文太は、リッチ.... 佐久間學

(13/4/13-13/5/1)

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5月1日

DURUFLÉ
Requiem
Éditions Durand
DF 13485(Study Score)


デュリュフレの「レクイエム」は手に入る限りのCDを集めているぐらい大好きな作品ですが、なぜかそのスコアは今まで見たことがありませんでした。実際に歌ったことまであるのに、印刷されたヴォーカル・スコアすら、手にしたことがないのですね。というのも、その演奏が行われたのはかなり昔のことで、まだ今のように簡単に輸入楽譜が手に入る時代ではなく、指揮者自らが手書きで作った合唱譜をコピーして使っていたのですよ。そんな、なんとものどかな時代でした。今そんなことをやったら、そういうことには常に神経をとがらせている埼玉県合唱連盟のさる理事などは、かんかんになって抗議してくることでしょう。
さすがにいまでは、まずどんな楽譜を買うにも不自由のない状態になりましたから、機会あるごとにこのスコアを求めようとするのですが、なぜか現物には出会えませんでした。そんな入手困難だったはずのスコアが、最近別の用事で立ち寄った銀座の楽器店には、「売るほど」置いてあったではありませんか。裏表紙を見てみると、それは2011年に新しく印刷されたもののようでした。しかし、版下自体は1950年に最初に出版されたものがそのまま使われていて、かなり汚い印刷面ではありましたが、そんなことは全然構いません。ミスプリントが1ヵ所即座に見つかるほど、ある意味いい加減なのも、また味がありますし。
この作品は、もちろんこのフル・オーケストラのバージョンがオリジナルの形です。しかし、現在この編成による録音はそれほどたくさんあるわけではありません。最も演奏機会が多いのは、合唱とオルガンのためのバージョン、それに次いで、オーケストラの楽器編成を縮小したバージョンでしょう。詳細は、こちら
しかし、今回改めてスコアを見てみると、これらのリダクション、あるいは縮小バージョンはいかにも「代用品」のようにしか感じられなくなってしまいます。デュリュフレの楽器の使い方には、フル・オーケストラならではの色彩感とダイナミクスが満載ですが、それはこの作品にとって欠くべからざる要素であることに、改めて気づかされます。例えば、コール・アングレやバス・クラリネットといった特殊楽器の使い方が非常に巧みで、それはほかの楽器では決して出せないような絶妙な音色を提供しています。それをオルガンで代用すると、その魅力が全くなくなってしまうのですね。あとは、単なるロングトーンでも、オルガンのパイプから出てくる感情のない音と、フルーティストが表情を込めて演奏しているものでは存在感が全く違ってしまいます。
実際にスコアを見るまで分からないこともありました。「Pie Jesu」の弦楽器にはヴァイオリンが入っておらず、「ヴィオラ以下」で演奏されているのです。これはまさに、デュリュフレがモデルとしたフォーレの「レクイエム」と同じ編成ではありませんか。確かに、この曲の落ち着いた雰囲気はヴィオラだからこそ醸し出されるものでした。もちろん、オルガンだけでその違いを出せるわけはありません。
もう1か所、最後の「In Paradisum」では冒頭のチェレスタによる鐘のような響きが印象的ですが、この楽器は実は最後の3つの小節でもそれぞれ2拍目に入っていることを初めて知りました。というか、改めて全てのCDを聴きなおしてみると、このチェレスタの音が聴こえるものはほとんどありませんでした。実は最後の和音が「ナインス」であることもスコアを見て初めて分かったのですが、その7音と9音をチェレスタが出しているのです。7音は合唱も出していますが、9音をほかに出しているのは4つに分かれたヴィオラの一番上のパートだけ、こんな重要な音が聴こえないんすよ。そんな指揮者(あるいはエンジニア)の耳を疑ってしまいます。
ちなみに、この最後のチェレスタの音が最もはっきり聴こえてくるのが、1950年代のデュリュフレ自身の指揮によるERATO盤です。


Score Artwork © Universal Music Publishing Group

4月29日

ALLELUIA
Julia Lezhneva(Sop)
Giovanni Antonini/
Il Giardino Armonico
DECCA/478 5242


ロシアの新星ユリア・レージネヴァ(ロシア風だと「レズネワ」が正しいのでしょうが)のデビュー・アルバムは、おととしNAÏVEから出ていましたが、ついにDECCAから「メジャー・デビュー」となりました。最近はクラシックに関しては何が「メジャー」なのかはよく分からない状態ですが、まあ「腐っても鯛」ということで。
前回はロッシーニのオペラアリア集でしたが、今回は4人の作曲家によるモテット集です。いずれも最後に「Alleluia(アレルヤ)」という神をたたえるテキストが歌われているので、こんなタイトルになりました。まあ、モテットといっても音楽的にはアリアとレシタティーヴォをつなげたものですから、オペラと変わることはありません。もちろん、「イタリア・オペラ」ですね。歌詞はラテン語ですが。
その「4人」とは、ヴィヴァルディ、ヘンデル、ポルポラ、そしてモーツァルトです。最後のモーツァルトの「アレルヤ」こそ有名ですが、ほかの3曲は聴くのは初めて、そもそもポルポラの作品はこれが世界初録音なのだそうです。
バックはアントニーニが指揮をしているイル・ジャルディーノ・アルモニコ、ブックレットのアントニーニの写真からは、かつてのやんちゃ坊主というイメージは全く消えていて、すっかり「おっさん」になっていたのにはびっくりです。彼ももはや40代後半ですから、それ相応の風貌なのでしょうが。
しかし、最初のヴィヴァルディのイントロは、相変わらずのハイテンションで、まずは一安心、これはもう1曲目からコロラトゥーラの嵐ですから、レージネヴァにとっては聴かせどころ、心地よい高揚感とともに、完璧なテクニックを披露してくれます。レシタティーヴォを挟んで今度はかわいらしいアリアが登場しますが、こちらも魅力満載です。彼女の声はちょっと低めで、貫録のようなものまで感じられます。
ヘンデルの曲の場合は、さらに「アダルト」な雰囲気が漂います。曲の作り方はやはりヴィヴァルディより丁寧で、より深みのある趣ですね。
ポルポラになると、装飾の付け方に独特の味があることが分かります。トリルともビブラートともつかない、不思議な歌い方があちこちに出てくるのですね。このあたりも、時代の先端を行った作曲家の「企業秘密」だったのでしょうか。この3人、同じバロックの時代にあって、最後の「アレルヤ」ではそれぞれに個性を披露しているのが、面白いところです。ヴィヴァルディはひたすら生真面目に、ヘンデルは三連符を使って優雅に、ポルポラはさらに華やかに、でしょうか。
モーツァルトになると、同じイタリア・オペラであっても、作曲様式は全く変わっていることが分かります。3曲目の「Tu virginum corna」などは、まさに「古典」という落着きよう、レージネヴァは、重心の低い安定感のある歌い方で、さらにその「違い」を強調してくれています。
そして、最後の「アレルヤ」では、メリスマの頭にちょっとした「タメ」を作るなど、いかにもモーツァルトらしい表現を聴かせてくれます。それにしても、彼女のテクニックは驚異的、何しろ、後半の長いメリスマを、19小節間ノンブレスで歌いきっているのですからね。そして、エンディングはオクターブ高く歌うヴァリアントを採用、最高音の「C」(実際の音は「H」ですが)をものの見事に決めていますよ。声の質が低いので高音は苦手かな、と思っていたら、あっさりとこんな完璧な「技」を披露してくれるのですから、もう感服です。
バロック・ヴァイオリンの音にちょっと刺激が足らないのは、やはりSACDではなかったせいでしょうか。もっと個々の楽器の生々しさが聴こえれば、ソリストとオーケストラとの対決がより楽しめたのに。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

4月27日

Okihiko Sugano
Recording Collection
Amadeus Webersikne(Org)
Janos Starker(Vc),
岩崎淑(Pf)
Auréle Nicolet(Fl),
小林道夫(Pf)
宮沢明子(Pf)
AUDIO MEISTER/XRCG-30025-8(XRCD)


菅野沖彦さんというのは、ほとんど「伝説」となっているレコーディング・エンジニアの名前です。あるいは、ちょっと前までは「オーディオ評論家」として広く知られていたのではないでしょうか。4枚組のXRCD、それにしても、作曲家や演奏家ではなく、一人のエンジニアの仕事のアンソロジーなんて前代未聞です。

実は、菅野さんに関してはこんな本が、2007年に出版されています。ここでもご紹介した、クラシックの名録音を集めた本の著者、嶋護さんが作った、菅野さんのすべての録音のディスコグラフィーです。その中では菅野さんの録音の素晴らしさを実証するために、実際の「音」が付録のハイブリッドSACDに収録されています。音源はマスターテープから直接DSDにトランスファーされたもの、確かに、それを聴けばこのエンジニアが飛びぬけて優れた耳を持っていたことがはっきりとわかります。
この本が今回のXRCDを企画するうえで何らかの意味を持っていたことは明らかです。この中で「古今の無数にある録音の中でも最高峰のランクに属するもの」と持ち上げられている、シュタルケルのチェロ独奏による「パガニーニの主題による変奏曲」など、SACDのサンプルに含まれている曲が収録されているのですからね。マスタリングはもちろん「XRCDの産みの親」杉本一家さんですから、おそらく最高のものが提供されることでしょう。同じマスターテープから作られたXRCDSACDとの「真剣勝負」を、この耳で確かめることが出来るはずです。
まずは、シュタルケルが弾いたハンス・ボタームントというチェリストが作った「パガニーニ変奏曲」から聴き比べてみましょうか。驚いたことに、これは、チェロの音色自体が全く違っていました。良く聴いてみると、SACDではかなり目立って聴こえていたヒスノイズが、XRCDではずいぶん少なくなっています。杉本さんは、ノイズを軽減するような措置を取っているのでしょうか。正直、これは意外でした。こんなことをしてしまったら、菅野録音の肝心なものがなくなってしまいます。実際、ここでは演奏の勢い自体が全く変わったもののようになってしまっています。
もっと違いがはっきりしているのがウェーバージンケが演奏しているバッハの「オルゲルビュッヒライン」からの「O Mensch, bewein' dein' Sünde großBWV622です。XRCDでは、ペダルの低音がヘ音譜表の下の加線E♭以下の音が全然聴こえないのですよ。SACDでは、その3度下のCまで、これでもかというほど重低音が鳴り響いているというのに。これは、タイムコード01:5002:17付近ではっきり聴き分けられます。おそらく、これはマスタリング云々以前の問題で、使ったマスターテープが別物だったのでしょう。嶋さんの本にはそのあたりのコメントがあって、LPを作るときには製造上の理由でこの重低音はカットされていたというのですね。確かにこんな重低音は、普通のカートリッジではトレースできません。杉本さんが使ったのは、このLP用のマスターテープだったのでしょう。嶋さんは、その前のもの、録音の際に回っていた4チャンネルから2チャンネルにミックスダウンしたマスターを使ったのだそうです。
しかし、杉本さんともあろう人がこんなお粗末なことをやっていたなんて、ちょっと信じられない思いです。そもそも、XRCDにはマスタリングの日にち以外のデータは全く掲載されていませんでした。シュタルケルの場合も、嶋さんの本では「菅野さんが録音したものではない」と明言されているコダーイが収録されているのですから、この企画自体が相当いい加減なリサーチのもとに進められていたとしか思えません。
とても残念なことですが、菅野さんの録音の本質を聴きたいと思っている人は、こんなXRCDを買ってはいけません。ブックレットに嶋さんのインタビューが載っていますから、何も知らなければこれだけで信用してしまうのでしょう。極めて悪質です。

XRCD Artwork © Japan Traditional Culture Foundation

4月25日

WAGNER
Tannhäuser
Robert Dean Smith(Tannhäuser), Christian Gerhaher(Wolfram)
Nina Stemme(Elisabeth), Marina Prudenskaya(Venus)
Marek Janowski/
Rundfunkchor Berlin(by Nicolas Fink)
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
PENTATONE/PTC 5186 405(hybrid SACD)


ヤノフスキとベルリン放送交響楽団による世界初のワーグナー作品のSACDツィクルス、順調にリリースが進んで、これは第6弾となる「タンホイザー」です。仙台ニューフィルの会報ではありません(それは「カイホーゲン」)。すでに第7弾の「ラインの黄金」もリリースされていますから、きっちり今年中には全10作が出そろうことでしょう。当初は9作買った人には最後の「神々の黄昏」がプレゼントされるという権利をゲットするための「ヴァウチャー券」というものが同梱されていたのですが、これにはなぜか入っていません。どうせフォークトが歌っている「ローエングリン」は買ってませんから、全巻そろうわけがないので、どうでもいいことなのですが。
そして、前作の「トリスタン」からは、もう1ヵ所今までと違っているところがありました。それは、裏表紙にある録音方式の表示です。

このように、今まであった「DSD」のロゴの代わりに「PCM HI-RES」つまり「ハイレゾPCM」のロゴが入っているのですね。そもそもSACDとはDSDによって記録されている媒体なのですから、SACDであればすべからく「DSD」ロゴが表記される、という方が、正しい使い方なのでしょう。実際、オリジナルの録音がアナログのものでもPCMのものでも、この「DSDロゴ」は入っていますからね。そういう意味では、「ハイレゾPCMSACD」などというありえないものがここでは表記されていることになります。ですからこれは、おそらくこのレーベルとしてはオリジナルの録音フォーマットをここで表示していることになるのでしょう。額面通りに受け取れば、今まではDSDで録音していたものが、ある時点でハイレゾPCMに変わったということなのでしょう。実際、DSDで録音したものはほとんど編集ができませんから、現場ではまずPCMで録音してそれを編集、最終的にDSDのマスターを作るというのが現在の一般的なSACDの製造工程のようですね。ただ、「PCM HI-RES」ロゴがあるものは間違いなくオリジナルがハイレゾPCMということになるのでしょうが、「DSD」ロゴの場合は果たしてオリジナルフォーマットがDSDなのかどうかはわからないのですね。ですから、こんな変なロゴを入れるのではなく、BISのように録音データのところにオリジナルフォーマットを表記するというのが、最も誤解を招かないやり方なのではないでしょうか。
DSDであれ、PCMであれ、この一連のワーグナーの録音を担当しているPolyhymniaのスタッフは、彼らのかつての職場であったPHILIPSレーベルのサウンドポリシーを非常に大切にしているように見受けられます。それが、このヤノフスキが指揮をしているワーグナーとのベストマッチなのか、という点ではちょっと首をかしげざるを得ませんが、ここで登場しているベルリン放送合唱団に関しては、見事にそのソノリテが生かされているのではないでしょうか。今回から合唱指揮者がエーベルハルト・フリードリッヒからニコラス・フィンクに替わったようですが、この合唱団の柔らかく伸びやかな響きは絶品です。特に男声だけの「巡礼の合唱」などは、もしかしたらワーグナーの舞台作品としてはちょっと方向が違うのでは、と思う向きもあるかもしれませんが、音楽としてはとてつもない感動が与えられるものです。このシリーズがコンサート形式の公演だったことが、これほどの素晴らしい結果をもたらしたのでしょう。
タイトル・ロールのロバート・ディーン・スミスも、やはりコンサートのメリットを存分に生かして、最後の「ローマ語り」でベスト・コンディションになるように絶妙のペース配分を行っていました。しかし、そのために犠牲になったものは、あまりに大きすぎます。
なんと言っても光っていたのは、ゲルハーエルのヴォルフラムでしょう。こちらはそんな小細工はなしで、最初から最後まで絶妙の表現を聴かせてくれていました。もちろん、「夕星の歌」のオーケストラも、ソロアルバムの比ではありません。

SACD Artwork © PentaTone Music b.v.

4月23日

Works for the Paetzold Contrabass Recorder
Anna Petrini(Cb. Rec)
dB/dBCD143


もろ「ジャケ買い」のアルバムです。ブロンドのとても美しい女性が、なんだか木工品を口にくわえて目を向いている、という写真があまりにインパクトがあったものですから。
まず、この「木工品」は、「ペッツォルト・コントラバス・リコーダー」という、れっきとした「楽器」です。門外漢にはなじみのないものですが、すでにリコーダー、つまりブロックフレーテの関係者の間では、アンサンブルの低音用にしっかり認知されているもののようですね。日本では全音が輸入販売しているようで、こちらで見られるように、1本40万円ほどで買うことが出来るそうです。
ただ、これによく似た楽器の「パーツ」は、大昔からありました。それはパイプオルガンに使われている木管のパイプです。

リコーダーもオルガンも、発音原理は同じです。この木管パイプを見たドイツのリコーダー製作者のヨアヒム・ペッツォルトという人は、甥のヘルベルト・ペッツォルトと一緒にこのオルガンのパイプをリコーダーに応用することを考え、1975年にこの「スクエア」型のF管コントラバス・リコーダーを開発したのです。でも、普通「リコーダー」といえば木材をくりぬいて作られるものですから、このように合板を張り合わせたものは、やっぱり「木工品」、ホームセンターで板を買って来て作った夏休みの宿題みたいにしか見えません。せめて、もっときちんと塗装を施したりすれば「楽器」らしく見えるものを。
もちろん、この「楽器」は普通のアンサンブルでも使われますが、現代の作曲者たちは、これをソロ楽器、あるいは、エレクトロニクスと組み合わせて用いることで、新たなサウンドを追求しています。
そんな「楽器」に魅せられたのが、この美しい1978年生まれのスウェーデンのリコーダー奏者、アンナ・ペトリーニです。それまで普通のリコーダーを演奏していた彼女は、現代音楽のシーンでこの楽器が演奏されているのを聴いて大きな衝撃を受けたそうです。そして、彼女自身も多くの作曲家に新しい作品を委嘱して、この楽器の可能性を演奏家としてさらに追及していくことになるのです。
今回、「dB(デシベル)」という、音の強さの単位を名前にしたいかにも音の良さそうなスウェーデンのレーベルから出た、彼女の初ソロアルバムがこれです。聴く前には手を拭いて(それは「オシボリ」)。いずれもこのペッツォルト・コントラバス・リコーダーを演奏しているもので、収録されている5曲のうちの3曲が、彼女によって委嘱された作品です。
あいにく、ここに登場する5人の作曲家の名前は、全く聞いたことのないものでした。しかし、それぞれにこの楽器に抱いているイメージが異なっているのが興味深いところです。つまり、それぞれの作品が、とても同じ楽器で演奏されているとは思えないほどに、そこで展開されている世界が完全に別のものになっているのですね。一つには、ここではこの楽器が「生」で演奏されていることがほとんどないために、楽器そのものの音がほとんどイメージできない、という事態があるからです。中には、ドミニク・カルスキ(1972年生まれ)の「Superb Imposition」のように、「生」で演奏することによって、この楽器のキータッチの打楽器的な効果を知らしめるものも有りますが、おそらく、この楽器の可能性は、アンプによって音を増幅したり、エレクトロニクスによってさまざまに変調することによってこそ、大きく開かれていくものなのでしょう。
マリン・バング(1974年生まれ)の「Spril Rudder」という作品では、楽器の中にマイクを挿入して、打楽器的な側面をさらに強調していますし、マティアス・ペテルソン(1972年生まれ)の「SinewOod」では、逆に小さなスピーカーを楽器の中に入れて、そこから流れるサイン・カーブの音源が演奏者のフィンガリングやブレスによって共鳴が変化する様子をコントロールしたりと、そこには、「木工品」ならではのアイディアが満載です。

CD Artwork © dB Productions

4月21日

MERCURY LIVING PRESENCE
The Collector's Edition 2
Various Artists
MERCURY/478 5092(55 CD), 478 5256(6 LPs)


ほぼ1年前にご紹介したMERCURYCDLPボックスの続編が出ました。前回はCDが50枚でしたが、今回は1割増しの55枚のボックスです。LPは同じ6枚ですが。
なにしろCD55枚ですから、とても全部を聴くことはできません。しかも、これらはすべてにボーナス・トラックが入っていて、オリジナルのLP1枚以上のコンテンツですから、なおさらです。ですから、まずは、同時にLPで発売になったアイテムの聴き比べということになります。
もちろん、その作業はいかにLPの音が優れているか、ということを確認することにしかならないのは、聴く前から分かっていました。この日のために、ちょっと不安のあったカートリッジも新品に交換して最高のコンディションでLPを聴いたのですから、なおさらです。まず、最初に手にしたアンタール・ドラティとロンドン交響楽団の1962年録音のシェーンベルクなどのアルバムでは、最も音色的な違いが分かりそうなウェーベルンの「5つの小品」を聴き比べてみると、もうそれぞれの楽器の存在感がまるで違います。マンドリンなどはCDではまるで別の楽器のように聴こえてしまいますし、チェレスタも別物、総じてそれぞれの楽器の持つ「綾」が、きれいさっぱりなくなっています。CDだけを聴く分には、とてもスマートな音として味わえるのかもしれませんが、LPで本来の音を聴いてしまえば、それは何とも人工的な、まるで機械のような奇怪な音にしか聴こえません。
もう一つ、曲としては聴きなれているサン・サーンスの「オルガン」を、ポール・パレーとデトロイト交響楽団の1957年の録音で聴いてみました。これは、トゥッティの弦楽器の音が、LPでは集合体の中からしっかり個々の楽器の音が感じられるのに、CDでは一塊の鈍い響きにしか聴こえません。ここで使われているオルガンはそんなに重厚な音が出る楽器ではないようなのですが、CDではさらに安っぽい、まるで電子オルガンのように聴こえてしまいます。
1990年代に行われたこれらのCDのマスタリングでは、オリジナル・プロデューサーのウィルマ・コザート・ファインが自ら3チャンネルのマスターテープから2チャンネルマスターへトランスファーするためのコンソールを操作しています。ボックスに同梱されているブックレットには、その時の写真が載っていますが、脇のラックにはPCM-1630らしきものが見えます。当時は16-bitの限界はそれほど意識されてはいなかったのでしょうね。
予期せぬことでしたが、CDボックスの最後の方に、とんでもないものを見つけてしまいました。ラファエル・プヤーナという、コロムビア出身のチェンバリストのアルバムです。

これは「The Golden Age of Harpsichord Music」というアルバムですが、これ以外にも「プレイズ・バッハ」と「バロック・マスターピース」というアルバム、全3枚です。このジャケットを見ればわかるように、録音当時の1960年初頭では「チェンバロ」といえばこれしかなかった「モダンチェンバロ」が使われているものです。これは有名なプレイエルの「ランドフスカ・モデル」ですね。

このパワフルな、まるで怪物のようなモダンチェンバロの音には圧倒されます。ピアノと同じ金属フレームに張られた金属弦の音色は強靭そのもの、なんせ、曲が終わっても音がそのまま伸びているのなんて今の(というか、「昔」の)チェンバロでは考えられないことです。もしかしたら、ダンパー・ペダルも付いていたりして。これも、例のSpeakers Cornerから復刻盤が出ているのですが、こればっかりはこれ以上いい音で聴く意味が感じられません。そのジャケットがこちら。CDでは見事に写真が裏焼きになってましたね。

実は、こんな風にCD化にあたってはジャケットのデザインも変更されているのですが、中にはオリジナルとは似ても似つかないものに変わっているものもありました。一連のCD化には、「復刻」という意味合いはなく、あくまで新しいメディアでの「再生」というコンセプトだったのかもしれません。


CD & LP Artwork © Decca Music Group Limited

4月19日

BOTTESINI
Messa da Requiem
Marta Mathéu(Sop), Gemma Coma-Alabert(MS)
Agstín Prunell-Friend(Ten), Enric Martínez-Castignani(Bar)
Thomas Martin/
Joyful Company of Singers(by Peter Broadbent)
London Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.572994


久しぶりにNAXOSCDを買ったら、日本の代理店が付けた帯が変わっていました。

今まで(上)はまさに「帯」というか、Tバック・ショーツのようにほんの少ししか本体を隠していなかったものが、下のようにケース全体を覆う大きさのものになっていました。これは、もしかしたら以前ブログにこんなことを書いていたのが「担当者」の目に留まったためなのでしょうか。まあ、それはあり得ませんが。
スペースが大きくなって字が読みやすくなった分、「間違った」記述も前より目立つようになりました。一番おかしかったのはタイトルの下にある「〜による編集版」というやつです。もとは「Edited by 〜」ですからそのまま訳したのでしょうが、「編集」というと曲の長さを変えたり、曲順を入れ替えたりするような意味になってしまいますから、これは「校訂」と訳すのが正解です。あとは、スペイン系の人たちで固めたソリストの名前を、普通に英語読みにしているのも気になります。テノールの「Friend」さんは「フレンド」ではなく「フリエンド」でしょうね。
と、帯は非常に残念なのですが、CDそのものは久しぶりの「あたり」でした。コントラバス奏者で、コントラバスの独奏曲を数多く作ったイタリアの作曲家/指揮者のジョヴァンニ・ボッテジーニの「レクイエム」です。この曲は1877年に弟の死を悼むために作られました。当時ボッテジーニはカイロのオペラハウスの指揮者をしていましたが(1871年にヴェルディの「アイーダ」の世界初演を指揮しています)、当地の教会では女性が歌うことが禁じられていたので、初演の時は改訂が加えられました。完全な形での演奏は、1880年にトリノで行われています。ただ、当時の批評家たちは1874年に作られたヴェルディの「レクイエム」と比較して、この作品の価値をほとんど無視してしまったために、ほとんど1世紀の間忘れ去られてしまうことになりました。
そんな「批評家」の耳がいい加減なのは、今も同じこと、そもそも19世紀の宇野功芳たちがこの作品とヴェルディの作品とを同じ次元で論じたこと自体が大きな間違いであったことが、このCDを聴くとよく分かります。ボッテジーニが目指したのはあくまで死者を悼むための敬虔な音楽、ヴェルディのような強烈な自己主張が込められたものとは(音楽としては、それはそれで素晴らしいものです)決定的に方向性が異なっていたのですからね。
おそらく、ボッテジーニは当時の音楽ではなく、もう少し「昔」に作られた「レクイエム」をモデルにしていたのではないでしょうか。たとえばモーツァルトとか。実際、この曲の中にはそんな「古典」に回帰したイディオムがてんこ盛りであることに気づかされます。なによりも、たちどころに心をつかまれてしまう優雅なメロディには自然に気持ちがなごみます。それは、ヴェルディのような押しつけがましいところはまるで感じられない、まさにモーツァルトの世界です。
そんな音楽を聴き続けてくれば、「Sequentia」の最後の曲「Lacrimosa」には期待が高まりますが、その期待は裏切られることはありませんでした。短調の物悲しいイントロで始まったものは、親しみやすいクリシェが登場するあたりでは思わず引き込まれてしまいます。それが後半には長調に変わり、さらに優雅なメロディに支配されるのですからね。
Libera me」は、なんとア・カペラの合唱から始まります。それは、とても透明なテイストを持ったものでした。ただ、ここで歌っている合唱団が、その透明性を十分に出し切れていなかったのが惜しいところです。
指揮のトーマス・マーティンは、このレーベルでもボッテジーニのコントラバスの作品を数多く録音しているコントラバス奏者、作曲家への共感が存分に現れた美しい演奏です。ちなみに、このマーティンと合唱指揮のブロードベントなどが、この曲の楽譜の「校訂」を行っています。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

4月17日

BACH
Matthäus-Passion
Mark Padmore(Ev), Peter Harvey(Jes)
Maria Espeda, Renate Arends(Sop)
Ingeborg Danz, Barbara Kozelj(Alt)
Peter Gijsbertsen(Ten), Henk Neven(Bas)
Iván Fischer/
Netherlands Radio Choir & National Children's Choir
Royal Concertgebouw Orchestra Amsterdam
ARTHAUS/101 676(DVD)


本当はBDが欲しかったのですが、DVDしかなかったようなので、仕方なくこれを買ってしまいました(さがしかたが悪かったんです)。同じ値段でBDもしっかりリリースされてますので、お間違いのないように。ただ、音に関してはBDDVDも全く同じハイレゾ音源のはずですから、安心して聴いていられます。録音スタッフは、もちろんRCOレーベルのSACDと同じ、Polyhymniaのクルーです。
この映像は、2012年の3月30日と4月1日、つまり去年のイースターの1週間前に、コンセルトヘボウで行われた演奏会のライブです。メンゲルベルクの時代に始まったこのオーケストラのこの時期の「マタイ」の伝統は、しっかり今日まで受け継がれていたのですね。ただ、指揮者は常任指揮者のヤンソンスではなく、イヴァン・フィッシャーです。
最近の「マタイ」の映像では、ラトルとベルリン・フィルのものがショッキングでしたが、こちらにはあのような奇抜な「演出」はありません。ただ、オケや合唱の配置が独特です。これはこのオーケストラの伝統なのか、今回のフィッシャーの意向なのかは分かりませんが、コンセルトヘボウの特徴のある客席のあるステージを上手に使って、この曲の「二重合唱」という姿をきっちりと見せてくれています。

第1部の最初の曲と最後の曲しか出番のない「Soprano in ripieno」というパートは「国立児童合唱団」という団体が担当しています。この扱いがユニークで、1曲目ではなんと指揮者のすぐ前に丸くなって歌っているのです。この曲が終わると、レシタティーヴォの間にメンバーは左右の合唱団が座っている席の後ろまで歩いて行って座ります。そこで、コラールの時には大人の合唱団と一緒に歌っています。さらに、普通は出番のない第2部の終曲も、やはり一緒に歌います。もちろん全曲暗譜です。演奏もとても素晴らしく、大人と一緒になった時には、合唱全体の音色をとても穏やかなものにしてくれています。
オーケストラは、下手の第1コーラスは普通に弦楽器が前で後ろにフルートとオーボエがいるのですが、なぜか上手の第2コーラスではその管楽器が一番指揮者に近いところに座っています。普通に並ぶとコーラス間の管楽器が遠すぎて、トゥッティで演奏するときに合わせづらいからなのでは、という気がしますが、どうなのでしょう。確かに、それぞれのパートのトップは、アイコンタクトを取りやすいような気がしますが。
エヴァンゲリストのパドモアがアップになるアングルで、第1コーラスの通奏低音が必ず目に入りますが、そこではオルガン奏者とチェロ奏者が、まさにアイコンタクトを取りながらしっかりアンサンブルを作っているのがよくわかります。

ほかのカットでは、指揮者はレシタティーヴォの間はほとんど何もしていませんでした。このあたりはお任せなのでしょう。でも、大きな編成で演奏する時でも、フィッシャーは決してなにかを押し付けるような強圧的な指揮ぶりを見せるわけではなく、演奏者からいともナチュラルな音楽を引き出しています。ほんと、コンセルトヘボウの美しい響きの中で、まさに至福のひと時を過ごすことが出来ました。「Aus Liebe will mein Heiland sterben」でのエミリー・バイノンのソロは、木管の楽器(フルートは全員木管)ならではのちょっとムラのある音色から、とても深い悲しみを感じることが出来ました。1か所指がもつれたのは、彼女もこの曲に入り込んでいたせいなのでしょうか。
ヴィオラ・ダ・ガンバが前に出てソロを弾くときに、パドモアがわざわざ椅子を用意してやったりしているのは、なんともアットホームな、巧まざる「演出」でした。このガンバ奏者、東洋系の顔立ちでしたが、もしかして日本人?フレットに装飾のあるとても美しい楽器を使っていましたが、その美しさをきちんと味わうためにも、BDを買い損ねたのがとても悔やまれます。なんて書くと、奇特な方が送ってくれたりして。


DVD Artwork © Arthaus Musik GmbH

4月15日

SIBELIUS
Symphonies Nos 1 & 4
Osmo Vänskä/
Minnesota Orchestra
BIS/SACD-1996(hybrid SACD)


ヴァンスカとミネソタ管弦楽団によるシベリウスの交響曲全集は順調に制作が進んでいるようで、2011年の6月に録音された2番と5番に続いて、2012年の5月と6月に録音された第2弾、1番と4番のカップリングのSACDがリリースされました。残るは3番、6番、7番ですが、ヴァンスカが20年ほど前にラハティ交響楽団と、やはりBISに残した録音では、この3曲の演奏時間はトータルでほぼ80分、BISの場合、CDで最大8226秒まで収録した実績がありますから、恐らくこれを1枚にして、3枚組の全集が出来上がることになるのでしょうか。
「全集」というのは、なにもCDSACDに限ったものではありません。臨済宗でもありません(それは「禅宗」)。もっと曲のおおもとに迫った、一人の作曲家のすべての作品をまとめて出版しようという、「楽譜」の全集も、多くの作曲家について作られています。バッハやモーツァルトの場合は、2度にわたって全集が出版されたりしていますね。もちろん、最新の「全集」というものには、今までの楽譜をそのまま出すのではなく、それぞれの作品について自筆稿などの資料を基にして、印刷譜の誤りを正してより作曲家の意図に近いものを作るという「批判校訂」の手がかけられています。
シベリウスについても、「Urtext der Gesamtausgabe Jean Sibelius Werke(ジャン・シベリウスの作品の原典版全集)」というものが、1998年からブライトコプフ社から出版され始めています。さっきの7つの交響曲の場合、今までは1番、2番、4番はブライトコプフ、3番はロベルト・リーナウ、5番〜7番はヴィルヘルム・ハンセンと、3つの出版社から出版されていたものが、全集完成の暁にはすべてブライトコプフのものが揃うことになります。現在までに20冊ほどの楽譜が出版されていますが(最終的には50冊以上になるはず)、交響曲では1、2、3、7番の4曲が完成、そのうちの1番と2番ではポケット・スコアも出ていますから、手ごろなお値段で最新の研究の成果を確かめることが出来ます。
もちろん、指揮者の中にはすでにこれらの「全集版」を使って演奏している人もいるはずです。日本におけるシベリウス演奏の第一人者である新田ユリさんなどは、全集版を使うときでも、以前の楽譜と異なっている箇所は自筆稿などを参考にして納得のいくまで考証を行い、それを演奏に生かしているのだそうです。
ヴァンスカも、せっかく新しい「全集」(こちらは録音)を作るのですから、この「全集」(楽譜の出版)が完成して、新しいシベリウス像が明らかになってからでも遅くはないと思うのですが、そこはなかなか「商売」との兼ね合いが難しいところですね。まだ3曲も残っていますから、それが出るのを待っていたら、恐らく同じオーケストラで録音することはできなくなっているでしょうね。今回の収録曲の「1番」は、すでに2008年に全集版が出ていますから、使っている可能性はあるのですが、耳で聴いて唯一違いが分かる第1楽章の62小節目(全集版では、下図のコントラバスの「arco」の指示がなくなって、それまでのピチカートで演奏)では、確かにピチカートですが、ヴァンスカは旧録音でもすでに自筆稿通りにピチカートで演奏していましたからね。ブックレットのクレジットは「ブライトコプフ」、これだけではどちらなのかは分かりませんし。

前回同様、ヴァンスカの演奏自体は旧録音とそれほど変わっているところはありません。「1番」の颯爽たる運びは、どちらもカッコよくてしびれます。しかし、録音のスペックが16bit/44.1kHzから24bit/96kHzに変わった影響は、驚くべきものがあります。冒頭のクラリネットの超ピアニシモなどは、SACDでなければ聴けないもの、さっきのコントラバスのピチカートも、前の録音ではよっぽど集中して聴かないと分かりませんでしたが、今回ははっきり分かりますからね。
金管の輝きなども、こちらの方がワンランク上です。これから買うのだったら、こちらの方がだんぜんおススメ。

SACD Artwork © BIS Records AB

4月13日

BACH
Jonannes-Passion
Fritz Wunderlich(Ev), Dietrich Fischer-Dieskau(Jes)
Elisabeth Grümmer(Sop), Christa Ludwig(Alt)
Josef Traxel(Ten), Karl Christian Kohn(Bas)
Karl Forster/Berliner Symphoniker
Chor der St. Hedwigs-Kathedrale Berlin
EMI/0 96485 2


またまた「ヨハネ」ですが、なんせヴンダーリッヒがエヴァンゲリストですから押さえないわけにはいきません。この前の「マタイ」のような怪しげな録音ではなく、その1年前、1961年にEMIによってスタジオ(教会)で録音されたステレオ録音です。もちろん、ベームのようなカットは入っていない全曲演奏です。
何しろ、歌手にはヴンダーリッヒを始めとした重量級が揃っています。ここでは彼はアリアは歌わずにエヴァンゲリストに専念、そして、やはりレシタティーヴォでのイエスだけを歌っているのが、フィッシャー・ディースカウですからね。なんと贅沢な。女声もアルトのクリスタ・ルートヴィヒやソプラノのエリザベート・グリュンマーといった大物が参加していますから、さすがEMIです。
ただ、このジャケットを見ると、おなじみのニッパーのマークに「ELECTROLA COLLECTION」などという文字がデザインされています。EMIというのは1931年に、「イギリス・コロムビア」と「イギリス・グラモフォン(商標である"His Master's Voice"から、もっぱら"HMV"と呼ばれます)」という2つの大きなレコード会社が合併してできた会社ですが、「Electrola」というのは、HMVが以前ドイツに持っていた子会社「ドイツ・グラモフォン」がドイツの会社になってしまったために1925年に新たにベルリンに設立した会社です。EMIというのは不思議な会社で、合併した後でもかつてのそれぞれの会社のレーベルを表に出していました。そんな「伝統」が、いまだにこんな形で「ドイツEMI」の中には残っているのですね。これは、実はユニバーサルと「合併」する前にリリースされたもの、今後はこういう形のシリーズを、「親会社」はどのように扱うのか、興味があるところです。
前回のレビューのカラヤンのSACDには「おまけ」として1959年に録音された曲が入っていましたが、これはベルリンで「エレクトローラ」のスタッフによって録音されたもので、録音会場とエンジニアはこの「ヨハネ」と全く同じです。ですから、あの時にSACDで当時のエレクトローラの本来の音を聴いてしまったあとでは、このCDから聴こえてくる1992年のリマスタリングの音は、とてもひどいもののように思えてしまいます。以前は、この異様に高域を強調した音がこのレーベルの音だと思っていたものが、本当はもっとナチュラルで瑞々しいものであることを知ってしまったら、もう元に戻ることは出来ないのですね。困ったものです。
今回の「ヨハネ」の指揮は、カール・フォルスター、ここで歌っている聖ヘドヴィッヒ大聖堂合唱団の指揮者です。指揮棒を腰に差して持ってました(それは「ホルスター」)。オーケストラはベルリン交響楽団ですが、なぜかオーボエに当時はベルリン・フィルの首席奏者だったローター・コッホの名前があります。エキストラで録音に参加していたのでしょうか。ただ、この曲の場合はオーボエ・ソロのオブリガートが華々しく活躍するような場面は殆どありませんから、わざわざ来た意味があまり分かりませんが。それよりも、使っている楽譜は当然旧全集ですから、20番のテノールのアリア「Erwäge, wie sein blutgefäbter Rücken」で使われているヴィオラ・ダモーレの方が興味をそそられます(新全集では、注釈つきで弱音器付きのヴァイオリンになっています)。さらに、レシタティーヴォ・セッコでの低音が、普通はチェンバロが使われているものが、イエスの時だけオルガンが演奏されているのも、なんだか「マタイ」の雰囲気を感じさせて面白い試みです。
ヴンダーリッヒとフィッシャー・ディースカウの、とても人間的なエヴァンゲリストとイエスは、時代を超えて感動を呼ぶものでしょう。ただ、肝心の合唱は、ある特定の時代でのみバッハの受難曲に求められる合唱像として存在しえた、一つのサンプルとしての価値しかありません。

CD Artwork © EMI Music Germany GmbH & Co. KG

おとといのおやぢに会える、か。


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