夏に、もんじゃ。.... 佐久間學

(11/5/29-11/6/16)

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6月16日

メトロポリタン・オペラのすべて
名門歌劇場の世界戦略
池原麻里子著
音楽之友社刊
ISBN978-4-276-21056-1

つい先日、映画館でMET(メット:ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)のオペラが見られるという「ライブビューイング」についてある種の体験(いや、近くのシネコンで見ようと思ったら、地震の影響で打ちきりになっていた、というめったにないネガティブな体験ですが)があったばかりだというのに、なんともタイミング良くこんな本が出版されました。本当は、そんなことには関係なく、この時期にこのオペラハウスの引っ越し公演が日本で行われるのを見込んでのタイミングだったのですがね。しかし、もちろんこの本の中では、その引っ越し公演では誰しもが最も見たがったであろうネトレプコやカウフマンは、地震による原発事故の放射能を恐れて日本には来なかったなどという「最新の」情報が盛り込まれているわけはありません。ここで取り上げられているメインのテーマは、なんたって、2006年にこのオペラハウスの総裁に就任したピーター・ゲルブと、彼が行った「戦略」といった、「ほんのちょっと前」の情報なのですからね。
この本のサブタイトルを見た時に、それは予想されたことでした。まさに、著者が最も力を入れて語っているのは、その「戦略」についてでした。ゲルブという有能なビジネスマンがオペラハウスの「経営」を任された時に最初に行ったのが、この「ライブビューイング」(これが、日本側のネーミングで、正式には「MET Live in HD」だということを、初めて知りました)という、映画館でリアルタイムにオペラを上映するという試みでした。日本では時差もあって同時刻に上映するのは無理なので、タイムラグはできますが、中身は全く同じものが提供されています。ただ、日本での配給先が松竹だったものですから、最初は「魔笛を歌舞伎座で見よう」みたいなコピーで宣伝していたのがおかしかったですね。さすがに、今は普通の映画館での上映になっていますが。
その、記念すべき最初の「ライブ」の演目が、悪名高いジュリー・テイモアの「魔笛」だったにもかかわらず、この試みは着実に支持者を増やしていったというのですから、面白いものです。年を追うごとに上映館も世界中に広がり、今シーズンは12もの演目が取り上げられるようになりました。ゲルブの「戦略」は、見事に成功したのでしょう。そのおかげで、今ではかなり田舎のシネコンにもかかります。途中打ち切りにはなりましたが。
これは、丸ごとのパッケージでテレビで放映されたりDVDになったりしていますから、別に映画館に行かなくても見ることはできます。今までのオペラのライブビデオと明らかに異なるのが、まさに「生」ならではのその場の臨場感を大切にした幕間のインタビューなどです。その制作現場に立ち会った著者のレポートが、その舞台裏を生々しく伝えています。インタビューにはきちんとリハーサルが設けられていて、そこにはしっかり台本なども用意されているのですね。確かに、これだけ周到に準備されているのですから、今歌ってきたばかりの歌手から興奮気味のコメントを紹介する場面などは、時にはオペラ本体よりも面白いものに仕上がっているのもうなずけます。
その他に、このオペラハウスの基本的な情報を的確にまとめているのも、なかなかのものです。歴史的には、それぞれの総裁の時代のプロダクションのリストなど、とても貴重なものですし、スタッフの年収まで分かるのですから、すごいものです。
巻末には、ここに出演した歌手たちのプロフィールが列挙されています。これも、ちょっと気の利いたコメントが、ひと味違います。「気難しいソプラノとして有名」などとこき下ろされている人もいますし。でも、デボラ・ヴォイトが「トリスタン」を歌ったというのは、単なる勘違いでしょうね。なんたって、著者は年季の入ったオペラファンなのだそうですから。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.

6月14日

ROSSINI
Arias
Julia Lezhneva(Sop)
Marc Minkowski/
Sinfonia Varsovia
NAÏVE/V 5221


ユリア・レージネヴァという、ロシア出身のソプラノのデビュー・ソロアルバムです。一瞬「デビュー?!こんなおばさんが!」と思ってしまうぐらい、見方によってはとんでもない高齢者にも思えてしまうようなジャケットの写真ですね。でも、本当は彼女は1989年の生まれ。ですから、この録音が行われた2010年の1月には、おそらくまだ20歳になったばかりだったのでしょう。まぎれもなく「デビュー」にふさわしい年齢ですね。もっとも、彼女が「プロ」としてデビューしたのは16歳の時にモーツァルトの「レクイエム」のソロを歌ったコンサートだといいますから、それでも遅すぎたのかもしれません。
ただ、リーダー・アルバムこそ今回が初めてですが、すでにこのレーベルでは2枚のアルバムに参加していました。そのうちの1枚が、今回の指揮者ミンコフスキが振った「ロ短調ミサ」だったのです。ここでは、ソリストがそのまま合唱のパートも歌うというプランだったので、アンサンブルとしての合唱の役目がメインでしたが、「Gloria」の中の「Laudamus te」ではソロを担当していました。今回改めて聴き直してみると、この時のヴァイオリン・ソロのとことん弾けたオブリガートに見事に乗って、小気味よく装飾音をコロコロ転がしていましたね。
そんな人が、ロッシーニに合わないはずがありません。バッハの時にはあまり分かりませんでしたが、今回のアルバムを聴くと彼女の声はかなり低め、「メゾ」というよりは「アルト」に近い質のようです。そんな声でロッシーニのコロラトゥーラ(「アジリタ」というべきなのでしょうか)を軽々とさばく人、と言えば、バルトリとかカサロヴァが有名でしたが、その業界にこんな若い人が「参入」です。
レージネヴァの場合、そのアジリタはとても自然なものに感じられました。他の二人はいかにも「すごいなぁ」という、まるでフィギュア・スケートの3回転とか4回転といった超絶技巧を味わっている気にさせられるものが、彼女の場合は回転数などは関係なく、「回っている」ということ自体に美しさがある、といった感じでしょうか。
それだけではなく、彼女は伸ばした声自体にとてつもない力があります。この前のエルトマンとはまさに正反対、ただのロングトーンを聴いただけで、そこにはまぎれもない「主張」を感じられるのですね。そういえば、彼女、なんだかアメリカ先住民のリーダーみたいな雰囲気がありませんか(それは「酋長」)?いや、その落ち着いた声はとても貫禄のあるものです。
これだけのものを持っていれば、もう怖いものなしです。しかし、彼女はさらに、ハッとさせられるような細やかな表情を見せたりできるのですね。そんな、彼女のすべての魅力を味わえるのが「チェネレントーラ」からの有名なレシタティーヴォとアリア「Della fortuna istabile...Nacqui all'affanno」です。
かと思うと、「ギョーム・テル」の中の「Ils s'éloignent enfin」や「コリントの包囲」の「L'ora fatal s'apressa」といったしっとりと歌い上げるスローバラードも心にしみる、というのですから、もう脱帽です。「L'ora fatal ...」のエンディングのピアニシモなど、ゾクゾクしてしまいますよ。ここでは、バックのオケも実に見事なサポートを展開しています。おそらく、このアルバムを作るにあたっては、ミンコフスキのバックアップが大きく働いていたのでしょう。そんな、温かい思いやりのようなものも加わって、極上のCDが出来上がりました。オーケストラだけで演奏される「チェネレントーラ」の序曲なども、軽やかな仕上がりは絶品です。
何曲かの中で加わっているワルシャワの少人数の合唱団が、全く合唱の体をなしていないお粗末な出来であるのと、時たま彼女のピッチが上ずって聴こえてくることなどは、ほんの些細な傷に過ぎません。

CD Artwork c Naïve

6月12日

XENAKIS
Alfa & Omega
Various Artists
ACCORD/480 4904


今年、2011年は、ヤニス・クセナキスが亡くなって10年目というアニバーサリーです。それを記念して、彼の作品全集が出ました・・・と言えればいいのですが、あいにく今回は4枚組のボックスで我慢して頂きましょう。なにしろ、彼が生涯に作った曲は、全部で150曲を超えていますから、ひとつのレーベルで全ての音源を揃えることなど不可能です。そもそも、まだ録音されていないものがかなりありますし。前世紀の終わり頃にリゲティの新録音による全集が計画された時には、途中でレーベルが変わってしまうという苦難の道を経て、完成までには10年かかってしまいました。クセナキスの場合は、そんな全集が現れることなどあるのでしょうか。TIMPANIMODEが、それぞれオーケストラ曲と室内楽のジャンルで頑張ってはいるようですが、どうなることでしょう。
今回のボックスは、フランスのユニバーサルの傘下にあるACCORDが、手持ちの音源やライセンス供給などを含めて21曲を集めたものです。最初の作品ではありませんが、最初に演奏された曲である「メタスタシス」から、文字通り最後の作品となった「オメガ」を押さえてありますから、一応首尾一貫はしていることになりますね。だから、タイトルも「アルファとオメガ」なのですね。もちろん「アルファ」とは、「最初」という意味もありますし、初期の作品である「ノモス・アルファ」にちなんだものでもあるのでしょう。
その、「メタスタシス」は、なんと1955年のハンス・ロスバウトによる初演の時の演奏でした。もともとはSWRの放送音源、こんなものがCDで聴けるとは(もちろん、モノラルです)。この曲は、1965年のモーリス・ル・ルーのものが最初の録音だと思っていましたから、ちょっと感激です。初演ならではの気迫は、そのル・ルー盤やTIMPANIのタマヨ盤では、もうちょっと希薄になってしまっています。
もう一つ、そんな初演の頃の熱気が味わえるのが、1967年に作られた無伴奏合唱曲「夜」です。マルセル・クーローが指揮をしたラジオ・フランスの合唱団の演奏、これはERATOから出ていた、メシアンの「5つのルシャン」とペンデレツキの「スターバト・マーテル」がカップリングになったLPが有名ですが(1994年に国内盤のCDが出ていましたが、今は廃盤になってます)これは同じ1968年の録音でも、全くの別物でした。

元々はADÈSから出ていたものだそうで、ERATO盤に比べると残響が全くないデッドな録音、バックのノイズなど様々な物音がリアルに聞こえてきます。だから、最後に出てくるバス歌手の「咳ばらい」も、てっきり演奏ノイズだと思ってしまいましたよ。きちんと楽譜に指定されているのですね。ブックレットには、彼らがギリシャのペルセポリスでこの曲を演奏している写真がありますが、こんな感じで、多くの演奏の機会があったのでしょう。現在では、少なくとも3種類(BIS, HYPERION, CHANDOS)以上のCDが手に入りますが、いずれのものも「熱気」という点では彼らの演奏をしのぐものではありません。
さっきの「ノモス・アルファ」は、この曲を委嘱したジークフリート・パルムの演奏で聴くことが出来ます。これは実は、初演からしばらく経ってからDGに録音した、かなりメジャーなものです。ユニバーサルだから、こんなことが出来るのですね。この曲が収録されていたのはチェロ独奏のための「現代曲」ばかり集めたアルバムですが、録音がすさまじいということで大評判になったものでした。確かに、これは今聴いてもものすごい録音です。同じくDG音源でアバドが指揮をしたクセナキスなどという、今となっては珍しいものもありますし。
最後の作品の「オメガ」は、MODE2005年に録音されたもの、ですから、ここでは曲がりなりにも半世紀に渡るクセナキスの録音が味わえることになります。内容的にはしょぼ過ぎますが。

CD Artwork © Universal Music Classics & Jazz France

6月10日

An Evening with Dave Grusin
Gary Burton(Vib)
Nestor Torres(Fl)
Dave Grusin/
Henry Mansini Institute Orchestra
TELARC/32928(BD)


初めてのBD(ブルーレイ・ディスク)のレビューです。遅まきながら、BDを見ることのできる環境が整ったものですから。HD対応のテレビで普通にHDが体験できるようになると、もうDVDスペックの画面では物足りなくなってしまうのは分かっていたのですが、まんまと乗せられてしまいましたね。なんたって、今ではBDレコーダーの方がかつてのDVDレコーダーより安く買えてしまうのですから。
デイヴ・グルーシンと言えば、「卒業」や「黄昏」などの映画音楽で有名な人ですが、なによりもひところの「フュージョン」シーンをリードしていたことで、強烈に記憶に残っています。自身のレーベル(GRP)も立ちあげて、たとえばフルートのデイヴ・ヴァレンティンのアルバムなども多数プロデュースしていましたね。そんな、ひところの黄金時代は築いたものの、最近ではほとんど名前を聞くこともなくなったので、引退して豪華客船で世界一周でもしているのかな(「クルージング」です)と思っていた矢先に、こんな映像(CDも同時にリリースされています)が出ました。2009年の12月に、マイアミのコンサートホールで行われたライブです。
画面に現れたグルーシンには、かつての精悍な面影はありませんでした。それもそのはず、このときにはすでに75歳になっていたのですから、こんな、はっきり言ってヨボヨボの老人になっているのは当たり前のことです。しかし、ひとたびピアノに座ると、背筋はピンと伸び、とてもきれいな指使いから生まれるピアノの音色には、いささかの衰えもありませんでした。確か、彼はきちんとクラシックの勉強をしていたはず、基礎さえしっかりしていれば、いくつになっても腕が落ちることはないのでしょうね。
ある時はピアノを弾き、ある時は立ち上がって総勢60人近くのオーケストラ(ビッグ・バンド+9型の弦と3管編成の木管+ホルン3本)を指揮するといった、最近ではあまり見ることのなくなった、作曲、編曲、演奏の全てを1人で仕切るという、なんとも「かっこいい」姿がそこにはありました。それこそ往年のバート・バカラックのように、ファッションも派手な蝶ネクタイとタキシードでおしゃれに決めていれば完璧なのでしょうが、ごくありふれたジャケット姿というのも、あまり目立ちたがらないグルーシンのシャイな一面を垣間見る思いです。
そこに、たくさんのゲストが加わります。彼のキャリアを物語るかのように様々な曲が演奏されましたが、なんと言っても楽しめたのはバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」からのナンバーでした。確か、そういうタイトルのアルバムもかつて作っていましたね。まずはゲイリー・バートン(この人も、まだまだ元気です)のヴァイブがフィーチャーされた「クール」、オリジナルにもヴァイブが入っていますから、それを意識してのアレンジなのでしょうが、さらに自由度を増したソロが素敵でした。ヴォーカルのゲスト、パティ・オースティンとジョン・サカダのデュエットで「サムウェア」は、アダルトな魅力で渋く迫ります。ネスター・トーレスという、初めて聴いたフルーティストは、頭部管だけ木製という楽器を持って登場です。リップ・プレートのそばに小さなマイクをつけて、ケーブルとトランスミッターを上手にスーツの中に隠していましたから、最初はマイクの存在が分からないほど、そんなおしゃれな楽器で軽やかに動き回りながら「アイ・フィール・プリティ」を演奏します。バラードっぽかったものが、途中でノリノリのラテンに変わるという、度肝を抜かれるようなアレンジが光ります。いかにも木管らしい柔らかい音色、彼も基礎がしっかりしている人だと見ました。エンディングはコーラスも入り、全員で「アメリカ」、やはりオリジナルとは全然違うノリのラテンで、盛り上がります。

BD Artwork © Telarc International

6月8日

Mostly Mozart
Mojca Erdmann(Sop)
Andrea Marcon/
La Cetra Barockorchester Basel
DG/477 8979


以前「ツァイーデ」というモーツァルトの未完のジンクシュピールのDVDを見たことがありましたが、実は、あの上演は「アダマ」という新作とのマッシュアップでしたから、そんな破天荒な演出にばかり目が行ってしまって、そこで歌っていた人なんて全く印象には残っていませんでした。あそこでタイトルロールを歌っていたのが、今回ソロアルバムをリリースしたモイカ・エルトマンだったんですね。ジャケットの写真を見ても全く分かりませんでした。もいっかDVDを見なおせば、分かるのでしょうが、なんせもう二度と見たくなくなるようなプロダクションでしたからね。しかし、果たしてDVDでも分かるかどうかは疑問です。というのも、表はまるでメイド喫茶の店員のような蓮っ葉な顔とファッションですが、ブックレットの裏側にある写真では、まるで別人のようなしっとりとしたアダルトでフェミニンな容姿なのですからね。というか、これは絶対同じ人には見えませんってば。
とりあえず、この「表」の写真がアルバムのコンセプトを表現しているのだとしたら、その曲目を見てあまりの落差の大きさにたじろいでしまうはずです。どう見たって、アイドル(というか、ガキ)っぽいこのファッションでは、確か「ライト・クラシック」とか言っていたジャンルを想像しないわけにはいかないものが、歌われているのはモーツァルトはともかく、サリエリやパイジエッロ、そしてホルツバウアーなのですからね。つまり、モーツァルトと、その同時代、あるいは少し前の作曲家の作品を並べて聴くことによって、その時代のモーツァルトが置かれていた立場を浮き彫りにする、ぐらいの志が込められているのですから、すごいですね。そもそも、モーツァルトにしてもさっきの「ツァイーデ」からのアリアなどというマイナーなものから始まっていれば、おのずと期待せずにはいられないではありませんか。
その、「Tiger! Wetze die Klauen」という激しい歌から聴こえてきたのは、まさに「玉を転がす」ような美しい声でした。それは、どこまでも澄み切っていて、全く汚れを感じられない響きを持っていたのです。なんという魅力的な「声」なのでしょう。
そんな声ですから、当然「ドン・ジョヴァンニ」のツェルリーナや「フィガロ」のスザンナの持ち歌は外せません。ところが、「Batti, batti, o bel Masetto」というツェルリーナの歌が聴こえてきた時、「何か違う」という気持ちになってしまったのはなぜなのでしょう。思うに、スザンナにしてもツェルリーナにしても、ダ・ポンテによって磨き上げられたキャラは単なる「メイド」や「村娘」に終わることのないしたたかさを秘めているはずです。この歌にしても、「ぶってちょうだい」という猫なで声の陰にひそんでいるものまで表現しないと、ダ・ポンテとモーツァルトの本当のたくらみは見えてはこないはずです。そんな一ひねりも二ひねりもあるような「綾」が、エルトマンの歌からはまるで伝わってこないのですね。そう、彼女の歌はあくまで美しく清らかに響くだけ、決してそれ以下でもそれ以上でもないのが、「違う」と感じた原因だったのです。
こういう「歌」を、前にもどこかで聴いたことがあったことを思い出しました。それは、ヘイリーとかサラ・ブライトマンといった、まさに「ライト・クラシック」路線で大成功を収めているアーティストでした。彼女たちの声は確かに美しく、とびきり魅力的ではありますが、そこには何かを訴えようという力は全くありませんでした。うん、これで、なぜジャケットがこれほどまでに薄っぺらなものなのかも理解できます。
バックを務めているマルコン指揮の「ラ・チェトラ」は、バロックならではの味をこれでもかというぐらい仕掛けてきています。それに全く反応しないで、ひたすらマイペースを貫くエルトマン、もしかしたら、このミスマッチこそが「バロック」の真髄かも。深いです。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

6月6日

Stories
Paul Hillier/
Theatre of Voices
HARMONIA MUNDI/HMU 807527(hybrid SACD)


ルチアーノ・ベリオの「A Ronne」とキャシー・バーベリアンの「Stripsody」を最初と最後に持つという、なかなか刺激的なアルバムが出ました。1970年代のポップ・カルチャーの残渣が、21世紀の現代でも通用するのかという期待と不安が高まります。
そんな心配はよそに、この、もろポップ・アート風のジャケットには、なにかヒリアーたちの開き直りのようなものさえ感じてしまいます。カートゥーンっぽく処理された写真はもちろんバーベリアンの横顔ですし、ジャケットやブックレットの中にまで増殖しているフォントや「吹き出し」は、まさにカートゥーンそのものなのですからね。つまり、ここにはそんな「マンガ」の世界のような、「言葉」を素材にした6人の「作曲家」の楽しい音楽(と言えるかどうか)が満載、というわけですね。
これらの作曲家は、この中の最古参、ジョン・ケージから、それぞれ何らかの影響を受けている、という共通項によって集められています。ですから、そのケージの作品「Story」はアルバム・タイトルにも用いられています。1940年に作られたこの曲は、驚くべきことに、「今」でも充分に通用するほどの「新しさ」を持っていました。ソロ・ヴォーカリストがリズミカルに繰り返すあまり意味のないテキスト、そのまわりで打楽器の模倣を行うコーラス、それらがしっかりビートに乗って繰り出したものは、まさに「ヒップ・ホップ」ではありませんか。「ラップ」や「ボイパ」を、すでに70年前にケージは予見していたのですね(啓示、だったのでしょうか)。
1976年に「スウィングル2」が録音していた「A Ronne」ですが、それは実は改訂稿であったことを初めて知らされました。元々は1974年に合唱ではなく、5人の俳優のために作られたものだったのだそうです。それを、8人用のバージョンにしたのが、スウィングル版なのですね。ここではオリジナルの5人バージョンが演奏されています。でも、聴き比べてみると、作品のベースは全く変わっておらず、単に人数によって声部が増減しているだけのような気がします。言葉だけでなく、「ゲップ」とか「嘔吐」といった、人前で披露するのはかなり勇気の要るような様々な「音」と、なんの脈絡もなくパラレルで演奏されるきれいにハモったマドリガルとの対比が、シュールな味わいを醸し出すという趣向なのでしょう。
Stripsody」は、「Strip」と「Rhapsody」を組み合わせた造語だったはずです。でも、別に裸の女性が登場するわけではなく、「ストリップ」というのは「マンガ」のことです。「アメコミ」ですね。マンガの中に登場する擬態語を延々と並べ立てるという、ある意味超絶技巧を伴う作品です。バーベリアン自身のライブ録音では「1人」で演奏していましたが、ここではなんと「3人」で「歌って」います。掛け合いになったり、同じフレーズを途中で別の人に交代したりと、楽しさが「3倍」になっているはずです。演奏時間は確かに「3倍」になっていました。
指揮者だと思っていたヒリアーは、ジャクソン・マク・ロウという人の「Young Turtle Asymmetries」では、多重録音で5人分の「語り」に挑戦、シェルドン・フランクという、作曲家ではなくライターの「作品」では、1人で渋い喉を披露してくれています。
この中で唯一ご存命の作曲家、1949年生まれのロジャー・マーシュの「Not A Soul But Ourselves」は、すでに「アヴァン・ギャルド」とは呼べないような、あくまで言葉を立てたスマートな作風です。特徴的なフレーズが何度も繰り返されるあたりが、親しみやすさを招いています。エンディング近くにもろスティーヴ・ライヒの引用が出てくるのも、そんな時代(1977年の作品)の名残でしょうか。
結局、ケージ以外の作品には、作られた当時のシーンを思い起こすという効能こそふんだんに感じられましたが、それをあえて「今」演奏する意味は、かなり希薄でした。やはりケージは「20世紀最大の作曲家」なのでしょう。

SACD Artwork © Harmonia Mundi USA

6月4日

BEETHOVEN
Symphonie Nr.6
Rafael Kubelik/
Orchestre de Paris
DG/UCGG-9014(single layer SACD)


最新の「レコード芸術」に、かつてドイツ・グラモフォンの社員だった日本人の方が書かれた記事が載っていました。それは、まさに「当事者」によって最近のメジャー・レーベルの凋落ぶりを生々しく伝えるものでした。社員の数は何分の一かに減ってしまっていますし、何よりも、録音の現場ではとりあえずプロデューサーは立てるものの、実際の仕事は全て下請けのスタッフが行っているというのですからね。ようかんじゃないですよ(それは「お茶請け」)。つまり、かつては「社員」としてそのレーベル独自の音を作り上げていた「トーン・マイスター」や「バランス・エンジニア」と呼ばれていたレコーディング・エンジニアは、もう一人もいなくなってしまったというのですね。それは最近のCDのクレジットからうかがえたことではありましたが、そんな「現実」を突きつけられるのは、なんとも寂しい思いです。
一連の「シングル・レイヤーSACD」が好評なのは、そんな、今ではなくなってしまったレーベルとしての音がまだしっかり存在していた頃の「記録」として受け止められているからなのかも知れません。なにしろ、1970年台のDGといったら、ベートーヴェンの9つの交響曲を、同じ指揮者にそれぞれ別のオーケストラを指揮させて録音するなどという、今ではとても考えられないような贅沢なプロジェクトを敢行していたのですからね。オーケストラは、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルを筆頭に最高ランクのものばかり、もちろん、演奏会のライブ録音などという「安上がり」なことはせず、全てきちんとセッションを設けて録音されています。そんなお金と、そして、「やる気」があったんですね、その頃は。
そんな、クーベリックが世界を股にかけて録音しまくったベートーヴェンの全集は、このジャケットにあるように、今のようなPHOTOSHOPで文字をエンボスさせたものではなく、実際に立体的に作られた模型に光を当てて撮影したと思われる、文字通り「アナログ」な手作り感覚満載のレタリングに飾られたボックスLPとして発売されました。それぞれに異なった音色を持つオーケストラが、異なった会場で録音していますから、それを味わうことはこの上なく贅沢なものに思えました。居ながらにして、世界中のコンサートホールの音が体験できるのですからね(中には、ホールではなく教会などもありましたが)。
中でもお気に入りは、この、パリ管による「田園」でした。この盤だけは、繰り返し何度も聴いて、その柔らかな弦楽器と、色彩的な管楽器の響きを満喫していたような気がします。しかし、これがCDとなって再発された時には、ジャケットは真っ黒な背景に指揮者の写真だけというなんの変哲もないものに変わっていました。そして、その音も、なんとも薄っぺらなものになってしまっていたのですから、その時の失望感は大きなものがありました。
それが、オリジナル・ジャケットで蘇ったのに、まず感激です。そして、もちろんその音も、LPで聴いていた時の質感がそのまま再現されたものでしたから、もう何も言うことはありません。もちろん、LPの欠点であるサーフェス・ノイズやスクラッチ・ノイズ、さらに内周歪みで不快感を味わうことなく、まさにマスターテープそのものの音が聴けるのですからね。
そんな環境で改めてクーベリックとパリ管の演奏を体験してみると、彼らはピアニシモにとてつもない神経を注いで演奏していることが良く分かります。第1楽章の16小節目から始まる「ソラ・シ♭・シ↑・ド」という音型を10回繰り返す間にピアノからフォルテまでクレッシェンドした後にピアニシモまでディミヌエンドするという箇所での、その最後のピアニシモの絶妙なこと。この肌触りは、いい加減なCDでは再現できませんし、LPではサーフェス・ノイズにかき消されてしまうことでしょう。

SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

6月2日

VILLA-LOBOS
Choral Works
Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
HÄNSSLER/CD 93.268


ブラジルの作曲家、エイトール・ヴィラ・ロボスは、もはやひところほどのマイナーな存在ではなくなっていますが、彼の合唱曲のCDなどはほとんど目にすることはありません。だいぶ前にHYPERIONからオーケストラ付きの宗教曲集(「サン・セバスティアンのミサ」など/CDA66638)が出ていましたが、今回のような無伴奏合唱曲を集めたアルバムを聴くのは初めてのことです。この中にも「初録音」というものがいくつかありますから、このジャンルはやはりかなり珍しいものなのでしょうね。
彼の作品は、伝統的な「西洋音楽」とは無縁の、得も言われぬテイストをもったものです。そんな、「非西欧」の浮遊感は、最初に収録されている聖歌「Cor dulce, cor amabile」でいきなり味わうことが出来ます。いかにもルネサンス風のストイックな曲のように見えていて、その実なんとカラフルな和声によって彩られていることでしょう。しかも最後の「amen」は、付加6の和音(ド・ミ・ソ・ラ)という、ジャズやポップスで多用される和音で終止しているのですからね。
彼の最も有名な作品群である「ブラジル風バッハ」にしても、正直「どの辺がバッハなの?」と言いたくなるような、なんとも不思議な感触に包まれたものでした。頭にお皿はありませんが(それは「カッパ」)。そのシリーズの最後の作品、「ブラジル風バッハ第9番」というのがここには収録されていました。しかし、この曲はオリジナルは確かに無伴奏混声合唱曲なのですが、弦楽合奏で演奏される機会の方がはるかに多くなっています。ですから、実際にこのバージョンで聴くのは初めてのことでした。「プレリュードとフーガ」という、それこそバッハのオルガン曲のようなスタイルを持っていますが、もちろん聴こえてきたのはうす暗い教会の中で響き渡る厳格な音楽ではなく、燦々と降り注ぐ太陽光のもとの、まさにラテン・フレーバー満載の楽しげなものでした。とりわけ「フーガ」のテーマなどは、まるでダンスのようなキャッチーなメロディを持っていますから、それが重なり合ったからといって決して堅苦しい「対位法」が現れることもありません。しかも、それが「声」によって歌われるのですから、楽しさはひとしおです。
逆に、本家バッハをカバーしているという、これが初録音となる珍しい作品も聴くことができますよ。それは「平均律(いや、正確には『ウェル・テンペラメント』なのでしょうが)」第1集の8番、変ホ短調(嬰ニ短調)の「プレリュードとフーガ」です。クラヴィーア曲を合唱に置き換えるというアイディアですが、この編曲はなんのことはない、あの「スウィングル・シンガーズ」の「ジャズ・セバスティアン・バッハ」そのものではありませんか。バッハの曲をスキャットで歌うという試みは、1962年のウォード・スウィングルのアレンジが最初のものではなかったのですね。
男声合唱がたくさん入っているのも、うれしいことです。それらは、この編成の合唱の、新たな可能性を示唆しているもののようにも感じられます。「José」にはいかにもラテン音楽らしい軽やかさがありますし、「Préces sem palavras」には深い祈り、そして「Bazzum」には悲しみが込められています。しかも、この曲の場合、その悲惨な内容の歌詞をあからさまに表に出すことなく、いともサラリとその精神だけを伝えるという高度な技法が光ります。
歌っているシュトゥットガルト・ヴォーカルアンサンブルは、完璧なハーモニー感覚でそのあたりの作曲家の意図を過不足なく伝えることには成功しています。しかし、もう少し突っ込んだ表現と、ていねいな音の処理があったら、さらに深いものが味わえたような気がします。そう、ヴィラ・ロボスの音楽は、一見楽しそうでいて、実は奥の深いものであることが、逆にこういう演奏からは教えられてしまうことがあるのですよ。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH

5月31日

MOZART
Requiem
Montserrat Figueras(Sop), Claudia Schubert(Alt)
Gerd Türk(Ten), Stephan Schreckenberger(Bas)
Jordi Savall/
La Capella Reial de Catalunya
Le Concert des Nations
ALIA VOX/AVSA 9880(hybrid SACD)


Soloists
Victor Popov/
Boy's Chorus of the Sveshinikov Moscow Choral School
VENEZIA/CDVE 04396


前回、あんな素晴らしいモーツァルトの「レクイエム」を聴いたばかりですが、手元にはまだ最近出た他の録音も残っていました。ちょっと分が悪くなりますが、それぞれにユニークな主張が込められたものですから、まとめてご紹介をしてみましょう。
最初のサヴァール盤は、1991年に録音されたもので、以前はNAÏVEからCDが出ていました。それが、1998年にサヴァールたちが創設したこのALIA VOX(「演奏者の声」という意味なんですってね)レーベルからSACDとなって出直りました。自分たちの音源を、よそのレーベルではなく自分たちのレーベルで、よりよい音になったものを聴いてもらいたいという熱意の表れなのでしょうか。なかなか懐の深い、暖かな演奏を聴かせてくれています。それは、おそらく教会で録音した時の暖かな残響が、そのような印象を与えるのでしょう。ていねいなマスタリングによって、そのあたりがしっかり伝わるようなものになっているのは、嬉しいことです。
正直、フィゲーラスの声はこういう曲の中で聴くのは好きではないので、あまり心地よいとは言えないのですが、テノールのテュルクがそんな不満を解消してくれていました。
ただ、別の面で、このSACDには不満があります。豪華カラー印刷の分厚いブックレットには、この曲の自筆稿の写真が掲載されています。それは確かに、モーツァルトの「絶筆」の姿を伝えるものとして価値があるのでしょうが、何枚かあるその「自筆稿」の中には、モーツァルトが書いてはいないものも含まれているのですね。例えば「Confutatis」などは、弦楽器や管楽器の入ったきちんとしたフルスコアになっていますが、彼自身が書いた楽譜にはバスのパートと合唱しかなかったはずです。さらに、「Sanctus」や「Benedictus」はジュスマイヤーのオリジナルですから、モーツァルトが書いた楽譜が残っているはずがありません。それらを全部「モーツァルトによるオリジナルの自筆稿」と紹介している図太さは、このレーベルの良識を疑わざるを得ないものです。きちんと表記さえしてくれれば、ジュスマイヤーとの筆跡の違いなども楽しめてひっせき二鳥になったものを。

もう1枚は、そのほんの3年前、1988年にモスクワで録音されたものですが、そのあまりの録音の悪さにはたじろいでしまいます。それが崩壊直前の「ソ連」の実情だったのでしょうが、いくら「ヒストリカル」といっても、これではひどすぎます。なにしろ、響きが飽和していて、細かい音などはほとんど聞こえてこないのですからね。最大の被害者はティンパニ。キレの良いアクセントであるべきものが、単に全体の音を汚すものにしか聞こえません。
そんなオーケストラが、いったい何という名前のものなのかも、ジャケットやブックレットを見る限りでは分かりません。書いてあるのは指揮者とソリスト、そして合唱団の名前だけなのですからね。その合唱団は、「スヴェシニコフ記念モスクワ合唱学校」というところの少年合唱です。こんな学校、今でもあるのでしょうか。「少年合唱」とありますが、もちろんテナーやベースのパートは大人が歌っていて、「少年」は本来は女声のパートを歌います。しかし、その合唱の雑なこと。たっぷりとしたテンポに乗って、かなり大人数のオーケストラがバックで演奏しているせいなのでしょうか、めいっぱい声を張り上げて「頑張って」いる姿だけが痛々しく伝わってくるだけです。
そして、すごいのは、ソロも「少年」が歌っているということです。しかし、この2人の少年がとても素晴らしかったのには、なにか救われる思いでした。不安定なところがないわけではないのですが、声自体はとても立派なものですし、何よりも自発的な「表現」がしっかりしているのですね。「Ricordare」や「Benedictus」などは、とても楽しめました。

SACD and CD Artwork c Alia Vox, Venezia

5月29日

MOZART
Requiem
Simone Kermes(Sop), Stéphanie Houtzeel(Alt)
Markus Brutscher(Ten), Arnoud Richard(Bas)
Teodor Currentzis/
The New Siberian Singers
MusicAeterna
ALPHA/ALPHA 178


2010年の2月に録音されたという最新のモーツァルトの「レクイエム」です。使っている楽譜はジュスマイヤー版ですが、おそらく指揮者の裁量なのでしょう、1ヶ所楽譜にはないことをやっています。その詳細は後ほど。最良のアイディアですよ。
その「指揮者」は、1973年生まれのギリシャ人、テオドール・クレンツィスです。昨年このレーベルからリリースされたショスタコーヴィチの交響曲第14番がえらい評判だったそうで、とうとう某「レコードアカデミー賞」なんかを取ってしまいましたね。彼の現在のポストは、シベリアの都市ノヴォシビルスクの国立歌劇場の指揮者、ここで演奏している合唱団もオーケストラも、母体はこの歌劇場の専属の団体です。ちょっと不思議なのは、ショスタコでは普通にモダン楽器を演奏していたはずなのに、ここではピリオド楽器を使っていることです。音色も奏法もピッチも間違いなくピリオド、彼らはどちらの楽器も弾ける人たちなのでしょうか。
しかし、そんな楽器やらピッチやらの問題はなんとも些細なことに感じられるほど、彼らが作り出したモーツァルトの世界は衝撃的なものでした。つまり、今まで様々な「変わった」演奏を聴いてきて、そんなものに対する免疫は充分に出来ていたにもかかわらず、ここには思わず耳をそばだてずにはいられないほどの「ヘンな」表現が満載だったのです。そして、これが重要なことなのですが、その「ヘンな」ものは、確かな説得力を持って迫って来ているのですよ。誰とは言いませんが、過去にはただ人を驚かせたいだけのために奇抜なアイディアをこれ見よがしに盛り込んだ人がいましたね。しかし今回のクレンツィスはそんな輩とは別物、だから、彼が作り出す刺激的なフレーズは、しっかり心の中に突き刺さり、言いようのない感情の揺らぎを引き起こすのです。こんな現象のことを、もしかしたら「感動」と呼ぶのかもしれませんね。
曲の中で見られるのが、各パートの見事なまでのキャラクターの使い分けです。金管とティンパニは「荒々しさ」をことさら強調して、ただならぬ不安感を誘います。それを慰めるのが、バセット・ホルンを中心にした木管セクション。その穏やかさは、真の「癒し」を伴うものでした。弦楽器は幅広くそれぞれの曲に合わせた表現を行っています。バックでリズムを刻む時さえも、豊かな表情がつけられていますし、表に出て主役を張る時には、圧倒的な迫力を見せてくれます。「Dies irae」などではまるでバルトーク・ピチカートのような「ノイズ」まで出しての熱演です。
ソリストたちも、それぞれ個性を主張しながら、アンサンブルでは見事に溶け合うという「賢さ」を見せています。ただ、これだけほかのパートが強い主張を持った中では、ソプラノの人だけがあまりにも弱々しく感じられてしまいます。それでも、アンサンブルになった時のトレブルとしての透明感は素敵です。
そして、合唱のなんと雄弁なことでしょう。それは、囁くようなピアニシモから、力強いフォルテシモまで、恐ろしいまでに変幻自在の表情を見せてくれます。さらに、同じフレーズの繰り返しで前と同じことをやるのだな、と思っていると、見事に裏をかいて予想外のさらに素晴らしい表現を披露してくれるのですからね。「Lacrimosa」は、そんな意味で完璧な演奏と言えるのではないでしょうか。そして、そのあとがサプライズです。最後のアコードが終わらないうちに「カラカラ」という鈴の音が鳴り始めたと思ったら、それをバックにモーンダー版やドゥルース版、そしてレヴィン版で取り入れられている「アーメン・フーガ」が、とてつもなく透き通った声で響いてきました。そこには、モーツァルトが残した部分でスッパリ終わった後で、さっきの鈴の音がしばらく鳴り続くという粋な演出も加わります。
こんなに素晴らしい演奏が、「レコード芸術」の「特選盤」だなんて、許せません(笑)。

CD Artwork © Alpha Productions

おとといのおやぢに会える、か。


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