格子ベッド。.... 佐久間學

(13/8/31-13/9/18)

Blog Version


9月18日

BACH
Six Brandenburg Concertos
John Butt/
Dunedin Consort
LINN/CKD 430(hybrid SACD)


これまでに、ほかの団体とは一味違った楽譜を使ってバッハやヘンデルの宗教曲をLINNレーベルに録音してきたスコットランドのピリオド・アンサンブル、「ダンディン(ダニーデン)・コンソート」が、初めて声楽を含まないインスト物をリリースしました。ちょっとおしゃれに決めてます(それは「ダンディ」)。曲はバッハの「ブランデンブルク協奏曲」全曲、指揮者のジョン・バットのこれまでの趣味からだと、この曲集がブランデンブルク辺境伯に献呈される時よりも、もっと初期の段階の別バージョンを集めてあるのではないか、と想像したのですが、そんな期待はものの見事に裏切られました。彼らは、全く別のやり方で「ほかの人とは一味違う」ことをやっていたのです。
彼らの今回のコンセプトは、最近の研究成果を盛り込んで、この曲集が編まれた場所であるケーテンでのバッハの楽団を再現することでした。それはまず、各パートは一人ずつで演奏すること、そして、ピッチを低くすることです。
様々な証拠、例えばこの時期に作られたカンタータのアリアでの歌手の記譜上の音が異様に高い、などということから、当時のケーテンでのピッチは、後にバッハが赴任するライプツィヒなど、ドイツの他の都市でのものよりも、低かったというのですね。「カンマートーン」と呼ばれる当時の標準ピッチはA=415Hzで、現代のピッチより半音ほど低いものですが、ケーテンではさらに半音低いA=392Hzが採用されていたというのです。したがって、この録音ではそのピッチを採用、ここからは、モダン・ピッチに比べて全音低い音が聴こえてくるはずです。さらに、「音律」も、もちろん平均律ではなく、バッハが使ったと言われている「ヴェルクマイスターIII 」が使われています。
ピッチに関しては、彼らはもう一つの挑戦を行っています。当時は教会の中だけでは、備え付けのオルガンに合わせた少し高めの「コーアトーン」というピッチが採用されていました。それはA=465Hzという、モダン・ピッチよりも半音高く、「カンマートーン」からは全音も高いピッチでした。ヴィオールなどの楽器は教会で用いられることが多く、このピッチが用いられたということで、「第6番」で使われているヴィオラ・ダ・ガンバとヴィオローネはこの「コーアトーン」でチューニングされています。これは、ほかの楽器より短3度高いピッチですから、移調して演奏することになるのですが、そうすることによって豊かな響きが出てくるのだそうです。
ちなみに、1オクターブ間の周波数は2倍ですから、その間を12等分した平均律の半音の周波数は、2の12乗根(≒1.0595)倍になります。ですから、A=440Hzの場合は、半音下は415.3Hz、全音下は392.0Hzになります。
そんな、「ロー・ピッチ」で演奏された「ブランデン」は、なかなか味のあるものでした。そもそもバットは、ヘンな楽譜を使っていても演奏自体はマトモですから、表現上での奇抜なところは見られません。そこに、この落ち着いたピッチですから、とても重量感のある、地に足の着いた音楽を味わうことが出来ます。「5番」でチェンバロ・ソロを担当しているのはバット自身、これが、そんな「重量感」をもろに全面に出した、ちょっと凄味が感じられるものでした。普通のピッチだと「チェンバロがかわいそう」と思えてしまうほどの乱暴な演奏に出会うこともあるのですが、ここではそんなことは全くありません。楽器に無理をかけなくても、充分に超絶技巧が伝わってくる、という渋いものです。
同じように、「楽に吹いているな」と思えるのが「2番」のトランペットです。半音低いだけでこんなにも違うのか、と思えるほどの、いたずらに「難しさ」を強調しない素敵な演奏です。第3楽章のあっさりとした終わり方などは、とてもチャーミングでしたよ。ただ、「6番」のヴィオールの調律については、違いは全く分かりませんでした。

SACD Artwork © Linn Records

9月16日

VERDI
Plácido Domingo(Bar)
Pablo Heras-Casado/
Orquesta de la Comunitat Valenciana
SONY/88883733122


このドミンゴの最新のソロ・アルバムのジャケットは、ドミンゴがヴェルディのコスプレをしているというものでした。これで、シルクハットの「つば」がもう少し曲がっていれば、はっとするほど完璧なのですが。それと、ショールの結び方まで同じにしている割には、ドミンゴだと「手ぬぐい」みたいに見えるのは、なぜでしょう。

そんな恰好をしていますから、これはヴェルディのアリア集だということはすぐ分かります。なんせ「ヴェルディ・イヤー」ですから、そんなものは別に珍しくもなんともないのですが、ここではドミンゴが「バリトン」のロールを歌っているところに注目です。
え?バリトン?なんと言っても「三大テノール」の一人として、オペラやクラシック音楽には全く関心のない人にまで知られているという知名度を誇っているドミンゴですから、彼の職業は「テノール歌手」に決まっている、と言われそうですね。しかし、実は彼は最初からテノールだったわけではありません。彼の声はもともとはバリトン、そこからテノールに「転向」したのですね。それは別に珍しいことではなく、知り合いでも学生時代はバリトンやバスのパートを歌っていた合唱団員が、社会人になってからテノールに転向したという例はいくつも聞いています(その逆で、年を取ってテノールからバリトンに転向した人も知っていますが、それは単に高い声が出なくなっただけです)。
ですから、ドミンゴの声は、テノールとは言ってもただ高い声を華やかに聴かせるというのではなく、もっと落ち着いた音色でしっとりと伝わってくる、というものではなかったでしょうか。そういう音色なので、彼のレパートリーはヴェルディやプッチーニのみならず、ワーグナーにまで及ぶことになったのです。いわゆる「ヘルデン・テノール」という、ワーグナーのテノールのロールに要求される強靭なキャラクターは、しっかりとした低音があってこそのものなのです(そういう意味で、クラウス・フローリアン・フォークトあたりは決して「ヘルデン」ではありえません)。
そんなドミンゴが、最近元のバリトンを歌い始めるようになりました。いや、実はかなり昔、30年以上も前に出たユニセフあたりのチャリティLPのようなものの中で、彼はこのCDでも歌っている「ドン・カルロ」の中の「ロドリーゴの死」というデュエットを、テノールのドン・カルロとバリトンのロドリーゴを同時に(もちろん多重録音)歌っていたのですね。もちろん、この時にはドン・カルロの方がメインで、ロドリーゴはあくまで「お遊び」だったのですが、それを、今回はテノールは別の人をちゃんと立てて、ロドリーゴを本気で歌っているのです。
こちらでも述べられている通り、バリトンという声域自体、ヴェルディによって開拓されたものでした。彼の全オペラの中では、テノールよりもバリトンが重要な役を担っているものの方が多くなっています。70歳を超えたドミンゴが、さらなるレパートリーを求めてバリトンの役を歌い始めても、おかしくはありません。このアルバムは、そんな最近のドミンゴの挑戦のまさに集大成というべきものなのでしょう。
確かに、「マクベス」や「シモン・ボッカネグラ」のタイトル・ロールなどは、堂々たる歌い方でそんな挑戦が見事に結実したことをうかがわせるものでした。ただ、「ラ・トラヴィアータ」のジェルモンのように、今まで数多くの名バリトンたちの名演に触れてきたものでは、何か物足りなさを感じてしまいます。まるで、左利きの人が無理をして右手でお習字をしているようなもどかしさがあるのですね。細かすぎるブレスが、その「いずさ」をさらに助長しているような気がします。
バックのスペインのオーケストラは、なにか野性的なリズム感でヴェルディ特有のシンコペーションをグル―ビーに演奏しています。ただ、「ロドリーゴの死」のように、歌の合いの手がぶっきらぼうになっているのが、かなり気になります。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

9月14日

Jesus Christ Superstar
Ted Neeley(Jesus)
Carl Anderson(Juda)
Yvonne Elliman(Maria)
Norman Jewison(Dir)
UNIVERSAL/61125533(BD)


アンドリュー・ロイド=ウェッバーとティム・ライスが1970年に発表したコンセプト・アルバムを元に、1971年にブロードウェイでミュージカルとして上演された「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、今でもミュージカルの古典として全世界で上演され続けています。一方、ミュージカルとは全く関係なく、1973年にやはりアルバムを元に、ノーマン・ジューイソンによって映画も製作されました。今年は、その映画化から「40周年」の年にあたっているため、それを記念して待望のBDがリリースされることになりました。
実は、この映画のHDマスターはすでにかなり前に作られていて、NHKBSでしっかり「ハイビジョン」で放送されたことがありました。ただ、当時はまだ我が家はBDに録画できる環境にはなく、放送されたときにリアルタイムで見たハイビジョンの画面の美しさに対して、それを録画したDVDのあまりのしょぼさにがっかりしたものでした。それから何年かたち、こんなタイミングでやっと初BD化となりました。喜びもひとしおです。
ただ、なぜか国内盤では、この映画版は2012年の「アリーナ・ツアー」の「特別版」BDの、「抱き合わせ」としてしか入手できません。まあ、この最新のプロダクションにも興味はありましたし、日本盤の場合はきちんと日本語の字幕もついていますからこれを買ってもよかったのですが、ネット通販のユーザーコメントによると、この字幕はなんと「劇団四季」で用いられた岩谷時子の訳がそのまま流用されているそうなのですよ。確かに、「劇団四季」の「ジーザス」は、特に「ジャポネスク・バージョン」という大胆な読み替えを施した演出こそは称賛に値するものですが、その訳詞は原語に慣れているものにとってはとんでもなく醜悪なものでしたから、これを買っても何のメリットもありません。しかも、価格は輸入盤を別々に買った方がずっと安いというのですから、これは迷うことなく輸入盤を選択です。なんせ、1973年の映画を見て以来の「ジーザス歴」40年、音楽も歌詞もすべて頭に入っていますから、字幕なんて見なくても存分に楽しめますし。
BDで改めて見直した画面は、修復もしっかり行われているのでしょう、傷一つない、まるでついさっき撮影されたもののようでした。ジューイソンがこだわったイスラエルの砂漠でのロケも、おそらくDVDではその意味が伝わらないのでは、と思えるほどの、それこそ砂粒の一つ一つまでもが明らかになっている映像には、感動を覚えずにはいられません。
ご存知のように、この映画が、ステージでのミュージカル版と最も異なっているのが、オープニングとエンディングの演出です。バスに乗ってやってきたクルーが、砂漠の真ん中で始めたのは映画の撮影、そう、これは物語全体が「劇中劇」となっている構造です。ところが、最後のシーンではジーザス役のテッド・ニーリーだけはバスに乗り込むことはありません。うつろなまなざしでためらうようにバスに乗るユダ役のカール・アンダーソンとマリア役のイヴォンヌ・エリマン、この、絶対映画でしかなしえない演出こそが、この作品の最大の魅力なのではないでしょうか。

今回、初めてオリジナルのコンセプト・アルバム(MCA/MCAD2-11542)を聴いてみたら、アレンジと、そしてオーケストレーションが映画と全く同じだったことを知りました。アルバムのクレジットではロイド=ウェッバー自身が指揮とオーケストレーションも担当していますし、MOOGのシンセも演奏しています。ということは、映画版でも演奏メンバーはほぼ同じだったのかもしれませんね。エンドロールには「指揮者」としてアンドレ・プレヴィンがクレジットされているだけ、この時期にはプレヴィンはロンドン交響楽団の音楽監督のポストにあり、映画音楽からは完全に足を洗っていたはずですが、これはいったいなんだったのでしょう。

BD, CD Artwork © Universal Studios, MCA Records Inc.

9月12日

BACH
Die authentischen Flötensonaten
Verena Fischer(Fl)
Léon Berben(Cem)
OEHMS/OC 424


このCDに日本の代理店が付けた「帯」には「J.S.バッハ●フルート・ソナタ集」とありますが、これはタイトルの正確な訳ではありません。オリジナルのタイトルは「オーセンティックなフルート・ソナタ集」、こんな「オーセンティック(=真正な)」などという普通はまず見かけない形容詞をわざわざ付けたレーベルの気持ちを汲むのなら、そこまできちんと日本語に直さないことには、日本での販売を引き受ける会社としては片手落ちです。最悪、タイトルには反映させなくても、コメントの中では何かしら説明が必要なのに、ここにあるのは「フラウト・トラヴェルソは〜」で始まる、ここで使われている楽器についての説明だけなのですから笑えます。さらに、そんな、この楽器のイタリア語表記など、このCDの本体やジャケットの中をいくら探しても出てこないのですから、そもそもこのコメント自体が意味をなしていません。
かつては、バッハの「フルート・ソナタ」は全部で「6曲」あるとされていました。BWV1030から1035までですね。それぞれ「1番」から「6番」まで番号が付けられていた楽譜もありました。例えば、1974年に行われたカールハインツ・ツェラーのリサイタルのプログラムでも、このように番号が付けられていたのです。

さらに、時にはBWV1020の「ヴァイオリン・ソナタ」も、フルートで演奏されることもありました。しかし、現在では、変ホ長調の3声のソナタ「第2番」(BWV1031)と、ハ長調の2声のソナタ「第4番」(BWV1033)、そしてBWV1020は、「真正さが疑わしい」とされて、BWVの本体からは外され、「補遺」として扱われるようになっています。つまり、バッハの「真正な」フルート・ソナタは、今では残りの4曲とされているのです。さらに、ここでは間違いなく「真正」な無伴奏フルートのためのパルティータも加えて、タイトル通りの曲が演奏されていることになります。
まるでお笑い番組に出てきそうな顔をした2人の演奏家のうち、長寿番組を引退することを表明した上沼恵美子そっくりのバロック・フルート奏者のヴェレーナ・フィッシャーは、元々はペーター=ルーカス・グラーフやオーレル・ニコレに師事したモダン・フルートの奏者で、ユンゲ・ドイッチェ・フィルをはじめとする数々のオーケストラで首席奏者を務めていました。しかし、1992年に一念発起、バルトルト・クイケンやウィルベルト・ハーツェルツェットといった大御所の許でバロック・フルートの勉強を始めます。という経歴を見て、そんなフルーティストを昔聴いたことがあったな、と調べてみたら、たしかにこちらで取り上げていました。これは2007年頃の録音でしたが、今でもこの頃の欠点がそのまま残っていましたね。ただ、今回はその欠点をうまく表現として取り入れて、なかなか新鮮なバッハを聴かせてくれています。何よりも、それこそ「真正」のバロック・フルート奏者ではなかなか聴けない斬新な装飾がショッキングです。
「南海キャンディーズ」の山ちゃんそっくりのもう一人の芸人、ではなく、演奏家は、さっきのアルバムでも共演していたチェンバロのレオン・ベルベンです。これも帯では「ベルデン」となってましたね。便秘薬ではありません(それは「デルベン)。この人は何ともエネルギッシュなチェンバロを聴かせてくれていて、主役のフルートを食ってしまいそうなほどガンガンと弾きまくります。時にはモタモタしたフルートを置いてきぼりにして走り去ったり、という、とんでもない伴奏者です。ロ短調のソナタの真ん中の楽章が信じられないほど速いテンポなのは、この人の趣味なのでしょうか。
楽譜は、クイケン校訂のブライトコプフ版を使っているようです。したがって、イ長調の第1楽章の欠損部分の修復も、クイケンによるものです。

CD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

9月10日

TCHAIKOVSKY
Symphony 5, Swan Lake Suite
Christian Lindberg/
Arctic Philharmonic Orchestra
BIS SACD-2018(hybrid SACD)


2009年に出来たばかりの、世界で最も新しいオーケストラ「アークティック・フィル」の新譜です。このオーケストラは、「北極フィル」というその名前の通り、ノルウェー北部の北極圏の都市を中心に活躍しています。ジャケットには、「北極」を強調したこんな「エア・オーケストラ」の写真が。

設立にあたってはノルウェー政府が全面的にバックアップ、世界中から優秀なプレイヤーが集められたそうですが、最近の、オーケストラを「つぶす」ことに熱心などこかの国とは、文化の次元がまるで違います。そんな、文化的に貧しい国が地震の被害にあって、原子力発電所がメルトダウンを起こしてしまったりすれば、近づきたくなくなるのは当然のこと、このオーケストラは、2011年6月に予定していた日本公演を、きっぱりとキャンセルしてくれたのです(同じ時期に、メトロポリタン歌劇場は、本体は来日しましたが、メインの歌手がかなりキャンセルしていました)。
しかし、それから2年半も経てば、日本の国のトップが「震災から完全に復興した」とか、「原子力発電所の事故は、完全にコントロールされている」とか、滑舌の悪い口調で全世界に向けて声高に叫ぶことが出来るようになるのです。そう、信じられないことですが、知らないうちに日本はオリンピックだって招致出来るほどの豊かで安全な国になっていたのですよ。ですから、きっと「北極フィル」だって、今だったら喜んで来てくれることでしょう。
BISからの2枚目となるこのアルバムでは、チャイコフスキーの「交響曲第5番」が演奏されています。ここで指揮をしている、このオーケストラの初代首席指揮者、クリスティアン・リンドベリ(もちろん、あのスウェーデンが生んだ、天才トロンボーン奏者)にとってはこの曲は特別な思い入れのあるものなのだそうです。まず、10歳の時に初めて聴いた交響曲が、この曲、そして、19歳の時に初めてオーケストラの中で吹いた交響曲もこの曲、さらに、北極フィルが出来て間もない2010年に、ゲルギエフの招きでマリインスキー劇場で演奏したのもこの曲なのですね。つまり彼は、この曲が1888年に初演されたまさにその都市で、自分のオーケストラとこの曲を演奏したことになります。
そんな「由緒」ある曲が、24bit/96kHz相当の音で聴こえてくれば、素晴らしくないわけがありません。おそらくリンドベリは、かつてこの曲を聴いて感動したそんな「聴き手」の気持ちになって演奏していたに違いありません。ここからは、「聴き手」にとってはうざったいとしか感じられない演奏者の押しつけがましい思い入れなどは、きれいさっぱりと消し去られ、音楽そのものが持つ魅力がストレートに伝わってきます。
早目のテンポで始まった第1楽章は、クラリネットのユニゾンが淡々と歌うのをまわりが盛り上げてふさわしい情景と作るという造形、そこからはよくある深刻さなどは聴こえてきません。第2楽章も、ホルンのソロは淡白そのもの、次の主題を担当するクラリネットなどは、とても明るい音楽を前面に出してきます。ここでも、バックの管楽器の裏打ちなどは完璧です。第3楽章は、あまり煽ることはしないで、中間部の木管が入り組んだとことも余裕を持って処理できるような配慮です。そして、フィナーレは、あくまで前向きの行進曲です。聴き終った時には、高揚感というよりは、すがすがしさが残ります。
ところが、カップリングの「白鳥の湖」では、なにかチグハグなところが多いのですね。木管のアンサンブルもなんだか方向性が定まらないようですし、ミハイル・シモニヤンという売り出し中の若いソリストが加わった「情景」でも、ヴァイオリン・ソロだけが突出していて、相方のチェロ・ソロなど、肝心のオーケストラの主張が聴こえてきません。このあたりが、「若い」オーケストラの課題なのかもしれませんね。

SACD Artwork © BIS Records AB

9月8日

GRIEG
Complete Symphonic Works Vol. III
Eivind Aadland/
WDR Sinfonieorchester Köln
AUDITE/92.669(hybrid SACD)


ドイツのAUDITEレーベルでは、ケルン放送曲(WDR)との共同制作で、ノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグの「交響的作品」の全集をリリースし始めています。これは最終的には全5枚となるそうなのですが、グリーグにそんなにオーケストラのための作品があったなんて、ちょっとした驚きです。今回は3枚目ですが、4枚目以降にはおそらく作品番号が付けられていない「交響曲ハ短調」などの「秘曲」も収録されるのでしょう。
指揮者のアイヴィン・オードランという人は全く初めて聞く名前、かつてノルウェーのベルゲン・フィルのコンサートマスターも務めていたヴァイオリニストなのだそうです。彼自身もベルゲンの生まれだそうで、グリーグに関しては、その共感に満ちた表現が各所で好評を得ているのだとか。
2年ほど前に1枚目が出た時には、定石通り彼の最も有名なオーケストラ曲である「ペール・ギュント組曲」がメインになっていました。これが、聴き慣れた「ペール・ギュント」とは一味違っていて、田舎くささがギュッと詰まっていてなかなかいいんですよね。よくある「名曲集」などに収められている大指揮者による演奏とは、なんだか次元が違うような、とても不思議な味わい、もしかしたら、今まで抱いていたグリーグのイメージは、彼本来のものではなかったのでは、と思わせられるような演奏でした。さらにそのアルバムを魅力的にしていたのは、録音の素晴らしさでした。録音はケルンの放送局のスタッフによるものなのでしょうが、会場のケルン・フィルハーモニーの響きとSACDのスペックとが見事にマッチして、とても生々しい、まるでアナログ録音のような豊穣な音に仕上がっています。トゥッティでの各楽器のセパレーションも見事ですが、なによりも弦楽器の肌触りが極上です。
2枚目では、弦楽合奏のための作品が集められていました。ここで聴かれるその弦楽器の響きは、滑らかさにうっとりさせられる、というのではなく、もっとざらついたギラギラするような音、それこそが、グリーグの土臭さを伝えるものだ、と感じられるサウンドでした。
この3枚目には、それほど有名な曲は含まれてはいません。その中で、比較的なじみのあるのが「抒情組曲」でしょうか。これは、グリーグが生涯にわたって作り続けた、まさにライフワークとも言うべきピアノ曲集「抒情小曲集」(全10集)から、1891年に作られた「第5集」に含まれる曲を1905年にオーケストラ用に編曲したものですね。ただ、この組曲の成立に関してはちょっと複雑な事情があったようで、グリーグが編曲する前に、すでにアントン・ザイドル(ブルックナーの交響曲第4番のアメリカ初演を行った指揮者。ブルックナーは、このために楽譜に一部手直しを施したのですが、それが「ノヴァーク版」に反映されています)が、6曲から成る原曲から2曲カットして「ノルウェー組曲」というものを作っていましたが、グリーグは曲を一部差し替えて、新たにオーケストレーションを施して出版したのです。このSACDには、その真正グリーグ版の組曲と一緒に、その際にカットされたザイドル編曲による「鐘の音」が収録されています。グリーグ自身はこの曲について「これを聴いた人は、私が気が違ったのではないかと思うだろう」とまで言っていたそうですが、まるでドビュッシーのような響きが聴こえてくるこの作品は、たしかにグリーグのイメージを一新させるだけのものがあります。
その他にも、メンデルスゾーンあたりの影響を色濃く残しながらも、随所で民族的な音階が聴こえてくる序曲「秋に」や、「ペール・ギュント」の前に作られたもう一つの劇音楽「十字軍兵士シーグル」も聴きごたえがあります。「シーグル」の3曲目、美しいチェロの四重奏が聴かれる「忠誠行進曲」などは、運が良ければもうすぐ「生」で聴けるかもしれませんよ。

SACD Artwork ©c Ludger Böckenhoff

9月6日

MOZART
Così fan tutte
Miah Persson(Fiordiligi), Angela Brower(Dorabella)
Adam Plachetka(Guglielmo), Rolland Villazón(Ferrando)
Mojca Erdmann(Despina), Alessandro Corbelli(Don Alfonso)
Yannick Nézet-Séguin/
Vocalensemble Rastatt, Chamber Orchestraof Europe
DG/00289 479 0641


DGの「第2次(笑)」モーツァルト・オペラ・ツィクルスは、前回の第1弾、「ドン・ジョヴァンニ」が2011年7月の録音でしたが、今回の「コシ」は2012年の7月、どうやら1年に1作というペースで制作が行われているようですね。どこぞのワーグナー・ツィクルスのように3年かそこらで全曲録音みたいな乱暴な作り方ではないようです。基本的に、バーデン・バーデンでのコンサート形式の上演を録音するという点だけは統一されていても、指揮者、オーケストラ、ソリストは毎回異なる、というコンセプトだったように記憶しています。
ということで、今回はなんと録音スタッフも別のクルーが担当することになりました。音のコンセプトが狂うのはそれほど気にしないのでしょうか。前回はノイブロンナー率いる「トリトヌス」でしたが、今回はDG御用達の「エミール・ベルリナー・スタジオ」のチーフ・エンジニア、ライナー・マイラードがトーンマイスターを務めています。
ただ、指揮者は前回と同じネゼ・セガンでした。もしかしたら、ダ・ポンテ三部作だけは同じ指揮者で、ということなのでしょうか。ソリストでは、共通しているのは、ヴィリャソンとエルトマンだけです。どちらも、前回ではあまり芳しくありませんでしたから、どうなることでしょう。
ネゼ・セガンの、まさに痒いところに手が届くような丁寧な指揮ぶりは、オーケストラがマーラー室内管からヨーロッパ室内管に替わっても変わりませんでした。歌では表現できないところまで、オーケストラが補って、とても豊かな「物語」が紡がれているなあ、という驚きが、いたるところでありました。オーケストラのメンバーも名人ぞろい、クラリネットなどは何度も素晴らしいオブリガートを聴かせてくれていましたし、フルートも目立ちはしないまでも要所ではきっちりと華やかなサウンドの立役者となっていました。
通奏低音にチェンバロではなくフォルテピアノを使うというやり方も、今では殆ど常識となっているようですね。ここでは、レシタティーヴォだけではなく、アンサンブルやアリアの時にも自由なフレーズを入れたりして、さらに重要な役割を担っています。
ソリストで一番感心したのは、前回は見事にハズレだったヴィリャソンです。アリアはともかく、アンサンブルがとても素晴らしいのですよ。この作品はアリアよりもアンサンブルの方がより目立つ作られ方をしているため、アンサンブルがきれいに決まるととてもうれしくなるものですが、ここでヴィリャソンがアンサンブル加わると、見事にその「臭み」が消えて、柔らかい音色だけが前面に出て全体がとてもまろやかな響きになるのですね。正直、彼がこれほど自分を消してアンサンブルに貢献できる人だとは思っていませんでしたから、これはとんだ拾いものです。
デスピーナ役のエルトマンは、相変わらずのキャパシティの狭さが露呈されてしまっています。特に、医者や結婚仲介人に「変装」した時の演技が、聴いていて恥かしくなるようなヘタさ加減、一生懸命やっているのでしょうが、それが表に出てしまってはいけません。
この作品は、演出を楽しみたいので、映像はたくさん観ましたが音だけのCDはあまり聴いたことがありません。今回は、リブレットを見ながらかなり集中して聴いてみましたが、そこで意外な発見もありました。同じスワッピングでも、ドラベッラとグリエルモのチームと、フィオルディリージとフェランドのチームとでは、音楽の扱いがまるで違うのですね。それは重さの違い、前者、つまり簡単にやってしまう方はレシタティーヴォ・セッコなのに、なかなか踏み切れない後者ではレシッティーヴォ・アッコンパニャートになっているのですからね。こんなことは、演出に目が行っていると聴き逃してしまいそう。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

9月4日

BACH
Messe in h-moll
Celestina Casapietra, Renate Franck-Reinecke(Sop)
Véra Soukupová(Alt), Eberhard Büchner(Ten)
Siegfried Vogel(Bas), Walter Heinz Bernstein(Org)
Herbert Kegel/
Rundfunk Sinfonieorchester und Chor Leipzig
WEITBRICK/SSS0138/0139-2


ドイツの放送音源など貴重なアイテムを掘り起こして、コアなマニアに紹介することに命を懸けている、実質的には日本のレーベルWEITBRICKは、まさに「珍盤・奇盤」の宝庫です。そこから、ケーゲルが指揮をしたバッハの「ロ短調」という、おそらく今までは公式の商用録音などはなかったはずの、まさに珍盤の極みとも言えるCDがリリースされました。
注文してからほぼ1年、ついに現物が手元に届いたときには、もうそれだけで満足してしまいたくなるほどでした。なんともあか抜けない、意味不明のジャケットさえも笑って許せるほどです。なんと言っても、ブックレットには英語、ドイツ語と並んで日本語のライナーノーツまで掲載されているのですからね。
ところが、そのライナーを書いた人は、あちこちで目にする自称音楽評論家、ということは最初に日本語の原稿があって、それを英訳、独訳したものが載っているということだったんですね。確かに、これは「日本のレーベル」でした。
このCDのライセンス元は「Deutsches Rundfunkarchiv」、つまり、「ドイツ放送アーカイブ」、そこと並んで、もう一つライセンス元が表記されていて、それは「アンネローゼ・ケーゲル夫人」、ヘルベルト・ケーゲルの奥さんです。アーカイブの権利は、この奥さんが持っているのでしょうね。なんでも、この録音のCD化は彼女の強い希望によって実現したそうなのです。
なにはともあれ、そんな貴重な録音を味わってみなければ。まず、これは1975年のライプツィヒでのコンサートを録音したものですが、正規に、Deutsche Schallplattenあたりがスタジオで録音したものとはまるで違うひどい音であることは、覚悟しなければいけません。まるでRIAAのイコライジング補正が行われていない音源みたいな異様に高域が強調された音で、イライラさせられます。このあたりは、自分の耳で「補正」をかけるしかありません。
音楽は、この時代の「巨匠」のテイストにあふれたものでした。まだピリオド楽器の勢力が及んでいない、ある意味幸福な時代の大オーケストラによるバッハの典型的な形なのでしょう。弦楽器のトゥッティからは、あふれるような豊穣な響きが聴こえてきますし、管楽器奏者も思いの丈を存分に込めた、「熱い」音楽を聴かせてくれています。合唱も、「バロック唱法」とは無縁の、オペラティックですらある声で歌い上げています。これはこれで、この時代の一つの「すばらしい」演奏の一例には違いありません。
とは言っても、やはり今聴くのには少しの忍耐が必要だと感じてしまう点も、ないわけではありません。「Domine Deus」のフルートのオブリガートなどは、もはや「その時代」でしか通用しないとてもバッハとは相容れない様式の奏法です。この曲はともかく、後半の「Benedictus」でこれをやられたらたまらないな、という不安がよぎります。
ところが、そのフルート・ソロが大活躍するはずの曲で聴こえてきたのは、なんとヴァイオリン・ソロだったのです。これには驚きました。実は、バッハの自筆稿ではこのソロについては何の指示もないために、旧バッハ全集では「ヴァイオリン・ソロ」とされていました。それを、1954年に新バッハ全集の第1弾として刊行されたフリードリッヒ・スメント校訂の「ロ短調」では、音域などから「フルート・ソロ」に変更されたのです。実は、ケーゲルはちゃんと新バッハ全集を使って演奏していることは、「Gloria」の「Et in terra pax hominibus」のリズムからわかります。その上で、ここで敢えてフルートではなくヴァイオリンを用いたのは、何か特別な思い入れでもあったのでしょうか。もっと古臭い様式に支配されていたオットー・クレンペラーの1967年の録音でさえ、フルートで演奏されているというのに。
何にしても、ヴァイオリン版「Benedictus」入り「ロ短調」という又とない「珍盤」が手に入りました。

CD Artwork © Melisma Musikproduktion

9月2日

最後のクレイジー 犬塚弘
犬塚弘+佐藤利明著
講談社刊
ISBN978-4-06-218447-2

以前、2006年に結成50周年を記念して新曲も含めてリリースされたベストアルバムをご紹介した時に、「メンバー7人のうちの3人までが、すでに鬼籍に入ってしまった」と書いていたクレイジー・キャッツですが、その後もメンバーの訃報は続き、植木等さん、谷啓さんに続いて、昨年は桜井センリさんまでが亡くなってしまい、とうとうご存命のメンバーは犬塚さん一人になってしまいました。
そんな犬塚さんが、ご自身の一生を振り返るとともに、当然ながらその「仲間」のことを克明につづった伝記が出版されました。とは言っても、これは犬塚さんが直接執筆したものではなく、クレイジー・キャッツ・フリークであるライターの佐藤利明さんという方が、犬塚さんにインタビュー、そこで犬塚さんが語られたことを再構成したものです。ですから、そこでは犬塚さんも知らなかったようなデータまでもが、あたかも犬塚さんの言葉であるかのように滑らかにはめ込まれていますから、単なる「思い出話」には終わらない、しっかりとした「資料」あるいは「文献」としての価値のあるものに仕上がっています。そういう意味で、ただのゴーストライターには終わらなかった佐藤さんの名前までが「著者」としてクレジットされているのは当然のことでしょう。
実は、ここで述べられているクレイジー・キャッツの歴史などは、1985年に刊行されたこちらの本で、すでに紹介されていたことでした。

しかし、こんな「歴史的」(まだオフセットではなく、凸版の印刷でした)な本はもはや入手不可能ですから、改めてここで最新の資料が登場したということは、割と最近ファンになった人にとってはなによりのことでしょう。まずは、この敗戦直後の「ジャズ」の歴史の一面を垣間見ることができる、そもそもの「クレイジー」の人脈に注目です。そう、もしかしたら、現在残っているCDDVDでしか彼らに接していない人は、このグループが「ジャズ・バンド」だったことさえ知らないかもしれませんからね。そして、ほんのちょっとタイミングが合っていたら、あの宮川泰や、ラテン・フュージョンの大御所松岡直也などがメンバーに名を連ねていたことも。犬塚さん自身も、かつては秋吉敏子とトリオを組んでいたこともあるのだとか、さらに、ごく最近の話では、渡辺貞夫から本気でバンドに参加することを乞われたそうですよ。彼のベースの腕は、「本物」だったのですね。
今のこの時点まで続いている、役者としての犬塚さんを語った部分も、非常に興味深いものです。確かに彼は、いつの間にかとても素晴らしいバイプレーヤーになっていました。別に震えたりはしませんが(それは「バイブレーター」)。あるとき、たまたまテレビで井上ひさしの戯曲をやっていたのですが、そこに犬塚さんが出演されていて、なんとも味のある演技をしていたので驚いたことがあります。「クレイジー」の映画でのオーバーアクションからは考えられないような、渋い味でした。
ただ、犬塚さんの演技修業は、もっぱら映画の撮影の時のものなのだそうですね。古澤憲吾は苦手だったのに、山田洋二には多くのことを教わったというのも、何か人柄がしのばれます。
「クレイジー」として活躍している時の話は、ほとんどすでにどこかで聴いたことがあるようなものでしたが、それでも「本人」によって語られることで、さっきの文献よりははるかにリアリティを伴って迫ってきます。それも、ライターさんの手腕もあるのでしょうが、常に温かい視線が感じられて、とても幸せな気持ちになれます。「最後のクレイジー」として、「クレイジー」の語り部に犬塚さんが選ばれたところに、何か神の配剤のようなものを感じるのは、そんな温かな語り口のせいなのでしょう。

Book Artwork © Kodansha Ltd.

8月31日

BRUCKNER
Symphony No.4
Franz Welser-Möst/
The Cleveland Orchestra
ARTHAUS/108 078(BD)


ウェルザー=メストとクリーヴランド管は、これまでに何度かBD(とDVD)によるブルックナーの交響曲の映像をリリースしてきました。「7番」、そして前回の「8番」までは、彼らの本拠地、クリーヴランドのセヴランス・ホールでの収録でしたが、今回の「4番」では、ついにブルックナーの「本拠地」、ザンクト・フローリアンでの映像が楽しめます。
ただ、このBDが出た時点では、いくらブルックナーゆかりの地での映像とは言っても、そんなものは今までにいくらもありましたからそれほど食指は動きませんでした。代理店の案内などでも、特に「稿」や「版」については触れられていなかったので、そもそも魅力を感じませんでしたし。しかし、最近このBDと同じソースが、BSで放送されたのですね。こういうことはよくあって、全く同じクオリティのものを基本的に無料で見る、あるいは録画できるのですから、商品のパッケージを買ってしまった人は悔しいでしょうね。それよりも、この時の番組案内では、きっちりこの時の楽譜が「1888年稿 コースヴェット校訂」であるとの情報が表記されていたのです。これは大変です。
ご存知のように、この「コースヴェット版」というのは、2004年に出版されたばかりの新しい楽譜です。しかし、年代を見ればお判りでしょうが、これはこの作品が最初に出版された時のものと同じ内容の楽譜なのです。つまり、かつては「レーヴェ版」とか、「初版」、「改訂版」、時には「改竄版」などという虐称で呼ばれていたあの楽譜のことですね。要は、出版にあたって弟子たちが勝手に手を入れてしまった楽譜、という位置づけでしたから、「原典版」であるハース版やノヴァーク版が出版されればそれは完全に無視される運命にあるものでした。実際、録音も、この楽譜しかなかった頃の「巨匠」による演奏しか残っていません。
しかし、最近では、アメリカの音楽学者ベンジャミン・コースヴェットという人が行った研究によって、フェルディナント・レーヴェ、ヨーゼフ・シャルク、フランツ・シャルクという3人の弟子によって用意されたこの楽譜にはブルックナーの意思が十分に反映されていて、まさに「最終稿」と呼ぶにふさわしいものである、ということが判明したのだそうです。それは、コースヴェットによって校訂された楽譜が、国際ブルックナー協会の全集版からこの交響曲の3つ目の形態として出版されるという、いわば「お墨付き」を得ることによって、確固とした市民権を持つことになりました。
ウェルザー=メストは、「8番」では「第1稿」という非常に珍しい楽譜を使って演奏していました。ですから、その流れで行けば、「4番」も「第1稿」が期待されるところですが、そうではなくこの「コースヴェット版」を使ってくれました。実は、これは今までCDでは2種類しか出ていませんでした。それが、いきなり映像で見られる、というのですからね。もちろん、これが映像としては世界初のものになるはずです。なんたって、「ニューイヤー・コンサート」に出演した指揮者がこの楽譜で演奏するのですから、その宣伝効果は計り知れないものです。これからは、一気に「コースヴェット版」による演奏が増えるかもしれませんね。
この映像の監督は、あのブライアン・ラージ、冒頭の天井画のアップから始まって、長い時間をかけて引いていくというシーンから、彼の持ち味が十分に発揮されています。奇抜さはありませんが、まるでこの会場に宿っているブルックナーの魂を丁寧に探し出しているようなカメラワークは、とても味があります。
演奏も、かつて「改竄版」と言われていた時代の演奏とは、全く異なっています。決して煽り立てることなく、淡々と楽譜を音にしているという姿勢、こういう演奏であれば、追加されたティンパニや、部分的なカットの正当性も、きっちり納得できるかっと思います。

BD Artwork © Arthaus Musik GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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