また、受難曲?.... 佐久間學

(13/3/24-13/4/11)

Blog Version


4月11日

Karajan Conducts Mozart Concertos
James galway, Andreas Blau(Fl)
Lothar Koch(Ob), Karl Leister(Cl)
Günter Piesk(Fg), Fritz Helmis(Hp)
Herbert von Karajan/
Berliner Phioharmoniker
EMI/TOGE-15100/2(single layter SACD)


4月10日に発売になったEMI国内盤のシングルレイヤーSACDの最新シリーズ、カラヤン編の中の、1971年にスイスのサンモリッツで録音されたモーツァルトの協奏曲集です。オリジナルのボックスのジャケットで出るというので、迷わず買ってみました。なんたって、この中ではゴールウェイが6曲中3曲で登場しているのですからね。ソロはフルートとハープのための協奏曲だけですが、オーケストラのメンバーとして、クラリネット協奏曲と、ト長調のフルート協奏曲に参加しています。
パッケージを見ると、帯にはこれまでの「株式会社EMIミュージックジャパン」という社名に替わって「ユニバーサルミュージック合同会社」と印刷されています。ついに、この時が来たのですね。親会社のEMIがユニバーサルに買収されたのは2011年の11月のことでしたが、その後日本法人も201210月に子会社化、そして、今年の4月1日付で吸収合併されたのでした。つまり、このSACDは、EMIのクラシックとしては初めて「ユニバーサル」名義で発売された、記念すべきアイテムとなるのでしょう。とりあえずは、今までは「SACD」と言っていたものが「SA-CD」となったあたりで、「吸収合併」という事実の重みをかみしめるべきなのでしょうか。

かつて、EMIの国内盤シングルレイヤーSACD(というか、輸入盤というものは存在していません)には、ある共通した戦略のようなものがありました。それは、この規格での収録時間はLP2枚分が楽々1枚に収めてしまえるものであるにもかかわらず、あくまでオリジナルのLP通りの枚数で出すという「ポリシー」です。たとえば、演奏時間が80分を少し超えるプレヴィンの「トゥーランガリラ」などは、CDではちょっと苦しくなりますがSACDでは余裕で1枚に入ってしまいます。しかし、これをしっかり2枚組にして、当然2枚組の価格を設定するという、なんとも姑息な商法を平気で行っていたのです。
ですから、このモーツァルトが3枚組になっていても、それほど驚きはしませんでした。あくまでオリジナルのカップリングを重視するのなら、それもかまわないだろう、と。SACD1枚に、せいぜい30分ぐらいしかかからないモーツァルトの協奏曲を2曲ずつという、とてもぜいたくなカップリングですね。ところが、これには1枚目にすでに3曲も入っています。2枚目は2曲ですが、そうなると3枚目は協奏交響曲1曲だけなので、余白にオリジナルのLPにはなかった、1959年に録音された「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」他がカップリングされているではありませんか。これは一体どういうことなのでしょう。SACD2枚で収まるものを、3枚セットにするために余計なものを付けくわえるなんて。もしかしたら、こういうことが「吸収合併」の実態だったのでしょうか。こんなこと、じったい(ぜったい)許せません。
ということが分かった時点で、もうこのSACDを聴く気は失せてしまったのですが、いまさら返品もできませんから、まずは従来のCDとの音の比較です。これはもう、悲しいまでにはっきり違いが分かってしまいます。CDで聴く弦楽器の音は、「楽器」だったら必ず持っているはずの柔らかな音色がすっかりなくなって、なんとも無表情なものに変わっていたことに、いまさらながら気づかされます。
そうなってみると、今まであまり気にならなかった演奏の粗さも良く分かります。特に、ブラウがソロを吹いているフルート協奏曲では、この時はまだ22歳の若造だったブラウが、カラヤンの気まぐれな指揮にオドオドしている姿が伝わってくるほどです。すでにいくつかのオーケストラで揉まれてきたゴールウェイが、逆にカラヤンを煽っているのとは対照的。
サウンド的にはこのミシェル・グロッツの音よりも、「おまけ」のワルター・レッグが手掛けたものの方がはるかに優れているように思えてしまうのは、なぜでしょう。

SACD Artwork © EMI Classics, Universal Classics & Jazz

4月9日

MOZART
Requiem
Elin Manahan Thomas(Sop), Christine Rice(MS)
James Gilchrist(Ten), Christopher Purves(Bar)
Stephen Cleobury/
The Choir of King's College, Cambridge
Academiy of Ancient Music
THE CHOIR OF KING'S COLLEGE/KGS0002(hybrid SACD)


合唱団としては、おそらく今までのレコードのリリースでは他を寄せ付けない数を誇っていたであろう「ケンブリッジ・キングズカレッジ合唱団」が、ついにこんな自主レーベルを作ってしまいました。第1弾はキャロル集だったようですが、第2弾としてリリースされたのが、モーツァルトの「レクイエム」だったとは。
この合唱団(聖歌隊)は、1957年に音楽監督に就任したデイヴィッド・ウィルコックス以来、フィリップ・レッジャー、さらに現職のスティーヴン・クロウベリーに至るまで、EMIなどの大きなレーベルに数多くの録音を残してきましたが、なぜかこの曲だけは、公式の録音は見当たりませんでした。そんな、ありそうでなかったものが、ここに初めて登場したことになります。
さすがに、長い間待たせただけあって、これはなかなか思いのこもったアルバムになっていました。まずは、本体のSACDの他にもう1枚、普通のCDが入っていて、そちらにはクリフ・アイゼンという今各方面から注目を集めているモーツァルト学者(キングズ・カレッジの教授)が原稿を書いた1時間ほどの「オーディオ・ドキュメント」が入っています。これを聴けば、この曲に関する最新の情報が得られるという優れものです。もちろん、すべて英語でのナレーションですから、きちんと理解するにはかなりのヒアリング能力が必要とされますが、英検やTOEICを目指している人なら、心配しなくてもええけんね。
その中では、もちろんこの曲の「修復稿」についても詳細に語られるだけではなく、わざわざこのために本体での演奏家によって録音された音源を使って、それぞれの版の違いなども実際に聴くことが出来ます。1996年に作られたというサイモン・アンドリュースによる修復稿の存在というホットな情報も知ることが出来ますよ。それだけではなく、まさに最新、2011年に作られたばかりの、1946年生まれのイギリスの作曲家マイケル・フィニスィーによる「フィニスィー版」に関するコメントまでもが、作曲者自身によって語られているのですからね。なんでも、それは、「もし、モーツァルトが現代に生きていたとしたら作ったであろう音楽」を想定して作られたものなのだとか、これは、それによく似ていても微妙に異なるコンセプト(実際は「モーツァルト時代の作曲家になりきって作った音楽」)による、ダンカン・ドゥルースの仕事よりはるかに「ラジカル」なものなのでしょう。このドキュメントでは、そのドゥルースのコメントも聴かれます。
本体では、最初に「ジュスマイヤー版」によって全曲が演奏された後に、「Lacrimosa」に続いて演奏されるはずの「アーメン・フーガ」をモーンダー版、「Sanctus」の前半をレヴィン版、「Hosanna」以降をバイヤー版、「Benedictus」をドゥルース版、終曲の「Cum sanctus tuis」をレヴィン版で演奏、さらに最後に「Lacrimosa」のフィニスィー版が演奏されています。確かに、フィニスィー版は時代を超えた様式の超ラジカルな仕上がり、これはぜひとも全曲を聴いてみたくなります。
ジュスマイヤー版の演奏も、今までこの演奏者たちに抱いていたイメージを良い意味で裏切るような「ラジカル」なものでした。それはまさに、多くの修復稿が出揃った「現代」ならではのアプローチのように感じられます。
ちょっと気になったのは、オーケストラのメンバーです。この団体にしては異様に大きな編成で、管楽器などは「倍管」になっています。ただ、実際に聴こえてくるものはそんな「ラジカル」なものではなく、ごく普通の編成のようでしたから、おそらくこれは2011年の6月と9月に2度に分けて行われたセッションで、それぞれメンバーが異なっていたということなのでしょう。その9月のセッションでは、サイモン・アンドリュース版が録音されていた、という情報もあります。これも、いずれは聴いてみたいものです。

SACD Artwork © The Choir of King's College

4月7日

STRAUSS
Elektra
Birgit Nilsson(Elektra), Regina Resnik(Klytemnestra)
Marie Collier(Chrysothemis), Tom Krause(Orest)
Georg Solti/
Vienna Philharmonic Orchestra
DECCA/SET 354-5(LP)


ネット通販サイトで新しいCDを検索していたら、なんとも懐かしいこんな「LP」の新譜が見つかりました。録音には定評のあるジョン・カルショーとゴードン・パリーのチームによるDECCA盤、さっそく注文してしまいました。最近は日本のユニバーサルが「100% Pure LP」とか言って、素材や製法にこだわった「超高音質」のLP(今まではロックやジャズだけでしたが、6月から、待望のクラシックのタイトルも登場します)を出しているぐらいですから、もはやオーディオ・マニアにとっては、LPCDの後継者とみなされているのかもしれませんね。冗談みたいな話ですが、これは紛れもない事実。もしお宅にレコードプレーヤーが健在でしたら、一度LPをかけて聴いてみてください。CDでは絶対味わえない素晴らしい音がすることに気づくはずですよ。
届いたLPは、半世紀近く前に発売されたものを忠実にコピーしたものでした。ボックスやブックレットも完全復刻、中袋まで当時と同じものなのですから、これは感激もの。すごいのは、レーベルもそのまま復刻してあるために、そこに印刷されている当時のマトリックス番号まできちんと盤面に刻印してあるということです。いったいどれだけマニアックなのか、恐ろしくなるぐらいですよ。ですから、当然品番も昔のものと同じになりますね。



ただ、これはDECCAが作ったものではなく、「Speakers Corner Records」という、15年ぐらい前からこのようにさまざまなレーベルの復刻LPを作っているドイツの会社の製品です。実はここでは、復刻品だけではなく、TACETというドイツのレーベルのものでは「新録音LP」も作っています。昔ご紹介したこちらがそうでした。現物にはどこを見ても「Speakers Corner」という文字は見当たらないのに、今回同梱してあったカタログには載っていたので、やっと正体がわかりました。
TACET盤ではちょっとスクラッチ・ノイズが気になりましたが、今回はそんなことはありませんでした。ただ、こういう仕様ですから、詳しい録音データなどは書かれていないのはしょうがありません。別なところで調べると、ウィーンのゾフィエンザールで録音が行われたのは1966年6月、9月、11月と、1967年2月、6月、プロデューサーはジョン・カルショーとクリストファー・レイバーン、エンジニアはゴードン・パリーとジェームズ・ブラウンということでした。カルショーはこの少しあとにDECCAを退社してしまいますから、このチームによる殆ど最後のオペラの録音ということになります。
有名な「指環」で見られるように、カルショーたちはオペラの録音にあたっては耳で聴いただけでもその情景が的確に伝わるように、楽器以外のSEを使ったり声をわざと歪ませて特別な音場を表現したりと、様々なアイディアを盛り込んでいました。ジャケットのDECCAロゴの下にある「SONIC STAGE」という文字は、レーベルが宣伝用に「新しい録音方式」としてでっち上げたもので、実際は今までの録音となんら変わるものではなかったのですが、「音によるステージの再現」というコンセプトはそんな思惑を超えて今でも強烈なインパクトを与えてくれます。ニルソンの突き抜けるような声はもちろんですが、レズニクの深い表現力も、そんな録音上のサポートを得て恐ろしいほどに伝わってきます。彼女の狂ったような笑い声がエコーを伴って徐々にオフになっていくあたりは、まさにLPでしか味わえない不気味さです。これをCDで聴けば、ただの子供だましにしか聴こえてはこないでしょう。
ショルティの指揮も、エキセントリックそのもの、ただでさえ異常なこの作品のテンションを、ほとんど耐えきれないほどにまで高めています。しかし、LPで聴くウィーン・フィルの音には、どんな絶叫の中にもしっとりとした優雅さがありました。それは、音楽の途中で唐突に盤面を交換しなければいけないというLPの理不尽さを補ってもあまりある、極上の魅力です。

LP Artwork © The Decca Records Company Limited

4月5日

TELEMANN
Lukas Passion(1748)
Veronika Winter(Sop), Anne Bierwirth(Alt)
Julian Podger(Ten), Clemens Heidrich, Matthias Vieweg(Bas)
Hermann Max/
Rheinische Kantorei
Das Kleine Konzert
CPO/777 601-2


この間、こんなレビューを書いたときに、テレマンの作品番号などを調べていたら、受難曲をものすごくたくさん作っていることが分かりました。ここで言う「受難曲」とは、正確には「オラトリオ風受難曲Oratorische Passion」と呼ばれるもので、似たような名前の「受難オラトリオPassionsoratorium」のことではありません。前者は聖書の福音書に書かれていることをそのままテキストにした部分を含んでいますが、後者は聖書からは離れて、自由に作られたテキストを用いている、という点が異なっています。バッハが作ったのはすべて「オラトリオ風受難曲」ですが、テレマンは、より時流に乗った「受難オラトリオ」も作っています。その最も有名なものが、バルトルト・ハインリヒ・ブロッケスの受難詩をテキストに用いた「ブロッケス受難曲」です。
「オラトリオ風受難曲」の分野では、テレマンは1722年から毎年欠かさず「マタイ」、「マルコ」、「ルカ」、「ヨハネ」の4つの福音書による新しい受難曲を1曲ずつ作り続けるというとんでもないことを成し遂げています。それが、彼が亡くなるまでの46年間に及んだというのですから、すごいものです。ですから、その間に「マタイ」と「マルコ」は12曲、「ルカ」と「ヨハネ」は11曲作ったことになります。
そんなにたくさんの受難曲ですが、実際に楽譜が残っているのはそのうちの半分ぐらいなのでしょう。さらに、録音されているものになったら、ほんの一部しかないはずです。調べてみたら、今までにCDになったものは全部で10曲程度でした。
まあ、この程度だったら、いずれ全部聴くことだって出来るかもしれません。ただ、正直「ブロッケス」を聴いた時にはあまり良い印象はありませんでした。こちらの受難曲も1曲聴いたら大体他のものも予想されてしまうかもしれませんから、わざわざ買うのもなんだなあ、と思っていたら、なぜか棚の中からこんな1748年の「ルカ受難曲」第7番(笑)が見つかったではありませんか。まだそんなに古くなっていない、2011年リリースのCDです。いつの間に買ったのでしょう。なんでも、2010年の「テレマン・フェストターゲ」でのライブ録音なのだそうです。
この、いわゆる「テレマン音楽祭」というのは、1962年から作曲家の生地マグデブルクで始められ、最近では特定のテーマを設けて2年に1回というスパンで開催されています。音楽学者との協力のもとに、世界的な演奏家によって新しいテレマン像を明らかにしようという壮大な音楽祭です。この「ルカ」も、2010年にカルステン・ランゲという人によって校訂された楽譜が使われています。
同じ「オラトリオ風受難曲」とは言っても、初めて聴いたテレマンのものは、聴き慣れたバッハのものとはかなり肌触りが異なっていました。演奏時間は1時間半程度と、バッハの「ヨハネ」ぐらいの長さなのですが、まず、肝心の聖書朗読の部分が出てくるまでに、合唱、ソプラノのアリア、ソプラノの伴奏つきレシタティーヴォ(アッコンパニャート)、コラールと、4つのナンバーが演奏されています。バッハみたいに、合唱が一つ終わるといきなり辛気臭いエヴァンゲリストのレシタティーヴォ・セッコが始まるのではなく、その前に軽やかなアリアでまず場を和ませようというサービス精神のようなものが感じられてしまいます。そう言えば、次々に登場するアリアは、なんともキャッチーなメロディを持っていますが、そのほとんどが3拍子といういわば当時のダンスビートに乗ったものであるのも、興味深いところざんす。なによりも、すべてのナンバーに聴き手のツボを押さえたポイントが感じられるというのが、ヒットメーカーならではの面目躍如といったところ、生前はもてはやされても時がたつにつれて忘れられてしまうというのも、現代のヒットメーカーに通じるところがあるのではないでしょうか。○室哲也みたいな。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

4月3日

Dvořák/Symphony No.8
Mussorgsky/Pictures from an Exhibition(orch. by Funtek)
Horia Andreescu/
Netherlande Radio Philharmonic Orchestra
ELECTRECORD/EDC 735


ムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」を、レオ・フンテクがオーケストラに編曲したものは、まだ全曲を聴いたことはありませんでした。そんな時に、ルーマニアの聞いたこともない名前の指揮者が、やはり初めて聞くルーマニアのレーベルに録音したCDが出たので、聴いてみることにしました。でも、現物を見てみたらリリースされたのは2007年と、かなり前のライブ録音(録音の時期はどこにも書いてありません)でした。オーケストラだけはオランダ放送フィルと、まずまずの有名どころなので、一安心ですが。
「展覧会」に先立って、ドヴォルジャークの8番が演奏されていました。これはなかなか、と思わせられるようなしっかり音の立った響きが心地よさを誘います。フルート・ソロも密度の高い音色で、最初のテーマを聴かせてくれていましたよ。ただ、普通は「ソーシー、レッシミッシレッシミッシ、レーシー」と、高い「レ、ミ、レ、ミ」の音のあとに少し隙間をあけるものですが(楽譜にも、休符が入ってます)、この人は「レーシミーシレーシミーシ」と全部レガートで歌っているのがユニーク。これは指揮者の指示だったのでしょうか。ただ、2回目に出てくるときはやはりこの吹き方ですが、3回目にコール・アングレ、クラリネットに続いて出てくるときには、きちんと楽譜通りに吹いていましたね。
演奏自体は、とてもドライブ感にあふれた颯爽たるものでした。オーケストラを思い切り鳴らして、へんな「タメ」を作らずに一気に最後まで運んでいくこのアンドレースクという人の芸風は、とてもチェリビダッケの教えを受けたとは思えないほどのカッコよさです。
ただ、そんな音楽の作り方は、だんだん飽きが来るのでしょうか、終わりのころには聴いていてなんだか退屈になってしまいます。いや、それはオーケストラが次第にだらしない演奏をするようになったことによって、誘発されたような気がします。ライブだから仕方がないことなのでしょうが、だんだんつまらないミスが目立ってきたり、アンサンブルに締まりがなくなったりしてくると、なんだかこの指揮者は、オーケストラのメンバーからあまり信頼されていないのではないか、というような気がしてきます。
後半の「フンテク版展覧会」になると、もしかしたら、彼らは今まで一度も演奏したことのないこの曲を、初見で演奏しているのではないか、と思えるほどのひどい演奏に変わります。ラヴェル版よりもほんの少し前に発表されたというこのフンテク版は、ラヴェルのようなチマチマした仕掛けはほとんどなく、あくまで骨太に迫ってくるようなオーケストレーションのようです。もちろん、シンセなども使いません(それは「ハイテク版」)。そこで肝心なのが全員が同じ目的をもって邁進するというトゥッティの作り方なのでしょうが、それが全然合っていないために、無駄にエネルギーが拡散してしまって塊となって聴こえてこないのですよ。さらに、この編曲の要は打楽器。シロフォンなどが非常に効果的な「隠し味」として使われているのに、それがほかの楽器とタイミングが合わなくて飛び出して聴こえてしまいますから、ただの騒々しさしか出てきません。
ソロ楽器も、なんだかやる気が全くないような無気力さを見せているところもありましたね。「ビドロ」のソロはバス・クラリネットでしょうか。ちょっと高い音域なので難しかったのかもしれませんが、とてもプロとは思えない余裕のないフレージングに終始していましたね。どこだか忘れましたが、ピッコロがとても目立つところで半音近く低い音を出していたところもありましたし。
ラヴェルがカットした「サミュエル・ゴールデンベルク」のあとの「プロムナード」がとても新鮮に感じられる魅力的なアレンジなのですが、ひどい指揮者にかかるとこんなにも雑な仕上がりになってしまうのですね。

CD Artwork © Electrecords

4月1日

SCHUBERT
Die schöne Müllerin
里井宏次/
ザ・タロー・シンガーズ
EXTON/EXCL-00094

4月になりました。新しい年度の始まりということで、異動人事などもあり何かと落ち着かない部署もあることでしょう。故吉田秀和翁のご逝去に伴って空席となっていた水戸芸術館の館長のポストには、指揮者の小澤征爾翁が就いたそうですし、その吉田翁、小澤翁ともゆかりのある桐朋学園大学という有名な音楽大学でも、4月1日付で梅津時比古さんという方が学長に就任されています。これを知って、ついにジャズマンが桐朋の学長に!と盛り上がったのですが、それは梅津和時さんでしたね。よく似たお名前ですが、こちらはサックス奏者ではなく、毎日新聞出身の音楽ジャーナリストでした。
「冬の旅」で、シューベルトのピアノ伴奏つきのこの歌曲集をすべて無伴奏混声合唱で演奏した里井宏次とザ・タロー・シンガーズが、同じコンセプトでやはりシューベルトの「Die schöne Müllerin」を録音した時には、この作品の邦題が慣れ親しんだ「美しき水車小屋の娘」ではなく、「水車屋の美しい娘」という、形容詞の位置が微妙にシフトしたものになっていました。実は、そのようなクレジットを主張したのが、ほかならぬこの梅津新学長なのです。彼はこのCDのライナーノーツを執筆、歌詞の対訳も手掛けています。その中で彼は、従来の邦題では「美しき」が、「水車小屋」にかかると考えて、そのようなこぎれいな「水車小屋」を思い浮かべるリスナーが出てくる可能性を完全に断つために、敢えてこのような訳を試みたと、熱く語っています。つまり、「水車屋」という職業は当時は差別の対象であって、その職場は決して「美しい」ものであってはならない、という主張ですね。
それは大いに理解できますが、従来の訳ではもう一つ、「美しき水車屋の娘」というのもあって、これだったらそのような誤った解釈はほとんど起こりえないような気がするのですが、どうでしょうか。建築物としての「水車小屋」だと美醜の対象になるかもしれませんが、「水車屋」という職業自体には、そのような形容詞はなじみませんからね。かつて、モーツァルトの「魔笛」を、「魔法の笛」と呼ぶことにしよう、と躍起になっていた人がいましたが、今では誰もそんなことは言いませんしね。実情には即しているのかもしれないけれど、このように日本語として「美しく」ないタイトルは、後世に残ることは決してないのです。
そんな些末なことに関わらなくとも、「冬の旅」と同じ、千原英喜によるこのぶっ飛んだ編曲を聴けば、この曲がそもそもそんなメルヘンチックなものではないことは即座に分かりそうなものです。ピアノ伴奏を忠実に合唱に置き換えるのではなく、そこに「言葉」が入った時点で、そこからはもはやサロンでピアノのまわりに集まった好事家を相手に歌を歌う、という構図は消え去ります。3曲目「Halt」の伴奏は「ザグザグザグザグ」と言っているのですよ。こんなざらついた音感からは、間違いなく疎外された若者の心情しか聴こえては来ません。
この編曲の持つ「重さ」は、メロディではなく、「語り」で歌詞を「述べる」という20世紀の音楽にはよく見られた手法が、「冬の旅」の時より頻繁に用いられていると感じられるところからも伝わってきます。あるいは、その「重さ」を、「粗さ」と置き換えて演奏していた合唱団こそが、その最大の功労者だったのかもしれません。ピッチが微妙に「暗め」なのは、いやでも不快感をそそられますし、パート間のリズムのズレも、不安感を助長するには十分すぎるものがあります。
もっと言えば、このレーベルなら簡単に出来るはずのSACD仕様にしようとはせずに、あえてCDの歪っぽい音で聴かせるというあたりにも、同じ思想を感じることはできないでしょうか。

CD Artwork © EXTON Co., Ltd.

3月30日

WAGNER
Die Feen
Alfred Reiter(Feenkönig)
Tamara Wilson(Ada), Burkhard Fritz(Arindal)
Sebastian Weigle/
Frankfurter Opern- und Museumsorchester
Chor der Oper Frankfurt(by Matthias Köhler)
OEHMS/OC 940


ワーグナー・イヤーのご利益でしょうか、普段はまず聴くことのないワーグナーが最初に完成させたオペラ「妖精」の全曲CDなどというものが発売されました。2011年にフランクフルトのアルテ・オーパーで行われたコンサート形式による演奏のライブ録音です。指揮は、2007年にバイロイトにデビュー、あのカタリーナ・ワーグナー演出の「マイスタージンガー」のプロダクションに2011年まで5年間みっちり付き合った、フランクフルト歌劇場の音楽総監督セバスティアン・ヴァイグレです。彼はすでにこのレーベルから「指環」をリリースしていますが、このような初期作品にも関心を寄せていて、2012年にはすでに「恋愛禁制」を同じようにコンサート形式で上演していますし、2013年には5月17日と20日に「リエンツィ」が予定されています。いずれ、それらもCDになるのでしょうから、楽しみですね。
このオペラを作ったのが1834年といいますから、ワーグナーはまだ21歳の「若造」でした。カルロ・ゴッツィの寓話劇「蛇女」を元にワーグナー自身が台本を書いています。もうこのころから、彼の終生のテーマとなる様々なモティーフが、その台本にはちりばめられています。その最も重要なものが「オランダ人」や「タンホイザー」に端的に現れる「救済」でしょう。なんでも、ワーグナーは、この台本を作る10年以上前から、それが頭にあったそうです(「9歳」ね)。
それはともかく、トラモント国の王子アリンダルは、狩りの途中で牝鹿に姿を変えた美しい妖精のアーダと出会い結婚して2人の子供までもうけますが、「8年間は素性を尋ねてはならない」という掟を破ったためにアーダと別れなければならなかったり、彼女を呪いさえしなければ復縁出来るという猶予まで与えてもらったのに、結局アーダが2人の子供を火中に投げ込むという幻影を見せられて、彼女を呪ったあげくに石に変えてしまうという、やはり後の「ローエングリン」や「指環」に登場する「掟」も満載です。
音楽は、それこそウェーバーあたりの「初期のドイツオペラ」の様式をそのまま取り入れた、きっちりとアッコンパニャートやアンサンブル、アリアが分かれている分かりやすいものです。第2幕あたりはかなりスペクタクルなシーンで、最後にはステージに用意された2台のスピーカーから雷鳴まで流されます。
それに比べると、最後の第3幕はもっとおちついた音楽で、なかなか楽しめます。呪いを解くためのアリンダルのアリアでしょうか、竪琴をかきならしながら(つまり、ハープの伴奏に乗って)歌われるナンバーは、まるで「タンホイザー」の「夕星の歌」みたいですし、それによってアーダが蘇るシーンなどは、「ジークフリート」でブリュンヒルデが目覚めるシーンと重なります。
とは言っても、やはり「若き日の習作」というイメージは拭い去ることはできません。これを聴くと、「オランダ人」でさえ全く別の人が作ったもののようにしか思えません。なにしろ、ワーグナー自身が、序曲だけは演奏したものの、オペラ本体を生前に上演することはなかったのですからね。その後の作品を世に出した後では、もうこれは「なかったことにしたい」と思ったとしてもおかしくないような気がします。
ブックレットでは、あらすじは英語で読めるものの、リブレットはドイツ語しかありません。せめて英訳ぐらいは載せて欲しかったものです。
この上演は5月の3日と6日というように、間に2日間の休みを入れて行われていますが、日本の代理店(NAXOS)が付けた帯には「3-6日」と、あたかも4日間連続だったような書き方になっています。アリンダル役のフリッツなどは、最後のあたりはもうスタミナがなくなってバテバテ、とてもそんな過酷なスケジュールはこなせません。些細なことですが、こんな小さなミスが、代理店の印象をいたく貶めることになるのです。

CD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

3月28日

BACH
St. John Passion
Janette Köhn(Sop), Mikael Bellini(CT)
Mikael Stenbaek(Ten), Håkan Ekenäs(Bas)
Gary Graden/
S:t Jacobs Kammarkör
REbaroque(CM:Maria Lindal)
PROPRIUS/PRCD 2065


またまた「ヨハネ」です。「もうよさね?」なんて言わないでください。なんたって今は「聖週間」ですからね。
この曲のタイトルは、もちろん福音書のタイトルでもあるわけで、それは聖人ヨハネのことです。ラテン語では「Joannes」、ドイツ語では「Johannes」と堅苦しいものが、英語になると「John」ですから、急に親しみがわいてきます。これがイタリア語だと「Giovannni」ですから、なんだか女好きみたいな気がしますね。フランス語は「Jean」、スペイン語は「Juan」ですから「ホワン」と発音します。だから、「聖ヨハネ」は「サン・ホワン(San Juan)」、宮城県に住む人にとっては、ちょうど400年前にメキシコに向けて出港した「サン・ホワン・バウティスタ」という船の名前が思い浮かぶことでしょう。
スウェーデン語でも、「ヨハネ」は「Johannes」のようですね。このCDは、ストックホルムにある聖ヤコブ教会で毎年この時期に行われているヨハネ受難曲の演奏会を、2011年にライブ録音したものです。なんでも、この教会のこの年中行事は、1945年からもう70年近くも続いているそうなのです。その時の教会のカントルは、あの有名なテノールの、セット・スヴァンホルム、そして、1949年に新しくカントルに就任したのが、先日お亡くなりになった「合唱の神様」エリック・エリクソンでした。ただ、彼の場合は非常に多忙なスケジュールだったため、25年間の任期の中で「ヨハネ」を演奏出来たのは17回だけだったそうです。
1974年からは、ステファン・ショルドがエリクソンを引き継ぎます。彼は、ドロットニングホルム・バロック・アンサンブルと共演、そして、1990年からは、ここで演奏しているゲーリー・グラーデンがカントルに就任、聖ヤコブ教会室内合唱団と一緒に演奏することになりました。最近は、やはりこの録音で聴くことのできるリバロック・アンサンブルが伴奏を担当しています。
グラーデンと聖ヤコブ教会室内合唱団と言えば、1992年に録音されたデュリュフレの「レクイエム」で素晴らしい演奏を聴かせてくれるチームとして心に残っています。北欧ならではのクリアな響きと、確かな音楽性に打ちのめされたような記憶がありました。今回、ブックレットにある指揮者の写真を比べてみたら、その当時とはまるで別人のように容姿が変わっていたのには驚いてしまいました。以前はお茶の水博士みたいなヘアスタイルだったものが、サンプラザ中野みたいな完璧なスキンヘッドになっているのですからね。
合唱団のサウンドも、デュリュフレの時よりはだいぶ変わっているようでした。まあ、曲がバッハですからなんとも言えないのですが、この合唱団の持ち味だったピュアな響きが、あまり感じられないのですね。コラールあたりでは、きちんとそんな音楽にして欲しいのに、何か物足りなさが残ります。
そうなってしまったのには、共演しているアンサンブルとの兼ね合いもあるのでしょう。マリア・リンダルがコンサート・マスターを務めるこのバンドは、変な言い方ですがかなり「現代的」なアプローチを心がけているようです。通奏低音にリュートやファゴットが入っているのですが、それがとても積極的にアンサンブルに参加してきます。リュートなどは、まるでロックバンドみたいなノリで、バリバリとリズムを刻んできますし、ファゴットによって強調された低音のラインは、この曲から一度も聴いたことのないような音色を引き出していますよ。
なんと言ってもすごいのが、最後から2番目の合唱「Ruht wohl, ihr heiligen Gebeine」の最後、普通はきちんとハ短調の和音で終わるはずなのに、ヴァイオリンが「シ〜ド」と、まるで「マタイ」の最後のように一旦不協和音を作っているのですよ。そうそう、第2部が始まる時には、先日のバット盤みたいにオルガンの演奏がありましたし。
こんなことをやられては、合唱の影が薄くなってしまっても仕方がありません。

CD Artwork © Proprius

3月27日

BACH
John Passion
Joanne Lunn(Sop), Clare Wilkinson(Alt)
Nicholas Mulroy(Ten), Matthew Brook(Bas)
John Butt/
Dunedin Consort
University of Glasgow Chapel Choir(by J. Grossmith)
LINN/CKD 419(hybrid SACD)


一筋縄ではいかない版を取り上げるのが好きなジョン・バット率いるダンディン・コンソート(正確には「ダニーデン・コンソート」と表記されるようだに)が、バッハの「ヨハネ」を演奏すると、こんなことになりました。ご存知のように、この曲はバッハが教会で典礼の「一部」として作ったものですから、現在のように「受難曲」だけを単独で演奏することはあり得ませんでした。そこで、その典礼のすべてを聴いてもらおうとこんな録音を作ってしまったのですね。
まず、教会に集まった人たちは、オープニングにオルガンでコラール・プレリュードが演奏されるのを聴きます。そのあとは、席から立ち上がって、今演奏されたオルガン曲で使われたコラールを、全員で歌います。さらにもう1曲オルガンの演奏があって、やおら「ヨハネ」の第1部が始まるのです(この部分はかなりショッキング)。
それが終わったところで、「お説教」です。ただし、この部分はSACDには入ってません。聴きたい人は、無料でダウンロードしてくれ、ということですね。たしかに、これは妥当な措置でしょう。長〜いお説教が終わって、やっと「第2部」が始まります。
もちろん、「ヨハネ」が終わってもそのまま帰るわけにはいかず、さらにひとくさりオルガン演奏やらコラールの斉唱があって、やっとこの典礼が終了するのですね。なかなか大変です。ここでは、教会にいる会衆が全員でコラールを歌う様子を再現するために、ダンディン・コンソート以外にもう一つの聖歌隊と、さらに、50人ほどのアマチュアの合唱団員を集めて、「全員合唱」を聴かせてくれます。
そんな、バッハの時代にタイムスリップして典礼を体験してみましょう、みたいな企画には、バットならではの明確なタイム・ポイントがありました。それは、「1739年の聖金曜日」です。実はこの年、バッハは彼にとっては4度目となる「ヨハネ」の上演に向けて、楽譜の改訂に余念がありませんでした。ところが、新しい五線紙を前に、今まで演奏してきたこの曲の細かいところを直す作業に励んでいるところに、ライプツィヒ市当局から「上演を中止せよ」というお達しがあったため、10番のレシタティーヴォまで清書した時点で、スコア作りの作業をやめてしまうのです。もちろん、この年に「ヨハネ」は演奏されてはいません。もしかしたらバットは、バッハに成り代わって「もし、実際に上演されていたら、その典礼はこんな風になったであろう」という観点で、この復元作業を行ったのかもしれませんね。
ですから、ここでバットは、その未完に終わってしまったスコアを仕上げるという仕事も、バッハから引き継いだことになります。当然、それは現在最もよく用いられている「新バッハ全集」とは、微妙なところで異なったものになっています。具体的には、まず、19番のバスのアリオーソ「Betrachte, meine Seel」と20番のテノールのアリア「Erwäge, wie sein blutgefäbter Rücken」の楽器編成が、第1稿に準拠した新全集で使われていたヴィオラ・ダモーレやリュートではなく、それ以降の演奏で使われた弱音器付きのヴァイオリンとオルガンに変わっています。さらにもう1曲、35番のソプラノのアリア「Zerfließe mein Herze」の9小節目から管楽器に付けられたスタッカートを、旧全集のような2音ずつのスラーに直しています。このスタッカートは、この後1749年に演奏する際にフルートとユニゾンで加えたヴァイオリンのためだ、という主張からです。もちろん、ここではヴァイオリンは加わっていません。

基本的に、声楽のソリストに各パート一人ずつのリピエーノを加えて合唱の部分を歌うというスタイル、最近よくある形ですが、女声パートに比べて男声のインパクトが強すぎるため、ちょっとこの曲のイメージが変わってしまっているのが気になります。コラールなどは、典礼で歌っているグラスゴーの聖歌隊の方が、気持ち良く聴けます。

SACD Artwork ©c Linn Records

3月24日

BACH
Matthäus Passion
Ernst Haefliger(Ev)
Heinz Rehfuss(Jes)
Eduard van Beinum/
Het Toonkunstkoor Amsterdam
Het Concertgebouworkest
AUDIOPHILE/APL-101.302


今年のイースターは3月31日なのだそうです。復活祭ともいわれるこのキリスト教の年中行事は、結婚相手を探すために景気を付けるお祭り(それは「婚活祭」)ではなく、イエス・キリストが磔刑の後お墓の中から甦ったという「故事」を記念するもので、この日にはよく受難曲が演奏されます。今から55年前、1958年のイースターは4月6日でしたが、オランダのアムステルダムにあるコンセルトヘボウでは、その1週間前の3月30日にバッハの「マタイ受難曲」が演奏されました。その模様は、午後0時から4時15分までの間に、ラジオで生放送されています。
その時の録音が、なぜか今頃になってCDとして発売されました。演奏はそのホールのオーケストラ、コンセルトヘボウ管弦楽団、指揮者はこのオーケストラの3代目の首席指揮者、エドゥアルト・ファン・ベイヌムです。このオーケストラの演奏する「マタイ」といえば、ベイヌムの前任者、メンゲルベルクの指揮によって1939年の4月2日、やはりイースターの1週間前に演奏されたものの録音が非常に有名ですね。
メンゲルベルクの録音から20年近く経っているというのに、この初出音源の音ときたら、信じられないほどのひどいものでした。ダイナミック・レンジなどは、メンゲルベルク時代とほとんど変わらないのでは、と思えるほどですし、ノイズも盛大に乗っています。最後の大合唱などは、マイクのそばで何かがぶつかるような音がかなり長い間連続して聴こえるので、邪魔でしょうがありません。もちろん、録音はモノラルです。これが、当時のオランダの放送局の技術水準だったのでしょうか。
1958年といえば、すでに世の中ではステレオ録音が始まっており、もう少しすると、ミュンヘンでやはり「マタイ」の全曲ステレオ録音が、ドイツ・グラモフォンによって敢行されることになります。この、カール・リヒターによる最初の録音と比べてみると、オランダの放送録音はとても同じ年に作られたものとは思えないほどの貧しい音です。
余談ですが、このリヒター盤のCDでも、さすがに今聴くと音が濁っているところが見られます。それを改善すると称して、2012年にPROFILからリマスター盤が出ましたが(PH12008)、これは「改善」どころか、もっとひどい音になっています。おそらく、すでにマスターテープが劣化してしまっているのでしょう。

メンゲルベルクの「マタイ」は、どっぷり「ロマンティック」の世界を引きずっているものでしたが、ベイヌムの演奏は全く別物、それこそリヒターのような当時としては「新しい」様式をしっかり持ったものです。冒頭の合唱などはリヒターより速め、現代のバッハ・シーンでも十分に通用するほどのサクサクとしたものになっていますからね。ただ、このあたりはなぜか合唱がかなりドライな歌い方に徹しているような気がします。もしかしたら、ベイヌムは意識してあまり感情を込めない歌い方を要求していたのかもしれませんね。というのも、ここで歌っているトーンキュンスト合唱団は、メンゲルベルクその人が1898年から指揮者を務めていて、毎年の「マタイ」コンサートでもすっかり彼の音楽が染み付いてしまっているところですから、そんな「癖」、言ってみればメンゲルベルクの「呪縛」を解くには、そのぐらいの荒療治が必要だったのでしょう。もちろん、オーケストラも「まっさら」の状態から仕込みなおしたのでしょうね。
そんなベイヌムの努力は、見事に報われているようでした。素っ気なかった合唱も、終わりごろにはしっかりと豊かな感情、もちろんそれはメンゲルベルク流のゆがんだものではない、時代を超えて納得のできる自然な表情が出せるようになっていましたからね。
エヴァンゲリストが、リヒター盤と同じヘフリガーだったことも重要なファクターです。イエス役のレーフスともども、素晴らしいレシタティーヴォが展開されています。これで音さえもっとよければ、余裕でリヒター盤と肩を並べることもできたのに。

CD Artwork © IMC Music Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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