wilkinson(MS)
Mark Williams(Org)
Richard Marlow/
Choir of Trinity College, Cambridge
CHANDOS/CHAN 10357


「レクイエム」でお馴染みのモーリス・デュリュフレの「合唱曲全集」、といっても、彼が生涯に作った合唱曲は、ちょうどCD1枚に収まる分量の、このアルバムの4曲が全てになります(録音が行われたのは1999年から2005年までということになっていますが、どの曲がいつ録音されたかというデータは、不親切なことにここには一切ありません)。彼の作品は合唱曲以外にはオルガン曲とほんの少しのオーケストラ曲というごく限られたもので、そもそも、ここに収められている「われらが父よ」という無伴奏混声合唱曲が「作品14」という、彼の最後の作品なのですから。ただ、そんな手頃な「全集」とは言っても、今までこの4曲全てを1枚のCDに収録したものとしては、オドネル盤(HYPERION/1994スーリス盤(SYRIUS/1998ロビンソン盤(NIMBUS/1998ぐらいしかなかったのですから、これはちょっと貴重。
マーロウと、ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ聖歌隊は、1989年に、CONIFERに「4つのモテット」とミサ「クム・ユビロ」を録音していました。その時のカップリングはフォーレの「レクイエム」のネクトゥー・ドラージュ版と、メシアンの「おお聖餐よ」でしたね。したがって、最初にその録音との比較を試みるのが、手順、というものでしょう。「冬ソナ」ですね(それは「ペヨンジュン」)。しかし、懐かしいCONIFERをまず聴いて、その純粋な響きを堪能したあと、このCHANDOS盤を聴いてみたところ、やはり合唱団というのは生き物、10年ちょっとの間にかなり肌触りが異なっていることに気づかされてしまいます。無垢な中にも暖かい響きを持っていた女声(成人女声です)には、なにか突き放したような冷たさが宿っていることを認めないわけにはいきません。男声の柔らかい響きは健在でしたが、ちょっとパートとしてのまとまりがなくなっています。これは男声のユニゾンで歌われる「クム・ユビロ」ではっきり分かることなのですが、かつて完璧なまでに一つのパートとして迫ってきたユニゾンの絆がバラバラになって、個々のメンバーがそれぞれ別の方向を向いてしまっている、という印象を受けてしまったのです。
ただ、今回オルガンパートだけは、明らかに前回よりも良くなっているのがはっきり分かるというのはちょっと皮肉なものです。録音場所は同じトリニティ・カレッジですから、同じ楽器を使っているはずなのに、その存在感が全く異なっています。逆に、オルガンが立派すぎるために合唱が少し見劣りしているのかもしれません。
そんな状況で、本命の「レクイエム」を聴いてみましょう。こうなってくると、合唱の方はあまり期待できませんから、いきおい、耳はオルガンに向くことになりますが、その適切なストップの選択から生まれる表情豊かな演奏からは、殆どフルオーケストラと比べても遜色ないほどのものが聞こえてきたのには、嬉しくなってしまいました。そして予想通り、合唱はこの曲の全てのCDを聴いてきた私としては不満だらけのものでした。男声のユニゾンで始まる第1曲目の冒頭でもうがっかり、そのあとの女声も重苦しい響きで、ここでぜひあってほしい羽根のようにフワフワした浮遊感が全く感じられません。逆に「サンクトゥス」などで要求される力強さも、ただの荒々しさでしかありませんでした。そんな幅広い表現力が必要とされるこの曲での合唱の難しさを、改めて痛感されることになってしまったわけです。ソリストの2人も、ちょっと水準以下、メゾのウィルキンソンなどは、殆ど素人です。せめて、フォーレを録音していた時に、この曲も録音してくれていたら、というのは、もはや叶わぬ望みなのでしょう。

10月6日

MOZART
Don Giovanni
Charles Mackerras/
Orchestra of the Prague National Theatre
YONSEI/YDS-D1006(DVD)


来年2006年は、モーツァルトの生誕250年とかで、またまた大騒ぎの予感、と言うか、もうすでにその前哨戦は始まっています。それに便乗したのでもないのでしょうが、ほんの少し前、1991年のモーツァルトの没後200年(そんなのがありましたね)にちなんだイベントのDVDが、韓国の正体不明のレーベルからリリースされました。マッケラス指揮の「ドン・ジョヴァンニ」が2000円以下という値段で見られるのですからこれはお買い得「待ってました」とばかりに、つい手を出してしまいましたよ。
これは、このオペラが初演されたプラハ国立歌劇場での、記念すべき上演の模様が収録されたものです。プラハには3つほどオペラ劇場がありますが、いわゆる「スタヴォフスケー」と呼ばれるこの劇場は、この催しに合わせて8年間にわたる修復工事を行って、モーツァルト当時の美しい姿に再建されました。作曲者の没後200年にあたるこの年、チェコの大統領ヴァツラフ・ハヴェル臨席の下に行われたこの公演、指揮者のマッケラスがピットに現れてすぐ演奏されたのが、序曲ではなくチェコ国歌だったのには、ちょっと驚かされます。逆に、何の疑いもなくこのようなことが出来るこの国の人たちをちょっと羨ましくも思ったものです。ロイヤルボックスに立つだけで敬意を払えるような元首も、そこで演奏されるべき国歌も持たない私達の国は、何と精神的に貧しいのでしょう。
この歌劇場にとって、「ドン・ジョヴァンニ」は特別な演目であるに違いありません。ですから、ここでマッケラスが用いていたのは、かつてこの地で初演された形、「プラハ版」であることには重要な意味があります。したがって、第1幕でドン・オッターヴィオのアリアが歌われなくても、それで失望するのはお門違いというものです。もっとも、失望という点では、この由緒あるオペラハウスのオーケストラのあまりの酷さを体験してしまえば、他のことには寛容にならざるを得ないのでしょうが。録音の酷さも相まって、このオーケストラの音からはこのような晴れがましい席にふさわしい響きは全く聞こえては来ません。しかし、レポレッロ役のルジュク・ヴェレと、ドンナ・アンナ役のナジェジュダ・ペトレンコについては、そんな我慢をする必要がないほどの完成度の高さを見ることが出来るのは、せめてもの救いでしょうか。「カタログの歌」の引き締まった表現はちょっと聞きものです。ツェルリーナ役のアリス・ランドヴァーも、その美しい容姿はとことん魅力的です。
演出については多くを語りますまい。ドン・ジョヴァンニ役のアンドレイ・ベスチャスニーが、ジャージ姿でリンゴをかじりながら登場することに、何の意味があるというのでしょう。ドンナ・アンナの強姦のシーンが、まるで合意の下での行為のように見えてしまったり、騎士長との決闘でドン・ジョヴァンニ自身も傷を負うというちょっと変わった設定だったとしても、そこで抱く期待感はその後の平凡極まりない進行によって、見事に裏切られてしまうのですから。「地獄落ち」のシーンで意味もなく回転する回り舞台の醜悪なこと。
最も我慢できないのは、その演出をした人が誰なのかを全く知ることが出来ないDVDのパッケージの不親切さです。それだけではなく、音と映像は最初から最後までずれているという編集のお粗末さ、さらに時折見られるドロップアウトと、商品としての欠陥は目を覆うばかり。もう二度と、韓国製のDVDは買うものか、と、堅く心に誓う私でした。

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17