聴いとるぞ!.... 佐久間學

(11/7/6-11/7/26)

Blog Version


7月26日

CRAS
Quintette pour flûte, harpe et cordes
Juliette Hurel(fl)
Marie-Pierre Langlamet(Hp)
Philille Graffin(Vn)
Miguel da Silva(Va)
Henri Demarquette(Vc)
TIMPANI/1C1179


以前合唱曲でご紹介したフランス、ブルターニュの作曲家、ジャン・クラのフルートをメインにした室内楽を集めたアルバムです。レーベルはもちろん、いまやクラのオーソリティとなった感のあるTIMPANIです。
クラシック・ファンの間では「クラ」という表記が定着しているようですが、本当は「クラーズ」という殺虫剤(それは「ハエコナーズ」…似てない)のような呼び方の方が正しいのだそうですね。まあ、そんなことを言われてもねぇ。なにしろ、いくら「ドヴォルジャーク」が正しいと言っても「ドボルザーク」はなくなりませんし、吉田ヒデカズ先生のようなえらい方が「フォーレではなくフォレだ」とおっしゃっているにもかかわらず、巷で「フォレのレクイエム」を見かけることはありません。それがクラシック・ファンというものなのですよ。
クラという人は、作曲家としてだけではなく、軍人としてもかなり高い地位にあった人でした。それだけではなく、科学技術の方面でも今に残る功績があるというのですから、すごいものです。このCDのブックレットには、彼が船室の中でピアノを弾いている写真がありますが、それはまさに彼のステイタスを象徴するもののように見えます。軍艦の中の広々とした自分専用の船室の中にグランドピアノを持ち込み、それを軍服姿で弾いている姿には、ちょっと不思議なものを見ているような気にさせられてしまいます。その写真には、アフリカの民族楽器のようなものも一緒に写っています。彼が任務で赴いた異国の地では、彼は軍人としてだけではなく、音楽家としても様々なものを吸収したのでしょうね。たしかに、彼の作品の中にはそんな非ヨーロッパのコンテンツは頻繁に聴くことが出来ます。
このアルバム、メインの五重奏曲の前に、その5人のメンバーがそれぞれ別のアンサンブルを組んで演奏する、という工夫が見られます。その最初に入っている弦楽三重奏曲が、そんな多くの要素が満載の、とても楽しい曲でした。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという、ちょっと安定感を欠く不思議な編成なのですが、それを逆手にとって生み出した緊張感も、なかなかのものです。全体の構成は古典的、というよりはさらに古風なバロックあたりの雅ささえも漂わせているものです。そんな中に、いきなりジプシー風のスケールが登場する第2楽章などは、バロックの時代に唐突にポリコードが登場するというショッキングな世界が広がって、思わず聴きいってしまいます。第3楽章では、今度は中国風の音階が、ポルタメントがかかったピチカートで演奏されますから、なんともおどけた感じが小気味よいものです。フィナーレは6/8のタランテラで、アイルランドのリバーダンス風に迫るかと思えば、中間部では一転、リズムがヘミオレに変わって中国テイストのテーマになるという楽しさです。
次は、ハープのソロ。ドビュッシー風のたゆとうような全音音階によるレントが、切れ目なく技巧的なアニメにつながるという爽快な造りですが、後半がもはやハープという楽器の能力の限界を超えているようなすさまじさを見せています。これは、演奏しているベルリン・フィルの首席奏者、ラングラメの技巧をもってしても克服は出来ないものなのでしょう。
そして、まずはハープとのデュオというスタイルで、フルートのユレルの登場です。それこそバロックの舞曲を集めたような組曲、ひたすら粋な軽さを示して欲しいところなのですが、ユレルの演奏がなにか重苦しいのが気になります。音程も少し暗めですし。ですから、全員が揃った、最後の五重奏曲は、ドビュッシーのソナタ(フルート、ハープ、ヴィオラ)を下敷きにしていながら、時折さらに自由度を増したヴァラエティは感じられるものの、フルートがあまりに沈んでいるために本来の美しさが出きっていないもどかしさが、ちょっと惜しまれます。

CD Artwork © Timpani

7月24日

MAHLER
Symphonie Nr. 2
Christiane Oelze(Sop), Michaela Schuster(MS)
Marcus Stenz/
Kartäuserkantorei Köln, Bach-Verein Köln, Figralchor Bonn
Madrigalchor und Kammerchor der Hochschule für Musik Köln
Gürzenich-Orchester Köln
OEHMS/OC 647(hybrid SACD)


こちらを見て頂ければ分かるように、このページで今まで取り上げてきたマーラーの交響曲の嗜好には、明らかな偏りが存在しています。これだけ多くのCDが紹介されている中で、「3番」や「7番」、そして「10番」は全く取り上げられてはいないのですね。正直、「3番」などは冒頭のノーテンキなファンファーレを聴いただけでどっ白け(死語:「どっちらけ」と読みます)ですし、「7番」も終楽章の、本当になにも考えていないような明るさには、到底ついていけない思いに駆られてしまいます。
逆に多いのは、実際に演奏したことのある「1番」、「5番」ですが、「9番」も演奏していたにもかかわらずちょっと少なくなっているのはトップを吹いていなかったためです。パートによって、思い入れがガラリと変わってしまうのは仕方がありません。しかし、なんと言っても多いのは「2番」でしょう。もちろん、こんな大規模な作品はとても実際に演奏できる見込みはありませんが(バンダの人数がハンパではありませんし、オルガンも入ります)、フルートパートと合唱パートがとてもおいしいので、晴れて最高位にランクされることになりました。
実際、フルート吹きにとっては、マーラーはそんなに面白いものではありません。まず、マーラーはフルートに対して明らかに偏見があることは、その使い方のいたるところで感じられます。そもそも、彼はフルートの力を正当に評価していないのには、常に腹が立っています。他の木管がソロで出てくるパッセージが、フルートになるとほとんど2本重ねて吹くようになっているのですからね。あとは、ヴァイオリンの超絶技巧で迫る難しいパッセージをユニゾンで吹かせたり、とんでもない高音が出てきたりと、そのサディスティックな扱いぶりは目に余ります。
そんな中で、この「2番」では、終楽章の後半に、フルートと、そしてピッコロによって延々と続くソリスティックな部分が設けられているのですから、それだけでも嬉しくなってしまいます。そして、それが静かに終わったところで、やおらア・カペラの合唱が登場、この見事な場面転換は、いつ聴いても鳥肌が立ちます。
その「2番」の最新の録音が、これです。2010年の1023日から27日にかけて行われたコンサートの録音を編集したものですが、指揮者のシュテンツは、その直後、11月の19日と20日にNHK交響楽団と、この同じ曲を演奏しているのですね。もちろん東京で。その模様はテレビで放映されたので見ているのですが、オーケストラがあまりにもだらしないのにがっかりしてしまいました。肝心の金管楽器が、聴かせどころでことごとく自滅していたのですね。
しかし、シュテンツの手兵、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団はそんなことはなく、どんなところでも求められる最高の音を提供してくれています。特にホルン・セクションの安定感は、見事です。それを操るシュテンツも、とても伸びやかなマーラーを聴かせてくれています。つまり、前回のユロフスキのような作為的なところがまるで感じられず、その音楽をごく自然に受け止めることが出来るのです。
そして、最後に出てくる合唱が素敵でした。たくさんの合唱団が集まっているようですが、それぞれの団体の名前から想像すると、普段は宗教曲を演奏していたり、まだ学生のような若い人が多かったりする感じがしませんか?確かに、聴いてみると音色はあくまで澄んでいて、その上ちょっとダークな面があるという、この曲にはうってつけのものでした。ソプラノとメゾのソリストが、この合唱に見合うだけの敬虔さを備えていてくれれば、言うことはなかったのですが。
でも、これだったら充分「復興支援」の役には立つはずです。

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

7月22日

Gershwin Concert
Jeffrey Siegel(Pf)
Evgeny Svetlanov
Swedish Radio Symphony Orchestra
WEITBLICK/SSS0123/0124-2


ガーシュウィンの曲ばかりによるコンサートのライブ録音、おそらく全部の曲目が収録されているのでしょう、トータル1時間38分の2枚組CDです。演奏しているのがあのスヴェトラーノフ、そしてオーケストラは彼の最晩年、1995年から2000年の間にもっとも密接な関係にあったスウェーデン放送交響楽団です。コンサートが行われたのは1996年9月のストックホルム、最初の曲は「パリのアメリカ人」ですが、「パリ」とも「アメリカ人」とも全く無縁なアーティストとロケーションになりますね。夏休みも終わってますし(それは「バケーション」)。
そう、この録音は、ロシアを代表する指揮者によるガーシュウィン、まさにミスマッチの極みではあるのですが、それが逆にガーシュウィンの思ってもみなかったような一面を教えてくれるのですから、これはなかなか得難い経験です。
スヴェトラーノフがガーシュウィンを好んで演奏したというのは有名な話ですが、おそらく彼はミュージカルやジャズの作曲家としてではなく、きちんとした「クラシック」の作曲家として、ガーシュウィンのことをとらえていたはずです。ですから、それを演奏する時には、容赦なく彼の資質をこれらの作品に注ぎ込むことになりました。「パリのアメリカ人」は、さしずめ「交響詩」としてのアプローチでしょうか。ほとんど冗談とも思えてしまう鈍くさいテンポに乗って繰り広げられるのは、パリという洗練された都市ではなく、まるでロシアの広大な大地を舞台にしたのかと思えるほどの雄大なドラマでした。圧巻は、途中で聞こえてくる、本来だったら哀愁を帯びたブルースを奏でるはずのトランペットのソロでしょう。とてつもないクレッシェンドを伴うそのトランペットは、まるで地平線の彼方から聞こえてくるような壮大な迫力を持っていました。
ピアノ協奏曲も、「ジャズ」や「ブルース」といった素材には、指揮者はなんの関心も寄せてはいないようでした。ガーシュウィンが、自費でオーケストラを雇ってまでして極めたかったオーケストレーションの極意を、スヴェトラーノフは丹念になぞろうとしています。もちろん、そこにはロシアの巨匠たちの仕事も重ね合わせられることになります。かくして、「in F」などといういかにもライト・ミュージック的な表記のあるこの曲は、チャイコフスキーにもひけをとらない立派なピアノ協奏曲として生まれ変わることが出来ました。なんたって、第1楽章が終わったところでものすごい拍手が起こるのですからね。アダージョ楽章からわき上がってくる深い情念には、思わず涙ぐんでしまいそうになります。ただ、いかんせん、ピアニストがそんな指揮者の思いを完全には受け取れていなかったことが、悔やまれます。いや、第2楽章まではよくやっていました。しかし、フィナーレになったらついいつもの軽薄なテンポが出てしまったのです。確かにこのソロは「ゆっくり」弾く方が逆に難しいのかもしれませんが、これがライブの怖さなのでしょう。もっとも、打楽器奏者などもかなり苦しそうでしたから、これは仕方がなかったのかも。
「キューバ序曲」は、軽快なカリプソのリズムに乗って、一見それまでの重さを忘れてしまいそうになりますが、やはり中間部になったら「スラブ音楽」が全開でした。確かに、これはそういう深みのある音楽だったんですね。
そして、最後を締めるのは、ロバート・ラッセル・ベネットの編曲による「ポーギーとベス」を素材にした「交響的絵画」です。オリジナルとは微妙にテイストが異なり、本来のミュージカル色が薄まっている分、スヴェトラーノフとしては思い切り歌い上げることが出来たのでしょう。「Summertime」などは、なんとも格調高い仕上がりです。「I have plenty of nothing」ではバンジョーがソロ楽器としてフィーチャーされています。それがまるでバラライカのように聞こえてくるのですから、すごいものです。

CD Artwork © Melisma Musikproduktion

7月20日

BEETHOVEN
Symphonies nos. 7 & 8
Jan Wilem de Vriend/
The Netherland Symphony Orchestra
CHALLENGE/CC72500(hybrid SACD)


デ・フリエントのベートーヴェン・ツィクルス第3弾は、「7番」と「8番」のカップリングです。ベートーヴェンの交響曲と言えば、かつては「5番」の人気が突出していたものですが、今はどういうランキングになっているのでしょうね。少なくとも、「7番」が以前ほどの低ランクに甘んじていることはなく、かなり上位に頑張っていることは間違いないはずです。なにしろ、「のだめ」以後は、この曲に対する認識がガラリと変わってしまいましたからね。
しかし、「8番」に関しては、今までにそんな晴れがましい扱いがあったことはおそらくないはずですので、相変わらず下の方のランクでウジウジしているのではないでしょうか。演奏時間も短めですから、例えば、どこかのオーケストラが演奏会の曲目を決めるような時には、この「8番」をメインプログラムに据えることはまずないはずです。かといって、いやしくもベートーヴェンの交響曲を前プロにするのもなんだかなぁ、ということで、なかなか扱いの難しい立場に立たされているのですよ。ですから、全集を演奏するような機会でもないと、なかなか日の目を見ないという、ちょっとかわいそうな境遇に甘んじているのかも知れません。
デ・フリエントとネーデルランド交響楽団のベートーヴェンは、今まで通り、ピリオド奏法を極限まで取り入れたモダン・オーケストラによって演奏されています。ですから、響きはあくまでコンパクト、フレージングもいかにも軽やかに運ばれています。そんな中では、「7番」のリズミックな一面はより軽快に伝わってくることになり、この曲本来の身の丈にあったチャーミングな仕上がりとなっています。木管楽器はソリスティックな部分でもしっかり弦楽器に寄り添っているのに対して、ピリオド楽器をそのまま使った金管はなんとも刺激的な音色で迫るものですから(特に、スケルツォのトリオでのホルンのゲシュトップ)、その対比はちょっとユーモラスに聞こえたりもします。「のだめ」でこの曲を知った人などは、多分全くイメージが覆されてしまうことでしょう。
おそらく、そういうシチュエーションで演奏される時、「8番」は普通のモダン・オケで演奏される時とは全く別の顔を見せてくれることを、デ・フリエントは明らかにしたかったのではないでしょうか。ここでは、あたかも彼がこの曲につきまとう「軽い」イメージを払拭するために全力を尽くしているかのように感じられてしまうのです。
そもそもこの曲は、序奏なしでいきなりメインテーマから曲が始まるという、「5番」や「6番」と同じような明快なオープニングを持っているのですが、そのテーマの最初の4小節が、なんとも粋なフレージングで歌われていることに、聴くものは軽いショックを受けるはずです。指揮者は、たったこれだけのことで、まずこの曲のイメージをガラリと変えてしまうことに成功しているのですね。ここで、このテーマのきっちりとした提示を聴いた後では、普通は冗漫だとされているその後の展開が、なんとも味のある確かな意味を持つことにも気づくはずです。今まで単なる「つなぎ」にしか聴こえなかったものが、実は恐ろしいほどの説得力を持って音楽全体の「力」となっていたのですね。
そんな、しっかりとしたフォルムを備えていることを確認したあとで、あのフィナーレでのしつこすぎるエンディングのアコードの連打を体験すると、それは間違いなく次の交響曲への準備が整ったことへの高らかな宣言に聴こえることでしょう。そう、ベートーヴェンはこの曲を作る時に、後に「第9」で見せることになる前衛的な手法を、あらかじめ模索していたのではないか、そんな思いさえ、この刺激的な演奏を聴く時にはよぎってくるのです。木を切ったりはしませんが(それは「与作」)。
ですから、続く「第9」がどんな仕上がりか、とても楽しみですね。

SACD Artwork © Challenge Records Int.

7月18日

BRAHMS, REGER, BRUCKNER
Motets
Voces8
MIRARE/MIR 154


今年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」は、大震災の影響で、その開催を巡ってはなんとも醜い姿をさらけ出していたものです。結局、東京でのこのイベントは大幅に規模を縮小して開催されることになったようですが、それが果たして正しいことであったのかという判断は、断じて主催者にまかせるべきものではありません。
そんな中で、初来日となったイギリスのア・カペラ・グループ「ヴォーチェス8」は、あちこちで高い評価を受けていたようですね。今年のアーティストの中ではベストだ、みたいな言い方をされたりもしていましたから、よっぽど素晴らしいライブだったのでしょう。実は、その頃には、その数か月前に「本場」ナントで開催されていた「ラ・フォル・ジュルネ」で彼らが演奏していたもののライブ録音であるこのアルバムも、すでに日本には届いていたのですね。曲目は日本でのものと全く同じ、ブラームス、レーガー、そしてブルックナーのア・カペラのモテットです。ですから、日本でのコンサートには、新幹線が止まっていたので聴きに行くことが出来なかった(いや、そもそも聴きに行く気などありませんでしたが)東北地方の人でも、このCDさえあればMCも含めたワンステージ分のパフォーマンスが丸ごと体験できたことになります。もっとも、「丸ごと」とは言ってもほんの40分足らずの長さしかありませんが。
40分しか入っていないCDなどは、フツーは「ミニアルバム」、あるいは「マキシシングル」という呼び方をされて、価格もそれなりにミドプライスの扱いをされているものなのですが、これはしっかりフルプライスの設定になっています。ですから、その分「豪華」なブックレットでもついているのかなと思いきや、それは1枚の紙切れを折っただけのものでしかありませんでした。そこには、ナントでのコンサートらしき写真はあるものの、なんと(ああ!)メンバーの名前すら掲載されてはいません。ですから、このジャケットの写真の左端にいる、ちょっとシャナン・ドハーティ似のアンドレアが、その裏のライブの写真では全く別人のように見えてしまっても、確認するすべがないのですよね。
というのも、前にSIGNUMから出ていたアルバムと比べると、ライブだというハンディを差し引いてもあまりにも演奏が練れてないものですから、もしかしてエキストラが入っていたのでは、と勘繰ってしまったのですよ。層の厚いイギリスの合唱界では充分にありうることですからね。特にソプラノのヘンなビブラートは、前のアルバムでは決して見られなかったものでしたし。
まあ、そんな瑕疵は買ってから分かったことなのですが、そもそもはブルックナーのモテットが入っていたので聴いてみたいと思いました。前のアルバムのレベルだったら、こういう少人数で歌われるブルックナーもなかなか面白いものに仕上がっているのでは、という期待があったからです。
しかし、そのブルックナーは失望以外の何物でもありませんでした。ライブならではの、お客さんを前にした時のテンションなのでしょうか、彼らの演奏はあまりにも「サービス精神」に溢れすぎているのですね。ブラームスあたりではギリギリ許されるものなのかもしれませんが、それをブルックナーでやられてしまうと、もう、それはブルックナーではなくなってしまいます。というか、そういう演奏を聴いて初めて、この作曲家がいかにくそまじめに音楽に向かい合っていたかが実感として分かってくるというか。
まあ、フランス語でMCをやったり、そんな中で一人だけ「ワタシ、ふらんすゴ、シャベレマセーン」と開き直ったりと、楽しさから言ったらそれはもう満足度は全開です。でも、肝心の演奏がこれでは、なんにもなりません。

CD Artwork © Mirare

7月16日

クラシック名録音106究極ガイド
嶋護著
ステレオサウンド刊(
SS選書)
ISBN978-4-88073-259-6

オーディオ評論家の嶋護さんが、ご自身のコレクションの中から「名録音」と誰にでも推薦できる106枚のレコードを集めた、見ているだけで楽しくなってくるような本です。画像でも分かるように、まず表紙には20枚の「レーベル」の写真がデザインされています。これと同じレイアウトで裏表紙にもやはり20枚分の「レーベル」を見ることができます。あ、念のため、「レーベル」という言葉は、ここにあるようなレコードの真ん中の部分の表と裏に貼り付けられた「ラベル」のことを指し示すもので、それが転じて「レコード会社」を意味するものになったのだ、というは、今では常識になっています。
これが本文になると、それぞれのレコードに1ページ半ずつを与えて、ジャケットの表と裏の写真が紹介されることになります。「表」はともかく、「裏」、つまり「ライナー」にあたる部分まできちんと見せてもらえるのには、とても嬉しくなってしまいます。これは、「物」としてのLPレコードを懐かしむとともに、もしかしたらそこに記載されてある「ライナーノーツ」の文章まで読むことが出来るほどの解像度で印刷されていますから、文字情報としての価値まで付加されているのですから。
「レーベル」だの「ジャケット」だのと、もっぱら現在では本来の意味ではもはやほとんど死語と化している言葉を羅列してきましたが、ここで「名録音」として選ばれている106点の中身は、105点までが、その様な言葉が属性としてついて回る「LPレコード」であるという事実に、ショックを受ける人は少なくないはずです。もちろん、それらは全てアナログ録音によって磁気テープに保存された音源ばかり、デジタル録音によるCDなどは、わずか1点しか含まれていません。これが何を意味するのか、それは、著者がそれぞれの「レコード」について述べている、コメントを詳細に読んでいけば、自ずと分かってくることでしょう。
著者である嶋さんの名前は、普段はオーディオ雑誌をきちんと読んだりはしませんから、初めて知りました。と思っていたら、実際はショルティの「リング」が全曲SACDされた時に、その豪華なボックスに添付されていた解説書の中で目にしていたのですね。そこで彼が書いていたのは、それまでは漠然としたイメージしかなかったDECCAの録音チームがとっていたマイクアレンジなどの技法の詳細でした。こんなに具体的なレポートを日本語で読んだのは、これが初めて、なにしろそこでは、ゴードン・パリーが使用した録音用のテープのことまで(新しい製品には問題があったので、使用済みの以前のテープをかき集めて、消磁して使ったとか)事細かに述べられていたのですからね。
そんな嶋さんの知識は、この本の中でも遺憾なく発揮されています。それぞれの録音にマイクが何本、どんな配置で使われたか、などということが、まるで見てきたようにリアルに語られているのには、驚かされます。そして、なによりも素晴らしいのは、彼が取り上げたレコードの録音を語る時の語彙の豊富さです。そこからは、そんなにすごいものなら、ぜひ聴いてみたいものだと確実に思わせる「力」が感じられます。それは、あまりに言葉遣いが巧みなため、意味が分からなくなってしまうという文章の欠点を補ってあまりあるものでした。
さいわい、この中には何枚か手元にあるものも含まれていますから、実際に彼が味わった「感動」を共有することは可能です。しかし、それは多くの読者にとってはまず不可能なはず、もし、これらのLPの中で現在CDSACDとして入手できるもののリスト、そして、それがオリジナルとはどの程度の隔たりがあるのか、もしくはないのか、といったデータがありさえすれば、この本が単なるノスタルジックな自己満足だけに終わってしまうという残念なことにはならなかったはずです。

Book Artwork © Stereo Sound Publishing Inc.

7月14日

MIYOSHI
Psaume, Requiem
小林研一郎、岩城宏之/
日本プロ合唱団連合
東京都交響楽団、
NHK交響楽団
NAXOS/NYNG 001

NAXOSの日本法人ナクソス・ジャパンが、鳴り物入りで新しい企画をスタートさせたそうです。それは、ちょっと前の日本人の作曲家の作品をシリーズで出す、というものです。そんなものは、もう何年も前からやっていたではないか、という声が聞こえてきそうですが、これはその「日本作曲家選輯」とは全く別の企画のようでした。そもそも、「選輯」の方は、スタート当初こそ日本人作曲家の一大アンソロジーを構築するような大風呂敷を広げていたものの、次第に尻つぼみになって行き、いつの間にか消滅していましたね。なんと言っても、すべてを新録音で構成するというのは、今の時代、ちょっと無理があったのかもしれませんし、そもそも、この企画の中枢を担っていたライターがやる気をなくしてしまったのでは、致し方ありません。
その代わり、ということで始まったのが、NHKの大昔の音源をそのまま使う、という、いわば「他人の褌」によるこの企画です。ここで重要なのは、「選輯」がもう終わったのだ、ということには一言も触れていないという点です。まるで昨今の天気予報のように、「梅雨が明けました」と宣言するのではなく、「梅雨が明けたとみられます」というあいまいな言い方で、どのようにでも受け取れるようにするのと同じことなのでしょう。
NHK『現代の音楽』アーカイブシリーズ」と銘打たれたこの新シリーズには、その名の通り、NHK-FMで今でも放送が続いている「現代音楽」専門のプログラムの音源が使われています。たしかに、ある意味「現代音楽」が最も輝いていた1970年代には、この番組はまさにそんなムーブメントの牽引者のような役割を果たしていたものでした。そのために、NHKが実際に演奏会場に赴いて収録した膨大な音源は、今となってはまるで宝物のような貴重な輝きを放っているものばかりです。それを、まさに「濡れ手に粟」状態でCD化しようというのですから、これほど虫の良い話はありません。価格設定も、「選輯」は1000円台で買えたものが、こちらは税込2100円ですって。その言い訳であるかのように、「高品質CD」であることを声高に叫んでいますが、そこまで言うのならなぜSACDにしなかったのでしょうか。先日の「慈善コンサート」はちゃんとSACDになっていますし、これだってアナログ音源から一度DSDに変換しているのですからね。フルトヴェングラーだって、同じようなNHK音源のムラヴィンスキーやクリュイタンスだって、SACDで出るのが当たり前の時代だというのに。
もう一つ、「慈善コンサート」と同じように「豪華」デジパックが採用されて、見るからに高級感あふれる装丁なのですが、普通のデジパックにはCDトレイのまわりに4ヶ所の凹みがあるものが(写真左)、ここには1ヶ所しかないのですよ(写真右)。これが、実際にCDを取り出すことなど想定していないのでは、と思えるほど使いづらいのですね。凹みが1ヶ所では、片手でCDを取り出すことは出来ないという初歩的なことにも気づかなかった欠陥デザインです。見た目だけを気取って肝心の機能をおろそかにしているこのメーカーは、もはやCDを消費者に届けるという基本的な仕事すら放棄してしまっているのでしょうか。

三善晃の「詩篇」と「レクイエム」という、エポック・メイキングな作品の初演のライブ、「レクイエム」は1972年の録音なのにモノラルだということに驚かされます。しかし、そこからは、まさに初演ならではの意気込みがまざまざと伝わってきます。それは、合唱の未熟さも含めて、今の時代では決して得られないものです。そんな「空気」を実際に体験したであろう諸石幸生さんのライナーノーツの3つ目の段落で、プロにあるまじき文章上の誤りが見受けられます。こんなイージー・ミスすら校正できなかったこのメーカーの投げやりな態度は、いったいどのように受け止めればいいのでしょうか。

CD Artwork © Naxos Japan, Inc.

7月12日

Benefizkonzert für die Erdbebenopfer in Japan
A. Kampe(Sop), L. Braun(Alt), K. F. Vogt(Ten), M. Volle(Bas)
Zubin Mehta/
Bayerisches Staatsorchester und Chor
Die Münchner Philharmoniker und Chor
Symphonieorchester und Chor des Bayerischen Rundfunks
NAXOS/NYCC 27265(hybrid SACD)


2011年5月2日にミュンヘンで開催されたのは「日本の地震犠牲者のための慈善演奏会」というのが、正式なタイトルだったのだそうですが、そのライブ録音がSACDになった時には「復興支援演奏会inミュンヘン」という言い方に改竄されていました。確かに、今の日本で「慈善」などという「上から目線」(しかし、いやな言葉ですね)の言葉を使ったりすれば、それだけで袋だたきに遭ってしまうことでしょう。それにしても、ドイツ語では「犠牲者」は「Opfer」なんですね。「捧げもの」とか「生け贄」という意味の「犠牲」なのでしょうから、これが明らかになれば○本元大臣以上に被災者の神経を逆なでするのは必至です。
このジャケットは、その演奏会のポスターをそのままデザインしたものなのだそうです。「日の丸」を「涙」に見立てたのでしょうかね。まあ、これも無神経といえば無神経なやり方です。日本の「国旗」をなんだと思っているのでしょう(笑)。というより、これは涙というよりは「桃」に見えてしょうがないのですが。津波は鬼ヶ島に鬼退治に来た桃太郎だなどと、○原東京都知事のようなことを言われているような感じがして、怒り出す人がいるのではないかと心配になってきます。
そのぐらい、おおざっぱな人たちが考えた演奏会ですから、そこでベートーヴェンの「第9」のような、こういう場面にはもっともふさわしくない作品が演奏されたとしても、それほど驚く必要はありません。要は、そんな場で集められた1,500万円が、義捐金として届けられた、という事実が重要なのですから。
この演奏会では、ミュンヘンで活躍している3つの世界的なオーケストラが合同演奏を行っている、というのが目玉になっています。しかし、だからと言ってオーケストラが3つなんて、さぞやステージの上は窮屈だったのでは、と思うのは全くの見当はずれです。ジャケットの中にある写真によれば、会場であるミュンヘンのガスタイク・ホールで演奏しているのは、ごく普通のサイズのオーケストラ、つまり「1個分」の人数しかいない編成なのですから。弦楽器は16型でしょうし、こういう「お祭り」によくある「倍管」という管楽器の倍増措置も行われてはいません。あくまで演奏は水増しのないきちんとしたものを聴かせたい、という思いのあらわれなのでしょうか。でも、やっぱり「3つ」と言っておいてこれでは、ちょっと騙された気分になる人もいるかも知れませんね。変なところでケチったものです。
ですから、この録音を行ったバイエルン放送のレーベルを扱っている関係で、せっかく「日本国内限定リリース」を任されたナクソス・ジャパンとしては、ぜひともオーケストラのメンバーのリストを作るべきだったのでは、と思います。特に、木管楽器では出身オケの分布がどうなっているのかが、非常に興味がわくところですからね。なにしろ、いくら同じ街のオーケストラ同士と言っても、実際に「合同」で演奏する機会などは殆どないのでしょうから、木管のアンサンブルなどは細かいところで微妙に「合ってない」ところが見られるのですね。スケルツォのトリオのように、それが逆に面白い緊張感を生んでたりするものですから、その「実体」をじったい(絶対)知りたいな、と。
もしかしたら、パート譜などもそれぞれのオーケストラから持ってきたのでは、などと思えるところもありますよ。メータは基本的に「昔の」ブライトコプフ版を使っているようなのですが、ファゴットだけはベーレンライター版にしかないような譜割りで吹いていたりしますからね。マーチのイントロでコントラファゴットが1オクターブ下の「変ロ」を出しているのにも、驚かされます。なんせSACDですから、細かいところがよく聴こえるのですよ。

SACD Artwork © Naxos Japan, Inc.

7月10日

BACH
Messe h-Moll
Trine Wilsberg Lund(Sop), Fredrika Brillembourg(Alt)
Carsten Süß(Ten), Raimund Nolte(Bas)
Joshard Daus/
EuropaChorAkademie
Stuttgarter Kammerorchester
GLOR/GC10311


例えばバッハの「ロ短調ミサ」全曲をアマチュアの合唱団が演奏するなどというのは、少し前まではとても大変なことでした。もちろん、ピアノ伴奏などでごまかしたりしない、ちゃんとしたオーケストラを使っての演奏、ということですがね。オーケストラだけでなく、ソリストも呼ばなければなりませんからお金がかかりますし、なんと言っても合唱パートは、もしかしたら「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」には比べものにならないぐらい大変なものなのではないでしょうか。ま、逆に考えれば、それだけ合唱団としてのやりがいのある曲であることにもなります。
そんな大変な曲を、なぜかこの近辺の街のアマチュア合唱団が、毎年のように取り上げているのは、なにかの偶然なのでしょうか。去年は、あのヘルムート・リリンクを迎えて、仙台のS合唱団が演奏しましたし、今年はもう少しすると北部の旧中新田町で、地元の合唱団の連合体が、やはり地元の合唱専門の指揮者による演奏を行うはずです。さらに、来年には、仙台の「日本一」の合唱団が、「日本一」の合唱指揮者の下でこの「ロ短調」を演奏する予定だと聞いています。確か、今年と来年の分は「なんとか記念」みたいな、節目に合わせた重要な演奏会だったような気がします。そのような、思いきり力の入った催しですから、合唱団の人数はおそらく100人近くのスケールになるのでしょうね。もっとも、それにはオーケストラやソリストのギャラを賄うために頭数をそろえる、という意味合いもあるのでしょうね。これはアマチュアの宿命ですから、仕方のないことです。
CDの世界では、「ロ短調」に限らずバッハの作品はごく少人数の合唱で演奏するという流れがほぼ固まっているかに見えます。もちろん、その究極の形は各パートを一人ずつで歌う、というリフキンが唱えた「説」になるわけで、この世界ではもはや100人規模の合唱による演奏は「時代遅れ」(いや、正確には少人数の方が昔の時代なのでしょうが)になっているという感は否めません。
ヨスハルト・ダウスによって1997年に創設された「オイローパ・コール・アカデミー」は、その名の通り、ヨーロッパ中から集まった若いシンガーたちの教育の場でもあります。もっぱらマーラーやベルリオーズといった、大オーケストラの中での合唱パートを担う活動を日常的に行っていますので、バッハを演奏する時にも大人数で歌うというスタンスを変えることはありません。オーケストラはさすがに小編成ですが、もちろんモダン楽器を使っています。そして、ソロ歌手たちも、女声は特にピリオド唱法にこだわることのない、フツーのベル・カントです。別に巻き舌を使うわけではありませんが(それは「ベロ・カンダ」)。
そういう、今ではほとんどアマチュアの合唱団しか採用していないようなセッティングで演奏されている「ロ短調」ですが、その演奏までもが「アマチュア」であるのは、ちょっと困ったものです。いや、この合唱団は正確には「プロ」ではないのでしょうが、このように全世界で販売されているCDの中で歌うからには、そんな甘えは許されません。きちんと、ポリフォニーの綾が浮き出てくるように「Kyrie」を歌うのは「アマチュア」でも要求される最低限のスキルなのでしょうが、それすら出来ないようでは問題です。もっとも、この件に関してはダウスのとったテンポがあまりに遅すぎたため、合唱がそこまでのテンションを保てなかった、という一面もあるのでしょう。もはや、バッハをこのような遅いテンポで演奏するのには無理があることは、みんなが気づき始めています。
同じように、「Agnus Dei」のソロをビブラートたっぷりに歌うことにだって、共感できないような時代になってしまっていることにも、そろそろ気づいてもいい頃なのではないでしょうか。

CD Artwork © Glor Music Production GmbH & Co. KG

7月8日

ビートルズのビジネス戦略
武田知弘著
祥伝社刊(祥伝社新書
244
ISBN978-4-396-11244-8

40年以上前に解散、もはや4人のメンバーのうちの2人は他界し、残りの2人も今でも真摯に音楽に携わっている紳士は1人だけという状態になってしまったイギリスのバンド、「ザ・ビートルズ」ですが、彼らが残した多くの作品はいまだにごく普通に「ヒット曲」として聴かれています。つまり、彼らは間違いなく「成功した」バンドと言えるわけですね。そこで、あまたの「ビートルズ本」に、こんな「ビジネス本」的なアプローチのものまでが加わることになりました。
タイトルの通り、この本の前半では、「ビジネス」の「お手本」として、ビートルズが語られます。彼らが多くのヒット曲を作り、それを収めたレコードが途方もないセールスを上げるに至る要因を、まさに「ビジネス」としての視点から検証していこう、という、なんとも陳腐なプランなわけですね。正直、このあたりの、アーティストとしてのビートルズと、それを支えたプロデューサー、マネージャー、A&Rマンといったスタッフたちが「成功」を勝ち取るためにはどんなことをやっていたのか、そして、それを実際に「ビジネス」に「応用」する時にはどのような形になるのか、といった話は、あまりにも即物的すぎて、なんの面白みもありません。もっとも、「ビジネス書」というのはそもそもそんなものなのでしょう。今まで散々言い古されてきた彼らの成功譚も、視点が変わるとこんなにもつまらなくなるのか、という、一つの見本だとおもって、我慢して読む他はありません。
それにしても、曲を作る、という、いわば「ビジネス」にはまったくなじまない行為を、そのまま「ビジネス」に持っていくやり方は、なんとも無神経、そのために著者は、彼らの素顔をかなり自分勝手に都合のよい姿に変えたうえで、自らの論理のつじつまを合わせるというやり方を各所で披露しています。事実がそんなに単純なものであれば、誰も苦労はしません。
そこに何の脈絡もなく「ユダヤ人はなぜ商売が上手なのか」などという話題が登場する頃には、そこまでして原稿の枚数を水増ししたいのか、という怒りさえおぼえてきます。おそらく、こんな意味のない話をもってくるあたりが、「ビジネス書」の一つの手法なのかもしれませんね。
ところが、後半になって、著作権とか税金などの話になってくると、俄然話が面白くなってきます。おそらく、そこからは著者には苦手だったはずの「音楽」には触れることなく、純粋に「社会」や「経済」といった得意分野で勝負できるようになってくるからでしょう。つまり、これこそは、今まで「音楽」サイドからビートルズのことを語ってきた多くの書物では得ることのできなかったことなのかもしれません。いや、確かにそれに近いようなことは見たことはありますが、これほどまでに徹底して「ビジネス」の視点からの言及というのは、めったに見当たらないのではないでしょうか。
そう思ってみると、これは著作権ビジネスの黎明期をリアルに描いた、優れたレポートのように見えてきます。さらに、著作権や税金、そしてレコード会社との契約条項をキーワードとして、彼らの「解散」を読み解く、という手法も、なんとも斬新に思えてしまいます。彼らの作品のほとんどにクレジットされている「レノン/マッカートニー」にはどんな意味があったのか、そして、そこにはどのような思いが込められていたのか、そんなことまでたかが「ビジネス書」に教えられるとは、思ってもみませんでした。まあ、本の値段の半分ぐらいの価値はあったのではないでしょうか。
蛇足ですが、「レノン/マッカートニー」というのは、昔バカな作曲家が言っていた「J.レノン作詞、P.マッカートニー作曲」という意味ではありませんからね。

Book Artwork © Shodensha Co., Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17