尿瓶レス。.... 佐久間學

(12/3/6-12/3/24)

Blog Version


3月24日

PENDERECKI, GREENWOOD
Threnody for the Victims of Hiroshima etc.
Krzysztof Penderecki, Marek Mos/
Aukso Orchestra
NONESUCH/7559-79625-1


ペンデレツキが、自作の中でもひときわ「前衛的」とされる「広島の犠牲者のための哀歌」と「ポリモルフィア」という1960年代初期の2作品を、2011年に新たにみずから指揮をして録音したものが登場しました。とは言っても、このアルバムはそれがメインではないのが情けないところです。
これは、ジョニー・グリーンウッドという、さる地方都市の合唱団(それは、「グリーンウッド・ハーモニー」)みたいな名前の作曲家が作った、弦楽オーケストラのための「現代曲」の初録音です。聞き慣れない名前ですが、実はこの方は「クラシック」の作曲家ではなく、イギリスの有名なオルタナティブ・ロックバンド、「レディオ・ヘッド」のギタリストなのですよ。いや、たかがロック・バンドなどとバカにしてはいけません。「オルタナ」ともなればジャズやクラシック、さらには「現代音楽」までをも取り入れたスタイルというものが確立しているのですからね。
そもそも、グリーンウッドという人は、しっかりとした音楽教育を受けて「クラシック」の素養がありました。それだけではなく、初期のペンデレツキやメシアンなど、彼が生まれる前に世の中で騒がれた「現代音楽」にも、深いリスペクトを捧げていたのですね。なんたって、彼はバンドの中ではギターの他にメシアン御用達の「オンド・マルトノ」まで演奏しているのですからね。
今回は、バンドではなくしっかり弦楽オーケストラのために書き上げたスコアが演奏されています。2曲あるそれぞれが、さきほどのペンデレツキの作品としっかりリンクした作られ方をしているということで、それぞれの「元ネタ」を紹介する、という位置づけが、ここでのペンデレツキの役目なのです。それだけのために、わざわざ新録音を行ったペンデレツキって。
「広島」を下敷きにした作品が「ポップコーン・スーパーヘット・レシーバー」です。「スーパーヘット」という、辞書には載っていない言葉が登場しますが、これは「5球スーパー」という、今では知っている人の方が少ないラジオ用語の中の「スーパー」と同じ、「スーパーヘテロダイン」の略語です。つまり、そんなラジオで発生するホワイトノイズを、ペンデレツキが使ったのと同じ「弦楽器のクラスター」で表現しているのですね。ただ、それはメインではなくあくまで「効果音」的な使い方、メインはもっとキャッチーな、まるでマントヴァーニのような「カスケイディング・サウンド」だというあたりが、いかに「オルタナ」とは言っても「商業音楽」に身を置いている作曲家の資質なのでしょうか。さらに、途中からは、いきなりリズミカルな、今度は「バルトーク・ピチカート」で迫るパートも登場しますよ。
もう1曲の「ポリモルフィアへの48の答え」では、あのキューブリックの「シャイニング」のサントラでも使われた薄気味悪い趣の作品「ポリモルフィア」への、逆のベクトルのオマージュが見られます。「元ネタ」では、お約束のクラスターや、「あえぎ声」のようなヴァイオリン・ソロなど、いろいろごちゃごちゃやったあげくに、最後はハ長調のピュアな響きで終わるというサプライズが待っていましたが、こちらはハ長調のアコードを先に提示して、それを次第に「壊して」いくという、まるでニューステットの「イモータル・バッハ」のようなプランの作品です。事実、バッハのコラール風のパッセージも聴こえてきますし。
ペンデレツキへのリスペクトから生まれた曲の割には、どちらも極めてキャッチーな仕上がりになっているのはなぜなのでしょう。おそらく、グリーンウッドは「元ネタ」の前衛さの中に、既に現在の「ロマンティック」な作風の萌芽を読みとっていたのでしょう。いや、あるいは、いかに変節しようが、単にペンデレツキの全人格を受け入れられるだけの「優しさ」を持っていただけなのかもしれません。

CD Artwork © WEA International Inc.

3月22日

RAMIN
Ramin Karimloo
MASTERWORKS/88697861512


アンドリュー・ロイド=ウェッバーのミュージカル「オペラ座の怪人」が25周年を迎えた記念に行われた、ロイヤル・アルバート・ホールでの公演は、すぐさまBDDVDが発売されましたし、WOWOWでも放送されましたから、多くの人の目に触れたことでしょう。そして、それを体験した人たちは、タイトル・ロールを歌った、日本人にとっては全くの無名の新人の声に一様に魅了されてしまったのではないでしょうか。このイベントでは、アンコールとして歴代の「ファントム」役の歌手が声を競うコーナーがありましたが、その新人くんはそんな大御所たちをはるかに凌駕する素晴らしさだったのですからね。
彼の名前は、ラミン・カリムルー、イランで生まれた33歳の若者です。すでにロンドンではミュージカル・シンガーとして確固たる地位を築いている彼が、このたびなんとポップス・テイストのソロ・アルバムをリリースしました。
とりあえず、ほとんど知られてはいないカリムルーの経歴がライナーにありましたので、それをご紹介しましょう。彼がイランで生まれたのは、1979年の革命のゴタゴタの最中、まだ2ヶ月になったばかりだというのに、家族に連れられてローマ郊外の小さな町に逃げてこなければなりませんでした。さらに2年後には、彼らは今度はカナダに渡ります。そこで平穏な学校生活を送っていたカリムルーは、12歳の時に学校行事として連れていかれたミュージカル「オペラ座の怪人」を観たとたん、すっかりハマってしまいました。それまでは「オペラ」なんて大嫌いだったというのに。そこで歌われていたファントムの声に感動し、その時点で彼は将来の道を決めたのだそうです。
数年後の彼は、ロックバンドのヴォーカルなどでステージに立つようにはなったものの、生活のために工場で働いたりウェイターをやったりしている毎日でした。そのとき偶然、クルーズ船の中で公演を行うツアー・カンパニーのオーディションを受けたところ採用となってしまいます。ただし、それは「ダンサー」としての採用だったのです。ところが、2週間後にはカンパニーの歌手が突然いなくなってしまいます。そこで、彼は歌手としてステージに立つチャンスを得ることになったのです。
カンパニーはクルーズの途中でロンドンに立ち寄りますが、そこが気に入ったカリムルーは、船を降りてそのままそこで暮らすことになります。そこではやはり偶然に良い先生に巡り会え、何度もオーディションのチャンスを与えられて、ウェスト・エンドでの多くのミュージカルに出演することになりました。もちろん、「オペラ座の怪人」の舞台にも立ち、ついに夢を叶えるのです。
これはまさに「シンデレラ・ボーイ」を絵に描いたような成功譚ではないでしょうか。しかし、先日「25周年」のBDDVDのリリースを機に来日して、「劇団四季」のイベントに出演したカリムルーは、日本でのファントム役の第一人者である高井さんに会えたことを非常に喜ぶという謙虚な一面も披露してくれました。
このアルバムでは、ファントムのナンバー「Music of the Night」も歌われています。それは、高井さんのような洗練された声とは全く異なる、非常にパワフルな魅力をたたえたものでした。それでいて、高音のロングトーンなどは、誰にも真似の出来ないほどの澄んだ美しさを持っています。そこで思い出したのが、10年ほど前に騒がれたことのあるラッセル・ワトソンの声でした。彼は確か「七色の声」とか言われていたはずですが、カリムルーの場合はもっと沢山の「色」を持っていることは間違いありません。なんと言っても、彼の今後の「夢」は、ナッシュヴィルでカントリー・シンガーと共演することなのだそうですからね。確かに、アルバム中の彼の自作にはカントリーの「匂い」も感じられます。お酒の匂いじゃありませんよ(それは「サントリー」)。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

3月20日

STRAUSS, WAGNER, MAHLER
Choral Works
Peter Dijkstra/
Chor des Bayerischen Rundfunks
BR/900503


このCDの本当のタイトルは、3人の作曲家の名前だけでした。写真では、同じ作曲家のプレートがたまたま同じ順番に並んでいる、アムステルダムのコンセルトヘボウのバルコニーが写っていますが、こうするとヘボ写真でもなかなかシュールに見えます。

これと同じように、やはり3人の作曲家の名前だけがタイトルになっているア・カペラのアルバムを、以前聴いたことがありました。しかも、その3人のうちの「シュトラウス」と「ワーグナー」まで一緒だというのですから、ちょっと面白いですね。ただ、今回の「マーラー」も、そちらではボーナストラックとして収録されていたので、曲目自体はほとんどかぶっていますよ。
このアルバムは、2009年と2011年に行われたコンサートのライブ録音を、編集したものです。1978年生まれのオランダの若い合唱指揮者、ピーター・ダイクストラが、ドイツの名門合唱団、バイエルン放送合唱団の芸術監督に就任したのは2005年ですから、この録音が行われた頃には、もはやすっかりこの合唱団に馴染んできていたのでしょうね。ブックレットの写真を見ると、眼鏡をかけたりヒゲを伸ばしたりと、かつての「坊や顔」からもすっかり脱皮しています。
どちらがどの年なのかは分かりませんが、録音スタッフが曲目によってきちんと2つのグループに分かれていますから、どの曲が同じ時に録音されたものかは、分かります。それぞれ聴き比べてみると、音もかなり違っています。残響成分の取り込み方が全然違っていて片方はかなり歪みっぽいのに、もう片方はずっとすっきりした音に録れているのですね。マーラーと、シュトラウスの「夕べ」と「讃歌」が「歪み」グループ、シュトラウスの男声合唱とワーグナーが「すっきり」グループです。
まず、シュトラウスの「夕べ」という、16声部の厚ぼったい曲が「歪み」グループだったのは、つくづく不幸なことでした。冒頭から重なり合った女声が異様な「うなり」を発生させているものですから、もうそれだけで聴き続ける意欲をなくしてしまいそうになりました。さっきのクリードのCDを聴き直してみたら、女声はもっと伸びやかな響きでしたから。しかし、音はひどいものの演奏自体は、このクリード盤に比べるとずいぶん柔らかさが感じられたので、もう1度きちんと聴いてみると、確かに音楽の作り方が全く違っていることに気づきます。ダイクストラの場合は、決して力で押し切るのではなく、シュトラウス独特の絡まったパーツを、一つ一つていねいに解きほぐして、それぞれにきちんとした意味を持たせるという根気の要る作業を行っていたのですね。その結果、シュトラウスのオーケストラ作品やオペラが持っている多層的な美しさと同じものが、しっかりにじみ出してきているのです。もう一つの大曲「讃歌」も、後半に出てくるポリフォニーなどでは、特に男声パートのしなやかさが、作品に確かな魅力を与えていました。
「すっきり」グループの「リュッケルトの詩による3つの男声合唱曲」は、ですからまさに録音、演奏とも完璧な仕上がりです。前の2曲ほどの重みはないものの、男声ならではの楽しさが存分に味わえますよ。
ところが、ワーグナーやマーラーになると、同じような丹念な音楽の作り方だけではなにか足らないものを感じてしまうのですね。ある種の「いやらしさ」につながるちょっと不健康な要素が欠けているのです。ワーグナー(もちろん、クリトゥス・ゴットヴァルトの編曲です)の「温室にて」での半音進行など、もっともっとドロドロしていて欲しいものですし、マーラーの「私はこの世に捨てられて」だって、クリード盤や、もちろんベルニウス盤では確かに味わえたはずの屈折感が、まるでありません。ダイクストラくんには、無精ヒゲを生やす前にもっと別の「汚れ」を経験することが必要なのかもしれませんね。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH

3月18日

BACH
Saint John Passion
Shannon Mercer(Sop), Matthew White(Alt)
Charles Daniels(Ten/Ev), Jaques-Olivier Chartier(Ten)
Tyler Duncan(Bas), Joshya Hopkins(Bas/Jes)
Monica Huggett/
Portland Baroque Orchestra, Cappella Romana
AVIE/AV 2236


最近は「ヨハネ」の新譜で、「普通」の新全集ではなく、オリジナルの稿に立ち返った演奏が増えてきています。「新全集」というのは、ゲッティンゲン・ヨハン・セバスティアン・バッハ研究所と、ライプツィヒ・バッハ・アルヒーフによって刊行(出版はベーレンライター社)されてきた「新バッハ全集」という、ある意味最高の権威を持つ批判校訂版の楽譜のことです。
ご存じのように、「ヨハネ」の場合、バッハの生前には4回演奏されたと言われていますが、そのたびに改訂が行われていますし、3回目と4回目の間に予定されていた演奏(結局、中止になりました)のために途中まで清書された「未完のスコア」まであって、「決定稿」というものが存在していません。なにしろ、「未完のスコア」では、1曲目から10曲目までにわたって細かいところで音符の変更や小節の追加、カットなどがあったのに、4回目の演奏ではその変更は反映されず、ほぼ以前と同じ形に戻っているのですからね。
結局、この全集は、バッハの生前には演奏されたことのない「未完のスコア」をメインにまとめられました。ですから、最近になって、バッハが実際に演奏した際に用意されたはずのものを、そのままの形で演奏しようという気運が高まってきたのは、ごく自然の流れなのでしょう。
ただ、そもそもそれぞれの楽譜は個々に「○○稿」としてきちんと楽譜が存在しているわけではありません。再演の度に昔の楽譜を引っ張り出してきて、それに改訂部分を書き込んで演奏した、というのが普通のやり方だったのです。ですから、「第1稿」などは楽器編成など確定されていない部分がありますし、「第3稿」では、差し替えたソースが紛失しているために、そもそも修復は不可能な状態になっています(そーすか?)。
そんな状態ですから、中には間違った情報なども広まってしまうことがあります。樋口隆一という、バッハ研究の第一人者とされている方でさえ、自身が指揮をして録音した「第2稿」のCDの解説の中で、「『未完のスコア』を助手を使って完成させたものが『第4稿』である」などというデタラメを披露しているのですからね。
1980年代にアメリカのオレゴン州ポートランドに創設されたピリオド楽器の演奏団体「ポートランド・バロック・オーケストラ」に、1995年に前任者のトン・コープマンの後を受けて音楽監督として就任したイギリスの卓越したピリオド・ヴァイオリニスト、モニカ・ハジェットも、この作品に対して意味不明のスタンスを取っていました。一応ジャケットには「1724 version」と明記されていますから、ここでは初演の時に使われた楽譜、すなわち「第1稿」を用いているのだと、誰しもが思うことでしょう。確かに、ブックレットではこの団体のオーボエ奏者、ゴンザロ・ルイスが、この「第1稿」を復元し、2004年にオランダ・バッハ協会のオルガニストとしてその「世界初録音」に参加したピーター・ディルクセンの主張を取り入れた、と述べていますので、普通だったら、そのディルクセンが作った楽譜を使っていると思うはずです。ところが、ここで「取り入れ」られているのは、「楽器編成からフルートがなくなっている」という点だけだったのです。楽譜自体は、なんと、新バッハ全集をそのまま使っているのです。つまり、1曲目から10曲目までは「1724 version」と謳いながら、実際は1739年頃に作られ、1724年当時は影も形もなかった楽譜を演奏しているのですよ。9曲目のソプラノのアリアは、したがって、1724年の楽器編成で、1739年に8小節カットされ、1小節追加されるなど大幅に変更されたものを演奏するという、とてもみっともないことをやっていることになりますね。
ソリストとリピエーノを合わせて、1パート3人の合唱がとても美しいコラールを聴かせてくれる、爽やかさ漲る演奏だというのに、こんなつまらないミスを犯しているのが残念です。

CD Artwork © Portland Baroque Orchestra

3月16日

LLOID WEBBER
Love Never Dies
Ben Lewis(Phantom)
Anna O'Byrne(Christine)
Simon Gleeson(Raoul)
UNIVERSAL/GNXF-1432(BD)


先ごろ「25周年」を迎え、その記念公演も華々しく行われたアンドリュー・ロイド=ウェッバーの「オペラ座の怪人」の「続編」が出来たのだそうです。「オペラ座の怪人2」ではあまりに芸がないのか、「ラヴ・ネバー・ダイズ」という、納豆みたいな(それは「ネバネバ大豆」)タイトルになりました。
ロンドンで初演されたのは2010年、その時にはラミン・カリムルーとシエラ・ボッゲスという、その「25周年」の時の最強コンビがキャスティングされていました。しかし、今回収録されたのは、その翌年、オーストラリアで行われた公演の模様だったのには、ちょっとがっかりです。
いや、失望したのはキャストだけではありませんでした。それは、物語の設定から音楽まで、すべてに於いてあの名作には到底及ばないお粗末なものだったのです。
時代は、前作の10年後、「あの事件」の後、ラウルと結婚したクリスティーヌには、一人の男の子がいました。しかし、彼女の結婚生活は必ずしも幸せなものではありませんでした。ラウルはギャンブルで多額の借金を抱えていますし、なによりも息子があまり自分になついていないことにいら立ちを覚えています。そんな時、クリスティーヌにニューヨークのオペラハウスから、高額のギャラでの出演依頼が舞い込みます。破産を免れるためには他に道はないと、3人はニューヨークへ向かうのでした。
ところが、それは愛する人をラウルに奪われてしまったファントムの罠だったのです。ファントムは前作では死んではおらず、密かにマダム・ジリー親子の手引きでアメリカに渡り、今では見せ物小屋の館主として大成功を収めていたのでした。しかし、彼の創作の源はクリスティーヌ、なんとか、一目彼女に会ってその歌を聴きたい、という切ない思いを持ち続けていたのです。
しかし、彼はクリスティーヌの息子のグスタフに会うと、その音楽的な才能に驚くとともに、ある疑惑が頭をもたげます。それに答えるクリスティーヌの衝撃の告白、グスタフこそは、ファントムと交わった一夜(そんなこと、ありましたっけ?)に授かった子供だったのです。
とまあ、なんとも低次元の話が進んでいくわけです。しかし、これで驚いていてはいけません。この先にはさらに衝撃のエンディングが待っているのですからね。
もちろん、例えば「マンマ・ミーア!」のように、本当にどうしようもないストーリーのミュージカルはいくらでもありますし、オペラに至っては「魔笛」にしても、あの超大作「指環」にしても、とても普通の感覚ではついていけないものばかりですから、それほど気にすることはありません。
ただ、物語の背景となる部分の設定が、前作とは極端に異なっていることに関しては、ミュージカルとしての楽しみがかなり損なわれているのでは、という危惧があります。これは、ボーナス・トラックのインタビューで作曲者自身が「敢えて前作とは全く違う設定にした」と語っていますから、しっかりとしたコンセプトに基づくものではあったのですが、それにしても「オペラ座」から「見せ物小屋」への没落は、あまりにも落差が大き過ぎます。というより、正直このあたりのグロテスクな趣味(もちろん、キャスティングも含めて)に付いていくにはかなりの忍耐が必要になってきます。
そして、決定的なのが、音楽のつまらなさです。ロイド=ウェッバーの魅力はキャッチーなメロディ、どんな作品にでも、一度聴いただけで虜になってしまうとびっきりのナンバーがあったはずなのに、ここではそれが見あたらないのです。確かに、そこそこ盛り上がる部分はありますが、それはなにか「二番煎じ」としか感じられないものでした。
本編を凌ぐ「2」が作られることは極めて希です。ロイド=ウェッバーの才能を持ってしても、それは成し遂げられることはありませんでした。いや、そもそも才能の「枯渇」?

BD Artwork © Really Useful Group Limited

3月14日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Erin Wall(Sop), 藤村実穂子(MS)
Simon O'Neill(Ten), Mikhail Petrenko(Bas)
Kent Nagano/
OSM Chorus, Tafelmusik Chamber Choir(by Ivars Taurins)
Orchestre Symphonique de Montréal
SONY/88691919442


2002年にシャルル・デュトワが去った後のモントリオール交響楽団は、やや低迷を続けていたかに見えました。しかし、2006年にケント・ナガノを音楽監督に迎えてからは、新たな黄金期を迎えようとしています。その象徴的な出来事が、彼らのホームグラウンドであるコンサートホールの建設です。この世界的な不況の中、その様な大規模なプロジェクトは難しいオーケストラ界にあって(日本のオーサカ市では、新しい市長が就任してから、オーケストラの活動、いや、文化事業そのものへの援助が軒並み打ち切られて、オーサワギになってます)このカリスマ指揮者は、「メゾン・サンフォニク・ド・モンレアル」という、客席数2100の理想的な音楽ホールを、いともたやすく造らせてしまったのです。このCDは、昨年9月に行われたこけら落としのコンサートのライブ録音です。
ブックレットの写真では、それは見るからに音の良さそうな形をしています。いわゆる「シューボックス」タイプで、天井がかなり高く、3層のバルコニーがステージにまで伸びています。もちろん、ステージの後ろには大きなパイプオルガンが設置されていますよ。その前方の客席に、合唱団がいます。おそらく、このコンサートの模様はテレビで放送されたのでしょう、バルコニーにはクレーン・カメラが上手と下手に1台ずつ置かれています。
ただ、録音用のマイクなどは、天井からの数本のメイン・マイクしか確認できません。実際に音を聴いてみると、やはり、細部があまりくっきりとは聞こえてこない、おおざっぱな音でした(特に木管)。それと、この形のホールですから、かなりの残響があるようで、それもこのシンプルなマイク・アレンジによってそのまま伝わってきます。客席のノイズなどもかなりやかましく聴こえますから、リハーサルではなく本番のテイクが主に使われているのでしょう、最近の、きれいに仕上げたいわゆる「ライブ録音」とは一味違った正真正銘のライブ感も味わえます。演奏終了後の拍手もしっかり収録されていますし。
ナガノのベートーヴェンは、今回が初めての体験です。今までのブルックナーの録音などを聴いてきた限りでは、とても精緻な演奏という印象がありましたが、ベートーヴェンではどのようなものを聴かせてくれるのでしょう。
まず、冒頭の、それこそブルックナーのような六連符に乗って奏されるファースト・ヴァイオリンのテーマが、まるでオリジナル楽器のようなくっきりした味わいを持っていたことに驚かされます。ノン・ビブラートにもかかわらず、主張のある響き、それだけで彼のベートーヴェン象の全体がはっきり示されたような思いにさせられてしまいます。案の定、そこから繰り広げられるこの曲には、ロマンティックのかけらもない颯爽とした姿がありました。テンポもかなり速め、第2楽章などは、モダン・オーケストラの限界とも思えるほどの速さです。第3楽章も、テンポはそれほど速くはありませんが、べたべたした情感は一切ありません。終楽章はなんだかあっという間に終わってしまったような気がします。マーチなどはあまりに速すぎるのでオニールはとてもついていけてませんでしたね。普段はほとんど聴こえて来ないメゾ・ソプラノのパートがかなりはっきり聴こえたのは、さすが藤村さんです。合唱も、聴くに値するものでしたが、木管同様、奥に引っ込んでしまった録音バランスだったのが惜しまれます。
楽譜に関しては、最近の原典版による訂正をきちんと考慮した上での、既存版の使用だったようです。ただ、新機軸として今までにリリースされたベートーヴェンと同様、なにかテキストによる注釈のようなものが入っていますが、こういう押し付けは、正直苦手です。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

3月12日

MOZART
Piano Concertos Nos. 20 & 21
Arthur Schoonderwoerd(Fortepiano)
Cristofori
ACCENT/ACC 24265


アルテュール・スホーンデルヴルトという、一度言われただけでは絶対に頭に入らない名前のオランダのフォルテピアノ奏者は、数年前ベートーヴェンのピアノ協奏曲を全部「1パート1人」という編成のオーケストラ(?)をバックに録音して、話題になりましたね(レーベルはALPHA)。さすがにベートーヴェンではオーケストラだけの部分ではあまりにしょぼ過ぎる音でちょっと無理があるように感じられましたが、今回はレーベルをACCENTに移して、モーツァルトの協奏曲を録音してくれました。これは、とても素晴らしい演奏、そして録音です。確かに春への一歩を踏み出そうとしている、まさに今の季節にぴったりの爽やかな印象を与えてくれるものでしたよ。
使われている楽器は1782年のアントン・ワルターのコピーということですが、まずこの音の素晴らしさに惹きつけられてしまいました。「20番」のイントロでは楽譜にある低音だけではなく右手のコードまでしっかり弾いているのですが、その音がとてもすっきりしているのです。フォルテピアノ特有の、ちょっと鈍目のアタックではなく、まるでチェンバロのようなくっきりとした音の立ち上がりなのですね。そして、そのままの音でソロが登場するわけですが、裸になって現れたその楽器の音は、録音会場であるブザンソンのノートル・ダム教会の豊かなアコースティックスにも助けられて、倍音成分がまるで高い天井に昇っていくような魅力的な響きを放っていたのです。常々フォルテピアノを聴くときには、まるでホンキー・トンク・ピアノのような濁った響きがいつもつきまとっていて、なにかこの楽器に「不完全さ」を感じていたものでした。しかし、それはまさに今まで「不完全」な状態の楽器しか聴いたことがなかったことを、この「完全に」チューニングが行われている楽器を体験して、初めて知るのでした。これは、なんという魅力的な楽器だったのでしょう。

もう一つ、このCDで初めて知ったことがありました。スホーンデルヴルトが指揮も行っているこの「クリストフォリ」というアンサンブルは、写真のようにフォルテピアノのまわりを取り囲んでみんな立ったままで演奏しています。そして、ベートーヴェンの時と同じように「1パート1人」のはずが、なぜかヴィオラだけ「2人」の奏者がいます。なぜだろうとスコアを見ると、確かに「第1ヴィオラ」と「第2ヴィオラ」の2つのパートに分かれているではありませんか。交響曲でも、「32番(K318)」から「38番(K504)」の間は、全て「Viola I,II」という表記なんですね。この2曲の協奏曲はK466-467ですから、ちょうどこの間のものです。この時代に弦のパートが「6部」になっていたなんて、知ってました?
この写真で分かるとおり、これは「協奏曲」というよりはちょっと大きめのアンサンブルという感じで、お互いに相手を聴きながら演奏が進んでいきます。「20番」の第1楽章などは、ソロが出るところは完全にビート感による拘束がなくなり、フォルテピアノは思う存分に歌い上げてくれます。こういう自由さが思う存分発揮されて、今まで聴いてきたのとは全く違ったモーツァルトの世界が拡がります。もちろん第2楽章のフォルテピアノは、装飾満載、アルペジオを多用したかわいいフレーズが、とってもキャッチーです。そして、第3楽章のユルさには、思わず「やられた」という感じですね。この楽章でこれほど和むことが出来るなんて。
弦楽器が1本ずつでも、なんの違和感もありません。盛り上がるところでは、しっかり金管やティンパニが助けてくれますしね。それよりも、「21番」の第2楽章で、あの素敵なテーマがヴァイオリン・ソロで歌われるときの、なんと美しいことでしょう。
ACCENT(アクサン)ではこのアルバムを皮切りに、全集の完成を目指しているのだそうです。こんな驚きがもっとタクサン味わえるなんて、本当に楽しみです。

CD Artwork © Accent

3月10日

ORFF
Carmina Burana
Maria Venuti(Sop), Ulf Kenklies(Ten), Peter Binder(Bar)
Günter Wand/
Hamburger Knabenchor St. Nikolai
Mitglieder des Opernchors des Niedersächsischen
Staatstheaters Hannover, NDR Chor und Sinfonieorchester
PROFIL/PH05005


「レコード芸術」の最新号の月評に、こんな珍しいCDが取り上げられていました。これは、実はすでに2005年にはしっかり輸入盤として流通していたものなのですね。それを今頃国内盤仕様で出すというのは、ヴァントの記念年(生誕100年、没後10年)を当て込んでのことでしょう。代理店の思惑通り、2人の評者はこぞって「推薦」をつけてくれましたから、晴れて「特選盤」の看板を背負って過剰在庫を売り切ることが出来るのでしょう。「得せん」どころか、大儲けです。それにしては、この評者たちのコメントが、揃いも揃って「ぜんぜん褒めてない」のが、気になります。
これは、1984年に北ドイツ放送(NDR)によって録音された放送音源です。ハンブルクで行われたコンサートのライブ録音、ということになっています。ヴァントが72歳の時の演奏ですね。
特に会場ノイズも聴こえず、あまり目立たない楽器などもしっかり聞こえてくるという、鮮やかな録音であることに、まず一安心です。1曲目の「O Fortuna」の最初のトゥッティも迫力満点、合唱もかなり力のある団体のように感じられます。ただ、それに続く、合唱が囁くように歌う部分になると、なんだかやけにもっさりとした感じになってしまいました。おそらく、あまりアクセントを付けないで歌っているせいなのでしょう。ところが、同じパターンなのに楽器が増えて少しテンポが上がると、俄然様相がかわって攻撃的になってきます。これはかなりショッキング、ちょっと油断していたら、あっさり足下をすくわれてしまった、という感じでしょうか。
この手で、ヴァントは特に合唱について、実にさまざまな「技」をかけてきます。3曲目「Veris leta facies」では、プレーン・チャントのようなゆったりとしたテーマを、前半と後半でしっかりダイナミックスを変えて、あたかも「問い」と「答え」のように扱うことで、立体的な味を出すことに成功しています。同じように、8曲目の「Chramer, gip die varwe mir」では、ハミングだけで歌われる部分が、実に豊かな表現力を発揮しています。そんなちょっとした気遣いが、他の演奏ではなかなか見られないだけに、ヴァントの演奏はとても暖かいものに感じられます。19曲目の男声合唱も、とても豊かな表情、おそらく彼は、オスティナートを多用したある意味無機的なこの作品から、もっと柔らかさを引き出したいと思っていたのではないでしょうか。
12曲目、「Olim lacus colueram」では、ヴァントはオーケストラにちょっと変わったことを要求しています。

いや、実は単に「楽譜通り」に弾け、というだけのことなのです。フルートのこの音型(次にシロフォンとミュートを付けたトロンボーンにも出てきます)は、本当は三十二分音符4つ+八分音符という譜割りなので、「タカタカタン」というリズムになるのですが、慣習として前の音符はもっと細かく「トレモロ」で演奏されています(パート譜に、手書きでそんな指示があります)。つまり、フルートの場合は「フラッター・タンギング」で演奏するのが、一般的なのですね。それを敢えてヴァントは「楽譜通り」演奏しています。これも、なかなかチャーミング。
そんな珍しいことも交えつつ、この演奏はライブならではのノリの良さ(「やる気満々」のバリトン・ソロも聴かせます)でとても楽しめました。手元には30種類の「カルミナ」が集まってしまいましたが、その中でもかなりの上位にランキングされるものになっていますよ。だから、堂々と誉めてやっても良いと思うのですがね。
ただ、このCDは9曲目と12曲目でトラックの頭が変なところに入っています。続けて聴く分には関係ありませんが、12曲目などは、トラック・ボタンを押すとさっきの楽譜の部分から始まってしまいます。本当はその前にあるはずのファゴット・ソロは、ここでは前の曲の最後なんですね。だからこれは「欠陥商品」、とても「推薦」なんかできません。

CD Artwork © Profil Medien GmbH

3月8日

STRAUS
Die lustigen Niebelungen
Michael Nowak(Siegfried)
Gudrun Volkert(Brunhilde)
Martin Gantner(Gunther)
Siegfried Köhler/
WDR Rundfunkchor und Orchester Köln
CAPRICCIO/C5088


「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス・ジュニアの家系とは全く関係のないオスカー・シュトラウス(最後の「s」が一つだけのシュトラウス)は、しかし、「s」が2つのシュトラウスたちが作り上げたウィーンのオペレッタの伝統を、しっかりと守り続けることに貢献していました。「ワルツ王」が亡くなってから5年後の1904年に、この「愉快なニーベルンゲン」が上演された時には、評論家たちはこぞって新しいオペレッタの誕生を褒め称えたのです。
今となっては知る人もいなくなったと思われがちなこの作品ですが、実は2008年にはウィーンで久しぶりの上演が行われ、改めてその魅力が広く知られるようになっています。それに先立つ1995年に録音され、リリースされたのが、このCDです。今回、それが装いも新たに再発されました。
題名から想像できるように、これはあのワーグナーの大作、「ニーベルングの指環」を元ネタにした「パロディ」です。ただ、タイトルにある「lusutigen」という言葉は、シュトラウスと同じ年に生まれたやはりオペレッタ作曲家として有名なフランツ・レハールの代表作「Die lustigen Witwe」(「The Merry Widow」という英語表記の方が、お馴染み)とは、やはりなにか関係がありそうですが、こちらは1905年の初演ですから、パクったとすればレハールの方でしょうね。
出演者の名前などにはワーグナーのものとは若干異なるところもありますが、ジークフリートとブリュンヒルデはしっかり登場します。ただ、一応「主演」の扱いを受けているのが、元ネタではかなり地味な役だったグンターだというのが、面白いところです。主に「神々の黄昏」が軸にはなっていますが、ブリュンヒルデの設定が「自分に求婚してきた人と闘って、負けたら結婚するが、勝ったときには殺してしまうお姫様」というのは、まさに「トゥーランドット」ですね。ただ、プッチーニがこのオペラを作った(途中まで)のは1926年ですから、これも「逆パクリ」?まさかね。でも、「暗闇で抱き合っているところに、急に人が集まってくる」というのは、「トリスタン」ですよね。
音楽は、ワーグナーとは全く関係のない、唐突にワルツを踊りだすわ、早口言葉は出てくるわ、華やかなオーケストラがひたすら盛り上げるわ、といった、オペレッタそのものの軽やかなものが続きます。ジークフリートがお風呂に入っているときの歌「Ich hab' ein Bad genommen(いい湯だな)」のユルさと言ったら、爆笑ものですよ。ただ一箇所だけ、クリームヒルトという、ワーグナーの場合のグートルーネに相当する人の歌うロマンス「Einst träumte Kriemhilden(クリームヒルトの夢)」が、「ローエングリン」の「エルザの夢」によく似ています。
もちろん、ワーグナーのテーマである「黄金」も登場しますよ。ただし、ここでジークフリートが持っているのは指環ではなく袋いっぱいの金貨なんだそうです。それも、ライン川の川底に埋めてあるのではなく、しっかり「ライン銀行」に預けてあって、金利が6%なんですって。いつの時代の話なのでしょう。結局、愛情はそっちのけで「お金さえあれば、みんな幸せ」と丸く収まる、情けないお話となるのでしょうね。そんな金銭のやりとりを歌うときに、元の「ラインの黄金(Rheingold)」に引っかけて「俺の金(mein Gold)」だの「おまえの金(dein Gold)」といった、まさにオペレッタならではの言葉遊び(おやぢギャグとも言う)が飛び交うのが笑えます。
ただ、このCDには、ドイツ語と英語の「梗概」は付いていますが、リブレットなどはどこにもありません。そんな時には、よくネットでダウンロード出来るような措置が施されているものなのですが、それもありません。ですから、本当のおかしさなどは伝わってきようもありませんね。もちろん、かなりマイナーな出演者の経歴なども知ることは出来ません。ブリュンヒルデを歌っている人は、どうも男性のような気がするのですが、それすら確かめようがありませんし(実際は女性でしたが)。

CD Artwork © Capriccio

3月6日

SIBELIUS
Symphonies Nos 2 & 5
Osmo Vänskä/
Minnesota Orchestra
BIS/SACD-1986(hybrid SACD)


ヴァンスカのシベリウスといえば、1990年代に同じBISにラハティ交響楽団と録音した交響曲全集(+異稿)がありましたが、今回は約20年ぶりに、現在の任地、ミネソタ交響楽団との新録音です。同じ指揮者が、同じレーベルに同じ曲を録音することなどは、あのヘルベルト・フォン・カラヤン以外には許されないと思うかもしれませんが、まあオーケストラが違うので大目に見ることにしましょうか。全曲録音に先立って、まずは「2番」と「5番」という、人気TOP2のカップリングが登場です。
違うのはオーケストラだけではありませんでした。前回はCDでしたが、今回はSACDです。もしカラヤンが生きていたら、5回目となるベートーヴェンの交響曲ツィクルスは、SACDになっていたのかもしれませんね。それも、サラウンドで。実際、彼はサラウンドの前身の「クォドラフォニック」という「4チャンネル」を、1970年代のEMIで試みていますからね。この間取り上げたチャイコフスキーの交響曲もその一例、ただ、それは今日のSACDのような澄みきった音ではなく、4チャンネルから2チャンネルに変換した際の歪みに、ミシェル・グロッツの趣味も加わって、濁りに濁ったとんでもない音になっていましたね。
グロッツとは違って、BISのエンジニアの耳は確かですから、たとえ2チャンネルステレオで聴いても、そのクオリティが下がるようなことは全くありません。というより、最近のBISSACDの音は、一段とすごさが増したような気がするのですが、どうでしょうか。あたかも、アナログ録音の黄金期を作った1960年代のDECCAを聴いた時のような豊潤さが、デジタル録音でも再現できるほどのノウハウを、このレーベルは獲得したのではないでしょうか。そんな自信の表れが、もしかしたら前回のストラヴィンスキーの時にも指摘した「オリジナル・フォーマット」の表示なのかもしれません。その時には「24bit/44.1kHz」だったものが、今回は「24bit/96kHz」ですから、スペック的にはさらに余裕を持って「生々しさ」を表現できることでしょうし。
そんな、ワンランク上がった録音の上に、アメリカのオーケストラということで、20年前のフィンランドのオーケストラとは全く異なった響きが体験できることになります。ベートーヴェンの場合には、ベーレンライター版を使っていることもあっておそらく意識的に木管などは「渋め」の音色に徹底されていたようですが、シベリウスの場合はそんなシバリからは逃れて、このオケ本来の輝かしさを前面に出しているように感じられます。特に金管楽器が、まさに「アメリカ」という、「華やか」というよりは「粘りのある」響きで迫ってきます。このあたり、ラハティの「乾いた」音とは全く違っていて、それが音楽そのものにも非常に大きな違いとなって現れてきています。
さらに、音色だけではなく、そんな管楽器奏者の演奏に対するキャラクターの違いも、見逃すわけにはいきません。ミネソタの人たちの積極的に個人を主張しようとする姿勢(もちろん、それはあくまでも強固なアンサンブルは維持した上でのことですが)が、音楽にとても「立体的」な印象を与えているのですね。実際、SACDによって、音像そのものが「立体的」に聴こえてくることと相まって、それぞれのキャラクターはより「立って」来ることになりました。言ってみれば、ラハティは和紙の上に墨で描いた水墨画、それに対してミネソタはキャンバスに絵の具を塗り重ねた油絵でしょうか。
しかし、ヴァンスカのデッサン、つまり下書きは、どちらも変わっていません。あくまで大げさな身振りを押さえた、それでいて雄弁な音楽が、そこには共通して存在していました。思わずハッとさせられる超ピアニシモは、今回も健在でしたし。
残りの交響曲の録音が終われば、その時の気分で選びたくなるような、まるで着せ替え人形みたいな新旧のツィクルスが出来上がるのでしょうね。

SACD Artwork © BIS Records AB

おとといのおやぢに会える、か。


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