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(13/7/2-13/7/20)

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7月20日

LIGETI
Orgelwerke
Dominik Susteck(Org)
WERGO/WER 6757 2


ジェルジ・リゲティが作ったオルガンのための作品は、全部で3曲しかありません。1962年に作られた「Volumina」と、1969年に作られた「2つのエチュード」に含まれる「Harmonies」と「Coulée」です。それだけでは1枚のアルバムにはなりませんから、ここで演奏している1977年生まれの若いオルガニスト、ドミニク・ズステックは、同じリゲティが1953年に完成させたピアノのための11曲の小品から成る「Musica ricercata」をオルガンで演奏して余白を埋めるとともに、自作のインプロヴィゼーションも収録して、なんともエキサイティングなアルバムを作ってくれました。
ここでズステックが演奏しているのは、彼が2007年からオルガニストを務めている、ケルンの「Kunst-Station Sankt Peter」という、教会でありながら現代アートの活動拠点ともなっている施設に備えられている、2つのオルガンです。一つは祭壇に向かって左側の床の上に設置されている小さなクワイア・オルガン、そして、もう一つは祭壇の向かい側のバルコニーの上にある大オルガンです。クワイア・オルガンは手動アクションで直接演奏しますが、大オルガンの方はすべて電動アクション、コンソールは本体からはかなり離れたところにあります。さらに、このコンソールの鍵盤は、手鍵盤も足鍵盤(ペダル)もクワイア・オルガンと直結していますから、前と後ろのオルガンを同時に鳴らすことだってできます。写真を見ると、カラフルなストップのボタンに液晶モニター、まさにこれは、近未来的なオルガンの姿なのでしょう。

ただ、このオルガンのコンセプトは、一見「未来」に向けられているようで、実は昔からのオルガンの別の面を受け継いでいるようなところもあります。それは、通常の、パイプに風を送って音を出すストップ以外に、「打楽器」を演奏させるストップが数多く備わっている、という点です。太鼓とかシンバルとかグロッケンといった「鳴り物」、これは、「オルガン」と同義語である「オルゴール」では、昔から使われていた手法です。
最初に演奏されているのが、そんなオルガンの機能を存分に盛り込んで、オリジナルのピアノ曲の、幾分スタティックなイメージを天地が引っくり返るほどに変えてしまった「Musica ricercata」です。つまり、この原曲はリゲティを偏愛していた映画監督のスタンリー・キューブリックが、彼の最後の作品である「アイズ・ワイド・シャット」の中で用いてなんとも不気味な雰囲気を醸し出していたものですが、このズステックのバージョンからはとてもあの映画のエロさなどは感じられないということでしょうか。
ご存知のように、この曲集は1曲目は単音しか使っていなかったものが、曲を追うごとに使う音の数が増えていくという作られ方をしています。その、最初の「A」の音のすさまじいこと。いや、すごいのは「音」が終わった後なのですが、グリッサンドがかかってピッチが下がっていくのですよね。これは、送風ファンを切ってパイプへの風圧を下げるというとんでもない裏技、いや、反則技です。一応合法ですが(それは「風俗」)。そのあとは、ひたすらオクターブ違いの音だけをリズミカルに弾くという場面なのですが、そこに音程のない打楽器のストップが加わります。これもオリジナルのコンセプトからすれば見事な「反則」、もちろん、エンディングの「D」の音でも、堂々とグリッサンドを聴かせてくれていますよ。こんな調子で、聴きなれたピアノ曲を見事なまでにオルガンによる「エンターテインメント」に変えてしまった、とても痛快なパフォーマンスです。
ですから、最初からオルガンのための作られたものでも、ハッとさせられるような瞬間は数知れず、「Volumina」なんてこんなに楽しい曲だったことを再発見です。もちろん、ズステックの自作も、このオルガンの機能をフルに使ってのやりたい放題、楽しくないはずがありません。

CD Artwork © Wergo, a division of Schott Music & Media GmbH

7月18日

NICOLAI
Geistliche Chormusik
Sarah Schnier(Sop), Alexandra Thomas(MS)
Wolfgang Klose(Ten), Lucas Singer(Bas)
Harald Jers/
Kammerchor CONSONO
Folkwang Kammerorchester Essen
CARUS/83.341


オットー・ニコライのニ長調の「ミサ」をメインに、彼の宗教合唱曲を集めたアルバムです。ブックレットには2010年にこのレーベルの本体の楽譜出版社から刊行されたばかりのこの曲の楽譜が「サンプル」として載っています。さらに、この中には「世界初録音」というものが3曲も含まれていますが、それも、聴いてみて自分たちも歌いたくなってきたら、すぐご用意できますよ、というスタンスで待機しているのでしょうね。なかなかの商売上手。
そんな体制が整っているので、とても便利なこともあります。つい最近、ここの楽譜を扱っている楽譜屋さんのメルマガ経由で、ヴェルディの「室内楽版レクイエム」がこのたび発売になった、という案内が届きました。これはもちろんオリジナルは大編成のオーケストラが必要な曲なのですが、なんせ実際にオーケストラを雇うなんてなかなか出来ることではありませんから、少人数の合唱団でも簡単に演奏できるようにオーケストラのパートをたった5人で演奏出来るように編曲した楽譜が発売になった、というのです。例えば、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」のような、やはりオーケストラが必要な曲でも、それを2台のピアノで済ましてしまえるようなものはありましたから、それをヴェルディでやってみたのでしょう。いくらなんでもピアノ2台ではしょぼすぎますから、ここでとった編成は、ピアノ、ティンパニ、マリンバ+大太鼓、ホルン、コントラバスというものだそうです。うーん、なんとも不思議な組み合わせ、これではたして、あのヴェルディの色彩感豊かなオーケストラのサウンドを作り出すことなんてできるのでしょうか。
そう思った時に、すかさず実際の「音」を提供してくれるのがこのレーベルなのですよ。おそらく、そう遠くない将来に、この楽譜を使って演奏されたヴェルディの「レクイエム」が、このレーベルによって録音されて、発売されるはずなのですよ。実は、こちらのサイトで一部分ですが実際の演奏が聴けますから、もしかしたらすでに録音は終わっているのかもしれませんね。「Dies irae」の4曲目の「Quid sum miser」でのファゴットのオブリガートが、マリンバに替わっていたりして、かなりショッキング、とても楽しみです。
オットー・ニコライと言えば、序曲だけしか聴いたことのないオペラ「ウィンザーの陽気な女房」の作曲者として、あるいは、あのウィーン・フィルの初代の常任指揮者としての認識ぐらいしかなく、その生涯などはほとんど知らなかったのですが、実は38歳という若さでこの世を去っていたのですね。あるいは、ごく小さな頃から音楽の才能を発揮して、親から英才教育を受けたとか、まるで彼が生まれる20年ほど前に亡くなったあの「天才」の生まれ変わりのようではありませんか。いっぺんに親しみがわいてきました。
ここで演奏されている最も長い作品、ソリスト、合唱とオーケストラのための二長調の「ミサ第1番」の楽器編成が、木管楽器はクラリネットとファゴットだけ、というのも、その「天才」の「遺作」と酷似しているのもうれしいことでした。この柔らかなサウンドのオーケストラに乗って、殆どアンサンブルでしか歌わないソリストと、落ち着きのある音色の合唱は見事に溶けあった穏やかな響きを醸し出しています。時折トランペットとティンパニによる華やかな部分も出てきますが、その落ち着いたたたずまいが変わることはありません。
後半はア・カペラが中心の詩篇などが並びます。オーケストラの中では、ちょっと遠慮がちだった合唱は、ここにきて全開、とても澄み切った声が、録音会場のエッセン・フィルハーモニーに響き渡ります。ほんと、この、いかにも永田音響設計の手になるもののように見える(本当はそうではながたのかも知れませんが)ホールの響きの美しいこと。


CD Artwork © Carus-Verlag

7月16日

LEDROIT
Requiem
Jeanne Crousaud(Sop), Anna Destraël(MS)
Mathier Muglioni(Ten), Ciro Greco(Bar)
Jean-Pierre Ferey(Pf), Frédéric Ledroit(Org)
François-Henri Houbart(Choir Org)
Marie-Christine Pannetier/Groupe Vocal Pro Homine
SKARBO/DSK2137


フレデリク・ルドロワという、全く聞いたことのない名前の人が作った「レクイエム」です。ジャケットのいかにもゴシックっぽいデザインからは、そんな時代の作曲家のように思えるかもしれませんが、そんなことはなく、彼は20世紀の半ばごろに生まれた、バリバリの「現代作曲家」です。ただ、自身のプロフィールによると、彼の肩書は「ピアニスト、オルガニスト、作曲家、即興演奏家」だそうですし、実際にはオルガニストとしての方が有名なのだそうですね。
この「レクイエム」は、2012年の6月に初演されたばかりの、いわば「出来立てほやほや」の作品です。おそらく、パリのマドレーヌ寺院という、フォーレの「レクイエム」が初演された由緒ある場所で行われた、その世界初演となるコンサートのライブ録音なのでしょう。このコンサートの模様は、ネットに動画がアップされているので見ることが出来ますが、祭壇にはソリストと合唱団、そして、グランドピアノと電子オルガンが乗っています。クレジットで「orgue de choeur」、つまり「クワイア・オルガン」と表記されているのが、この電子オルガンなのでしょう。さらにもう1台、この大聖堂に備え付けのオルガンも演奏に加わっていて、それは作曲家自身が演奏しています。つまり、伴奏がオルガン2台とピアノという、とても珍しいものになっているのですね。

「現代」のレクイエムでは、テキストに本来の典礼文以外のものを加えることが多くなっていますが、ルドロワの場合はあくまで典礼文に忠実に曲を付けています。ただ、ベースは「In Paradisum」まで入ったフルのテキストですが、フォーレのように「Sequentia」の最後のフレーズの「Pie Jesu」は独立させて「Sanctus」のあとに置かれていますし、「Sequentia」自体もモーツァルトの場合の「Tuba mirum」の最後の行以下がカットされています。さらに、なぜか「Ave Maria」が「Agnus Dei」のあとに挿入されています。
と、テキスト的には極めてオーソドックスなので油断していると、その音楽が極めて「アヴァン・ギャルド」であることに驚かされてしまうかもしれません。「レクイエム」に限ったことではありませんが、最近作られた曲というのは、おしなべて耳あたりの良い、安心して聴けるようなものが主流を占めているのではないでしょうか。まるで、大昔に戻ってしまったかのような、三和音の世界に安住しているそれらの作品は、確かに美しいものには違いありませんが、何か物足りない気がするのも事実です。
おそらく、ルドロワの場合は、そのような悪しき風潮には真っ向から抵抗したかったに違いありません。出来上がった「レクイエム」は、「死者を悼みなさい」とか、「安息を与えなさい」などといった軟弱なテキストからは想像もできないようなヘビーな仕上がりになりました。人によっては「なんじゃくぉりゃ」と思うかもしれません。
まず、テキストを伴わない「Prélude」がピアノ・ソロで演奏されます。叩きつけるような低音(作曲者は「ハンマー」と言ってます)の持続の上に広がる不協和音の世界、これこそが、「安らぎ」などとは無縁の「死の苦痛」に直面せざるを得ない「レクイエム」の開幕を告げるものです。この作品の伴奏にピアノという楽器が選ばれた訳も、これで納得できるはずです。オルガンだけでは、このような硬質な世界は生まれません。
ソロや合唱は、ひたすら「美しさ」からは遠い表現に終始しています。正直、聴いていると辛くなるような場面もありますが、それだけ強いメッセージは伝わってくるのではないでしょうか。
フォーレやデュリュフレに比べたら、ここの「Pie Jesu」の異様さは際立ちます。オルガンのドローンの中で、メゾ・ソプラノはたった一人で砂漠の中に放り出された人(作曲家が、そう書いてます)を演じます。もはやメロディとは言えない叫びは、いったい誰に向けられたものなのでしょう。

CD Artwork © Skarbo

7月14日

BEETHOVEN・HUMMEL・SCHUBERT・WEBER
Sonatas and Variations for Flute and Piano
Fabio De Rosa(Fl)
Stefania Neonato(Pf)
DYNAMIC/CDS 728


ベートーヴェン、フンメル、シューベルト、ウェーバーという「ロマン派」の作曲家によるフルートとピアノのための作品を集めたアルバムです。おそらく、この中で最も有名なものはシューベルトの「しぼめる花変奏曲」でしょうが、その変奏の中で今まで録音されたことのなかった「第1稿」がボーナス・トラックとして収録されているというのが最大の目玉になっています。
使っている楽器は、フルートに関しては何の変哲もないモダンフルート、ムラマツの14Kでした。ただ、なぜかピアノだけは1853年に作られたエラールのフォルテピアノという、まさに「ピリオド楽器」が使われています。なんでも、このステファニア・ネオナートというピアニストは、そういう古い楽器のコレクターでもあるそうで、これも彼女のコレクションの一つです。
CDは、シューベルトから始まります。いかにもフォルテピアノらしい鄙びた音色のイントロが聴こえてきます。ただ、録音のせいでしょうか、いつも聴いている同じ楽器に比べると、なんだか刺激が強いような気がします。続いて入って来たフルートは、極力ビブラートを抑えて昔風の音色を出そうとしているようでした。ただ、なにか無理をしてそういうことをやっているような気が、とても強くしてしまいます。音色に対する配慮に集中するあまり、その他の表現がなんだか雑になっているというか。いや、なにしろかなりテクニック的に難易度の高い作品ですから、指の練習だけは一生懸命やったという跡は見られても、それが精いっぱいでその先の「音楽」が殆ど聴こえて来ないのですよね。さらに、やはりこれも録音のせいなのでしょうが、フルートの音がとても「汚く」聴こえてくるのですね。楽器の音だけがストレートに聴こえて、それを包む込んで欲しいまわりの響きが全然ないものですから、これはもし演奏家本人が聴いても「俺の音はこんなんじゃない!」と怒りたくなるような、はっきり言ってエンジニアの耳を疑うような音に仕上がっているのですよ。
全曲聴き終ったところで、「世界初録音」である第5変奏の第1稿を聴いてみましょう。この曲はもともとシューベルトの友人のフルーティスト、フェルディナント・ボーグナーがとても演奏できないとクレームを付けたために、新たに作りなおしたものが現在出版されている形なのですが、それでも充分「難しい」変奏です。確かに、初めて聴いた第1稿は、とてつもなく難しそうなものでした。頭からいきなりオクターブの連続によるフレーズが出てきますが、おそらくこのあたりがネックだったのでしょうね。ただ、それはボーグナーの楽器では確かに演奏困難だったのかもしれませんが、現代のムラマツであればなんということなくクリアできそうなフレーズのような気はします。それを、このファビオ・デ・ローザというフルーティストは、あたかもそんな9キーの楽器で悪戦苦闘しているかのようにたどたどしく吹いているのですね。確かに、これを聴けばボーグナーが「ボクなあ、とても吹けないよ!」と言った気持ちがよく分かりますから、こういうのも「ピリオド・アプローチ」というのかもしれませんが、ちょっと間違った方向を向いているような気がしないでもありません。というより、単に練習不足で指が回らないだけのように思えてしょうがないのですが。
ウェーバーの「ピアノとヴァイオリン(またはフルート)のための進歩的なソナタ」というのは初めて聴きました。アマチュア向けにということで出版社から委嘱されたものの、出来上がったものはそれほど「進歩的」ではなかったために、結局ボツになり、別の出版社から出版されたというシューベルトとは反対の意味でいわくつきの作品ですが、これも、もっと「進歩的」なフルーティストによってもっと音楽的に録音されていれば、とても楽しめる曲なのでしょう。

CD Artwork © Dynamic S.r.l.

7月12日

GERSHWIN
Piano Meets Percussion
Johanna Gräbner, Veronika Trisko(Pf)
Flip Philipp, Thomas Schindl(Perc)
PREISER/PR 91226


外国のテレビドラマに登場しそうな「濃い」顔の人たちが並んでいるジャケット写真は、かなりインパクトがありますね。左端の人は「エイリアス」のジャック役のヴィクター・ガーバーそっくりですし、2人目は「デスパレートな妻たち」のリネット役、フェリシティ・ハフマンでしょうか。見てない人にとっては何の事か、ですね。すみません。
ジャケットを開くと、この4人がスプレーを吹き付けてバックの壁にピアノとドラムスのグラフィティを描いている、という設定であることが分かります。なんだか、とてもポップ。
ただ、彼ら自身はバリバリのクラシックのアーティスト、ヨハンナ・グレープナーとフェロニカ・トリスコというピアノの二人(女性)はともにオーストリア人、ウィーンを拠点にクラシックのデュオとして活躍していますし、フリップ・フィリップとトーマス・シンドルという打楽器の男性たちは二人ともウィーン交響楽団の打楽器パートの団員です。「死んどる」なんて縁起でもない名前ですが、もちろんウィーンの人はだれも気にしません。ただ、もう一人の「フリップ・フィリップ」というのは、いかにも芸名っぽい感じがしませんか?調べてみたら、本名は「フリードリヒ・フィリップ=ペゼンドルファー」といういかにもなお堅い名前でした。なんでも、彼はポップス関係の仕事(「くるり」がウィーンで録音したアルバムでは、ストリングス・アレンジで参加)もしているそうで、そんな関係でこんなポップな芸名を使っているのでしょう。そんな彼らがなんとガーシュウィンの名曲をこの編成で演奏しています。音楽の方はどれだけポップな仕上がりなのか、ちょっと期待してしまいます。
まずは、「パリのアメリカ人」。ここで、「打楽器」の中身が明らかになります。それはマリンバ、グロッケン、ヴィブラフォンといった「鍵盤打楽器」が大々的にフィーチャーされたものでした。つまり、ここではリズムだけではなく、メロディのかなりの部分を打楽器が担っているのですね。逆に、ピアノがリズムを担当してたりしていて、想像していたのとはまるで違ったサウンドが聴けるのには驚いてしまいました。中でも、ヴィブラフォンの雄弁さは光っています。うまい具合に音を伸ばすような弾き方をさせると、まるで管楽器のような味が出てくるのですね。この曲は、オーケストラとはまた違ったアプローチで、楽しさを見せてくれています。
「ラプソディ・イン・ブルー」では、グレープナー(リネットに似た方)がソロ・パートを担当しています。あまりソリストっぽくない繊細なタッチで迫りますが、そのプレイはあくまで華麗、よくあるジャズ風に崩したような弾き方はせずに、格調高く迫ります。ところが、そこに打楽器群が加わると、なんとも不思議な雰囲気が漂います。それは、同じジャズでもガーシュウィンの時代のジャズではなく、もっと後の時代、いわゆる「モダン・ジャズ」と言われるあたりのものととてもよく似たテイストが生まれているのですよ。おそらく、ヴィブラフォンの独特の味が、そんな雰囲気を作るのにかなりの寄与をしているのではないでしょうか。そうなると、ガーシュウィンがとっても「新しい」ものに感じられてくるから不思議です。
最後の「ピアノ・コンチェルト・インF」では、トリスコ(こちらは「SATC」のキャリーでしょうか)がソリスト担当。彼女はさらに繊細なピアノで、正直あまり魅力のないこの曲から、思いもよらなかったような「クラシカル」な面を発見させてくれます。特に、今までは退屈だとしか思えなかった第2楽章では、いたるところでまるでドビュッシーのような響きが聴こえてくるではありませんか。もしかしたら、ガーシュウィンは自分のへたくそなオーケストレーションで、この曲の魅力を台無しにしていたのかもしれませんね。

CD Artwork © Preiser Records

7月10日

BACH
Das Musikalische Opfer
Hannelore Hinderer(Org)
Peter Thahlheimer(Fl)
Sabine Kraut(Vn)
CARUS/83.460


バッハの「音楽の捧げもの」には、プロイセンのフリードリヒ大王が作ったとされるテーマが使われていますね。バッハがポツダムのサン・スーシ宮殿を訪問した時に、大王からこのテーマを示されて、その場で3声のリチェルカーレを即興で演奏したというのは、有名な話です。大王はバッハのやり方に賛成したのでしょう。その後、フルートの名人であった大王のためにフルートをフィーチャーして作られたトリオ・ソナタや、何種類ものカノンなどをまとめて大王に献呈したのでしたね。しかし、このテーマは、ハ短調のアルペジオでまっとうに始まったものが、次の6音からいきなり減7度下がったと思ったら、また5音に上がって、そこからは今度は半音進行で下がってくるというまさに「前衛的」なメロディです。

あまりに前衛的なので、世の中には「半音階の12の音がすべて含まれているメロディで、『12音音楽』のさきがけをなしている」などと興奮気味に語る人もいるほどですが、それはウソ。確かに半音が続くのでそんな気にもなるのですが、ここに使われている音は「11」しかありません。ただ、唯一入っていない音がB♭だという点は、考慮すべきでしょう。もちろん、この音はドイツ語では「B(ベー)」になりますから、バッハにとっては重要な意味を持つ音です。大王はここで、「あとは、お前の『B』を足して、12音を完成させよ」という意味を込めていたのだとすると、それはそれですごいことなのですがね。実際、この「3声のリチェルカーレ」の場合、アルトが4度下の調で入ってくる時には、ソプラノはすかさず「B」を入れてますからね。
この曲集には楽器が指定されていないものも含まれているのですが、普通はフルート、ヴァイオリン、チェンバロ+通奏低音という編成で演奏されています。しかし、今回のCDは、チェンバロではなくオルガンが使われているという珍しいものです。これは、ヘルムート・ボルネフェルトという、教会音楽の作曲家で、長く教会のオルガニストも務めていた人による編曲、このCDの録音に使われているショルンドルフの教会のオルガンが建造された1976年に作られ、ぞこで初演されています。
一応「クワイヤ・オルガン」という言い方をされている楽器で、2段の手鍵盤とペダルという、小振りのオルガンです。ただ、ピッチはモダン・ピッチなので、いわゆる「ピリオド楽器」とのアンサンブルは難しいため、ここではフルートは1950年頃に作られた木管のベーム管、ヴァイオリンもガット弦にバロック・ボウという、折衷的な楽器を使っています。フルートは紛れもないモダン・フルートなので、こちらにある「バロック・フルート」というのは明らかな間違いです。相変わらずいい加減なインフォはあとを絶ちません。
ただ、そのインフォの中にある「優秀録音」というのだけは当たっていました。1曲目はオルガンだけによる「3声のリチェルカーレ」なのですが、そのテーマの1音1音が、それぞれにパイプの材質や組み合わせがはっきりわかるぐらい鮮やかに聴こえてくるのです。しかも、オルガンの音像を目いっぱい広げているものですから、音ごとにパイプの場所までがパン・ポットしていて、なんとも不思議な体験を味わえます。これは、ウェーベルンのオーケストラ編曲版よりもさらにスリリングな体験でした。バッハ(正確にはフリードリヒ大王)の無機質なテーマが、ウェーベルンよりもさらに精密な「点描」として聴こえてくるのですからね。
そこに、フルートとヴァイオリンが入ってくると、景色はとても穏やかなものに変わります。思い切り渋い音色が和みます。オルガンもチェロのようなストップを使って、低音に徹している感じ。最後は、やはりオルガンだけの「6声のリチェルカーレ」で終わるという構成ですが、ここではほぼフル・オルガンとなって、小さい楽器ながらも壮大さを披露して、全曲を締めています。なかなか楽しめるCDでした。

CD Artwork © Carus-Verlag

7月8日

MOZART
Große Messe in c-moll
Elin Rombo(Sop), Stella Doufexis(MS)
Tilman Lichdi(Ten), Tareq Nazmi(Bas)
Peter Dijkstra/
Chor des Bayerischen Rundfunks
Münchener Kammerorchester
SONY/88765 47785 2


モーツァルトの「ハ短調ミサ」は、ご存知のように「未完」に終わってしまった作品です。同じように未完のまま残された「レクイエム」の場合は、何しろ「商品」としてすでに前金ももらっていたものですから、遺族は必死になって「完成品」を作ろうとしました。その結果、曲がりなりにも作曲家と同じ時代に生きた別の作曲家によって完成させることが出来たので、多少の不都合はあっても一応スタンダードとしての楽譜は存在することになりました。つまり、20世紀になって多くの人が修復を試みた楽譜は、その制作過程がいかに学術的な正当性があったとしても、18世紀にモーツァルトと同じ時代を生きていたジュスマイヤーが作った楽譜を超えることはできなかったのです。
ところが、「ハ短調」の場合は、別に完成させなければならない切迫した事情というものはありませんでしたから、作曲家自身が手を引いてしまえば、彼や、彼に近い遺族が生きている間にそれを完成させようと考える人など、いるわけはありません。ということで、後に多くの人によって修復された楽譜は、それぞれ横一列で存在価値を主張する事しかできなくなっているのではないでしょうか。
ですから、今回ダイクストラがこの曲を録音するのに用いたような、「新たな」修復稿が今頃になって表れてくる余地も残っていることになります。そんなことをやってしまったのは、オランダの音楽学者のクレメンス・ケンメという人です。彼がオランダ・バッハ協会と18世紀オーケストラの委嘱によってこの「ケンメ版」を作ったのは2006年初頭のこと、同じ年の4月にブリュッヘン指揮のオランダ室内合唱団と18世紀オーケストラによって初演されています。それが好評だったので、ケンメは「レクイエム」の修復稿の委嘱も受けたそうです。彼自身のライナーノーツでは、すでにそれも完成しているような口調でしたから、いずれはその録音を聴くこともできることでしょう。
ケンメが目指したのは、例えばシュミット版やレヴィン版のように、モーツァルトが作っていない部分まででっち上げて、完成された「フル・ミサ」を作ることではなく、あくまで作曲家が手がけた曲の、欠落していたパートを埋める、という作業に徹することでした。その結果、今まであったものの中ではモーンダー版にかなり近づいたような印象を受けます。ティンパニとトランペットで派手に盛り上がる「Credo」ですね。ただ、「Et incarnatus est」の弦楽器の部分は、独自のフレーズが聴こえてきたりします。さらに「Sanctus」の合唱の入りも、オーケストラと同じところから始まっています。
ケンメは同じライナーノーツの中で、「今までに少なくとも8種類の版が出版されている」と書いていますが、これで「少なくとも9種」になりました(たぶん、アンドレ版、シュミット版、ランドン版、エーダー版、モーンダー版、バイヤー版、レヴィン版、ラングレ版で「8種」のはず)。
ダイクストラは、やはりオランダ人というところで、このケンメ版を使おうと思い立ったでしょうか。懸命に同国人を立てようと。
それはともかく、フォーレなどではあまり感心できなかったダイクストラですが、ここでは見違えるように颯爽とした演奏を繰り広げています。たぶん、モーツァルトの、かなりピリオドがかったものとは相性がいいのでしょうね。ちょっと突き放すような歌わせ方が、ノン・ビブラートの弦楽器の切迫感と見事にマッチして、心地よいドライブ感を生み出しています。
ただ、2人の女声ソリストが、かなり重たい歌い方なので、その流れを邪魔しているような気がします。メリスマなどはかなり悲惨。合唱が立ったり座ったりする音がかなりはっきり聴こえるので、これはおそらくライブ録音なのでしょう。ちょっとコンディションが悪かったのかもしれませんね。

CD Artwork © Sony Music Entertainment Germany GmbH

7月6日

Concertino
Peter-Lukas Graf(Fl)
田原さえ(Pf)
MEISTER MUSIC/MM-2155


現役のフルーティストとしては間違いなく世界最高齢のペーター=ルーカス・グラーフが、今年の2月に東京で開いたリサイタルの模様が、ライブCDとなりました。この日のプログラムは、バッハのホ長調のソナタ、シューベルトの「しぼめる花」変奏曲、モーツァルトのヘ長調のヴァイオリン・ソナタK376、シューマンの「3つのロマンス」、そして、アルバム・タイトルにもなっているシャミナードの「コンチェルティーノ」でしたが、CDではシューベルトが割愛されています。全曲を収録しても時間的には大丈夫なはずなのに(CDには51分しか入っていません)なぜカットしてしまったのでしょう。
実は、今回と同じ田原さえさんとのリサイタルを、10年以上前に聴いたことがありました。その時でさえ、年齢からは考えられないような、全く衰えを見せないテクニックと、まだまだ若さが発散されているしなやかな音楽には心底驚いたものですが、今回も、録音を通してではありますが、同じような感慨を抱いてしまいました。84歳にもなって、こんなすごいことが出来るなんて!
リサイタルの会場は、2010年に新装なった銀座のヤマハホール、客席は333と小振りなホールです。ワンポイントのマイクでとらえられたその録音は、会場いっぱいに響き渡るフルートが、息音までも生々しくとらえられている素晴らしいものでした。
最初のバッハは、とても輪郭のはっきりした音楽が聴こえてくるものでした。核となる音が、絶妙のブレス・コントロールによって見事に浮き出してくるのですよ。これはグラーフの昔からの芸風で、以前はちょっと鼻につくところがあったのですが、今回はそれがなんともすんなりとフレーズの中に収まっているのですね。これこそが、まさに「熟成」というにふさわしい、年齢によって磨きあげられた音楽なのでしょう。特に、アップテンポの設定の第2、第4楽章を、思いきりテンポを落として、細かい音符の中から的確に息の長いフレーズをあぶり出している手法は、絶品です。第3楽章では繰り返しでコテコテの装飾を披露してくれて、思いっきりファンタジーが広がります。ピアノの田原さんは、とても軽いタッチで低音をサポートしています。確か、生で聴いたときにはペダルは全く使っていなかったような気がします。
次のモーツァルトになると、ピアノが前面に出てきて、グラーフと丁々発止のやり取りが始まります。最後の楽章のロンドのテーマが、「魔笛」のパパゲーノのアリアにそっくりなのが和みます。オリジナルのヴァイオリンのバージョンにはない味があります。
シューマンも、オリジナルはオーボエのための作品です。その分、フルートにとっては音域が低くなるので、本当の「味わい」を出すのは至難の業なのですが、グラーフの漆黒の音色と重ねた年輪からはロマン派の薫りが押し寄せるように漂ってきます。そのあまりの奔放さに、時としてピアノがつい乗り遅れてしまう場面もありますが、これはライブならではのスリリングな体験として、また格別な味があります。
そして最後はリサイタルの定番、シャミナードです。ちょうど手元に1976年に日本で録音されたLPがあったので聴き比べてみたら、そのあまりの違いに驚いてしまいました。昔は、細かい音符のパッセージをいとも軽やかに扱って、まさに「名人芸」という感じだったものが、今回はそんな音符の一つ一つにしっかり意味を持たせて吹いているのですね。その結果、この曲から、今まで感じたことのなかったメッセージを受け取ることが出来ました。
そんな風に、一晩でバロック、古典、ロマンティック、モダンという違う時代の曲を、それぞれ的確な様式感をもって演奏していたのには圧倒されます。何よりもすごいのは、生演奏なのにミスらしいミスが全くないということです。まさに「怪物」ですね。間違っても「廃物」になんかなるような人ではありません。

CD Artwork © Meister Music Co., Ltd.

7月4日

MAHLER
Symphony No.2 "Resurrection"
Anja Harteros(Sop)
Bernarda Fink(Alt)
Mariss Jansons/
Chor und
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
ARTHAUS/108 081(BD)


ヤンソンスの「復活」の映像と言えば、数年前にこちらでもご紹介していました。確か、200912月のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とのライブでした。今回は、ヤンソンスが首席指揮者を務めているもう一つのオーケストラ、バイエルン放送交響楽団との2011年5月のライブ映像です。たった1年半の間にこんな大曲を2つの世界的なオーケストラによって演奏するなんて、かなりすごいことではないでしょうか。
今回の映像には、ひそかな楽しみがありました。それは、ここには「復活」だけではなく、当日演奏されたもう一つの曲が収録されていることです。その曲は、マーラーの「リュッケルトの詩による歌曲集」の中の「Ich bin der Welt abhanden gekommen(私はこの世に忘れられ)」というオーケストラ伴奏のソプラノ・ソロのための作品を、クリトゥス・ゴットヴァルトが16声部の無伴奏混声合唱に編曲したもの、今まで何種類ものCDを聴いてきましたが、映像で見るのはこれが初めてですからね。
それは、ステージにオーケストラと合唱団が全員そろった後、ヤンソンスではない指揮者が木管の前あたりに立って始まりました。その指揮者は合唱団の芸術監督のペーター・ダイクストラではなく、その前任者のミヒャエル・グレーザー、ちょっとがっかりです。100人ぐらいの合唱団員が5列に並んでいるのですが、なぜか最前列だけ座っていて、2列目より後ろの80人ぐらいによって歌われます。さすがに、この曲を100人では多すぎるとの判断だったのでしょうか。しかし、それでもまだ多かったのか、なんとも集中力に欠けるアバウトな演奏だったのには、さらにがっかりさせられました。こんなんで、終楽章の合唱は大丈夫なのでしょうか。
そのまま休憩なしで、ヤンソンスの指揮による「復活」が始まります。これはもう、コンセルトヘボウと同じコンセプトが貫かれた、とてもすっきりした演奏です。決して重くならない、それでいて中身のぎっしり詰まった感じですね。もちろん、会場は広いステージを持つガスタイクですから、18型の編成のオーケストラでもスペースは十分、合唱団は座ったままひたすら待っています。ですから、第3楽章以降は休みなく続けて演奏され、どこぞでの演奏会のように3楽章が終わったところでドヤドヤと合唱が入ってくるというみっともないことは起こりません(これが本来の姿なんですがね)。そこで、だれにも邪魔をされずに歌い始めたフィンクの声は、コンセルトヘボウの時とはとても同じ人とは思えないほどの深い響きを持っていました。おそらく、これは録音ポリシーの違いによるところが大きいのではないでしょうか。しかも、ここでは、映像ディレクターのブライアン・ラージが、お得意のクローズアップのショットで、彼女の姿を延々と撮っていますから、なおさらです。と、そのバックに映りこんでいるトランペットのトップの人が、彼女に合わせて歌っているのが見えました。口がぴったり歌詞と合っています。ラージは、ここまで計算していたのでしょうか。
終楽章の楽しみは、なんといってもフルートとピッコロの掛け合いでしょう。首席奏者のフィリップ・ブクリーが、ゆるぎないテクニックと響き渡る音で見事にアルペジオを決めると、それまで何度もパッションあふれる演奏姿がアップで写っていたピッコロのナタリー・シュヴァーベが、ひときわ熱いしぐさでとても美しくソロを吹ききりました。
そして、お待ちかね、合唱の出番です。キャプラン版の指示通りに座ったままで歌い始めます。これが、ついさっきゴットヴァルトを歌ったのとは同じ団体とはとても思えないような、すばらしい合唱です。深く、緊張感あふれる響きは、ゴットヴァルトを帳消しにしてもおつりがくるほどです。最後のポリフォニーが始まるときには、いつの間にか立ち立ち上がっていて、感動的なクライマックスを演出していました。

BD Artwork © Arthaus Musik GmbH

7月2日

BACH
Wedding Cantata
Joanne Lunn(Sop), 青木洋也(CT)
櫻田亮(Ten), Roderick Williams(Bar)
鈴木雅明/
Bach Collegium Japan
BIS/SACD-2041(hybrid SACD)


バッハの世俗カンタータの中で、「結婚カンタータ」と呼ばれるものは3つほどあります。BWV202の「Weite nur, betrübte Schatten」と、BWV210の「O holder Tag, erwünschte Zeit」は以前から知られていたものですが、それにごく最近、あのジョシュア・リフキンによって断片しかなかったものから復元されたのが、BWV216の「Vergnügte Pleißenstadt」です。その中で最も有名なのは、このアルバムに収められているBWV202でしょう。ソプラノのためのソロ・カンタータですが、オーボエのオブリガートが大活躍するもの、たしか、かつてドイツ・バッハ・ゾリステンの指揮者のヘルムート・ヴィンシャーマンが、みずからオーボエを演奏している演奏を聴いたことがあるような気がします。
その時は、普通に弦楽器がたくさんいる編成だったのでしょうが、このBCJでは弦楽器が1本ずつしか使われていません。ソロはソプラノ一人だけですし、オブリガートもオーボエのほかにヴァイオリン・ソロもありますから、それに合わせてアンサンブルという面を強調するために、そんな編成にしたのでしょうか。ただ、通奏低音はチェロ、ヴィオローネ、チェンバロ、オルガンと充実しています。通奏低音だけのアリアもありますからね。そこで、英文のライナーを見てみると、チェンバロもオルガンも「Masaaki Suzuki」とありますから、指揮者の鈴木雅明さんが曲によって弾き分けているのでしょう。と、途中でオルガンとチェンバロが同時に聴こえてくる曲がありました。ということは、多重録音?こういう曲で多重録音なんて珍しい、と思ってライナーを読み直してみると、チェンバロを弾いていたのは「Masato Suzuki」という、ローマ字で書くと非常によく似た名前の方でした。ちゃんと2人いたのですね。ちなみに、こちらは「鈴木優人」さんと言って、鈴木雅明さんの息子さんなのだそうです。クイケンみたいに、しっかり「2代目」が育っていたのですね。
オーボエ・ソロは三宮正満さん。ヴィンシャーマンあたりとは全く趣の異なる、鄙びた音色とフレージングで迫ります。ソロを歌っているジョアン・ランに特に不満はないのですが、もっと高音に伸びがあれば、さらに楽しめるのでは、というのはぜいたくな望みです。
カップリングは、BWV173aの「Durchlauchtster Leopold」とBWV36cの「Schwingt freudig emper und dringt bis an die Sternen」という、誕生日のために作られた2つのカンタータです。どちらも弦楽器は倍増されているのは、ソリストが増えたり合唱が加わっているためなのでしょう。
173aではソリストはソプラノとバス、オブリガートにトラヴェルソが2本加わっていますが、4曲目の二重唱のアリアで菅きよみさんと前田りり子さんが素晴らしいソリを聴かせてくれています。このアリアは、バッハがよく用いたダ・カーポ・アリアではなく有節歌曲、ト長調で始まった1番はバスのソロと弦楽合奏と通奏低音で演奏されます。2番になるとニ長調に転調、今度はソプラノソロに2本のフルートと弦楽合奏とによる掛け合いのオブリガートですが、通奏低音がなくなってとても爽やかな音楽に変わります。3番はさらに5度上のイ長調に転調、今度は通奏低音も加わったうえに、ヴァイオリンが超絶技巧のフレーズを弾く中の二重唱となります。
36cでは、最初と最後に合唱が入ります。4.4.3.3という編成ですが、いつものこの団体で気になっているちょっと合唱らしくない歌い方が気になります。この人数だったらもっと暖かい響きが出るはずなのに、と思ってしまいます。ここでも、三宮さんのオーボエ・ダモーレと若松夏美さんのヴィオラ・ダモーレが聴きもの。
実は、最後にもう1曲「おまけ」で入っているBWV524の「クォドリベット」が、このアルバムの中では一番楽しめました。ソリストもバンド(!)も、とことんハメを外して盛り上がっていますよ(小躍り)。彼らにこんな一面があったなんて、ちょっと意外です。

SACD Artwork © BIS Records AB

おとといのおやぢに会える、か。


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