別のシュークリーム。.... 佐久間學

(11/11/5-11/11/23)

Blog Version


11月23日

MOZART, SUESSMAYR
Concertos & Quintett for Basset Clarinet
Luigi Magistrelli(B.Cl)
Italian Classical Consort
GALLO/CD-1353


モーツァルトの晩年の作品、「クラリネット五重奏曲」と「クラリネット協奏曲」は、友人のクラリネット奏者アントン・シュタードラーのために作られたものであることは良く知られています。さらに、最近ではそれらは「クラリネット」ではなく、シュタードラーが開発にかかわった楽器「バセット・クラリネット」で演奏するために作られたことも、ほぼ「常識」となっています。「バセット・クラリネット」というのは胸の谷間で支えて演奏する楽器(それは「バスト・クラリネット」)ではなく、A管のクラリネットの最低音より長三度低い音まで出せるように、管長を伸ばして新たにキーを加えた楽器です(記譜上は最低音が「ミ」だったものが、「ド」まで伸びたということです)。もちろん、モーツァルトはその音域いっぱい、「ド」までの音を使って作曲したのですが、それが出版された時には、そんな特殊な楽器ではなく、ふつうのクラリネットで吹けるようにという営業上の都合で、出版社によって「レ」から下の音が出てくるパッセージがすべて書き換えられてしまいました。そもそも、シュタードラーが使った楽器はそれっきりなくなってしまいましたし、この2曲の自筆稿も消失していたので、後世の演奏家は「クラリネットのために編曲された」協奏曲や五重奏曲をオリジナルだと信じて演奏し続けてきたのですね。
それが、最近の研究によって、この楽器の存在が知られるようになり、楽器も楽譜も復元されてやっと作曲家が書いたとおりの音符が聴けるようになったのは、ご存じの通りです。厳格なピリオド楽器だけではなく、ザビーネ・マイヤーのようなメジャーどころもモダン楽器に手を加えたもので演奏や録音を行っていますから、今ではマニアではなくてもこの楽器は広く知られるようになっているはずです。
このCDも、やはり「モダン」のクラリネット奏者ルイジ・マギステッリが、バセット・クラリネットで演奏したモーツァルトの2つの作品です。さらにもう一つ、ここにはなんと、あのジュスマイヤーが作った「バセット・クラリネット協奏曲」までもが、1楽章だけですが、演奏されていますよ。

これは、このCDのライナーに載っている、1992年に発見されたという、この楽器の具体的な形状が記された貴重な文献、1794年にシュタードラーがラトヴィアのリガで開催したバセット・クラリネットによるコンサートの広告のコピーです。この中で、モーツァルトの作品と並んで「ジュスマイヤーのクラリネット協奏曲」が曲目となっているのですよ。言ってみれば、このCDはシュタードラーのコンサートを現代に蘇らせたものなのでしょう。
そのジュスマイヤーの協奏曲は、まさに溌剌とした音楽の喜びが満ち溢れたものでした。イントロで単純な三和音のアルペジオが堂々と響き渡るという恥かしさが、すべてを物語っています。時には華麗できらびやかな音形で飾り立て、時にはしっとりと歌い上げるという、どこまで行っても聴く人に楽しんでもらいたいという気持ちがみなぎっているのですね。さらに、途中ではいきなり短調に変わって、それまでと全く違った語り口でさらなる魅力をふりまいていますよ。なんたって、一部の人にはモーツァルトの「レクイエム」の中では最も美しいとさえ言われているあの「Benedictus」を「作曲」した人なのですから、彼の腕は保証付き。そのフレーズはこの楽器のすべての音域をカバーして、しっかりデモンストレーションとしての役割まで完璧に果たしています。
マギステッリの提案で、この協奏曲も、そしてモーツァルトの協奏曲も、オーケストラは各パート一人ずつというコンパクトな編成で演奏されています。たとえばモーツァルトの第1楽章の20小節目などに現れる下降音形に♭がつくという「ムジカ・フィクタ」も難なく処理、彼のバセット・クラリネットは自由な装飾を織り込みつつ、どこまでも軽やかな動きでこの楽器の魅力を存分に振りまいています。

CD Artwork © VDE-Gallo

11月21日

IM HERBST
Choral Works by Brahms & Schubert
Grete Pedersen/
Det Norske Solistkor
BIS/SACD-1869(hybrid SACD)


この前のアルバムを聴いた時から、その録音と演奏の素晴らしさを気づかされたペデーシェン指揮のノルウェー・ソリスト合唱団ですが、今回は「秋に」というかつてのアイドル歌手のような(それは「秋な」)タイトルの、同名曲を含むブラームスの合唱曲と、シューベルトの合唱曲を集めたアルバムです。まだギリギリ秋ですから、この、とびきり音のよいSACDで、ちょっと渋めのロマン派の合唱を満喫して頂きましょう。もちろん、演奏も最高のはずです。
音の良さでは定評のあるこのレーベル、クレジットにはエンジニアの名前だけではなく常に録音機材が記載されています。それをチェックしてみると、エンジニアが変わってもマイクからモニター・スピーカーまでほぼ同じ機材を使っていることが分かります。このあたりが、マイナー・レーベルとしてのサウンド・ポリシーを主張できる源なのでしょう。今回は前のアルバムとは全く別の録音スタッフですが、録音会場は同じ教会、機材もDAWが「セコイア」から「プロツールズ」に変わっただけです。それでも、期待通りのとても澄み切った声が聴こえてきましたよ。 裏表紙にあった指揮者のペデーシェンの写真も、少し変わっていました。前作では合唱団の前で指揮をしているところ、ショートカットのヘアスタイルでなにかボーイッシュで若々しいイメージがあったのですが、今回は正面からもろアップのポートレイト、髪は長くなっていますし、どう見てもおばさん顔だったのには、かなりがっかりです。
そんな、ちょっとショッキングな体験のせいでしょうか、最初のブラームスの「ジプシー(ピー!)の歌Op.103」では、ソプラノがなんだかすごく力の入ったきつい声に聴こえてしまって、一瞬別の合唱団なのでは、とさえ思ってしまいましたよ。ピアノ伴奏が入る元気のよい曲ですから、ついコントロールがきかなくなってしまったのでしょうか。
しかし、次の「5つの歌Op.104」になったら、いつものよく溶け合った音色の合唱が戻ってきたので一安心です。この合唱団は無伴奏の方が性に合っているのかもしれませんね。さっきのソプラノはいったい何だったのかと思えるほどの変わりよう、ほんのちょっとしたことで、バランスが崩れてしまうような脆ささえも、チャーミングです。
続いて、シューベルトの作品が歌われます。最初は女声だけで、ピアノ伴奏による「詩篇23」です。これが本来の形なのですが、この曲は男声合唱として歌われることもあります。というか、実際に歌ったことがあるのですが、その際に1年近くかけて積み上げて完成に近づいたと思われたこの曲の姿が、実は完成には程遠いものであったことが、この演奏によって明らかにされてしまいました。ハーモニーやフレージング、そして言葉のニュアンスなど、どれをとってもはるかに魅力的であるだけでなく、それはなんと、男声合唱よりも重みや迫力の点で勝っていたのです。この合唱団の女声は、まさに「男勝り」。
かと思うと、次に、今度は男声だけ、それにヴィオラ、チェロ、コントラバスという低い音域の弦楽器のアンサンブルが加わった、それこそブラームスが好みそうな音色が期待される「水上の精霊たちの歌」では、なんとも明るい響きに仕上がっているではありませんか。テナーの爽やかさといったら、まるで女声のようです。男勝りの女声と、男にしておくのはもったいない男声、もしかしたら、このあたりがこの合唱団のサウンドの秘密なのかもしれませんね。
後半にはまたブラームスが演奏されます。「何ゆえ悩む者に光がOp.74-1」の1曲目で何度も現れる「Warum」という歌詞の繰り返しで見られる極上のディミヌエンド、それが、出てくるたびに全く表情が変わっているというあたりが、今度は彼らの表現力の秘密なのでしょう。やっぱり、この合唱団はうますぎます。

SACD Artwork © BIS Records AB

11月19日

MOZART
Flötenkonzerte
Gaby Pas-Van Riet(Fl)
Cristina Bianchi(Hp)
Ruben Gazarian/
Württembergisches Kammerorchester Heilbronn
BAYER/BR 100 374


以前、珍しいロマン派のフルート協奏曲の録音で楽しませてくれたベルギー出身のベテランフルーティスト、ギャビー・パ=ヴァン・リエトの、今回はモーツァルトの協奏曲集です。ソロ・フルートのためのト長調(第1番)とニ長調(第2番)の協奏曲、そして、フルートとハープのための協奏曲が収められています。
とは言っても、同じ時期に全部録音されたのではなく、2008年と2009年に全く別のホールで行われたコンサートのSWRによるライブ録音を集めたものです。お客さんの拍手も入っていますが、それを聴く感じではそれほど広くない、「サロン」程度の大きさの会場のような気がします。オーケストラのメンバーが曲によって異なっているので、ニ長調とフルート&ハープが同じコンサートで演奏されていたことが分かります。ト長調だけ、別の日、別の会場のテイクですね。ただ、この曲の第2楽章だけに出てくるフルート奏者の名前がメンバー表から抜けているのは、単なる手違いでしょう。
そのハイルブロン・ヴュルテンベルク室内管弦楽団というオーケストラは、ゴールウェイのバックで演奏しているCDがたくさんあったので、馴染みがあります。その頃は創立者のイェルク・フェルバーという人が指揮をしていましたが、ここでは2002年から首席指揮者に就任したルーベン・ガザリアンという、まるで池に住む甲殻類(それは「ザリガニマン」)のような名前の若手が指揮にあたっています。
名前のようにまるで怪獣のような顔をした(いいかげん、ザリガニからは離れましょうね)この指揮者は、ちょっと地味目の前任者とは違って、かなり熱い音楽を作る人のようですね。最初のニ長調の協奏曲では、思い切り早めのテンポでまず煽ってきます。これはソリストの納得した速さなのでしょう、彼女はなんなくとても流麗にパッセージを歌っています。最近はモーツァルトをこういう楽器で聴く機会が減っていますが、やはり機能性に長けた、そして華やかな音色のモダン楽器もいいものですね。ただ、ザリガニ男はそんなソロをおとなしく支えるのではなく、なにか対抗意識を持ってやたらとオーケストラを目立たそうとしているように聴こえます。正直、これだけやかましいオーケストラは邪魔ですね。録音的には、ソリストがかなりオンマイクではっきり聴こえるのでそんなに問題はないのですが、演奏している当人はいやがっていたのでは、というのは、あくまで憶測です。
次のフルート&ハープになると、バランスが全く変わってフルートが目立たなくなってしまいました。やはり、若くてかわいいハーピストの方を、エンジニアとしては大事にしたかったのでしょうか。これはこれで、全体がまとまった演奏に聴こえます。この日のカデンツァは、ニ長調の第3楽章だけがドンジョン、その他は自作でしょうか、全く初めて聴いたものばかりでした。
別の日(たぶん)のト長調では、ソリストのバランスはニ長調の時と同じ感じになっていました。別の会場のはずですが全体の響きもほとんど変わっていません。演奏は、ニ長調よりもだいぶ落ち着いたものに仕上がっています。そう感じるのは、この曲で頻繁に登場するフルートの低音を、彼女はそんなに力を入れずにいともあっさり吹いているからなのかもしれません。さらに、カデンツァ(これも自作でしょうか)になったら、今度は低音を意識的に抜いた音色で吹いています。こういう吹き方は、バリバリ吹くのよりもはるかに印象的に聴こえますから、演奏全体もちょっと粋なものに感じられてしまいます。こういう、まるでトラヴェルソのような音色は、もしかしたら録音当時に彼女が首席奏者を務めているオーケストラの指揮者だったノリントンからインスピレーションを与えられたものなのかもしれませんね。もちろん、これも憶測ですが。

CD Artwork © Bayer Records

11月17日

J.C.BACH
Missa da Reqviem
Lenneke Ruiten(Sop), Ruth Sandhoff(Alt)
Colin Balzer(Ten), Thomas Bauer(Bas)
Hans-Christoph Rademann/
RIAS Kammerchor
Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 902098


大バッハの末子(つまり、P.D.Q.バッハのお兄さん?)ヨハン・クリスティアンのイタリア時代の宗教曲は以前にもご紹介しましたが、それに続いて「レクイエム」の登場です。タイトルの綴りが「Reqviem」などとなっていますが、これは別にミスタッチではありません。そもそも、ラテン語系の言葉には「u」とか「w」といった文字はなかったのですよね。
前回の「晩課詩篇」のライナーでは、作品番号として「Warb」というものが付けられていました。これはアーネスト・ウォーバートンというイギリスの音楽学者によって1985年にまとめられた、ジャンル別の作品番号のことです。「Warb」または「W」のあとに、鍵盤楽器の曲は「A」、室内楽は「B」という風にジャンルを表す記号が付きます。宗教曲は「E」、ですから「WE」のあとに、個別の番号が付くことになります。前回の晩課詩篇は「WE 14」から「WE 22」にあたる作品の中から取り上げられていました。今回の「レクイエム」とカップリングの「ミゼレーレ」は、「WE 11-12」と「WE 10」ということになります。
しかし、今回他のレーベルになってみると、作品番号は「W」ではなく「T」というものに変わっていました。これは困りますね。「WE 10」が「T 207/5」なんてことになっていますよ。これはウォーバートン以前にあった番号で、チャールズ・サンフォード・テリーという人が書いた「John Christian Bach」(1967年第2版)という本のページ数と、そのページの中の項目の番号によって、作品を特定するという、ちょっと変わった番号です。今ではほとんど使われていないようですが、こんなところでお目にかかるとは。出来ればウォーバートンに一本化してもらうよう、六本木あたりで話し合ってもらいたいものです。
作品番号が2つありますが、この「レクイエム」はそれこそ父バッハの「ロ短調ミサ」のように、別の機会に作られた2つの作品をまとめたものです。しかも、それは1757年にミラノで初演された「Dies irae」というタイトルの「Sequenz」(T 202/4=WE 12)と、その翌年の「Introitus & Kyrie」(T208/5=WE 11)だけで、「レクイエム」全体の最初の部分しかありません。結果的に最後の曲が「Lacrimosa」だったなんて、まるでモーツァルトみたいですね。でも、クリスティアンはそこで亡くなったわけではなく、この後はイギリスに渡ってオペラ作曲家としての華々しいキャリアが待っているのですから、未完なのは単に作る必要がなかっただけのことなのでしょう。
この「レクイエム」には、彼がイタリアで学んだイタリア音楽の様式が満載です。「Introitus」は、最初にプレーン・チャントから始まるというのがユニーク、そのあとには、多声部の合唱が、ちょっと昔風のまるでガブリエリのような華やかな音楽を聴かせてくれます。続く「Kyrie」は、軽やかなフーガが魅力的、あくまで明るい音楽なのは、ヘ長調という調性のためなのでしょう。
それが、「Dies irae」になると曲はハ短調に変わり、雰囲気は一変します。そこからは、なんとも表情豊かな、ドラマティックな音楽が展開されることになります。合唱に4人のソリストが加わり、アリアや重唱など、バラエティに富んだまるでオラトリオ、いや、オペラといっても構わないほどの劇的な音楽です。ほとんどのアリアには終わりにカデンツァが付くのも、まさにイタリア・オペラ。「ミゼレーレ」ともども、あまり抹香臭くない、キャッチーな「宗教曲」を堪能できます。
ソリストも合唱も、変に力まない自然体の爽やかさが心地よく感じられます。RIAS室内合唱団は、ほんのり包み込むような暖かい音色で、決して押しつけがましくない音楽を届けてくれています。それに対して、バックの「古楽アカデミー」がかなり鋭角的に、ちょっと突き放したような態度を取っているのも、昨今あちこちで見られる偽善的な「寄り添い」とは一線を画していて、すがすがしく感じられます。

CD Artwork © Harmonia Mundi s.a.

11月15日

MILHAUD/MESSIAEN
La Création, la Fin
Jean-Pierre Armengaud(Pf)
Jan Creutz(Cl)
Paul Klee 4tet
BLUE SERGE/BLS-020


ミヨーの「世界の創造」と、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」を並べて、「創造、そして終わり」という、いかにもジャズのレーベルらしい粋なタイトルを付けたCDです。たった69分で世界の始まりから終わりまでを体験できるのですから、なんとお手軽な。
ダリウス・ミヨーの「世界の創造」は、「天地創造」をジャズで仕立てたバレエ音楽でした。それを、ピアノ五重奏に作り直したものが、ここで聴けるバージョンです。オリジナルはなにやら意味深なタイトルが付いた6つの部分に分かれていましたが、この編成ではいとも即物的に「前奏曲、フーガ、ロマンス、スケルツォ、終曲」という5つの組曲風のタイトルが与えられています。
「ジャズ」を象徴的に表していたサックスなどが使われていないせいでしょうか、「前奏曲」はいともまっとうな、それこそハイドンの作品を思わせるようなシリアスな情感をたたえています。しかし、「フーガ」でブルーノートのテーマが出現しさえすれば、あとはもうまごうことなき「ジャズ」の世界が拡がります。クラシックの作曲家が本気で「ジャズ」を作品のモチーフとして取り入れようとしていた(あ、ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」とは別の次元で、ですが)時代のほほえましい名残なのでしょうが、それがあまりに楽天的な姿をさらけ出しているのは、おそらく、ここで演奏しているメンバーの明るい資質に拠るものなのでしょう。
その様な人たちがメシアンを演奏すると、やはりそこには見事に明るい世界が拡がります。ここで新たに加わったクラリネットが、とてもエーラー管とは思えないような明るい音色で、一層盛り上げます。「鳥たちの深淵」での彼のソロは、音色とともに、とてもおおらかな音楽性に支配されているものでした。録音会場がとても豊かな残響を持っているのを考慮したのか、かなり遅めのテンポ設定で、細かい音符の部分でも極力音が濁らないような「安全運転」に終始していることも、切迫性のかけらもない滑らかな音楽を生む要因だったのでしょう。もっと厳しいものを望む向きには物足りないかもしれませんが、これはこれで新鮮な体験です。
ただ、4つの楽器が常にユニゾンという、とても緊張感を要求されるはずの「7つのらっぱのための狂乱の踊り」までもが、いとも隙だらけのユルさで演奏されていると、ちょっとこれは違うのでは、という思いを抱かざるをえません。まあ、全員が同じ方向を向いて強烈なメッセージを放つとまではいかなくても、せめてアインザッツぐらいは合わせてよ、という思いでしょうか。
この曲では、イタリアのピアノ職人、ルイジ・ボルガートが1人で作っているという、他に類似品が見あたらないピアノ、「ボルガート」が使われています。まさに手作りの味わいで最近評判を呼んでいる楽器です。これを弾いているピアニストは、そのピアノの特性を良く知っているのでしょう、とても繊細なメシアンの和声を、思いっきり柔らかい音で届けてくれています。それをバックにチェロとヴァイオリンが息の長いメロディを歌い上げる2つの「頌歌」では、とても贅沢な響きに癒される思いです。チェロが担当する「イエズスの永遠性に対する頌歌」こそ、ちょっとゴツゴツしたチェロの歌い方で余計な力を感じてしまいますが、ヴァイオリンが歌う「イエズスの不死性に対する頌歌」は文句なしの安らぎ感を堪能できます。まるでアナログ録音のような湿り気を帯びた音が、一層のゴージャス感を与えています。
どこまで行っても厳しさには無縁のメシアンでしたが、あのミヨーの流れだったら、こんなのもありなのでしょう。これほどまでに楽しい「世界」に暮らし、なんの天災も受けずに一生を全う出来る人はしあわせです。

CD Artwork © Blue Serge

11月13日

BERLIOZ
Grand Messe des Morts
Robert Murray(ten)
Paul McCreesh/
Gabrieli Consort, Gabrieli Players
Chetham's School of Misic Symphonic Brass Ensemble
Wroclaw Philharmonic Orchestra & Choir
SIGNUM/SIGCD 280


「マクリーシュがシグナムに移籍!」などと大げさに日本語の帯に書かれていましたが、たしかにこの大物アーティストが、今まで「専属」だったメジャー・レーベルのARCHIVつまりDGから、マイナー・レーベルのSIGNUMに移ったというのは、一つの事件ではあります。ただ、今の世の中ではもはやこのような人をメジャーでは必要としていないというのが「流行」ですから、実はそんなに騒ぎたてるほどのものではないのですね。
ポーランドの南西部の都市ヴロツワフでは、毎年9月ごろに「ヴラティスラヴィア・カンタンス」という音楽祭が開催されています。なんでも、その音楽祭の芸術監督をマクリーシュが務めていて、昨年からこの街で、マクリーシュが自分の仲間である「ガブリエリ」のメンバーと、ご当地の音楽家を共演させて、大規模な宗教曲を演奏するという、いわばマクリーシュとヴロツワフとのコラボレーションをスタートさせたのだそうです。そこで、この2つの名前の頭文字「M」と「W」を、ひっくり返せば同じものになると考えて合体させた、こんなけったいなロゴまで作ってしまいました。

昨年2010年の9月の第1回目のコンサートでは、イギリスのブラスバンドまで呼びよせて、ベルリオーズの「死者のための大ミサ曲(レクイエム)」を演奏、その時のライブ録音が、このCDです。このコンセプトに合わせて、ブックレットまで真ん中で上下逆になっているのですから、笑えます。ちなみに、2011年にはメンデルスゾーンの「エリア」が演奏されていますから、そのうちこれと同じようなCDが出てくることでしょう。
ただ、この立派なブックレットには、その音楽祭関係のクレジットはあるものの、レーベルの表記は、品番も含めて一切ありません。バーコードが「背表紙」についているだけ、ま、それは別になくてもかまわない情報ですが、CDのトラックリストがどこを探しても見当たらない、というのは大問題です。というか、そんなものは「欠陥商品」以外の何物でもありません。しっかり、載せておかねば(それは「ブラックリスト」)。奇抜なアイディアの陰にこんなとんでもないミスがあるのは、デザイナーの奢りでしょうね。
その分、メンバー表だけは思い切り充実しています。なんせ、400人を超えるという演奏メンバーがすべて掲載されているのですからね。写真を見ると、合唱などは10段になって並んでいます。それと、これはベルリオーズの指定だったのでしょうか、弦楽器が、ヴァイオリンとヴィオラの後にチェロが横に広がって並んでいて、さらにその後ろにコントラバス(全部で18人)が左右に別れて配置されているのですね。さらに、別のところには4群の金管バンダと、夥しい数のティンパニが並びます。「マタイ」ではたった36人のメンバーで演奏していたのと同じ人がこんな大編成なんて不思議な気もしますが、「実際に演奏された当時と同じもの」というコンセプトでは、しっかり共通しています。彼の信念がブレていることはありません。金管楽器の中にはしっかり「オフィクレイド」奏者が4人も入っていますし。
こんな巨大な音源が残響の多い石造りのゴシック教会の中で演奏するのですから、そもそも音響的にはまともな録音など期待できません。SIGNUMレーベルではお馴染みの「クラシック・サウンド」のスタッフも、最初から腰が引けているのがミエミエ、音がすっかり団子状態になってしまっています。最大音量の「Tuba mirum」の部分では、ティンパニの猛打にかき消されて、他のパートが何をやっているのかは全然分かりませんよ。ですから、そんな中で時折聞こえてくるア・カペラの合唱が、いかにも爽やかな安堵感を与えてくれます。この合唱、とてもこんな人数とは思えないようなピュアな響きを出しているのは、驚異的です。喧噪も一段落した2枚目からは、テノールのマーレイともども、美しい瞬間が何度も訪れます。

CD Artwork © Wratislavia Cantans

11月11日

VERDI
Il Trovatore
Simone Kermes(Leonora), Herbert Lippert(Manrico)
Miljenko Turk(Il Conte), Yvonne Naef(Azucena)
Michael Hofstetter/
Chor der Ludwigsburger Schlossfestspiele
Orchester der Ludwigsburger Schlossfestspiele
OEHMS/OC 951


1972年にヴォルフガング・ゲンネンヴァインによって、南ドイツのシュトゥットガルトの北方15qほどのところにある風光明媚な街ルートヴィヒスブルクで始められた「ルートヴィヒスブルク城音楽祭」は、毎年夏にシュトゥットガルトなど、州内にあるオーケストラのメンバーや大学の先生、学生によってオーケストラが結成され、オペラなどが演奏されてきました。
2005年からは、ミヒャエル・ホーフシュテッターが首席指揮者となって、そのオーケストラに「古楽」のフィールドで活躍している演奏家を迎え、新しい方向性を持った活動を始めることになりました。それは、いわゆるピリオド楽器、ピリオド奏法を用いた演奏によって、さまざまな時代のオペラを上演しようという試みです。もちろん、バロック時代のオペラについては、その様なアプローチはすでに日常的に行われていますが、これは、さらにその範囲を近代まで広げて展開しようというものなのでしょう。
そこで登場したのが、2009年の音楽祭での公演のライブ録音、ヴェルディの「トロヴァトーレ」です。同じ時代のワーグナーのオペラをピリオド楽器で演奏したものはありましたが、ヴェルディに関しては、これはほとんど初めてのことなのではないでしょうか。
確かに、このオペラが作られたのは1852年ですから、使われていた楽器は現代とはかなり異なっていました。フルートなどは、ベーム管がやっと発明された頃ですから、イタリアのオペラハウスではまだ使われていたはずはありません。さらに、注目しなければいけないのが、「チューバ」のパートに用いられていた楽器です。こちらの本で詳しく述べられているように、ヴェルディは時代によって3種類の楽器を指定しています。初期には「バスホルン」、中期には「オフィクレイド」、そして後期には「チンバッソ」と呼ばれているバルブ式のバス・トロンボーンです。
さらに、弦楽器では現代のようなスチール弦ではなく、ガット弦が使われていましたし、トゥッティではほとんどビブラートをかけないで演奏されていたはずです。
この録音を聴いてみると、まずその弦楽器の響きがとても「ピュア」に響いていることが感じられます。それは某ノリントンが、すぐそばのオーケストラで行ったちょっと無理のある「ピュア」さではなく、もっとナチュラルで心地よいものでした。それだけで、今まで聴いてきた脂ぎったヴェルディのイメージが一掃されてしまいます。最初にアズチェーナが歌った「ジプシー(ピー!)のテーマ」を、後に弦楽器がピアニシモで演奏するところなどは、鳥肌が立つほどのゾクゾク感が味わえます。
フルートだけではなく、木管セクションはそれぞれ鄙びた音色の楽器を使っているようで、木管だけのアンサンブルもとてもしっとりとした響きになっています。あいにく、低音の金管楽器が何なのかまでは、音だけでは確認できませんでした。
せっかく、「オリジナルの響きの楽器」を売り物にしているのですから、本当はメンバー表か、せめて演奏している写真ぐらいは付けて欲しかったものです。というより、このブックレットは対訳すら載っていないというお粗末なものなのですね。そんな薄っぺらなものが、なぜか今ではほとんど見かけない厚ぼったいケースに入っているものですから、日本の代理店が作った「帯」も、最初にあった普通サイズのケースのためのミシン目とはぜんぜん別のところで折られている、というみっともないことになっていました。
歌手の中で「これだ」と思ったのは、その「帯解説」では触れられていないルーナ伯爵役のトゥルクでした。この人は、2006年のモーツァルト祭の時のDVDでも、ホーフシュテッターの指揮で歌っていたのですね。その伸びやかでソフトなバリトンは、さらに磨きがかかっとるくようでした。

CD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

11月9日

MOZART
Requiem
Marinella Pennicchi(Sop), Gloria Banditelli(MS)
Mirko Guadagnini(Ten), Sergio Foresti(Bas)
Fabio Ciofini/
Coro Canticum Nevum di Solomeo
Accademia Hermans
LA BOTTEGA DISCANTICA/DISCANTICA 236


モーツァルトの「レクイエム」を録音している団体は、なんと言ってもドイツ・オーストリア系のものが主流を占めています。あとはイギリスとか北欧でしょうか。今回、イタリアの団体が演奏しているCDに出会ったので、改めてリストを見てみたら、一応3つほどそれらしいものはあったのですが、全て実際に聴いたことはないところばかりでした。もちろん、今回のようなピリオド楽器による団体は皆無です。やはり、この曲はイタリア的な明るさとは相性が悪いと思われているのでしょうか。
そのイタリアの団体とは、2000年にファビオ・チオフィーニによって創設された「アッカデミア・バロッカ・ウィレム・ヘルマンス(アッカデミア・ヘルマンス)」というピリオド楽器のアンサンブルです。「ヘルマンス」などという健康的なネーミング(それは「ヘルスマン」)は、まるでドイツ人のようで全然イタリアっぽくありませんが、それにはわけがあります。チオフィーニという人は、1970年生まれのそもそもはチェンバロやオルガン奏者として研鑽を積んだ方で、1995年に、テルニ近郊のコッレシポリという町にある聖マリア・マジョーレ教会の専属オルガニストに就任します。その教会に設置されていたのが、ヴィレム・ヘルマンスというフランドル出身のビルダーによって1678年に造られたヒストリカル・オルガンでした。その名前を、自分の楽団に付けたのですね。
アッカデミア・ヘルマンスには、2006年にエンリコ・ガッティがコンサートマスターとして参加し、近年ますます評判が高まっているそうです。
というような先入観は、音楽を聴く時にはさほど必要なものではありません。イタリアのレーベルにしては珍しく素晴らしい録音のこのアルバム(CDにしておくにはもったいないほどのいい音です)を聴けば、彼らが確かな技量と、自発的な音楽性を備えたミュージシャンの集まりであることはすぐ分かります。データを見ると、2010年の7月に教会で3日間にわたって録音されているようですが、これもイタリアのレーベルらしくないていねいな作られ方をされていることがうかがえます。
まず、その鄙びた教会のアコースティックスが、とても暖かい響きを生んでいます。そんなサウンドの中で、彼らは、決して相手を威嚇したり萎縮させたりすることはない、包み込むような音楽を作っています。バセット・ホルンではなくあえてクラリネットを使っているのも、音色の明るさを重視した上でのことなのでしょう。本当は反則なのですが、ここでは見事にアンサンブルの中に馴染んでいます。「Tuba mirum」のトロンボーン・ソロなどは、ストレスの片鱗すら感じられないとてもおおらかなものでした。それは、審判を下す恐ろしいラッパではなく、まるで幼子を寝かしつける子守唄のように聞こえます。
と、オーケストラだけを聴けば、それはイタリア的な明るさの中に、押しつけがましくない主張の込められたとても心が安らぐ素晴らしい演奏なのですが、あいにく、合唱がそれをぶちこわしていました。これも、やはりチオフィーニが作った合唱団なのですが、オーケストラの細やかな表情にはまるで付いていけない、無神経な歌い方に終始しているのですね。ですから、「Lacrimosa」は悲惨です。まるで聴くものを慈しむような繊細な音色で奏でられるイントロに続いて出てきて欲しいのは、それに見合うだけの感情のこもった合唱であって欲しいのに、それはただ力で押しているだけの乱暴なものだったのですからね。「Confutatis」も、途中のsotto voceをこんなに荒っぽく歌うなんて、ふつうの感覚ではあり得ません。
ソリストも、メゾ以下はとても穏やかな歌い方で安心できるのに、ソプラノだけが浮ついています。つくづく残念なCDです。
カップリングの「Ave verum corpus」では多少持ち直しているのが、救いでしょうか。あ、もちろん、「レクイエム」はジュスマイヤー版を使っています。

CD Artwork © La Bottega Discantica

11月7日

RZEWSKI
The People United Will Never Be Defeated
Ursula Oppens(Pf)
PIANO CLASSICS/PCL0019


高橋悠治の録音をリアルタイムで聴いて以来、ジェフスキの「不屈の民」の録音はほぼ全て手中のものにしてきました(いや、中には他人のコレクションを譲り受けたのもありますが)。ただ唯一、この曲を委嘱し、初演を行ったアーシュラ・オッペンスのものだけは、入手できませんでした。それは初演直後にVANGUARDに録音されたとされるものなのですが、そのレーベルは人手に渡ってしまい、絶版状態になっていたのですよ。
それが、こんな、ピアノ曲のライセンス・レーベルからいきなりリリースされてしまいました。いともあっけなく積年の夢がかなってしまって、呆然としているところです。
実物を手にしてみると、録音されたのは1978年、初演から3年も経っていた頃だったのですね。というか、高橋悠治が録音したのが同じ年の初めですから、録音に関しては悠治の方が早かったのかもしれませんね。ただ、このオッペンスの録音には、悠治や他の演奏者とははっきり異なっている点があります。それは、今では最後の変奏が終わって、テーマが再現される前に必ず入ることになっている「即興演奏によるカデンツァ」が入っていない、という点です(もう一人、ドゥルーリーも入れてません)。1979年に出版されたこの曲の楽譜(全音!)には、ここに「5分かそのくらいで終わるような即興的なカデンツァ」という指定がありますが、もしかしたら初演の際にはなかったものを、出版にあたって作曲家が加えたものなのかもしれませんね。この楽譜には悠治の録音の品番(LP)が掲載されているぐらいですので、悠治は当然印刷譜の情報を得ていたことでしょうから(もっとも、第36変奏の最後から6小節目、「very slow」になるところが、楽譜では「ppp」のところを「ff」ぐらいで弾いていますから、なんとも言えませんが)。初演者であったオッペンスは、自筆稿を使って録音した、とか。
まあ、本当かどうかは分かりませんが、そのせいで彼女の演奏は、この作品の演奏時間としては最も短いものとなっています。今ではまず1時間を超えるのが標準的な演奏なのに、「40分台」なのですからね。しかし、それだけではなく演奏そのもののテンポがかなり速いような気がします。そこで、試しに他の演奏と、カデンツァの時間を抜いて比較してみると、やはり彼女の演奏が最も短い(速い)ことが分かります。


これは、「超絶技巧を駆使して、この難曲を弾き切った」と言われているあのアムランよりもさらに「速い」のですから、ちょっとすごくないですか?別にアスリートではないので、単なるデータを比較することに全く意味はないのですが、正直、初演の段階でこれだけのレベルにあったのを知って、ちょっと驚いているところです。確かに、このオッペンスの演奏には、まさに目の覚めるような鮮やかさで圧倒されてしまいます。これを聴いたうえでアムランを聴き直してみると、そこにはほのかなリリシズムが漂っていることが感じられるはずです。そんな余計なことをしなければ、「チャンピオン」になれたものを。
そう、初演者の演奏を初めて聴いて思ったのは、この曲はあるがままに弾かれてこそ、真のメッセージが伝わってくるのだ、ということです。あたかもセリー・アンテグラルを装ったかに見える第6変奏や第7変奏の中から、あのベタなテーマがくっきり浮き上がって聴こえてきた時に、それはまさに痛烈なパロディ以外の何物でもないことを、この演奏からは容易に汲みとることが出来るのです。
作曲家にとっては、本当は「チリの革命」などはどうでもよかったことだったのかもちりません。

CD Artwork © Piano Classics

11月5日

VIVALDI
Il Cimento dell'armonia e dell'inventione
Pavlo Beznosiuk/
The Avison Ensemble
LINN/CKD 365(hybrid SACD)


ヴィヴァルディの有名なヴァイオリン協奏曲集「四季」を最初の4曲に持つ、全12曲の協奏曲は「和声と創意への試み」というタイトルで1725年に「作品8」として出版されました。なんといっても、「バロック音楽」の火付け役として大々的に登場した「四季」の人気は現在でも特別のものがありますから、この曲集の中の他の8曲はなかなか聴く機会がありません。それが、最高の演奏と最高の音質で(達郎風)登場しました。
演奏しているのは、初めて耳にした「アヴィソン・アンサンブル」という団体です。もっぱら「巨人の星」とかを演奏しているところなのでしょうか(それは「アニソン・アンサンブル」)。いや、正確には「エイヴィソン・アンサンブル」と発音するそうで、チャールズ・エイヴィソンという、これまた初めて耳にした18世紀のイギリスの作曲家の全作品を演奏するために設立された団体なのだそうですね。その録音は、NAXOSDIVINE ARTの2つのレーベルで聴くことが出来ます。
ヴァイオリン・ソロと指揮を担当している方の「ベズノシウク」という名前は、聞いたことがありました。ただし、それはこのパヴロさんではなく、リサ・ベズノシウクというフルーティストの名前としてでした。リサさんといえば、ピリオド楽器の第二世代として、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックなどで大活躍していた人ですね。こんな珍しい名前(ウクライナの血を引く家系だとか)ですから、なにか関係があるのでは、と思ったら、この二人は兄弟でした。パヴロは4つ年下の弟だそうです。イギリスのほとんどのピリオド・オーケストラのコンサート・マスターを務めたというすごい人だったんですね。ちなみに、リサの夫はリチャード・タニクリフというチェリストですが、この録音にはアンサンブルのメンバーとして参加しています。
有名な「四季」の、ピリオド楽器による演奏は、今までに何度も聴いたことがあります。そういう人たちの演奏は、例外なく挑戦的で刺激的な感触を与えられるものだったのですが、今回はなんとも和む体験をさせてもらえました。そういう、いわば新しいムーブメントが出てきた時には、こういうベタな曲でいかに聴くものを驚かせるか、というのが一つのトレンドだったのでしょうが、その様な小細工を乗り越えたところで作品の美しさを伝えたい、という動きが、ここになってようやく出てきたのかもしれません。技術的には、細かい音符を短く切って演奏するのではなく、音価いっぱいに弾き切ってリリカルな味を出すという方向性が、至るところで見られます。これは、今までの「ピリオド」のストイックなイメージをガラリと変えるもの、「こんなに歌っていいの?」と思えるほどの美しさを醸し出しています。テンポもおおむねゆっくり気味ですし。
あるいは、少し前までは決して付けてはいけないものとされていたビブラートも、パヴロはたっぷり付けて演奏しています。最近では、この時代でも表現のためのビブラートはしっかり使われていたと考えられるようになってきたのだそうですが、そんな最新情報も反映された、ちょっとゆっくり目のビブラートは、なかなかセクシーです。
「四季」に続く作品8の5以降の曲も、そんな暖かいテイストに包まれています。8の7からは短調の作品が3つ続きますが、いかにもな「マイナー感」が新鮮です。いや、そういえば「夏」と「冬」も短調でした。
録音は、とびきりの美しさをピリオド楽器から引き出しています。極端なピアニシモを多用した演奏ですが、そんな究極の弱音で味わえるガット弦のささやきが、ゾクゾクするほどの魅力を与えてくれています。もちろん、これはSACDの独壇場なのでしょう。

SACD Artwork © Linn Records

おとといのおやぢに会える、か。


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