デートは自費。.... 佐久間學

(06/7/17-06/8/4)

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8月4日

HOLST
The Planets
Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/3 59382 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55855/56(国内盤 8月23日発売予定)

ホルストの「惑星」といえば、太陽系の、地球を除く7つの惑星の名前をそれぞれタイトルに持つ7つの曲の集まりとして誕生したものでした。作られた当時は9番目の惑星である「冥王星」はまだ発見されていなかったため、最後は「海王星」で終わるという構成になっていました。それは、女声合唱のループが延々と続く中にフェイド・アウトがなされ、その先の果てしない宇宙空間に思いを馳せる、という趣向だったのでしょう。
しかし、せっかくだから「冥王星」も加えて全ての惑星を含んだ形でこの名曲を完結させたいという動きが、世紀の変わり目に起こります。2000年にケント・ナガノから委嘱を受けた1946年生まれのイギリスの作曲家、コリン・マシューズ(それまでに、ホルストの楽譜の校訂などをしていた実績を買われたのでしょう)によって作られた「冥王星」が、その年の5月にナガノ指揮のハレ管弦楽団によって世界初演されたのです。さらに、翌2001年の3月には、マーク・エルダー指揮の同じオーケストラによって初録音され(HYPERION/CDA 67270)、世界中の人の耳に届くことになります。「惑星」からの引用はありますが、ホルストの作風とはかなり肌触りの異なるこの「冥王星」は、しかし、ごくすんなりとオリジナルの曲の中に受け入れられたように見えます。それ以後に録音されたCDでは、かなりの数が「冥王星付き」となっていますし、実際のコンサートでもこの「8曲版」を取り上げる指揮者は増えています。卑近なところでは、あさっての8月6日にも、宮崎で開催される日本アマチュアオーケストラフェスティバルで、岩村力の手によって演奏されるはずです。アマチュアのオーケストラが取り上げるというレベルまで認知されたということで、確実に「冥王星」は「惑星」の仲間入りを果たしたと考えて良いのではないでしょうか。
もっとも、最近では冥王星を惑星と見なすこと自体に疑問も投げかけられているようですから、先行きは不安です。学問的には「惑星」ではないのに、曲としての「惑星」には入っている、などという事態にならなければいいのですが。
ところで、太陽系の惑星には、冥王星うんぬんを議論する前にホルストの曲からは抜けているものがありました。それは、火星と木星の軌道の間に存在する多数の(現時点で30万個以上)小さな天体の集まり、「小惑星」です。もちろん、「大」も臭いはず(「小は臭え」)。そこで、その小惑星をテーマにした曲を「惑星」に加えようと考えたのが、ベルリン・フィルのシェフ、サイモン・ラトルです。いくらなんでも30万曲は無理ですから、とりあえず4人の作曲家に1曲ずつ委嘱しました。フィンランドの重鎮カイヤ・サーリアホの「小惑星4179:トータティス」、ドイツの若手マティアス・ピンチャーの「オシリスへ向かって」、イギリスの中堅マーク=アンソニー・ターネジの「ケレス」、そして、元ベルリン・フィルのヴィオラ奏者でもあるオーストラリアの作曲家ブレット・ディーンの「コマロフの墜落」というのが、その4曲です。いずれも、程良い難解さを持った、しかし、まるで映画音楽のようなスペクタクルな外見を持つ、聴き応えのある作品です。中でも、ソユーズ1号の乗組員で、宇宙での最初の犠牲者となったソ連(当時)の宇宙飛行士を扱ったディーンの「コマロフの墜落」は、リズミカルなパターンに導かれたジャズっぽいテイストが、親しみやすさを呼んでいます。
このCDは、今年3月に行われたその様な「『フル』惑星」の、もちろん世界初演のコンサートを丸ごと収めたものです。「小惑星」が入った2枚目のCDの余白はエンハンストCDとなっていて、ラトルと、そしてそれぞれの作曲家(サーリアホだけは字幕によるコメント)のインタビューやリハーサルの模様が映像で見られるようになっています。
実際のコンサートでは、この「小惑星」が演奏されたあとで、いわゆる「惑星」が演奏されました。それは実に賢明な構成だったのではないでしょうか。先にこの無気力で投げやりな演奏の「惑星」を聴いてしまったら、とても後半の現代曲を聴こうなどという気にはならなかったことでしょうから。

8月3日

Spirituals
George London(Bas)
Carl Michalski/
Singgemeinschaft Rudolf Lamy
Members of the Orchestra of the Bavarian State Radio
DG/00289 477 6193


今、ジョージ・ロンドンがブームなのでしょうか。つい先日SONYから「ボリス」のハイライト盤が復刻されたばかりだというのに、今回は、なんと完全初出(なんかいやらしいイメージを持つのは、私だけ? それは「完全丸出し」・・・あ〜あ、ほんとのおやぢになっちゃった)の「黒人霊歌集」ですからね。DGの「スポットライト」という、歌手のリサイタル盤を復刻したデジパックのシリーズ、本体はあの「オリジナルズ」と同じ、チューリップレーベルが印刷されています。しかし、そこにはもはや「CDロゴ」が見当たらないことにご注目。結構、最近のものにはこれがないようになっていますよ。
このロンドンの場合は、元々のLPすら一度も世に出ていない(「完全初出」とはそういうことです)というのですから、1963年に録音されたものが、43年も経って初めてリリースされたことになります。それにしては、ジャケットがいやにリアリティがあるのが気になります。裏を見ると、曲目に「SIDE A」とか「SIDE B」といった表記もありますから、おそらく実際にプレスする直前まで話は進んでいたのでは。なにしろ、DG(いや、DGG)盤には付き物の「黄色い」枠の中には、ちゃんとLPの品番まで入っていますからね。この「SLPEM 136 458」というのは、確かに当時使われていた品番です。もちろん、いかにもそれらしい品番をでっち上げて、文字だけを差し替えたのでは、という疑問がわくのも当然のことかもしれません。しかし、丹念に検証してみると、このジャケットで使われているフォントは現在は使われてはいないものであることが分かります。

上がジャケットの文字、下が「今」印刷された非常によく似たフォントの文字なのですが、例えば大文字の「O」とか小文字の「v」などは、完全に別物なのが分かるはずです。つまり、このジャケットは文字も含めて当時実際に印刷されたもの、あるいはその版下を忠実に復刻したものなのでしょう。そこまで準備されていたものが商品として流通しなかったわけは、今となっては知るよしもありません。あ、左下の赤いシールは、「今」貼り付けられたものです。念のため。
ジョージ・ロンドンの声には、最初から「悲しみ」が宿っているように聞こえます。彼がヴォータンやボリスであれほどの評価を得たのには、その特異な声のキャラクターが大きく作用していたに違いありません。ひょっとしたら、彼はこんな歌を歌うために生まれてきたのではないかと思えるほど、彼が歌うスピリチュアルズにはそんな「悲しみ」を通じて魂のほとばしりのようなものを感じずにはいられません。「時には母のない子のように」などが、それが顕著に現れた名演ではないでしょうか。一見サラッと歌っているかに見えて、そこからは深い情感がとめどもなく放たれているさまを感じ取ることが出来るはずです。バックにコーラスが入っているものが大部分ですが、それはこのロンドンの情感を的確に受け止めた優れた演奏、もしかしたら音程などに不安がなくもないソリストを、見事にバックアップしているものでした。
「ジェリコの戦い」のように、ちょっとしたリズムセクションが加わったアレンジでは、ロンドンのリズム感の良さが存分に発揮されています。そんな時、いかに軽快に歌ったとしても、そこにはしっかり「悲しみ」がついて回るという、彼ならではのセンスは決して失われることはありません。
ただ、中に3曲ばかり、アレンジャーのルドルフ・ラミーが、ストリングスを加えて本気になって甘ったるい編曲を施しているものがあります。これが、およそロンドンの歌とはかけ離れた白々しい出来なのです。「商品」としての体裁を整えるために、豪華に飾り付けたものを提供したと言うことなのかもしれませんが、ひょっとしたら、このトラックのために全体のコンセプトがはっきりしないものになったのが、「お蔵入り」の原因だったのではないか、などと勘ぐりたくなるような、それは「勘違い」のアレンジになっています。

8月1日

CAGE
Sonatas & Interludes for Prepared Piano
John Tilbury(Pre. Pf)
EXPLORE/EXP0004


前にこのレーベルのクセナキスをご紹介した時に、「オリジナルのジャケットがあれば」と苦言を呈したせいではないでしょうが(ありえません)、このブックレットにはこんな素敵な画像が掲載されていました。

これは、この曲の楽譜の最初に載っている「Table of Preparations」、つまり、プリペアのためのインストラクションです。もちろん、これはケージ自身の手書きによるもの、この可愛らしい特徴的な書体は、彼の音楽とともに多くのファンを持っています。そんなファンの期待に応えて「ケージ・フォント」などというものを作って販売している人もいるそうですね。ちょっと小さくて分かりづらいのですが、表の上にある文字は左から「TONE」、「MATERIAL」、「STRINGS LEFT TO RIGHT」、「DISTANCE FROM DAMPER(INCHES)」、指定された音に相当する弦に何を挟むか、それは3本(低音では2本)あるピアノ線のどの間で、ダンパーから何インチの場所か、ということを、克明に指示したものなのです。一つの弦の何ヶ所にも「プリペア」が指定されていることもありますね。ですから、これに従って「プリペア」を行えば、誰でもケージがイメージした音が出せるということになります。と、あのケージにしては何とも厳密な指示を行ったものだな、と思わせられるかもしれませんが、実は「MATERIAL」にしても「ゴム」とか「ネジ」と書いてあるだけで、どんな大きさや長さなのかまでは指定はされてはいません。そもそも「DISTANCE FROM DAMPER(INCHES)」と言ったところで、ピアノのサイズが違えば弦の長さに対しての相対的な位置も変わってしまうのですから、何の意味も持たなくなってくるはずではないのでしょうか。ですから、この表からうかがえるものは、いかにも大層なことを指定しているようで、実は「適当」なことしか言っていないという、まさに遊び心満載のケージの素顔そのものだったのです(もう一つ言えば、2オクターブ目は「15度」のはずです)。
もちろんEXPLOREはリイシュー専門のレーベルですから、これも1974年にDECCAによって録音されたものの復刻です。しかし、その音の良さにはびっくりさせられます。かなり静かな部分でボリュームを上げてみても、アナログ録音特有のヒスノイズなどは全く聞こえませんし、普通はそのヒスノイズに隠れて聞こえてこないバックグラウンドノイズが聞こえるという、SNの良さです。かなりオンマイクですが、おそらく教会のようなところで録音されたのでしょう、ほのかに漂う残響が非常に美しく尾を引くのが分かります。そして、先ほどの「指示」がそれほど厳密ではなかったことがよく分かるのが、10曲目の「Second Interlude」です。後半のオスティナートの中に使われているある音が、まるでリング・モジュレーターで変調したような(と言っても分からないでしょうが、ピンク・フロイドが「エコーズ」という曲のイントロで使っていた音です)とても「宇宙的」な音が聞こえてきたのには、本当に驚いてしまいました。
そこで取り出したのが、高橋悠治の録音です。同じ箇所を聴いてみると、それは何の変哲もない普通の「ネジ」かなんかの音でした。ティルバリーと同じ頃、1975年に録音されたこの演奏は、もう繰り返し何度も聴いたものですが、こうして別の演奏を聴いた上で改めて聴き直してみると、そんな分かりやすい「プリペア」の違い以上に、演奏者の目指していたものの違いがはっきり見えてくるのは、面白いものです。高橋は鋭角的なタッチで、あくまで厳しくこの曲に対峙しているように見えます。それに対してティルバリーの演奏には、もう少しアバウトな雰囲気が漂っているように思えて仕方がありませんでした。音を慈しむという点では、はるかに高いポイントが感じられるこの演奏、こんなレアな曲目でも選択肢が増えたことに、幸福感は隠せません。

7月30日

MANSURIAN
Ars Poetica
Robert Mlkeyan/
Armenian Chamber Choir
ECM/476 3070


ティグラン・マンスーリアンという、1939年生まれのアルメニアの作曲家の合唱曲です。初めて聞く名前、「饅頭に餡」と覚えましょう。副題が「ア・カペラ混声合唱のためのコンチェルト」、シュニトケの作品に「クワイア・コンチェルト」というのがありましたが、そんなノリの「コンチェルト」、いわゆる「協奏曲」とは別の意味で使っているのでしょう。4つの部分、全部で10の小さな曲の集まり、46分ちょっとで終わってしまう、聴き通すには手頃な長さのものです。
テキストには、やはりアルメニアの詩人イェギシェ・チャレンツという人のものが使われています。もちろんアルメニア語、その英訳がブックレットには掲載されています。
このレーベルの常で、モノクロの写真によってデザインされたそのブックレットにより、まずある種の印象の刷り込みが行われるのは、仕方のないことでしょう。全くキャプションの付けられていないそれらの写真が、果たしてアーティストに関係したものなのか、あるいは単なる心象風景を現実の風景から切り取ったものなのかは判然としないまま、とりあえず最初のページにある断崖の上に寂しく建っている古ぼけた教会のようなものに圧倒されることになります。しかし、そのあと、その同じ建物の前で集合写真を撮っている合唱団員や、その教会の内部でしょうか、太い石柱のある薄暗い空間で実際に彼らがリハーサルを行っている写真を見るに及んで、この建物は現実の録音のロケーションであることをかろうじて知ることになるのです。迂闊にも、演奏家を「American Chamber Choir」と読み間違えてしまったために、その写真に出てくる濃い顔の合唱団員を見て、ちょっとした違和感を持ってしまったという「おまけ」まで、そこにはついてくるのですが。

しかし、そこが現実の場所であろうがなかろうが、その、殺伐とした山頂に独り佇むお城のような建造物の写真からは、まさにこの曲が持つ荒々しい肌触りとの視覚的な結びつきが感じられました。もしかしたら、演奏家はこのような場所で録音(あるいは、リハーサル)する事によって、身をもってこの曲の世界を自らの体内に取り込み、実体のある音として放出することが出来たのかもしれません。
ただ、最初の数曲では、いかにも「ロシア的」な趣しか感じられませんでした。それが具体的にどういうものであるのかを指摘することは出来ませんが、旋律の端はし、歌い方のちょっとしたクセに、それは確かに感じられるものでした。これでは、ラフマニノフあたりのエピゴーネンではないかと。しかししばらくして、この曲の中にはもっと荒涼とした、それこそこの断崖のような風景が広がっていることに気づかされます。それは7曲目の「風」という曲あたりからでしょうか。アルメニアの言葉の持つゴツゴツとした響きが、野性味あふれるハーモニーに乗って、そこからはとてつもないエネルギーが発散されていたのです。ソプラノの、決して西洋人には出せないような地声むき出しの高音の咆哮が、それに彩りを添えます。最後に非常に属和音に近いものが延々と伸ばされ、決して解決しないでそのまま終わるというあたりに、そんな荒涼さをさらけ出す勇気のようなものを見たとすれば、それはおそらく作品に対する賞賛につながるはずです。
その次の曲が「短歌」という、もちろん日本の和歌を題材にしたもの、あるいは、和歌そのものの翻訳なのかもしれません。ここで見られる一見静謐を装ったたたずまいも、本質的にはその荒涼と表裏一体だと気づくのも、容易なことです。
これが世界初録音だと言われている、マンスーリアンの合唱曲、このレーベルが大切に育て上げてきたブランド「アルヴォ・ペルト」の、あまりに澄みきった世界を物足りなく思い始めている人たちには、格好の贈り物になることでしょう。ここには、「ペルト」では見えにくかった生身の人間による感情の息吹が確かに存在していることを、誰しもが感じるはずです。

7月28日

エスクァイア日本版 9月号
エスクァイア マガジン ジャパン刊
雑誌コード
11915-09

桑野信介さんという建築デザイナーが、最近のクラシック界の話題を独占しています。たしかに、彼の持つ確固たる自己の世界と、それを頑なに貫き通そうというスタイルは、全てのクラシックファンの共感を呼ぶに違いありません。彼が好んで聴くマーラーやショスタコーヴィチ、ワーグナーなどは、まさに偏屈なクラシックファンの嗜好の王道ではありませんか。そこに日本語による「魔王」などでフェイントをかけられたりすれば、ますますファンは増えることでしょう(あ、「結婚できない男」というドラマの話です)。
そんな信介(つまり、阿部寛)あたりが定期購読していそうな「ちょっとリッチな趣味」が売り物のこの雑誌がクラシックを特集するなどというのは、あまりにも出来すぎた話ではないでしょうか。そのタイトルも「発見、クラシック音楽。」、表紙を飾る写真の、サンクトペテルブルクのフィルハーモニーでリハーサル中のサンクトペテルブルク・フィルという渋さには、信介ならずともつい手が伸びてしまいます。
このような、あまたの「ハウツー本」とは一線を画した、あくまで高いクオリティの情報を提供しようとする媒体の場合、必要になってくるのが程良く高飛車な視点です。たとえ理解できなくても、そして、実体が伴わなくても、ワンランク上の情報に接するというだけで、自分は良い趣味を持っていると思いこんでいる読者は満たされた気分になるものなのです。そんな、読み手のプライドを適度にくすぐるだけのグレードの高いアイテムの供給こそが、ここでは最優先で求められています。それは、博学な信介にバカにされないだけの、「おっ、それいいね!」と言わせられるような素材です。そこで、この雑誌がクラシック特集を組むに当たって用意したものが、「ロシアピアニズム」と「古楽」という、何とも「タカビー」なブランドでした。
まず、「ロシアピアニズム」。これは本当にいいところを突いています。そういうものがあることは知っていても、誰もその本当の意味を知るものはいないという言葉の代表のようなもの、「知らない」と言えばバカにされそうだけど、今さら他人には聞けないと言う意味で、これほど「プライド」を満足してくれる言葉もないのではないでしょうか。そもそも「ピアニズム」とは一体なんなのでしょう。露出狂でしょうか(それは「チラリズム」)。
そして、「古楽」です。これも、額面通り「古い音楽でしょう?」などと言ったりしたらたちまち石をぶつけられそうな、ある特定のマニアの間でしか通用しない言葉、本当のクラシックファンの仲間に入れて欲しいと願っていれば、間違っても「オリジナル楽器」などとは口にせず、ひたすら「古楽、古楽」と連呼することが必要になってくるという、まさに究極のブランドです。しかも、嬉しいことに、その「古楽」界のスーパースター「ニコラウス・アーノンクール」までもしっかりフィーチャーされているではありませんか。なんとこの特集の巻頭に。
ご存じのように、この人物の名前ほど、その「ブランド」が実体と遊離して独り歩きしているものもありません。単なる気まぐれな年寄りに過ぎないものを、周りの人がこぞって「巨匠」などと奉り上げるものですから、何も知らない人はそれが本当だと信じてしまうという、まさに「裸の王様」状態に陥っているのが真実の姿だというのに。言うまでもありませんが、この実体の無さこそが、この雑誌の読者層の「プライド」を最大限にくすぐるもの、そして、それを見事に演出した編集者のセンスには、素晴らしいものがあります。
その他の小ネタとして、オペラ関係の「ペーター・コンヴィチュニー」と、「ステファニア・ボンファデッリ」を選んだセンスなどは、もう最高。どちらも、実体はともかく、これさえ押さえておけば誰からもバカにされないで済む、という絶妙のスタンスの「ブランド」なのですから。
そして、お決まりの「お薦め作曲家のお薦めCD」などというコーナーも用意されています。そこでは、マーラーやワーグナーが削られた代わりにショスタコーヴィチと武満が入っています。それを「タカビー」の極みと見るか、編集者の良心のあらわれと見るかによって、もしかしたら聴き手としての資質が問われることになるのかしれません。ところで、信介は武満は好きなのでしょうか。

7月26日

XENAKIS
Synaphai, Aroura, Antikhthon
Geoffrey Douglas Madge(Pf)
Elgar Howarth/
New Philharmonia Orchesrtra
EXPLORE/EXP0017


ちょっと聞き慣れないレーベル名、これはLP時代の珍しいカタログをCD化するために最近作られたものです。復刻の対象は特定のレーベルにはこだわりませんが、最初のリリースとなる今回はDECCAのものを集中して扱っています。このクセナキスはおそらく初CD化でしょう。これが、1976年にリリースされたLPのジャケット、当時DECCAが現代音楽のために設けていた「HEADLINE」というサブレーベルの中の1枚です。

      DECCA/HEAD 13
これはなかなか「時代」を感じさせてくれるジャケットなのではないでしょうか。影絵はもちろんクセナキスの横顔ですが、その上にデザインされているのはパンチングされた紙テープ、かつて「キーパンチャー」という職業の人(マンガも書いていました=それは「モンキーパンチ」)によってデータを入力されていた、その当時の記録メディアです。コンピュータ(「電子計算機」、でしょうね)を作曲のツールとしていたクセナキスをこんな形でデザインした、というところでしょうか。
収録されているのは、1970年前後の作品が3曲、その中には、少し前に大井浩明さんの演奏によるTINPANIの録音が大きな話題となった「シナファイ」が含まれています。つまり、これはあの「世紀の難曲」と言われたものの、世界初録音という「極めて貴重」なものなのです。
現代曲の場合、演奏者によってその曲の印象が変わる度合いは、普通のクラシックの比ではありません。それがまた、現代曲を聴く時の魅力となるわけですが、この曲の場合の違いはちょっと度を超しています。まず、演奏時間が、12分、大井さんの16分の四分の三しかありません。あの目の覚めるような大井さんのものより、さらに早い演奏が、この時点でなされていたのでしょうか。ところが、実際に聴き比べてみると、このマッジの演奏は、オーケストラともどもとても和やかなものでした。別に楽譜が改訂されている様子もないのに、最初にピアノソロが出てくるまでにすでに一分ほど短くなっています。それは、細かい音符を早く弾いたというのではなく、なんかいい加減にごまかして辻褄を合わせたような印象を与えられるものでした。もちろん、これは今聴くとそう思えるのであって、録音された当時はこれ以上のものは不可能だったのではないでしょうか。メディアがパンチングテープからDVDに変化して、画期的に記録データが増大したのと同じことが、演奏の世界でも起こっていたのが、まざまざと感じられます。その結果、かつてはなにかおどろおどろしいイメージでしかなく、全体としてのとらえどころがはっきりしていなかったものが、一つ一つの音、そしてそのつながりの中に、きちんとした「意味」なり「メッセージ」が込められているのがはっきり分かるようになってきます。曲全体の三分の二以降、ピアノのカデンツァ(10段の楽譜!)のあとに繰り広げられるオーケストラとピアノとの「対話」、あるいは「バトル」の意味は、残念ながらマッジたちの演奏からは伝わってくることはありませんでした。
同じことが、やはりTINPANI録音がある「アンティクトン」の場合にも感じられます。これは演奏時間はほとんど変わらない分、それぞれのテクスチャーの違いははっきりしてきます。本当に同じスコアに基づいているのかと思えるほど、その志というか、方向性には彼我の感が存在しているのです。言葉の綾ではない、「アナログ」と「デジタル」の違いが、これほどはっきり見分けられることも希です。なにしろ、始まってしばらくして聞こえる金管ののどかなテーマを、ハワースは本当に情緒たっぷりに歌わせているのですから。
従って、今のところ比較の対象が手元にない「アロウラ」の場合は、逆の意味でその叙情性をなんの抵抗もなく、たっぷりと味わうことが出来ることになります。弦楽器だけで演奏されるこの曲での、例えばグリッサンドあたりはなんと美しく心に響くことでしょう。もちろん、他の演奏に接した時には全く異なる印象を抱くことになるのでしょう。それでいいのです。それこそが、まさに現代曲を味わう時の究極の醍醐味なのですから。
今回のCD、せっかく、オリジナルのライナーノーツも掲載したのですから、オリジナルのジャケットもどこかにあれば、もっと価値が増したことでしょうに。ちなみに、録音データもLPには「197511月」と表記されていますから、「197611月」という記載はまちがいでしょう。

7月24日

TAKEMITSU
A Flock Descends into the Pentagonal Garden
Marin Alsop/
Bournemouth Symphony Orchestra
NAXOS/8.557760J


オリヴィエ・メシアンが自作に関しては非常に饒舌だったことは、よく知られています。新潟に行くんですね(それは「上越」新幹線)。自らの信仰と鳥の啼き声をキーワードとして語られるそれらの「言葉」は、もしかしたら実際の音楽以上に色彩的な魅力を振り撒いているのかも知れません。
メシアンの正統的な後継者と自他共に認める武満徹の場合、その饒舌さは師(もちろん、アカデミズムとしての意味ではありません)の比ではありませんでした。折に触れて綴られたその美しい言葉たちは、それ自体で音楽を語り始め、時として音そのものすらも感じられるものとなっていたのです。その「言葉」は、音楽に対する的確な耳を持たないもの、禿頭の詩人や長髪のフォークシンガーなどをも魅了し、時の文化の中で声高に物を言うすべを持った彼らの「言葉」によってさらなる崇拝者を産むことになります。それは、あるいは作曲家にとっては不幸な事態かもしれなかったことを否定することは、誰にもできません。
NAXOSの日本人作曲家シリーズとしては、以前の室内楽を収めたアルバムに続く2枚目の武満徹の作品集、今回はオーケストラ曲、それも後期の作風を反映したものが主になっています。まさに、メシアンと、そしてドビュッシーの語り口と肌合いを色濃く持つに至った最晩年1994年の「精霊の庭」に見られる、ほとんど甘美なまでのテイスト、すなわち「タケミツ・トーン」を存分に味わうには、このアルバムは格好のものとなっているはずです。細心の注意を払って集められた音階とリズム、それらを夢見るようなハーモニーと音色で包み込んだこの曲を聴く人は、それがフランス人の先達の語法が彼の手によって昇華された、まさに一つの人類の遺産であると言っても過言ではないことに気づくに違いありません。
この作曲家が行き着いた世界を、この曲によって知ってしまっているオールソップであれば、それよりはるか以前、1977年に作られたアルバムタイトル曲「鳥は星形の庭に降りる」からさえも刺激的な要素を注意深く抑制して、さらに磨きのかかった響きを産み出そうとするのも当然のことでしょう。例えば、1978年に録音された小澤盤には見られなかった包み込むような暖かなテイストが、ここにはあります。かくして、1981年の「夢の時」とともに、聴き手は極上のサウンドに彩られたフルオーケストラの世界に酔いしれることになるのです。
しかし、同じアルバムの中の、1958年に作られた彼の最初のフルオーケストラのための作品「ソリチュード・ソノール」の中に、すでにこの世界観がきちんと現れていることを発見した時、聴き手は、この甘美さが決して演奏家の方向性のみによって生まれたものではなかったことを知るのです。作曲家としてスタートした時点ですでに彼の中にあった原石は、長い時間をかけて磨き上げられ、この世のものとも思えない光を放つこととなったのです。
もう1曲、ここには、彼が映画のために作った曲を弦楽合奏用の組曲に編んだものが収められています。予想もしなかったことですが、これを聴いたとたん、その他の曲とは全く異なる魅力、言ってみれば音楽の持つ生命感のようなものを痛いほど感じることが出来てしまいました。もちろん、本来観客にきちんと特定の概念を伝える目的を持った音楽だという性質もあるのでしょうが、なにかを訴えるという力に関しては数段勝るものが、その中には存在していたのです。表面的にはブルースやワルツといった誰の耳にもなじむ感触、しかし、そこからは、「庭」だ、「夢」だと多くの「言葉」によって飾り立てられた大層な曲からはついぞ味わうことの出来なかった作曲家の「叫び」のようなものが、確かに伝わってきたのです。
そういえば、彼の「うた」も、全く別の、魅力的な世界を持っていたことに気づきました。あらゆる国に於いてオーケストラのレパートリーとして完全に定着した感のある武満作品、その空虚さを突き抜けて真の訴えかけを届けてくれる演奏には、出会えることがあるのでしょうか。

7月21日

HANDEL
Giulio Cesare in Egitto
Sarah Connolly, Angelika Kirchschlager(MS)
Danielle de Niese(Sop)
Patricia Bardon(Alt)
Rachid Ben Abdeslam, Christopher Dumaux(CT)
Christopher Maltman(Bar)
William Christie/
Orchestra of the Age of Enlightenment
OPUS ARTE/OA 0950 D(DVD)


「ジュリアス・シーザー」と言えばいいものを、「ジューリオ・チェーザレ」などとイタリア語読みで気取られてしまえば、「ヘンデルのイタリアオペラ=オペラ・セリア=長くて退屈」という一般常識の前には、とても見てみようという気になどならないことでしょう。ましてやDVD3枚組、ほとんど4時間になんなんとするものを開封するには、かなりの勇気が必要なはずです。こんな、いかにも暗〜いジャケットですし。
しかし、昨年のグラインドボーンでこのオペラの演出を担当したデイヴィッド・マクヴィカーは、とても退屈などしていられない魅力満載のステージを作り上げてくれていました。時代設定はもちろんローマ時代ではありませんが、かといってガチガチの現代でもないという、ちょっと節操のないもの、しかし、そんなある意味「いい加減」なところが肩の力を抜かせるのでしょうか、くそ真面目なはずのこのオペラが見事にエンタテインメントとしての魅力を振りまいていたのです。
主人公のチェーザレが登場した時、その姿はまさに男そのものでした。「サラ」というファーストネームは女だけではなかったのかな、と思ったのも束の間、聞こえてきたのは張りのあるメゾソプラノだったではありませんか。どんなにメークを施しても女声歌手が男にみえることなどまずあり得ません。この間テレビで見た「ティート」でのカサロヴァあたりは、その最も醜悪な例でしょうか。音楽的には非の打ち所がなくても、あの「ディカプリオ崩れ」を見てしまっては興ざめもいいところです。しかし、サラ・コノリーはそんな小細工など必要ないほど、生まれながらに凛々しさを備えている「女性」でした。ヘンデルの時代のカストラートにはこのぐらいの凄さがあったのでは、と思わせられるほど、その完璧に「男」の歌手によって歌われたコロラトゥーラは、とてつもない魅力を放っていたのです。
舞台がクレオパトラの場面になると、トロメーオ(プトレマイオス)の、エキセントリックでぶっ飛んだキャラクターとともに、何ともポップな雰囲気が立ちこめます。そのクレオパトラ役の25歳の新人ダニエル・デ・ニースは、侍女2人を引き連れて、軽やかなダンスを踊りながら歌い始めたではありませんか。最近痛感される、それはまさに「歌って踊れる」オペラ歌手の姿です。この瞬間、グラインドボーンはウェストエンドに変わりました。このように、ローマ人サイドとエジプト人サイドでガラリとキャラクターを変えてしまうのが、マクヴィガーの演出プランだったのでしょう。しばらくすると家臣のニレーノも、いきなり踊り出して、聴衆の笑いを誘うことになるのです。もっとも、ここで笑いを取るのは、演出家にとっては本意ではなかったはずです。きっちり「ショー」として組み立てていたのに、それがお堅い「オペラファン」には通じなかったのですからね。
「ヘンデルって、こんなに良い曲書いたの?」と思えるほど、これでもか、これでもかと続く美しいダ・カーポ・アリアの洪水の中にも、お話は段々シリアスになって来ます。と、死んだはずのチェーザレが帰ってきたのを迎えたクレオパトラが、登場の時とよく似た感じの歌を、同じような振りで明るく歌い出しました。この頃にはもう笑い出すお客さんなどいませんし、終わればやんやの拍手喝采です。きちんと演出意図を受け止められるようになったお客さんのお陰で、ヘンデル、いや「ハンデル」は、250年後の同じ地で活躍するアンドリュー・ロイド・ウェッバーと全く変わらないヒットメーカーであったことが如実に証明されたのです。
そういえば、カーテンコールの時に劇の中で演奏されていた曲がもう1度演奏されていました。これなどはウェストエンド、そしてブロードウェイの常套手段ではないですか。もはやネットでは常識です(それは「ブロードバンド」)。
気の利いた日本語解説のお陰で、英語の字幕しかなくても物語はきちんと追いかけることが出来るはずです。実は、そんなものがなくても、画面からのエネルギーには圧倒されっぱなし、何度でも見たくなってしまいましたよ。ですから、日本語の字幕さえ入っていれば、というのはないものねだりです。

7月19日

Musique du XXe siècle russe pour flûte et piano
Alexandra Grot(Fl)
Peter Laul(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMN 911918


このレーベルの「Les nouveaux musiciens」という新人紹介のシリーズ、まるでレオ・レオニの「ペツェッティーノ」みたいなデザインに変わりましたね。これは単なる偶然、自分探しの物語であるあの絵本と、これから世界に羽ばたく新人音楽家のCDとの間に共通点を見出して喜んでいるのは、このサイトだけのことです。

アレクサンドラ・グロートというロシアのフルーティスト、1981年生まれといいますからまだ25歳、別に若くして頭角をあらわす人は珍しくありませんが(あのパユさまは23歳でベルリン・フィルの首席奏者になりました)、ついに1980年代の人が活躍する時代になったのだな、という点では、感慨もひとしおです。
小さい時からピアノを習っていたグロート少女は、8歳の時にゴールウェイのコンサートでその演奏を聴いて、フルーティストになろうと思ったのだそうです。17歳の時からパリのコンセルヴァトワールでピエール・イヴ・アルトーに、さらにミュンヘンでアンドラーシュ・アドリアンに学んでいます。
20世紀ロシアのフルート音楽」というタイトルのこのアルバムでは、ストラヴィンスキー、デニソフ、シュニトケ、そしてプロコフィエフの作品が演奏されています。最も有名で、しかも内容も充実しているプロコフィエフのソナタを最後に持ってくるなど、なかなか考えられたプログラミングであることがわかります。そもそも一番最初の「ツカミ」として、ストラヴィンスキーの「鶯の歌」を、グロート自身がフルート用に編曲したものを持ってくるあたりに、並々ならぬ意欲を感じてしまいます。そして、その成果はまさに彼女の目論見通りとなりました。生命感あふれる、一本芯の通った伸びやかな高音は、たちどころに聴く人の耳をとらえることになったのです。そこからは、彼女の持つ明るくてスケールの大きな音楽が、いともストレートに伝わってきました。これは、妙にチマチマとしたところで勝負している最近の若いフルーティストとは一線を画した、まさに、彼女がこの道を選ぶきっかけとなった巨匠ゴールウェイにも通じようかという、広がりのある世界の見える音楽だったのです。
デニソフの「ソナタ」は、良くあるコンサートピースのように、ゆったりとした部分の後に技巧的な早い部分が続くという構成の曲です。ここでの、特に前半の安定感のあるフレーズの作り方はどうでしょう。高音から低音までムラのない美しい響き、そして、演奏者の都合によって作り出されることの多い変なクセのある歌い方が皆無という、自然になじむ肌触りは、実にすんなりと心の中に入り込んできます。
シュニトケの「古代様式による組曲」は、いかにもこの作曲家らしいシニカルな曲です。昔からの舞曲を再現したかのように見えるシンプルなメロディに秘めたアイロニーを、彼女は絶妙のスタンスで表現しています。
そして、プロコフィエフの「ソナタ」です。並の演奏家では技巧に隠れてしまってなかなか出すことの出来ない開放感を、彼女はその豊かな音と適切なフレーズ感で、余すところなく伝えてくれています。2楽章などはまるで曲芸のような演奏が多い中、しっかり腰の据わった堅実なフォルムを見せています。この楽章でこれほどしっかりした様式を感じられたのは、もしかしたら彼女が初めてだったかも知れないほど、その知的なアプローチは印象的です。ただ、3楽章ではもう少し「深み」のある表現を求めても良いのかも知れません。もちろん、彼女はほとんどそこまで手が届いているのでは、という感触を得られるほどのものもそこには潜んでいます。それは、圧倒的な冴えを見せる4楽章を聴いているうちには、ほとんど忘れてしまえるほどの些細なキズなのですから。
彼女の美しく強靱な音の背後からは、有り余るほど豊かな「音楽」の息吹を聴き取ることが出来ます。その勢いは、現在トップクラスといわれて多くのCDを出しているフルーティストなど、はるかに凌ぐものであるとさえ思える程です。楽しみな新人が出てきました。
ピアノのラウルも、とてもセンスの良いサポートを見せてくれています。この人、ジャケ写をみて、女の子だと思ってしまいました。もちろんお婆さんになったりはしませんが(それは「ハウル」)。

7月17日

MOZART
La Clemenza di Tito
Pendatchanska, Im(Sop), Fink, Chappuis(MS)
Padmore(Ten), Foresti(Bas)
René Jacobs/
RIAS Kammerchor
Freiburger Barockorchester
HARMONIA MUNDI/HMC 801923.24(hybrid SACD)


モーツァルトの「最後のオペラ」と言われている「ティートの慈悲」、ケッヘル番号も621と、「魔笛」の620の後になっていますが、完成したのも初演されたのも、実はこちらの方が先なのです。「魔笛」を作っている最中に転がり込んだ急ぎの仕事を先に片づけた、という状況だったので、ケッヘルさんは着手した順番に番号を付けたのでしょうね。
そんなやっつけ仕事のせいでもないのでしょうが、このオペラは長いこと晩年の他の作品に比べるとほとんど「無視」されていたような状態でした。一つには、これが「オペラ・セリア」という、神様や王様を題材にした「まじめな」オペラだったことが災いしていたはずです。同じイタリアオペラでも「オペラ・ブッファ」である「フィガロ」や、ドイツ語の「ジンクシュピール」である「魔笛」に見られるおおらかな明るさを、人々はモーツァルトらしさとして求めていたのでしょう。
しかし、昨今の「モーツァルト騒ぎ」のおかげで、こんなマイナーだった作品にも光があたる時代がやってきました。このアルバムが出たのとほぼ同じタイミングで、マッケラス(DG)やスタインバーグ(RCA)の新録音の全曲盤CDもリリースされましたし、DVDも2種類ほど出るというのです。名曲を垂れ流しにしただけのつまらないコンピレーションの猛攻にはうんざりさせられますが、そんな盛り上がりに乗じてしっかりこのような隠れた名曲が紹介されるようになるのであれば、「250年祭」も大歓迎です。
さらに、ウェルザー・メスト指揮によるチューリヒ歌劇場のプロダクションを放送で見るなどという贅沢なことも。この時代の「オペラ・セリア」では女声の音域をカバーできる男声歌手が活躍していましたが、もちろん現代ではそんなものはありません。そこで、その役を女声が歌うことになってしまい、聴いただけでは男の役なのか女の役なのかが分かりづらくなってしまいます。そんな時に映像は本当に役に立ちます。それを見たおかげで、今までほとんど理解できなかったこのオペラの物語の内容が、しっかり頭に入り「何が何だか分からないよう」という状態から脱却できたのですからね。
ヤーコブスのモーツァルトといえば、少し前に「フィガロ」が大評判を取りました。あの時とはオーケストラもキャストも全く異なっているのに、あの時と全く同じ印象が、すでに序曲の段階で与えられたというのは、驚異的なことです。まるで自らも物語に参加しているかのようにオーケストラの各パートから雄弁さを引きだしてしまうヤーコブスの手腕には、改めて感服させられます。
この曲のレシタティーヴォは、「オペラ・セリア」としては、きちんと伴奏が作られたもの(「レシタティーヴォ・アッコンパニアート」)が極端に少なくなっています。そのために、先ほどの放送のように、全て地のセリフにしてしまっている演出もあるのですが、ここでは逆に、単純な「レシタティーヴォ・セッコ」から、とてつもなくファンタジーあふれる音楽を引き出して、それだけで豊かな盛り上がりを聞かせてくれています。対話の部分で相手の言葉を待つことなく素早く入るという緊張感は、ただのセリフ以上にリアリティが感じられます。もちろん、アリアの方でも目を見張るような華麗な装飾がてんこ盛り、ここまでやってもらえれば、この作品をつまらないなどと言う人はいなくなるはずです。名手ロレンツォ・コッポラがクラリネットやバセットホルンのオブリガートを演奏している9番(セスト)や23番(ヴィッテリア)のアリアも、とことん魅力的です。
ティート役のパドモアは、評価が分かれそうですが、力強さが決定的に欠けているという印象は免れません。セストのフィンクは、逆に余計な力を示しすぎでしょうか。最も印象の深かったのがセルヴィリア役のイムだったというのは、このあたりに「オリジナル歌唱」の理想の姿をつい見出したい先入観があるせいなのでしょうか。

おとといのおやぢに会える、か。


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